聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 19章 13~16節a」
聖書朗読
19:13ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。 19:14それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、 19:15彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。 19:16そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「裁判官の席」
ヨハネによる福音書19章13節以下は、ローマ総督ピラトによるイエスの裁判の場面である。当時ユダヤは、ローマに支配されていた。死刑の判決を下せるのは、ローマによる裁判だったのである。民衆がイエスこそが王になると期待していた。ユダヤ教指導者たちはそのことに嫉妬し、イエスを捕らえ、ローマ総督ピラトに引き渡した。一方、ピラトは、イエスに罪を見出せないと述べた。そこで、19章の始め、死刑判決の決まる前に、ピラトはイエスを鞭打つように命じた。鞭打ちで許したらどうかということを、ユダヤ人たちにピラトは示したのである。
13節で、ピラトは「イエスを外に連れ出し」「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。ピラトは、イエスを裁判の席に着かせたとは、イエスを裁判の被告席に座らせたと理解できよう。口語訳聖書を見ると「ピラトはこれらの言葉を聞いて、イエスを外へ引き出していき、敷石という場所で裁判の席に着いた」。他の訳でも、「ピラトは裁判の席に着いた」です。多くの聖書はピラトが裁判官の席に着いたと訳している。しかし、新共同訳聖書では、席に座ったのはイエスであるととれる。そこには、どのような意味があるのか。考えたいのは、イエスが座った席がどのような席だったかということである。実際、当時、裁判の席があったと考えられている。それは裁判官の席である。そこでもう一度、新共同訳聖書ヨハネによる福音書の19章13節を見ると「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた」とある。イエスが座ったのは、裁判官の席であるととれるのである。
それはおかしいと思えるだろう。なぜなら、イエスは裁判官ではなく、被告、裁判にかけられている側だからである。つまり、座るのなら被告席になる。そのように考えると、新共同訳聖書は訳し間違いなのであろうか。いいえ、「ピラトが席に着く」、又は「イエスを席に着かせた」どちらにも訳すことができるのである。では、やはり新共同訳聖書は被告席を意味しているのか。いいえ、そうではない。イエスは、裁判官の席に座ったという理解であると受け取ることが出来る。
ヨハネによる福音書の著者は、一つの出来事に二つの意味を持たせるとの理解がある。また、自分たちの状況とイエスを重ね記しているという理解がある。本日の箇所もそうである。イエスの裁判には、異なる意味があるということである。
それだけではなく、ヨハネによる福音書において、イエスの受難、死と復活を一つの出来事と理解する解釈がある。また、受難物語において、イエスを王と見るという理解もある。イエスの裁判では、ローマのユダヤ属州総督のピラトが裁判官である。ピラトはユダヤ属州の最高責任者、支配者だった。そこで、「王」というテーマが出てくると考えられる。イエスがピラトに引き取られた時、ピラトはイエスに質問した。18章33節に「お前がユダヤ人の王なのか」とのピラトのことばがある。王は、裁きを行う権限を持っていた。イエスが支配者、王であるなら、その職権として裁く権限を持っているはずである。そこで、イエスを裁判官の席に着かせたと19章13節を受け取ると、どのように理解できるであろうか。裁判官の席に座っているのがイエスであるならば、イエスの前で、彼を断罪しようとしている人々こそ被告人、裁かれる側にあるということになる。
ヨハネによる福音書が記された時代、キリスト教はユダヤ教から迫害を受けていたと考えられる。先ほど述べたように、ヨハネによる福音書では、受難と復活を一つの出来事と理解する。そこで、今裁判にかけられ苦難を受けているイエスは、復活のイエスであり、復活のイエスが裁判官の席に着いていると、本日の箇所を理解することができる。そこでは、復活のイエスが世の終わり、終末に裁きをおこない、迫害を受けているキリスト者を救う。また、今、すべての者がイエスの前に立ち、神に向かうか、神に背を向けるのかが問われていると、本日の箇所から理解できるというのである。なぜなら、イエスこそ真の王だからである
つまり、ピラトにおける裁判を逆説的に描いている。裁判にかけられているイエスは、実は裁判官として裁く立場にあるということである。イエスこそ神の独子、真の支配者であり、そこにキリスト者の救いがあるということを示しているのである。
では、現在の私たちは、どのように受け取ることができるのであろうか。私は、次のように理解する。ヨハネによる福音書は、先ほども述べたように、自分たちとイエスを重ねている。つまり、自分たちの経験からイエスの出来事の意味を見出す。それは救いを見出し、励まされているということである。まず、イエスこそ真の王であるから、キリスト者を救ってくださるという希望である。そして、苦しみにあい、十字架に架けられたイエスが裁判官としてその席についている。イエスこそ、人間の苦しみを知る真の裁判官である。つまり、人間の苦しみ、重荷を理解し、裁きを行われる。そこに私たちの希望、救いがあるのではないだろうか。イエスは、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネによる福音書3章17節)」と述べている。すなわち、イエスが裁判官として行なわれる裁きは、すべてのものを救うために他ならない。なぜなら、イエスは苦難を経験し、誰より人間の苦しみ、苦難をご存知だからである。一方、人間は、真の裁きを行うことができない。
このピラトによるイエスの裁判には、救いが示されているのである。裁きは、私たち人間が行うことではなく、神、また、イエスが行うことである。復活のイエスは人間の欲望、十字架の苦しみを知り、誰よりも苦しみの中にある人間を理解し、救ってくださる。イエスは重荷を共に負ってくださっているのである。復活のイエスこそ苦しみを知る真の裁判官として、この世、私たちを救ってくださる。イエスを信じ、神、イエスへと歩む者となりたいと思う。
祈祷 愛なる神様 本日は、イースターです。御子は復活しました。この復活は、わたしたちの希望です。御子の復活を讃美いたします。イエスは、真の支配者であり、真の裁判官です。それは誰よりも人間のこと、苦しみ、嘆きを知っているからです。イエスが、裁判官である。このことこそ、わたしたちの救いであり、希望です。なぜなら、イエスは裁くためではなく、救うためにこの世に遣わされたからです。イエスに従う者となりたいと思います。急に暖かくなりました。寒暖の差において体調を崩されている方もいると思います。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友を心身ともにお癒しください。手術を控えている友を支え、手術を行うため体調を整えてくださいますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。出産を控えている方、母子ともに守りください。武力での争いは何も解決しません。どうか、争いではなく、すべての人が手をつなぎ、違いを受け入れあう世となりますようお導きください。明日から新しい歩みをされる方々のことを覚えます。どうか新しい歩みの上に主の豊かな祝福がありますように。一週間歩み、御前に集いました。今日、集うことのできない友のことを覚えます。あなたの御前にあるのは、ここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場、Zoomなどにおいて、あなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々に、あなたの聖霊、祝福を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせて讃美するときとしてください。そして、この一週間の罪、昨年度の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間、明日から始まる新しい年度の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「出エジプト記 29章 1~9節」
聖書朗読
29:01わたしに仕える祭司として、彼らを聖別するためにすべき儀式は、次のとおりである。若い雄牛一頭と傷のない雄の小羊二匹を取る。 29:02次に、酵母を入れないパン、酵母を使わずに、オリーブ油を混ぜて焼いた小麦粉の輪形のパン、オリーブ油を塗った、酵母を入れない薄焼きパンを、みな上等の小麦粉で作る。 29:03それをみな一つの籠に入れ、一頭の雄牛、二匹の雄羊と共にささげる。 29:04次に、アロンとその子らを臨在の幕屋の入り口に進ませ、彼らを水で清める。 29:05次いで、式服一そろいを取り、アロンに長い服、エフォドと共に着る上着、エフォド、胸当てを着せ、エフォドの付け帯で締める。 29:06それから、彼の頭にターバンを巻き、その上に聖別のしるしの額当てを付ける。 29:07次いで、聖別の油を取り、彼の頭に注ぎかけて、聖別する。 29:08次に、アロンの子らを前に進ませ、彼らに長い服を着せ、 29:09飾り帯を締め、ターバンを巻く。彼らの祭司職はこうして、不変の定めにより、彼らのものとなる。次に、アロンとその子らの任職式を行う。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「足をきよめる」
旧約聖書出エジプト記29章1節以下には、祭司の聖別の儀式が記されている。祭司は、神に仕える者である。祭司は、臨在の幕屋、十戒が収められている幕屋の前において水で身を清めなければならい。つまり、神の前に出るのにふさわしくなるため、身を清めて司祭として祭儀を行うということである。祭司の就任の儀式は、その後も続き、もう一匹の雄羊を取り、アロンとその子らが手を羊の頭に置く。あなたはそれを屠り、血を取ってその一部をアロンとその子らの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指とに付け、血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。また、祭壇の上の血の一部を取り、更に聖別の油の一部を取って、アロンとその衣服、更にアロンの子らとその衣服に振りまく。そうすれば、彼自身も衣服も、また彼の子ら自身も衣服も、聖なるものとなる。それと似た記事が旧約聖書レビ記14章14節以下にも記されている。レビ記のその箇所では、重い皮膚病を患った人に対する清めの儀式である。祭司は、患者に雄羊の血を右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗り、清めると記されている。
さて、本日は棕櫚の主日である。イエスがエルサレムに入城するとき、人々が棕櫚、また自分の服を道に敷き、イエスを迎えた。一方、イエスがエルサレムに入るとは、十字架への歩みを意味している。今週の木曜日は、洗足木曜日である。最後の晩餐においてイエスは、弟子たちの足を洗った。その出来事において示されているのは、神に仕えるとは人に仕えること、互いに仕え合いなさいという教えをイエスは弟子たちに示したのである。
出エジプト記29章4節以下は、祭司の聖別における清めである。そこでは、水で清めると、また、献げ物である雄羊の血を右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に付けると記されている。そして、重い皮膚病の患者の清めでは、雄羊の血を患者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗ると記されていた。もし、イエスが弟子たちの足を洗ったことが、旧約聖書の清めの出来事を前提しているとしたら、どのような意味があるのであろうか。祭司は、神に仕える者である。しかし、祭司も一人の人間であるのだから、元来清いわけではない。そこで、祭司に就任するにあたり、神の聖なる声を常に聞くため、耳を清め、その聖なる働きをなすために手を清め、聖なる道に歩むために足を清める。それらのことは、罪の赦しと清めのために行われた。ある人は、イエスによる弟子たちへの洗足もこの道筋の延長線上にあるかもしれないと解釈している。私は、その解釈がとても面白いと思った。いや、イエスの洗足の意味がより深くなるのではないかと思ったのである。
イエスは、十字架にかけられた。その前に、弟子たちの足を洗い、教えを示した。十字架とは、罪の赦し、そして、今もイエスが私たちの重荷を共に負ってくださっているという救いを示している。その根底にあるのは、イエス自身の、人間に対する責任と愛といえるであろう。イエスの弟子たちの足を洗った行いは、祭司が水で身を清めたように弟子たちを清める行為である。つまり、ただ足を洗っただけではなく罪の赦しがここに示されているといえるであろう。罪のない者として神の前に立つことができるということである。それだけではない。祭司は神に仕える者として耳、手、足を清めた。イエスは弟子たちの足を清めることによって、彼らを神に仕える者としたといえるであろう。それは、イエスと共に十字架を負う、イエスと共に神の救いを述べ伝える者として招いた。イエスの働きに弟子たちを参与させたということである。イエスは、自分一人で神の救いを述べ伝えるのではなく、弟子たちにその働き、役割を分けてくださった。それは、弟子と先生という関係を越え、共に働く者としてくださったといえるのではないだろうか。
イエスは、弟子たちの足を洗い、次のように述べた。新約聖書ヨハネによる福音書13章14、15節に「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」とある。イエスは、弟子たちに互いに足を洗い合うことを教えた。次のように言えるのではなかろうか。ユダヤ教で罪の赦しの儀式を神殿において大祭司が行なっていた。しかも献げものを必要とした。しかし、弟子たちに互いに足を洗い合うことによって、イエスが弟子たちを清めたように、互いに清めることができるということである。この出来事は、罪の赦しをも意味した。つまり、罪の赦しは、神殿での清めの献げ物も必要ない。しかも祭司ではなくてもよいのである。弟子たちに赦しの権威をさずけたともいえるであろう。そこには、神殿、祭司などの権威が必要なのではなく、罪の赦しとはイエスを信じ、互いに仕え、許しあうことによって可能となる。
そして、先ほどレビ記を読んだが、皮膚病の人々は社会から隔離されていた。重い皮膚病の患者の清めを意図しイエスが足を洗ったのなら、重い皮膚病ということで人々から罪人とされている人々も互いに足を洗い合うことによって清められる。つまり、足を洗い合う仲間として交わりをもつことができる。いや、重い皮膚病というだけで罪人とされ、社会から隔離されるべきではないということも意図してイエスは弟子たちの足を洗ったのではなかったか。
足を洗う行為は、奴隷が行うことだった。奴隷は主人に仕える。よほどの仲の良い関係がなければ、私たちは足を互いに洗い合わないと思う。イエスが、祭司の清め、そして、重い皮膚病の清めを意図して弟子たちの足を洗ったのであるなら、祭司になる人であろうと、重い皮膚病の人であろうと、神の前では同じ存在であるということを示しているように思うのである。互いに洗い合うべきである、いや、互いに足を洗い、仕えあう。それはどのような人も大切な存在として交わりを持ち、そして、許し合い、その人をその人として受け容れあうべきであるということを、イエスは私たちに教えてくださっているのではないだろうか。そこで互いに足を洗い合うとは、一人一人がその人格を受け入れ合うことの大切さを示しているように思う。互いに足を洗うという交わりの中にあることの重要性、いや、人間とは元来このように歩む者であるということを示しているのではないだろうか。
そして、互いに足を洗いすべての人が祭司として神の救いを伝えることができるという人間に対するイエスの信頼も示されていると思うのである。私たちも実は、イエスによってすでに足を洗われている。それがイエスの十字架の出来事ではないだろうか。イエスは、一人ひとり、大切な存在として交わりを持ってくださり、そして、罪を赦し、信頼し宣教の業に私たちを送り出してくださっているのである。私たちはイエスに足を洗われている。それはイエスに人格を肯定され、明日を生きる力を与えられているということである。私たちはイエスに倣い、感謝し、互いに仕え合い神へと歩む者になりたいと思う。
祈祷 独子イエスをこの世にお遣わしになられた愛なる神様 本日は棕櫚の主日です。イエスが十字架に向かわれたことを覚える時です。イエスこそ私たち一人ひとりを愛しているがゆえに十字架に向かわれます。神、イエスの愛を確信することができますように。イエスは最後の晩餐で弟子たちの足を洗いました。神に仕え、互いに仕え合うことを教えてくださいました。この出来事には祭司の清めが背後にあると考えられます。それは私たちがイエスに清められ神の前に立つことができるということ、神は全ての人格をよしとしてくださっている。全てものが神の前で等しい存在である。そこで互いの存在を認め、受け容れ合いなさいというイエスの教えが足を洗うという出来事に示されていると信じます。主の愛を基に互いの人格を認め合い、支え合い歩むことができますようお導きください。金曜日は、イエスが十字架に掛けられる受難日となります。イエスの十字架に向かい合う時としてください。そして、苦難の後には必ず復活という喜び、救いがあることを確信させてください。全ての人、特に年を重ねられた方、幼い子どもの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共にお癒しください。手術を控えている友を支え、手術を行うため体調を整えてくださいますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい歩みの準備をされている方々のことを覚えます。よき準備の時となりますように。出産を控えている方、母子ともに守りください。天にある方に主の平安がありますように、地において悲しみの中にある方々をお慰めください。国の指導者に一人ひとりの命の大切さを思う心、争いをやめる心を主がお与えくださいますように。地震が続いています。被災された方々は不安の中にあると思います。支え、復興へとお導きください。私たちにできることがありましたらお用いください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、新しい一週間の心の糧を全ての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
祈祷 私たち被造物と、歴史において共に歩み、お導きくださる神様 詩編2編は、王就任の詩であると理解できます。それはダビデ王朝の永続を意図しています。同時に、私たちにとって2編は、救い主の預言です。それは神の御子イエス・キリストをこの世に遣わす預言であり、それだけではなく、終末におけるイエスの再臨という救いの預言にもなります。そのことは、新約聖書、黙示録などを通して知ることができます。つまり、黙示録を読む迫害にある人々にとって、希望の預言となりました。それは現代の私たちにとっても、希望の言葉です。神は、主を避けどころとする人すべてを救ってくださいます。この救いを確信したいと思います。また、神の救いを全ての人と分かち合うことができますよう、私たちをお用いください。この世の指導者は本来、神の意志にかない導くものです。神は人間同士争うことを求めません。その人がその人らしく歩みことができるよう神はお導きくださいます。この世の指導者に神の愛を与え、民を神の愛で導くようにしてください。3月ですが、2月中旬の寒さとなっています。また、様々なウイルスが流行っています。どうか、全ての人、特に年を重ねられた方、幼い子どもの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共にお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。受験シーズンです。受験生の健康を守り、学んだことが十分発揮できますように。新しい歩みの準備をされている方々のことを覚えます。よき準備の時となりますように。引越しをされ新しい歩みを始める友の上に豊かな恵みがありますように。出産を控えている方、母子ともに守りください。レントの時、御子イエスの苦しみを覚え、また、この背後に神の被造物を愛する愛があることを確信させてください。明日で東日本大震災から13年となります。その悲しみ、苦難はまだ続いています。どうか一人ひとりお支えください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、新しい一週間の心の糧を全ての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ペトロの手紙(1) 4章 12~19節」
聖書朗読
04:12愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。 04:13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。 04:14あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。 04:15あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。 04:16しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。 04:17今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。 04:18「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。 04:19だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「キリスト者としての歩み」
ペトロの手紙(1)が記された時代には、キリスト教徒はマイノリティ、すなわち少数派であった。そこでは、キリスト教の世界観と社会の在り方や価値観は大きく異なり、地域の風習がキリスト教を異質なものとみなしていた。したがってキリスト者は、悪意、中傷、誹謗などといった迫害を受けていた。では、当時のキリスト教徒はこのような状況で、どのように歩んでいたのか。そのような意味においては日本の信仰者にとっても、ペトロの手紙(1)を読むことは大きな意味を持つと思う。
12節に「あなたがたを試みるために身に降りかかる火のような試練」とある。火のような、つまり外部からの厳しい迫害の状況が表されているのであろうか。外部ではなく、信仰者の内側で試みとなる火が燃えるということであるという理解がある。そこでペトロが告げたのは、試練は外から来るのではなく、不当な悪口、中傷誹謗などを受けたことによって、信仰者の中に燃えでてる怒りや憎しみや敵意の火が、試練となるということだと考えられている。敵意を心の内に燃やすべきではない。しかも「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」というのは「それは初めてではない、イエスこそ苦難を受けた前例であり、模範だからである。神を信じて生きることは、快適さと幸運ではなく、かえって苦難をもたらす」というのである。なぜ神を信じることによって苦しまなければならないのであろうか。苦しみ受けたイエスのように、苦難には積極的な意味があるとペトロは言うのである。14節には「キリストの名のために非難されるなら幸いです」とある。なぜ非難されることが幸いなのか。それは、「イエスが受けた苦しみを、今この手紙を読んでいる人々が受けている。しかし、そこには希望がある。それは、イエスが復活したように、私たちも神の国の到来のときには復活し、救いに招かれるからである。イエスの苦難を歩むとは、その先にある神の国に招かれる救いの道を歩むことである。」と言えるからであろう。14節に「栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」とある。私たちに神の霊がとどまる。イエスにこそ神の霊が下った。イエスが洗礼を受けたそのとき、『これはわたしの愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』」とあるように。次のように言えるのではないでだろうか。霊がとどまることにより、私たちは神に属する者とされる。神の守りのうちに生かされる。苦難の只中において励ましを、ペトロは私たちに与えてくれていると言えるであろう。
しかし、苦しみといっても、すべてが同じではない。信仰によって受ける苦しみは、悪事の結果の苦しみとは区別されるという。ペトロは4つだけあげている。15節に「人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい」とある。「干渉する者」とは、他人のことに干渉して、不当なもうけをしている者のことであろうか。例を上げて、この世的に裁かれることはキリスト者として避けなければならないというのである。イエスに倣い、正しく生きるということこそ大切なのだということであろう。16節には「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」とある。迫害の中にあるからこそ、神の前、人間の前で正しい生き方を実践することが大切であるという。「キリスト者」という言葉は、新約聖書では、この箇所の他には、使徒言行録で2回使われているだけである。その1つが、アンティオキアでパウロとバルナが宣教し、初めてキリスト者と呼ばれたという出来事である。使徒言行録の11章25~26節に「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」とある。キリストを信じるパウロとバルナバの姿から、キリスト者以外の人がキリスト者という名を付けた。それは、宣教するパウロとバルナバの背後に、キリストが見えたということに他ならないと思う。ただ、迫害下において「キリスト者」は、罵倒する言葉だったのではないかと思う。しかし、キリスト者と呼ばれることを恥とせず、信仰者として神の姿をこの世に現わすこと、つまり、イエスに従うことがいかに素晴らしく心強いことであるのかを現わしなさいとペトロは示しているのではないだろうか。
さて、私は、ここで次のように考える。キリスト者は、イエスを信じていない人々が、神の裁きを受けるのをただ傍観してよいのであろうか、キリスト者である自分は救われるとただ喜んでいるだけでいいのであろうかという疑問が、私にわいてくる。キリスト者とは、イエスの救いを確信した者である。私たちは、イエスの業によって神と共に歩むことが赦された者といえるであろう。私たちは神の赦しを受けた者として、イエスを信じていない人が裁きを受ける前に、イエスの救いを述べ伝えるべきなのではないだろうか。それは、すべての人に救いがもたらされるべきだからである。そのことこそ、イエスがこの世で行い、私たちに教えてくださったことなのではないだろうか。私は次のように思っている。イエスは、苦難の中で敵をも導いた。イエスは十字架上で述べている。ルカによる福音書の23章34節に「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」とある。十字架の上でも自分を悪くいう者たちを赦した。それは、神の愛であり、導きなのではないだろうか。
もし、イエスの救いを知らない人々を放っておくのなら、私たちはイエスの救いの業である十字架の苦しみをただ傍観している者にしか過ぎないということになる。つまり、イエスの救いを知っているのにもかかわらず、その救いを述べ伝えることをしないで救いの場に安堵して居座ってしまっているのである。イエスは、人間の罪を救うために苦しみ、十字架刑に処せられた。罪とは、神から離れることである。もし、キリスト者として苦しみを受ける場から逃げ去るのなら、それは神から離れることなのではないだろうか。ペトロのこの手紙は、「迫害下にあってもキリスト者として苦しみにあっていることを恥じず、喜びを持ってイエスの通った道を歩もう」と苦難の中にあるキリスト者を励ましている。なぜなら、それこそが正しい歩みだからである。
イエスの通った道とは、苦しみの中でも神を述べ伝えるということ、そして一人でも神を信じる者が出ることを喜びとすることではないだろうか。それは神の喜びである。イエスは、たとえ迫害されようとも、神の愛をこの世に現した。
ペトロの手紙(1)は、正しいことを行うこと、イエスの栄光を現わすこと、そのことによって迫害している者にもイエスの救いに気づいてもらう。いや、きっと気づくはずだと励ましていると思うのである。なぜなら、それは正しいことだからである。
私は思う。行為義認をなぜ否定的に述べるのか。行為義認は、自分を救うために律法を守るということになってしまう可能性がある。また、律法を守っていない人々を見下すことになる。
キリスト者として、自分が救われると確信することは大切である。全知全能の神、その独子イエスを信頼しているからである。一方、神を信じていない者は救われないという言葉は、「律法を守っていない者は救われない」という言葉と同じになってしまう。だからこそ、12節は、敵意を心の中で燃やしてはいけないといっているのではないだろうか。敵をも愛し、神の救いを述べ伝えた方こそがイエスだからである。
本日は、この教会の創立記念日である。苦難は一人では乗り越えることはできないかもしれない。だからこそ、教会の交わりが必要なのである。互いに支え合い、力づけ合うことによって、イエスの救を述べ伝えることができるのである。
イエスを信じる者は、救われる。いや、すでに神から聖霊を注がれている。つまり、イエスの目に見えない働きを通して、神は既に私たちと共にいてくださっている。今も十字架を負われているイエスが、私たちと共にいてくださるのである。この確信によってこそ、苦難においても喜びをもってイエスに倣い、正しく歩むことができるのである。そして、神を信じることによって、迫害を受ける時に一番の助けとなるのは、イエスが出合わせてくださった教会の友である。創立記念という日、この教会に神が私たちを招いてくださった。神によって結ばれた私たちは、どのような時も互いに励まし合い、力を合わせイエスに倣い歩みたいと思う。イエスに倣う正しい歩みによってこそ、イエスの姿をこの世に現わすという宣教になる。ペトロは、この手紙を通して現代の私たちをも励ましてくださっている。多くの人が神の救いに与る。これほどの喜びはない。それは、私たちの喜びであり、神、イエスの喜びなのである。
祈祷 御子をこの世にお遣わしになり、全ての者をお招きくださる神様 ペトロの手紙一の時代、キリスト者は少数派で、価値観、風習などが異なり、中傷、誹謗を受けていました。そのような迫害の中においてペトロは、イエスに倣い正しい歩みをなすよう導きました。たとえそれが苦難であろうとも、それはイエスの歩まれた苦難の道を歩むことであり、その道こそイエスが復活されたように救いの道になる。イエスに倣う正しい歩みなすことによって、多くの人がその正しさに気づき認められる、とキリスト者をペトロは励ましました。現代においても同様であると思います。イエスこそ苦しみの中、神の愛をこの世に現わしました。私たちもイエスに倣うことができますように。そして、神の愛、救いに多くの人が気付くことができますよう私たちをお用いください。本日は創立記念礼拝を守っています。これまでつくばの地で宣教をされた信仰の先達者、そして、これまでお導きくださいました神に感謝いたします。どうかこれからも神の栄光をこの教会がこのつくばの地で現すことができますように。そして、多くの人と神の救いという喜びを分かち合うことができますようお導きください。3月も中旬になりました。新しい歩みの準備をされている方々の上に主の祝福がありますように。様々な病が流行っています。全ての人、特に年を重ねられた方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共に癒してください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。出産を控えている方、母子ともにお守りください。受洗の準備をされている方の上に主の祝福がありますように。人の命を奪うことに正当な理由などありません。神は、生かすために命の息吹を注いでくださいました。現在の争いにおいて子どもも弱者も関係なく命を奪っています。どうか、指導者たちに争いを止める心をお与えください。次週は棕櫚の主日、主イエスがエルサレムに入る時を覚える礼拝を守ります。主の業の基が神の愛であることを覚えることができますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、新しい一週間の心の糧を全ての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 2編 1~12節」
聖書朗読
02:01なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。/02:02なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか/02:03「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。/02:04天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/02:05憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。/02:06「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」/02:07主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。/02:08求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。/02:09お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」/02:10すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。/02:11畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。/02:12子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「わたしの子」
本日は、旧約聖書詩編2編に心を傾けたいと思う。詩編2編は、1~6節、7~12節という前半後半に分けることができる。前半の1~3節は、神と油注がれた者に対する異邦の民と支配者たちの反抗が述べられている。4~6節は、それに対する神の嘲笑と怒りが表明されている。後半7~9節は、「わたし」に語られた神の宣言と約束が告知されている。最後10~12節は、神と「子」への反逆を改めるよう、異邦の支配者たちに迫る勧告で終わる。2節に「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」とある。主とは神であり、油注がれた方は、神の意志にかない、祝福を受けた者といえるであろう。
この詩編で注目したいのは後半である。これらの言葉は、新約聖書に引用されている。そこで、まず7節を見たい。「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。』」とある。「お前」とは、これから王に就任する者である。「わたし」は神である。神が王となるべきものを選び、子、つまり養子にすると言えるであろう。そして子は、神の意志を受け継ぐために祝福を受け、王となる。すなわち人々を導く使命が与えられるのである。つまり、この詩編2編は、王就任の詩であると理解できる。だから、8節に「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする」とある。「嗣業」とは、「神から賜った土地」のことである。そして「地の果てまで、お前の領土とする」と、神の働きがある。しかも9節には「お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く」とある。「鉄の杖」は、王権の象徴と理解できる。「器を砕く」というのは、敵への呪いを込めて土器を砕く呪術があったことがうかがえる。この詩編2編から分かることは、この世の支配者こそが、天におられる神であるということである。そして、この世の王に力があるのではない。この世の王の背後にあるのは天の神の力であるということである。だからこそ10節で「すべての王よ、今目覚めよ」といっている。天の神こそこの世の真の王であり、支配者であることに気づきなさいというのである。そして最後には「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」とある。神を信頼し生きる者こそ幸いであるというのである。また、王こそ神を信頼し生きる者であるということが示されている。詩編2編の最後の言葉は、詩編1編の最初「いかに幸いなことか」と対応しているとも理解できる。しかし1~2編が、1つの詩であるというわけではない。
詩編2編は、王の就任の詩であると述べた。それは、どのようなことを意味しているのであろうか。それはイスラエル12部族統一王国とした王ダビデの選びと、王朝の永続の約束を内容としていると理解できる。ダビデは信仰にあつく文武両道で、イエラエルを最も繁栄させた王と言えるであろう。それは、救い主はダビデの家系から出るという預言、そしてキリスト教の救い主イエスがダビデの家系の者であるということからも、理解できると思う。神が「わたしの子」として選んだ王こそがダビデである。そして、イスラエル王国の繁栄は、ダビデの家系からなる王によって永続するのである。ナタンの預言、サムエル記下7章12節にある「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」からも分かる。このように見ると、詩編2編はダビデ王朝の永続を意図していると言えるであろう。
では、ダビデ王朝は永続したのか。イスラエル12部族統一王国は北イスラエルと南ユダに分裂し、北イスラエルの王の家系は変わった。一方、南ユダは確かにダビデ王朝が維持された。しかし、バビロニアに南ユダが負けると、それ以降、ダビデ王朝は終わってしまったのである。
では、詩編2編の王就任としての詩は、必要ではなくなるのであろうか。決してそうではない。2節の「油注がれた方」とは、ギリシャ語でクリストスである。つまり、詩編2編、特に7節「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」は、救い主預言としてその後、受け継がれていくのである。
そこで、王について考えたい。王とはいかなる存在なのか。旧約聖書詩編2編でも、そうである。王は、神の子である。王は神から祝福受けた者である。神の意志を理解し、神の意志に倣い民を導く者なのである。神こそ最も弱い者の立場に立ちお導きくださる。その人がその人らしく歩むためである。神から王として民を導く役割を与えられたと認識することは重要である。王は、自分勝手に民を導く者ではないからである。詩編2編でも、天を王座とする神を信頼することが王の根底にあるべき思いであることを示している。9節の「彼らを打ち」という言葉は、ヘブライ語の母音を変えると「彼らを牧し」と読めるという。鉄の杖ではなく、この場合は、羊飼いの杖と理解できるのかもしれない。つまり、神の導きは、ただ敵を打ち砕くのではなく、正しい道へと導いて下さるということである。
最初に、詩編2編は新約聖書でも引用されていると述べた。まず、ヘブライ人への手紙である。この手紙は、イエスこそ神の権能を持つ天における真の大祭司であるということが記されている。そこで、イエスこそ、真に神の子であることを示すため、7節が引用されている。そして、ヨハネの黙示録2章18節には「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子」とある。「神の子」とはイエスのことである。黙示録で「神の子」という言い方は、ここにしかない。神の子は、「目には燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている」と記されている。それは天上界の栄光、輝きを表明していると言えるであろう。この「神の子」という言葉は、詩篇2編7節にある「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」という言葉をメシア預言として考え、用いられたと考えられる。そして、ヨハネの黙示録2章27節に「彼は鉄の杖をもって彼らを治める、/土の器を打ち砕くように」とある。詩編2編9節からの引用である。当時、キリスト教徒は迫害されていた。そこで、勝利者が諸国民に対して徹底的打撃を与えることを指している。再臨のイエスが鉄の杖を持って敵を治める。ここで勝利といっても、決して暴力的なことではない。イエスが再臨する終末のときにおいて、キリスト教を迫害する者、つまり神を神と思わない者、神の愛を持たず利己的に人々を支配する王は、鉄の杖で土の器を砕くように審かれるということであると言えるであろう。すなわち、人間の利己的な王の支配は終わり、神の支配のときが訪れる。キリストが再び訪れ、救いへと導いてくださるという励ましなのである。
一方、黙示録2章27節の「治める」という言葉は「牧する」という動詞で、そのように訳している学者もいる。ヨハネは詩編2編9節の「彼らを討ち」という言葉を「牧する」と理解したのではないかと私は思っている。神は、敵をただ打ち砕くだけではなく、羊飼いのように敵をも牧すると、導くと理解できると私は受け取りたい。そして、黙示録2章27節には「わたしも父からその権威を受けたのである」とある。この言葉は、詩編2編7節の「お前はわたしの子」を意識して、「わたしも父から」と述べていると理解できる。イエスこそ神の子として神を父と述べている。父である神から受けた権能で私たちを導いてくださるのである。
次のように言えるのではないだろうか。ダビデ王朝がバビロニアによって滅ぼされ、ダビデ王朝の永続は途切れたと思われた。しかし、詩編2編は救い主誕生の預言として読まれた。そして、私たちにとって詩編2編とは、約2000年前の救い主イエス・キリスト誕生の預言として受け止めることができる。いや、それだけではない。イエスが天に召された後、この詩編2編は、ヨハネの黙示録を通して、イエスの再臨の預言となっているのである。つまり、王の就任、いや救い主の誕生の預言は、いつでもわたしたちの希望の預言となるということである。
では、イエスの再臨をなぜ信じることができるのであろうか。それは、イエス・キリストが神の子として、本当にこの世に誕生し、十字架にかけられ三日目に復活した。そして、イエス自身が、再び訪れると預言しているからである。ルカによる福音書の21章27節には「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とある。まず、イエスの十字架からの復活という事実がなければ、イエスが再臨し、救いの時が来るということを信じることはできないであろう。詩編のイエスの誕生預言が、ヨハネの黙示録においてイエスの再臨の預言となっているのである。
今、レントの時、イエスが十字架に向かう苦難を覚える時を持っている。一方、十字架による救い、その後にはイエスの復活という希望がある。そして、復活の希望はイエスの再臨、つまり終末の救いの希望となる。イエスの十字架に向かう苦難を覚えると共に、なぜイエスは十字架に掛けられた後、三日目に復活したのか。その意味を、私たちはこのレントの時に考えるべきなのではないか。詩編2編は、王就任の詩であり、ダビデ王朝永続を意図している。しかし、その言葉は救い主誕生を意味するだけではなく、終末の救いをも示しているのである。
王の権能は、人間の王にあるのではなく、神にある。そして神の導きこそ、羊飼いが羊を牧するように、道を間違えず、正しい道にお導きくださる。そして、それは大いなる救いへの導きなのである。その背後には、天におられる神の意志、神の愛がある。神こそ私たちを愛し、導いてくださっている。そのため独子をこの世に遣わした。その独子は、十字架に掛けられたが復活した。それは私たちの救い、希望である。この詩編2編を通して、神の導きを確信したいと思う。神の導きこそ、鉄の杖のような力強く、そして、羊飼いが羊を導くような愛なる業なのである。詩編2編を通して救いを神が約束してくださったことを、私たちは確信したいと。そして、多くの人にこの喜びを告げ知らせたいと思う。
祈祷 私たち被造物と、歴史において共に歩み、お導きくださる神様 詩編2編は、王就任の詩であると理解できます。それはダビデ王朝の永続を意図しています。同時に、私たちにとって2編は、救い主の預言です。それは神の御子イエス・キリストをこの世に遣わす預言であり、それだけではなく、終末におけるイエスの再臨という救いの預言にもなります。そのことは、新約聖書、黙示録などを通して知ることができます。つまり、黙示録を読む迫害にある人々にとって、希望の預言となりました。それは現代の私たちにとっても、希望の言葉です。神は、主を避けどころとする人すべてを救ってくださいます。この救いを確信したいと思います。また、神の救いを全ての人と分かち合うことができますよう、私たちをお用いください。この世の指導者は本来、神の意志にかない導くものです。神は人間同士争うことを求めません。その人がその人らしく歩みことができるよう神はお導きくださいます。この世の指導者に神の愛を与え、民を神の愛で導くようにしてください。3月ですが、2月中旬の寒さとなっています。また、様々なウイルスが流行っています。どうか、全ての人、特に年を重ねられた方、幼い子どもの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共にお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。受験シーズンです。受験生の健康を守り、学んだことが十分発揮できますように。新しい歩みの準備をされている方々のことを覚えます。よき準備の時となりますように。引越しをされ新しい歩みを始める友の上に豊かな恵みがありますように。出産を控えている方、母子ともに守りください。レントの時、御子イエスの苦しみを覚え、また、この背後に神の被造物を愛する愛があることを確信させてください。明日で東日本大震災から13年となります。その悲しみ、苦難はまだ続いています。どうか一人ひとりお支えください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、新しい一週間の心の糧を全ての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 42章 1~9節」
聖書朗読
42:01見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。/42:02彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。/42:03傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。/42:04暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。/42:05主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。/42:06主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。/42:07見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。/42:08わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。/42:09見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「第一の僕の詩」
2月24日土曜日、私の連れあい(尊子)の母の葬儀が行われた。皆様にはご迷惑をおかけした。義理の母は、高校生の時にカトリックの洗礼を受けたとのこと。大学を卒業し、カトリック教会付属の幼稚園で働いた。実家には、マリアと幼子イエスの絵が飾ってった。彼女は、結婚してしばらくは教会に通っていたそうだが、諸々あり遠ざかったようである。40歳のときに腎不全となり、それから35年以上週3回、人工透析を受けていた。そのこともあり、休みの日には家族との時間を大切にしていたのだと思う。医師から私たちに、あと一週間ほどだと宣告された後のこと、義母は尊子に次のように何度も話したという。「恵留(エル:私の長女)は黄色(オーラということか)で、神様から特別な位が与えられているから心配しなくて大丈夫。けれど、尊子と恵人に色はないのよ」。私は、「特別な位」という語がカトリックらしいと思った。カトリックには、大祭司、司教、司祭、助祭などの階級があるからである。私の長女、彼女の初孫の恵留が特別に可愛いいと思っていたのであろう。私は義母が、「神様」という言葉を何度も述べたと聞き、嬉しかった。義母がキリスト者としての信仰を失っていたのではないことを知ったからである。葬儀の前日、遺品整理をしていると、カトリックの聖歌(讃美歌)、十字架のネックレスを見つけた。私が聖歌を、息子の恵人が十字架のネックレスを棺に納めた。葬儀は仏式だった。しかし、神は必ず見守ってくださっている。神は状況に合わせふさわしい時をご用意してくださる。神の導きは必ずあるということを義母を通して改めて教えてもらった。
さて、本日与えられた聖書箇所の旧約聖書イザヤ書42章1節以下に共に心を傾けたいと思う。イザヤ書は66章あり、3つに分けることができる。第1は、1~39章、第240~55章、第3は56~66章である。それぞれ著者が異なっている。1~39章の第1は、本人イザヤが書いた。第2、第3は、イザヤの弟子か、あるいはイザヤの考えを受け継ぐ者が書いた。本日は第2イザヤが与えられた。バビロニアによって南ユダ王国は滅ぼされ、権力者たちの多くの人がバビロニアに連れていかれた。それから約50年後、バビロニアはペルシャに負けた。そこでバビロニアに連れていかれた人々は、解放という希望が与えられた。第2イザヤは、その状況で記された。42章は、神の「僕」について預言されている。1節に「見よ、わたしの僕、私が支える者を」とある。第2イザヤ書では「僕の詩」が四つ謳われている。その最初の僕の詩が、本日の箇所である。僕の詩としてよく知られているのは、52章の後半~53章の「苦難の僕の詩」だと思う。「苦難の僕の詩」が最後の4番目である。
そこで、第1の僕の詩を通して神から遣わされる「僕」とはいかなる方なのかを、共に考えたいと思う。実はここにある「僕」とは誰なのか、今も議論があある。そこには4つの理解がある。ひとつ目はイスラエルの民、ふたつ目はペルシャ王クロス、3つ目は第2イザヤ自身、そして4つ目はメシア(救い主)である。私はキリスト者なので、メシア預言として考えていきたい。本日の箇所において1~4節が僕の詩、5~9節は後に編集者が付け加えたものであると考えられている。
1節で、僕の四つの特性を告げている。主が「支え」「選び」「喜び迎え」、主の「霊」を「置かれ」る。僕とは神が聖霊を与え、この世に働きかける人と言えるであろう。つまり僕は、人間の思いを越えた神の啓示を受けた正しい方、神の保証された方であるということである。では、僕はどのような働きをなすのか。1節の最後に「彼は国々の裁きを導き出す」とある。彼は神の僕である。そこに「裁き」とある。「ミシュパート」というヘブライ語の訳である。1~4節では、「ミシュパート」が鍵言葉となる。3節に「裁きを導きだして」とあり、4節には「この地には裁きを置く」とある。公正にこの世を裁くということであろう。ただ、私たちは「裁く」という言葉に悪いイメージがあるかもしれない。この「ミシュパート」という言葉は、訳すのが難しい。ミシュパートには、次のような訳がある。それは「正義」、「(正しい)裁き」、「公正」、「正道」、「真理」、「公義」である。ある英訳聖書では、「正義」と訳されていた。私がよいと思ったのは「正しい法」あるいは「正義」という訳である。1節の最後にある「彼は諸国に正しい法を輝かせる」という訳が、私は受け取りやすいと思った。つまり僕は、神の意志、正しい法をこの世に輝かせ、正しく導くといえるであろう。2節に「その声を巷で聞かせることもない」とある。僕は、神から与えられた言葉を述べる預言者とは別の方法で、神から与えられた使命を果たすという意味であると考えられる。それは、その後の「苦難の僕の詩」で明らかにされると言えるであろう。3節にある「傷ついた葦、暗くなってゆく灯心」とは、南ユダ王国が受ける侵略、自由に神を讃美できないとう苦難、また、政治的状況などを比喩的に示していると考えられる。4節の「島々」とは、当時世界の果てと思われた地中海の島々を示し、全世界を意味していると理解できる。つまり、全世界が彼の教え、正しい法を待ち望むということである。
5節以下は、天地創造の神が、そこに住む人々に霊を与えるというのである。6節の「あなた」は、僕と受け取ることができる。僕は、民の契約、諸国の光として立てられた。また、「捕らわれた人」「闇に住む人」とは、バビロニアに連れていかれた人、あるいは全世界の人々であり、目を開かれ、救いを知るというのである。8節は、神ご自身が真の神であることを明らかにされるということである。9節の「新しいこと」とは、将来、僕によって解放という救いを与えられる、と私は理解する。ただし、この箇所は後に付け加えられていることから、6節の「あなた」は、バビロニアを滅ぼすペルシャ王クロスを意味しているとも考えられる。ペルシャのクロス王によって、バビロニアに捕らわれていた南ユダの民が解放されるからである。そこで、ここでは政治的指導者としての理解があると考えられる。一方私は、僕の詩の続きとして、メシア、救い主の預言として理解したいのである。
このように見てゆくと、その僕は、救い主、つまり、イエスのことを預言していると読むことができるのではないだろうか。神から霊が与えられ、神の正しい法、つまり、神の真の意志をこの世に現わされる。そして、苦しみからの解放を示し、全ての人に正しい法、救いを与える。ただ、ここに具体的なことは記されていない。つまり、神の僕による具体的な救いの働きは、まだ分からないのである。しかし、神から遣わされる僕によって救がもたらされるということは理解できる。
なぜ、神はこの箇所において「救い主はこのような救いの働きをする」と具体的な救いの業を預言いなかったのであろうか。私は思う。もしかしたら、状況によって救いの方法は変化するかもしれない。また、具体的なことをすぐに示すのではなく、神はその状況においてユダヤの民、人間が理解でき、受け容れることができるように示していくのではないだろうか。そこで4つもの僕の詩がある。今、ペルシャ王クロスを通して、バビロニアからの解放という救いが訪れるという期待を南ユダの民は抱いている。そこで、僕は重荷を負ってくださると示しても、そのことを理解し、受け取ることはできないだろう。神は、その時に応じて、必要な言葉を与え、導いてくださる。もしかしたらイザヤ自身が理解できないので、徐々に理解するように導いてくださっているのかもしれない。神は、人間のことを全てご存じである。そこで、その時に相応しい言葉、導きを示してくださっているのではないだろうか。それは、神は先走って導くのではなく、人間と共に、人間が一緒に歩み、共に働くことができるように導いてくださるのだと言えるのではないか。私たちは、イエスの十字架をすぐに理解できないかもしれない。十字架の弱さにこそ救いがあると言われても、すぐには理解できないであろう。神は、人間の状況、理解に合わせ、徐々にお導きくださる。そして、最後にはふさわしい救いをお与えくださるのである。
今、レントの期間、独子イエスが十字架に向かうことを覚えるときである。イエスの十字架にどのような意味があるのか、様々な意味がある。私にとってイエスとは何か、第一の僕の詩を、神がイザヤを通して与えてくださったように徐々に理解していきたいと思う。神は私たちと共にあり、状況に合わせ必要な導きをお与えくださる。神の僕であるイエスが私たちにとってどのような方なのか。また、その十字架による救いを、このとき神と共に考えたいと思う。僕の第一の詩で分かることは、神は僕を遣わし、正しい法、正義をもって救いへとお導きくださるということである。神の救い、導きを確信したいと思う。
祈祷 いつも共にいてお導きくださる愛なる神様 今日は、イザヤ書42章の第一の僕の詩を通して、神の導きを教えていただきました。神は、その時に必要な言葉をお与えくださり、お導きくださいます。また、神の僕をこの世に遣わし神の正しい法、正義を私たちに示し、お導きくださることを、イザヤを通して示してくださいました。神は、イザヤの時から約400年後にイエスをこの世に遣わされます。つまり、僕の詩が成就されます。そして、今もなお聖霊を通して私たちに必要な導きをお与えくださいます。そのことを確信させてください。特に今レント、独子イエスが十字架へ向かう苦難を覚える時を持っています。十字架の後には救い、復活という希望があります。私たちも希望をもって日々歩むことができますようお導きください。特に、能登半島地震から2か月が過ぎました。避難生活において厳しい状況の方がおられます。どうか共にあってお支え、希望をお与えください。寒暖の差が大きく、また、花粉が飛散する時期となっています。体調を崩されている方もおられます。どうか、全ての人、特に年を重ねられた方、幼い子どもの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共にお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。受験シーズンです。学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守りください。すでに受験がおえられた方々には、新しいよき準備をとしてくださいますように。出産を控えている母子ともに守りください。争いは悲しみ、憎しみしか生み出しません。報復は神がなさることです。どうか停戦へとお導きください。の礼拝を通して一か月、一週間の罪を赦し、新しい一か月、一週間の心の糧を全ての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 9章 24~34節」
聖書朗読
09:24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 09:25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 09:26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 09:27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」 09:28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。 09:29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 09:30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 09:31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 09:32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 09:33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 09:34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「心を開くように」
日本キリスト教団茨城地区2・11集会は、白河教会の竹迫之先生をお招きしての開催だった。竹迫先生には、旧統一教会から脱会した経験がある。その経験から、カルトに関する活動していることから、カルトについてお話しいただいた。竹迫先生は、「宗教」と「カルト」の違いを「祝福」と「呪い」として説明された。その人に呪いをかけるか、その人を祝福するかの違いだという。「あんたこのままじゃダメになるよ。教会に通って真面目にやらないと地獄に落ちるよ。」それは呪いである。そうではなく「あなたのありのままをイエスさまは愛しているよ。」それこぞが祝福である。そう竹迫先生は説明した。私はその言葉を聞いて、私が語ってきたことは間違っていなかったと確認することができた。私たちは、神に愛されてしまっている存在である。ありのままの私たちを、神は良しとしてくださっているのである。
さて、本日与えられた聖書箇所、新約聖書ヨハネによる福音書9章24節以下に心を傾けたいと思う。この出来事は、9章1節以下からの続きである。イエスは、生まれつき目の見えない人を通りがかりに見かけ、目を癒した。弟子たちはイエスに尋ねた。「この人が生まれつき目が見えないのは、本人、或いは両親が罪を犯したからですか」と。イエスは答えた。「本人、或いは両親が罪を犯したからではない。神の業がこの人に現われるためである」と。人々は、その目の癒された人を、ユダヤ教のファリサイ派の人々のところに連れて行った。イエスが目を癒したその日は、ユダヤ教の掟である律法で規定された安息日だった。安息日とは、休まなければならない日であり、仕事をしてはいけない日であった。そこで、ファリサイ派の人々は、目の癒された人に事情を聴いた。ファリサイ派は、律法を厳格に守ることを大切にしていた。また、イエスに敵対していた。というのは、イエスが律法を守らないと理解していたからである。あるいは多くの人が、イエスこそユダヤ人が待ち望んでいた救い主であると信じていたからである。そのことを妬んだ。そのことで自分たちの権威が奪われると考えたからである。
24節以下は、ファリサイ派の人々が、目を癒された人を呼び、再び事情を聴いた場面である。24節に「神の前で正直に答えなさい。」とある。それは、威圧的な感じがする。それは、ユダヤ教において旧約聖書の時代からある質問をして確かめる方法の一つである。誓いの形をとっている。現代の裁判における証人の宣誓ということころであろうか。「わたしたちは、あの者、すなわちイエスが罪ある人間だと知っているのだ。」と、ファリサイ派の人々は述べた。癒された人は「あの方が罪人であるか、わたしには分かりません。ただ、一つ知っているのは目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と言った。その時、癒された人は、まだ、イエスについて神から遣わされた救い主であると告白していなかった。彼に起こった事実に感謝して、受け止めていた。そして、ファリサイ派の人々は、イエスがどのような治療行為を行ったのか聞いた。実は、癒された人は、すでにファリサイ派の人々から同じ質問を受け、語っていたのである。それにも関わらず、ファリサイ派の人々は、再び問うた。というのは、ファリサイ派の人々は、イエスを捕まえるための証言を求めていたからである。しかし、癒された人の言葉は、ファリサイ派の人々の思惑とは異なるものだった。いや、それは皮肉とさえ取れるような答えだったのである。27節に「もうお話したのに。聞いてくださいませんでした。…あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」とある。その言葉に対してファリサイ派の人々は、ののしりを述べた。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ」と。彼らは、区別をしていたのである。「私たちは唯一の神と契約を交わしているユダヤ教徒だが、お前はイエスを信じる者だ」ということである。ファリサイ派の人々は、「あの者がどこから来たのかは知らない」とも述べた。すると癒された人は、30節以下にあるように「これはとっても不思議です。あなたがたは教養のある人々ですのに。あの方はわたしの目を開けてくださったのに、あの方がどこから来たのかご存じないとは。私たちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞き入れになりませんが、神を敬い、神の愛に従い、行う人の言うことは、聞き入れてくださいます。生まれつき目の見えなかった人であった者の目を開けたということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあの目を癒した方が神から来た人でなかったら、何一つ出来なかったはずです」と語った。
それは、なんと素晴らしい信仰告白であろうか。罪とは、神に背くことである。罪を赦すことができるのは、神のみである。当時、病気になるのは罪を犯した神の罰であると考えられていた。だから、病気を治すことができるのも神であった。「イエスは目を癒したのだから、神のもとから来た人に違いない。律法を厳格に守っているファリサイ派のあなたががも御存知でしょう。」と癒された人は語ったのである。癒された人とファリサイ派の人々の対話は、とても面白い。というのは、ファリサイ派の人々は、安息日に治療という奇跡を行ったイエスを、律法を守らないという罪で訴えるために、癒された人に問うた。癒された人は、イエスとの出来事をファリサイ派の人々に聞かれたので答えた。この対話によって、癒された人は、イエスがいかなる方なのか気づいていくのだった。ファリサイ派の人々の意図とはまったく逆のことが起こっていった。それがとても面白い。ファリサイ派の人々はイエスを訴えようとした。しかし、癒された人は、イエスとの出来事を語ることによって、イエスこそ神の権能を持った救い主、神の独子であることを自然に語っていったのである。
真実、真理を語ることは、まさしくそのようなことではなかろうか。自分が経験をしたこと、つまりイエスとの出会いによってイエスがいかなる方なのか気づいたのである。なぜなら、イエスの行いが神の愛に基づくものであり、神の意志をこの世に現わすものだったからである。そこで、目を癒された人が、本当に見ることができたのは、神の御業なのであった。つまり、イエスとはいかなる方なのかということである。そして、癒された人は、従うべき方は誰なのかを見ることができたのである。
当時、律法を破ることは罪であると、また、病気は罪を犯した神の罰であると考えられていた。実際、この箇所で目を癒された人も、そのように信じていた。しかし、イエスに出会い、神の意志に気づいたのである。それは、「神は人を呪うようなことはしない。病気になったのは、その人、また、両親が罪を犯したからではない。神はそのような罰し方はしない。」ということだった。実際、ユダヤ教においても、年に一度、罪の許しの儀式があった。本来、ユダヤ教においても許しが規定されていたのである。しかし、律法を大切にするあまり、人間的な理解が入ってしまった。律法を守ることが神への従順であり、律法を多く守ることによって優越感を持ってしまい人を見下してしまう。そこで病人は罪を犯したから罰を受けたのだという差別を生み出した。熱心さのあまり、人を裁いてしまったといってよいのかもしれない。裁きは、神のみが行うことである。それ以前に、神は裁き主であると同時に、愛なる方なのである。神は一人ひとりを愛し、ありのまま受け入れてくださる。そのことをこの世に現わした方こそイエスである。癒された人は、イエスとの出会いによって、神の愛に触れ、神がいかなる方なのか気づくことができた。そして、誰に従うべきか知ったのである。
ヨハネによる福音書の著者は、自分たちの状況を、この書に映し出した。つまり、イエスの出来事を自分たちと重ね合わせて福音書を記した。実際、ヨハネによる福音書が記された時代には、ユダヤ教からの迫害があったと考えられる。それは「ユダヤ教はモーセの弟子だが、イエスの弟子ではない。イエスの弟子であるお前たちは、ユダヤ人であってもユダヤ教徒ではない。」である。一方、モーセとはいかなる人物だったのか。エジプトでイスラエルの民が奴隷として苦しんでいた。その声を神は聞き、モーセを指導者としてエジプトからイスラエルの民を解放させたのである。イエスこそ、モーセ以上の存在であり、モーセが行った神による解放という救いを行ったのである。神は、イスラエルの民が旅の途中に何度も神を裏切ったが、それでも約束の地に導いた。それは奴隷からの解放である。イエスこそ、人間が生み出す差別、呪いから解放してくださっているのである。「病人は罪人ではなく、神の業が現れるためである。」と。そこに神の愛が現れたのである。それは、私たちが見るべきものは何かということである。ヨハネによる福音書の著者も、神の愛を見たのである。そのことに気づいたのである。神は一人一人を愛して下さり、よしとしてくださっている。そのことによって私たちは、差別や呪いから解放されるのである。だからこそイエスに心を開くべきなのである。イエスに心を開いた時にこそ、神の愛を私たちは見ることが、気づくことができるのである。ただ、この時のファリサイ派の人々は、カルトではなかった。純粋に神を信じ、信仰を受け継いできていた。しかし、イエスに心を開かなかったことによって、真実を見ることができなかったといえるであろう。私たちは、心の目を開き、イエスに向かい合いたいと思う。その時にこそ神の愛に気づくことができるのである。それは、私たちがありのままで神に愛されているという祝福に気づくことに他ならないのである。
祈祷 愛なる神様 ファリサイ派の人々は、イエスを律法違反で捕らえようとしました。一方、イエスは安息日であろうとも癒しを行います。それは一人ひとりをありのまま愛する神の業です。罪を犯したから病気になったのではありません。神はそのような裁き、呪いなど行いません。神の愛は私たちの想像をはるかに超えるものです。私たちは神に愛されてしまっている者です。神の愛の業を表した方こそイエスです。ファリサイ派の人々は、熱心さのゆえに心を開かず見るべきものを見ることができませんでした。一方、目の不自由な人は神の愛を受け取りました。私たちも心を開きイエスを通して神の愛を受け取りたいと思います。そして、この喜びを多くの人と分かち合いたいと思います。寒暖の差が大きくなっています。春の暖かさだと思ったら、急に冬の寒さにもどりました。このことで体調を崩された方もおられると思います。また、被災地では避難所生活が続き、心身共に厳しい状態にあると思います。どうか被災された方、争いで苦しみの中に或る方、年を重ねられている方、幼い子どもたちの健康をお守りください。時にこの世において本当に正しいものが分からなくなります。どうか神、イエスの目線でこの世の出来事を見ることができますように。争では、弱者、特に子どもたちに被害が及びます。どうか争いを止めてください。私たちをそのためお用いくださいますように。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共においやしください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。学びの中にある友をお導きください。受験シーズンです。学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守りください。すでに受験がおえられた方々には、よき新しい準備をとしてくださいますように。出産を控えている母子ともに守りください。本日礼拝後に教会懇談会を行います。良き話し合いの時となりますように。今、レントの時を過ごしています。どうか、イエスが十字架に向かう苦しみの意味を考える時としてください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、新しい一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 31編 2~19節」
聖書朗読
31:02主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。/31:03あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。/31:04あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き/31:05隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。/31:06まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。/31:07わたしは空しい偶像に頼る者を憎み/主に、信頼します。/31:08慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。/31:09わたしを敵の手に渡すことなく/わたしの足を/広い所に立たせてくださいました。/31:10主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。/31:11命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。/31:12わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。/31:13人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。/31:14ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。/31:15主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。/31:16わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。/31:17あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。/31:18主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく/神に逆らう者をこそ恥に落とし/陰府に落とし、黙らせてください。/31:19偽って語る唇を封じてください/正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「弱い人間として」
今年の灰の水曜日は2月14、この日からレント(四旬節)という暦になった。灰は古代から悔い改めのしるしとして用いられてきた。そこで、復活祭の準備に入る四旬節には、ひたいに灰を塗り悔い改め主に従う生活を送るようにと司祭から勧められる。四旬節は、洗礼を受ける準備の期間であった。その期間、私たちは十字架へと向かうイエスの苦しみを覚える。同時に、私たちは復活の喜びを待ち望む準備の時にしたいと思う。苦難の後に必ず復活という希望が訪れるのを待ち望むということである。そのときに大切なのは、信頼である。信頼があるからこそ、待ち望むことができる。また、信頼の背後には、希望がある。
作家の遠藤周作は「聖書」を次のように語ったという。「新約聖書は、弱虫がどうして強虫になったかという物語だ。」と。イエスの弟子たちは、それぞれ勝手な夢をイエスに押し付け、悪く言えばイエスを利用しようとした。それで、最後には全員がイエスを見捨てた。ユダに全ての罪をなすりつけたが、全員がイエスを裏切ったのだ。いわば彼らは弱虫の集まりであり、その弱虫である彼らが、非常に後ろめたい思いの後に、たとえ極刑に処されようともイエスの教えを広めようとした。つまり「最後には強虫となったのである」ということである。
弱虫であったからこそ、弟子たちはイエスが十字架で処刑された後にイエスの愛、そしてその教えを世に告げ知らせることができたのではないだろうか。いや、イエスが弱虫の彼らを、ありのまま受け入れたからこそ、弟子たちには喜びがあふれた。そして、十字架のイエスと向き合い、イエスの業にこそ神の愛があふれている。ここにこそ救いという希望があることに、弟子たちは気づいたのだと私は思うのである。
キリスト教に触れたことのない人にとっては、なぜ十字架で処刑された人が救い主なのかと疑問をもつのではないかと思う。「自分自身の命さえ守ることのできなかった人が、救い主なのだろうか」と。そのような疑問を持つのが、一般的な見方ではないだろうか。また、隠れキリシタンのことから、キリスト教徒には、信仰を捨てるよりも自分の命を捨てる方がよいと思っているイメージがあるかもしれない。クリスチャンに対して、信仰のためなら弱音をはかない人々というイメージがあるかもしれない。
さて、実際はどうであろうか。本日は、旧約聖書の詩編31編2~19節が与えられた。しかし、31編全体に心を傾けたと思う。詩編31編は、2節以下に救いの願いと信頼、6節後半から解放の感謝と慈愛の喜び、10節以下、衰弱の嘆きと孤独の訴え、また、迫害の訴えと救いの懇願、20節以下、讃美と救いの感謝、24節以下は聴衆ないし読者への勧めと、5段落に分けられる。詩編のこの箇所は、「個人の嘆きの詩編」に分類される。苦難の訴え、神に対する信仰、信頼と救われた喜びが、一つの詩の中で歌われている。私たちは、苦難に陥ったときには、何度も救いを願いまた、ときには、その都度、感謝を述べることがあるのではないだろうか。
私たち人間は強い存在なのであろうか。決して、そうではないと思う。時には、どうしようもないくらい弱く、また、寂しく苦しくなり、誰かに支えられていなければすぐにでも倒れてしまうようなもろいときもある。時には、神さえも疑ってしまう。「どうして私ばかりが、このような苦難にあうのか。どうして私ばかりが、こんなに悲しい目にあわなければならないのか。」と。信仰が足りないから苦難が襲うのであろうか。信仰が薄いから、聖書を読んでいないから、私たちは弱いのであろうか。しかし、弱いことは、いけないことなのだろうか。いや、そんなことはない。決してそうではないと私は思うのである。
では、神を知っている私たちは、苦難の中で何をすべきなのであろうか。3節に「あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください」とある。私たちは、神に苦悩を打ち明けるべきだと、いや打ち明けることが赦されているのである。それだけではなく、神には何を言ってもいいのである。神に心の葛藤、文句を言ってもよいのである。神は、すべて聞いてくださり、その言葉を受け入れてくださるのである。
6節には「主よ、御手にわたしの霊を委ねます」とある。それは、新約聖書ルカによる福音書23章46節で、イエスが十字架に掛けられたとき、最後に述べた言葉である。この言葉だけをみると、イエスは神に従順であり、死ぬ最後のときでさえも神に文句の一言ももらさない、神に全てを委ねているという美しい言葉でイエスは最期を終えたと見ることができる。しかし、このイエスの最後の言葉が、詩編31編6節から取られたものであると知ったとき、私たちは異なる見方をすることができるのではないだろうか。この詩編の言葉は、個人として神に苦難を訴えている。困難の中にあり、苦難を神に訴え、神の救いを欲している。何度も救いを願っている。そこから考えると、イエスの十字架の言葉は神の計画を受け入れ、ただ苦しみを受け入れている言葉ではなかったと理解できるのではなかろうか。実際、詩編31編は、すべてを神の定める運命とみて、それに身を任せようとする態度とは異なるのである。
そこで、7節後半。そこには「主に、信頼します」とある。「信頼する」という言葉は、15節にもある。神に信頼するとは、神以外の何物にも、より頼まないということである。あくまでも神の慈愛を信じ、辛く厳しい現実を耐え忍びつつ、救いを待ち望む姿勢がこの信頼なのである。そこにおいて、信頼は希望と結びついている。「信頼する」とは、旧約聖書のもとの言葉であるヘブライ語で「バータハ」である。「七十人訳聖書」というものがある。これは紀元前3世紀中頃から前1世紀に、ヘブライ語の旧約聖書をギリシャ語に訳したものである。詩編31編では、ヘブライ語で「信頼する」「より頼む」という意味の「バータハ」に、七十人訳聖書では「エルピゾー」というギリシャをあてはめた。「エルピゾー」は、「希望を抱く」という意味を持つ。それだけではなく、20節の「身を寄せる」も、「エルピゾー」を「希望を抱く」と、充てているのである。つまり、七十人訳聖書は「信頼」の中に「希望」を見て取っているのである。詩編31編は、5段落に分けることができるが、七十人訳聖書では、5段落にすべてこの「エピルゾー」すなわち「希望を抱く」という動詞を用い、それを繰り返しているのである。
新約聖書は、七十人訳聖書を引用している。ユダヤの民は争いで負け、様々な地に散らされた。それを「離散の民(ディアスポラ)」という。七十人訳聖書の、このような詩編の理解は、七十人訳聖書がディアスポラのユダヤ人のためギリシャ語訳であったことと無関係ではないだろうという理解がある。つまり、様々な地に散らされたユダヤ人たちは、周りが敵だらけの苦難の中で生活していたといえる。そこでの支えは何だったのか。それこそが、唯一の神であるといえるであろう。神を信頼し、神が必ず救ってくださることを希望したのである。6節の「贖いだす」とは、虐げや苦難からの解放であると理解できる。きっと、離散の民も、詩編31編の著者のように、苦難の中、ただ神に願い、神のみを信頼し、希望を待ち望んだのである。
イエスが十字架の上で、6節の「主よ、御手にわたしの霊を委ねます」と述べたのも、ただ神を信頼することによってこそ希望が与えられること、そのとき、この世的な権力に負ける弱い人間として、十字架という苦しみの中にイエスはいた。しかし、弱さの中でこそ神を信頼すべきなのである。苦難の中にあっても必ず、希望があるということを、イエスは「主よ、御手にわたしの霊を委ねます」という言葉を通して私したちに教えてくれたのではないだろうか。
イエスが、この詩編31編を念頭に、十字架の上で「主よ、御手にわたしの霊を委ねます」と述べたのなら、強さを示しているのではないと私は思う。つまり、イエスにも神に救いを求める人間のような弱さがあったということである。
私たちが弱さや苦難のなかで最終的にできることは何であろうか。私たちは、弱さの中で何も出来なくなった時、神に救いを求めるのではないだろうか。それは、心から出る叫びの声である。もう自分の力では何も出来なくなったときの「神よ、どうか、私を救ってください」という言葉である。イエスの十字架における「主よ、御手にわたしの霊を委ねます」という言葉は、強さではなく、弱さの中にあるからこそ述べることができたように、私は思うのである。イエスは弱さの中に入り、詩編31編の苦難の詩編を用い、ただ神のみを信頼することによってこそ神が苦難から解放してくださるという希望が与えられることを、私たちに教えて下さっているのである。イエスの十字架には、弱さしか見えない。しかし、イエスこそ人間の弱さの只中に入り、私たちの苦難を共に負ってくださった。そして、共に神を信頼し、希望をもとうと支えてくださっているのである。そして希望こそが、前に歩む力になる。今、苦難の中にある方々のことを覚え、希望が与えられるよう神を信頼し、祈りたいと思う。
祈祷 憐れみ深い神様 今、レント、イエスが十字架に向かう出来事を覚える時となっています。十字架のイエスは、決して強い存在ではないと思います。それは、神の独子イエスが人間の弱さの只中に入ってくださっている出来事だと思います。どんな苦難に陥っても、神は共にいて、苦しみの言葉を聞き、救いへとお導きくださる。つまり、苦難、弱さの中にあっても、神を信頼することにより希望が与えられるということです。イエスが神と同じ権能を持ちながら人間の弱さの只中に入り、弱い人間を受け入れ、希望を与えてくださることを確信したいと思います。特に、今、被災されている方々、争いの中にある方々のことを覚えます。どうか、十字架の主が共にあり、重荷を共に負い、希望をお与えくださいますように。能登の被災地では礼拝も行けない、行えない教会もあると思います。どうか一人ひとりに主の祝福がありますように。私たちにできることがありましたお用いください。暖かくなってきましたが、寒暖の差が大きくなっています。全ての人、特に年を重ねられている方、幼い子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共においやしください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。受験シーズンです。学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守りください。すでに受験がおえられた方々には、よき新しい準備をとしてくださいますように。次週は礼拝後に教会懇談会を行います。良き時となりますように。また、そのため一人一人の健康をお支えください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、新しい一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 12章 1~6節」
聖書朗読
12:01その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。/12:02見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」/12:03あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。/12:04その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。/12:05主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。/12:06シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「救いの感謝の歌」
イザヤ書12章は、日本人だけでなく、もしかしたら世界の多くの人が声を出して歌っている個所だと思う。フォークダンスの「マイムマイム」をご存じだろうか。イザヤ書12章3節が、その内容なのである。「マイム」は、「水」、「ベッサソン」は「喜びながら」という意味のヘブライ語である。泉、井戸から水が与えられることを、多くの人と喜び歌い、踊るのである。日本では、戦後に、この歌をYMCAが紹介して広まったそうである。私たちは、知らないうちにヘブライ語の聖書箇所を唱えていたのである。そういうことなので、このイザヤ書12章3節の言葉は、忘れることはないであろう。それ一つで、本日の説教は終わりにしてもよいほどである。
しかし、イザヤ書12章に共に心を傾けたいと思う。イザヤ書の1~12章は、独立した一つの書と考えられる。12章は、1~11章を踏まえ、13章以降、とりわけ40~66章への展望をもって構成されている。つまり、12章は、新たに開かれる13章以降のための、それまでの結びといってよいと思う。では、開かれることとは何であろうか。1節後半に「あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。」とある。1~11章には、イスラエルとユダに対する神の怒りが最終的な現実ではなく、その怒りが取り去られて慰めを受ける時が来るという希望を伝えている。神の裁きをこの書を読む者が心から受け入れ、悔改める。そして、その向こう側に神の救いがあることを教えてくれているといってよいと思う。そして、2節に「私を救われる神」とあり、また「わたしの救いとなってくださった」とある。これはヘブライ語で「イシュアティー」と言う。イザヤという名前はヘブライ語で「エシュグ・ヤーフー」で、意味は「主は救い」である。すなわち、1章1節の「アモツの子イザヤ」、すなわち「主は救い」と12章2節の「私を救われる神」という言葉によって囲い込まれているのである。神がいかなる方なのかを示しているといってよいのではないだろうか。しかも、先ほど述べたように、神は怒りを燃やしたが、それ以降、神の救いが新たに開かれることを示しているのである。イザヤ書の12章は、バビロニア捕囚からの解放を知っていると考えられる。南ユダ王国は、バビロニアによって滅ぼされ、多くの人がバビロニアに連れていかれた。しかし、約50年後、バビロニアがペルシャに負けたことよってバビロニアに連れていかれた人々は解放された。そのことは、イザヤ書40章以降に記されている。このバビロニア捕囚解放の出来事は、第二の出エジプトと言われている。そこで、2節最後の「わたしの救いとなってくださった」は、出エジプト記15章2節の「主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」からとられていると考えられる。5節も出エジプト記15章1節からの引用である。イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しめられていた。神は、苦しみの声を聴き、エジプトからイスラエルの民を解放してくださった。それが出エジプトの出来事である。また、1節の「主よ、わたしはあなたに感謝します」は、詩編118編21節の「わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった」が用いられている。
余談だが、先週から聖壇に聖書を置いた。かつては置かれていたそうである。宗教改革者ルターは、「神のことばが、教会の教えと信仰告白を確立する」と述べ、教皇も教会会議も最終的な権威でなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張した。カルヴァンもルター以上に強調した。それを「聖書のみ」という言葉で表す。プロテスタントの基本といってよいと思う。そこで聖壇に聖書を置いた。また、開いている箇所は、ほぼ真ん中、詩編118編が開かれている。詩編118編22節には「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった」とある。マルコと、マタイによる福音書には、この言葉を用いているイエスのことが書かれている。教会こそキリストの体であり、エフェソの信徒への手紙にあるように教会のかなめ石こそキリストである。聖書を通してイエスを知り、信じ、イエスと共に歩む共同体になればと、118編を開こうと思っている。
イザヤ書に戻ろう。出エジプトとは、奴隷として苦しみの中にあるイスラエルの民を神が解放してくださったという救いの出来事である。詩編118編も出エジプトをはじめ、歴史において実現した神の驚くべき救いの業が詠われている。その不思議な体験を通して、イスラエルの民は絶望を希望にかえてくれる神、人間には不可能と見えることを可能としてくれる神への信仰を深めたのである。「隅のかしら石」という言葉には、そうした信仰が込められている。すなわち、イザヤ書の12章で、出エジプト記、詩編118編が用いられているのは、大いなる力で導いてくださる神の業を示している。そして、神にこそ希望があるということを私たちに伝えているのではなかろうか。だからこそ、後半4節から二人称複数で、感謝を呼びかける命令形が繰り返されているのである。4節に「主に感謝し、御名を呼べ。」とあり、5節に「主にほめ歌をうたえ」、6節には「叫び声をあげ、喜び歌え」とある。しかも、4節では、神への救いの感謝に留まらず、神に罰せられた過去を思いながら、諸国の民に、神の御業とその尊い名を告げ知らせようという勧告になっている。神から救われた者は、その喜びを多くの人に告げ知らせずにはいられないのである。それほどの喜びが神によって与えられるというのである。
では、その救いとはいかなることなのか。争いに負けバビロニアに連れていかれた人々が解放され、神の名によって再び神の約束の地に集まることができるということであろうか。確かに出エジプトの奴隷からの解放のような救いが示されているといってよいであろう。それは拘束から解放され神を自由に讃美できるという喜びでもある。
そこで、3節を見ると「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む」とある。ヘブライ語でウシャブテム(あなた方は汲む)マイム(水)ベッサソン(喜びながら)ミィマイエネ(井戸から)ハイェシュアー(救いの)である。水のない砂漠において水源、つまり、井戸、泉を与えられるというのは大きな喜びであっただろう。「マイムマイム」は、その喜びを踊った。では、私たちはこの3節をどのように理解すべきなのか。「救いの水」こそ、神であるといってよいであろう。つまり、どのような苦難の中にあっても必ず神は救ってくださるという救いが、ここには示されている。救いの預言の「呼び水」、すなわち導入として語られている。そして、これ以降、苦難もあるが、イザヤ書では神の導き、救いが示されるのである。では、私たちにとって救いとは何なのか。私たちにとって「救いの泉」こそ、神、その独子イエスであるといってよいであろう。ヨハネによる福音書の7章37~39節に「イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」とある。イエスは、自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について語った。イエスは、イザヤ書の12章3節を念頭に置き、この言葉を述べたのであろう。「乾いている者」、苦難の中にある者たちにイエスは、私のところに来なさいと述べてくださっている。それだけではなく、飲みなさいという。私たちの体、いや、心の渇き、苦難を神の救い、愛で満たしてくださるというのである。私たちが生きるためには、水は不可欠である。同じように、いやそれ以上に私たちは、命の水、神の導き、守りを必要とする存在なのである。
イザヤ書12章は、「わたしを救われる神」、つまり、神は私たちの救い主である。それは、イザヤ書1~12章において「私を救われる神」で囲んでいるように、神が私たちを囲み、包んでくださっている。私たちは神、イエスの救いのうち生かされているということである。歴史の歩みの中で苦難の時も神は共にあるということを示してくださっているのではなかろうか。苦難もある。しかし必ず神が救いへとお導きくださる。それだけではなく、苦しみ、悲しみにあるときにこそ、私のもとに来なさいと神、独子イエスは救いの手を差し伸べてくださっている。そして、潤し、救いへとお導きくださる。それは、新たなる救いへの導きと言ってよいのかもしれない。「マイムマイム」を通して、神は私たちに喜ぶべき救いを潤してくださる方であることを、本日の聖書箇所から確信したいと思う。それは、新たなる歩みへの祝福と言ってよいのかもしれない。全ての人に神の救いと、新たなる歩みの祝福が与えられますよう祈りたいと思う。
祈祷 愛なる神様 イザヤ書12章3節は「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む」と救いを示してくださっています。イエスこそ、それを実現してくださり、苦難に中にある者、すべての者を招き、命の水をお与えくださっています。どうか、苦難の中にある方々と主が共にあり、新たなる救いへと祝し、お導きください。特に、能登半島地震など、自然災害、争いなどで苦難の中にある方々にありますように。神は、私たちを愛し、お導きくださる方であることを確信させてください。そして、神の救いのために私たちをお用いくださいますように。争いからよいものは生まれません。悲しみ、憎しみの負の連鎖がつのるだけです。報復は神がなさることです。人間は報復すべきではありません。どうか、停戦へとお導きください。寒くなっています。どうか全ての人の健康、特に年を重ねられている方、幼い子どもたち、被災地にある方々をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共においやしください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。受験シーズンです。学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守りください。すでに受験がおえられた方々には、よき新しい準備をとしてくださいますように。明日は2・11集会が筑波学園教会で行われます。講師の竹迫先生の健康を守りください。そして、多くの方々とカルトについて学ぶ良き時となりますように。14日は灰の水曜日、レントになります。主の御苦しみこそ、私たちの苦しみを共に負ってくださっていることをこのとき確信させてください。神さまの導き、み業を感謝し、讃美いたします。能登の被災地では礼拝も行けない、行えない教会もあると思います。どうか一人ひとりに主の祝福がありますように。 この礼拝を通して一週間の罪を赦し、新しい一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヤコブの手紙 1章 1~8節」
聖書朗読
01:01神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。 01:02わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 01:03信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。 01:04あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。 01:05あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。 01:06いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 01:07そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。 01:08心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「わらの書簡?」
「ヤコブ書は、どうも昔から、良い扱いを受けない文書だったようである」とは、ヤコブの手紙についてのある注解書の最初の文である。古代からそうであったようである。有名なのは、宗教改革者マルティン・ルターが「聖書への序言」という書物の中で、ヤコブの手紙は「わらの書簡」であると記していていることであろう。ルターは、わらの書簡と記すことにより、ヤコブの手紙を重要性の無いものとした。ルターは、パウロが記したローマの信徒への手紙から、信仰義認を見出した。信仰によって義とされる。一方、ヤコブの手紙は、行為義認、行いによって義とされると読むことができる。ユダヤ教の掟である律法を行うことからでは救いを得ることは困難であり、信仰によってこそ義とされるという考えを大切にしたルターは、ヤコブの手紙を否定的にとらえた。
では、本当にヤコブの手紙は、わらの書簡なのか。現代においても、ヤコブの手紙には分からない点が多く、様々な意見がある。神学がないという見方さえあると言われている。ヤコブの手紙は、重要ではないのであろうか。私は、そうではないと考える。ヤコブの手紙は、神から与えられたラブレターなだと。
1節に「主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」とある。1節からすでに理解が難しい。ヤコブとは誰なのか。イエスの弟のヤコブだといえよう。一方、ギリシャ語で書かれているヤコブの手紙は、ギリシャ語を言語としていた人物が記したと考えられるほどに整っている。イスラエルでアラムを話していたヤコブが記したとは考えられない。エルサレム教会の中心人物となったイエスの弟ヤコブの権威を用いて、その名前を借りて、後に誰かが記したと考えるほうがよいであろう。しかし、ヤコブは異邦人伝道を肯定していなかった。そこで、異邦であるギリシャ語を言語としていた人たちに、ヤコブの権威が通用したのかは疑問である。また、「離散している12部族」とあり、戦いに負けたイスラエルの民は様々な地に散らされた。その理解を用いて、様々な地にいるキリスト教徒を意味するという理解がある。支持されていないが、手紙の形式にするため1節は後から付け加えられたという考え方もある。私としては、それが一番納得できる。
2節に「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」とある。「兄弟たち」と、キリスト者に呼びかけている。試練をこの上ない喜びと思えるであろうか。「試練」とは何であろうか。ここでいう「試練」とは「誘惑」を意味するという理解がある。ただ、この箇所では具体的なことは記されていない。キリスト者であるがゆえに受ける困難を意味するのであろうか。様々なことが考えられる。では、困難を喜ぶべきなのか。ここでは、たとえ困難な状況においても喜べと言っているのだと受け取りたい。ローマの信徒への手紙の著者パウロは、イエスの救いを述べ伝えることによって受ける苦難を、イエスが受けた苦難を自分も受けていると言っていた。イエスと同じ歩みをなすことができると、パウロは苦難を肯定的に受け取っていたことを私は思い出した。それはイエスと共に歩んでいるという喜びと言ってよいのかもしれない。
3節に「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」とある。「信仰が試される」というのも恐ろしい。「試される」は「証明された」とも受け取ることができる。そこで、私は「検証されたあなた方の信仰が忍耐を生み出す」という訳を支持したい。つまり、本物の信仰こそ忍耐を生み出すのだということである。ただ、そのように受け取っても、私は厳しいと感じてしまう。そこで、試されるのではなく、自分の信仰を日々イエスの十字架に向かって問いかけるべきであると私は思うのである。また、「検証されたあなた方の信仰が忍耐を生み出す」というのなら、励ましを受けているように受け取ることができると私は思うのである。信仰に忍耐が必要なのかは、難しいところである。イエスと共に歩む、それはイエスが重荷を共に負ってくださっていると理解するなら、忍耐する支えが与えられているのではないだろうか。イエスこそ私たちの罪を忍耐し、私たちをありのまま受け入れてくださっているのである。きっと、イエスは私たちの信仰を認めてくださっている。共に重荷を負うから忍耐できるのだとイエスはきっと私たちを励ましてくれているであろう。
4節には「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」とある。この言葉も厳しい。そこで、次のような訳がある。それは、「忍耐は完全な行為をもたらすはずである。そうすればあなた方は完全かつ十全となり、いかなる点においてもかけることがなくなるだろう」である。忍耐は完全な行為をもたらすはずであるというこの訳の方が、私は肯定的に受け入れることができ、導き、励ましを受けているように感じる。そこで5節「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなく、とがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」を私は次のように理解した。知恵、知識が完全にあると言い切れる人はいないであろう。それは傲慢である。私たちは神、イエスの前では何も知らない者にしかすぎない。だからこそ、神に願うことができるのである。いや、神に願うことが赦されているのである。そして神は、下心なく与えてくださるのである。マタイによる福音書の21章21~22節には「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」とある。マルコによる福音書の11章23~24節は、並行記事である。ヤコブの手紙を記した人物は、イエスの言葉を知っていたのであろうか。ヤコブの手紙には、イエスの言葉に似た言葉が記されている。ヤコブの手紙の著者は、福音書になる前のイエスの言葉資料を持っていたのではないかと考えられるのである。私は、ヤコブの手紙の著者は、イエスの言葉を知っていたと思う。読み進めてくと、貧しい人を分け隔てしてはいけないと記してある。また、2章12節には「自由をもたらす律法」とある。それは「自由の律法」とも訳されている。その内容は、紙に書かれた杓子定規の規定ではなく、みずから自由に人間のあるべき姿を実際の行動として作りだすことだと理解できる。ヤコブが述べた行いとは、愛による業、それも文章に記された律法ではなく、今目の前で困っている人、救いを必要としている人に対して何ができるかということであると理解する。救いを必要としている人を愛し助けた方こそ、まさにイエスである。また、イエスは、神の愛を私たちに教えてくださった。ヤコブの手紙のすすめる行為とは、イエスを模範とする信仰であるといえるのではないだろうか。
行為義認か信仰義認かというくくりで説明する必要はないと私は今回ヤコブの手紙を学んで思った。パウロのローマの信徒への手紙とヤコブの手紙は反対のことが記されていると比較すべきではない。パウロの手紙もヤコブの手紙もイエスに従う、そこで何が大切なのか。また、イエスに倣うとはいかなることか、救い、導きが記されている。信じていれば何もしなくてよいのであろうか。あれかこれかではなく、バランスが必要であると思うのである。イエスを信じることは、イエスのように困難の中にある人を思い、寄り添おうと欲するのではなかろうか。
そこで8節を見ると「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」とある。この訳は適訳ではないと学者たちが指摘している。多くの訳は「心が定まらず」は、「二心」、「生き方」は意訳で、直訳は「道」である。そこで、「二心ある者であって、どんな道にあってもふらついている」。つまり、心を一つにすべきであるということである。この世的な価値観、自己欲ではなく、神、イエスにのみに心を向けることによって、私たちはいかに歩むべきかが分かり、導かれるのである。重要なのは、神、イエスのみに心を向け、イエスを規範とするということである。
信仰か、行いかではなく、イエスに倣い歩むこと、イエスを信じ歩むことが大切なのである。ヤコブの手紙は、イエスに倣う歩みとはいかなることかを私たちに教え、導いてくれていると私は理解する。このヤコブの手紙は、決してわらの書簡ではない。そして、私たちは神に願うことが赦されている者なのである。神、イエスに心を向けているからこそ、神に願うことができる。そして、神は必ず私たちの言葉を聞いてくださるのである。私たちは心をイエス、神に向ける者になりたいと思う。そこからイエスに倣うことができる。つまり、イエスと共に歩むことができるのである。私たちは二心になるのではなく、ただ神のみを信じ、神に願い求める者となりたいと思う。イエスと共に歩むとは、イエスの愛する一人ひとりと共に歩むということであると私は思う。そして、願い求めたときに、きっと様々な力、道が神から与えられる。それこそが私たちの道、生きる支えなのである。
祈祷 愛なる神様 私たちはあれかこれかと考えてしまいます。また、時には聖書を自分の都合よくとらえてしまうことがあります。聖書は、あなたからのラブレターであり、聖書を通してあなたのことが分かります。聖書に重要ではない文書はなく、全てがあなたへと導いてくださるものであると信じます。二心なくあなたに心を向け、あなたに願う者となりたいと思います。あなたは願うことを私たちに赦し、そして、お与えくださる方です。どうかあなたのみに心を向け、また、一人子イエスに倣い歩みことができますようお導きください。また、その励まし、支えをお与えくださいますように。週末から寒くなっています。寒暖の差が激しく体調を維持するのが大変です。特に、被災された方々は体、心も維持するのが大変だと思います。あなたが寄り添いお支えください。また、争いはこの世的戦略であり、人間の欲望でしかないと思います。それこそ二心を持ってしまっています。どうか、指導者が真の愛に気づき、争いをやめますようお導きください。そのため私たちをお支えください。寒くなっています。どうか全ての人の健康、特に年を重ねられている方、幼い子どもたち、被災地にある方々をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共においやしください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。受験シーズンです。学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守りください。すでに受験がおえられた方々には、よき新しい準備をとしてくださいますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、新しい月、新しい一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 119編 105~112節」
聖書朗読
119:105あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。 119:106わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。 119:107わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください。 119:108わたしの口が進んでささげる祈りを/主よ、どうか受け入れ/あなたの裁きを教えてください。 119:109わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。 119:110主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。それでも、わたしはあなたの命令からそれません。 119:111あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。 119:112あなたの掟を行うことに心を傾け/わたしはとこしえに従って行きます。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「歩みを照らす」
東日本大震災においては、多くの教会が被災した。その中で、教会をボランティアの活動拠点にしていた教会があった。その一つが、新生釜石教会である。一階の天井近くまで津波が押し寄せ、被害を受けた。会堂は何とか使用することができた。しかし、床にはベニヤ板が敷かれ、ボランティアのためにうかがった私たちは、ベニヤ板の敷いてある礼拝堂で寝泊まりをした。また、道路沿いの駐車場にテントを置き、通りかかる人が気軽にお茶を飲むことができる場にしていた。被災したのにも関わらず、教会をオープンにし、ボランティアを受け入れ、そして話しをする場を開いた。牧師先生たちの心に、神の愛があふれていると思わずにはいられなかった。それは牧師や、クリスチャンだけではない。1月2日の羽田空港での飛行機の接触事故における乗客たちの対応が素晴らしかったと思う。冷静にキャビンアテンダントの指示に従おうと声をかけた人たちがいた。自分の命だけではなく、皆の命を守ろうとした。その前日の能登半島地震でも、土砂崩れで自宅が流されたにも関わらず消防団として働いた人、避難所に避難したその人自身が、避難所で働いていたなどの報道があった。一人ひとりの心に愛があることを思わずにはいられなかった。
さて、本日与えられた聖書箇所の詩篇119編105節以下に心を傾けたいと思う。この箇所は、神に逆らう者から苦しめられながら敵を嘆き訴えることなく、毅然として律法を守ろうとした詩人「わたし」が描かれている。109節に「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています」とある。これは「身を危険にさらす」という意味である。また、110節には「主に逆らう者から罠に仕掛けられている」とある。そこから、この詩人である「わたし」が苦難にあっていることが分かる。そして、107節には「甚だしく卑しめられています」とある。この詩人は、社会的に身分が低く、支配階級に圧迫され、脅かされている弱い立場の者であると理解することができる。
では、この詩人に希望はないのか。105節に「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」とある。神の言葉は歩みを照らしてくれる光であると言うのである。では、「御言葉」とは何か。ここでは「神の意志」といえる。109節から、律法とも受け取ることができるであろう。詩編のこの箇所では、109節に「律法を決して忘れません」、110節に「あなたの命令からそれません」、111節に「あなたの定め」、112節には「あなたの掟」に心を傾け従うとある。そこから、神から与えられた掟である律法を厳格に守るということを、この詩人は誓っている。私たちも神の光をいただくために、律法を守らなければならないのであろうか。
キリスト者は「律法」を、守らなければならないものと理解している。しかし人間には、律法を完全に守ることはできない。そこで、律法は罪を定めるものであると、また罪人を定めるものであると私たちは理解しているのではないだろうか。つまり、「律法」に良いイメージがない。本当にそうなのか。律法自体は神の意志であり、悪いものではない。律法には多くの規定があると理解されているであろう。一方、詩編119編105節以下には、律法の規定は記されていない。そこで、次のような解釈がある。この箇所は、モーセの律法のように「個々の律法規定を念頭に置いている、とは思われない。むしろ、詠い手は神ヤハウェに直接的な指示を求めているのであり、神との内なる対話がそこから開かれていく」。ここで律法は「神ヤハウェの意志と、その『はたらき』を指しているように思われる。律法を遵守するというよりは、神ヤハウェの意志とその不思議な働きを『思い巡らし』つつ、そこから逸脱せずに、人生という道程を歩むことを意味するにちがいない」と言うのである。私は次のように理解する。この詩の律法とは、私たちがイメージする律法ではなく、神の意志、思いとはいかなることかを神に問いながら、神の意志、愛を光として照らし、道を探り、歩んでいくということであると。
111節に「あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です」とある。「嗣業」とは、イスラエルの民が神から与えられた土地を意味する。それは神からの恵みと言ってよいであろう。しかし、この箇所での「嗣業」とは、土地ではない。嗣業は、「神の定め」であるというのである。それは、とても面白いと思った。エレミヤ書の15章16節に「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」とある。私は次のように理解したい。神はなぜ律法をイスラエルの民に与えたのか。律法とは元来、人間が集団として守るべき事柄である。それは一人ひとりの自由、尊厳を守るためである。弱い立場の者が支配者に圧迫されることなく生きることでもある。それがいつしか、守らないと救われない。そこで、律法は罪、また、罪人を定めるものとなってしまった。しかし、この詩編で示されている律法とは、神の意志である。神が人間に律法を与えたのは、その人がその人らしく生きるためである。つまり、律法は本来、神から頂いた賜物、恵みなのである。律法を守るとは、神の恵みを感じ、神から恵みが注がれること、神が共にいてくださることを確信することである。それは喜びになる。だからこそ、神の意志である神の御言葉は、私たちの道の光、歩みを照らす灯なのである。
では、現代の私たちは、神の意志をどのようにして知ることができるであろうか。それは、神の独子イエスを通して知ることができるのである。神は私たちを愛するゆえに、独り子イエスをこの世に遣わされた。イエスは、私たちの友となり、友のために十字架に掛けられたのである。それは、愛と言ってよいであろう。ここで、私は、大胆なことを言いたい。次のような理解がある。「この詩は律法をイスラエルの民と関連付けることをしない。律法はあくまでも信仰者個人の『足の灯』であり、『道を照らす光』である」。ここで述べられている律法は、神とそれぞれの信仰者の間の関係を示すものである。そこで律法は内面化されるというのである。エレミヤ書の31章33~34節に「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」とある。律法は、神と私たちとの関係において心の中に記されるようになるというのである。キリスト教では、イエスによってこの新しい契約が与えられると考える。もちろん信仰が根底にある。
そこで、ローマの信徒への手紙の1章20節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」を読む。ここでは、私たちが神を知らないといっても、神はこの世を創られたときから神の力、愛をこの世に現わしている。神など知らないと言い逃れはできないのだと言うのである。先ほど私は、大胆なことを述べると言った。神は、創られたものを見て「極めてよかった」と述べた。つまり、私たち神に創られたものは、あなたは良い存在なのだと神に太鼓判を押されている。私たちは神に愛されてしまっている存在なのである。そこで、私たちには既に一人ひとり、神から愛という賜物を頂いているのである。神の愛が私たちの心にある。それを神の律法といって良いのかもしれない。なぜなら、神から与えられた愛によって、私たちは何をすべきか考えることができるからである。ローマの信徒への手紙の2章14、15節に「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」とある。そして、困ったときにこそ、神に何をすべきか心の内で問い、神と対話すべきなのである。イエスによって神と直接対話することが赦されたのである。そのとき必ず神は私たちに光、私たちの歩みを照らす灯をお与えくださるであろう。その最も大いなる光、灯こそ、神の独子イエスの業、歩みである。
この詩人のことを、弱い立場にあると述べた。弱い者の言葉こそ神は聞いてくださる。また弱いからこそ、神により頼むことができる。私たちは神に愛されていしまっている存在なのである。神の愛こそ、私たちを照らす光である。のことを確信したいと思う。そして、私たちも神に愛されている者として、神の愛、イエスという光をもって、他の人の歩みを照らすことができればと思う。それはイエスがなしたように、隣人として共に歩むことだと思うのである。神は一人ひとりの心に律法、つまり、神の意志である愛をお与えくださった。神との対話として祈りたい。
祈祷 愛の源なる神様 あなたは愛するためにこの世を創り、そして、一人ひとりに愛をお与えくださいました。律法とは神の意志であり、愛による導きです。私たちは律法、神の愛を心の内に与えられた者です。そして、御子イエスをこの世に遣わされ、苦難の時、祈りを通して、直接あなたに問うことができるようになりました。どうか私たちの歩みを照らしてくださいますように。特に、苦難のなかにある方々を支え、歩みを照らしてください。私たちもあなたに愛されている者としてその愛を用い、苦難のかにある方に寄り添う者になりたいと思います。地震の被災地では困難が続いています。また、被災されながら自分たちはまだいい方だ、もっと苦しんでおられる方がいると、自分自身の苦しみの心を押し殺そうとしている方もおられるでしょう。そこで辛さが積まれていくことがあります。どうか、あなたがすべての重荷を受け入れ、苦難を共に負い、お支えください。どうか私たちを用いて下さいますように。寒波が襲い寒くなっています。どうか全ての人の健康、特に年を重ねられている方、幼い子どもたち、被災地にある方々をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見られている友を心身共においやしください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。受験シーズンです。学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守りください。すでに受験がおえられたがたには、よき新しい準備をとしてくださいますように。争いは人の欲でしかないと思います。争いは悲しみ、憎しみしか生み出しません。どうか、全ての人が手を結ぶ平和な世となりますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 11章 1~10節」
聖書朗読
11:01エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち11:02その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/11:03彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/11:04弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/11:05正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/11:06狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/11:07牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/11:08乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/11:09わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/11:10その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「萌え出る」
旧約聖書イザヤ書11章1節以下は、救い主イエス・キリストの誕生を待ち望むアドベントに、よく読まれる。というのは、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」とあり、そのエッサイとは、イスラエル12部族を統一し、繁栄させた王ダビデの父のことだからである。エッサイの家系から新しい目が萌え出る。つまり、新しい王が誕生するというのである。それはメシア、神が遣わす救い主の誕生を意味する。キリスト教では、その方こそイエス・キリストであると考える。では、その救い主とは、いかなる方なのか。2節以下に、新しい王はダビデ以上の存在であるということが意味されている。これから生まれる王に神の霊が留まるというのである。その霊はどのような働きをなすのであろうか。一つ目「知恵と識別」とは、正義に基づいて的確に判断をする能力である。次の「思慮と勇気」、「思慮」は「計画する」という動詞の名詞である。つまり、これは計画を立案し、かつ実行する能力である。そして、「主を知り、畏れ敬う霊」とは、先ほどの2つのことを要約し、それが行われるのは神への信仰を基とする重要な力であることを意味する。では、その正義は誰のために行われるのか。4節に「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する」とある。そこから、救い主はどこに立つのかということが分かる。弱い者の立場に立ち、導いてくださる方こそ、神から遣われる救い主であるというのである。5節には、その方こそ「正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる」とある。これほど心強いことはない。ここに記されている「正義」「真実」こそ、神にはあるのである。
6節以下、その救い主の働きは人間だけに留まらず動物、いや、それだけではなく自然界の平和へと結びつけられている。正しい王による統治は、人間だけではなく、自然界の調和へと導くのである。もちろん、10節「すべての民」とあるすように、イスラエル人に留まらず、全ての民にその平和はもたらされる。次のように言えるであろう。この王は、絶対的平和主義であると。
そこで考えたいことがある。どうして、神による救い主の到来の預言が、ここに記されているのであろうか。例えば、他国の侵略による危機などが考えられる。私は、次のように受け取りたい。ここにあるのは、当時のユダ王国の王に対する失望であると。その王の名はヒゼキヤである。ヒゼキヤは、紀元前727~698年に在位した。では、ヒゼキヤは悪い王だったのか。イザヤ書38章に、ヒゼキヤが死の病にかかったとある。ヒゼキヤが神に祈ると、神が癒した。そのような意味では、ヒゼキヤは神の愛する者であった。また、38章9節以下にヒゼキヤの祈りがある。そこで、ヒゼキヤが神に忠実であり敬虔であったことによって、神の守りを得た。ヒゼキヤは信仰的に素晴らしい王の原型として理解されていた。それは、この祈りにおいて、罪の告白がないことから理解できる。つまり、罪の告白の必要のない者として、ヒゼキヤ王は理解されていた。
確かに、ヒゼキヤ王は宗教改革を行い、偉大な王として知られていた。一方、次のような面があった。当時、アッシリアが勢力をのばし、パレスチナにも攻め入ってきた。紀元前722年には、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされた。南ユダ王国には、アッシリアに対抗する力はなかった。そこで、南ユダのヒゼキヤ王はバビロニア、エジプトと関係を結び、南パレスチナ諸国による反アッシリア同盟の中心を担ったのである。一方、預言者イザヤは、ただ主のみ、神のみを信頼し、他の国に頼ってはいけないと警告した。つまり、ヒゼキヤ王は神を頼みとすることなく、人間の政治的戦略でアッシリアに対抗しようとしたのである。イザヤは、常に人間的な思慮や、策略ではなく、神にのみより頼むべきであると唱えてきた。しかしヒゼキヤは、預言者イザヤの警告に従わなかった。つまり、神に従わずヒゼキヤは自らの力を頼りにしてしまったのである。そこで、真の王が必要となり、ヒゼキヤではなく、神の思いに適う真の王の到来がイザヤによって預言されたのである。だから、真の王こそ神の霊に満たされている者であるというのである。
そこで、もう一つ注目したいのは、イスラエル王国を最も繁栄させたダビデ王の株から芽が萌えいでるとは預言されていないことである。そこにはダビデ、つまりこの世の王に対する批判がある。だからダビデではなく、父「エッサイの株」と言われていると考えられる。そこには、人間的な王、この世的な王との断絶があり、そこで真の王としてエッサイの切り株から芽が萌え出ると書かれた。そこには、これまでの王に対する客観的な批判と反省を踏まえたうえで、新たなる王が神によって到来するのだという意味がある。
さて、他国のことを批判してはいけないが、神を信じている国が、なぜ争いを起こすのかという疑問が出てくる。本当にこの書を正典とするものこそ、この世的、人間的な策略を反省し、悔い改め、愛なる神の思いはどこにあるのかを、問い直すべきだからです。私は祈祷の中で「戦争を止める勇気を国の指導者にお与えください」と祈っている。それは、争いを起こしてしまったことが本当に神の思いにかなうことなのか、そのことを神の前で考え、問い直し、改めるべきであると考えるからである。人間は、自分が犯した罪を受け入れることに勇気が必要である。だからこそ日々、神の前に立ち、自分の考えが本当に神の思いにかなっているのかを問うべきなのである。自分の行ったことを客観的に見て、反省することには、勇気が必要である。だからこそ、イエスは十字架に掛けられたのではないだろうか。イエスの十字架とは、罪を映し出す鏡である。イエスが共に重荷を負い、自らの罪を省みようと私たちに勇気と力を与えてくださっているのである。王、指導者の過ちによって多くの民、特に弱者、子どもたちは被害を受ける。争いを始める指導者たちは、希望の未来を子どもたちから奪っているのである。このときにこそ、神の思いは何なのかを、真剣に考えるべきなのである。
また、私は次のように受け取りたい。神に頼らず国を危険にさらす王がいても、どんな危機的な状況にあっても、神は新しい芽を萌え出してくださる。つまり、どのような危機的な状況においても、神は希望を与えてくださるのである。エッサイの株、その家系が特別優れていたのでもなく、またそれは、大きな家系ではなく、小さなものであったと考えられる。どんなに危機的であっても、そこに希望の芽を萌えだしてくださるのである。そして、神は必ず救いを示してくださる。ヨブ記14章7~9節には「7木には希望がある、というように/木は切られても、また新芽を吹き/若枝の絶えることはない。8地におろしたその根が老い/幹が朽ちて、塵に返ろうとも9水気にあえば、また芽を吹き/苗木のように枝を張る。」とある。神は新しい芽を萌出してくださるのである。
能登半島地震で被災された方々のインタビューが、連日テレビに写しだされている。悲しんでいる方に、インタビューするのは、より悲しみが増すような気もする。一方、それを聞いてしまう自分はどうなのかとも思うのである。もしかしたら、話すことがグリーフワークになるのかもしれない。成人式を迎える娘さんとお連れ合いさんが地震で隣のビルに押しつぶされ、天に召されたと話していた。どこに怒りをぶつければいいのか。その建物に怒りをぶつけることしかできないと話していた。また、何も悪いことをしていないのに、なぜこんな苦しみを受けなければいけないのかと述べておられる方もいた。本当にその通りだと思った。どこに怒りをぶつけていいのか分からない。何も悪いことをしていないのに。神はいるのか。天も地も神の支配下にあるはずなのに、なぜこんなことが起こるのか。そのように考えるのも仕方ないと思う。この地震に何の意味があるのかは分からない。また、意味どないのかもしれない。いや、意味を見出す。つまり、これから起こりうる災害に対し、より良い救助の在り方を見出すということではないだろうか。重要なのは、今、悲しみの中に、苦しみの中にある方がおられる。どんな小さくても、神が希望を与えてくださることを確信し、そして、私たちに何ができるのか考えることが大切であると思う。神は、どんなに危機的な状況においても、必ず希望という芽、救いの芽を萌え出してくださる。まず祈りたいと思う。祈りこそ、私たちに何をすべきか教えて下さり、そして、行うべき力を与えてくださる。そして、祈りとは悲しみ、不安、苦しみの中にある方々を覚え、また、共にいることだと私は思う。神が希望の芽、救いの芽をかならず萌え出してくださることを信じているから、私たちは祈ることができる。
祈祷 何時いかなる時も共にいてお支えくださる愛なる神様 イザヤ書には、救い主到来の預言が記されています。その根底には、神を頼らずこの世的な策略を頼りにしてしまう指導者がいるからです。イザヤは、人間の力に頼らず、神のみに頼るべきだと警告します。しかし、従いません。一方、神はどのような危機においても、必ず希望の芽をお与えくださいます。神こそ私たちに希望の光をお与えくださる、そのことを確信させてください。平和とは、もっとも弱い者立場に立つことだと思います。イエスこそそうでした。イエスに倣い、苦難、不安、悲しみ中にある方々のことを覚え、祈ります。どうか私たちに力を与え、お用いください。指導者こそ自らの行いを省みるべき存在だと思います。人の命を奪うことに正当な理由などありません。争いで被害にあっている弱い者、子どもたちに希望をお与えくださいますように。 天候が悪くなっています。被災地では寒さが増し、厳しい状況であると思います。どうか、被災された方々と共にありお支えください。全ての人の健康をお支えくださいますように。病の中にある方々、手術後の経過を見られている方々を心身共においやしください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。受験シーズンとなりました。学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 1章 43~51節」
聖書朗読
1:43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 01:44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 01:45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 01:46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 01:47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 01:48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 01:49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 01:50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 01:51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「思いもしない」
家族でお菓子を食べていたときのこと。息子が一つ食べた後で、「何個食べていいの?」と聞きました。母親が「三つ食べていいよ」と答えると、息子は「あと3つ食べていいの?」と聞いた。私は大笑いしてしまった。というのは、私は、お菓子は全部で3個と受け取っていたからである。しかし、息子は一つ食べた後に3個、つまり、4つ食べていいと受け取った。人間の理解はそれぞれである。そんな欲張りな息子でも、神はきっと愛してくださるであろう。
さて、イエスには12人の弟子がいた。皆さんは、12弟子を言えるであろうか。マタイによる福音書とマルコによる福音書では、弟子たちの名は同じである。しかしルカによる福音書とヨハネによる福音書では、1名か2名の名前が異なっている。そのうちの一人がナタナエルである。ナタナエルは、ヨハネによる福音書にしか登場しない。
本日の聖書箇所は、その前からの続きで、イエスが弟子を決める箇所である。43節で、フィリポに会うとイエスは「わたしに従いなさい」と述べている。フィリポは、イエスこそ待ち望んでいた救い主であると信じ、従ったのであろう。45節でフィリポは、ナタナエルにこう述べる。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と。「モーセが律法に記していること」とは、申命記18章15節にある「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる」だと考えられる。エジプトで奴隷として苦難の中にあったイスラエルの民を脱出させたモーセのような指導者、あるいはイスラエルを最も繁栄させたダビデ王のような救い主が現れるのだとイスラエル人は信じていた。フィリポは、待ち望んでいた救い主こそがイエスであると確信したのであろう。きっとフィリポは喜びと期待に満ち、ナタナエルに告げたと思うのである。喜びの知らせは、他の人にも語りたくなるものである。するとナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったとある。ナザレというとこは、とっても小さな村である。ナタナエルはフィリポと同じベトサイダの出身だったのであろう。ベトサイダの方がナザレより大きな町で、ナタナエルは見下していたと言える。そこで、フィリポは、ナタナエルをイエスのもとに連れてきた。イエスは、ナタナエルが来るのを見て「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人に偽りはない」と述べた。イスラエル人というのは誉め言葉で、「この人に偽りはない」とは、ナタナエルの神に対する模範的な忠実さを伝えていると殆どの学者が解釈している。そこで、ナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」とイエスに言った。ナタナエルは驚いたのであろう。それだけではなかった。イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言ったのである。私はイエスの最初の奇跡は、2章1節以下のカナの婚礼において水をワインにかえた出来事だと思っていた。しかし、本日の出来事も奇跡であるという人がいる。イエスは、ナタナエルが何をしていたのか知っていた。いや、イエスは、ナタナエルの心の内を知っていたのである。ナタナエルが真のイスラエル人であり、出会う前にいちじくの木の下にいたのを見た。つまり、イエスは、すでにナタナエルを捕らえていたと言えるであろう。するとナタナエルは「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰を告白した。するとイエスは「信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言い、そして「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と述べたのである。天で行われていることが、イエスを通して地において行われるといえるであろう。
皆さんは、どのように思われるであろうか。ナタナエルはイエスに対し「ナザレから良い者がでるだろうか」と見下していた。しかし、イエスに出会うと、イエスを神の子、救い主であると信じたというのである。私たちもナタナエルのように信じたい、というのは簡単である。しかもナタナエルは、イエスから「まことのイスラエル人だ。この人に偽りがない」と褒められ、模範的に忠実な者と認められた。一方、私たちは、自分には偽りがないとは言い切れない、決して忠実な者でもないと思ってしまうのではないだろうか。
そこで、次のような解釈があった。「まことのイスラエル人だ。この人に偽りがない」は、褒め言葉ではないというのである。イエスは、「生粋、真のイスラエル人だ」と述べたというのである。それは、どのようにギリシャ語を訳すのかということである。殆どの学者は、イエスはナタナエルを褒めていると理解して「偽りのない人」と訳している。一方、ギリシャ語で見ると「偽りのない人」と訳されている言葉は、直訳では「誤魔化しのない」である。そこで、この文において「誤魔化しのない」を「イスラエル人」につけるなら「生粋、真のイスラエル人」になるというのである。では、そのように訳したとき、どう理解できるのであろうか。イエスは、ナタナエルを褒めていたのではないと言えるであろ。「生粋、真のイスラエル人」とは、つまり、ナタナエルは、イスラエル人として神を信じ、神が遣わす救い主を待ち望んでいる人である。その救い主は、王ダビデ、また、モーセのような人物である。そして、イスラエルの民こそ神と契約を交わしたアブラハムの子孫であり、アブラハムとの契約のゆえにイスラエルは神から特別愛されている選ばれた民である。そのようにイスラエル人としての考えを持っていたのがナタナエルであると理解できるというのである。ナタナエルは「ナザレから良い者がでるだろうか」と見下してしまう弱い人間でもあった。そう私は思うのである。だからこそ、イエスはナタナエルを招いたのではなかろうか。
では、そこには何が意味されているのであろうか。1章35節以下は、イエスの弟子になるという話である。そこで、イエスに従ったアンデレは、シモンをイエスの元に連れてきた。そして本日の箇所でも、フィリポがイエスに出会い、救い主であると信じた。そして、フィリポは、ナタナエルをイエスのもとに連れて来た。弟子になる場面において、他の福音書には、のようなことは記されていない。それを「独特な間接性が際立っている」と記している学者がいる。それは、人を通してイエスと出会うということである。ヨハネによる福音書が記されたのは、紀元90年代とされており、聖書の福音書では一番新しい。そこで、「自分たちも、その時間の隔たりを越えて、イエスとの直接的な出会いが可能だという、福音書著者自身の信仰が投影されている」というのである。私は次のように理解する。生きたイエスとは直接出会うことはできない。しかし、イエスと出会った人たちがイエスの救いを述べ伝え、また、述べ伝えられことを文章に記した人がいる。間接的であるが、私たちはイエスに直接出会うことができる。もちろん聖霊を通して出会うことができる。つまり、ナタナエルは私たち自身なのである。聖書の人物と私たちとを重ねることができる。聖書の出来事は、今ここで起こっているのである。だから、ナタナエルは模範的な忠実な人物でないという理解の方が、私にとって受け容れやすいのである。
そして、この箇所にはイエスがどのような方であるか、その称号が記されている。イエスは、モーセが律法で記し、預言者たちも書いている方、すなわち神の計画によってこの世に遣わされた方である。また、ナザレの人でヨセフの子とは、王ダビデの子孫であるとフィリポはイエスのことを述べていた。ナタナエルもラビ、すなわち先生、神の子、イスラエルの王と述べていた。預言書に記されている方、ラビ、神の子という称号が、そこには記されている。そして、イエスは50節で「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と述べている。ここで「もっと偉大なこと」とは、それは最上級を意味して「最も偉大なこと」であるという解釈がある。つまり、これからイエスが行うことは、フィリポ、ナタナエル、すなわちイスラエル人が求めている救い主とは異なる。いや、イスラエル人が期待している救い主より、イエスは偉大な存在であり最も偉大な業がイエスによってこれから行われるのである。イエスは51節で「人の子」という言葉を用い、天でおこなわれている神の愛が地上で行われるという。つまり、神の愛がこの世に現れる。それは十字架における無償の愛である。そして、その救い、愛の業こそ、これから、つまり、2章以降で行われるイエスの業である。ナタナエルが弟子としてイエスによって招かれたように、私たちもその出来事に招かれているのである。それは、思いもしないイエスの恵み、愛がイスラエル人に留まらず、全ての人に与えられるということなのである。
私たちもナタナエルなのである。ナザレは小さい村で、そこからは良い者は出ないとレッテルを張ってしまう。また、この世的救い主を期待したこと、つまり神の愛を真に理解していないイスラエル人のナタナエルだからこそ、イエスは弟子として招き、導いてくださったのではなかろうか。ヨハネによる福音書を通し、私たちもイエスに招かれているのである。そしてイエスは、思いもしない愛、救い、恵みを私たちに与えてくださるのである。それは天におられる神の業が地にある私たちにも起こるということである。その喜び、救いを私たちもフィリポたちのように伝えたいと思う。そして、神、イエスの、私たちが思いもしない恵みが、地震などで被災された方、争いの中に或る子どもたちにありますよう祈りたいと思う。
祈祷 愛なる神様 イエスはフィリポに声をかけ、この喜びをナタナエルに告げました。そうして二人はイエスの弟子になります。ナタナエルはナザレに良い者は出ないと思い込んでいました。また、イスラエル人としてこの世的な救い主を待ち望んでいました。しかし、神は最も偉大で、独り子イエスをこの世に遣わし、思いもしない恵み、愛を私たちに注いでくださっています。私たちもナタナエルであり、イエスに招かれている者です。イエスの招きに応え、思いもしない愛、恵みを受け取りたいと思います。そしてイエスの救い、愛をこの世に伝え、現したいと思います。能登半島では地震から約2週間が経ちましたが、ライフラインの復旧などままならない状態です。どうか悲しみ、苦難、不安の中にある方々と主が共にありお支えください。また、私たちをお用いくださいますように。そこでは犯罪も起こっています。人間の欲深さを思います。争いも人間の欲にしか過ぎないと思います。争いで被害に会うのは最も弱い者、子どもたちです。どうか争いをやめる勇気を指導者にお与えください。互いの違いを認め合い、手を結ぶ平安の世となりますようお導きください。一年で最も寒い時です。すべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。受験シーズンとなりました。学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネの手紙(1) 2章 7~10節」
聖書朗読
02:07愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。 02:08しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。 02:09「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 02:10兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「光の中に」
私が学生の頃、友だちから「クリスマスの出来事について疑問がある、おかしい」と質問された。聖書には記されていない、おかしなことをその友だちは述べた。彼は、聖書ではなく、ある本を読んでいたら、そのように書いていたと言うのである。私は彼の話を聞いていくうちに分かったのだが、それはカルト宗教の教えであった。それはとんでもない教えで、都合の良いように聖書を説明していたのである。私は彼に、おかしいと思ったら原点に、つまり、聖書に戻ればいいと述べた。
さて、本日の聖書箇所、ヨハネの手紙が宛てられた教会では、正統なキリスト教の教えとは異なる教えを信じる人々が出てきた。その人々は、教会内においても、正統ではない異なる教えを広めていたのである。異なる教えのことを異端という。ヨハネの手紙では、異端を広める者を「反キリスト」と呼んだ。アンチキリスト、キリストに反する者たちである。イエスの教えとは異なることを述べ、教会の人々を惑わした。そこで、ヨハネの手紙は、正統なキリスト教の教えを示しているのである。この異端の教えに関しては様々な理解があるが、特定できないといってよいと思う。
教会内部から異端が広まっていく。内部からの発生は、広まるのが早い。同時に、それを排除するのは難しいと私は思う。なぜなら、内部で争うことになり、内部分裂を起こしてしまうからである。また、異端が発生したというのは、自分にとって都合の良い信仰、教えを選び、それを信じたということである。自分にとって都合の良い信仰があるのであろうか。信仰とは、人間が選ぶことではなく、神によって捕らえられ、導かれることである。自分の都合の良い信仰は、その時点で、神に対する信仰ではない。では、もし、私たちを惑わせる教えに、考えに出会ったとき、私たちはどうすればよいのか。
本日与えられた新約聖書ヨハネの手紙(1)2章7節以下に心を傾けたいと思う。著者ヨハネは、「愛する者たち」と呼びかけた。それは、兄弟としての交わりを強調する呼びかけである。異端に惑わされていた人々に語り掛けたのである。というのは、ヨハネの教会の一部の人々は、異端の考えを新しい掟と考えていたからである。そこでヨハネは「わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です」と述べた。初めからとは、イエスにさかのぼる。つまり、古いというより、イエスにさかのぼるのだから、キリスト教の掟の根源といってよいであろう。7節の後半に「この古い掟とは、あなたがたが既に聞いていたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています」とある。ヨハネは、イエスが語った掟を、今、新しい掟として人々に記しているというのである。ヨハネの手紙は、イエスが十字架に掛けられてから約80年後に記されたと考えられている。そのような意味では、イエスの言葉は、既に古いものとなっていたであろう。しかし、イエスの言葉が古い、新しいという範疇、考え方で捉えることは、はたして正しいであろうか。
著者ヨハネがそこで示している「古い掟であるが、新しい掟として書いている」という掟とは、何を指しているのであろうか。ヨハネによる福音書13章34節で、イエスは次のように述べている。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。ヨハネの手紙の著者は、イエスの「互いに愛し合いなさい」という言葉を、そこで掟として指していると考えられる。イエスは、新しい掟として「互いに愛し合いなさい」と人々に教えた。さて、「互いに愛し合いなさい」という教えは、新しい掟なのか。旧約聖書レビ記19章18節は、隣人愛について記している。旧約聖書の時代から、隣人を愛せよとの掟はあった。というより、隣人愛は聖書の中心的な教えなのである。
では、イエスが述べた「互いに愛し合いなさい」という掟は、本当に新しい掟なのか。そこで、イエスの生涯の行いを見たいと思う。イエスは、弱い者、貧しい者、神の救い、神の愛を、必要としている人々と共に歩んだ。そして、最期には十字架にかけられたのである。十字架とは、どのような出来事だったのであろうか。神に対して犯した罪を人間は自分の力で償うことができない。そこで、十字架とは、イエスが人間の罪を代わりに贖うため、また、人間の重荷を共に負ってくださった出来事である。その出来事によって、人間は罪から解放され、神との関係が回復された。そしてイエスは、今もなお人間の重荷を十字架で共に負ってくださっているのである。その出来事によって、人間は罪から解放され、神との関係が回復されたのである。イエスの十字架は、人間の罪のためにイエスが自らの命を捧げた出来事であった。つまり、イエスは人間を愛する故に、また、人間を救いたいがゆえに、自分の命を捧げたのである。そこには、究極的な愛がある。互いに愛し合いなさいとイエスが語るとき、人間の重荷を負い、自分の命を私たち人間に捧げた愛が示されているのである。
さて、掟とは、いかなるものか。それは、今生きている私たちが、社会にあって互いに生きるための決まり、その人がその人らしく生きるために守るべきものであると私は考える。イエスが述べた掟には、人間が互いに尊重しあい、一人一人の自由を守るということが背景にあったといえるであろう。つまり、掟とは、今生きている者のためにある決まりである。逆に言うと、掟とは今生きている人が守らなければ、その掟自体は、意味のないものとなる。すなわち、文字や言葉だけの上辺の掟ならば、それは意味が無いのである。その掟を実践した方こそイエスである。
さて、私たちは、道に迷ったらどうするであろうか。元に戻るというのが鉄則であろう。特に、山登りではそうである。ヨハネの手紙が記された時代、イエスが私たちに教えてくださった掟とは異なる教えが教会内に広まっていた。その異端の考えを、新しい掟であると受け取る人々がいた。しかし、それは新しい掟ではなく、神から離れさせ、教会に集う人々を惑わすものだった。兄弟を惑わす教えが本当の掟であろうか。そこに互いに愛し合う愛はあるのであろうか。
キリスト者は、信仰を惑わされそうになったり、誤った教えに影響されそうになったりしたとき、どうすればよいのであろうか。そのときは、イエスの教えに戻るべきなのである。イエスの教えは、古いものではなく、永遠に私たちを導く教えなのである。いや、次のように言えると思う。私たちがイエスの教えを信じ、その掟をこの世で行ったときにこそ、イエスの掟は、ただ表面的な教えではなく、私たちを導くのである。また、イエスの教えは古くからある、いや、初めからある教えである。神は、愛するためにこの世を創った。イエスは神と共にこの世を創造したとヨハネによる福音書1章1節以下にある。つまり、イエスこそ初めからの神の愛をこの世に現わしたのである。そこで、私は次のように考える。イエスが教えてくださった掟、イエスの生涯の歩みを確認し、その教えが現代の私たちにとってどのような意味があるのか、それを問う。イエスの教え、業を、現代の私たちのために語られたものであると私たちが確信し実践したときにこそ、イエスの掟は、今この世にある私たちを導くのである。いや、現代の私たちをも導くからこそ、新たしい掟なのである。つまり、古い、新しいではなく、私たちがイエスの掟を実践することにおいて、その掟は今を生きる私たちの真の掟となる。イエスの掟は、神へと導く光である。というのは、イエスの掟は、神の思いと同じなのである。そこで、私たちがイエスの掟を行ったときに、神の思いと一つとなるからである。私たちは、イエスの十字架によって罪から解放され、新たな者となり、イエスの掟を守ることによって神と一つになり、新たな歩みを始めることが赦されたのである。
イエスの到来によって、人間の利己的な闇に真の光が示された。その光の中を歩むもの、イエスの愛を実践するのが教会である。
私たちは、この新しい年に、イエスの業、教え、掟を土台とし、イエスの掟を実践する者となりたいと思う。今、この世において光の中に導いてくださる掟こそ、新しい掟、いや、真の掟なのです。新しいこの年、互いに愛し合い、分裂ではなく一つとなり光の中、神へと新たに歩む者となりたいと思う。
1月1日に能登半島で大地震が起こった。十字架のイエスこそ今、嘆き、悲しみの中に或る方と共にあり、悲しみを共に負ってくださっていると信じる。互い愛し合う、そのことを私たちは実践したいと思う。
祈祷 御在天の恵み深い神様 御子イエスは、私たちの罪のため十字架にかけられました。それは、人間の罪を贖うためです。同時に、イエスは、私たちに教え、掟を示してくださいました。それは、「互いに愛し合いなさい」という掟です。この掟を実践した出来事こそ十字架の業です。私たちは、イエスの教え、掟こそ、新しい掟であり、この掟を心に刻み、信仰の土台としたいと思います。イエスの掟をこの世に行うことによって光の内を歩むことができます。この新しい年、私たちがイエスの掟を行い、この世に表すことができますよう私たちを強め、お導きください。1月1日、能登半島地震が起こりました。帰省された方々との楽しい交わりのはずが、一転し、苦難となってしまいました。どうか天に召された方々に天における平安をお与えください。苦難、悲しみの中に或る方々とあなたが共にありお支えください。私たちにできることがありましたらお用いください。争いは憎しみ、悲しみしか生み出しません。命を奪うことにどのような正当な理由もありません。争いで被害に会うのは弱者、子どもたちです。病院、インフラの攻撃は、兵士ではなく一般の争いに関係のない人々を苦しめることになります。神は、互いに愛し合うため命をお与えくださいました。どうか争いを止める勇気を指導者たちにお与えください。すべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。受験シーズンとなりました。学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守りください。昨年、一年お守りくださいましたことを感謝いたします。どうか、新しい一年の歩みの上に主の豊かな恵みが全ての人にありますように。この礼拝を通して一週間、一年の罪を赦し、今日から始まりました一週間、一年の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「申命記 34章 1~8節」
聖書朗読
34:01モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、 34:02ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、 34:03ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。 34:04主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」 34:05主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。 34:06主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。 34:07モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。 34:08イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「想起する」
申命記は、モーセ五書の最後の文章である。旧約聖書の創世記から申命記までの五書は、モーセが記したと考えられている。そこで、創世記から申命記は、モーセ五書と呼ばれている。モーセとは、イスラエルの民がエジプトから脱出する時、神から指導者としての役割が与えられた人物である。エジプト脱出は、紀元前1300年ごろ、エジプトが栄えていた時代に起こった。唯一の神を信じるイスラエルの民は、エジプトで奴隷として働かされていた。神は苦しむ神の民をエジプトから脱出させ、神が与えて出さる約束の地へと導いた。それが、出エジプトである。
本日の聖書箇所は、指導者モーセの最期の場面である。神を信じる民をエジプトから導き出したモーセは、神が約束した地、カナンに入る直前に死ななければならなかったのである。約束の地までの旅の途中、イスラエルの民は神を裏切った。その責任としてモーセは約束の地を目の前にして、死が定められたのである。そのことは、申命記3章27節で神に告げられ、32章48節以下で神から指示されている。
そこでモーセは、最期のときを知り、33章1節にあるように「これは神の人モーセが生涯を終えるに先立って、イスラエルの人々に与えた祝福の言葉である」と、民に祝福を祈った。それは、イスラエルの民に対するモーセの遺言ともいえよう。
祝福を語った後、モーセはネボ山、ピスガの山頂に登った(34章1節)。この山頂からは、カナンの地、すなわち神がイスラエルの民に与える約束の地が展望できた。つまり、約束の地は、もう目前に迫っていた。しかし、モーセは約束の地に入ることはできなかった。モーセは、ネボ山を登る途中、何を考えていたのであろうか。そのことは聖書には、何も記されていない。モーセの思いを詮索するのは、聖書に忠実ではないかもしれない。しかし、40年もの荒れ野の旅を終えようとしているとき、モーセは自分の死を覚悟し、神に会い、最期の時を迎えるため山に登ったのである。
出エジプト、約束の地までの歩みは、簡単なものではなかった。エジプトから出ていくため、モーセはエジプト王と交渉したり、魔術的なことを行ったり、エジプトに災害を起こしたりした。また、エジプトから脱出した後も、神が与えてくださる約束の地にたどり着くまで、40年も荒野を旅した。紅海の水が割れる場面は、よく知られていると思う。民族全体というのだからモーセは、大勢の民を導いた。その旅の途中には、多くの困難、過ち、問題が起こった。水や食料がなくなったり、金で神の像をつくり、神でないものを拝む過ちを犯したりする者もいた。多くの問題が起こっても神は、約束の地までイスラエルの民を導いてくださったのである。その40年は、つらく厳しい旅だったはずである。同時に、神が民と共にあり、神の恵みのうちにある40年であったともいえるであろう。しかし、それは過去を振り返るときに思い起こすことができる神の恵み、導きである。
きっと、モーセは山に登る途中、神に選ばれ、神を信じる民をエジプトから連れ出したこと、40年もの荒れ野の旅の出来事一つ一つを思い起こしていたのではなかろうか。それは、その場その場においては辛い出来事であり、一人では乗り切ることができない旅であったはずである。
ネボ山へ登る時、モーセは出エジプトの出来事を回想したのではなく、想起していたと私は思う。「回想」とは過去の出来事を過去の出来事として再認識することである。一方、「想起」は過去の出来事を「いま、ここ」の事柄として受け取ることである。モーセには、死が迫っていた。だから、想起ではなく、走馬灯のように回想したのであろうか。しかし、そうではないと私は思う。というのは、モーセが、想起したのは神の救い、恵みの業だからである。神の恵み、導きは終わることがない。たとえ、モーセが天に召されたとしても、イスラエルの民たちの信仰の旅は、まだ続くからである。
モーセは、40年の荒れ野の旅を想起し、神の恵み深さを感謝し、讃美しながら山に登ったのであろう。7節に「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせていなかった」とある。それにも関わらず、モーセは、何も拒むことなく、約束の地を前にしても、素直に主の命令に従い、神のもとへと行った。体は、まだ元気であっても、神に服従し死という導きに従った。きっとモーセに不安はなく、感謝の気持ちでいっぱいだったのではないかと、私は想像する。
33章で祝福を述べていることからモーセは、40年もの旅を想起し、イスラエルが神の約束の地に着くことを、そして、その場所に着いてからも人々が神を信じて歩むことを望んでいたと、そうなるように祈っていたと言えるであろう。過去において起こった神の恵み、導きを思い出すと同時に、今も、これからも同様に、イスラエルの民に神の導きと守りがあること、そして、イスラエルの民が荒れ野の40年の神の導きを忘れることなく日々歩むことを願いながら山に登っていったと私は想像する。今も、これからも神の恵みの中にイスラエルの民は生かれていることを、モーセは信じていたのである。神の救いは時間という枠を越えて、私たちに降り注がれているからである。
人間は、昔から祭という形で過去の出来事を神に感謝し、将来を祈願するという儀式を行ってきた。過去のことは過去で終わるのではなく、神の恵みがこれからも降り注がれることを、確信するのである。その確信は、将来への希望になる。イスラエルの民も、祭を行っていた。彼らは年間3大祭を行っている。そのうちの一つが、過ぎ越しの祭である。過ぎ越しの祭は、彼らの祖先がエジプトから脱出した記念として、守られている。過越しの祭りは過去の神の恵みを感謝し、今、未来の神の恵み、導きを願うものである。つまり、神の導きは、過去において、今も、そして、未来にもあるのということである。
一方、私たち人間は、苦難、悩みのときに、神を忘れてしまうことがある。また、私たちは神の恵みを、その時に感じることが出来ないこともある。しかし、過去を振り返ったとき、神がいつも共にあり、支え、導きいてくださったことに私たちは気づくのではなかろうか。私たちは過去を振り返り神の恵みを思うと同時に、それが今も降り注がれ、これからも神の導きがあることを知るべきなのである。
きっとモーセは、頂上への途中40年間の出来事を思い巡らし、その中に神の恵みがあったことをかみ締めながら一歩一歩登ったと私は考える。そして、頂上に着き、約束の地を見た時に、神が今まで荒れ野の旅を守ってくれたように、これから入る約束の地においても神の導きが神の民に変わることなくあるとモーセは確信したであろう。
聖餐式には、主の恵みを想起するという意味がある。聖餐式において洗礼を受けた恵み、日々の導き、今もイエスが共にこの食卓にいてくださることを覚えるのである。そして、私たちが行うべき想起とは、聖書の中で起こった過去の出来事を、自分の救いの出来事として受けとることである。私たちは一年の神の恵みをこの今年最後の礼拝において想起したいと思う。この一年、つらく厳しいこともあった。しかし、今ここにあるとは、様々な出来事を乗り越えることができたからであると、私は思うのである。喜び、悲しみなど、いついかなる時も、神がいつも共にいてくださった。出エジプトの神の導きが今の私たちにもある。過去の恵みは過去で終わるわけではないのである。私たちは、神の導き、恵みを、この年の終わりに想起し、感謝したいと思う。そして、神の恵み、導きが、新しい年にもあることを確信し、明日からの新しい年も神に従い歩んでいきたいと思う。神は、昔も、今も、そして、未来も、私たちと共にいて導き、愛し、恵みを与えてくださるのである。この確信こそが、新しい年の歩みの希望となる。
祈祷 恵み深い導き主なる神様 先週は、御子の誕生を祝うことができました。心より感謝いたします。御子誕生の恵みがすべての人にありますように。モーセは、神から与えられる約束の地を前にして、天に召されました。モーセにとって、それは絶望ではなく希望でもあります。神を裏切ろうとも、過ちを犯そうとも、神はイスラエルの民と共にあり、お導きくださいました。モーセは、これまでの導きを感謝し、きっとこの導きがこれからもあることを確信したでしょう。神の導き、恵みは、過去、現在、未来と、変わりなくあるからです。モーセは神の業を想起し、神の愛がこれからもイスラエルの民にあることを信じ、希望を民に託したのです。聖書の出来事は過去の出来事です。けれど、現代の私たちにも神の恵みが同じように注がれています。この一年、神の導き、恵みがあったことを感謝し、新しい年も神の恵みがあふれることを信じたいと思います。今年は、コロナウイルスが5類になりましたが、コロナ、インフルエンザなど、様々なウイルスが流行っています。また、世界を見ると、争い、自然災害が起こりました。どうか、苦難の中に或る方々をお支えください。争いは、負の連鎖しか生み出しません。子どもたちに希望の未来を与えることができますように。また、そのため互いの違いを受け入れ合うことのできる世としてください。病の中に或る方々のことを覚えます。心身ともに癒してください。不安、悩み、悲しみの中に或る方々、介護看病をされている方々、教会に集うことのできない方々をお支えください。受験シーズンとなります。これまで学んだことが十分発揮できますよう健康をお守りください。この一年、神の導き、恵みがあったことを改めて覚え、感謝する時としてください。そして、全ての人に素晴らしい新しい年が与えられますように。この礼拝を通して、一年の罪を赦し、これから始まる新しい年の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場において、その人がその人らしく歩むことができますようお支えください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 2章 1~8節」
聖書朗読
02:01そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 02:02これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 02:03人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 02:04ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 02:05身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 02:06ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 02:07初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 02:08その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「新しい命に生きる」
マリアは、身ごもっていたが、当時のローマ皇帝の命令による住民登録のため、夫ヨセフの祖先の地ベツレヘムに向かっていた。そして、月が満ち、ベツレヘムでイエスを生んだ。
イエス・キリストの誕生の場面で思い浮かべるのは、馬小屋だと思う。その様子は、本日の聖書箇所ルカによる福音書2章1節以下に記されている。住民登録のため、多くの人々がベツレヘムに来ていた。そのため宿屋はどこも満室だったので、マリアとヨセフには宿泊する場所がなく、馬小屋に泊まることになったというのである。しかも、誕生した子どもは飼葉桶に寝かせられたとある。
私は、「飼い葉桶」という言葉で思い出すことがある。私はキリスト教主義の中学校に行っていた。その学校には、キリスト教の授業があった。中学1年生のとき、キリスト教の科目のテストに「誕生したイエスはどこに寝ていたか」という出題があった。私は自信を持って「たらい」と書いた。帰ってきた答案用紙は、当たり前のことだが、バツが記されていた。そのような人間が、皆さんの前で語ることが赦されているのである。そこには、神の導きがあったと言わざるをえない。余談だが、当時、私の家で飼っていた犬は、犬小屋があるにも関わらず、よくたらいで寝ていた。そのせいで「たらい」と私は書いてしまったのかもしれない。
たらいとは、洗濯などを行う容器、一方、飼い葉桶は馬、牛の食べ物である牧草などを入れる容器である。確かに異なる。私は、以前、イエスの眠る飼い葉桶に関して、イエスの誕生における飼い葉桶は聖餐式を暗示しているのではないかと考えたことがある。聖餐式とは、イエス・キリストの十字架と救いの業を想起して、パンとぶどう酒を食すキリスト教の儀式である。イエスは、多くの人と食事を共にした。最後の晩餐で、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」と述べた。飼い葉桶は、牛や馬の食事の入れ物である。そこにイエスが寝かされていた。つまり、食事、パンとしてのイエスが飼い葉桶に暗示されているのではないかと私は考えたのである。なかなか斬新な考えだと私は思ったのだが、古代に、すでにそのような解釈はあった。私の考えなど大したものではなかった。一方、飼い葉桶が聖餐式を暗示すると考える理解は、現在では受け入れられていない。聖餐式とは、イエス・キリストの救いの業を想起し、今、私たちにその救いが起こっていると思い起こすことである。また、イエスを信じる者は、洗礼を受けるため信仰を告白するという意味もある。それはアブハムと神が契約を交わしたように、洗礼を受ける者と神が契約を交わすことと言えるであろう。信仰を告白し、洗礼を受ける。洗礼は、罪が赦され、新たに生きることを意味する。聖餐式は契約の更新である。そこで、罪の赦しが聖餐式にあると理解できる。聖餐式を受けるとは、イエスと食事を共にし、イエスの救い、恵みを受けることを意味する。そして聖餐式は新たなる歩みをはじめる力を与えられる出来事であるといえるであろう。飼い葉桶が聖餐式を暗示するという解釈は、現代では、受け入れられない。しかし、それでも飼葉桶に眠るイエスには、新たにされるという救いが示されているのではないかと私は思うのである。
そこで、旧約聖書イザヤ書1章3節を見ると「牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない」とある。牛やロバも主人が食料を入れてくれる主人の飼い葉桶を知っている。すなわち、誰によって生かされ恵みを与えられているか、牛やロバは知っている。しかし神の民であるイスラエルは知らない。また、神を見分けることもできないのである。つまり、神はイスラエルの民を選び導いたが、彼らは神に背いたとイザヤ書は非難しているのである。イスラエルの民の背きは、神にとって苦難であり辛いことだったと言えるであろう。牛やロバですら飼い主に忠実であるのに、イスラエルは神の恵みを理解しなかった。神に背いてしまった。それは罪であり、人間の罪は自然の法則や理性にもおとる。人間には自然から学ぶことが多くある。
そこで、イエスが飼葉桶に眠るということに暗示されていることがあると考えられる。飼い葉桶で眠るイエスの許に、天使から救い主の誕生を聞いた羊飼いが訪れた。彼らは飼い葉桶の中に幼子の救い主を見つけ、神を讃美した。つまり、羊飼いは主人の飼い葉桶を知ったのである。預言者イザヤは、1章3節でイスラエルの民が神に背き、神の恵みを忘れてしまったと嘆いていた。その嘆き、苦言がイエスの誕生により撤回されたということが、イエスの眠る飼葉桶、そこに羊飼いが訪れたことに意味されているのである。
飼い葉桶を知らなかったイスラエルの民は、誕生したイエスの許に羊飼いが訪れたことにより、主人の飼葉桶を知った。つまり、そこに神の導きがあり、神の恵みが現われたことをイスラエルの民は知った。そこで、旧約聖書イザヤ書1章3節の苦言が撤回され、イエスの誕生と共にイスラエルの新しい歩みが始まった。しかも、神の救いを知ったのは、イスラエルの民だけではない。この福音書を読む者たち、私たちも、飼い葉桶に眠るイエスのいる馬小屋に招かれているということに他ならないのである。イエスの誕生は、すべての人が神の愛を知り、神を信じるよう導いてくださる業なのである。
イスラエルの民は、神に従わなかった。しかし、イエス・キリストによって罪赦され、神との関係が回復し、すべての人がイエスを神の独子であると信じ、従い、救いに与るようになるということが、飼い葉桶に眠るイエスに暗示されているということである。
そこで、イエス・キリストの誕生をお祝いするということは、今まで気づくことができなかった神の愛、恵みに気づくことができ、イエスの誕生と共に、私たちも新たなる者、新たなる命として歩むことができるということを意味する。また、「布にくるんで」とは、当時としても当たり前の出来事のようである。同時に、旧約聖書では、新生児を布でくるむ行為は親の愛情とケアを表す表現として用いられたという。つまり、布にくるまれたイエスが飼い葉桶で寝るというのは、神の愛によって包まれている状態であると言えるであろう。イエスと同様に、私たちも神の愛によって包まれているのである。神による、ただ人間を救いたいという愛なる招きがそこにはある。つまり、新しい命を生きるように、全ての人が神の愛に包まれ、恵みが与えられているということであると言えるであろう。
イスラエルの民は神に背いた。しかし、神は神自ら独子イエス・キリストを通して背きという罪を赦し、そして新しい始まりのときを与えてくださった。クリスマス、御子の誕生、飼葉桶で眠る御子、そこには新しい歩みの力を与えてくださる神の愛がある。そして、私たちも御子の誕生と共に新しい命に生きる時が神によって与えられているのである。そのことこそ、私たちの希望となる。神の一人子の誕生を祝うこのとき、神の愛を確信したいと思う。
祈祷 独子をこの世に遣われた愛なる神さま 本日、御子イエス・キリストの誕生を讃美するためこの御堂に招かれたことを、心より感謝いたします。御子の生涯は、この世に愛、救い、希望を与えてくださるものです。御子イエスの誕生こそ、人間の罪を赦し、神との関係が回復され、新しい歩みを始めるための救いの業です。どうか、悩み、悲しみ、苦難の中にある方々に新しい歩み、その希望を照らして下さいますように。御子こそわたしたちを救うためにこの世に遣わされたことを、この時、確信させてください。そして、神の愛、救いを多くの人と分かち合うことができますよう、私たちをお用いください。争いは人間の欲であり、正当な理由などありません。神は、愛し合うためこの世を創られました。自己主張ではなく、話し合い、和解できますようお導きください。また、自然災害で被災された方々のことを覚えます。共にてお支えください。病の中にある方に心身ともに癒しを与え、悲しみ、嘆きの中にある方とあなたが共にいて重荷を共に負ってください。介護看病をされている方をお支えください。それぞれの場、日本、世界の各地で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ、御子イエス・キリストの誕生を共に祝う時としてください。御子誕生の恵みが全ての人にありますように。この礼拝を通して、これまでの一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ローマの信徒への手紙 1章 1~4節」
聖書朗読
01:01キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―― 01:02この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、 01:03御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 01:04聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「弱き只中に」
説教音声
新約聖書ローマの信徒への手紙は、イエスが十字架にかけられてから約20年後に、パウロによって記された。当時、ユダヤ教は、イエスを信じる者を迫害していた。というのは、神から与えられた律法を、イエスは大切に守っていないと、ユダヤ教指導者たちは考えたからである。パウロもユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害した。しかし、パウロは復活のイエスに出会い、イエスの十字架にこそ救いがあることに、そして、イエスこそ神の独子であることに気づいたのである。しかも、パウロは、イエスの十字架によって、ユダヤ人だけにとどまらず、全ての人が神と契約を結ぶことができるようになったと信じ、ユダヤ人以外の異邦人へとイエスの救いを述べ伝えたのである。
ユダヤ教は、神から与えられた教え、すなわち律法を守ることによって救われると信じられていた。しかし、人間はその律法を、掟を完全に守ることができたのか。しかも、律法を守らないために病気になったと考えられた。そこで、病人は罪人のように扱われてしまった。律法を守る者は強者の立場にあり、律法を守れない者は罪人、弱者として差別を受けることになった。そこに、本当に救いがあるのであろうか。人間は、強い存在、完全な存在なのであろうか。
さて、ローマの信徒への手紙1章1以下は、パウロが、その後に会うローマの教会の人々への自己紹介である。パウロは、自分を使徒であるといった。使徒とは、イエスの12弟子のことである。しかし、パウロは、生前のイエスに出会ったことはなく、直接教えを受けてもいなかった。パウロは、当時のキリスト教の中心であったエルサレム教会から、使徒と認められていたわけでもなかった。しかも、エルサレム教会は、ユダヤ人以外に神の救いを述べ伝えようと積極的には思っていなかったと考えられる。そこで、パウロとエルサレム教会の関係は、必ずしも良いものではなかった。しかし、パウロは、復活のイエスに出会い、イエスから全ての人に神の救いを述べ伝えるよう直接使命を受けたので、自らを使徒であると考えていた。1章1節にある「選び出され、召されて使徒となったパウロから」という言葉は、自分は使徒であるということ、神に選ばれた者であるということを、挨拶で主張している。つまり、パウロは迫害されていたキリスト者となったのである。
そのように見ると、パウロはとても強い人だったのではないかと思うかもしれない。しかし、そうではなかったと私は考える。パウロは、自分の力ではなく、神、イエスから力を与えられたと考えた。ユダヤ教から迫害を受けていたのだから、イエスを述べ伝えることは、苦難を受けるということであった。一方、それはイエスが十字架で負った苦難に与ることなのである。だから、イエスこそ苦難を共に負い支えてくださるのだと、パウロは理解した。そのように信じたからこそ、パウロは苦難を負ってでもイエスの救いを述べ伝えることができたのである。すべて神の力によって、神の計画によって、神の僕としてパウロは用いられていると信じていた。決して自分を誇ることをしなかった。いや、パウロは自らの弱さを誇っていたのである。
ローマの信徒への手紙1章3、4節に「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」とある。そこから、イエス・キリストは、復活した後に、神の子とされたと読むことができる。そうであろうか。ここでは、イエスが死から復活したということ、そして、イエスがイスラエルの王ダビデの家系の出であるということが示されている。というのは、旧約聖書に、救い主はダビデの家系から出ると預言されているからである。
パウロは、生前のイエスに会ったことがない。パウロは、イエスの生前の活動を記していない。また、パウロはイエスの十字架に救いがあると述べ伝えている。つまり、パウロは、イエスの誕生に関心を持っていなかったと理解できる。本当にそうだったのか。そこで、ローマの信徒への手紙の8章3節を見ると、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」とある。人間の罪を取り除くために、イエスは罪深い人間と同じ姿になって、十字架に掛けられたというのである。私は次のように理解したい。イエスは神の子として神と同じ権能を持っておられた。同時に、人間の罪を取り除くために人間となり、人間としての苦難を受け、人間の重荷、罪を知り、そして、人間の重荷、罪をその身に負われたのである。イエスは神の子であり、聖なる方である。一方、イエスは人間として弱い者となられた。どちらかではなく、どちらも、なのである。つまり、イエスは聖なる神の子であると同時に、弱さを持った人間でもあるということである。1章3節にある「肉によれば」という言葉は、ダビデの家系から生まれたという意味しかないという理解を支持する学者の方が多い。しかし、パウロが自己紹介で「肉によればダビデの子孫から生まれ」と記したことには意味があると私は思っている。なぜなら、この箇所における自己紹介とは、自分の信仰を相手に示すことだからである。
肉をまとっている人間は弱く、かつ滅びゆくものである。弱い者である。だから、自分の利益になることばかり心を傾けてしまう。そのような意味では、人間こそ神に反し罪を犯してしまう可能性のある存在である。そこで、イエスが肉をまとい、弱くかつ滅びゆく者としてこの世に誕生したことにこそ、救いがある。つまり、聖なるイエスは自ら人間の弱さの中に入ってくださったのである。それは永遠である神の御子が、肉によれば滅びる者となってくださったとも受け取れるであろう。
そこで、パウロが記したフィリピの信徒への手紙の2章6~8節を見ると、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とある。「無にして」とは完全に人間となったということであり、イエスは徹底的に低い者、人間と同じ者になったということである。十字架は弱さの象徴と言えるであろう。なぜなら、十字架刑と判決するのは、この世の権力者だからである。十字架につけられる者は、この世の権力者の前に何もできない弱い存在なのである。また、この世の権力に敗北した者ともいえるであろう。しかし、弱さの象徴である十字架によって、本当の救いが現れた。つまり、今もなおイエスは、十字架において、人間の弱さ、重荷、罪を共に負ってくださっているのである。そして、十字架を通して罪は帳消しになり、神と人間との関係は回復した。キリスト教の罪とは神を裏切ることである。だから罪を赦すことができるのは神のみなのである。
読み込みすぎかもしれないが、私は思う。「肉によればダビデの子孫から生まれ」、ダビデはイスラエルを繁栄させた偉大な王、文武両道、信仰にも長けた人物である。しかし、ダビデは完全な存在ではなかった。罪を犯した。部下の妻を奪い、また、その夫である部下をわざと戦死させた。ダビデでさえも罪を犯す弱い人間なのであった。イエスは、弱さの只中で生まれたのである。
私たちは強さを求め、強さを誇ってしまう。しかし、神の一人子が弱く、滅びてしまう人間の只中に誕生したということにこそ、私たちの救いがある。私たちは、強さを誇らなくてもよい、律法を完全に守る強さが必要なのではなく、弱いままでいい。神は無条件に弱い人間を愛してくださっているということを、イエスの生涯を通して示してくださったのである。私たちは、そのことを信じ、感謝したいと思う。神の子イエスが人間として誕生した。イエスこそ弱さの中に入り、人間の弱さをありのまま受け入れ、救いへと導いてださる。弱いことがいけないのではなく、弱いからこそ互いに支え合い生きることができるのだとイエスは教えてくださったともいえるであろう。弱い私たちを、ありのまま神は受け入れてくださった。それがイエスの誕生の意味なのである。
祈祷 いつくしみ深い神様 神様、あなたは、一人子イエス・キリストをこの世にお遣わしになられました。それは、弱くかつ滅び行く者として、この世に誕生させたということです。御子が人間の弱さの只中に入り、弱さを理解し受け入れ、救いへと導いてくださっていることを、心より感謝いたします。わたしたちが、強さを求めるのではなく、ただ弱いからこそ神、イエスの救いを必要とする。神は、ここにこそ救いを示してくださると信じます。どうか、御子の誕生にこそ神の愛があることを確信させてください。そして、その愛を分かち合うことができますよう強めてください。何より、いついかなる時も、独子イエスが共にいて、お支えくださいますように。アドベント第三礼拝です。このとき神がなぜ独り子をこの世に遣わしたのか。また、神が私たちに与えてくださったものは何か、それを考える時としてください。クリスマス、御子の誕生を待ち望むこの喜ばしい時にもかかわらず、世界では争いが行われています。争いは憎しみの連鎖しか生み出しません。どうかすべての人が互いの違いを受け入れ合い、手を結ぶ世としてください。寒暖の差が大きく、体調を整えるのが大変な状態です。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に在る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。受験シーズン、論文提出の時期になります。これまで学んだことが十分発揮できますよう健康をお守りください。自然災害などで被災された方々をお支えください。次週は、クリスマス礼拝、イブ礼拝です。御子の誕生を多くの方々と祝うことができますようそれぞれの健康をお支えください。この礼拝を通してこれまでの一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 37編 1~6節」
聖書朗読
37:01【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。/37:02彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。/37:03主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。/37:04主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。/37:05あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい/37:06あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「光を待ち望む」
詩篇37編全体に心を傾けたいと思う。1節などにある「悪事を謀る者」とは、つまりは「悪人」であると、12節などにある「主に従う者」とが対比されている。「主に従う者」とは、意味としてはその通りなのだが、「義人」「正しい人」と訳したほうが直訳であると思う。では、「正しい人」とはどのような人なのか。詩編のこの箇所では「まっすぐに歩む人」「無垢な人」「平和な人」であると同時に、「貧しい人」「乏しい人」であるというのである。一方、「悪人」は、「正しい人」を抑圧する者、「主に逆らう者」であると同時に、「繁栄の道を行く者」であるというのである。応報思想ではないといえるであろう。正しい人が悪人により抑圧を受ける。つまり、「正しい人」を抑圧された社会的弱者に、「悪人」を抑圧する富裕層に重ねているのである。そこから、当時の時代状況が分かる。一方、私は、今もなおそれは続いていると思うのである。政治家はキックバックで懐に金銭を入れる。戦争では、最新兵器により弱者である子どもたちが大きな被害を受け、武器商人は儲ける。詩編37編が記された時代の状況も、富のある者が弱者を抑圧していたということである。そこに希望があるだろうか。
さて、死海文書なるものを知っておられようか。1947年代、イスラエルの死海という湖の近くで、ユダヤ教の古代の巻物が発見された。死海文書には、クムラン教団の文書も含まれていた。そのクムラン教団の遺跡も発掘された。紀元前2世紀の後半から紀元前1世紀中ごろまで活動していたと考えられる。クムラン教団とは、ユダヤ教のひとつの集りで、修道院的な共同生活を送っていたと考えられる。クムラン文書の中に、この詩編37編の解釈の断片が発掘されている。クムラン教団は、自分たちを37編11節などの「貧しい者、神の祝福を受けた者」と受け取っていた。一方、弱者を抑圧する悪人を、自分たちに敵対する者と考えた。現代の学者のクムラン解釈の理解では、クムラン教団に敵対する者はファリサイ派、サドカイ派ではなかったかというのである。そして、10節の「しばらくすれば」という言葉を、終末、世の終わりの救いと理解していた。ユダヤ教内部で抑圧があったということにおどろくのではなかろうか。イエスも同様であった。イエスはユダヤ人であり、神の愛を解いた。しかし、ファリサイ派、サドカイ派、ユダヤ教の権力者は、イエスを迫害した。一方、イエスの教えは、遺跡のように埋もれることはなく、異邦の地である日本にも告げ知らされた。そこに神の導き、計画があったと思わずにはいられない。
では、私たちは、詩編37編をどのように受け入れるべきなのであろうか。「正しい人」「義人」とは誰か。最初に述べたが、12節にあるように「主に従う人」であるといってよいであろう。では、主に従う人とはいかなることなのか。そこで5~6節をみよう。「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい/あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」とある。私が今回、イエス・キリスの誕生を待ち望むアドベントに、詩編37編を選んだ理由が、この聖句にある。「義人、主に従う人」とは、いかなる人か。「あなたの道を主にまかせよ」と5節にあるように、すべてを主にまかせている者こそ「義人、主に従う人」であると私は思う。その人こそイエスである。先週の祈祷会では、ルカによる福音書の19章、エルサレム入場の箇所を学んだ。イエスは子ロバに乗り、エルサレムに入った。エルサレムには神殿があり、イエスに敵対するユダヤ教の指導者や権力者たちのいる場所だった。つまり、イエスは、自分を迫害する者たちの中に入っていったのである。エルサレム入場。群衆は歓喜の声でイエスを迎えたように思うが、ルカによる福音書では、それとは違うように受け取ることができる。次は理解のひとつである。イエスを歓喜の声で迎えたのは、イエスの弟子たちだけであった。逆に、群衆はイエスを敵視するファリサイ派の側にいたと読むことができる。つまり、イエスは苦難の中に入っていった。しかも子ロバという弱い乗り物に乗っていたのである。子ロバに乗るということは、旧約聖書に預言されていた。つまり、イエスは神に従順で、神が計画した十字架という苦難の道を進むことを、神にまかせていたのである。イエスこそが正しい方であり、敵対する者から裁きに会う。6節に「あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」とありる。新共同訳聖書では「裁き」と訳されているが、「公正」と訳しているものの方が多いように思う。神を信じる者の正しさを神が光り輝かせ下さるということであろう。では、神の正しさ、義をこの世に現わした方とは誰なのか。
詩編37編は、応報思想ではない。正しい者が抑圧を受け、貧しくなる。一方、悪人は弱者を抑圧して、この世の富を得る。では、どうして3節のように「善を行え」というのか。抑圧を受けるためであろうか。そうではない。最後の39~40節を見ると「主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」とある。2000年前のクムラン教団が確信していたことこそ、それである。神を信じ従うことによってこそ助けてくださる。主に逆らう者から逃れさせてくださる。そのことを、クムラン教団は信じたのだと思う。
そこで、「善」とは何であろうか。人間的な考えで正しいことであろうか。私はそうではないと思う。「善」とは、神の義、すなわち、神の独子がこの世に示した神の愛であると思うのである。そこで6節には「あなたの正しさを光のようにあなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」とある。イエスがこの世において行ったことこそが正しさであり、神の義である。そして、神の義が光のように輝くのだと、私は理解したい。その最も大いなる光の業こそ、十字架である。イエスは十字架につけられることを知りながら、神の御計画にまかせ、エルサレムに入った。イエスの苦しみは、その親である神の苦しみである。私たちの罪、重荷を、イエスは十字架においてその身に負い、神と人間との関係を修復してくださった。人間は、37編にある悪人のように自分の欲望に従い、富を得るために弱い者たちを抑圧してしまうことがある。それは、神の義に反対する行為である。
イエスこそ、神の義、正しさをこの世に光として示した。私たちが歩むべき道を灯す光こそ、イエスなのである。イエスは、神の義、神の愛を光としてこの世に輝かせた。そこで、私たちが道を主にまかせた時にこそ、善、正しい行いを為すことができる。そして、どのようなこの世的な闇においても、神に従う業は光に照らされるのである。そこに希望がある。イエスこそ光としてこの世を照らし、また、私たちの善を光り輝かせるのである。御子イエス・キリストの誕生を待ち望むとは、この世の闇を照らす光を待ち望むことに他ならないのである。それは、神が愛によって計画され、イエスによって示された救いである。詩編37編では、「地を受け継ぐ」という言葉が鍵の言葉になっている。約束の土地を受け継ぐのではなく、神の愛、その信仰を受け継ぐということであろう。神の愛を受け継ぐことによってこそ、善を行うことができる。その善こそ、イエスに倣う業であり、この世の闇を照らすことができるのである。まず、イエスが自ら善を行い、光をともしてくださった。それは、イエスが、私たちのために歩むべき道を光として照らしてくださったということである。イエスの業を感謝し、また、そこにこそ希望、救いがあることを確信したいと思う。
祈祷 義なる神様 アドベント第二の主日となりました。御子の誕生を待ち望みます。人間の欲は深く、富を得るため他者を抑圧してしまいます。義しい者が平安に至るとは限らない世の中です。このような欲にまみれているこの世において、神は正しい者、神を信じる者を守り、救いへとお導きくださいます。その導き手として、イエスはこの世の闇を照らす光として遣わされました。イエスこそこの世を照らし、神の義をこの世に現わしてくださいました。神の義を行うことができますよう、また、神の愛を多くの人と分かち合うことができますよう、弱い私たちを強めてください。争いは悲しみ、憎しみしか生み出さず、負の連鎖となります。争いを止める勇気を指導者にお与えください。互いの違いを受け入れ合う世としてください。今年は、寒暖の変化が大きくなっています。体調を崩されている方も多くおられると思います。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。受験シーズン、論文提出の時期になります。これまで学んだことが十分発揮できますよう健康をお守りください。自然災害などで被災された方々をお支えください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 6章 8~13節」
聖書朗読
06:08そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」/06:09主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。/06:10この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」/06:11わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」/06:12主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。/06:13なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「聖なる切り株」
イスラエルとハマスとの争いはこれからどうなるのであろうか。最近、あるジャーナリストの記事を読み、恐怖を覚えた。「イスラエルは、戦争犯罪を行ってまでも、病院、学校を攻撃している。イスラエルは、北から南へ攻撃しガザでパレスチナ人が住めなくなるように破壊している。そして、最終的にはガザ市民をエジプトに追い出すことを目的としている。エジプトは、ガザ市民をこれまで拒否し、検問所を硬く閉ざしていた。しかし、人道問題が大きくなると、エジプトはガザ市民を受け入れざるを得なくなる。実は、ハマスとイスラエルは、そのことで目的が一致しているのではないか。」というのである。あくまでも、そのジャーナリストの憶測である。この争いは、神の意志なのであろうか。
さて、本日からアドベントである。アドベントとは、キリスト教の救い主イエス・キリストの誕生を待ち望むときである。イエスの誕生は、旧約聖書に預言されていたとキリスト教では考える。マタイによる福音書の1章23節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」とある。ヨセフが天使から聞いたお告げである。それはイザヤ書の7章14節にあった預言である。そのことから、アドベントでよく読まれるのが、以下のイザヤ書の箇所である。8章後半から9章、11章、52章後半から53章などである。
私は、説教の準備をするときに、それらの箇所を個別に取り上げてきた。一方で、今年度から、説教においてイザヤ書を読み続けている。イザヤ書の預言は、個別ではなく、流れがある。救い主誕生の預言も、流れを意図して編集されているという理解が目に止まった。そこで私なりに考えてみた。
私が思うに、今日のイザヤ書6章8節以下は、救い主の誕生というより、イザヤが預言者になるときの出来事が記されているという理解である。私もイザヤの召命記事として、この箇所は好きである。今日注目したいのは12、13節である。この箇所は、後で付け加えられたと考えられる。6章にあるように、イザヤ召命の約150年後、南ユダは紀元前586年にバビロニアによって滅ぼされた。その後のこととして6章に、12、13節が付け加えられたのではないかと考えられるのである。
12節に「主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。」とある。バビロニアに負け、ユダの権力者たちの多くがバビロニアに連れていかれた。それは、バビロン捕囚と呼ばれる。その出来事が、12節の背後にあるのではないかと考えられる。そこで、13節には「なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」とあるように、ユダの10分の1しか残らない。いや、それも焼き尽くされる。つまり、多くのユダの民が戦争などで殺されるであろうという。僅かの者しか残らない。しかし、神は残りの者を用いて、イスラエルを復興させる。神はイスラエルの民を見捨てず、導いてくださるのだというのである。テレビンの木、樫の木は切り倒される。しかし、切り株が残る。その切り株こそ、聖なる種子である。「種子」、つまり、ここから芽が出て若枝が育つ、という預言である。その種子は、誕生を意味し、7章14節の「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」につながる。神が共にいる方の種子として、男の子が生まれる。そのことについては、8章23節の後半に「先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」とある。ガリラヤは、北イスラルにあり、異邦のアッシリアに占領された。その異邦の地であるガリラヤが栄光を受けるとは、まさしくイエスの活動の中心地こそガリラヤであり、イエスの父、母もガリラヤに住んでいたのである。9章5節にあるように、ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。種子として救い主が誕生する。インマヌエル、神が共にある救い主こそ、力ある神、平和の君なのである。
では、その平和の君は、どこから出てくるのか。11章1、2節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。」とある。エッサイとは、ダビデ王の父親である。エッサイという株から芽が萌出るとは、まさしくダビデを示し、そのダビデの家系から、救い主は出るのである。では、救い主は、どのような人物なのか。その後、主の僕についていくつか預言があり、最終的に53章11節後半の「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」となる。その救い主は、戦争で勝つ権力者ではない。人間の弱さのただなかに入り、そして、人間の罪、苦難、弱さを共に負ってくださる方なのであるということが示されているのである。
さて、ではなぜ、6章8節以下が救い主の預言と関係あるのか。確かに13節に「その切り株とは聖なる種子である」とあるように、その株にある種子は、聖である。聖とは、神のみ。つまり、聖なる種子があり、そこから若枝が育つ。だから、この箇所は神が遣わす救い主の預言であると理解できるであろう。しかし、それだけではない。そこで、9、10節を見ると「主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」と書かれている。この箇所は、頑迷預言と言われている。イスラエルは頑なになり神に心を閉ざしてしまう。確かに、イザヤは、常に神に依り頼むべきである。頼ることができるのは神のみだと述べている。しかし、王たちは他国に助けを頼み、結局、他国の支配下に置かれることになる。つまり、ユダの王は、神に心を開かず、自分の戦略に頼ってしまった。そこで、11節にあるように「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで」となった。人は、神に背き、危機が訪れる。つまり、神に対する裏切り、罪がここに預言されているのである。そこで、民は僅かの者しか残らない。いや、切り株しか残らない。すべて荒廃し、絶望の状況になる。しかし、その絶望の状況において、神は新たな救い、つまり切り株にある聖なる種子から若芽を萌出させ、救いへと導いてくださるというのである。
そのように理解していくと、この6章は、救い主預言の最初、しかも、人間の罪をも預言し、そして、その罪のただなか、絶望しかない状況においても、必ず神の救いが現れるということを言っている。いやそれだけではなく、人間の罪を負ってくだり、神との関係を修復してくださる罪の赦しが暗示されている。つまり、救い主の預言の最初であり、しかも、その救いが示唆されている。まさしく、救い主預言の前文といえよう。救い主預言のはじまりがそこにあるといえるのではなかろうか。
今もなお、人間は争いを止めることがなく、また、様々な悲しい事件が相次いでいる。人間の欲望には終わりがない。希望がないようにも思える。しかし、どんなに希望がない世でも、全てが刈り取られたような状況においても、神は必ず救いを示し、導いてくださるのである。その希望が、この箇所に記されている。そのように、イザヤは神の救いがあることを預言している。救い主イエスの誕生を祝うとは、どんなに希望のないとき、人間の欲がこの世をどんなに覆うとも、神は必ず救いへと導いてくださるということを意味している。神は、独子をこの世に遣わしてくださった。その救いは、今もなお続いているのである。神の独子の誕生を待ち望む、それは、神という希望があるということを覚えることなのである。神を信じ、依り頼み、従うことにこそ希望と救いがある。
祈祷 導き主なる神様 御子の誕生を待ち望むアドベントになりました。多くの人と御子の誕生を待ち望み、祝いたいと思います。人間は、欲望に従い、神を裏切ってしまいます。それゆえ自ら滅びへと至る者と言えるのかもしれません。一方、神はこの世を創り、被造物をお導きくださいます。神は、絶望だと思われる場においても、お導きくださいます。その最も大いなる希望の出来事こそ、御子イエスの誕生です。御子イエスを通して、神と人間との関係回復があり、私たちは今もなお神にお導かれています。御子の誕生を祝うとは、絶望においても必ず希望があるという喜びの知らせです。どうか、この世に希望を言う光を今年も照らしてください。争いの背後には人間の欲があります。人は争うために命が与えられたのではなく、愛し合うためであるということを確信させてください。指導者に神の愛、意志を知らせてください。私たちにできることがありましたらお用いください。12月になりました。寒さが増してまいります。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。受験シーズン、論文提出の時期になります。これまで学んだことが十分発揮できますよう健康をお守りください。自然災害などで被災された方々をお支えください。この礼拝を通して一週間、1ケ月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、新しい月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 15章11~24節」
聖書朗読
15:11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 15:12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 15:13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 15:14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15:15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 15:16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 15:17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 15:18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 15:19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 15:20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 15:21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 15:22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 15:23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「カッコいいよ」
ルカによる福音書15章11節以下、父親がまだ生きているのにもかかわらず、息子は、自分の分の財産をもらった。私たちには、そのようなことが出来るであろうか。
その息子は、親の枠、親の領域から逃げ出そうとしたと言ってよいのかもしれない。親の領域からでたいと思うのと同時に、外の世界に憧れたのかもしれない。誰もが青年時代に思うことであろう。息子が夢見た外の世界は、楽しいことがいっぱいの夢の世界だったのかもしれない。成長すべきなのに、成長するという現実を受け入れることができず、殻に閉じこもっているような場合も、本来自分があるべき状況、自分自身を見つめることができない状態と、行うべきことを行えていない状態といえるのではなかろうか。
人間には、そのような時があると思う。いや、そのような時が必要なのだと思う。それを反抗期というのではないだろうか。子どもから大人になるために。父なる神に対しても、そのようなときがあるのではないだろうか。
さて、結局、その息子は、現実と向きあわなければならない状況になった。それは、父からもらった財産を、お金を使い果たしてしまったことによって起こった。周りの人たちは、その息子のことが好きで仲良くしていたのではなく、持っていたお金が人を集めていたに過ぎなかった。息子はすべきことをしていなかった。その現実と向き合わなければならなくなった。そして、何もかも失った息子は、父親の元に帰ることに決めた。いや、失っていないものがあったことに気づいたのである。
一方、父親は、帰ってきた息子を無条件に受け入れた。11節以下は、放蕩息子のたとえと呼ばれている。しかし私は、無条件に息子を愛し受け入れる父親のたとえだと思う。その父親こそが神なのである。
さて、息子は父親に次のように言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。それは、悔い改めと言ってよいと思う。自分が行うべきこと、いるべき場、自分がどのような存在であるかに、その息子はそのことに気づいたのである。その息子がいるべき場所、そこは自分の生まれ育った場であり、そこで働くということ、親が育ててくれたということに気づいたのである。次のように言えるであろう。私たちのいるべき場所が示されているのだと。父親である神こそ私たちに働きかけてくださり、私たちは神様のもと神様の働きのもとでこそ、生きることができるということであると。私たちには様々な誘惑があり、幻想を抱いてしまうことがある。しかし私たちは、神様の許でこそ生きることができるのである。
さて、私はこの箇所を次のようにも考える。もし、息子が謝らなかったとしても、彼の父親は無条件に息子を受け入れてくれただろうと。自分のもとに帰ってきてくれたことを父親は喜び、受け入れたであろう。それが私たちの神様なのである。
息子は、様々な失敗をしてしまった。けれども「それでいいよ、カッコいいよ」と受け入れてくれる存在があった。甘えたいとき、失敗したとき、何があっても神様は私たちに「カッコいいよ、それでいんだよ」と受け入れてくださる。それが私たちの神様なのである。私たちは、受け入れられたとき、新しい力、勇気が与えられる。失敗し、罪ある者であるにもかかわらず、ありのままを受け入れられたので、自分自身を見つめることが出来て、神様の愛を知って、自分自身を肯定するからである。だからこそ、神のもとで私たちは私たちという存在として生きることができるのである。そして、神様に受け入れられているからこそ、私たちは神を信じ、自分自身を受け入れることができるのではないだろうか。そのとき、きっと私たちは、自分だけではなく、他の人を受け入れることができる。そして、私たちは他の人にも「カッコいいよ、そのままでいいよ」と述べることができ、神様を中心とした真の交わりを持つことができるのである。
祈祷 全てをありのまま受け入れてくださる神様 私たちは、もっと素晴らしいものがあるのではないかと幻想を抱き、神様から離れてしまうことがあります。しかし、神様のもとでこそ、私たちは生きることができ、あなたのもとでこそ私たちは素晴らしい恵みを受け、また、私たちが私たちとして生きることができます。同時に、あなたはどのようなことがあろうと、私たちをありのまま受け入れてくださいます。あなたの愛を素直に受け入れ、信じることのできる者としてください。そして、神さまに受けいれられている者として、互いに受け入れ会う者となりたいと思います。本日は、収穫感謝。合同礼拝、子どもと共に礼拝を守っています。心より感謝いたします。あなたは全ての者を招いてくださいます。どうか、私たちが全ての者と共に讃美の時を持つことができますよう、お導きください。また、今日ここに集められました子どもたち、全ての者を祝福してくださいますように。冬の到来を感じるようになりました。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。自然災害などで被災された方々をお支えください。争いは人間の欲望でしかありません。どうか欲望ではなく神様の愛をもって指導者が働きますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 10章20~27節」
聖書朗読
10:20その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。/10:21残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。/10:22あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びは定められ、正義がみなぎる。/10:23万軍の主なる神が、定められた滅びを全世界のただ中で行われるからだ。/10:24それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。たとえ、エジプトがしたように/彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても。/10:25やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る。わたしの怒りは彼らの滅びに向けられる。/10:26万軍の主は、彼らに対して鞭を振るわれる/かつて、オレブの岩で/ミディアン人を打たれたように。またエジプトでなされたように/杖を海の上に伸ばされる。/10:27その日が来れば/あなたの肩から重荷は取り去られ/首に置かれた軛は砕かれる。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「残りの者」
私は大学生のときに、中学生に家庭教師のアルバイトをしていた。その中学生の彼は、身長が高くならない小人症という症状を持っていた。そのために骨をわざと切り、少し間をあけ、骨が成長するようにし、少しずつ身長を高くするという手術を行っていた。それでも、中学生なのに彼は120㎝ほどだったであろうか。手術のため、その入院のため、彼はあまり学校に行くことができなかった。その遅れを取り戻すため、私が数学と英語を教えていた。頭のよい子だったので、数学はすぐ平均点ほどまで達することができた。
当時は、クローンが話題になり、倫理的な問題が取り上げられていた。彼と、どうしてそのような話になったのか覚えていないが、私はクローン技術の発展はどこまで行うのか考えるべきだと彼に述べた。すると彼は、「医学の発展がなければ、僕は赤ちゃんの頃に死んでいた」と言った。私が述べたかったこととは異なることを、彼は受け取っていた。一方で私は、彼にとっては、生かされているという思いが常にあることに気づいたのである。
私は礼拝の牧会祈祷の中で「医学がイエスの奇跡を担えるものとしてください」という祈りをしていたが、現在は祈りを短くするためその部分を割愛している。私たちには奇跡を行うことはできない。一方、私たちはイエスの愛に倣い、生きる者である。医学もその一つである。また、イエスのような思いをもって医学を行なわねばならないと思うのである。私たちは、神に生かされている命である。だからこそ、神から与えられた命を互いに大切にすべきだと考えている。中学生である彼に命の尊さ教えてもらい、神に生かされてある命を大切に思うことができた。
さて、本日の聖書箇所、イザヤ書10章20節以下に心を傾けたいと思う。21節「自分たちを撃った敵」、24節「アッシリアを恐れるな」とある。そこからアッシリアの脅威がイスラエルにあったことがわかる。紀元前700年代、アッシリアが勢力を伸ばし、パレスチナ地方に攻め入ってきた。そこで、紀元前733年、シリアと北イスラエルはアッシリアに対抗するため、同盟をくんだ。北イスラエルは、その同盟にエルサレムのある南ユダも引き入れようと誘った。しかし南ユダの王アハズは拒否し、シリア・エフライム戦争が起こった。そこで南ユダはアッシリアに助けを求めた。それ以降、南ユダはアッシリアの属国状態になったのである。北イスラエルはアッシリアに滅ぼされた。その後、南ユダ王のヒゼキヤは、アッシリアが弱くなると属国状態から抜け出した。しかし、アッシリアが再び勢力をもつと、紀元前701年、エルサレムに攻めいった。南ユダは、陥落されそうな寸前に、危機を免れることができた。そのようなアッシリアによる脅威の状況が20~27節の背景にあると考えられる。
20節にある「イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者」とは、アッシリアによって滅ぼされたイスラエル、あるいはアッシリアの脅威の下にあるイスラエル全土を意味していると考えられる。争いに負け、わずかな者が生き残った。そこで、24節以下にあるように、「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな」というのである。どうしてそうなのか。次には「エジプトがしたように」とある。過去にイスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しんだ。そのとき、神はイスラエルの民をエジプトから脱出させた。また、26節にある「オレブの岩でミディアン人を討たれたように」とは、士師記7章のギデオンの話である。イスラエルの民がミディアン人によって苦難を負ったとき、神に助けを求めると、神はギデオンをたてた。そこで、ギデオンはミディアン人の将軍二人を倒した。そのうちの一人の将軍オレブを殺した場所がオレブの岩である。26節に「杖を海の上に伸ばされる」とある。出エジプトにおいてイスラエルが脱出し、エジプト軍の追手から逃げるときのことである。目の前が紅海になった。指導者モーセが手を上げると水が分かれ、イスラエルの民は海を渡ることができたが、追ってきたエジプト軍は水に流されたという救いの出来事を指している。27節では、アッシリアという軛が取り除かれる。軛とは、牛などの家畜が荷を引くとき首にのせて荷につなぐ木である。それが取り除かれるとは、アッシリアから自由になるといってよいであろう。神が救いへと導いてくださるのだから、アッシリアを恐れなくてもよいというのである。
さて、先ほど20~27節について、アッシリアの脅威が背景にあると述べた。しかし、この20~27節は、後から付け加えられたと考えられる。アッシリアの脅威から約150年後、南ユダはバビロニアによって滅ぼされた。その後に記されたと考えられる。どちらにしてもイスラエルの民が、ユダの民が、他の国の支配下にあった苦しい出来事を背景にしている。特に、バビロニアによって神殿のあるエルサレムは荒廃した。神の民であるイスラエルの民は滅亡の状態にあったのである。
そこで、20、21節にある「残りの者」という言葉について考えたい。21節には「残りの者が帰ってくる」と記されている。ユダがバビロニアに滅ぼされたとき、多くの権力者たちがバビロニアに連れていかれた。それから約50年後、バビロニアはペルシアに負けた。そこで、バビロニアに連れていかれたユダの人々がエルサレムに帰ることができるようになったのである。次のように言えるであろう。神は、イスラエル、ユダの民を滅亡させることはない。ユダの民が、どんなに神に背こうとも滅ぼすことはしない。「残りの者」を用いて、必ずユダの民を導いてくださる。出エジプトの時のように、神の約束の地に帰りユダの民は存続するという救いが、この箇所に記されているといえるであろう。そこで22節をみると「あなたの民イスラエルが海の砂のようにあっても、そのうちの残りの者だけが帰ってくる」とある。「海の砂のように」とは、イスラエルの民が海の砂のように数えられないほど大勢いるという意味である。しかし、大勢いても「そのうち残りの者だけが帰ってくる」というのである。全員が救われるわけではない。では、「残りの者」とはどのような人なのか。「正義がみなぎる」とある。真に神を信じる者を「残りの者」と述べている。どんなにイスラエルの民が再び増えようとも、神に救われるのは残りの者、神を真に信じている者だというのである。
そこには何が示されているのであろうか。実は、そこには終末論があると考えられる。つまり、神は神を信じる者をこの世の終わりにおいて救い、神の国に招いてくださるという考えである。だから20節には「その時には」とあり、23節には「万軍の主なる神が、定められた滅びを全世界のただなかで行われるからだ」と書かれているのである。世の終わりの時、神の裁きが行われる。その時に救われるのは「残りの者」、すなわち、真に神を信じる者たちだというのである。
そこで重要だと私が思うのは、終末の救いを示していることである。イスラエルの民を救うと記されているように思う。しかし、そうではない。イスラエル民族を終末に救ってくださるのではなく「残りの者」、すなわち神を信じる者こそ、神は救ってくださるのだというのである。先ほど「正義がみなぎる」からだと述べた。人間が行う正義ではなく、ここでは「神が行う正義」なのである。神は正義をもって神を信じる者を、神に依り頼む者を助け、平安を与えてくださるということが言われているのである。神は正義をもって神の国を到来させるのであるから、そこに招かれるのは神の意志に、思いに適う者である。神の意志に適う者は、イスラエルの民に限らない。神の意志に適うとは、神を信じ、神に依り頼む者である。だから、血族、民族を超え神を信じる者こそ、神は救ってくださるのである。だから、この世的などんな脅威、この世的な国をも恐れることはないというのである。それは、私たちにとって支えの言葉、神の救いの宣言であると私は思う。
私たちは神に命を与えられ、神によって生かされている。神に生かされていることを信じることは大切である。神に生かされている命だからこそ、私たちは神に従い歩むべきなのである。そこにこそ真の平安、救いがある。この世のことを恐れることはない。神こそ、正義をもって神に従う者を助けてくださるのだという心強い支えが、ここに記されているのである。私たちはただ神を信じたいと思う。神に依り頼むことができるのである。そのことによってこそ、恐れなどなく歩むことができる。神を信じることこそ、私たちの生きる支え、力になる。
祈祷 恵み深い神様 イスラエル、ユダの民は、神と契約を交わした者です。一方、神は一人ひとりに祝福をもって命の息吹を注ぎ、愛してくださいます。イスラエル、ユダの民が苦しみの中に在る時、神は助けてくださいました。同じように、終末、神の国の到来において、神は正義をもって救ってくださいます。それは、イスラエル、ユダの血族的民族ではなく神を信じる者を救ってくださる、と今日の箇所では示されています。この世の国など恐れることはないというのです。ただ神を信じ、従う者こそ神は救ってくださる。私たちは神を信じることによって生きる支え、力が与えられます。どうか神の導きを信じ、ただ神の愛に従い、歩む者となりたいと思います。また、多くの人と神の愛を分かち合うことができますようお導きください。争いで被害に会うのは弱者、子どもたちです。病院、インフラの攻撃は、兵士ではなく、一般の争いに関係のない人々を苦しめることになります。神は、互いに愛し合うため命をお与えくださいました。どうか争いを止める勇気を指導者たちにお与えください。すべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。自然災害などで被災された方々をお支えください。次週は、収穫感謝、CSとの合同礼拝です。神の前では誰もが大切な存在です。どうか、神の恵み、愛を覚え、感謝する時としてください。集うとしている方々の健康をお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編105編 7~15節」
聖書朗読
105:07主はわたしたちの神/主の裁きは全地に及ぶ。 105:08主はとこしえに契約を御心に留められる/千代に及ぼすように命じられた御言葉を 105:09アブラハムと結ばれた契約/イサクに対する誓いを。 105:10主はそれをヤコブに対する掟とし/イスラエルへのとこしえの契約として立て 105:11宣言された/「わたしはあなたにカナンの地を/嗣業として継がせよう」と。 105:12その地で、彼らはまだ数少なく/寄留の民の小さな群れで 105:13国から国へ/ひとつの王国から他の民のもとへと移って行った。 105:14主は彼らを虐げることをだれにも許さず/彼らのことを、王たちに戒めて言われた 105:15「わたしが油を注いだ人々に触れるな/わたしの預言者たちに災いをもたらすな」と。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「とこしえの契約」
この教会の皆さんは優しくて、私に関心がありそうな新聞記事があると、それを私に持ってきてくださる。感謝している。先日、ある新聞記事を頂いた。そこに、福島県白河教会の牧師、竹迫之先生のインタビューが記されていた。竹迫先生は、東北学院大学の私の2つ上の先輩である。とてもお世話になった。竹迫先生は、現在、白河教会の牧会と同時に、カルト宗教脱会に関する活動をしておられる。それは、竹迫先生自身が、カルト宗教から脱会した経験があるからである。
その記事で、次のような言葉があった。カルト宗教に身を置く人に対して、その教えがいかに間違っているかということを指摘したいという気持ちが強くある。しかし、そうするのではなく「何を学んだのか、教えてください」というような言葉がけをするというのである。私は思った。否定から始めるのではなく、寄り添うということを大切にされている。そして、語ってもらうということは、カウンセリングの本質に適ったものであると私は思った。それは相手に寄り添うということと同時に、語ってもらうことにより、その人が自分を見ることができるからである。そして、語ることによって気づくことがある。また、自分の心を整理することができるかもしれない。竹迫先生のやり方は、相手に寄り添い、受け容れることから始めるのだと私は理解した。
本日の聖書個所、詩篇105編7~15節について、全体から考えたいと思う。詩編105編は、神と最初に契約を交わしたアブラハムたちの時代から出エジプトにいたるイスラエル民族の歴史を振り返り、そこに神が示してくださった不思議な業を詠い、神を讃美している。
では、この箇所は何を示し、導こうとしているのであろうか。最後の45節に「それゆえ彼らは主の掟を守り主の教えに従わなければならない」とある。この「教え」とは、律法とも訳すことができる。本日の詩編の箇所は、神を讃美し律法を守りなさいと教えている。では、なぜ律法を守るのか。それは神が「とこしえの契約」をイスラエルの民と結んでくださったからだというのである。では、とこしえの契約はどのように結ばれたのであろうか。9節以下に「アブラハムと結ばれた契約イサクに対する誓いを。主はそれをヤコブに対する掟としイスラエルへのとこしえの契約として立て」とある。神は、アブラハムと契約を結んだ。それは約束の地を与え、子孫を繁栄させるというものだった。そして、後半には、出エジプトの出来事が記されている。
では、「とこしえの契約」とは何なのか。アブラハムは神と契約を結んだ。その時にしるしとして、割礼が定められた。割礼は律法に規定されている。そこで、広く考えると、神とアブラハムの契約は、律法と結びつくのである。また、イスラエルの王ダビデの契約が永遠の契約と呼ばれていた。そしてもう一つ、神と人間との関係の回復と祝福が永遠の契約と呼ばれることがある。神はイスラエルの民と契約を交わし、イスラエルの民を導くのである。
7~15節は、信仰の父アブラハムについて記されている。アブラハムは神と契約を交わし、神が与えてくださる約束の地カナンへと旅立った。旅の途中で事件が起こった。アブラハムの妻サライは、とても美しかった。エジプトに入ったとき、エジプトの王がサライを見て気に入り、王宮にいれさせた。しかし、サライはアブラハムの妻である。そこで神は、王、王宮にいる者たちを、おそろしい病気にかからせた。それが14節の出来事であると考えられる。そして、15節には「わたしが油を注いだ人々に触れるな/わたしの預言者たちに災いをもたらすな」とある。まず後半、「わたしの預言者たち」とは誰のことなのだろうか。7節以下には、アブラハム、イサク、ヤコブの名前が出ている。そこで、「わたしの預言者」とは、アブラハム、イサク、ヤコブのことであると考えられる。そして、前半「わたしが油を注いだ人々」とある。「油を注いだ」を「メシア」とそのまま記している聖書もある。「メシア」とは本来、油注がれた者を意味し、神の祝福を受けてその役割が与えられた者のことをいう。王は、預言者は、神の祝福を受け、その役割を任命した。預言者として油注がれたということを、ここでは意味しているのであろう。そして、油注がれた者とは、アブラハム、イサク、ヤコブのことを示していると考えられる。確かにアブラハム、ヤコブの子孫から王が出ることは言われていた。しかし、アブハム、イサク、ヤコブが油注がれた者と記している箇所はない。ここだけなのである。
詩編105編は、最初に述べたように、アブラハムから出エジプトの出来事まで、つまり神の大いなる導きがあったことを振り返り、神との契約があったことを思い出させている。そして、その契約のゆえに、神の救いの応答として掟、律法を守りなさいと記されている。それは、ユダヤ教徒を導く祭司的な文章であるといえる。
詩編105編は、神による救いの導きの歴史を振り返っているが、そこにイスラエルの民の罪は記されていない。聖書における罪とは、神に背くことである。イスラエルの歴史を振り返る時に必ず罪がある。しかし、本日の詩編105編には、罪が記されていない。
それ以降は、私の思いにしかすぎない。詩編105編は、まず、神からの一方的な愛、恵みが注がれていることを、イスラエルの民に気づかせているのではないだろうか。どんなことがあっても、イスラエルの民を見守るという神の愛が示されている。神は、イスラエルの民を、まず受け容れているのである。それは「契約」ということから示されていると思う。この契約は神の一方的なものでもある。
では、「とこしえの契約」とはいかなることなのであろうか。8節に「とこしえに契約を御心にとめられる」とある。それは、神はいつまでも記憶にとどめてくださるということだけではない。そこには「必要な時には、つねに契約を実行に移す」という意味がある。すなわち、神はイスラエルの民に助けが必要な時には、契約のゆえに、行動してくださるということである。詩編の著者は、神がイスラエルの民といつも共にあり、お導きくださる。ただ、お導きくださるのではなく、神は実行、働いてくださる方であると示しているのである。だから、旅の途中で困ったことがあったら助けてくださる。アブラハム、イサク、ヤコブに対してそうであり、出エジプトこそ神がイスラエルの民に働きかけてくださった出来事である。私は、15節の「油を注いだ」ということに注目したい。油を注ぎ、アブラハム、イサク、ヤコブに役割を与えた。神ご自身が働いて下さる。また、預言者などとして人間を用いて、神は人間に働きかけてくださるということを知るのである。そして、その究極的な働きかけこそ、神の独子イエスをこの世にお遣わした出来事である。
先ほど、イスラエルの民の罪は105編には記されていないと述べた。実は、次の106編にイスラエルの罪が記されている。106編もイスラルの歴史、特に出エジプトの出来事を振り返っている。詩編の著者、或いは編集者は、敢えて神の一方的な恵み、愛を105編で記し、イスラエルの民が神から受け容れられていることを示した。その後の106編で罪を記したのではないかと、私は思うのである。
私たち人間は、罪などの過ちを最初に指摘されると拒否をしてしまう。心を閉ざしてしまう。まず、神の導き、一方的に愛されていること、つまり、受け容れられていることを示されることによって心を開き、自分の心の内を見ることができるのではなかろうか。
独子イエスの私たちに対する働きこそ、そうであると私は思っている。イエスが一方的に私たちを受け容れ、愛してくださっている。特に十字架の出来事で、その愛を示してくださった。そして、十字架を通して私たち自身の罪、過ちを見つめることができるようお導きくださっているのではないだろうか。私たちは、まず神に愛されている。神が愛によって働きかけてくださることを確信したいと思う。本日の詩編は、神こそが私たちを愛し、働きかけてくださっていることを示している。だからこそ、自分の過ちを見ることができ、そして、神に応答することができる。私たちはまず神の愛を確信したいと思う。そのことによって、私たちは私たちらしく歩むことができるのである。
祈祷 どのようなことがあっても私たちを愛してくださる神様 詩編105編は、アブラハムから始まり、出エジプトまでの神の救い、導きが記されています。そして、神の愛に応答するため律法を守りなさいというのです。私たち人間は、受け容れられ、愛され、寄り添ってくださることによって心を開き、また、応答しようと欲します。神こそ、なによりまずイスラエルを愛してくださった。それは、私たち一人ひとりを無条件に、また、弱いからこそ愛してくださっていることを示しています。私たちが神の愛をまず確信し、受け容れたいと思います。神の最も大いなる愛の業こそ、独子イエスをこの世に遣わされたことです。その愛に応答し心を開き、神に従う者となりたいと思います。どうかこれからもあなたが共にあってお導きください。金曜日から急に寒さが増してまいりました。ウイルスによる病が流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。自然災害などで被災された方々をお支えください。神は争うためにこの世を創られたのではなく、神に従い互いに愛し合うため創造されました。特に現在の争いは兵士ではなく住民、特に弱い立場の者が被害に会います。どうか戦争を止める勇気を指導者にお与えください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ペトロの手紙(1) 3章 18~22節」
聖書朗読
03:18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 03:19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 03:20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。 03:21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。 03:22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「救いの望み」
説教音声
20数年前、牧師になりたての頃のこと、私が私の母と電話で話していたときのこと。母が「お墓を買ったの」と嬉しそうに話した。祖父が、お寺で購入した場所があり、墓石を新しくしてきれいに整えたのである。私が「よかったね。でも息子はキリスト教の牧師だから・・・」というと、母は「いいじゃない」という。最期の準備ができたことが嬉しかったのだろうと、その時は思っていた。今回、説教を考えている中で、あのときなぜ母が、喜んでその話をしたのかを、ふと思った。それは、母が天に召されたとき、子どもたちが苦労しないように準備したということが嬉しかったのではないかと思ったのである。母の人柄から考えると、そのように考えた方が、母の喜びの理由に納得できたのである。
本日は、永眠者記念礼拝である。天に召された方々を思い、また、聖霊を通して、天に召された方々と共に讃美の時を守っている。本日の聖書個所、ペトロの手紙(一)の3章18節以下に心を傾けたいと思う。この箇所は難しい、というか、どのように解釈すべきか議論のある箇所である。どうしてそうなのか。注目したいのは19節であ。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」とある。この箇所の「霊たち」とは何を指しているのであろうか。単純に天に召された方、死んだ方、といってよいであろう。では、そこで天に召された方とは誰なのか。20節に「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」とある。それは旧約聖書創世記、ノアの箱舟である。この世に悪がはびこり、神は地上に人を造ったことを悔やみ、後悔した。そこで、この世を洪水で滅ぼすことにした。しかし、神を信じる者ノアの家族と全ての生き物二匹ずつ箱舟に乗せて助けるという話である。20節では、神に従わなかった者たち、つまり洪水で死んだ者が、「この霊」であるというのである。
さてイエス・キリストとは、いかなる方だったのか。神の独子、神がこの世に遣わした救い主、そして神と同じ力を持っておられる。イエスはマタイによる福音書の22章32節などで「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と述べている。それは、神は死んでしまった人々を大切にしないという意味ではない。神は時間、死をも超越しているということ、また、神を信じる者は永遠の命を持つという意味である。イエスは、神と同じ力を持っておられる。だから、時間を超越している。そこでイエスは、ノアの時代にもいることができる。そのことから19節を考えてみたい。イエスは、天に召された霊たちのところに行き宣教された。神の救いを述べ伝えたと理解できるであろう。しかし、この理解は古代から否定されてきた。イエスは、十字架で死に陰府に降り、三日目に復活した。陰府に下って何をしたのかということが議論されたのである。また、神を信じるというのは、この世の出来事である。死者への宣教などないと考えられている。だから、本日の箇所、特に19節は、理解が難しいのである。
一方で私は、この箇所を読み素直に受け取ればいいのではないかと、以前から思っていた。今年出版された本に、私が求めていた答えが書かれていた。キリスト教は西欧で発展した。西欧では、キリスト教の歴史が長い。キリスト教は、神を信じる者は天国に行き、信じない者は地獄に行くと考えられてきた。そして、キリスト教の学者多くは、西欧の人々であり、その状況で学者たちは考え、論じてきた。西欧の人の多くはキリスト者であり、神を信じているので天国に行く。そこで、信じない者は地獄に行くといっても、心を痛める者はほとんどいない。
一方、ペトロの手紙が記された時代はどうだったのか。ペトロの手紙はローマで記されたと理解できる。当時は、現代と異なり、ローマは異邦の世界だった。なぜならイエスはユダヤ人だったからである。当時、キリスト教はマイノリティ、すなわち少数派だった。そこで、キリスト者は苦難にあった。しかし、神を信じることは正しいことである。そこで、信仰者として神の意志に従い生きることによって、正しい行い正しい歩みとなる。そのことを周りの人々も理解してくれる。ペトロの手紙の著者は、そのように述べ、希望をもって生きるようにとキリスト者を励ましたのだと、私はペトロの手紙(一)を理解している。少数派、つまり、ペトロの手紙を読んだ信者たちの関係者に、キリスト教の神を信じず死んでいった人々が、多くいたであろう。これは現代の日本でも同様である。そこで、20節では「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」とある。そこで示しているのは、ノアの時代の人々だけではない。21節には「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」とある。そこは、ノアの箱舟の洪水の出来事を、洗礼の比喩として用いている。イエスの時代、洗礼は水の中に入って受けたからである。21節で、洪水の水が洗礼の象徴、比喩と解釈されていることから考えれば、ノアの時代に神を信じないで死んだ霊たちとは、時間的・時代的な意味で特定の人を指すのではなく、生きている間にキリストという救いの船に乗ることなく死んだ者たちと解釈してよいのではないか。続けてペトロが語る「八人だけが水の中を通って救われた」という言葉もまた、極めて象徴的である。「八人だけ」とは、大多数の異邦人に囲まれて生きている極めて少数のキリスト者であるペトロの手紙の読者を意味する。そこで、「ただ確かなことは、キリストを知らず、信じないで死んだ者たちには救いの望みがないということではないということである。と19節を学者が解釈している。はっきりとは記してはいないのだが、神を信じず死んだ人に、キリストが宣教を行っているという理解を支持している。
さて、本日は、永眠者記念礼拝である。多くの方が生前にイエスこそ救い主、神の独子であると告白をした。一方、信仰を持たず天に召された人々もいる。しかし、私たちは心配する必要はない。なぜなら、天に召された人々にも、イエスが神の救いを述べ伝えているからである。イエスが述べ伝えているのだから、大丈夫なのである。一方、だからと言って、この世にある私たちが、天でイエスが宣教してくれるのだから、この世では神を信じなくていいという内容ではない。ここで重要なのは、天においてイエスが宣教してくださるから、天に召された人々の心配はいらないという、悲しみ、不安の中にある人々への配慮であると思うのである。
この相手を思うということを考えたときに、最初にお話しさせていただいた母の思いにたどり着くことができた。キリスト教は天にある方々のことを大切にしないというイメージがあるかもしれない。しかし決してそうではないのである。天にある方々のことを思うことは大切なことである。それは、信仰の継承であり、また、隣人を愛することだからである。一方、キリスト教には希望がある。死の領域は神、イエスの支配の場であり、平安が与えられる。本日の聖書箇所から、神を信じないで天に召されても、イエスが天で宣教をしてくださるという希望がある。だからこそ、私たちは天における平安を信じ、天の方々のことを覚えて、このように礼拝を守ることができる。また、時間、場所をも超越しているイエスを通して、聖霊によって天の方々と礼拝を共に守ることができるのである。神は、生きている者、死んだ者をも導く、全てのものの神なのである。信仰を持つことによってこそ、天にある方々とイエスを通し結ばれていると確信できる。また、私たちは天におられる方々のことを神に委ねることができるのである。天にある方と再び会うとき、この世において充実した日々を送ったと報告できるように、神を信じ、喜びを持って日々歩みたいと思う。イエスこそが地においても天においても、働いてくださっているからである。
祈祷 一人一人に命の息吹を注がれ、永遠に導いてくださる愛なる神さま イエスはこの世だけではなく、天においても福音を述べ伝えていると信じます。私たちは、そのことを信じることによって、天にある方々のことをあなたに全てを委ねすることができます。どうか今、死、時間を超越されている神を通して天にある方々と共に讃美するときとしてください。本日は、永眠者記念礼拝を持っています。天にある方々がこの世の重荷苦しみを解放し、あなたの御許において安らかな時を過ごされますようお守りください。また、地において悲しみの中にある一人一人をお慰めください。 病の中にある友、リハビリの中にある友を覚えます。心身共にお癒しください。また、全ての人、特に高齢の方、幼い者の健康をお守りください。悩み、不安の中に或る友、学びの中にある方、一人で生活している者をお支えください。争いに正当な理由などありません。人間の欲ではなくあなたの愛を持ってすべての人が手を結び合うことができますように。人を殺す武器、基地を作るためではなく子どもたちに素晴らしい将来を与えるためわたしたちの賜物をお用いください。礼拝後、墓前霊を行います。お導きくださいますように。今月誕生日を迎える方々に豊かな祝福をお注ぎください。人生に一度しかないこの年を豊かに歩むことができますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「コロサイの信徒への手紙 1章 15~20節」
聖書朗読
01:15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 01:16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 01:17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 01:18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 01:19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 01:20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「初めの者」
夏季休暇のときに、旅行先で、10歳の息子が5歳上の娘と喧嘩をした。息子は手加減せず娘を一方的にぶった。そこで、息子を叱ったところ、娘が「私が最初にふざけて手を出したから、私がいけない」と言った。しかし息子は、倍返しどころか、あまりにもひどいので私は、「やり返すことは良くない、人をぶつことは良くない」と、息子を注意した。最近、そのときの出来事について、娘が次のように話した。「あの時、勇気を出して自分が悪いといった。私が褒めてもらえるかなと思ったけれど、弟のほうが叱られた。弟をかばうため正直に言った。」と。私自身も、子どもの頃、親から妹が叱られていたのに対し、親に意見したことを覚えている。私の場合は、親に褒めてもらいたいというより、正義に語った自分を自画自賛したことを覚えている。子どもにとって親に対して意見を言うことは、しかも、初めてとなると、とても勇気が必要だったということは理解できる。娘が、「自分が悪い」と述べたことには偉いと思ったが、褒めてもらえると思ったという娘の気持ちを察することはできなかった。
さて、コロサイの信徒への手紙1章15節以下に、ヨハネによる福音書1章1節以下を思い起こしたのではないかと思う。本日の箇所を「キリスト讃歌」と理解する人もいる。この箇所には「和解」と「創造」が記されている。「和解」とは、神と人間との和解であり、罪の赦しである。人間は、神に背いてしまった。神は愛なる方である。神に背く罪とは、愛を失った状態といってよいであろう。しかし、イエス・キリストを通して人間は、神の前に立つことができるようになった。神との関係が修復された。神と和解したのである。20節に「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」とある。そこから和解は、神との和解だけではなく、自然な、どこの世にある全てのものとの和解であると理解できる。イエスがそのように導いてくださるのである。
では、なぜ神の独子イエスがこの世にあるものと人間との和解を導いてださるのか。15節に「子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」とある。イエスは、見える形で神の意志・愛を、この世に現わした。そして、イエスは、この世が創られる前から存在し、16節にあるように「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。」。イエスが神と共に天地を創造された。この世のことを誰よりも、イエスが知っておられる。19節に「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」とある。これは汎神論と理解できる。神はどこにでも宿っているのだと、自然神的にも受け取ることができ、キリスト教では、それは受け入れない。
そこで私は、次のように理解したい。イエスを通してこの世の働き、この世の様々なことから神の業を見ることができる。自然、動物、植物、全てが神によって生かされている。神、イエスの働きの中にある。自然などの背後に、神を見ることができるといえる。それは、イエスを通してすべてが導かれているとも言えるのではないだろうか。では、どのように導いてくださっているのであろうか。15節に、イエスは、全てのものが創られる前に生まれた方だとある。しかも17節には「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」とある。私は、そう理解したい。18節にあるように「初めの者」としてイエスは、あらゆる時間に先立つ方である。次のように言えるのかもしれない。イエスは、私たちの一歩手前を歩き、私たちより先におられ、導いてくださっている。だから、私たちは何も恐れることはない。
私は、そこから詩編139編を思いうかべた。詩編139編は、先日の教会懇談会において、M兄があげてくださった聖書箇所の一箇所である。実は私は、M兄のお話しのレジメの詩編139編4、5節を読んだとき、新約聖書のどこかを読んだときにこの箇所を思いうかべたということを、懇談会のとき思い出した。そのとき既に、本日、コロサイの信徒への手紙を用いることは決めてあった。私は、説教を作る時、新たに学ぶと同時に、以前私が勉強した資料を見る。そこで、以前にコロサイの信徒への手紙の1章15節以下を勉強したときの資料に、詩編139編4、5節と記載されていた。つまり、本日の箇所を以前に読んだとき、詩編139編を思いうかべたことが記されていたのである。M兄が詩編139編を挙げてくださったことから、私はイエスの導きを感じた。神、イエスの導き、備えを感じることが、よくある。
詩編139編4、5節は「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。」である。神は「私」の一挙手一投足のみならず、「私」の想いまでも見通しておられる。神の知識は、人間の理解を越えているということが詠われている。つまり、神は私たちが何をするのか、また、私たちの心の内さえもすべてご存じである。それはなぜなのか。神は、イエスと共にこの世を創られた。それだけではなくイエスを初めの者とされた。私は本日のコロサイの信徒への手紙の1章15節以下を次のように理解したい。神は、目に見えない。目に見えない神は一人子イエスを、人間としてこの世に誕生させ、また、人間に見える形、触れることのできる形で神の意志、神の愛をこの世に示してくださった。同時に、イエスこそ初めの者、第一の者となられた。それは私たちが経験すべきことをまずイエスが行ってくださった。
最も分かりやすいことが、死者の中から最初に生まれたという言葉である。その言葉に復活を含めるのかは、議論のあるところです。しかし、イエスは復活を含め最初に生まれた、全てのことを最初に経験されたと私は受け取りたい。イエスは、死んで天に上げられた後、復活した。イエスが、最初に復活したからこそ、私たちには希望がある。それは私たちが神の国の到来において復活させていただくことを予め示してくださった出来事だからである。つまり、イエスは私たちの一歩手前を歩き、私たちを導いてくださる。しかも、イエスが人間として歩まれたからこそ、苦難、喜び、痛みをもすべて経験されている。だからイエスは、私たち人間、いや、この世にあるすべての気持ち、心の内を理解してくださるのである。そこでイエスは神と人間、そして、この世にあるすべてのものと和解できるよう導いてくださることができるのである。
最初の話に戻るが、娘が勇気を振り絞り、最初に手を出したのは私だと自分の罪を認めた。そこには、褒めてもらいたいという気持ちがあったのと同時に、弟への許し、弟との和解を願っていたからだと思う。私は、褒めてもらいたいという気持ちを理解できなかったことは、申し訳なかったと思っている。一方、イエスは、はじめの者として歩み、私たちのことを、心をも理解してくださっているのである。きっと、娘の気持ちも理解しておられるであろう。
本日から、教会の暦は、降誕前になった。御子がなぜこの世に誕生したのか。また、御子イエスとはいかなる存在なのか。改めて、その時のことを考えたいと思う。イエスこそ、神と共にこの世を創られた。だからこそこの世、私たちがいかに歩むべきか知っている。私たち一人ひとりを創造主としてイエスは愛してくださっている。そこで、この世に肉体として現れ、私たちと共に歩む中で神の愛を示し、また、人間として喜び、悲しみを経験し、私たちのすべてを知ってくださっているのである。イエスだからこそ人間と神、また、この世にすべてが和解できるよう導いてくださるのである。そこに平和がおこる。そしてそれは、この世を創った神と同じ力を持っておられるということである。御子イエスこそ私たちのことを何でもご存じだから救いへと導いてくださることができる。神の独子イエスがこの世に遣わされたことを喜び、そして、御子イエスがこの世に誕生された。そこに希望が、救いがあることを私たちは確信したいと思う。御子イエスは、今もなお、初めの者として私たちをお導きくださっているのである。
祈祷 独子をこの世にお遣わしになられた愛なる神様 本日から降誕前に入りました。御子イエスは、神と共に天地を創造され、また、創られた方としてこの世のことを何でも知ってくださり愛してくださっています。また、その業を通して神の意志、愛をこの世に現わしてくださいました。そして、初めの者として私たちをお導きくださいます。御子は、創造と共に和解の主です。御子イエスは、神と人間、人間同士、人間とこの世にあるすべてを和解へとお導きくださいます。御子が私たちを救いへとお導きくださるためこの世に遣わされたということ、ここにこそ希望があることを確信させてください。そして、この救いの喜びを多くの人と分かち合うことができますように。報復は神がなさることであると聖書に記されています。報復すること、人の命を奪うことは決して神の意志ではありません。どうか、違い、互いの命を尊重し、受け容れ合うことができますように。神こそ和解を、御子を通して示してくださいました。どうか、和解へとお導きください。朝晩が寒く、寒暖の差が大きくなっています。また、様々なウイルスも流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。次週は召天者記念礼拝です。また、礼拝後、墓前礼拝、そのなかで上野博子姉の納骨式を行います。集うとされている方の健康をお守りください。そして、天にある方々と共に讃美する時としてくださいますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 19章 11~27節」
聖書朗読
19:11人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。 19:12イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。 19:13そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。 19:14しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。 19:15さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。 19:16最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。 19:17主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』 19:18二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。 19:19主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。 19:20また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。 19:21あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』 19:22主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。 19:23ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』 19:24そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』 19:25僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、 19:26主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。 19:27ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「返せとは言わない」
高校生のときの、教会でバザーを行った記憶がある。高校生会だけで行ったのか、又は、高校生会のコーナーだったのか、記憶は定かではない。ただ、仲間で準備し、バザーを行ったこと自体が、とても楽しかったことを覚えている。
さて、ルカによる福音書19章11節以下に共に心を傾けたいと思う。立派な家柄の人が10人の僕に10ムナを与え、商売をさせたというたとえである。本日の箇所から、マタイによる福音書の「タラントのたとえ」が思い出せる人がいるかもしれない。「ムナ」は、1タラントの60分の1、100デナリオンに相当する。また、当時の労働者三ケ月分の生活費程度と考えられる。ただ、当時の生活状況と現在は異なるので、現代の金額でいくらというのは難しい。あえて言うなら、1ムナ100万円というところだろうか。ここで重要なのは金額ではない。1ムナを与えるとは、神から一人ひとり能力が与えられるということであろうか。1ムナという金額から、それなりの地位にいた人へのことと理解できるのではなかろうか。有能な者が指導者として神によって選ばれて、民と土地の管理支配を委ねられる。だから、指導者は神によって任された民と土地を、より?栄させ発展させる義務があるといえるであろう。そこで、それぞれの能力を発揮することが、神の前において人間の正しい歩みなのである。もちろん、私たち一人ひとりもそれぞれ異なる能力、賜物が神から与えられている。だから、与えられた賜物を有効に用いなければならない。神から与えられた賜物を用いて、私たちは神の栄光を表し、神の救いをこの世に広めようではないか。本日は礼拝後に女性の会によるミニバザーが行われる。一人ひとりが賜物を用いてくださる。良いときになりますよう神に祈りたい。と、それで終わってもよいのだが、もう少し考えてみた。
以前、ネパールにおいて女性の支援活動をしているある方から、ネパールの文化についてお聞きした。ネパールには、ありがとうという言葉がないという。もちろん、神に対する感謝の言葉はあるのだそうである。ネパールには、カースト制度というのがあり、低い地位にいる場合は、その人はそのことを受け容れている。だから逆に、裕福な人から何かをしてもらうのは当たり前なのだそうである。というのは、隣人を助けるという徳を得る状況を提供しているという理解である。ただし、現代では欧米化もあり、サンキューという言葉を用いているそうである。ありがとうという言葉がないとは、私たちには想像できないが、それは文化の違いであり、そのような文化の中、何百年も過ごしてきたのだから、体にしみついている。それを否定、批判することはできない。それぞれの文化を理解し合うことが大切だと思う。
同様に、私たちは現代の資本主義的な感覚をもって聖書を読む。イエスの時代と現代の文化は異なる。私たちの状況から聖書を読むことは大切である。一方、イエスが何を語ったのか。当時の文化、状況から考えないと、理解できないことがあると思う。23節に「銀行」という言葉がある。本来これは「机」を意味し、両替人と訳している場合もある。金融業がすでにあったということである。そのことを私たちは理解できる。それは、私たちが資本主義の社会の中で生きているからである。では、イエスの時代はどうだったのか。2000年前に資本主義という言葉はなかったであろう。しかし、お金を用いて商売をして利益を得るということは既に行われていた。貿易も行われていた。そこで考えたいことがある。イエスはどのような人々の立場に立っておられたのかということである。それは弱者、弱い立場にある人々の立場だった。その人々は、汗水流して働き、一日一日を生活していたといっても過言ではないと思う。そのような人たちにとっては、1ムナという大金を元手にして、商売をして増やしなさいという話をされても、どうしたらよいか想像できなかったであろう。この箇所で1ムナを用いて10ムナ、また、ある人は5ムナをもうけた。褒美に10の町、5の町の支配権を授ける。イエスは、成功者をほめたたえたのであろうか。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」ではなく、「もうけよ、増えよ、懐に満ちよ」、イエスは利益を得よ、成功せよと述べたのであろうか。また、1ムナをしまっておいた者からは取り上げる。つまり、利益を得なかった者をイエスは罰するといったのであろうか。正直言って、私には納得できない。
本日の箇所のすぐ前は、徴税人ザーカイの話が書かれている。ザーカイは、イエスと出会い、受け容れられた喜びで「財産の半分を貧しい人々に施し、また、何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と約束した。利益を得るのではなく逆に、ザーカイは財産を分けると言った。また、すぐ後に書かれているのは、イエスがエルサレムに入る出来事である。イエスは、民衆に迎えられ、ロバにのってエルサレムに入った。民衆は自分の服を道に敷いて迎えた。そこには、平和の王と同時に、民衆と共にいる王の姿が記されているといってよいであろう。一方、本日の箇所は、立派な家柄の人が僕に1ムナを渡し、商売をしなさいというのである。イエスの時代、資本主義的に金儲けをできるほど富のある人は、限られていた。つまり、大富豪、権力者たちにしかできなかなかった。イエスの話を聞く人々にとっては、まったく異なる世界の話だったであろう。しかも、当時、富は一定の量であり、余分に持つことは、他の人の分をとったという理解があった。つまり、イエスの話を聞く人々こそ、奪い取られ弱い立場にあった人々なのである。
本日の箇所の立派な家柄の人は、王の位を受けるために旅立った。その人に対して、14節では「この人を王にいただきなくない」と考える者がいた。また、27節には、「わたしが王になるのを望まなかった敵どもを、ここに連れてきて殺せ」とある。それは、イエスに敵対する人々に対する罰であると理解されよう。また、これは、ルカによる福音書の著者が、後で付け加えた文書だと理解されている。一方、私はそこに重要な意味があると思うのである。真の王であるイエスが、敵対する者を殺すであろうか。イエスはそのような残虐な方だったのであろうか。イエスは人を赦し、活かしてくださる方なのではないか。そのような利益のみを求めるような、逆に儲けることが出来なかった者を罰するような人は、王になるべきではないといえるであろう。
私はこのたとえを、この世の権力者たちに対する批判であり、皮肉であると受け取りたい。特にユダヤ教の権力者、大祭司はローマと蜜月になり、また、神殿商人の利益のいくらかを受け取る。大祭司こそ権力者であり、莫大な富を得ていた者である。神は、富、利益を求めなさいというのであろうか。指導者は利益を得た者のみを褒めるのであろうか。本当の王とは、いかなる方なのかというイエスの問いが、本日のたとえにあるように思う。
1ムナ、それを神から人間に与えられる賜物、恵みとする。イエスは、それを元手に利益を求め、増やせと述べているのではない。いや、皮肉として述べている。イエスは、神から与えられた賜物を喜び、分かち合うべきであると暗示しているのではなかろうか。そして、何より、イエスは利益を増やし、自分に多く返せとはいわない、見返りを求めない。イエスは、神こそ人間に愛と恵みを一方的に注ぐ方である。神、イエスこそ、無条件に人間を愛し、ただ恵みを注いでくださり、ありのままを受け入れてくださるのである。だからこそ、私たちはイエスを信じ、すべてを委ねることができるのである。本日の箇所は、真の王とはいかなる方なのかを、エルサレムに入る直前に、イエスが私たちに示してくださったのではないだろうか。イエス、神は、利益のみを求め、多くを得た者のみを褒めるようなことはしない。いや、逆に、一方的に恵みを注いでくださるのだということを暗示しているのだと受け取りたい。この礼拝の後に行われるミニバザーは、「もうけよ、増えよ、懐に満ちよ」ではなく、一人ひとりの賜物を用いて下さり、よき交わりのとき、喜びの分かち合いの時として、きっと神、イエスさまがお導きくださり、喜んでくださるであろう。安全に、楽しみながら、よき交わりを持つことが出来ますように、そして、この交わりの場にこそ、イエスが共にいてくださるようお祈りしたいと思う。
祈祷 愛なる神様 当時、イエスが語りかけていた人々は、資本主義とはまったく遠く、一日一日を汗水流して働く、立場の弱い人たちでした。彼らを搾取する人々のみが富を用い利益を多く得ようとしていました。イエスは、人々に神は賜物を増やせ、返せとは言わず、神は一方的な恵みを与えてくださる愛なる方である、神こそ真の王、支配者であるということをここで暗示していたのではないかと思います。神、イエスこそ私たちと共にあり、支え、一方的に愛してくださっていることを確信したいと思います。イエスこそ、そのことを私たちに教えてくださいました。私たちは神の恵みを多くの人と分かち合いたいと思います。一方、世界では争いが絶えません。争いは人間の欲であり、自分たちの権利、主張を押し通すことだと思います。そのため時には神の名を用いてしまうことさえあります。そこで被害に会うのは子どもたちです。どうか、争いを止める勇気を指導者にお与えください。すべての人が手をつなぐ平和な世となりますよう私たちをお用いください。昨日から急に寒くなました。また、様々な病が流行っています。どうか、全ての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。学びの中に在る友をお導きください。礼拝後に女性の会によるミニバザーが行われます。準備をしてくださった女性の会の方々に心より感謝いたします。安全に、よき交わりの時になりますよう共にあってお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「フィリピの信徒への手紙 1章 1~11節」 01:01キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 01:02わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 01:03わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 01:04あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 01:05それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 01:06あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 01:07わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。 01:08わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。 01:09わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 01:10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 01:11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「共に働くものとして」
礼拝の最後には、牧師が祝祷を行う。そのとき牧師は、両手を、或いは片手を上げる。この所作には、いかなる意味があるのだろうか。手から霊波やら、何か特別な力が出ているというのではない。もちろん、片手より両手の方が、より祝福しているのでもない。出エジプト記の9章33節に、モーセが「両手を上げて主に祈った」とある。その箇所の他にも、旧約聖書には、手を上げて祈るということが記されている。その祈りの所作が、祝祷において手を上げることにつながったと考えられる。また、あるキリスト教の入門書には、「両手をあげるのは、ピストルを突きつけられて両手をあげるようなもので、『お手上げ』、『私は無力で何もできません』、『助けてください』の意味です。…牧師が人々を祝福するのではありません」と記されていた。その理解の根拠は分からない。おそらく神に対する祈りの姿勢であろう。私はその理解が大好きである。だから、私は祝祷においては、両手を上げる。人間は手を上げ、神様に全てを委ねることが赦されている。そして、会衆が、この一週間、神の見守りによって歩むことができるように、牧師は手を上げ神に祈ることができるのである。また、祝祷には、コリントの信徒への手紙(二)の13章13節が用いられる。その最後の言葉、「あなたがた一同と共にありますように」を、私は少し変えて「私たち一同と共にありますように」と述べている。先輩が、教えてくださった。「神からの祝福であり、牧師が祝福しているのではない。牧師も神から祝福される存在にしか過ぎない。だから、『私たち一同』である」。その先輩の謙虚さを知った。神の前では誰でもが同じなのである。私は神から牧師という役割が与えられているに過ぎない。一人ひとりが神から役割を与えられている。謙虚に神に聞く姿勢を持ち、皆さんと共に歩むべきだと私は考えている。
さて、フィリピの信徒への手紙の1章1節以下に、共に心を傾けたいと思う。この手紙はパウロによって記された。パウロが、フィリピで宣教を行い教会ができた。この箇所は、その手紙の最初である。だからそれは、パウロの手紙の常套句であるといえよう。一方、この箇所で見たいことがある。1節に「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテ」とある。私たちは「イエス・キリスト」と言う。「キリスト・イエス」には、何か特別な意味があるのだろうか。パウロは、現在のトルコのタルススの出身であった。当時、ギリシャ語を話していた。そこで、「キリスト・イエス」という言い方は、ギリシャ語の文法のため、この語順で記したと考えられる。だから「キリスト・イエス」という言い方に、特別な意味はない。次の「僕」は、パウロが謙虚に「僕」と述べているのである。この「僕」は、パウロだけではなく、同労者テモテにもかかっている。パウロとテモテ、どちらが偉いということはなく、神の僕である。パウロもイエスによって神の愛を述べ伝えるという役割を与えられた者にすぎない。パウロは常に、イエスを、神のことを中心に考え、また神を主語にして考えていると私は理解している。そこに、パウロの謙虚な姿勢を見ることができる。
7節に「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」とある。「考える」とは、パウロのフィリピの人々に対する愛を言い表していると言えるであろう。パウロは、ユダヤ人ではない異邦人に、イエスの救いを述べ伝えた。そのため捕らえられ、牢屋に入れられることがあった。この手紙自体、パウロは牢屋で記したと考えられる。パウロはイエスの救いを述べ伝えることによって、捕らえられた。しかし、パウロは、それだけではないと語った。捕らえられたのは、福音を弁明し立証するためでもあるというのである。パウロは、イエスの救いを述べ伝えるために自分の運命が神に用いられていると考えていた。捕らえられることさえ神の導きであると。そこでイエスの教えを述べ伝えることができると。なんと前向きであろうか。私が、パウロの主語は神、またイエスであると理解しているのは、そのことなのである。神、イエスが、私パウロを用いてくださるということである。
そこでパウロは、フィリピの人々に対し「共に恵みにあずかる者」と記している。パウロにとって多くの場合、「恵み」とは、資格のない人間を救おうとする神の愛を意味している。パウロは、神の教えである律法を厳しく守るユダヤ教のファリサイ派に属していた。パウロは、イエスを律法をないがしろにするものと考え、イエスを信じる者を迫害した。しかし、復活のイエスがパウロに現われ、パウロが信じる神、ヤハウェこそが、イエスをこの世に遣わしたということに気づいたのである。そして、神の独子イエスの救いを述べ伝える者になった。迫害する者であったにも関わらず、神は私パウロを用いてくださったという思いがああったのである。パウロにとって、イエスの救いを述べ伝えることができることこそ、恵みであるというのである。そこで見たいのは、パウロはフィリピの人々に対し「共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」という言葉である。フィリピの教会の人々は、パウロを支援していたと考えられる。そこでパウロが「共に恵みにあずかる者と思って」というのは、単にパウロ個人に対する支援ということではなく、フィリピの人々も、パウロと同じようにイエスの救いを述べ伝える業に参画しているということが言われているのだと理解できる。パウロにとって「恵み」とは、生かされる価値のないものであるにもかかわらず、神に生かされ、しかもイエスの救いを述べ伝えるという、重要な役割を与えられているということである。同じ恵みがフィリピの教会の人々にも与えられているのだと、パウロは述べているのである。そこでパウロは、フィリピの教会の人々に対して、とても親しい思いを持っていたことが分かる。パウロにとってフィリピの教会の人々は、神の独子イエスの業、救いを述べ伝えるため共に働く者だったのである。
実は、パウロがフィリピの人々に対して親しい思いを持っていたのは、1節の「奴隷」という言葉からも知ることができる。パウロは自分のことを紹介するときに「使徒」という言葉をよく用いた。「使徒」とは、イエスが天に召された後、12弟子を中心とする指導者のことを示している。一方、パウロは生前のイエスに出会ったことはなく、12弟子でもなかった。またエルサレム教会でも「使徒」と認められていない。しかし、復活のイエスから直接、宣教の役割が与えられたので、パウロは自分を「使徒」と呼んだのである。「使徒」という言葉には、権威的な意味合いがあると言ってよいだろう。だから、コリントの信徒への手紙には、「使徒とされたパウロ」と冒頭に記している。ローマの信徒への手紙では「僕」と最初に記しているが、その中でパウロは「使徒」と記している。しかし、フィリピの信徒への手紙では「使徒」という権威を示すことなく、「僕」といっているのである。そこから、パウロがフィリピの人々に対して親しい関係にあると思っていたことを知ることができる。パウロは、フィリピの人々を親しい関係であると思っていた。親しい関係だからこそ、共に働くことができた。それは、神が結んでくださった関係である。私たちも同様である。ここに集う私たちも、神によって恵みが与えられているのである。私たちも価値のないものにもかからず、神によって生かされ、招かれている。パウロや、フィリピの人々のように、この喜びを多くの人と分かち合いたいと思う。
さて本日は、礼拝後に懇談会が行われる。私たちもイエスの恵みを共に分かち合う者であり、また、キリスト・イエスの僕である。イエスに招かれた親しい仲間として神の前に謙虚になり、話し合いを行うことができればと思う。
祈祷 慈しみ深い愛なる神様 パウロは、神によって召され、人々にイエスの救いを述べ伝えました。フィリピの人々は、パウロにとって親しい関係者であり、神の恵みを与えられた友です。神は、価値ない者である私たちを愛し、生かしてくださっています。この神の恵みを、パウロ、フィリピの人々のように、多くの人と分かち合いたいと思います。喜びを分かち合い、親しくなることによってこそ、この世は平和になると思います。どうか、私たちをお用いください。世界では争いが絶えません。神は争いを見て誰よりも悲しんでおられるでしょう。争いで被害に会うのは弱者、子どもたちです。子どもたちに素晴らしい未来を与えることができますようお導きください。急に寒くなり、日中の寒暖の差が大きくなっています。このため体調を崩されている方もおられます。また、様々な病が流行っています。どうか、全ての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療後の経過を見られている友がおられます。心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。悩み、悲しみ、不安の中に或る友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友、離れている友をお支えください。学びの中に或る友をお導きください。礼拝後行われる懇談会に主が共にあり、よき話し合いになりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 6章 1~8節」
聖書朗読
06:01ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。/06:02上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。/06:03彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」/06:04この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。/06:05わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」/06:06するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。/06:07彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」/06:08そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「私がここにおります」
私は高校生の時に洗礼を受けた。その時の信仰告白に「私たち人間は弱い者であり、心の支え、よりどころというものが必要です。それが僕にとって全能の父なる神だったのでした」と記した。今、思うと拙い文章だと思う。この言葉の背後には、ある思いがあった。私は小学生のころから死を恐れていた。同時に自分はダメな存在だとも思っていた。それが信仰告白の「弱い者」ということである。高校生のある時、死が怖いというのは自分がこの世に生まれたからである。どうして私はこの世に生まれただろうかと考えた。単純には、父と母がいる。その前に祖父母がいる。その前には祖先、いや、人間になる前にも祖先が数限りなくいると思ったときに、私は怖くなった。もし、祖先のうちの誰かが子どもを産む前に死んでいたら、私はこの世に存在しない。確かに母方の祖父は、戦場に行く船の上で終戦を迎えたと聞いていた。祖父がそのまま戦争に行っていたなら、母は生まれていなかった。その時、自分の命が神から与えられた恵みであり、奇跡であると思ったのである。神が、私という存在をこの世に誕生させてくださったと考えなければ、自分が生まれてきたことの説明がつかないと思ったのである。当時は、その考えを記すのが恥ずかしかったので、信仰告白には記載しなかった。私がこの世に存在するのは、神の働きであり「あなたはこの世に生きるべき存在なのだ。私があなたを必要とし命を与えた」と神が私に言ってくれたと思った。そこで、与えられた命を感謝して生きることこそが大切であると考えたのである。私は、神から命という奇跡の恵みを与えられた感謝として、応答として洗礼を受けた。
さて、イザヤ書6章1節以下に心を傾けたいと思う。1節にあるウジヤの死は、紀元前736年頃である。ウジヤ王の治世、南ユダ王国は領土の回復、織物業、染色業も盛んであり、繁栄していた。繁栄の象徴でもあるウジヤ王、その死が大きな危機の到来を意味していたのは想像に難くないであろう。そのような危機の状況でイザヤは預言者として歩むことになった。では、イザヤは以前、何をしていたのであろうか。イザヤは、王の外交顧問、あるいは都市在住の農地所有者、また、神殿に勤務する職員であったのではないかという理解がある。王の外交顧問であったなら、政治情勢も知っていたであろう。当時、アッシリアがパレスチナ地方にも勢力を伸ばしてきた。それから南ユダが危険な状況になることはイザヤには容易に予想できたであろう。危機的な状況だからこそ預言者、神の言葉を伝えることが重要になっていった。確かにその責任の重要性は分かる。しかし、危機だから神の言葉を伝える者が必要となると言われて、その任務を負うことが出来るであろうか。
1節後半に、天で神が玉座に座っているのを、イザヤが見たとある。それは支配権を示している。しかも衣の裾が神殿一杯にひろがっているのを見たとある。そして、上の方にはセラフィムがいた。セラフィムとは、天的な存在である。二つの頭を持ち、六つの翼があるという。翼で、顔、足を覆っていたとある。それは恥部を覆っていたと理解でき、性的な恥ずかしさと罪意識があったためであろう。また、旧約聖書において、人が神を見ることは死を意味していた。顔を覆い、神を見ないようにしていたのであろうか。それは、セラフィムは飛び交い「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と唱えたということからも理解できるかもしれない。「聖なる万軍の主」、すべての聖なるものは神から出るということを意味している。神は、聖であり、聖は神以外にいないのである。「神殿は煙に満たされた」とあるのは、煙は神が現れる時の現象の一つだからである。イザヤは、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」と述べている。イザヤの全身全霊を「唇」という一部で表している。神を見たものは滅びる、死ぬという理解が旧約聖書にある。罪に穢れた人間が聖なる神を見たならば、生き続けることはできない。万軍の主、神は全てのものの主であると神の力を強調している。そこで重要なのは、イザヤは聖なる神を見て自分の罪を深く思い知らされたということである。イザヤは自分が、死んでも当然であるほど罪深い者であることに気づき、自らの咎、すなわち罪に打ちひしがれたといってよいであろう。イザヤ個人だけではなく南ユダの民も、舌と行いを持って主に敵対し、聖なる神に逆らっていることにイザヤは気づかされたのである。
さて、イザヤは神を見たが死ななかったというのは、セラフィムの一人が祭壇から炭を取り、それをイザヤに触れさせたからである。口、唇とあるが、それは全身全霊を意味する。祭壇の炭とあるのは、神に捧げるための薫香が炊かれていたからである。そして、祭壇の炭に触れることによって、イザヤの罪が赦された。セラフィムを通して罪、咎が赦された。そのことによってイザヤは神の前にいることが出来たのである。
8節に「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』」とある。私は、その出来事を知って驚いた。というのは、それは天における会議を示していると考えられるからである。神は、会議において「誰を南ユダに遣わすべきか。天にいるものの代わりに誰がいいのか」と会議で議論していたというのである。イザヤに対して述べているのであろうか。私はそうではないと思う。天の会議である。しかしイザヤは、たまたまその会議の声を聞いた。そこでイザヤは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言ったのである。その発言もまた驚きである。というのは、イザヤは、天の会議に口を挟んだ。会議では、誰もイザヤを推薦していなかった。しかし、イザヤ自ら「わたしがここにいます。わたしを遣わしてください」と申し出た。危機的な状況で、イザヤは神の言葉を預かり、民に語る預言者に自ら立候補したのである。
さて、召命とは、神から使命が与えられることである。実際、エジプトで奴隷として苦しみの中にあったイスラエルを解放するため、モーセが指導者として神によって召された。その時、モーセはその使命を断ろうとした。しかし、神との問答でモーセは指導者として歩みはじめることとなった。エレミヤも、神によって声をかけられた。エレミヤも断ろうとしたが、神に「共にいて必ず救い出す」と言われ、預言者として歩んだのである。一方、イザヤは神に使命を与えられたというより、自らすすんで預言者となったのである。しかも災いが襲うことを予測することが出来るのにも拘わらず、である。私はこの箇所を読み、本当に驚いた。どうしてイザヤは、自ら「わたしがここにいます」と神に述べることが出来たのか。イザヤが正義感あふれ、信仰者として熱血だったからなのか。そうかもしれない。しかし、重要なのは、神の前にいて自分の罪深さに気づかされた。それにもかかわらず神は、セラフィムを通してイザヤの罪を赦してくださった。その圧倒的な愛によって、イザヤが心を動かされたからではなかろうか。
イザヤは、「誰を遣わそうか」という神の言葉を聞き流すことだってできたであろう。イザヤには、聞き流す自由も与えられていた。イザヤは、自由のなかで自ら覚悟を決め、預言者となることを表明した。そして、神はイザヤの決断を受け入れたのである。神は、私たちが自由意志において決めたことを否定することはなさらない。それが正しいと思うなら行ってみなさいと神は述べてくださる。危険な状況に陥ることを知っているのにも関わらず、なぜ、イザヤは預言者として自ら立候補したのか。それは、自分の罪に気づいた者が、神によって赦されたからではないだろうか。赦されたとは、それは神によって受け容れられ、罪人であるにも関わらずその存在を肯定されたといえるであろう。あなたは、存在する価値がある者である。私があなたの存在を必要としているから赦したのだという神の愛に触れたからこそ、神の愛の応答としてイザヤはイザヤ自身ができることを考え、預言者になるという決断をした。そして、神はイザヤの決断を受け入れてくださったのである。
私たちも同様である。イエスを通して受け容れられ、罪深いにもかかわらず罪赦され、神に存在を肯定されているのである。では、私たちは神の愛に対してどのように応答すべきなのであろうか。イザヤのような大きな業ではなくてよいのである。できる応答でよい。そして、応答はそれぞれ異なってよいのである。神は我々の応答をよしとしてくださるであろう。先ず、神に受け容れられ、愛されていることを私たち自身が受けいれたいと思う。そして、神に応答したいと思う。
祈祷 愛なる神様 イザヤは神の赦しに応答し、預言者となることを自らすすみでました。イザヤは、神の前に立ち、神の圧倒的な力、そして愛からなる赦しを経験しました。イザヤは神に赦され、存在を肯定されたことを喜んだのでしょう。私たちも神に罪赦されていることを受け入れ、喜びの応答をしたいと思います。また、神は私たちが正しいと思い、行うことを否定されず、受け容れてくださいます。神の愛を感謝いたします。この神の愛を私たちは受け、神の愛に応答したいと思います。そして、神の愛を多くの人と分かち合うため私たちを強めてください。そして、神の愛に対し、日々喜びをもって歩みたいと思います。自然災害で被災された方々のことを覚えます。一人ひとり寄り添い、お支えくださいますように。急に涼しくなり、体調を崩されている方もおられると思います。全ての人、特に年を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守りくださいますように。病の中に或る友、術後の経過を見られている友を覚えます。どうか心身ともにお癒しくださいますように。悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。武器を提供することが正しいのでしょうか。争いを止めるよう指導者と話し合うことが大切ではないでしょうか。そして、民、特に最も弱い者のことを考え、指導者が判断することが出来ますように。教会に集うことのできない友、離れている友と主が共にありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 73編 21~28節」
聖書朗読
73:21わたしは心が騒ぎ/はらわたの裂ける思いがする。
73:22わたしは愚かで知識がなく/あなたに対して獣のようにふるまっていた。73:23あなたがわたしの右の手を取ってくださるので/常にわたしは御もとにとどまることができる。73:24あなたは御計らいに従ってわたしを導き/後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。73:25地上であなたを愛していなければ/天で誰がわたしを助けてくれようか。73:26わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが/神はとこしえにわたしの心の岩/わたしに与えられた分。73:27見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。73:28わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「つかんでくださる」
9月23日、筑波学園教会において茨城地区大会が行われた。大人、子ども合わせて82名が集った。午後、6つのテーマのテーブルを設け、30分話し合い、他のテーブルに移るというワールド・カフェを行った。私は「あなたにとって教会は?」というテーマの司会を担当した。教会は自分にとってどのような場所かを説明するのに、教会に来るようになったきっかけ、受洗への歩みを話ししてくださった。証しといってよいだろう。互いのことを知るよき交わりの時になったと思う。クリスチャンの家庭、仏教の家、様々な人々がおられた。神の導きを改めて知り、また、神は一度つかんだ手を離すことはないということも確信させていただいた。お話しくださった方々には、心より感謝したい。
そこで聴いたことを、一つだけ話させていただきたい。その人は、実家が商売をしていたという。高校を卒業した兄が、突然商売を継ぐことになった。しかし兄は、突然のことで戸惑った。そこで商売を学ぼうと思ったのか、ある講演会に行ったそうである。その講演者の先生の話が素晴らしかったので、兄はその先生に手紙を送った。すると返事があり、そこに「商売には愛が必要である」と記されていたという。その後も手紙のやり取りが続く中で、先生から愛を知るため教会に行くことを勧められた。そこで、兄は教会に集うようになり、毎日聖書を読み、洗礼を受けた。その後、話をしてくださったその人も教会に行くようになり、洗礼を受けたという。今でも実家に帰ると、兄に「聖書を読んでいるか」と聞かれるそうである。
「商売には愛が必要である」 私の実家も商売をしている。確かに相手を思う気持ちが大切だと思っていた。一方、商売であるなら、愛ではなく他の店舗に負けないよう励むことが大切であるようにも思う。しかし、愛が必要である。不正をしてまで利益を得ようとする人もいる。当初は、それがばれずに営業成績が上がり、素晴らしい業績を上げ、店舗を増やし、周りから賞賛された。他社が、その状況を見て、素晴らしい、あるいはうらやましく思い、その会社から人材をスカウトし、商法をまねて利益を得る。しかし、それは不正による利益にすぎない。4年ほど前のこと、ある車整備の店に行き、オイル交換の作業が終わるのを待合室で待っていると、男性が私に声をかけてきました。すると、今、話題の中古車会社の話をした。「以前は、そこで整備をしてもらったが、高いし良くない。こちらの店の方が安くて良いよ」というのです。今思えば、声をかけてきた男性は、その中古車会社に愛を感じなかったということなのかなと思った。もちろん、現場で働いている人々は一所懸命であろう。しかし、会社のトップが愛を持っているか否かが、客に伝わるのかもしれない。これからは、愛をもって商売をされることを祈りたい。
さて、旧約聖書詩篇73編に共に心を傾けたいと思う。本日は、後半の箇所だが、全体を見たいと思う。詩編73編は、「知恵の詩編」である。3節「神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ」。神に逆らっているにもかかわらず、罰せられることなく、安泰、何もなく過ごしている。そんな驕る者をうらやんだ、ねたんだというのである。11、12節には「そして彼らは言う。「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」とある。見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく。」と。「神に逆らう者」を、「邪悪な者、悪い者」と訳している日本語訳聖書もある。神は、神に背く者を罰するのではないだろうか。一方、神に逆らう者、邪悪な者が、何もなく過ごし、財力を増やしていくというのである。神に逆らって、自分の好き勝手しているにもかかわらず、富を増やすとは・・・。一方、詩編の作者は、13、14節で「わたしは心を清く保ち/手を洗って潔白を示したが、むなしかった。日ごと、わたしは病に打たれ/朝ごとに懲らしめを受ける」と記している。神を信じているにもかかわらず、病気になり苦難にあう。作者は、神に逆らう者たちが、財をなしていくのを見てうらやましく思っていた、いらだちを募らせていたのである。しかし、変化が訪れた。神に逆らう者たち、身勝手に過ごしていた者たちが、はかなく絶え果てるという事実に出会うのである。そのことが18~20節に記されている。自らの富を誇り、おごっていたため、神に逆らう者たちは、自分の人生の欺瞞性、ごまかしが暴かれたのである。20~21節、そこからこの作者は、神を裏切る者たちに対してうらやましいと思っていたことがまったく間違いであったことに気づく場面を記している。
また、この作者の考えの転換を促したもう一つの事柄がある。いつも近くにいて下さり、寄り添ってくださる神の発見があったということである。詩編のこの作者は、神に見放され、病などにかかり、神から懲らしめをうけていると思っていた。しかし、23節「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので/常にわたしは御もとにとどまることができる」と記している。この神の発見、真の神を知った出来事こそが作者の考え、理解を変化させたのである。神は、つかんだ手を決して離すことはない。だからこそ、私たちは神と共にいることが出来るのである。神のもとにとどまることができるのである。人間の業ではなく、神の業、神が私たちの手を取ってくださるのである。神が捕まえてくださっているから、私たちは神にとどまり、支えられ、正しい道を歩むこと、生きることが出来るのである。
そこで次のように言えるであろう。人間はこの世、地上における富、幸福に目や心を向け、そのことに囚われてしまう。だから、神を裏切りながら身勝手に生き、富を増やしていく者たちをうらやましく思ってしまう。しかし、それは永遠ではない。この世的なものに囚われてしまうことによって、見過ごしてしまうことがある。神は、そのようにこの世的な富を求めしまう私たちを、正しい道にお導きくださる。私たちにとっての幸いとは何か。それに作者は気づいたのである。神こそが、いつも近くにいて寄り添い、正しい道に導いてくださるのだと。神が共いるから邪悪な道に行かずにすんだのだと。
そして、最後に述べている。28節で「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう」と。神が共にてくださることこそ幸いである。自分は独りではない。病など苦難の中にある時にこそ、神は共にいて寄り添い、重荷を共に負ってくださっていた。だから、邪悪の道を歩まずにすんだ。そこで、私たちは何をすべきなのか。この問いが28節の最後にあるように思う。それは、神の愛なる業を述べ伝えることである。つまり、私たちは一人では生きていけない。神の愛、導きによって、生かされている。そして、神の支え、愛、導きを多くの人、隣人と分かち合うことによってこそ、私たちは私たちらしく生きることが出来るのである。互いに支え合うことができるからである。その出来事を具体的に私たちに示してくださった方こそ、イエスである。私たちの重荷を負い、また、私たちを正しい道に導いてくださる。イエスこそ十字架を通して、私たちを神の前にいるのにふさわしい者としてくださったのである。詩編の著者は、実感したことを詩で詠み、私たちに教えて下さっている。この詩編を読む私たちは、この作者の隣人であり、神の愛を分かち合ってもらっている者なのである。私たちも神の愛を信じ、神の愛を分かち合いたいと思う。神はつかんだ手を離すことなく、いついかなる時も私たちと共にいて、正しい道にお導きくださるのである。
祈祷 憐れみ深い神様 私たちは隣の芝生が青く見え、この世的富をえている他の人をうらやましく思ってしまいます。また、どうして自分ばかりが苦難に会うのかと、神を疑ってしまうことさえあります。しかし、神はつかんだ手を離すことなく、いついかなる時も、私たちと共にあり、誤った私たちを正しい道にお導きくださいます。イエスこそ目に見える業で、そのことをなしてくださいました。イエス、神の愛を確信したいと思います。そして、その神の愛なる業を多くの人に告げ、分かち合いたいと思います。どうか私たちをそのように用い、お導きください。大雨、地震などの自然災害が各地で起こっています。どうか、被災された方々をお支えください。急に涼しくなりました。過ごしやすくなりましたが、気温の変化が大きすぎて、体調をくずした方もおられると思います。どうかすべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中に或る友、体調を崩している友、術後の経過を見られている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。世界では争いが絶えません。神から与えられた尊い命を互いに尊重し、また、互いの違いを受け入れ合う平和な世としてください。教会に集うことのできない友、離れている友と主が共にありますように。本日は、世界聖餐、世界宣教の日です。全世界の友と主による食卓を囲み、心を一つに合わせ神を讃美する時としてください。先週の日曜日、敬愛する友が天に召されました。天における平安がありますように、地において悲しみの中にあるご家族をお慰めください。今月誕生日を迎えられる方の上に主の祝福があり、これからの新しい一年をお導きくださいますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 16章 1~13節」
聖書朗読
16:01イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 16:02そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 16:03管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 16:04そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 16:05そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 16:06『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 16:07また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 16:08主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 16:09そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 16:10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 16:11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 16:12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 16:13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「不正にまみれた富」
ルカによる福音書16章1節以下は、正直いって、私には理解できないし、納得もできない。大金持ちの主人のもとで働く管理人が不正を働いた。それが主人にばれてしまい、仕事を取り上げられた。そこで、主人に借りのある人を呼び、借りた金額よりも低い金額に証文を書き換えてしまった。恩を売っておけば、主人から管理人が仕事を取り上げられた時、借りを少なくしてあげた人が助けてくれるだろう。その行為を見た主人は、管理人が賢く振舞っているので素晴らしいとほめた。しかも、イエスは「不正にまみれた富で友だちを作りなさい。不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」と言うのである。
この箇所は、本当に理解が難しく、学者たちも様々な解釈をしている。例えば、100バトスのうち50バトスは利子であり、利子をなくしてあげた。だから主人の財産が減ったわけではない。また、この管理人は油などを貸した時、測りをごかまして不正をし、自分のものとしていた。反省し、自分が不正して得た分を引いてあげたのだ。管理人は管理という仕事を取り上げられたのであって、仕事を辞めさせられたのではない。私は、納得できない。以前、私は大胆な理解を述べたことがある。不正をしたのは管理人ではなく、実は金持ちの主人なのだと。根拠として、当時、富は量が決まっていて、多くの富を持っているということは他の人の分を持っているというのが、その時代の考え方だった。そこで、金持ちは他の人が持つ分を持っている。そのように理解するなら、金持ちの富は不正といえるのかもしれないと思ったからである。ただそれに聖書的根拠はない。9節以下もルカ、或いは、その後の編集者の解釈であると言えるであろう。それも、つじつまが合っていないように私は思う。
私たち人間は、この世的・人間的な理解で、イエスの言葉を理解する。しかし神、そしてその独子イエスの考えと人間の考えは、異なるのかもしれない。そこで、本日のイエスのたとえをそのまま受け入れるべだといえるであろうか。次のような解釈がありる。すぐ前に、放蕩息子を赦す父親のたとえが書かれている。息子は父がまだ生きているのに、財産をもらった。それを遊びで用い、使い果たした。そして息子が帰ってきた。父親は息子を迎え、赦した。同じように、金持ちが不正をした管理人を赦したのである。神の愛は人間の理解を越えるのである。
キリスト教で罪とは、本来ある場にいないことである。人間は神によって創られ、導かれている。人間は、本来神と共に歩む存在である。しかし神を忘れ、自分の欲に従って歩むことがある。それを、罪というのである。神に対する罪を、私たちは自分で償うことはできない。そこで神の独子がこの世に遣わされ、私たちをありのまま受け容れ、赦してくださった。重荷を共に負ってくださっているのである。
これは、あるユダヤ教の教師(ラビ)が語った物語である。「あるとき盗みを働いている現場を取り押さえられた男が、王によって絞首刑に処せられることになった。絞首台へ向かう途中で彼は、総督に自分は大変な秘術を知っており、それを自分と共に埋もれさせるのは残念であるから王にお話ししたいと申し述べた。地中にザクロの種を埋め、父親から教えられた秘伝によってそれを成長させ、一晩で果実を結ばせて見せるというのである。泥棒は王の前に引き出されることになり、王は翌日、国の高官を伴って、彼が控えている場所にやってきた。すると泥棒は、そこに穴を掘って言った。『この種は、ただの一度も自分が所有しないものを盗んだり、奪ったりしたことがない人間のみが、地面に埋めることができます。私は泥棒ですから、埋めることができません』そう言って彼が高官の方を向くと、彼はぎょっとして、『自分は若い時に自分が所有しないものを取ったことがある』といった。次に出納係は、『このような大金を扱っているため、収める金額が多すぎたり少なすぎたりしたことがあるかもいれない』と言った。そして王さえも、自分の父親の首飾りをくすねたことを告白した。そこで、泥棒は言った。『あなたがたは皆、権勢と権力をおもちになり、足りないものは何もありませんが、それなのに種を植えることができません。一方、餓死しそうなためにわずかなものを盗んだこの私は、首をつられようとしています』王は、泥棒の計略に感心して、彼を許した。」というのである。
この話から、私は示唆を与えらた。本日のイエスのたとえも、仕事を取り上げられるという急な出来事に対し、抜け目なく対処している。緊急な事態、それは神の国の到来のとき何をすべきかということを示しているのであろうか。また、本日の箇所で中心となるのは、「友達を作りなさい」ということだという理解がある。つまり、友こそ緊急時に支えになる。友を作ることこそ大切である。さて、次れは私の解釈である。お金持ち、管理人、借りのある人々とは、誰を指しているのか。皆さんは、どの立場であろうか。牧師として、私は管理人ではないかと思った。金持ちは神、借りのある人は皆さん、或いは、弱い立場にいる方々である。神は、あり余った愛を持っている。神の愛は無限である。本来、私は牧師として神の愛を分かち合わなければならない。しかし無駄遣いをしてしまうことがある。神は私のありのままを愛し救ってくださっているのだから、何をしてもいいのだと考えてしまうことがある。伝道をなまける。神の愛を無駄に使っている。つまり、私は神の前で罪人にしか過ぎない。
さて、管理人は主人に無駄使いがばれたので、主人に借りのある人々を連れてきて負債を軽減して恩を売った。危機の時には、恩を売った相手が助けてくれるだろうというのである。主人は、抜け目のない者だと管理人をほめる。先ほど管理人は私自身であると述べた。しかし、私は抜け目のない者ではない。一方、私は、主人つまり神の名を用いて、いろいろな人の罪の赦しを祈る。しかし、私には罪を赦す力はない。すべて神の愛、権能をお借りして、皆さんの罪の赦しを祈っている。神はそれをよしとしているのではないだろうか。私たちは神ではないので、罪を赦すことはできない。しかし、わずかでも許し合うことが大切である。だから本日の箇所は、すべての借りをなくしたのではないというほうが現実味を帯びていると私は理解したい。そこで重要なのは、主人に負債のある人たちが負債を軽減されたということだと思うのである。そのためにこそ働きなさいと私は言われているのではないかと、この箇所を理解したいのである。
本当は、神の赦しにより、すべての負債、罪、重荷はなくなるといいたいところである。しかし「罪は赦された」といわれても、自分の罪を思い、重荷を負って私たちは生きているのではないだろうか。そこで重要なことは、管理人がしたように、何かがあった時に助ける仲間がいるということである。神はそのことを良しとされた。いや、それはとても素晴らしいことだと、私たちに教えてくださっているのではないだろうか。つまり、神の愛を貸すことは良いことであり、借財、罪を少なくすることも良い。なぜなら、それは重荷を共に負うこと、神の愛を分かち合うことだと私は受け取りたい。私たちには、誰もが神に対し負債がある。神を忘れ、神を裏切ってしまうことがある。神は愛であるから、愛を失うともいえるであろう。しかし、神は弱い私たちを受け容れて下さり、神の愛を存分に用いることを良しとしてくださっている。なぜなら、神の愛は無限だからである。私たちは互いに重荷を分かち合う存在、許し合う存在である。そのことに気づいたことを金持ちは、つまり神は管理人を良しとしてくださった。抜け目がないとさえ言った。私たちには、自分の力で自分の罪を贖う力はない。しかし、神の愛を分かち合い、神の愛を用いて罪の赦しを祈り合うことができる。神の目線は弱い者の立場にある。だからこそ、愛を多くの人と分かち合うことが大切である。そして、友として互いに重荷を負い合い、許し合うことこそ大切なのだと教えてくださっているのではないだろうか。神こそ重荷を負っている人と共にあり、重荷を共に負ってくださっているのである。神は私たちに神の愛を存分に用いなさいと言ってくださっているのではないか。私は本日の箇所をそのように理解したいのである。私たちは神の愛を信じ、神の愛を分かち合い、許し合う者、重荷を共に負う者になりたいと思う。神こそ私たちを愛し、赦してくださっているのである。
祈祷 愛なる神様 あなたは大いなる愛で、私たちを包んでくださっています。正直いいまして、今日の箇所はなかなか理解するのが難しい箇所です。御子イエスが私たちに語って下った言葉を、私たちが理解することができますように。あなたは私たちを愛し、受け容れ、赦してくださっています。どうか、私たちがあなたの愛を多くの人と分かち合い、そして、互いに許し合う者となりますようお導きください。あなたの愛を分かち合うことこそ、私たちにとっての喜び、そして、生きる力になります。この生きる力を多くの人に述べ伝えることができますように、私たちを強めてください。天候が不順となっています。そこで、大雨となり多くの被害が出ています。また、世界では自然災害、争いなどによって、苦難の中にある方々がおられます。共にあってお支えください。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中に或る方、骨折をされた方などおられます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。教会に集うことのできない友、離れている友と主が共にありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 5章 1~7節」
聖書朗読
05:01わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。/05:02よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。/05:03さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。/05:04わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。/05:05さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ/05:06わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。/05:07イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「ぶどう園の歌」
イザヤ書5章1節以下に心を傾けたい。イザヤの活動は紀元前740年頃からであった。この箇所は、イザヤの活動の前期に作られたと考えられる。イスラエルは、紀元前1000年頃、ダビデによって12部族の統一王国となった。しかし、その約70年後、イスラエルは、南ユダ(2部族)、北イスラエル(10部族)に分裂した。イザヤの時代には、アッシリアが、パレスチナまで支配を広めていった。イザヤ書は、そのような状況の中で記された。
さて、危機において大切なことは何か。それは神を信じることではなかろうか。神を信じることによって冷静に判断することが、神にすべてを委ねることができる。表題にあるように、この箇所は「ぶどう畑の歌」と言われている。とはいっても、ぶどうの収穫をただ喜び祝うということを示しているのではない。収穫の喜びの中で、イザヤは、愛する者のためにそのぶどう畑の愛の歌を歌うという明るい書き出しではじめている(1節)。では、愛の歌なのであろうか。この歌においては、ぶどう畑と畑を所有する農夫を比喩として用いている。それでは、1節の「わたしの愛する者」とは誰か。「わたし」とはイザヤである。「愛する者」とは、神を指している。イザヤと神が親密な関係であったことが分かる。では、「ぶどう畑」は何を指しているのか。それはイスラエルの民であると考えられる。愛する者、すなわち神は、ぶどう畑、イスラエルを所有しているというのである。
2節に、愛する者は、ぶどう畑となる地をよく耕して石を除き、良いブドウを植えたとある。1節の「肥沃の丘」とはシオンの山、つまり、エルサレムである。2節の「見張りの塔」はエルサレム神殿を指していると言えよう。そこでぶどう畑の所有者の農夫は神、ぶどう畑はイスラエルとして、愛し合う男と女の関係、新郎新婦としてなぞらえている。そのような比喩は、他の旧約聖書の箇所にもみられる。結婚を契約の比喩としているともいえるであろう。2節の、良く耕して石を取り除くとは、良いぶどう畑を作るために長い期間を要し、また沃地にするためになした業は、イスラエルに対する神の守り、導きのすばらしい比喩になっているということである。ちなみに、酒ぶねは、ぶどう酒を作るため収穫したぶどうを絞る過程に必要な器具である。神は、ぶどう畑であるイスラエルを愛しているがゆえに手をかけ、守り、導いているというのである。一方、イスラエルの民はどうであったか。「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」という。肥沃の土地にし、石を取り除いて、良いブドウを植え、大切に育てた。にもかかわらず、出来たぶどうはひどいものであった。つまり、イスラエルの民を神は愛し、守り、導いたにもかかわらず、イスラエルの民は不従順で神を裏切ったというのである。ぶどう畑の歌が、破局の歌になっているといってよいであろう。
3節には、「エルサレムに住むユダヤ人よ」とある。そこで、南ユダに対してぶどう畑の所有者は声をかけている。次に「わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いて見よ」とある。これはこのイザヤ書を読む者、つまり、私たちに対して神とぶどう畑であるイスラエルの間を裁いてみよということである。4節で、神は「しなかったことがまだあるというのか」といっている。つまり、神はイスラエルの民に愛を惜しまず注ぎ、導いてきたのに、それ以上何ができるのであろうかというのである。そこには、酸っぱいぶどうしかできなかった。イスラエルの民は、神を裏切った。そのようなぶどう畑、イスラエルに対し神は、5、6節「さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ/わたしはこれを見捨てる。」といっている。ぶどう畑を守る囲いは取り払われ、焼かれ、踏み荒らされるので、イスラエルは荒廃するであろうというのである。しかも、雲に命じて雨も降らせないともいっている。そこにぶどうを育てるための恵みは注がれなくなる。
7節の「イスラエルの家」とは、北イスラエルを指しているのであろう。つまり、3節にユダとあることから、このぶどう畑の歌は北イスラエル、南ユダ両者に対して述べられているといえる。7節は括弧に発音が記されているように、語呂合わせで締めくくられている。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。」ここで「裁き」を「義」とする訳もある。神は、正しい裁き、義を待っておられたが、流血しか見えず。神は正義を待っておられたが、聞こえるのはイスラエルの苦難の叫び声だけである。これでは救いがないように思う。神は、豊かな沃地として育てた、また、最愛の花嫁であるイスラエルを導いた。しかし、イスラエルの民は不従順であり、神を裏切ってしまった。そのイスラルの民に対し、神は決着をつけなければならない。
はたしてここには救いはないのか。この「ぶどう畑の歌」は、豊かなイメージをもたらす。そこで新しいテキストを生み出していく力を持っているというのである。その後イザヤ書27章2節以下は「ぶどう畑」の回復を告げている。新約聖書においてイエスは、ぶどう畑のたとえを述べている。マルコによる福音書の12章1節以下には、次のように書かれている。「ぶどう畑の主人が農夫に畑を任せ旅に出た。収穫時期なので主人は僕を遣わしたが、農夫たちはぶどうの収穫を自分たちのものにしたいので僕を殺した。主人は、自分の愛する息子なら大事にするだろうと思い、息子を遣わした。しかし農夫は主人の息子を殺してしまった。主人は農夫を殺し、他の人にぶどう畑を任せるだろう。」と。それは神の独子イエスの十字架の出来事を預言している。イエスのこのたとえは、本日の箇所の「ぶどう畑の歌」からできていると考えられるというのである。
では、この「ぶどう畑の歌」には、どのような意味があるのか。預言者イザヤはその物語(イエスのたとえ)の原型となるテキストを形成し、ヤハウェ(神)の厳しい裁きを告げているが、しかし、その後の神の民の姿については沈黙をしている。また、急に歌は止む。イスラエルとユダは、契約の規定を守るかどうかを見張っておられる全能の主の裁きの手に落ちるのだという結論を、預言者は聴き手に委ねる。つまり、神は、人々を期待しておられる。そのような解釈がある。私は次のように理解したい。この後、6章にイザヤの預言者としての召命があり、イザヤが預言者として役割を神から与えられる。つまり、これからイザヤは神から言葉を預かり、イスラエルの民に語るのである。本日の箇所では神の愛に対し、イスラエルの民は応答しない。一方、今日の箇所から分かることがある。神は、イスラエルの民を愛し、手塩にかけ育ててくださるということである。それこそが、私たちが受け取らなければならないことなのである。そこで、先ほどの解釈にあったように、この話は急に終わり、その後の神の民の姿には沈黙をしている。つまり、このぶどう畑の歌は、これで終わりではなく、これを読む者、また私たちがその後の歌を作るべきなのであるということではなかろうか。そのように思うのである。
神との関係は終わっていない。私たちが神とどのように歩むべきか。それがこの続きの歌である。先ほど、この箇所を基にイエスはぶどう畑のたとえを話したと述べた。つまり、ぶどう畑の歌はまだ終わっていない。なぜなら、これからイザヤは神から預言者として役割を与えられ語る。その言葉をイスラエルの民は聞くべきなのである。そして、この箇所から約750年後に神の独子イエスがこの世に遣わされた。イエスのぶどう畑のたとえは、イザヤのぶどう畑の歌と同じように民の不従順を指摘している。しかし、それでもその不従順、裏切りである十字架を用いて、神は救いの業をもたらすとイエスは預言した。つまり、ぶどう畑の物語は終わっていない。これからイザヤの預言があり、かつ、イエスの導きがあるのだと理解できるのではなかろうか。神、イエスによって守られ、耕されたぶどう畑としての人間の歩みは終わっていない。神は、独り子イエスを通して手塩にかけ、愛情をもってぶどう畑を耕してくださっている。今もなおこの物語は続いているのである。
私たちは、この神の業にどう応答すべきなのか。この問いかけが、ぶどう畑の歌にあるように思う。神は、愛し手塩にかけ私たちを今もなお育ててくださっている。神の働きかけを信じ、神に従い歩むべきではないかという問いかけである。神の守り、導き、働きかけを信じたときにこそ、とても甘いぶどうとはいえないかもしれないが、きっと素晴らしい実がなる。神は今もなお私たちを導いてくださっている。神の愛の働きかけをただ信じたいと思う。そして、私たちは新たなるぶどう畑の歌を作り出したいと思う。
祈祷 愛なる神様 イザヤ書にあるぶどう畑の歌は、愛の歌から始まりますが、破局へと向かいます。それは、神の導きに応答しないイスラエルの民への裁きのように思えます。しかし、そうでしょうか。神は、イザヤを預言者とし、後に独子イエスをこの世に遣わされます。つまり、神の導きは終わりではない。この歌を読む現代の私たちが、神の愛なる働きを信じ、ぶどう畑の歌の続きを作り出していくべきであるという問いかけであると思います。神は、この世を創り、手塩にかけ愛し、導いてくださっています。私たちが神の愛、導きを信じ、日々歩むことができますように。また、神の愛を多くの人と分かち合うことができますよう私たちをお用いください。世界ではモロッコの地震、リビアでのハリケーンの災害、ハワイでの山火事、日本でも大雨など様々な苦難の中におられる方のことを覚えます。どうか一人ひとり共にありお支え下さい。暑い日が続きます。全ての人の健康、特に年を重ねられた方、幼い子どもたちをお守りください。病の中にある友を覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。争いは隣人を愛さない行為であり、弱者子どもたちこそ被害合います。どうか争いのない世としてください。教会に集うことのできない友、離れている友と主が共にありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ガラテヤの信徒への手紙 6章 11~18節」
聖書朗読
06:11このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。 06:12肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。 06:13割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。 06:14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。 06:15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 06:16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 06:17これからは、だれもわたしを煩わ
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「新しく創造される」
教会での出会いは、とても大切であると私は思っている。なぜなら、それは神が出合わせてくださったと信じているからである。私は、教会で人々と接することによって、多くのことを教えていただき、信仰を形成している。私が学生だった時のこと、私が通っていた教会では、洗礼準備会が行われ、その最後の日に信仰を告白することになっていた。その時には、信徒、教会の執事(役員)も出席する。信仰告白が終わると、そこに集まった人が、一言ずつ述べる。あるとき、一人の役員が次のようなことを述べた。「私は洗礼を受け何十年もたっています。しかし、いま洗礼を受ける皆さんと同じです。私は朝起きて、今日もイエス様を信じていると確認します。今日もそうです。一日一日信仰を確認し、信仰者として私も新たに歩む者なのです。そのような意味では、いま洗礼を受ける皆さんと同じです。これから信仰者として皆さんと共に歩みたいと思います」。私は驚いた。洗礼を受けてから数十年経っていても、一日一日、イエスを信じているか確認しておられる。私もそのようになりたいと思った。私は、一日一日、祈り、イエスを信じていることを確認する、いや、神、イエスによって生かされていることを感謝する。そのような意味では、日々新たなる者として歩みたいと思っている。信仰は、教会に集う人々との交わりによって与えられる恵みである。
本日の聖書個所は、ガラテヤの信徒への手紙の結びであると同時に、それまでの要約と勧告でもある。本日は11~15節に心を傾けたいと思う。11節に「自分の手であなたがたに書いています」とある。パウロには、語ったことを筆記する代筆者がいた。当時、書簡の執筆は、そのようにして行われていたようである。11節からすると、パウロ自らがガラテヤの手紙を記したということであろうか。私は11節以下の結びを、パウロが自分で記したと理解する。それは、パウロがこの結びにおける勧告の重要性を強調していると考えられるからである。
12節に「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」とある。割礼とは、神との契約のしるしとして男性器の皮を切ることである。ユダヤ人は、生後8日目に割礼を受けた。割礼は、ユダヤ教共同体の一員であるという宗教的なしるしであった。ガリラヤの人々は、異邦人であった。ユダヤ人ではなかった。イエスを信じるユダヤ人キリスト者の中には、イエスを信じる異邦人に割礼を無理やり受けさせようという人がいたというのである。どうしてそのようなことをしようとしたのか。パウロは、ガリラヤの人々に割礼を強制しなかった。その一方で、ユダヤ人キリスト者の中には、割礼や他のユダヤの慣習、律法を強制しようとする者たちがいたのである。律法は、神から頂いたユダヤ教の教えである。ユダヤ人キリスト者の中に、律法を守ることを大切にしていた人々がいた。それはパウロの反対者たちであった。反対者たちは、宗教的動機で割礼を強制した。しかし、それだけではないとパウロは言うのだった。それが「キリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに」という言葉にあらわれている。当時、ユダヤはローマに支配されていた。そこで反ローマ主義的な高ぶりがユダヤにあった。そのようなユダヤ人が、異邦人と接触を持つユダヤ人キリスト者を迫害する可能性があった。無割礼の異邦人と共に生きることは、律法を厳しく守るユダヤ人からの迫害の対象となる危険があったと考えられるのである。イエスは、ユダヤ教権力者から律法をないがしろにする者として迫害され殺された。イエスを信じる者も、ユダヤ教から迫害されていたのである。パウロこそ律法を厳しく守るユダヤ教ファリサイ派に属して、キリスト者を迫害した。しかし、復活のイエスに出会い、迫害される者に、すなわち「キリスト者になったのである。そこで、先ほど述べたパウロの反対者たちは、ユダヤ人から自分たちが迫害されないために、異邦人キリスト者に割礼を受けることが必要だと考えたのである。13節に「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」とある。割礼を受けている者とは、パウロに反対するユダヤ人キリスト者たちである。彼らは割礼を受け、律法を守ることを大切にしていた。しかし、パウロは律法を守っていないというのだった。どのようなことなのか。先ほど話したように、ユダヤ人による迫害を恐れていたから、異邦人であるガリラヤのキリスト者に割礼を強制した。
律法の中心は何だったのか。神を信じること、そして、隣人を愛することである。つまり、割礼を強制する者たちは、自分を守りたいからであり、隣人、ガリラヤの人々を愛しているからではなかった。だから律法を守っていないというのだった。「あなたがたの肉について誇りたいために」とは、どういうことか。割礼は、ユダヤ人のアイデンティティである。割礼を強制するとは、ユダヤ人にさせるということである。「肉について誇りたい」とは、反対者にはユダヤの民族的優位性という考えがあったといえるであろう。ユダヤ人は、神に選ばれた民であるという思いである。神の前では、誰もが同じである。神を信じる者は、神の子なのである。イエスこそが、そのことを教えてくださった。パウロの反対者たちは、割礼をはじめ律法を守ることをユダヤ民族の優位性として誇っていたのである。それに対してパウロは、。14節にあるように「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」といった。「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」という言葉は、もっとも完成し整った称号、結びに相応しい信仰告白である。この言葉を、終結部にパウロは置いたのである。パウロが誇ったのは、自分が律法を守っていることではなかった。ただイエスの十字架の救いのみ、イエスから与えられた恵みのみが誇りなのであった。パウロは記している。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と。これは、イエスの十字架にパウロ自身が参与していることである。パウロはイエスを述べ伝えることによって十字架の苦難を共に負っていると自覚していると言えよう。イエスの歩みをパウロが歩んでいた。イエスに倣い生きたということである。それはパウロのキリスト者としてのアイデンティティといえるであろう。
そして、15節には「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」とある。神を信じるのに割礼を受けているか否かは、問題ではないとパウロは述べている。大切なのは、新しく創造されることである。新しく創造されること、それはイエスにおいて始まった神の愛の業である。イエスの業こそ、新たな創造なのである。創造とは、それまでなかった出来事が起こることである。イエスは十字架において、全ての人の罪、重荷を負い、神の愛を一人ひとり分かち合ってくださった。次のように言えるであろう。私たちは私たちとしてありのままを神に愛され、生かされている者である。イエスの十字架と復活によって、新たな創造の業、神の支配が始まった。私たちは神の愛に招かれている。新しく創造されるとは、イエスと共に歩むことによってはじまるのである。イエスによってありのまま受け入れられ、愛されている。そのことによって、私たちは私たちとして存在することができるのである。そのことこそがイエス、神の救いなのである。
本日は、敬老祝福礼拝である。ある引退牧師が礼拝後、「礼拝に集うことが私の証です」と述べた。その牧師は高齢で、入退院を繰り返していた。礼拝に集うために、日曜に向けて体調を整えた。説教をする体力は、既になくなっていた。礼拝に出席することがやっとだった。その牧師のアイデンティティは礼拝に集うこと、神を讃美し、教会で交わりを持つことだった。引退し、説教もできなくなったが、礼拝に出席することによって証し人として新たに歩んでいた。その姿を見せてくださったのである。パウロも記している。コリントの信徒への手紙(2)の4章16節には「『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」とある。神、イエスの前では何歳になっても新たなる者としての歩みが、一日一日与えられている。教会は不思議な場所である。幼子から年を重ねた者までが、同じ思いを持って集まっている。自分よりも年を重ねた者と共に、礼拝を守る。それは、私たちの希望であり、喜びである。イエスとの出会いによって、私たちは新しい創造にあずかり、日々、新たなる者として歩むことができる。そのことを信じたいと思う。
祈祷 恵み深い神様 ガリラヤの教会において割礼を強制する者がいました。選民意識と同時に、迫害から逃れるためでした。つまり、自分を守るため外面を取りつくろうとしたのです。神、イエスの恵みは誰に対しても平等です。また、神はイエスを通して新しく創造してくださいます。私たちはその救いに招かれています。私たちはイエスの恵みを受け日々新たにされる者です。どうか、このイエスの愛、救いを多くの人と分かち合うことができますようお導きください。本日は恵老祝福礼拝を守っています。年を重ねられた方の上に主の祝福がありますように。先週末は台風が到来しました。自然災害などにあった方々をお支えください。私たちにできることがありましたらお用いください。今週はまた暑くなるようです。全ての人の健康、特に年を重ねられた方、幼い子どもたちをお守りください。病の中にある友を覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。教会に集うことのできない友、離れている友と主が共にありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
祝福のうちに一人一人に命を与え、永遠に愛を持って導いてくださる神様 今日は、敬老祝福礼拝の時を持っています。年を重ねられた一人一人をあなたが祝し、豊かな恵みを注がれますように。重ねられた年月の恵み、その喜びを、この時、共に分かち合うことが出来ますように。また、恵を重ねられた信仰をこの筑波学園教会の財産として、私たちが継承することができますようにお導きください。多くの年月の中で教会を今日まで支えてくださったことを感謝いたします。一人一人がその年齢まであなたによって支えられ、守られてきました。あなたは、どのようなときも重荷を共に負い、愛を持って導いてくださいました。そのお支え、恵みがこれからもよりいっそう豊かにありますように。年を重ねることは決して否定的なことではなく、それは、それまであなたの愛を多くの方と分かち合ってきたということであり、その生涯の中であなたの恵み、あなたの愛を多くの人に証してきたということです。これからも、あなたの恵みがより豊かにありますように。これからの信仰の歩みをあなた祝し、お支えくださいますように、日々新たなる者として希望を持って歩むことができますようにお導き下さい。この祈り主イエスキリストの御名を通して御前におささげいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 31編 2~19節」
聖書朗読
31:02主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。/31:03あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。/31:04あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き/31:05隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。/31:06まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。/31:07わたしは空しい偶像に頼る者を憎み/主に、信頼します。/31:08慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。/31:09わたしを敵の手に渡すことなく/わたしの足を/広い所に立たせてくださいました。/31:10主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。/31:11命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。/31:12わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。/31:13人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。/31:14ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。/31:15主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。/31:16わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。/31:17あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。/31:18主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく/神に逆らう者をこそ恥に落とし/陰府に落とし、黙らせてください。/31:19偽って語る唇を封じてください/正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「沈黙の神」
作家の遠藤周作によれば、「新約聖書は、弱虫がどうして強虫になれたかという物語だ」とのことである。イエスの弟子たちは勝手な夢をイエスに押し付け、悪くいえばイエスを利用しようとした。それで最後には全員がイエスを見捨てた。ユダに全ての罪をなすりつけたが、弟子たち全員がイエスを裏切ったのだ。いわば彼らは弱虫の集まりであり、その弱虫である彼らが後ろめたい思いを持って、たとえ極刑に処されようとしてもイエスの教えを広めようとした。つまり弱虫が強虫になったのである。
弟子たちは、どうして強虫になれたのだろうか。いや、本当に強くなったのであろうか。キリスト教に触れたことのない人は、なぜ十字架で処刑された人が救い主なのかと疑問を持つのではないかと思う。自分の命さえ救うことができなかった人のどこが救い主なのかと。そのような疑問を持つのではなかろうか。弱さの中に強さがある。これこそが逆説だと言われても「逆説って何?」という感じだと思うのである。また、隠れキリシタンのイメージから、キリスト者とは信仰を捨てるよりも自分の命を捨てる方を選ぶ人たちだと思っているのではないか。信仰のためなら弱音をはかないというイメージをキリスト者に感じているかもしれない。
それはどうであろうか。詩編31編は「個人の苦難の詩」である。2~6節は救いの懇願と信頼の表明、6節後半以下は救われた体験と喜び、10節以下は外部からの迫害による苦悩と孤独の訴え、18節にはまた苦難が述べられ、20、21節では神への信頼が、22節以下では再び救いの体験が、そして最後の24節以下において結びの勧告という構成になっている。苦難の訴え、神に対する信頼と救われた喜びが、一つの詩の中で繰り返されている。この詩編の主題、モティーフは「信頼」であると言えるであろう。信頼するとは、神以外の何ものにもより頼まないということである。それは神の慈愛を信じ、辛く厳しい現実を耐え忍びつつ、救いを待ち望む姿勢である。そして重要なのは、信頼は希望と結びつくということである。ギリシャ語訳の七十人訳聖書は、2節「身を寄せる」などを「希望を抱く」と訳し、それぞれの段落に「希望を抱く」という訳をいれている。七十人訳聖書は、信頼のなかに希望をみてとったのである。ただ私は、神学的にではなく、一人の弱い人間として、この詩編を読みたい。
私たち人間は弱い存在であろうか。または、強い存在なのであろうか。私が学生の時に、端から見ると全てが順調そうに見えたある会社の社長が「どうしようもなく寂しく、不安になることがある」と話しくださった。人生は山あり、谷あり、様々な苦難や困難がある。詩編31編は、人間の姿そのものが記されているように思う。私たちは悩み、嘆き、そして、それが解消されたときには喜び、神に感謝する。しかし、困難はまたすぐにやってくる。そうすると、また、神に救いを求める。私たちの人生はその繰り返しではなかろうか。
時には、神さえも疑ってしまうことがある。「どうして私ばかりこのような苦難にあうのか」「信仰が足りないから苦難が襲うのか」「信仰が薄いから弱いのか」「弱いことはいけないのか」私はそうではないと思う。
神を知っている私たちは、弱さの中で何かをすることができるのではなかろうか。神に、苦悩を打ち明けるべきなのか。いや打ち明けることが赦されている。それだけではなく、神に問い、文句を言ってもよいのである。神は、すべての言葉を聴き、受け容れてくださるのである。
詩編31編6節に「主よ、御手に私の霊を委ねます」とある。これは新約聖書のルカによる福音書23章46節において、イエスが十字架に掛けられ最後に述べた言葉「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と同じである。この言葉だけをみるとイエスは神に従順であり、死ぬ最後のときでさえも神に文句の一言ももらさず、最期を迎えたと理解できるであろう。イエスの強さを見るように思う。
しかし、イエスの最後の言葉が本日の詩編31編6節から取られたものであると知ったとき、私たちはイエスの言葉の本当の意味を知ることができるのではないだろうか。この詩編は、強い信仰ではなく、困難の中にあり、苦難を神に訴え、神に救いを求めている。しかも救われたにもかかわらず、また困難にあい再び神の救いを求めている。一度のみならず、その都度その都度、神に助けを求めるのである。そこから考えると、イエスの言葉は何度も困難を神に訴えかけ導かれた言葉、いや、まだこれからも苦難を訴えかけるのかもしれないと受け取ることができるように思う。
私たちは、弱さの中で何も出来なくなった時、神に苦難を述べ、問いかける。それは、心から出る叫びの声である。そして、何もできないから、神よ、全てをお委ねしますと最後に述べるのであろうか。すべてを委ねると述べることこそ、私たちが弱さの中で前に歩むことができる力の源なのかもしれない。神に全てを委ねるとは、神に対する信頼である。神を信頼し、救いを求めた時にこそ、私たちは支えられ、強くなる。なぜなら、それは弱さのなかにおいて神を見出す強さだからである。神は、人間が苦難を神に吐露することを待っておられるのかもしれない。それは意地悪のようにも思える。しかしそうではなく、神は、頼られること、声をかけられることを喜びとしている。それは神に対する信頼からでる人間の叫びだからである。
十字架でのイエスの「神に全てを委ねます」という言葉は、強さではなく弱さの中にあったからこそ、述べることができたのではないだろうか。「神に全てを委ねます」とは諦めではなく、今ここに神が共にいてくださるという願いと信頼といえるであろう。実際、神は共にいてくださるのである。
私たちの日々の生活において、なぜ神は共にいてくださらないのかと疑問が生じる時がある。それは沈黙の神といってよいのかもしれない。「なぜ、こんなに必死に私たちが呼びかけているのに、何も答えてくださらないのだろうか」と。しかし、神は、十字架にあるイエスと共にいて同じ苦しみを負ってくださっている。イエスの苦しみこそ神の苦しみであり、沈黙の中で神は、私たちの重荷を共に負ってくださっているのである。
私たちを守ってくださる砦は、神の他にない。神は、人間の全ての苦しみを負い、共にいてくださるのである。詩編31編の著者こそ、そのことを知っていた。いや、詩編31編は私たちが苦難の中で、祈る言葉なのである。私たちは、弱さのなかで、神になんでも打ち明けることが赦されているのである。つまり、神は弱い私たちを受け容れてくださっている。だからこそ私たちは神を信頼することができ、神にすべてを委ねることができるのではないだろうか。イエスこそ十字架の上で、弱い人間を神が受け入れてくださることを示してくださった。それは、弱い人間に対する神の招きである。この神の招きに気付いたとき、人間に強さが与えられる。いや、強くならなくてもいい。弱くていい。神をただ信頼すればよいのである。神を信頼したときにこそ、私たちは希望を抱くことができる。それは神が共にいてお導きくださるという救いの希望である。
祈祷 憐れみ深い神様 私たちは、弱い存在です。神の助け無くしては立つことのできない者です。しかも、一度だけではなく何度もあなたに苦難の叫びをあなたに述べてしまいます。あなたは、そのような私たちの言葉をいつも受け容れて下さり、お導きくださいます。イエスこそ十字架にかかり、すべてをあなたに委ねますと述べました。それは、全てを神様にお任せしていいという私たちに対する教えであると思います。私たちはただ神を信頼したいと思います。どうか、私たちの苦難の叫びを聞き、導き、希望をお与えくださいますように。また、私たちも互いの弱さ、苦難の言葉を受け入れ合い、支え合うものとなりたいと思います。台風が近づいています。被害がでないようお守りください。9月になっても暑い日が続いています。また、様々なウィルスも流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられた方、幼い者の健康をお守りください。病の中にある友がいます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。9月から新しい学期、歩みがはじまりました。それぞれの歩みを祝してください。教会に来ることのできない友、離れている友と主が共にありますように。今月誕生日を迎えられる方の上に主の祝福がありますように。この礼拝を通して一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「フィリピの信徒への手紙 4章 2~9節」
聖書朗読
04:02わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 04:03なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 04:04主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 04:05あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 04:06どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 04:07そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 04:08終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 04:09わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
礼拝メッセージ:和寺 悠佳 牧師「喜びのすすめ」
(要旨の掲載はありません)
聖書朗読
聖書:新共同訳聖書「アモス書 5章 18~24節」
05:18災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。 05:19人が獅子の前から逃れても熊に会い/家にたどりついても/壁に手で寄りかかると/その手を蛇にかまれるようなものだ。 05:20主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。 05:21わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。 05:22たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても/穀物の献げ物をささげても/わたしは受け入れず/肥えた動物の献げ物も顧みない。 05:23お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。 05:24正義を洪水のように
恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。
「ルカによる福音書 13章 10~17節」
13:10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 13:11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 13:12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13:13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 13:14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 13:15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 13:16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 13:17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
礼拝メッセージ:宮岡 利明 牧師「イエスが目を注がれる人」
主はみなさんと共に。
本日は筑波学園教会の礼拝に用いられます光栄を感じている。以前、信徒の友に筑波学園教会が広告を出しておられた記憶がある。新しい土地で新しい教会をという、愛に燃える教会だと感心した。
わたしは今72才である。神戸で生まれた。人生の大半を関西で過ごした。35才で牧師の仕事を始め、香川県の多度津教会、広島南部教会、そして兵庫県の小野教会を担当した。小野教会は兵庫県内陸部にあり、財政的にも困難な小規模教会であった。小野教会では24年間、牧師を担当した。
視力に障害を得たことで牧師の道に導かれたのであったが、年齢と共にさらに視力低下が進み、教会を担うことが難しくなり、神さまにお願して66才で隠退させていただいた。隠退により個別教会の責任を負うことはなくなったが、福音を伝える務めは続いていると信じ、現在は1970年に洗礼を授けていただいた東京大田区の久が原教会に出席し、昔そうだったように教会学校のスタッフに加えていただいている。時に、他の教会の礼拝に用いられることもある。
さて、本日の福音書でのイエスさまを取り巻く様子をイメージしてみよう。イエスさまと会堂長、そして苦労してきた女性、男たち。騒動は安息日律法によるものである。
彼らは、イエスさまとしばしば安息日律法をめぐって対立してきた。その例は、ルカによる福音書の6章では「手の萎えた人の癒し」に、13章ではこの箇所、14章では水腫の人の癒し」に認められる。イエスさまは、それは律法違反ではないかと非難されておられた。
安息日律法とは、モーセによる十戒の第四番目にある。週の七日目、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日であり、その間は、すべてのユダヤ人は一切労働をしてはならないとされていた。ユダヤ人だけではない。男女の奴隷、町の門の内にいる寄留者、家畜も仕事をしてはならないのである。理由は二つあった。一つは、神さまが天地万物を創造し、七日目に安息し祝福・聖別なさったからである。安息日は、神と人との契約のしるしであり、人が主を知るための日だと教えられていた。出エジプト記の31章15節では「安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる」と言明されている。仕事の内容は火を焚くことなど39の行為が定められていた。
ユダヤ人が律法を厳格に守るようになったのは、バビロン捕囚とその解放後からである。ペルシャによりバビロンが滅び、ユダヤ人は解放されてエルサレムに戻った。しかし、それはペルシャ国内部のことで、独立国としての再建ではなかった。武装蜂起による独立の回復は無理であった。神さまによることがないと、独立は無理だとわかった。神さまが契約を心に留めてくださるには、律法を厳格に守り、神さまの好意を得なければだめだと考え出した。律法を守ることは、祖国回復の手段となったのである。
安息日のもう一つの源泉は、エジプトでの奴隷労働からの解放という記憶である。安息日によって、イスラエルの人々は、祖先がかつての奴隷の民であったことを、辛い奴隷労働から救い出して下さったことを思い起こし、主への感謝と解放の喜びを喜ぶ日という趣旨である。
奴隷には、賃金も休日も、一日の労働時間の制限もなかった。それに対して一週七日間に、一日完全に休まなければならないという安息日律法は、世界最古の労働者保護法だと思う。七日に一日休むことで、人は自分が被造物であり、全能の神ではなく、主の民であることを確認し感謝し、人間性と自己の尊厳を回復し、神さまに深く感謝した。
イエスさまは、安息日を奴隷・抑圧からの解放の日、喜びの日という意味を回復した。18年間病で腰が曲がった女性がイエスさまのもとに来た。当時は、安息日の会堂は、男女別のはずであった。そこには、その女性の切羽詰まった様子が感じられる。イエスさまは旅の人であった。翌日は次の地に行ってしまう。彼女は必死だったのであろう。しかし、彼女は「癒してください」とは叫ばなかった。緊張で声を出せなかったのである。イエスさまは、その必死さを感じとった。イエスさまは、あなたの病気は治ったと宣言し、さらに女性の身体に触れた。彼女の腰は伸び、健やかになった。
この行為を治療行為だと見た会堂長は、治療行為は仕事であり、安息日には禁止されているといった。治療を受けたいのなら明日、ここに来ればよいといった。会堂長は、イエスさまを治療行為者と、会堂を診療所とみなしたのである。しかし、イエスさまは、ルカによる福音書の6章5節で「人の子は安息日の主である」と宣言した。自分は神の子であり、抑圧され苦しんでいる人を導き出す解放する神だといった。イエス様は、抑圧と罪と死からの解放者なのである。
安息日律法は、主の愛・憐れみの現れであった。しかし、規則が文字になると、人はすぐに抜け道を探し、利益を計る。アモス書は、商人たちが安息日を悪用して穀物価格を吊り上げているとの主の怒りを語っている。主が最も大事にしているのは「正義」と「恵みの業」、それを実際に行えとの主の言葉を預言した。イエスさまが女性の身体に直接触れたことは、この身体をもって「正義と恵みの業」を行うことに接続される。そして、その救いの身体性は、十字架の死につながるのである。
わたしは、32才の1月末に、突然髄膜炎で倒れ、意識不明になった。その時、左目が痛んだのを覚えている。髄膜炎であった。数日後に意識を回復した時には、左目は失明していた。左目には治療法はなく、いつか左目に再発作がくるとのことだった。数か月後にやってきた。医師は痛みを止める方法がないので、鎮痛剤がきいている間に目を取るしかないということだった。わたしは右目が弱く、病んでいる左目が頼りだった。それを諦めなければならないという、他に方法がないということで、受け入れた。失意で病室のベッドで横になっていたら、隣のベッドのオジサンが声をかけてきた。「お医者さんが話をしているのを聞いたんだが、目を取らなければならないそうだね。心配しなくてもよい。わたしも目をとり義眼なんだ。中国戦線で負傷し義眼をいただいた。」という。彼は、病室の外の洗面所に私を誘った。ついてゆくと、洗面器に水を張って、こういう風にして義眼を外す、そして装着する様子を具体的に見せてくださった。私はあっけにとられた。それまで義眼を使っている人と出会ったことがなかった。私にとって最もさし迫った瞬間に、そのような人が声をかけてくださったとは。まさに主は私と共におられると実感した。わたしは教会を通して「主はわれらと共におられるという福音」をいただいてきた。その御言葉が、絶対に今ここでなければならないという時に、実現したのである。そのことを信じ、心は喜びに満たされた。手術は視力の回復を断念する手術ではなかったが・・・。
わたしはこの「主はわれらと共におられる。最も重大な時にすぐ隣に来てくださる」という経験を伝えたいと思い、関西学院大学神学部に入学し、牧師への道を歩みはじめた。残された右目も、その後網膜剥離や視野が欠損するなどと厄介ごともあるが、なお役にたってくれている。
真の神であり真の人であるイエス・キリストは、18年間苦しんできた女性に、まなざしを注いだ。それは彼女にとって、もう先には進めないという時であった。共にいてくださる神さまとの出会いと聖書の言葉が、自分への言葉として迫ってくる経験は、私たちを解放する。私たちを抑圧している労苦、不安、恐怖、罪から解放し、次の希望へと導きだしてくれる。福音は具体的であるということを、教会はここに建物が建っていることによって証ししている。
主は、今日も告げてくださる。「わたしは、あなたを知っている。具体的にあなたと共にいる。だから柔らかな顔と心で進みなさい」と。ではゆこう。主の平和の裡(うち)に。
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 9章 1~6節」
聖書朗読
09:01闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。/09:02あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。/09:03彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。/09:04地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。/09:05ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。/09:06ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「終わりなき平和」
先日「たしか『愛の反対語は無関心だ』と言ったのはマザーテレサだと思う」と話してくださった方がおられた。無関心という言葉から、佐渡教会から届いた「佐渡たより」を思い出した。私は、小学校高学年の時に佐渡に家族で旅行に行ったのを覚えている。初めてサザエを食べたこと、海がとてもきれいだったこと、佐渡鉱山に行ったことを覚えている。その佐渡教会からの「佐渡たより」を読み、自分が無知であったこと、いや、無関心であったことを知った。佐渡鉱山は江戸時代からの歴史がある。1939年以降、日本政府は、企業や朝鮮総督府と共同して朝鮮からの労務動員を行った。私が知らなかったのは、佐渡鉱山にも朝鮮からの労務動員が行われていたということである。1939年時点では募集という名目だった。しかし42年に官斡旋、44年には徴用と呼び名が変わった。それは自由意志による移住労働ではなくなったことを意味する。彼らは警察の監視下におかれ、出来高制の低賃金で働かされ、食事、布団代、年金が天引きされ、貯金も強制された。しかも自分の貯金を下ろすのに許可が必要だったという。転職、退職の自由もなかった。1943年6月までに150人ほどが佐渡鉱山から逃げた。つまり朝鮮人労働者たちは、危険を冒してでも逃げ出したい状況のなかに置かれていた。もちろん、逃亡すれば指名手配され、逮捕され、処刑された。ある日、佐渡鉱山の町にある教会を、朝鮮の青年が訪れました。彼は「鉱山の契約期間も過ぎている上に、労働の条件は少しも改善されないし、抗議も取り上げられない。だから小船をやとって佐渡から脱出しようと思う」と心の底に秘めていた思いを牧師に語った。当時、教会は活動休止していた。クリスチャンだった彼は、友人を誘い夜の集会をはじめた。やがて日本人の信徒も礼拝に出席するようになってきた。一方、彼が逃亡することに牧師は同意できなかった。牧師は「逃げたいのは分かる。しかし、危険すぎる」、「ここは神を信じて忍耐してください」と言った。その後、朝鮮の青年たちは一人も集会に来なくなったという。
私はその牧師を、その時代の責任者を責めるつもりはない。ただ、佐渡鉱山において朝鮮の方に対して強制労働が行われていたことを、私はまったく知らなかった。自分の無関心さに懺悔したのである。また、この強勢動員も未だに和解がなされていない。
さてイザヤ書9章は、当時、勢力を伸ばしていたアッシリアによって支配を受けた南ユダなどパレスチナ地方の危機的な状況が背景にある。1~2節は、アッシリアによって撃たれた地域の人々に、再び光が輝き、解放され神から救いを受けたこと。そして救われた人々は、獲物を分配する時のように、神の前で喜びあうであろうという預言である。
3節のミディアンとは、旧約聖書の士師記6~7章の出来事を意味している。昔、ギデオンがミディアン人の支配を打ち破ったように、アッシリアの軍隊を神は打ち破る。隷属させられた人々の苦しみ、外国支配の重いくびきが取り除かれるというのである。
5節に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」とある。「うまれるみどりご、男の子」とは誰か。詩編の2編7節に「お前はわたしの子今日、わたしはお前を生んだ」とある。それは、王の就任の時に用いられたと考えられている。神は、王を養子縁組して自分の子どもとするという考えである。神こそがこの世を創り、この世の支配者である。王が神の子どもになるとは、そのことによって王が地上における神の正当な代行者となることである。王は、神によって民を導く役割を受け継ぐといえるであろう。詩編2編と同じように、本日の箇所の5節も王の就任を示しているのではないかと理解できるという。その理解は、現実的であるといえるだろう。当時の南ユダの王アハズの息子ヒゼキヤの即位、あるいは、新しい王の即位を意味しているのではないかという理解である。
次の「権威が彼の方にある。」の権威とは、神の子として神に基づく権威である。そして、新たなる王の名として4つあげられている。「その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる』」とある。「驚くべき指導者」とは「驚くべき計画者」とも訳すことができる。この「計画」という言葉は、歴史における神の計画を示すときに用いられる。また、「驚くべき」、「力ある」も、神の業に用いられる言葉である。「永遠の父」、「父」という言葉は、「創り主なる父」など神に関して用いられる。最後の「平和の君」、平和の根源は神にあるということ、平和を実現するために王は神から権威を与えられ、その業を行うべきなのである。
王のことを述べているのではなく、神のことを示していると思える。まさしくそうなのである。「力ある神」、人間を神であると述べるのは神に対する冒涜である。また、「永遠も」神以外には存在しない。旧約聖書では、神の名とは口に出すのも恐ろしいという考えがあった。神は畏怖すべき存在だったからである。しかし、この箇所で新たに生まれるという王は、神と同じ名が与えられているのである。これらのことから5節の預言は、人間の王ではなく、神から遣わされる救い主、メシア預言であるという理解がある。
6節に「平和は絶えることがない」とあるよに、ここで救い主が与える平和は永遠であるということが言われているのである。5節に救い主の名が4つ示されていたが、最後の「平和の君」こそが最も示したいことだったのである。そこで、6節で「永遠の平和」が約束されるからである。
本日は、招詞としてゼカリア書9章9節を用いた。救い主はロバに乗ってやってくる。ロバは、戦争では用いられない。平和を意味している。まさしく旧約聖書に預言されている救い主こそ、「平和の君」なのである。私たちの救い主イエスこそ、平和の君としてこの世に生まれた。イエスは、右のほほを打たれたら左を出しなさいとおっしゃった。それは無抵抗を意味している。また、最期は十字架刑によって天に召された。イエスの十字架にはいかなる意味があるのだろうか。イエスは今もなお十字架において私たちの重荷を負ってくださっている。そして、十字架は罪深い人間と神との和解の出来事なのである。人間の罪をイエスが代わりに負い、ありのまま受け入れてくださった。イエスは、神と人間との関係を修復してくださったのである。神との和解において、私たちは私たちとして神の御前にいることができる。
朝鮮の人々に対する強制労働によって、今も重い荷を負っておられる方がいる。もちろん、日本においても、原爆などの重荷は消えることはない。私たちができる和解とは、まず無関心ではなく関心を持つこと、イエスのように愛をもって隣人と共に歩むことなのではなかろうか。イエスこそ、今もなおすべての人の重荷を負ってくださっている。平和の君である主なるイエス、神が示してくださった愛による平和を私たちは求め、そのために歩む者になりたいと思う。救い主イエスは、終わりなき平和へと私たちをお導き下さるのである。そのことを確信し、神を信じ、救い主イエスに倣い、隣人を愛し、重荷を共に負う者になりたいと思う。
祈祷 この世の創り主なる神様 私たちはこの世の出来事において無関心になってしまうことがあります。先の大戦から78年となります。無関心ではなく歴史から学び、今もなお重荷を負っておられる方を覚えることができますように。武器を提供するのではなく和解を提供するよう指導者たちをお導き下さい。8月は6日、9日、15日。争いは悲しみしか生み出しません。私たち自身、隣人に対して関心を持ち、共に重荷を負うことができますよう強めてください。救い主イエスこそ「平和の君」としてこの世に遣わされました。神が終わりなき平和を与えてくださることを確信させてください。そして、神、救い主イエスによる真の平和を私たちが求め、そのため歩むことができますようお導きください。台風6号が沖縄、九州、西日本を襲いました。どうか、被災された方々をお支えください。また、台風7号が接近しています。その影響も懸念されます。被害が出ないようお守りください。また、今年は酷暑となっています。暑さで様々な被害が出ています。また、様々なウイルスも流行っています。すべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、手術の準備の中にある友、治療後の経過を見られている友がいます。心身ともにお癒しください。不安、悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。お盆休みの中にある方々によきリフレッシュの時をお与えください。また、お守りくださいますように。先週の月曜日、清水なつ子さんが天に召されました。悲しみの中にあるご遺族をお慰めください。そして、なつ子さんが天において嘉重郎さんとまみえる時を与え下さいますように。なつ子さんに天における平安がありますように。教会に来ることのできない友、離れている友と主が共にありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 10章 25~37節」 10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 10:26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 10:27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 10:28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 10:29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 10:30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 10:31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 10:36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 10:37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「イエスの問いかけ」
ルカによる福音書の10章25節以下は、「よきサマリア人の譬」という題で知られている。とても分かりやすいと思うので、皆さんが感じていただいたとおりでよいと思う。
私は私の説教については、私のいうことを「聞け」というようには思っていない。私の言葉が、何かのヒントになればと考えている。したがって、私が語ったこととは違うことを心に受け止めていただいても結構である。大切なのは聖書の言葉が皆さんのものになること、心に刻まれることであると私は思っている。聖書の言葉が心の支えになる、導きになるということである。大切なことは、自ら考えることなのである。
本日の箇所は二つに分けられる。まず、ユダヤ教の律法の専門家とイエスとの第一回戦である。律法とはユダヤ教の教えである。律法の専門家は、イエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問うた。なぜ先ほど、第一回戦と述べたのか。それは律法の専門家がイエスを試そうとしていたからである。つまり、律法の専門家は答えを知っていたが、イエスが正しく答えることができるのか試したのである。イエスを「先生」と呼んでいたが、内心先生とは決して思っていなかった。律法の専門家はイエスを見下していたように思う。そこで、イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言った。そこで立場が逆転した。逆にイエスが律法の専門家に問うたのである。律法の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えた。するとイエスは「正しい、実行しなさい」と言ったのである。
そして第二回戦が始まった。律法の専門家は「わたしの隣人とは誰ですか」と再び問うた。イエスは、次のようなたとえを語った。あるユダヤ人が旅の途中、追いはぎに襲われ、半殺しにされた。そこにユダヤ教の指導者である祭司が通りかかったが、何もせずに通り過ぎた。次にレビ人が通りかかったが、祭司と同じように通り過ぎた。そして、サマリア人が通りかかると、彼は追いはぎに襲われた人を自分のロバに乗せ、宿で介抱し、しかも宿の主人に介抱するようお金を渡し、足りないようだったら帰りに支払うと述べたという。イエスは、律法の専門家に次のように問うた。「三人の中で誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったのか」と。律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えた。するとイエスは「あなたも同じようにしなさい」と言った。そこでも律法の専門家が最初に問うたが、イエスの問いによって立場が変ったのである。
さて、このたとえ話の中で、で祭司とレビ人は通り過ぎた。なぜかか。祭司は、それからすぐユダヤ教の儀式を行うのであったか。死んだ人に触ると汚れると考えられていたので、儀式を行えなくなる。もし介抱している途中でその人が死んだら、儀式を行うことができなくなってしまう。レビ人も、祭司または祭司の下の位として働く者だった。そこで祭司と同じ理由で通り過ぎたと考えられる。
一方、サマリア人とはいかなる民であったか。イスラエルは、紀元前922年、北イスラエルと南ユダに分かれた。北イスラエルは、それから200年後、アッシリア帝国によって滅ぼされた。そこで北イスラエルにユダヤ人以外の異邦人が多く住むようになっていった。そして、北イスラエルは、ユダヤ教ではなく、独自のサマリア教となった。ユダヤ教は、サマリア教を見下し、ユダヤ教の中心であるエルサレム神殿にサマリア教を加えなかったので、サマリア教はゲリジム山に神殿を造った。それらのことで、サマリア人とユダヤ人との関係は悪くなった。そのような関係が、イエスの時代にも続いていたのである。それにもかかわらず、サマリア人は襲われたユダヤ人を助け、介抱し、しかも宿の主人に介抱するようにとお金を渡した。イエスはあえて祭司、レビ人、そして、サマリア人をたとえ話に用いたのだと私は思う。私たちにとって隣人とはいかなる者であろうか。アラブのことわざに「よい隣人を持つためには、あなた自身が良い隣人でなければならない」というのがあるそうだ。たとえ理由があっても、苦しんでいる人が目の前にいるなら、愛なる神はどうされるであろうか。イエスは、「隣人とは誰か」と私たちにも問うているのである。
さて本日は、もう少し考えたい。律法の専門家は「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と述べた。まず、永遠の命が欲しいという自己欲がそこにあるのではないだろうか。また、神は良いことをしたら救ってくださるのであろうか。神の愛に条件などない。律法の専門家は、神の愛を理解していなかったと私は思うのである。そして「受け継ぐことができるでしょうか」と述べた。「永遠の命を与えられるでしょうか」ではない。そこには選民意識がある。永遠の命が神から与えられるのは同じ神を信じ、同じ民族のユダヤ人であるという理解である。つまり、他の民族は永遠の命を受け継ぐことはない。ユダヤ人が神の救いを受け継ぐのである。そして、重要なのは「隣人」という言葉に対する理解である。実は、ユダヤ教における「隣人」は、「受け継ぐ」と同じように、同じ神を信じ、同じ民族であるユダヤ人のことを指している。だから、異邦人は隣人に含まれない。そして、二回目に律法の専門家は「彼は自分を正当化しようとして」とある。これは自己弁護、自分こそ正しいという思いがある。だから、再びイエスに問うているのである。
律法の専門家が考えている「隣人」は、神の思いとは異なっている。また、「救いを受け継ぐ」という理解も同様である。律法の専門家の理解と神の意志は異なっているということを、この出来事は示しているのである。そして、最も重要であると私が思うのは、イエスが問うていることである。なぜ、イエスは自ら答えを述べず、律法の専門家に質問して、答えるよう導いていたのか。立場を逆転させるためであろうか。そうではない。律法の専門家自身が考え、答えるよう導いたのである。律法の専門家は、ユダヤ教で伝統として言い伝えられたこと教わったことを鵜呑みにして、しかも自分たちこそ正しいと思い、イエスを試した。逆に、イエスは、自ら考えるように質問したのである。
最初のイエスの質問に対して、律法の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えた。それにイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言った。イエスは「あなたが本当にそのように考えているのなら、それは正しい」ということを言ったのではないかと私は思うのである。次に、律法の専門家は「私の隣人とは誰か」と問うた。イエスはたとえを語った後「三人のうち誰が襲われた人の隣人か」と再び問うた。答えは明らかだが、大切なのは律法の専門家が答えるということなのである。自ら考え答えるようにイエスは、導いたのである。そこにイエスの導きがある。イエスを試そうとした者をも、正しい考えへと導いてくださった。しかも自ら考え、答えるように導いたのである。
イエスは、教わったことが正しいというのではなく、神の愛はどうなのかを自分で考えてみなさいと導いてくださっているように思う。それは、私たちが能動的になるためである。そこで人間が考え、正しいと思ったことを、イエスは否定しない。イエスは行なってみなさいと述べてくださる。もし、失敗したなら、イエスは私たちをただ受け入れてくださるであろう。そして、私たちが再び立ち上がるよう力を与えてくださる。しかも、私たちが正しい道に歩むことができるようお導きくださるのである。イエスを試そうとする者であろうとも導いてくださる。それが私たちの救い主イエスなのである。私たちが誤ったとき、神、イエスの愛を基に、きちんと自ら考えるよう、そして、正しい道にイエスはお導きくださるのである。そのとき神、イエスの愛、救いが私たちの心に刻まれるのである。
祈祷 恵み深い神様 イエスは、愛なる方であると同時に、厳しい方であると私は思っています。イエスの行いを見て、神の独子イエスならどうするのか考え行うよう、イエスは導いているからです。一方、失敗したときには、私たちを受け入れ、正しい道に導いてくださいます。神、イエスは愛をもって私たちと交わり、接してくださいます。イエスは、イエスを試すものさえも導いてくださることからも分かります。もし、私たちが自己本位になり誤った道に行くときには、正しい道に導いてください。私たちもイエスを見上げ、イエスを規範として歩みたいと思います。また、イエスがそうされたように、隣人と共に歩む者となりたいと思います。どうか隣人を愛することができるよう強め、お導きください。台風6号が停滞し、沖縄では多くの被害が出、そして、九州、四国などにも上陸する可能性がります。どうかお守りください。被災された方々をお支えください。暑さ厳しい日が続いています。様々なウィルスも流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、手術の準備の中にある友、治療後の経過を見られている友がいます。心身ともにお癒しください。不安、悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。本日は、広島で原爆が落ち78年となります。被爆された方は癒されることなく重荷を負っておられます。どうか原爆はもちろん争いがなくなりますように。神の平和がこの世におとずれますように。そのため私たちをお用いください。今週の後半からお盆休みになります。良きリフレッシュの時になりますように。教会に来ることのできない友、離れている友と主が共にありますように。この礼拝を通して一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 13編 1~6節」 13:01【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】/13:02いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。/13:03いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。/13:04わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光を与えてください/死の眠りに就くことのないように/13:05敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。/13:06あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「語りかけてみよう」
カウンセリングにおいては、まず相手を受け容れるということが基礎基本とのこと、私もそのように思う。それは1940年頃、カール・ロジャーズという人によって提案された。ロジャーズは、児童相談所に勤めており、裁判を受けた子どもなどを診療していた。それまでのカウンセリングは、患者のことを調べて患者に指示するという方法だった。ある時、ロジャーズは、母親に連れてこられた子どものカウンセリングを行った。けれども、それはうまくいかなかった。カウンセリングを終わらせると、その子の母親が「大人のカウンセリングはしていないのか」とロジャーズに申し出た。そして彼女は、結婚生活などの苦悩を話し始めた。そこから真のセラピィが始まったというのである。そのようにして患者の語り掛ける言葉を聞き受け容れるカウンセリングが始まったのである。
詩編13編は、嘆きの詩編である。その箇所において特徴的なのは、「いつまで」という言葉である。それは嘆きの典型的な表現である。2節と3節では、4回も「いつまで」と問うている。「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」と。「神が私を忘れてしまっている」、「隠れておられる」、「神は私に対して無関心でいるのか」と叫んでいる。つまり、苦難の中にある自分に、神は何も救いを差し伸べてくださらないと嘆いている。3節の「敵」とは、争う相手ではなく、自分との関係が崩れた仲間と考えられる。そこでそれは、仲間の裏切りを意味している。
4節に「わたしの目に光を与えてください」とある。目の病気に陥って嘆いているという考えもある。しかしそれは、目の病気ではなく苦難に陥って目の輝きを奪われるということであると理解したい。つまり、嘆きの中にあるとき、歩む道、そこから抜け出す方法を見ることができないと、進むべき道が闇となってしまっているということを意味している、と考えられる。そこで、「わたしの目に光を与えてください」、歩むべき道を教えてくださいと述べているのである。そして「死の眠りに就く」も、肉体の死を意味しているのではないと考えられる。それは神との関係が回復不可能なほど遠くにある状態を意味している。次のように言えるのかもしれない。苦難のなかにあり、神の助けも感じることができない。いや、神がわたしを見放してしまったという嘆きであると。そのように理解できる。神が見放すということは、救いを期待できない、孤独な状態といえるのではないだろうか。
詩編13編には、1節に「ダビデの詩」と記されている。ダビデとは、イスラエルを最も繁栄させた文武両道の、そして何より信仰者としての王であった。そのダビデが嘆いた。実はダビデが詠ったものではないと言える。では、誰がどのような状況で、この詩を詠ったのか。この詩編を見ていくと具体的な苦難は記されていないとわかる。4節に「わたしの目に光を与えてください」とある。目の病気であるという解釈もあろう。しかし、先ほども述べた通り、苦難の中、歩むべき道が見えないということを意味している。では、この詩編にどのような意味があるのか。
この詩編は、構成の点でも表現の点でも、嘆きと祈りの模範詩的な性格が強いという。つまり、詩編13編は、特定の個人によって一回的に詠われた詩ではないということである。特定の個人の詩ではない。逆に言うと、13編は、苦難の中にある信仰者たちがそれぞれの情況下で発せざるを得ない嘆きとこい願いを、それに託して詠えるように考えられ作られた詩であるというのである。祈りの一つの範例であるということである。
神を信じる信仰者は、すべてを神にお任せすることができるので、いつでも安心していられる。また、神が必ず救ってくださるから心配などしなくてよい。だから、いつも心穏やかにいることができる。神が必ず救ってくださる。神に嘆くことは、神を信じていないから、神を冒涜しているからということなのか。
詩編13編が嘆きの詩の範例であるとした場合、どのように理解できるであろうか。苦難にあえぐという言い方をしている。あえぐとは、息を切らすとか、はあはあと呼吸をするとか、そういう意味である。私たちは苦難の中で、言葉を発することができないことがある。また、神、イエスに嘆いてはいけないと、文句を言ってはいけないと思っているのではないだろうか。聖書には嘆きの詩がある。しかも、それは範例であるというのである。私たちは苦難にあえいでいるとき、何を言っていいのかわからない。言葉さえ出ないことがある。そのような時、詩編13編の嘆きの詩を、祈りとして詠むことができる。それが範例なのではないだろうか。つまり私たちは、神に「どうして、いつまでこの苦しみが続くのか。神は私を見放してしまったのですか。お答えください」と神様に祈っていいということなのである。いや、詩編に嘆きの範例があるということは、「神には何を吐露してもいいのだ、何を言ってもいいのだ。神に嘆きを述べるべきだ。神は嘆きの声を必ず聴いてくださる。」ということにほかならないのである。
また、そのような嘆きの詩は、ほかにもある。嘆きの詩は、元来、聖所において儀礼行為を伴っていたと理解できるというのである。つまり、祭儀を司る者が、人々の嘆きの祈りを神に届けるという儀式を行っていたと考えらえるという。神は畏れるべき存在であった。神の名を述べることさえできないと考えられ、特別に選ばれた者、つまり祭司が人と神との仲介をおこなっていた。だから、人間の嘆きも祭司による儀礼によって神に届けられていた。
しかし、嘆きの詩編は、いつしか祭儀的脈絡から切り離され、儀礼から独立して伝承されるようになったという。どのようにして脱儀礼となったのかは分からない。しかし、儀礼や、それを主導する祭司の介在がなくても、詩編を声をあげ読むことが可能となった。つまり、個人の嘆きの詩編は、いつ、どこででも、神にじかに祈る道を開くことになったのである。詩編13編の嘆きの詩が儀礼から切り離され、範例として理解されることによって、個人の嘆きを神に祈ることができるという道がひらかれたといえるであろう。つまり、神は私たち一人ひとりの嘆きを聴いてくださるということである。逆に、神に何も語らないと思ううことこそが罪なのではなかろうか。嘆きを祈ること、それは心を神に開いていること、神を信頼しているからこそ嘆くことができるのである。神に心を開き、語りかけることこそが大切なのである。私は、神こそ偉大なカウンセラーだと思っている。神こそが、私たちの嘆きを聴き入れ、正しい道に導いてくださるからである。
ところで私は、イエスのゲッセマネの祈りが大好きである。「わたしは死ぬばかりに悲しい。アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とある。私の言葉で言えば「父ちゃん、死にたくない。助けてくれ」である。この言葉の後、「それでも、神さまの意志の通りになりますように」と導かれている。そこにこそ神と人間との正しい関係、神の導きがあると思っている。心から神を信頼し、心を神に開いているからこそ、嘆くことができるのではないだろうか。神の前でかっこつける必要などない。神はありのあまの私たちを受け入れてくださるからである。
私たちは、神に語りかけたい。きれいな美辞麗句ではなく、ありのままの自分、心の内を神にぶつける、打ち明けることが許されている。そのために、神は私たちの傍らにいてくださるのである。だから神に語りけたいと思う。そこから、神と私たちの関係がはじまる。神は必ずその嘆きの声を聴いてくださる。そして6節には「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/『主はわたしに報いてくださった』」と書かれている。神は、最後に私たちを讃美、救いへと導いてくださるのである。
祈祷1 愛なる神様 私たちは日々の歩みの中で、嘆き、苦しむときがあります。詩編13編は、嘆きの範例の詩です。私たちは神に嘆きの言葉を述べていい。いや、述べるべきだと導いてくださいます。神に心を開くからこそ嘆きなど、なんでも述べることができる。神こそ私たちの声をお聴きくださり、そして、救いへとお導きくださいます。神に嘆きを祈ることができる。これこそ私たちの支えであり、希望、救いになります。どうか、主が共にあり、私たちの嘆きの言葉をお聴きくださり、お導きくださいますように。また、私たちも神に倣い、隣人の声を聴き、共にいるものになりたいと思います。そして、互いに支え合いたちと思います。今年は、まだ7月であるにもかかわらず猛暑日が何日も続き、大変な暑さとなっています。どうか、すべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療を受けられている友、手術の準備をされている友を心身ともに癒してください。自然災害で被災された方々をお支えください。台風の時期となります。お守りくださいますように。悲しみ、悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。争いで被害にあうのは弱者、子どもたちです。子どもたちに希望の未来を与えることができますよう指導者をお導きください。争いは悲しみしか生み出しません。どうか、この世が平和になりますように。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。この礼拝を通して一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、今週か原はじまる新しい一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
祈祷2 愛なる神様 パウロはイエスを信じる者たちを迫害する立場から、イエスの愛を述べ伝える者となりました。それは神、イエスの愛を確信しているからです。礼拝で起こった死からの蘇りの奇跡です。同時に、パウロは神、イエスが共にいてくださると確信しているからこそ、冷静に対処することができました。人々は、慰められて帰ります。神、イエスが私たちに呼びかけ、礼拝、讃美を通して生きる力、新しい一週間の糧を与えてくださるという話であると、私は理解しました。どうか、今日ここに集う友、Zoomで讃美している友、そして、事情により参加できない友にも、一週間の罪の赦し、また、新しい一週間の力、心の糧をお与えくださいますように。大雨となり災害が起きています。どうか被災された方々をお支えください。また、被害が出ないようお守りください。猛暑となっています。熱中症など懸念されます。また、様々なウィルスが流行っています。全ての人、特に年を重ねられている方、幼い者の健康をお守りください。病の中にある方々、治療を受けられている方、術後の経過を見られている方、手術を受けるじゅんびをされている方々に心身共に主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。人は愛し合うために命の息吹が与えられました。どうか互いを尊重し合い、支え合う平和な世となりますようお導きください。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお導きください。この小さき祈り、主イエスの御名によっておささげします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 8章 1~3節」
聖書朗読
08:01すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 08:02悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 08:03ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「イエスに従った女たち」
高校生の頃、TVで中性的な男性芸能人ピーターこと池畑慎之介さんとアイドルバンドのヴォーカル藤井フミヤさんの対談を見ていた。恋愛話になり、藤井さんが池畑さんに男女どちらが好きなのかと尋ねました。池畑さんは、女とか男とかではなく、その人を愛するということを言っていた。高校生の私には、ある意味衝撃的な言葉だった。異性という理解ではなく、一人の人を愛するという考えに納得したことを覚えている。本日の説教題を「イエスに従った女たち」とさせていただいた。じつは私は「女」という言葉を用いるべきか悩んだ。
さて、1節には「イエスが十二弟子と共に神の救いを町や村をめぐって伝えた」と記されている。イエスこそ、町や村をめぐって宣教活動をして、それぞれの地で人々と交わりを持ったのである。イエスの十二弟子については、6章12節以下に記されている。では、イエスの宣教に従ったのは十二弟子だけだったのか。そうではなかった。本日の聖書箇所の、8章2~3節には、マグダラのマリア、クザの妻ヨハナ、スサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒だったとある。マグダラのマリアは、復活のイエスに最初に出会った女性である(ルカによる福音書)。他の福音書には、イエスが十字架にかけられるまで従った敬虔な信仰者として記されている。本日の箇所によると、マリアは7つの悪霊をイエスに追い出してもらったという。次に記されている「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」も、ルカによる福音書によると、マグダラのマリアと一緒にイエスの復活に出会った女性の一人である。ヨハナは、当時、ユダヤのガリラヤとペレアという地方の支配をローマより任されていた領主ヘロデ・アンティパスの家令、クザの妻である。家令とは、皇族や華族の家の事務・会計、資産を管理する人だった。ヨハナの夫は、領主ヘロデの資産を管理していたのだから、高い地位にあったという理解が多い。一方、家令といっても様々な地位があるので、クザがどのような地位にいたのかは分からない。ただ、ここに敢えて夫の職が記されているので、高い地位であったと理解したいと思う。次のスサンナは、この箇所にしか記されていないので詳しいことは分からない。その他に、悪霊を追い出され、病気を癒された何人かの女性がイエスに従った。彼女たちは悪霊や病気から癒された経験を持ち、感謝の思いから自主的にイエスに従ったと考えられる。
このように、十二弟子以外にもイエスに従った人々がいたと、イエスに仕えていた人たちがいたと知ることができる。しかも、それが女性たちであったというのである。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。女性たちはイエスと、そして弟子たちと一緒に、神を述べ伝える旅をしたのであろうか。イエスと共に宣教の旅に出た女性がいたかもしれない。ただ、それは難しいことだったといえよう。人々には、家の責任を放棄したと見られたであろう。また、そのような女性は、律法で禁止されている不貞の疑いがもたれ、大変な逸脱をしていると考えらえてしまったであろう。だから、彼女たちが十二弟子たちのようにイエスに従って旅に出るということは、基本的には、女性にはあり得なかったはずである。そこで現実的には、女性たちは食事の用意など自分たちのできることを行ったと考える方が自然であると思う。
女性たちは、自分の持ち物を出し合った。ルカによる福音書は、「持っているものをいかに用いるか」ということを示していると考えられる。人間は欲を持ち、財産を持っていると、より増やしたくなる。また、それを自分だけの物にしようと欲っする。物欲とは、神の意思なのであろうか。持ち物やお金は、用い方によって尊いものとなる。「出し合って」というのは、すべての人に神の救いに与かってほしいという思いがある。そこで奉仕するため持ち物を出し合ってイエスを支えたといえるであろう。自分たちの欲に従ったのではなく、神、イエスの意思に従おうとした結果、持っているものを出し合ったのではなかったか。全ての人を救いに導くために、それは、愛の行為に通じると思う。女性たちは、自分たちのできることでイエスに従い、仕えた。重要なのは、イエスの宣教活動に女性たちがいたということである。
さて、ルカによる福音書では、男性の主人公やグループに言及するところで、しばしば男性に対応する女性の主人公またはグループを登場させている。1章11節以下には、洗礼者ヨハネの父ザカリヤと母エリザベト、イエスの父ヨセフと母マリアが、2章25節以下には、幼子イエスを見たシメオンはイエスを腕に抱き、神をたたえたとある。36節以下には、女預言者アンナが幼子のことを話したとある。4章26節以下には、サレプラのやもめとシリア人のナアマン、7章では、百人隊長の僕を癒した後、やもめの息子をイエスは癒した。15章1節以下、迷った羊の譬えで男性の羊飼い、8節以下は銀貨をなくした女性のたとえである。13章18節以下「からし種」と「パン種」のたとえは、種を蒔くのは男性、パン種と粉を混ぜるのは女性である。17章34、35節、寝ている二人の男性と臼をひく二人の女性、しばしば男女の登場人物が並行する形で記されている。
並行するという意味で、6章2節以下のイエスが十二弟子を選ぶ出来事と、本日の箇所の女性たちがイエスに従うという話は、先にあげたように並行する形で記されているという解釈がある。私自身は、次のように理解したい。イエスに従ったのは、十二弟子たちなどの男性だけではなく、女性たちもいた。ルカによる福音書は、男女を平等に記しているのではなかろうか。当時は、男性中心の社会であった。そのような社会において、男性のことだけを記すのではなく、同じように女性のことも記した。それは、イエスが女性というだけで一人の人格として扱われない当時の社会状況や差別を否定していたこと、イエスが女性を一人の人格として接していたこと、そしてそれは男女を区別せず接し受け容れ、神の愛を分け隔てなくすべての人と平等に分かち合ったといえるのではないだろうか。
本日の箇所の女性たちも、女性としてイエスに従ったのではなく、一人の人間として、一人の信仰者として、イエスに従ったのではなかったか。そして、イエスが神の愛を分かち合ってくださったように、イエスの愛に触れた者として、持っているものを出し合った。それは、金銭、持ち物だけではなく、自分自身を献げるということ、奉仕するということにおいて、すべてを分かちあったのだと思うのである。自分たちのできる仕方でイエスに従い、イエスの活動を支えた。イエスに従うのに女性、男性などまったく関係ない。いや、イエスこそ男性、女性という見方ではなく、一人の人格として一人ひとりと接したのではないかと思うのである。根本的に私たち人間の見方、区別の仕方で、イエスは私たちを見ているのではない。その人をその人として受け容れ、接している。だから「イエスに従った女たち」という説教題も、しょせん人間的な見方にしか過ぎないと私は思ったのである。大切なことは、その人がその人として認められることである。そして、イエスを信じ、従うこと、神の愛を多くの人と分かち合うという思いが大切なのである。
ルカによる福音書において男女を並行に記しているという理解は、神の前では男女平等であるという意図があるのかもしれない。それは当時においては、とうてい考えられないくらい革新的な理解だったであろう。また、クザの妻ヨハナがいたこと。クザは高い地位にいた可能性がある。ヨハナの説明に夫クザの職業を記したのは意図的だったと私は考える。イエスに従う者に地位の高い者がいた。イエスにとって、この世的地位など関係ないということも示しているように私は思うのである。つまり、イエスは、その人をその人として受け容れてくださったということである。だから、地位や、男女に関係なく接した。いや、地位、男女という分け方などしなかった。その人はその人なのである。イエスこそ、私たち一人ひとりをありのまま受け容れ、愛してくださっているということである。私たちも、互いの違いを認め合い、受け容れあい、愛し合うものになりたいと思う。そして、それぞれができることでイエスに従い、仕えたいと思う。私たちはイエスの許においてこそ、私として、私らしく存在することができるのである。
祈祷 この世の支配者である主なる神様 神はいつも私たち人間と共にいてくださり、見守ってくださいます。イスラエル・ユダの民は、神と契約を交わしたにもかかわらず、この世的な思いを持ち、神に背いてしまいます。そこでイスラエル・ユダは悔い改めるように、神に導かれます。神は、ただ罰する方ではなく、必ず新たなる希望の歩みをお与えくださいます。しかも神は創造の力をもって、つまり人間には思いもしない救いをお与えくださいます。また、神はどのようなことがあって、私たちを見捨てず、新しい希望の歩みをお与えくださいます。このことを確信させてください。私たちが神の前に立ち、神と正しい関係を持ち歩むことができますように。そして、多くの人とこの神の愛を分かち合うことができますように、私たちをお用いください。今年は、各地で大雨、突風などで被害が出ています。被災された方々をお支え下さい。被害がこれ以上でないようお守りください。一方、猛暑であり、様々な感染症も流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、幼い者たちの健康をお守りください。病の中にある友、入院をされている友、治療をされている友、これから手術を受ける友、お一人おひとりに心身ともに主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。争いで被害にあうのは弱者、子どもたちです。武器を提供するのではなく、和解の手段を提供するよう指導者をお導きください。また、他者を誹謗中傷するのではなく、互いの違いを受け入れ合う平和な世となりますように。明日は、関東教区宣教部の集いがあります。良き交わり、学びの時になりますように。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 4章 2~6節」
聖書朗読
04:02その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。/04:03そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。/04:04主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。/04:05主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。/04:06昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「悲劇から希望へ」
イザヤ書4章2節以下、それが記された時期は分かっていない。南ユダ王国がバビロニアに敗れ、ユダの地位の高い人々はバビロニアに連れていかれた。それをバビロン捕囚と言う。そのバビロニアは、ユダを滅ぼした約50年後にペルシアに敗北し、バビロン捕囚の民は解放された。それらの時代に預言されたと考えられる。神殿のあるエルサレムは荒廃し、ユダの主だった人々はバビロニアに捕囚として連れていかれた。また、バビロン捕囚の人々は自分の信じる唯一の神を讃美できない。神の民であるユダの人々は、国が滅び絶望の中にあった。また、もしかしたら、神の守りがなかったということが、ユダの人々をより絶望させたであろう。そのときユダの民に、どのような思いを持たせたのか。
2節に「その日」とある。それは裁きの日ではなく、救いの日であり、希望の呼びかけであると理解できる。「主の若枝」とは、イスラエルを最も栄えさせた王ダビデの子孫からなる救い主を意味すると考えらえる。一方で、救い主はなく争いに敗れ、町は荒廃していた。それは精神的にも経済的にも、荒廃していたということである。そこに「若枝」が生えるとは、希望の象徴としての若枝と考えられる。「若枝」とは、イスラエルの復興を意味していると理解したい。というのは、「この地に結んだ実は誇りとなり、輝きとなる」と記されているからである。若枝が萌出し、地の実りとなる。それは荒廃したイスラエル・ユダの復興の兆しを意味し、その日に神によって「栄光」と「誇り」が与えられるからである。
2節に「生き残った者」と、3節には「シオンの残りの者」「エルサレムの残された者」とある。同じ意味の言葉が三回も記してあるのは印象的である。「生き残った者」等は、バビロニアに敗れ、その困難の中を生き延びた者たちと考えられる。また、バビロン捕囚からエルサレムに帰ることのできた者たちを指しているとも考えられる。そのように理解すると、「生き残った者」は復興の希望という意味になると思う。その者たちは「聖なる者と呼ばれ」、「命を得る者として書き記されている」。聖書には、「生命の書」という言葉がある。「生命の書」と訳されていることもある。私は次のように理解したい。「生命の書」とは、神によって救われる者の名が記されている書である。そこでは「生き残った者」がバビロン捕囚から帰ってくる人々たちを指していると理解するなら、神の守り導きに与っている者たちといえるであろう。もしかしたら、バビロンからエルサレムに帰ってくるというのも神の御計画である。はじめからイスラエルの復興が用意されていたのかもしれない。
4節にある「裁きの霊と焼き尽くす霊」の「霊」とは、神の働きといえるであろう。一方、「霊」と訳されている言葉には、「息、風」という意味がある。聖書において暴風は神が現れる現象の一つである。そこで「霊」「風」両方の意味と取って「霊風」と訳されていることもある。私は両方の意味と受け取りたい。つまり神自身が、風のように感じ取れるように、ユダの民に働きかけてくださったということである。それは「シオンの娘たちの汚れを洗い」清めるためであった。「シオンの娘」とあるのは、女性たちが傲慢になり、罪を犯したということであろうか。いや「シオンの娘」とは、イスラエル、ユダ、全体を指していると私は理解したい。つまり、シオンの娘たちであるイスラエル、ユダの人々は神に背いた。ユダの民は繁栄すれば傲慢、贅沢になり、争いに負けそうになると神に頼るのではなく、他国と同盟を組むというこの世的な政治戦略によって苦難を乗り越えようとした。しかし、それは人間の思いであり、神により頼むことなく、神に背く行為であった。神はバビロニアを用いてユダの民を負けさせた。それはユダの破滅ではなく、悔い改めへの導きだったのである。神は決して、イスラエル、ユダに対して怒り、滅ぼしたのではなかった。それは神の民を生かす導きとなったのである。神はただ罰するのではなく、必ず希望の歩みを与えてくださる。
5節に「昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火」とある。神は昼間の陽の強いとき雲によって影を作って守り、そして、夜は火の柱によって暗闇を照らし導く。出エジプト記の13章21節には「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」とある。それは神の守りを意味している。5~6節は、出エジプトの出来事を思い起こさせるように記しているといってよいであろう。出エジプトは、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地に導くという救いの出来事である。また「集会を覆われる」とある。新たな集会には、讃美の場ができ、神によって守られる。しかも「すべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる」。天蓋はシナイ山で神の玉座を覆うものである。また、詩編から考えると、天蓋は花婿を迎える花嫁を示唆しているといえる。神と人間の契約を結婚の花嫁、花婿を比喩とすることがある。そこで、天蓋は花婿と花嫁が出会い、新しい歩みを始めるように、イスラエル、ユダの神との歩みの関係が持たれるということを、指しているのではないだろうか。そして、6節最後の「仮庵」は出エジプトで荒野を旅していたとき、神を讃美した聖所である。荒れ野の旅は危険である。旅をしているときに、聖所があるということ。つまり、旅という危険な中で神が共にいて守ってくださるということを意味しているのである。
神はバビロニアを用いて、神に背く民を罰した。しかし、それは新たなる歩みを始めるために必要な出来事だったのかもしれない。神はイスラエル、ユダの民と正しい関係を持ち、歩むことを望んだ。だからこそ、悲劇的な戦争の敗北の後に神は、希望の歩みを与えてくださったのである。荒廃した街に若枝が萌え出る新しいスタートである。
そして5節に「主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って」の「造る」という言葉がある。その言葉は創造を意味し、また、以前なされたことのない何かを主が行われることを示している。つまり、新しい希望の歩みは、それまで以上の救いの出来事なのである。
希望の歩みを「若枝」「雲、火」「仮庵」等の言葉を用いて示している。それは出エジプトの出来事を思い起こさせるように、記しているのである。出エジプトは、神がイエラエルの民に対して直接介入し、約束の地へと導いてくださった出来事である。神が直接手をくだし、救いへとお導きくださった。しかも、「造る」という言葉を用いて、神がこの世を創った力によって新たなるはじまりという希望の歩みが記されているのである。バビロニアによって滅ぼされ、まったく救いのない絶望的な状況に、ユダの民はあった。しかし、そのような希望のない状況においてこそ、神は新たなる救いを与えてくださった。神は、神の民を放っておかない。それは現代の私たちに対しても同様である。私たちは絶望に陥るような出来事に遭遇することがある。しかし、ユダの民に信仰と希望を与えたように、神は絶望、悲劇で終わらせることはない。私たちは、知らず知らずのうちに、神に背いてしまうことがある。人間は、弱い生き物である。この世の欲望に負けてしまうことがある。しかし、神は私たちには思いもしない出来事を通して、必ず希望の正しい歩みを与えてくださるのである。神は、弱い人間を愛し、どのようなことがあろうとも関係を切ることなく導いてくださる。そのことを確信し、新しい一週間を創造主なる神と共に歩みたいと思う。いや、私たちが神のことを忘れても、神は必ず私たちの傍らにいて共に歩んでくださる。そして、新しい希望の歩みを与えてくださるのである。
さて、「仮庵」とは「神の幕屋」のことである。最後にヨハネの黙示録21章3~4節を読んで終わりたい。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」
祈祷 この世の支配者である主なる神様 神はいつも私たち人間と共にいてくださり、見守ってくださいます。イスラエル・ユダの民は、神と契約を交わしたにもかかわらず、この世的な思いを持ち、神に背いてしまいます。そこでイスラエル・ユダは悔い改めるように、神に導かれます。神は、ただ罰する方ではなく、必ず新たなる希望の歩みをお与えくださいます。しかも神は創造の力をもって、つまり人間には思いもしない救いをお与えくださいます。また、神はどのようなことがあって、私たちを見捨てず、新しい希望の歩みをお与えくださいます。このことを確信させてください。私たちが神の前に立ち、神と正しい関係を持ち歩むことができますように。そして、多くの人とこの神の愛を分かち合うことができますように、私たちをお用いください。今年は、各地で大雨、突風などで被害が出ています。被災された方々をお支え下さい。被害がこれ以上でないようお守りください。一方、猛暑であり、様々な感染症も流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、幼い者たちの健康をお守りください。病の中にある友、入院をされている友、治療をされている友、これから手術を受ける友、お一人おひとりに心身ともに主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。争いで被害にあうのは弱者、子どもたちです。武器を提供するのではなく、和解の手段を提供するよう指導者をお導きください。また、他者を誹謗中傷するのではなく、互いの違いを受け入れ合う平和な世となりますように。明日は、関東教区宣教部の集いがあります。良き交わり、学びの時になりますように。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 20章 7~12節」 20:07週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 20:08わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 20:09エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 20:10パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 20:11そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 20:12人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「受け継ぐ」
使徒言行録は、ルカによる福音書の続きとしてイエスの十字架以降の使徒たちの働きが記されてる。特にパウロの伝道の働きが多く記されている。パウロはイエスの12弟子ではなかった。パウロはイエスを信じる者を迫害していた。しかしパウロは、彼に現れた復活のイエスこそが唯一の神の独子であることに気づいた。それはイエスによる呼びかけ、パウロへの招きであった。そしてパウロは、ユダヤではなく異邦の地で神の救いを述べ伝えたのである。
使徒言行録20章7節以下に心を傾けたいと思う。パウロが礼拝で話していた。すると、夜中になってしまった。青年が眠りこみ、三階から落ちて死んでしまった。そこでパウロが青年をいやした。その出来事は奇跡物語といえるであろう。一方である学者は「そもそも著者自身が、これを奇跡として描いたわけではない。聖パウロがさわったら、死んでいた人間が復活しましたなどという話ではなく、他の人たちが慌てて騒いだけれども、パウロが見てみたら、ちゃんと息をして大丈夫だったというだけの話である。パウロという人は、あれだけ旅行してまわった人だったので、そういう場面で慌てずに対処する落ち着きは、人並以上にすぐれていたはずである」と記している。新共同訳聖書には「パウロ、若者を生き返らせる」と表題がついている。その太字の表題は、元来聖書にはなかった。その表題は現代の学者が付けたものである。学者によって異なる表題をつけることもある。
7節に「週の初めの日」とある。ユダヤ教では元来、安息日は土曜であった。その日に神殿で讃美を行った。初期キリスト教では、イエスの復活を記念する日という意味で日曜日が「主の日」と呼ばれるようになり、礼拝が行われるようになった。続く「パンを裂く」とは、聖餐式である。当時、食事としての愛餐式と聖餐式は、まだはっきりと区別されていなかったと考えられる。当時の聖餐式は、イエスの最後の晩餐をイメージして、遅い時間に行われていたかもしれない。そこでパウロが人々に話していたら、夜中になってしまった。パウロにはイエスや神について、話したいことがたくさんあったということが分かる。あまりにも夜遅くまでパウロが話したので、若者が眠ってしまい、三階から落ちて死んだ。それは騒ぎになったであろう。パウロは青年のもとへ行き、抱きかかえ、「騒ぐな、まだ生きている」といった。そこで、若者は息を引き返した。その一連の出来事は奇跡だったのか。
12節に「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」とある。そこから見ると、生き返ったという奇跡の話である。9節に「青年」とある。元のギリシア語をみても「青年、若者」という意味である。一方、12節の「青年」は、元のギリシア語からみると「少年、子ども」という意味である。どうして違う言葉を用いていたのか。旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの奇跡が、そこで示唆されているのかもしれない。エリヤは偉大な預言者で、エリシャはその弟子であった。旧約聖書列王記上17章17節以下は、エリヤ、また、列王記下4章18節以下には、エリシャが死んだ子どもを生き返らせるという物語が書かれている。特にエリシャの「彼の上にかがみこみ」という振る舞いが、パウロの振舞と類似していると理解できる。そこで、使徒言行録の著者が12節で「少年」と記しているのは、エリヤとエリシャの子どもを生き返らせる奇跡とパウロの出来事を重ねて描写するためであると考えられる。イエスも、死んでしまった人を生き返らせた。そこで、パウロは預言者エリヤ、エリシャ、イエスの業を受け継ぎ、神の愛の業を行ったと理解できるかもしれない。そして、預言者たち、イエス、パウロが行ってきたように、私たちも、この世において神の愛を現わす力、役割が与えられていると理解できるのではないだろうか。パウロは、その役割を受け継いだ。イエスを信じる私たちも、私たちのできることで神の愛をこの世に現わす役割を、神から与えられているのである。
とはいえ、やはり私たちは奇跡を行えない。そこで、私たちは異なる見方をしたい。イエスを信じる者は、日曜日に礼拝を行った。それはイエスが蘇った日である。礼拝は、神を讃美することである。讃美は神との交わり、神の恵みを感謝する時である。また、聖餐式とはイエスとの食事、交わりを思い起こし、今もなおイエスが私たちと共にいて導いてくださっていることを確認する出来事といえるであろう。そこで注目したいのは、10節の「騒ぐな」という言葉である。パウロは、なぜ「騒ぐな」と言ったのか。最初に述べたように、パウロは宣教の旅で苦難に何度もあった。だからパウロは冷静に対処することができた。それだけではないと私は思う。いついかなる時も、神、イエスが共にいてくださること、祈りは聴かれるという信仰が、パウロにあったからではないだろうか。だからこそ、パウロは騒がずに冷静に対処することができたと私は思うのである。
12節には「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」とある。主の日の礼拝をおえ、彼らは大いに慰められ帰っていった。そこは青年が生き返ったので、大いに慰められたということか。「慰められた」とは、「呼びかけられた、招かれた」と訳すことができる。パウロの言葉、呼びかけを聞き、パウロの言葉を十分に心に刻んだとも受け取ることができる。パウロこそが、神、イエスに呼びかけられ、神、その独り子イエスを讃美する招きに与ったのである。その恵みをパウロは語ったのではないだろうか。
主の日の礼拝とはいかなることなのかということを、私たちに教えてくれているように思う。青年が生き返った。私たちは一週間をそれぞれの場で過ごし、歩む。この世における歩みには不安、苦難、悲しみもあろう。しかし、私たちは日曜日に、主イエス、神を讃美するため礼拝に集う。いや、実は、神、イエスによって私たちは礼拝に来ることができるよう導かれ、呼びかけられているのである。そして礼拝において、私たちはイエス、神をほめたたえ、祈る。それは神、イエスとの交わりである。私たちは、礼拝を通して神、イエスがいつも共にいて導いてくださっていることを確認して一週間を歩むことができたことを、神、イエスに感謝する。そして礼拝を通して、神、イエスがありのままを受け入れて下さり、新しい一週間をそれぞれ散らされた場において歩むことのできる力、心の糧を私たちは与えられるのである。その神の愛、恵み、祈りを聴いてくださることを確信しているからこそ、パウロは「騒ぐな」と述べることができた。そして、パウロは青年の上にかがみこみ青年に向き合い、抱きかかえたのである。パウロは青年を抱きかかえた。礼拝中に寝ていたこと、いや、すべてを受け入れ、神の恵みを分かち合ったのではなかったか。そして、青年に新たなる者となる恵みが与えられた。実は、礼拝に集う全ての人に恵みが与えられているのである。だから人々は大いに慰められ、それぞれの場に帰っていったのではなかろうか。それは奇跡の物語かもしれない。一方、主の日、日曜日の主日礼拝を通して新たな者として歩む力が与えられるということを、私たち自身が確認する。そして、この恵みを多くの人と分かち合うためにそれぞれの場に散らされるということを、この物語は意味しているのではないでだろうか。パンを裂くことこそがイエスの恵みが与えられていることを思い起こす出来事である。私たちは青年と同じように、この礼拝を通して新たなる者として新しい一週間を、騒がず恐れず歩むことができるのである。神、イエスが私たち一人ひとりに呼びかけ、恵み、祝福をお与えくださるから、そして、私たちの祈りを聴いてくださるからである。私たちは神の恵みを確信して、それぞれ散らされた場において祈ることを忘れず、神、イエスと共に歩みたいと思う。
祈祷 愛なる神様 パウロはイエスを信じる者たちを迫害する立場から、イエスの愛を述べ伝える者となりました。それは神、イエスの愛を確信しているからです。礼拝で起こった死からの蘇りの奇跡です。同時に、パウロは神、イエスが共にいてくださると確信しているからこそ、冷静に対処することができました。人々は、慰められて帰ります。神、イエスが私たちに呼びかけ、礼拝、讃美を通して生きる力、新しい一週間の糧を与えてくださるという話であると、私は理解しました。どうか、本日ここに集う友、オンラインで讃美している友、そして、事情により参加できない友にも、一週間の罪の赦し、また、新しい一週間の力、心の糧をお与えくださいますように。大雨となり災害が起きています。どうか被災された方々をお支えください。また、被害が出ないようお守りください。猛暑となっています。熱中症など懸念されます。また、様々なウィルスが流行っています。全ての人、特に年を重ねられている方、幼い者の健康をお守りください。病の中にある方々、治療を受けられている方、術後の経過を見られている方、手術を受けるじゅんびをされている方々に心身共に主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。人は愛し合うために命の息吹が与えられました。どうか互いを尊重し合い、支え合う平和な世となりますようお導きください。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお導きください。この小さき祈り、主イエスの御名によっておささげします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 22編 25~32節」
聖書朗読
22:25主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。/22:26それゆえ、わたしは大いなる集会で
あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。/22:27貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。/22:28地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。/22:29王権は主にあり、主は国々を治められます。/22:30命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得/22:31-32 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「語り伝える」
毎月、私が尊敬する先輩牧師が、通信を送ってくださる。その封筒にはいつも手書きで「祈っています」と記されている。誰かが私のことを思い、祈ってくださっている。それは喜びであり、支えとなる。
さて、、新約聖書マタイによる福音書の27章46節に「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とある。その言葉は、イエスが十字架の上で述べた言葉である。衝撃的な言葉である。その言葉が、詩編22編2節の冒頭の言葉と同じである。イエスは、この詩編の言葉を述べたという理解がある。本日は、そのことには言及しない。私は、イエスが十字架上で嘆きの言葉を発したということに大きな意味があると考えている。イエスは、神の独子であっても、十字架は苦難であった。人間として苦しみ、重荷を負った。だからこそ、現代の私たちの悩み、嘆きを理解し、共に負ってくださっている。実は、このイエスの嘆きの言葉にこそ救いがあると思うのである。同じように詩編にも、嘆きの詩がある。本日の箇所、詩編22編がその一つである。私はそこに神の支えがあると思っている。私たちは、綺麗ごとを神に語り掛けるのではなく、ありのままの自分の言葉を神に語り掛けることが許されている。嘆き、叫び、不安、喜び、すべてを神に語ってよい、祈ってよいのである。そして神は、私たちの言葉を聴いてくださるのである。
詩編22編は、前半と後半に分けることができる。本来、後半は23節からだが、本日は聖書日課に従って詩編22編25節以下とした。25節に「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」とある。「なぜわたしをお見捨てになるのか(2節)」と個人の嘆きを述べ始めている。それに対して神は、その嘆きを聞いてくださるというのである。26節の「大いなる集会」とは、神殿礼拝に集う人々のことである。讃美をささげ、満願の献げものをささげる。そのことによって貧しい人は食べて満ち足りる(27節)というのである。神に嘆き祈ることによって、その祈りが聞き届けられた。つまり、神が救ってくださった。そこで、感謝の捧げ物をする。それが、食べ物として捧げられ、神殿に来る人々に食事として振舞われることもあった。そのささげ物は祭司にだけではなく、神殿に来る人々にも振舞われた。そこで神殿に来た貧しい人は満ち足りたのである。
28~29節は、唯一の神は世界の王であり、全ての民族が神に立ちかえり、神を讃えるという。30節で注目したいのが「塵に下った者」である。それは陰府に下さったもの、即ち死んだ者を意味している。神の支配はこの地上のみならず、死者の世界にまで及ぶということである。そして、最後の31~32節に「子孫は神に仕え」「代々に語り伝え」「告げ知らせるでしょう」とあるように、神と共に歩むこと、讃美するよう神に仕え、神の御業を伝える。唯一の神を信じるということを子孫、代々に受け継いでいくべきであるということが示されているのである。
神は、私たちの苦しみ、嘆きを聴いてくださり、導いてくださるのである。そして、神こそ、世界の王であり、死後の世界にもその支配は及ぶのである。つまり、神は、何時いかなる時も、そして、永遠に私たちと共にあり、導いてくださるのである。その神の業こそ私たちの支えであり、恵みなのである。前半最後の22節に「わたしに答えてください」とある。また、他の聖書では「応えてくださった」という訳もされている。そこから転換するのである。神が救いへと導いてくださる。25節に「助けを求める叫びを聞いてくださいます」とあるように、神が救ってくださり、そして、大いなる集会で神に讃美をささげる(26節)というのである。
詩編22編は、2節の「わたしの神よ、なぜ私を見捨てるのか」と個人の嘆きから始まる。前半部分は個人の嘆きが記され、神が答えてくださるというのである。では、後半はどうなのか。
23節に「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。」とある。「兄弟たち」にとあるように、個人や一人ではなく、兄弟が共にいた。この兄弟とは、血族としての兄弟ではない。次の「集会の中であなたを賛美します」、26節で説明したように「集会」とは神殿礼拝に来る人々を意味している。そこで「兄弟たち」は「集会」に集う同胞であると分かる。詩編22編の後半は、個人から集団になっていることが分かる。そこにどのような意味があるのか。前半は個人の苦難が記され、神に救いを祈り求め、神が聞いてくださる。後半は苦難から解放された者の救いの感謝となるが、個人ではなく「集団」という具体的な讃美の場所が設定されるのである。そして最後には、「私」は退き、神こそ死者の世界を含めたこの世の支配者、王であるという讃美へと拡大するのである。
最初の個人的な苦難や信仰体験から、後半は集団、全体の願い、救い、讃美に変わる。私は次のように理解したい。それは、個人の祈りが集団の祈りとなるということである。故人の悩みや苦しみは、個人だけに留まるのではなく集団の苦しみでもある。それは、集団の中のひとりの人の苦しみや悩みを集団全体で担うということであると理解したいのである。そして、神はその苦難の祈りを聞き、救いへと導いてくださる。そして、それが喜びの讃美に変わってゆく。ひとりの人が苦難から救われたということは、同様に神を讃美する者の励ましとなる。26~27節こそが、まさにそのことなのである。満願の捧げ物を神殿に集う人にも食事として分かち合う。それは喜びを分かち合うという出来事である。喜びを分かち合われるとその人には、励みになる。なぜなら、自分の祈りも神に聴かれるという希望になるからである。喜びを分かち合うことはとても大切である。そして、神による救いの喜びは、分かち合いとして受け継がれていくのである。
牧師として説教を語る者として、詩編22編の言葉の意味を伝えているが、この詩編の著者の思いに、私たちの思いを重ねることが一番大切だと思うのである。イエスが十字架上で詩編22編を思って最後に述べたのか、または著者のマタイが詩編22編を通してイエスの十字架を見たという理解もできるであろう。どちらにしてもイエスが十字架の上で嘆きの言葉を発したということが重要なのである。それはイエスの嘆きであり、私たちの嘆きでもあるからである。先ほど述べたように詩編22編は、個人の嘆きが集団の嘆きになり、個人の救いが集団の救いとなっていくのである。人の嘆きを、集団である教会が分かち合うべきである。また、その中心にいてくださる神、イエスこそが共に分かち合ってくださるのである。イエスの十字架の苦難の叫びは、私たちの重荷を担ってくださった叫びといえるであろう。同じように私たちも、隣人の苦難を共に負うべき、分かち合うべきであると思うのである。共に祈るといってもよいであろう。また救いも、個人の救いが集団の救いになっていくのである。互いの嘆き、重荷、そして、神による救いの喜びを共に分かち合いたいと思う。それこそが私たちの生きる支えとなるのではなかろうか。32節に記されているように私たちは、神による救いの喜びを告げ知らせるべき、語り知らせるべきなのである。それは他の人の励ましになる。神はすべての者の神であり、嘆きを聞き受けてくださり、救いへと導いてくださる。その喜びと支えを、多くの人に、子どもたちにも告げ知らせたいと思う。
祈祷 主なる神様 詩編22編の著者は、苦難にあり神に嘆きを述べています。イエスも十字架で嘆かれました。私たちは神に対してきれいごとだけではなく、願い、嘆きなどなんでも述べてよいということであると思います。また、あなたは私たちの言葉を聴いてくださいます。そして、私たちも友の嘆きを聞き、共に嘆き、また、喜びたいと思います。一人の嘆きは、多くの人と分かち合いことによって支えられます。イエスこそその中心にいてくださいます。神は私たちの嘆きを聴き、受け入れお導きくださいます。私たちは、この支え、生きる力を多くの人、また、子どもたちに伝えたいと思います。どうか、そのため私たちを強めてください。天気の変化が激しくなっています。大雨、突風などで被害に会われた方々をお支えください。また、被害が出ないようお守りください。風邪などが流行っているようです。また、暑い日々がこれから続きます。どうか、全ての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある方に心身共に主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。今月誕生日を迎える方々に主の愛による導きがありますように。争いでは何も解決しません。悲しみ、憎しみが残るだけです。どうか平和な世となりますようお導きください。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。 この礼拝を通して一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 15章 1~7節」
聖書朗読
15:01徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 15:02すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 15:03そこで、イエスは次のたとえを話された。 15:04「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 15:05そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 15:06家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:07言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「一人ひとりがユニーク」
迷った一匹の羊と羊飼いのたとえ話は、神の愛をよく現わしているといえる。迷った1匹をさがしに行くのに他の99匹を置いていくという話ではなく、迷った1匹と同じように99匹も愛しているということを意味している。
神は、人間一人ひとりを掛け替えのない存在としてみている。才能を持っている人も、持っていない人も、人間は人格としては、一人ひとりがユニーク、唯一である。神は、そのような存在として私たち一人ひとりを大切に思ってくださっている。いや、そのように命の息吹を与えてくださった。このユニークな人格は、誰にもまねることができない。
人はその人生を、この長い人類史の中で、たった一度だけしか生きられない。逆に、この人類の歴史の中で、その人はその人しかいない。同じ人は、永遠に現れない。また、他の人の人生を代わりに生きることもできない。永遠の過去から永遠の未来に至るまで「私」という、この特定の人格は「私」であり続ける。この私自身は、凡人であって秀でた人物ではないが、この取るに足りない「私」にも、永遠に「私」であり続ける特権が与えられている。それは、その人しか生きられない人生を生きられる、神によって生かされているということである。だからこそ、神は独子イエスが苦しみを受けても、私たち一人ひとりを救いたいと願っておられるのである。
さて、イエスは、徴税人や罪人のもとに行った。徴税人とは、税を集める人である。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあった。その状況下で徴税人は、ローマ帝国に仕える人々であった。ユダヤ人にとって自分たちの国を奪ったローマ帝国は憎い存在であり、また、そのローマ帝国に税を払うことは屈辱だったであろう。そこで人々は、ローマ帝国に仕えていたユダヤ人の徴税人を罪人と同じように扱ったのである。そして、さげすんでいたのである。また罪人とは、律法を破った者である。契約の応答として神から与えられた教えの律法を破ることは、神との関係が維持されないことを、神の守りから外れることを意味し、罪人は疎外されていたのである。イエスはそれらの人々と交わり、社会から疎外されていた人々こそを招き、救いを語った。イエスは「いや、そのような社会的に弱い立場にある人々こそ救われるのだ」と述べたのである。
イエスは羊飼いのたとえ話を語った。旧約聖書には、羊飼いのことがよく記されている。一方、新約聖書の時代には、羊飼いは差別を受けていたと考えらる。というのは、羊飼いは羊に草を食べさせるため場所を移動しなければならなかったため、勝手に他人の土地に入った。羊を見守るため、家族と離れて生活していた。つまり、羊飼いは、家族を守ることができない者と考えられていた。また、羊を見守るため礼拝に出席できなかった。そのような理由である。しかし、イエスは、さげすまされていた羊飼いを、たとえ話に用いた。そのことは注目に値すると思う。そして、この羊飼いこそが神、イエスなのである。
では、ファリサイ派や律法学者たちは、イエスの言動をどのように感じたのか。ファリサイ派とは、律法を厳密に守ることを大切にし、また、自分たちは律法をきちんと守っていると自負していた。律法学者も律法を解釈する者として権力があり、自分たちの信仰こそ正しいと自負していたであろう。
イエスは、「100匹のうち、逃げ出した1匹を探し、助ける。その1匹とは罪人であるが、悔い改めた者である。この悔い改めた者こそが天に迎えられる。」と。一方で、極端にいうと、残りの99匹は正しい人だが、天に招かれないと受け取れる。自分は律法を守り、悔改めなど必要ないと思っていた人々と理解できる。ルカによる福音書は、悔い改めを強調しているのである。
それを聞いてファリサイ派の人々は、律法学者は、どのように思ったであろうか。自分たちこそが正しいと自負している人々が天に迎えられず、救われないと言われた。そのように言ったイエスに対して、怒りを覚えたであろう。
だからこそ、彼らは不平を言った。「イエスは罪人を招いている」「イエスたちは律法を破った者だ」「そのような者が神の救いに与るはずがない」とファリサイの人々は考えたであろう。だからイエスを批判した。
一方、次のような思いがあったのかもしれない。「イエスは、私たちファリサイ派、律法学者に対し、時に救われないと言っている」と。当時、病気は罪の罰であると考えられ、病人は罪人と同じように扱われていた。しかし、イエスは病人と共にいて癒しを行った。イエスは奇跡を行っていた。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスのことを悪魔の頭だと批判しつつも、自分たちにはそのような力はなかった。神は律法を大切にしないイエスを罰しないのかと、ファリサイ派の人々は考えていたのかもしれない。そこで、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神の代わりにイエスを罰しようと思ったのかもしれない。
ユダヤで、次のような話があるという。幸運を手に入れた勤勉な農夫の話である。あるとき神がこの農夫に現れて、彼に三つの願いをかなえると述べた。ただし、神が農夫のために行うことが何であれ、その隣人に二倍にして与えるという条件が付いていた。農夫は、最初に百頭の牛を望んだ。すると、すぐに彼は百頭を手にした。彼は狂喜したが、隣人が二百頭の牛を手にした。それを見て、喜びは消えうせた。次に彼は、1200坪の土地を望んだ。今度も彼は、隣人が2400坪の土地を手にしたのを見るまでは、喜びで満たされた。農夫は、神の恵み深さに感謝するどころか、自分の隣人が自分より一層多くのものを受けたために、屈辱の思いにかられたのである。最後に彼は、自分の片目が見えなくなるよう目を打ってほしいと第三の願いを神に伝えた。それを聞いた神は泣いたという。
人間の欲望には終わりがない。いや、次のように言えるのではなかろうか。他の人と比べることによって、本来、自分に与えられた喜び、恵みを忘れてしまう。自分より幸せそうに見える他者の喜びを共に喜ぶことができない。
ファリサイ派や律法学者の人々はイエスの癒しの業に対し、癒された人々のことを考え、共に喜ぶべきではなかったか。また、ファリサイ派や律法学者たちにも、神の恵みが十分に注がれていたであろう。しかし、イエスの奇跡を見て、自分たちになぜそのような業ができないのかと、嫉妬したのかもしれない。そこで、彼らが行ったことは、イエスを十字架に掛けることだった。隣の芝生が青く見えたなら、その芝生を刈り取ってしまえばいい。そうすれば、自分たちは屈辱を感じなくて済む。もしそのように考えていたなら、なんと短絡的な発想であろうか。
そして、神がそのことを悲しむということに、気づいていなかった。神の愛に気づいていなかったといえるのかもしれない。神はファリサイ派の人々、律法学者の人々、一人ひとりを愛していた。一人ひとりをユニークな存在、唯一の存在として永遠に導いてくださっていた。律法学者たちの働きを、神は十分に祝していたであろう。そのことに気づいていなかったのである。律法を守れば、神の守りの内にあると、律法を守ることに専念することを否定しなかった。神に対する信仰の表し方はさまざまである。しかし、自分たちが唯一正しいと考えることは、イエスと自分を比べることは、神の意志ではないと思う。自分を正当化するのではなく、ただ神という規範から自分の行動を確認すべきだからである。おごり高ぶってはいけないのである。そして、神は、すべての人が救われるために、一人ひとりを、はぐれてしまった一匹の羊として導いてくださっているのである。神は、そのために独子イエスを人間としてこの世に遣わされたのである。
私たちは、この迷い出た一匹の羊のように神に愛され、導かれている。それは、残りの99匹も同様である。誰か一人が特別なのではなく、すべての人が神にとって特別なのである。そして、一人ひとりをユニークな人格として、よしと受け容れてくださっている。そのことを私たちは確信したいと思う。同時に、私たちも互に異なるユニークさを受け入れたいと思う。それが豊かさなのではなかろうか。
ファリサイ派の人々は、イエスと自分を比較してしまったのかもしれない。しかし、他者と比較しなくてもよいのである。この世において苦難を負っていない人、迷わずにいる人などいない。だからこそ、神は私たちを迷い出た一匹の羊のように愛してくださっているのである。私たちは神の愛を信じ、すべての人が神の愛のもとにあることを互いに認め、互いに受け入れ会い、神へと歩む者となりたいと思う。
祈祷 愛なる神様 あなたは私たち一人ひとりをこよなく愛し、お導きくださいます。一人、迷い出たときには探しだし、喜んでくださいます。ルカによる福音書では悔改めが強調されています。確かに神、イエスに心を向けることこそ大切です。同時に、自分が正しいとおごり高ぶるのではなく、ただ神のみを見上げ、謙虚になり、イエス、神が愛してくださるように互いに愛し合う者になりたいと思います。そのため、一人ひとりがユニーク、唯一の存在であることを認め、互いに支え合う者としてください。また、神、イエスの愛を多くの人と分かち合うことができますよう、私たちを強め、その業に用いて下さりますようお願いいたします。梅雨、天候の悪い日が続き、また、各地で雨が降っています。被災された方々をお支えください。また、これ以上、被害ができないようお守りください。体調の崩しやすい時でもあります。全ての人、特に、年を重ねられた方、幼い者たちの健康をお守りください。病の中にあるとも、治療を受けられている友、これから手術を受けられる友のことを覚えます。心身と共に癒しの御手を差し伸べてくださいますように。苦しみ、悩み、不安、また、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。争いは人の欲でしかないと思います。どうか互いの命が、唯一であることを覚え、尊重し合うようお導きください。指導者に争いを止める勇気をお与えください。平和の世となりますようお導きください。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 3章 1~15節」
聖書朗読
03:01見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。/03:02勇士と戦士、裁きを行う者と預言者/占い師と長老/03:03五十人の長と尊敬される者/参議、魔術師、呪術師などを取り去られる。/03:04わたしは若者を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。/03:05民は隣人どうしで虐げ合う。若者は長老に、卑しい者は尊い者に無礼を働く。/03:06人は父の家で兄弟に取りすがって言う。「お前にはまだ上着がある。我らの指導者になり/この破滅の始末をしてくれ」と。/03:07だがその日には、彼も声をあげる。「わたしにも手当てはできない。家にはパンもなければ上着もない。わたしを民の指導者にしてもだめだ」と。/03:08エルサレムはよろめき、ユダは倒れた。彼らは舌と行いをもって主に敵対し/その栄光のまなざしに逆らった。/03:09彼らの表情が既に証言している。ソドムのような彼らの罪を表して、隠さない。災いだ、彼らは悪の報いを受ける。/03:10しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる。/03:11主に逆らう悪人は災いだ。彼らはその手の業に応じて報いを受ける。/03:12わたしの民は、幼子に追い使われ/女に支配されている。わたしの民よ/お前たちを導く者は、迷わせる者で/行くべき道を乱す。/03:13主は争うために構え/民を裁くために立たれる。/03:14主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者から奪って家を満たした。/03:15何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」と/主なる万軍の神は言われる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の審判」
私の出身地の群馬県には「上毛かるた」というのがある。県の名所や偉人、産業などが、かるたの文句になっている。それは群馬県民なら、誰でもそのかるたのことばを覚えている。「へ」のかるたのことばは「平和の使い新島襄」である。新島襄は、京都の同志社大学を創設した人物である。10年前のNHKの大河ドラマ「八重の桜」では、新島襄のパートナー(妻)の八重が主人公となっていた。湯浅次郎は新島襄と出会い、キリスト者となり、安中教会創設に尽力し、県会議員となった人物である。また、安中教会牧師の柏木義円の名前も、お聞きになったことがあるかもしれない。二人は、平和運動や廃娼運動などを行った。本日は甘楽教会の牧師就任式が行われる日である。新島襄と出会い、献身した人物に斉藤寿雄という人がいる。群馬の地方新聞、上毛新聞日曜版2012年6月17日の記事「全国の給食導入、廃娼運動展開生涯をかけ健康を願う」と題し、斉藤寿雄さんが紹介されていた。斉藤さんは、新島襄と出会い、甘楽教会創設に貢献した。新聞記事冒頭に「医師でありクリスチャン、教育家、政治家と様々な顔を持った斉藤寿雄。初代県医師会長など医師としての功績はもちろん、栄養改善のための給食制度導入や全国に先駆けた廃娼運動の展開など“全国初”となる偉業も多い。生涯をかけて人々の健康を願い、よりより社会の実現を目指した。」とあった。斉藤さんは、貧しい人から治療代を取らず「情け深いひげ先生」と呼ばれていた。また、富岡製糸場の嘱託医として工女の健康管理にもあたっていた。斉藤寿雄は、県会議員になり給食制度導入、廃娼運動、また、幼児教育、女性への教育をも行った。
なぜ、本日そのような話をしたのか。本日の聖書箇所、イザヤ書3章1節以下を読み、ある本を思い出した。それは、20世紀最も偉大な神学者のことを記した本である。著者は、使徒的人間とその神学者のことを表現している。イエスの弟子の12使徒からである。私はこの本を読み、使徒的であると共に預言者的人間であると思ったのである。預言者とは、神から預かった言葉を民衆に述べ伝え、正しい方向に導く役割を与えられた者のことである。その内容には、時の権力者に対する批判もある。そこで命を奪われそうになった預言者もいた。つまり預言者であることは、とても過酷な働きだったのである。神から言葉を預かり、責任をもって述べ伝え、導く。それは重荷である。特に、イザヤは当時の社会状況を把握し、その中で一番大切なことは神に従うことであると、必ず神の導きと守りがあると述べ伝えたのである。
イエス以降、預言者はいないと私は思っている。しかし、イエスに出会った者は、イエス、神の言葉を通して今何を語り、何を行うべきか考えるようになると思うのである。私が預言者的と理解したのは、私自身預言者と同じ重荷を負い、ただ神のみを見て、その状況において神の導きに従い歩むべきだと思ったからである。そのように歩んだ人物こそ、新島襄であり新島と出会いキリスト者なり、活動を行った柏木義円先生、湯浅次郎さん、斉藤寿雄さんのことを本日の箇所を読んで思い出したのである。
さて、イザヤ書の3章1節以下に心を傾けたいと思う。この箇所がいつ記されたのかは難しいところである。南ユダ王国のヨタム王の治世、紀元前739年頃という理解がある。しかし内容としては、578年のバビロンによって南ユダ王国が崩壊した前後が背景になっているのではないかとも考えられる。どちらにしても、南ユダ王国が他国と争い、困難の中にあることが前提になっていると思う。
1節に「イスラエルの支えとなる者、また、生きるのに必要な水さえも、神は取り去られる」とある。2、3節には、戦士、律法の守り手たち、長い人生経験を通して知恵を持つ年を重ねられた者たち、そして、50人の長のことが書かれている。50人の長とは、50人隊の長であり軍事的指導者である。参議とは、政治的指導者である。それら社会的地位の高く、ユダ王国を導き、支える人々が取り去られた。それらの人々がバビロンに連れていかれた。魔術、占いは、申命記では禁止されていた。戦いの準備を神が取り去るというのである。4、5節には、政治的混乱が記されている。指導者たちが奪い去られ、経験のない若者たちが国を治めることになった。しかし、若いゆえに自分勝手な判断をしてしまった。このように、南ユダは混乱した状況になった。6、7節には、信頼する指導者がいないということが書かれている。8、9節には、エルサレムとユダの破滅を先取りされている。それは罪の結果であるというのである。12節は、幼子や女性が支配することを、混乱とみている。現代では、そのような考えはよくないとは思うが、当時の考えがあるのでお許しいただきたい。14、15節は、支配階級の横暴を述べ、ユダの民を神のブドウ畑と呼んでいる。
そこで、神は長老者たちと支配者である君主たちを、自分の民のぶどう園の雇い人であるとしている。彼らはぶどうを摘み尽くしてしまうというのである。それは、貧しい人々の保護と福祉のためにその職に任ぜられた支配者らが、ありとあらゆる手段を用いて、貧しい人々を経済的に圧迫し、弱い立場の人々の人間としての誇りを奪い取ってしまった。権力の濫用によって社会秩序が解体し、民族の破局をもたらすということである。そこで神は、告発者であり、ひきつづき実力行使を行う。神は預言者イザヤを用い警告し、また、敵国を用いてユダ王国を滅亡させるということである。
預言者イザヤが神から預かった言葉は、支配者に対して行いの過ちを指摘している。南ユダ王国は、滅亡する。それは、指導者が自分たちの欲望によって民を苦しめたからというのである。その結果、貧しい民衆はより貧しくなり、生活することさえ困難になる。大切なことは、神はこのことを見て、知ってくださっている。だから審きが下る。その審きは、他国から攻められ、国が崩壊してしまうことであるというのである。
支配者とは、強盗ではない。民を苦しめ、物を奪う者ではない。支配者は、そこに住む民が安全に、健やかに、そして、神を共に讃美することができるように守り、導く者である。つまり、民が民らしく生活できるように統治することが神から与えられた支配者の責任である。しかし、そうではなく、支配者は民から多くを奪ってしまった。イザヤは支配者に対して、その行いを反省するよう導いたのである。しかし、そのことによってイザヤも苦難にあう。支配者にとって預言者は邪魔になるからである。
預言者の役割は神の言葉を語り、民が神を信じ、安全に過ごすことができるよう導くことである。そこで支配者の悪業に対して、否を言わなければならないときがある。とても過酷な仕事である。しかし、預言者は神から与えられた役割を全うするのである。イザヤこそ預言者としてそのことをなした。私たちも預言者に倣いたいと思う。・・・と言いたいところだが、それはとても難しい。しかし私たち一人一人も、神から役割が与えられている。それを神からの委託といえるであろう。しかし、なかなか行うことができない。私自身牧師として預言者的人間になりたいと思っている。しかし、難しい。では何もしなくてもよいのか。
私たちは、イエス、神、つまり、聖書から考えることが大切である。冒頭で述べたように、私たちキリスト者の先代こそが、それを行ってきたことが分かる。そして、預言者のようにはできないと諦めるのではなく、祈りから始めるべきだと考える。祈りは歩み方を教え、力を与えてくれる。イザヤを通して、神は指導者の不正・不義を戒めた。指導者の不正・不義は神を侮辱する行為だからである。それゆえに、ユダに危機が訪れることが示された。しかし、どんなことがあっても、最終的には神が守ってくださる。それは神との契約の故である。つまり神こそ、いつもユダの民を見てくださり、不義・不正を暴き、正しい道へとお導きくださるということである。祈るとは、神との会話であり、そこで神の意志を聴くということである。神の御心、意志を常に尋ねることが大切なのである。預言者的人間といっても、私にはなかなかなれない。しかし、なれないのではなく、まず祈りを通して神と話し、神の意志をたずねる。そして、自分ができる小さなことに目を向けたいと思う。必ず神は正しい道へとお導きくださる。そのことを確信すべきである。そして、神が役割を与えてくださるということは、支え、必ず守ってくださることを意味する。預言者たちは神の守りの中にあった。なぜなら、神が民を正しい道に導くためである。それは、私たちに対しても同様である。神は必ず支え、正しい道に導いてくださる。そして、守ってくださるのである。私たちは自分の思いではなく、ただ神、イエスの導きを信じ、聖書、祈りを通して、神の御心をたずね歩みたいと思う。必ず神、イエスは共にいて正しい道にお導きくださる。
祈祷 導き主なる神様 預言者は神の言葉を預かり、民に語り、導く者です。神の言葉は、時にこの世の権力者の不義・不正をあばくものでもあります。そこで、預言者は厳しい立場に立たされる時もあります。一方、神は預言者を任命するのですから、預言者を導き、守ります。現在、預言者はいません。しかし神、独子イエスと出会った者は、その声に聴き従うという意味では、預言者的な責務もあると思います。一方、私たちはなかなか預言者のようになれません。そこで、祈りを通し、力を与え、お導きください。神に従い、全ての人が救いに与ることができますように、互いに愛し合い、支えあう世としてください。梅雨に入りました。体調の崩しやすい時です。全ての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある方、治療を受けられている方、経過を見られている方、心身共に癒しの御手を差し伸べてください。苦しみ、悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。大雨など自然災害によって被害が出ないようお守りください。教会から離れている者、集うことのできない者の上に主の導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 14章 15~24節」
聖書朗読
14:15食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。 14:16そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 14:17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。 14:18すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 14:19ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 14:20また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 14:21僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 14:22やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 14:23主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 14:24言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神からの委託」
イエスは、食事をするためにユダヤ教の一派ファリサイ派の議員の家に入った。ファリサイ派とは、ユダヤ教の教えである律法を厳格に守ることによって救われると信じていた一派である。一方でファリサイ派の人々は、イエスが律法を守っていないと理解し、イエスに敵対していた。ある人が多くの人を食事に招いたが断られ、そこで他の人々を食事に招いたというたとえ話である。神は最初、イスラエルの民と契約を交わしたが、ユダヤの民は神の独子イエスを受け入れなかった。そこで、神はユダヤ以外の人々を神の食卓に招いた。つまり、イスラエルの民は神を裏切ったので、神は異邦人を救いへと導くということがこのたとえに示されている。ルカによる福音書の著者の理解といえよう。
他方、イエスはこのたとえで、何を私たちに示してくださっているのか。当時の食事は、同じ地位や立場にあった人々が共に食卓についていた。その食事の席は、ファリサイ派の議員、つまりユダヤ人の社会でも高い地位にあった者がイエスを招いたと考えられる。そこでファリサイ派の、律法学者のなかでも地位のある者が同席したと理解できる。彼らはイエスに敵対していたので、イエスの言動から何かを見つけ、指摘しようとしていたと考えられる。
さて、食事の客の一人がイエスに「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」と言ったとある。そこで、イエスはたとえを述べた。ある人が宴会を催そうとして、大勢の人々を招いた。しかし、招かれた人々は次々と断った。畑を買ったので見に行かなければならない。牛を買ったので調べに行く、そして結婚したばかりなので行くことができないという。どの人も招きよりも自分の事を優先した。土地を買う人、牛を買う人、おそらく裕福な人々だったのであろう。結婚したという断り方があった。旧約聖書の申命記には、律法が記されている。そこには新しい家族のために一年間兵役や公務を免除されるという規定が書かれている。しかしここでは、食事への招きであり仕事ではないので、この律法には該当しない。どれも自分のことばかり考え、断ったといえるであろう。招かれた人とは、神に選ばれた民であるユダヤ人、特に権力者たちを示していたと言えるであろう。
神は、独子イエスをこの世に遣わし、すべての人を救いに招いた。しかし、ユダヤ教の権力者たちは、イエスを神の独子だとは、救い主であるとは受け入れなかった。一方、イエスは奇跡や、教えを通してユダヤの民衆に支持され、やがて王になると期待された。そのことに対して、ユダヤ教の権力者たちは嫉妬した。また、イエスが律法に忠実でないと考えていた。そこで、ユダヤ教の権力者たちはイエスを敵視するようになっていった。
たとえ話に戻ると、宴会を催す主人は、広場や路地に出ていき、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさいと僕に命じた。そこにあげられた人々は、宴会の招きを断った人々と対照的な人だと言えるであろう。土地を買う人に対しては、貧しい人。貧しい人は土地を買うことなどできない。体の不自由な人は、買った牛のもとに行くことができないし、目の不自由な人は、自分の目で見て牛を確認することもできない。そして、当時、病は罪の罰であると、律法を破った神の罰として病気になると考えられ、病人は罪人と同様に扱われていた。つまり、差別を受けていた。だから、結婚することなどできなかったであろう。また、食事の席は、同じ社会的地位の人々と共にしていた。しかし、食事に招いた主人は、社会的に差別を受けていた人々、弱者を招くようにと僕に命じたのである。
ルカによる福音書の7章21、22節には、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの弟子たちが、イエスこそ救いい主なのかと尋ねた時のイエスの答えが書かれている。「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』」。そこにはイエスの、神の招きがある。
本日の箇所のイエスのたとえは、神の国、すなわち神の完全な支配、完全な救いの場に、誰が招かれるのかどうかということを示しているのである。目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病の人、耳の聞こえない人、貧しい人、すなわち差別を受け、この世において苦難を負っている者、つまり最も救いを必要としている人こそ神の国に入ることができると、救われると、イエスは言ったのである。
一方、皆さんは、このたとえで、主人は最初になぜ救いを必要としている人を招かなったのかと思うかもしれない。しかし、それは神に選ばれたユダヤの民に対して述べたのである。つまり最初、神はユダヤの民を選んだ。しかし、彼らは神の独子イエスを受け容れなかったということを、ルカによる福音書の著者は示しているのである。
さて、イエスの活動について考えたい。イエスは病人や、貧しい人と共にいた。神の国では、この世の価値観が逆転されるのである。この世は社会的地位や、権力を求める。しかし、神の国には、この世的地位や、権力などない。いや、弱い者こそ招かれる。つまりイエスの活動は、神の国を現わしている。神の国の光をこの世で照らしているともいえるであろう。そこで、神の独子イエスがこの世に遣わされたことにより、神の国の扉が開かれた。神の国は始まりつつあるといえるのである。そこで、15節「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という客の言葉から、神の国はまだきていないが、自分は律法を守っているので神の国に入ることができると考えていることが分かる。だからこそ、イエスはたとえを述べたのではなったか。
そして、本日の箇所で私が注目したいのは22、23節である。「やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ』」とある。主人とは、神と言ってよいであろう。そして、この祝宴とは、神の国である。神の国は、多くの人が招かれても席にあまりがある。主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と述べたというからである。そこで記されている「小道」の直訳は「石垣」であり、21節の「広場や路地」と対称となっている。21節も「広場や路地」ではなく「大通りや路地」という訳がある。いや、「大通り」という訳の方が多いのである。そこで大通りは町の中であり、石垣は町の外を意味する。貧しい人々、差別を受けている人は、町のはずれに住んでいた。そのような人々こそ「無理にでも連れて来なさい」と主人、つまり、神は述べているといえるのではなかろうか。
私は次のように理解したい。神は人間を無理にでも、特に救いを必要としている人を無理にでも、神の国に招いておられる。そのために、神は独子イエスをこの世に遣わされた。イエスによって神の国はすでに開かれ始めている。イエスの活動こそ神の国の扉である。イエスは病の中にある人々と共にいた。それは、この世的な人間の考えを否定し、穢れとは何か、それは人間が造り出す差別であることを示し、病人などをありのまま受け入れ、いやしたのである。社会が造り出す差別から解放したともいえるであろう。私はここに神の国の現れを見る。
私たちは、すでにイエスによって無理に神の国に招かれている。つまり、救いへと招かれている。そのことに気づくことによってこそ、私たちは神の愛を知ることができる。同時に、イエスを通して神の国に招かれているからこそ、愛されているからこそ、わたしたちはイエスを信じ、イエスに倣い生きようとするのではないだろうか。イエスを通して、私たちも神の国に招かれている。それほど喜ばしい事はない。こんな私でさえ神は愛し、受け入れ、救いに招いてくださっているという喜びである。その喜びをすべての人と分かち合うことによって、神の国が現れるのである。私たちはイエスの招き応えたいと思う。
祈祷 ご在天の恵み深い神様 神の国とはいかなる場でしょうか。それは、神の愛に満たされ、神の愛による支配の場です。神の国は、この世的価値観とは異なります。救いを必要としている者こそが招かれます。もちろん、神は全ての人を神の国に招いてくださいます。そのために、イエスはこの世に遣わされました。そして、イエスの到来によって、神の国の扉は開かれました。私たちは神の愛を確信し、互いに受け入れ合い、支え合い生きたいと思います。このことによってこそ、神の国が近くなる、到来するのです。イエスに倣い、歩むことができますようお力をお与えください。先週、そして、今週も季節外れの台風が近づき大雨となっています。被災された方がたをお守りください。これ以上被害ができないようお導きください。戦争においては自分たちの正当性ばかり並び立てます。しかし争い、人の命を奪うことに何の正当な理由はありません。どうか、神から与えられた命を互いに尊重し、守ることができますように。梅雨になりました。体調を崩しやすい時です。すべての人、特に高齢の方、幼い者をお守りください。病の中にある方、治療を受けられている方、手術後の経過を見られている方など、心身共に負いやしください。苦しみ、悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。敬愛する清水嘉重郎兄の前夜式、告別式が行われました。嘉重郎兄が天において安らかな時が与えられますように。悲しみの中にあるご遺族をお慰めください。教会から離れている者、集うことのできない者の上にも主の導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。
聖書:新共同訳聖書「詩編 8編 1~10節」
聖書朗読
08:01【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】/08:02主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます/08:03幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。/08:04あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。/08:05そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。/08:06神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/08:07御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
08:08羊も牛も、野の獣も/08:09空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。/08:10主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神からの委託」
私の連れあいの父は、肺線維症という難病で天に召された。肺線維症とは、肺胞が機能しなくなる病気である。体に酸素を取り込めなくなる。酸素吸入器で、肺に酸素を送るという対処しかできない。義父の病気が分かってから2年半の頃、夜に発作が起こり、義父は救急車で病院に運ばれた。連絡をもらい、私たちも急いで病院に行った。そこで医師からの説明を、義母から聞いた。またすぐに発作が起こる。次は助からないだろう。義父は、発作で苦しむのではなく、酸素吸入器を外した方が安らかに天に行けるという医師の言葉に従うことにしたという。義母と義弟が見守るとことになった。吸入器を外すのは、その日行われていたサッカー・ワールドカップの試合を見終わった後にということになった。私たち家族は、まだ長女が幼かったので義父との最後の別れの挨拶をして、家に帰ることにした。集まった他の親族も、義父と最後の別れをした。義父の私への最後の言葉は「二人を頼む」だった。それから数時間後に、息を引き取ったという連絡があった。義父との約束、委託は、いつも心なかにあるつもりでいる。無口な義父だった。結婚の挨拶をしに行った時、緊張していた私が話しだしやすくしてくれたのは義父だった。そのことを今でも覚えている。
さて、本日与えられた聖書箇所、詩編8編に心を傾けたいと思う。1節に「ギティト」とある。現在も意味が分かっていない。2節以下を見ると「わたしたちの主よ」とある。イスラエルの主であり支配者であった神こそ、この世の創り主、全被造物の主であることが示されている。神の偉大さと力強さを語っている。また、「全地に満ち」、「天に輝く」とあるように、この詩には宇宙的規模が設定されている。この地だけではなく、天も神の支配の領域であるということが示されているのである。
3節には、敵対するものに対して神は滅ぼすとある。神の絶対的な力が示さえていると言ってよいであろう。その敵とは、旧約聖書に出てくる海の怪獣レビヤタンなどが想定されているのではないかと考えらる。どのような敵も神の前では何もできないのである。
3節の最初に「幼子、乳飲み子の口によって」とある。マタイによる福音書の21章16節にも「幼子や乳飲み子の口に」という言葉があり、「幼子、乳飲み子」という慣用句があったのではないかと考えられる。では、ここではどのような意味なのか。「幼子、乳飲み子の口によって」、神に敵対するものに何か行うのであろうか。いくつか理解はあるが、神は偉大な業を行うために、人間の常識では無力と思われる「幼子、乳飲み子の口」から発せられる声を用いるという意味として受け取りたい。それは、新約聖書コリントの信徒への手紙(一)の1章26節にもあるように、神は神の威光を現わすために、弱く小さいものをあえて用いられるということである。つまり、神の偉大さ、神の愛を表現しているといえる。
そして、4節以下は創世記の天地創造の業を具体的に示している。「指の業」は、神の手の業と同じである。「指」としているのも、神の偉大さを示しているのであろうか。神にとって「指」ほどの力で十分だと。そして5節は、人間のことである。「人の子」は、ここでは人間を意味する。神は、人間を神にわずかに劣るものとして造ったというのである。それは、創世記1章の天地創造で、神は人間を神にかたどり、似せて造ったと記されていることと同じと考えられる。そして、7節に「御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」とある。これは、創世記1章28節「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と同じ意味であると言ってよいであろう。そこで重要なのは「治めるように」「支配せよ」は、言葉のままではないということである。つまり、人間がこの世界を治める支配者になるようにという意味ではないということである。治める、支配とは、管理をするという意味であると言える。それは、この世に対して人間が想い通りに好き勝手にしていいということでは決してないのである。
そこで5節、「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは」とある。神は、いつも人間を心に留めてくださっている。そのような人間とは、何者なのか。神は「顧みて」くださる。「顧みる」とは、神が人間を引き受け、責任を持って面倒を見てくださっていることを意味する。もちろん、イスラエルの民だけではなく、神が創った全人類に対してのことである。
私は次のように理解したい。人間は、利己的である。だからこそ、神は人間を御心にとめ、そして責任を持って面倒を見てくださっている。しかも、欲深く、弱い人間であるにもかかわらず、「この世を管理しなさい」と神は私たちに大きな委託をして下っているのである。神の偉大な愛を思わずにはいられない。人間を信頼してくださっていると言ってよいであろう。
6節には、人間は神にわずかに劣る者として人を造られたとある。人間讃美をしているのではない。神と人間は絶対的に異なるということが言われているといってよいと私は思う。こんなにも弱く、どうしようもない人間とは、いかなる存在なのか。それでも。神は良しとし、信頼し、用いてくださる。つまり、神の偉大さ、神の大いなる愛が、そこに記されていると言えるのではなかろうか。人間は、この偉大な神のもとにおいてしか生きることができない。神に生かされていいる存在なのである。
神は、弱い人間を用いてくださる。神は、人間一人一人を用いてくださるとも言えるであろう。3節の「幼子、乳飲み子の口によって」の説明をした。人間も、この世に対して取るに足りない、ちっぽけで無力な存在と言えるであろう。人間にできることはたかが知れている。しかし、神はそんな人間を用いてくださる。そこで、人間はこの世を管理する役割が与えられている。管理するとは、そこにいる存在がそのものらしく生きることができるようにということであり、そのためすべてのものと共に生き、共に歩むということが意味されていると言えるであろう。しかも最初に述べた通り、神はこの地、天をも支配しているように、人間にこの地、世界に対して管理するよう責任を与えたのである。弱く、欲深い人間だからこそ、神は、この世を管理するよう責任を与えたのだと私は思うのである。つまり、人間は神の前で謙虚になり、この世のすべてのものと共に歩むということを、常に心に置き生きるべきであるということが示されているのではなかろうか。
人間は、この地球上、天において、本当にちっぽけな存在にしかすぎない。また、人間の命は、はかないものである。それにもかかわらず、神は人間に「栄光と栄誉」を与えてくださった。また、弱く小さい人間であるにもかかわらず、神は管理という重要な役割を与えてくださった。そのような意味で、人間は神に必要とされている存在であると言えるのではなかろうか。神は私たち人間一人一人を、こよなく愛してくださっている。人間とはいかなる存在なのか。そのことを問うことによって、神の偉大さ、愛を私たちは知ることができるのではなかろうか。神が人間とは全く異なるからこそ、偉大な力、愛によって人間を導いてくださっているのである。神は、人間を生きるに値する存在としてくださった。私たちは、神の前で謙虚な思いを持ち、神が与えてくださっている役割を、責任をもって全うしたいと思う。
祈祷 この世の作り主なる神様 人間とは何者なのでしょうか。神様はこの世を創られ、すべてを良しとしてくださいました。そして、神にわずかに劣る者として人を造り、この世を管理する大切な役割をお与えくださいました。だからといって、人間は特別な存在というわけではありません。欲深く弱いからこそ、管理する役割が与えられ、この世に生きるすべての者と共に生きるよう、神が導いてくださっているのだと思います。また、それは神の前で謙虚に生きるための教えであるように思います。そして、神は私たち一人一人に賜物を与え、役割をお与えくださった。存在の根拠を与えてくださったと言えるのかもしれません。神の大いなる愛を感謝し、すべてのもの、人と共に歩み、神からの委託を、責任をもって行いたと思います。そのための力をお与えください。季節外れの台風の到来などで、日本各地で大雨となりました。梅雨の季節、体調を崩しやすい時です。どうかすべての人、特に高齢の方、幼い者をお守りください。病の中にある方、治療を受けられている方、手術後の経過を見られている方など、心身共に負いやしください。苦しみ、悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。日本各地で地震が起こっています。被災された方々を支え、また、不安の中にある方をお守りくださいますように。今月、誕生日を迎える方々の上に主の祝福がありますように。6月1日、敬愛する清水嘉重郎兄(シミズカジュウロウ)が天に召されました。嘉重郎兄のこれまでのお働きを、心より感謝いたします。嘉重郎兄が天において安らかな時が与えられますように。悲しみの中にあるご遺族を覚えます。お慰めください。今週は嘉重郎兄をあなたの元にお送りする式を行います。御心に適うものとなりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心、新しい月の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 2章 1~11節」 02:01五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 02:02突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 02:03そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 02:04すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 02:05さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 02:06この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 02:07人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 02:08どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 02:09わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 02:10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 02:11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「共に歩んでくださる」
グリーフケア(欧米ではブリーフメントケア)とは、天に召された方との別れは段階的に乗り越えていくイメージですが、順調に目標に達することは簡単ではない。心の中に故人との継続する絆を持ち、日々の生活の中で揺れる気持ちを支えるための支援を考えることが大切だという。悲しみはすぐにいやされることはない。イエスこそグリーフケアを行ってくださった方だったと思うのである。
本日は、ペンテコステ、聖霊降臨日である。ペンテコステとは「第50の」を意味する。ペンテコステは過越祭の安息日の翌日から7週を数えたその翌日、すなわち50日目に行われるということに由来している。五旬祭ともいう。五旬祭は元来ユダヤ教の、イスラエルの三大祭の一つである。申命記によるとこの祭りは元来、小麦の収穫の初穂を神に捧げる日だった。しかし後に、出エジプトのシナイ山におけるモーセの十戒、律法授与を記念する祝祭日として位置付けられるようになった。キリスト教でペンテコステは教会の始まりであるといわれる。それは神が、イエスの救いをすべての人に知らせるための力を、イエスの弟子たちに与えた宣教の始まりの日だからである。
使徒言行録は、ルカによる福音書の続編である。イエスが天に上げられてから後の弟子たち、パウロの伝道の出来事が記されている。
五旬祭に、弟子たちが集まっていた。すると突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったというのである。「風」は聖霊をも意味する。3節には「炎のような舌」がそこに集まる一人一人の上にとどまったとある。「炎のような舌」こそが聖霊である。聖霊は神の、イエスの、目に見えない働きと言ってよいであろう。「炎」、「火」は、神、あるいは神の救いが現れることを意味する。例えば、出エジプト記は、神がモーセに指導者となる使命を与えた出来事であるが、「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現われた」と記されている。また、詩篇50篇3節には「わたしたちの神はこられる。黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き御許には嵐が吹き荒れている」と記されており、神が現れることを示している。
「舌」とは「言葉」を意味する。6節以下の「自分の故郷の言葉」とは、他の国々の言葉を暗示している。弟子たちは、他国の言葉を話すことができるようになった。
「炎」について旧約聖書をもう一箇所見たい。エジプト記19章、シナイ山で十戒、律法を授与される場面において「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである」とある。ここでも火は、神が現われることを表している。十戒が与えられた出来事は、神とアブラハムとの契約に基づいた神の救いに与る出来事である。五旬祭とは、出エジプトを祝う祭りであり、十戒を神から与えられたことを感謝する時だった。しかし、キリスト教では、出エジプトを祝うのではなく、弟子たちに聖霊が降った出来事を祝う時となった。弟子たちに聖霊が降る出来事を通して、神の救いの約束を新たに更新する時となったと私は考える。その在り方は、それまでの律法という信仰から、イエスが教え、十字架で示された愛の業を感謝し、それに倣うという信仰になったと私は思う。
また、イエスは、使徒言行録1章8節で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と語っている。つまり、イエスはペンテコステの出来事を預言し、そのことが起こったのである。4節には、そこに集まった人々は神の霊が満たされ、語らせるままに他の国々の言葉で話しだしたとある。
それまで、神はイスラエル民族にしか契約を結んでいなかったのだが、それからは全ての民と契約を交わしてくださるのである。旧約聖書で神は、イスラエルの民を導いた。しかしそのとき神は、弟子たちに聖霊を与え、全ての人に救いを与えた。世界中の言葉を話すことによって、全世界に神の恵みを知らす。そのため集った人々に聖霊を満たし、様々な言葉を語る力を与えたのである。それぞれの国の言葉が話せるようになったということも重要だが、大切なのは、聖霊によってイエスが示してくださった神の愛、神の恵みを告げ知らせることができる言葉、賜物が聖霊によって弟子たちに与えられたということであると私は思う。
ではそのとき、どうして弟子たちは集まっていたのか。それは、イエスが天に召されてから何をすべきか弟子たちが戸惑っていたからではなかろうか。そして、イエスが預言した聖霊が降るのを待っていたのかもしれない。指導者が天に召されたらどうするであろうか。特に、弟子たちにとって、イエスがいなくなったということは、もっとも心が弱くなってしまう状況であったと思うのである。イエスに「魚を取る漁師にしよう」と招かれた。しかし活動の僅か3年ほどでイエスは突然、天に召されてしまった。しかも、イエスはユダヤ教権力者から裁かれ、十字架に掛けられた。もしかしたら弟子たちもイエスの救いを述べ伝えたという罪でユダヤ教権力者たちに捕らえられ、裁かれてしまうかもしれない。実際、その後に、イエスを信じる者はユダヤ教から迫害を受けることになった。本当に心細い状況だった。イエスが再び復活するという期待が弟子たちにはあった。だから集まったのであろうか。一番の希望は、イエスが預言した聖霊が降るということだったのではなかったか。
親しい人が天に召された悲しみは、すぐになくなることはない。裏切り者のユダの代わりにマティアが選ばれたという出来事が、すぐ前に記されている。弟子たちの新たな歩みが順調にはじまっていたように思い。しかし、弟子たちは不安や、悲しみの中にあったのではなかったかと、私は思うのである。だから聖霊が下るとイエスは預言したのではなかろうか。それは、新たなる希望である。イエスは十字架の後、復活し、40日間弟子たちと過ごし、天に上げられた。そして、その後、炎のような舌の聖霊を弟子たちに注いだ。炎は神が現れることを意味する。そして、舌、言葉が与えられる。その出来事には、モーセが十戒を与えられた出来事と重ねることができる。十戒は、神が与えてくださった教えである。その教えを守れば救われるということではない。神はこのように恵みを与えてくださるということを覚え、十戒を実践することによって神が共にいてくださること、恵みを与えてくださることを実感し、神を信じて歩むことができるのである。イエスが預言した聖霊が降るという出来事こそ、イエスは天に上げられてもいつも見守ってくださり、言葉、人々に語る言葉を与えてくださる。つまり、イエスは目に見えなくても聖霊を通して恵みを与え、いつも見守ってくださるということを弟子たちは実感したのではなかったか。弟子たちは、不安の中にあっても聖霊なるイエスの支援を得ながらイエスの救いをイエスに倣い、イエスと共に告げ知らせるのである。
弟子たちと同じようにイエスは今もなお私たちと共にあり、見守り、言葉を与え、導いてくださっている。そのことを確認するのが、ペンテコステを祝うことに他ならない。神は、旧約の時代から、十戒、律法などを通して民を導き、共に歩んだ。そのもっとも大いなる恵みこそが、イエスがこの世に遣わされた出来事である。そして、イエスが天に上げられた後も、弱い私たちに聖霊を注ぎ、言葉を与え、宣教の業を共に歩んでくださる。いや、イエス、神は、私たちを信頼しイエスの宣教という業に私たちを招き、絆を持ってくださるのである。それがペンテコステの出来事である。私たちが不安、悲しみの中にあっても聖霊によって、いつも神が、イエスが共にいてくださることを覚え、神、イエスの救いを多くの人と分かち合いたいと思う。
祈祷 導き主なる神様 本日はペンテコステです。弟子たちに聖霊が注がれ、イエスの救いを述べ伝える力が与えられた出来事を祝う時です。今もなお、イエスは天から私たちを見守り、聖霊を注ぎ、お導きくださっています。そして、イエスの宣教の業に私たちを招き、共に歩んでくださっています。それは絆を持ち歩んでくださるということです。現代の私たちにも聖霊が注がれていることを確信させてください。そして、神の恵み、イエスの愛を多くの人と分かち合うことができますようお導きください。平和を求めるとはいかなることでしょうか。争いを止めること、そして、この世に武器がなくなることであると思うのです。どうか武器のない平和な世となりますように。そのため互いの違いを受け入れ合うことができますようお導きください。沖縄では台風が到来します。また、梅雨に入ります。体調の崩しやすい時です。どうかすべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちをお守りください。病の中にある方、治療を受けられている方、手術後の経過を見られている方など、心身共に癒してください。苦しみ、悩みの中にある方、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。日本各地で地震が起こっています。被災された方々を支え、また、不安の中にある方をお守りくださいますように。先週の金曜日は、関東地区教会婦人会連合総会をあなたが共にあって行うことができましたことを感謝いたします。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 2章 1~5節」
聖書朗読
02:01アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。/02:02終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい/02:03多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。/02:04主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。/02:05ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「恵みに対する応答」
日本では、防衛費を大幅増額するのではと言われている。他にかけるところがあるように思う。ニューヨークにある国連ビルの広場の壁には現在、「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国と国は向って剣を上げず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」という言葉が英文で刻まれている。私たち、そして、政治に対して、鋭い警告を発していると受け止めるべきであろう。
イザヤ書2章1以下に心を傾けたいと思う。1節は表題だが、奇妙である。表題は、既に1章1節にあった。2章1節に表題があるということは、イザヤの預言が別にあり、後に編集されたときに、ここに入れられたと考えられる。いろいろな意見があるが、2章~12章が一つのまとまりだと考えられる。本日の言葉は、イザヤの後期の言葉ではないかと考えらる。
1節に「エルサレムについての幻に見たこと」とある。以前の口語訳聖書のように「示された言葉」の訳の方が原文に近いといえるであろう。ギリシア語の七十人訳聖書でも「言葉」とある。それは「託宣」という意味である。
2節に「終わりの日に」とある。終末思想だと言えよう。しかしそこでは、世の終わりよりも「未来における約束」との意味が強いと考えられる。未来の希望を示しているといってよいであろう。「主の神殿の山」、3節の「主の山」、「ヤコブの神の家」は、どれもエルサレムを意味する。エルサレムは、モーセが神から与えられた十戒の刻まれた石板を置く神殿、アブラハムが息子イサクを神にささげようとしたとき神が現れた場所、つまり、神が現れ、神がおられる聖所である。そこに、多くの民が集まるというのである。そしてシオン、つまりエルサレムに神の言葉が出る。エルサレム、聖所は、神の裁きが下される場でもある。そこに多くの人が集まり、神の裁きが下るのであろうか。しかし裁かれるというより、紛争解決のために、調停を求めにくると理解できるというのである。神の言葉、また、主の示される道こそ、争い解決のための方策を示してくれるのである。つまり、神の言葉こそ、私たちの希望であると言えるのではないだろうか。
そして、現在ニューヨークにある国連ビルの広場の壁に刻まれているのが、4節の言葉である。この言葉は、ミカ書4章3節にも預言されている。どちらが先かを問題とするのではなく、この言葉が神の言葉として預言されていることこそが大切であると思う。「剣を打ち直し鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」。争いで使う剣、槍を、畑を耕すための鋤、鎌とする。死ではなく、生きることを神は導かれる。人間は生きていくためのものを神から与えられている。神から与えられているものを、いかに用いるのかという問いかけであると私は考える。火薬はとても危険である。火薬は多くの人を一瞬で殺す爆弾として用いることができる。一方、花火となり打ち上げれば、人間の心をなごますこともできる。私たち一人一人、神から豊かな賜物が与えられている。私たち人間に与えられた賜物、知恵、心を、いかに用いるかによって、人を傷つけることも、隣人を支えることもできる。私たちは神から命を与えられ、生きていくために様々な恵みを与えられている。私たちはそれをどのように用いるべきなのであろうか。
一方、聖書に次のような言葉もある。旧約聖書のヨエル書の3章10節には「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え」とある。本日のイザヤ書とは全く逆である。聖書には矛盾していることが記されていると思われたのではなかろうか。解釈として、最後の戦いのハルマゲドンが、この言葉を用いた辛辣なパロディで叙述されているというのである。また、戦争の危機において、全く武装していない農民を徴兵する時に、応急の武器を調達するためのものであったことを示しているという理解もある。さらには、ヨエルは皮肉を込めて語り、神の裁きがくだることを示している。そして、ヨエル書の言葉をイザヤが逆転して用いているという理解がある。どの理解が正しいのかは難しい。イザヤがヨエルの言葉を逆転して用いたという理解は、とても興味深い。というのは、最初に述べた通り、本日の言葉は、本来イザヤの後期の言葉であると考えられるからである。
イザヤは、北イスラエル王国が滅びるのを見た。また、南ユダ王国も争いによってエルサレム陥落寸前までの危機を経験した。つまり、イザヤは争うことの無意味さを十分理解し、知っている。また、イザヤこそ、どんなときであっても神により頼むべきであると、人々に解いたのである。人と人とが争うことに勝利などない。どちらも多くの人が死に、また、そこでは弱者こそが被害にあう。そのことを十分知っていたからこそ、イザヤは「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と民に述べた。もちろん、預言であるから、それは神の言葉である。イザヤ自身も実感をもってその言葉を語ったのではなかろうか。特に「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という言葉は、平和は聖戦による神の勝利によるのではなく、神の教えを信じ、従うことによってもたらされるのであるという意味があるからである。そこで、人間が自分から戦争を止めるようにと神が恵みを通して人間を導いてくださるのだとイザヤは信じ語っていると理解できる。神を本当に知る人間は争いを止めるという期待が、そこにはある。そして、戦争はひとえに人間の罪の帰結であると定義している。預言者イザヤが示しているその言葉には、深い意味がある。私たちがいかに生きていくのかを問われているのではないだろうか。
そして、5節の言葉こそ大切であると思う。「主の光の中を歩もう」とある。先ほど4節の言葉は、ミカ書にあると述べたが、この5節の言葉はミカ書には記されていない。主の光、神が示してくださる道を神と共に歩もうということであろう。神は、争いを求めない。神は、この世を創り、この世にあるものを一つ一つ、一人一人愛してくださっている。そこで、この世にあるものが互いに受け入れ合い、愛し合い、調和して歩むことを神は望んでおられ、また、導いてくださっているのである。
最初に述べたが、2節の「終わりの日に」という言葉は、終末というイメージより、「未来における約束」との意味が強く、将来における希望を示している。また、解釈としては強引だが、現代のイエスを知っている私は次のように理解したい。1節の「幻に見たこと」は「示された言葉」であり、この「ことば」、そして5節の「主の光」こそ、神の独子イエスである。イエスこそ無抵抗であった。「左のほほを打たれたら右のほほをも向けなさい」。そして、イエスがエルサレムに入られたときに、ロバに乗ってやってこられた。それは平和の主を意味する。まさしくイエスこそ平和の主として、この世に遣わされた。そして、私たちが歩むべき道を光によって照らしてくださったのである。私たちはその光の中を歩むべきなのではないだろうか。それは、平和に至る道である。
一方、私たちは弱く何もできないと思ってしまうかもしれない。しかし、国連の壁に本日のイザヤ書の言葉が刻まれていることを知っている。それだけでも、とても意味があると思う。また、私たちには祈ることができる。そして、隣人を愛すること。この地道な業こそ大切である。きっと広がっていくであろう。
本日のイザヤの預言は、平和に共存するようにと定められていること、この世的に生きるのではなく、イエスに倣うということ、また、イエスの苦難、十字架を負ってキリスト者は生きるべきであるということが示されているのではなかろうか。隣人の痛みを自分の痛みとするといってもよいであろう。神、イエスを信じる者は、新しい神の民として、その預言の下に立つべきなのである。私たちは神に愛され、神から一人一人異なった賜物を与えられている。神の恵みに応答し、平和へと歩みたいと思う。神の言葉にこそ希望がある。そして、神が預言として私たちに示してくださったということは、平和へと歩むことができるという、神の人間への信頼であると思う。神の言葉に応答したいと思う。
祈祷 ご在天の恵み深い神さま イザヤは、神の言葉として「剣を鋤に、槍を鎌に。争うことを学ばない」と述べ「主の光の中を歩もう」と述べました。私たちは神様から様々なもの、そして、一人一人賜物が与えられています。神から与えられた恵みをいかに用いるのか。そして、恵みを用いるためには神と共に神が示してくださった光のうちを歩むことによって用いることができると示してくださいました。神は、争いを求めていません。その人がその人らしく生きること、そのため互いに愛し合うことを求めておられます。私たちが違いを理解し合い、受け入れ合うことができますように。そのため主イエスが示してくださった光のうちに歩むことができますようお導き下さい。世界の指導者たちが真の平和を求めることができますようお導きください。今、日本中で地震が起こっています。不安の中にある方を支え、特に大きな地震で被災された方々をお守りください。 すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友、介護看病をされている方をお支えくださいますように。 今週は、関東教区教会婦人会連合総会が筑波学園教会で行われます。準備をされている方々を支え、また、集うとされている方々の健康をお守りください。そして神の御心に適う会となりますように。 この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 34編 1~11節」
聖書朗読
34:01【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】/34:02どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。/34:03わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。/34:04わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。/34:05わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。/34:06主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。/34:07この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。/34:08主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。/34:09味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。/34:10主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。/34:11若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「寄り添ってくださる」
出産は命がけだと思う。それは母子共にである。長女の出産の時には、連れあいが家で破水した。事前に教会のある方から破水の経験を聞いていた。そのため慌てずにタクシーを呼び、病院に行った。入院したが翌日になっても陣痛が来ない。母親に熱がでたということもあってなのか、陣痛促進剤を使った。すると看護師さんたちが慌てて部屋を訪れ「お父さんは部屋から出てください」と言う。お腹の子どもの心拍数が下がり、危険と判断したようだった。あっという間に分別室に行ってしまった。お腹の子どもの心拍数が安定したので、出産を試みたが、陣痛がおきない。再び陣痛促進剤をいれると、子どもの心拍数が下がってしまった。なかなか生まれてくれない。院長から帝王切開の可能性もあると言われ、私はサインをした。最後にもう一回頑張ろうと院長が言ってくださり、帝王切開せず出産することができた。はじめての出来事だったので、私は慌てふためくだけだった。そして、祈ることしかできなかった。出産は命がけであることと神秘的であることを私は思った。そして、神に感謝したことを今でも覚えている。その日は、洗足木曜日だった。神も痛みをもってこの世を創られ、また、痛みをもってイエスをこの世に遣わし、人間を生かし、導いてくださっていることを私は感謝した。
本日の聖書箇所、詩編34編に共に心を傾けたいと思う。2~4節は、神への讃美の促し、5~7節は、神による救いの体験と感謝である。そして、8~11節が神の恵み深さが記されている。詩編34編から、神がいかなる方なのか、裁き主ではなく、恵み深い方であることを知ることができるであろう。
1節にあるのは表題である。8節とサムエル記上21章13節にある言葉との間の関連を発見し、後からこの表題が付けられたのではないかと考えられる。一方、詩編34編とサムエル記の内容的関連は不明である。そのことから1節は考慮せず、2節以下に心を傾けたいと思う。
2節に「讃美を歌う」とあるように、讃美へと促している。3節後半に「貧しい人よ」とある。金銭的に貧しい人のことであろうか。ここでは、経済的な意味もあるが、社会的にも差別され、正当な裁判を受けられず、それ故に神にすがる他に生きる道のない人たちを指している。裁判を受けられないのは、人として生きるための権利を失っているといえるであろう。3節、7節の「貧しい人」を「苦しむ人」、「虐げられている人」、「憐れな人」と訳している聖書もある。この箇所では、苦しみの中にある人々に主を讃えよと促しているのである。それはなぜなのか。
5節に「わたしは主に求め 主は答えてくださった。おびやかす者から常に救い出してくださった」とある。5節以下は、救いの経験を記している。7節には「この貧しい人が世に求める声を主は聞き」とある。神は私たちの声、いや、叫びを聞いてくださるというのである。そのことは重要であると思う。そこには私たちの喜びがあるのではなかろうか。神は、私たちの苦難の声を聞いてくださる。つまり、神はいつも私たちと共にいてくださる。それだけではなく、私たちの声を聞く、見守ってくださっている。そして、苦難から救ってくださるのである。そこでは、もしかしたら出エジプトのような出来事を思いうかべているのかもしれない。エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民の叫びを聞き、神はエジプトから脱出させ、約束の地へと導いてくださった。もちろん、それぞれの人が経験した神の救い、恵みを思い起こしてもよい。いや、詩編の作者と思いを重ね、自分に起きた神の救い、恵みを思い起こし、神を讃美すべきだと思うのである。
そこで、9節の「味わい、見よ」とは、何を味わうのであろうか。空腹のときに神様が与えてくださった食べ物であろうか。この「味わえ」とは「経験によって得る」という意味で用いられている。この詩の文脈では、神の報復、救済を通して与えられる賜物としての命、平和を求めることと理解できる。難しいことは考えず、私たちが経験した神による救いを思うことといってよいであろう。
次に10節、「主を畏れ敬え」とある。神を畏れる。私たちは神を畏れるべきであると思う。畏れるとは、ただ怖いということだけではない。神こそこの世を創られた全能者である。私たちはなぜ神を畏れるのであろうか。神は見えない。そして、神は何でもできる。つまり、私たちには想像もできない力を神はもっておられるからである。だからこそ、畏れる。私たちは目に見えない、想像もできない力の前では、畏れるしかない。私たちには予想ができないからである。畏れとは、良い意味では私たちを生かし、導いてくださる力である。悪い意味で恐れることもある。恐れで思いつくのが、自然に対しではなかろうか。自然は、食物、空気など与えてくれる一方、災害も起こす。人間には予想できないアクシデントが起こる。神はその自然を創り、また、自然以上の力をもっている。そこで神を畏れることこそ私たち人間の基本的なあり方だと思うのである。畏れること、それは神を実感することだと思う。そして、神を畏れることによってこそ、生まれつき利己的で、自己中心的な存在である私たちがへりくだり、謙虚に生きることができる。偉大な力を持つ神の前でへりくだることによって、友と共に、互いに支え合い平和へと歩むことができるのではなかろうか。本日の詩編34編を通して、私たちは偉大で全能者である神に叫び求めることができることを知る。それこそ、神から与えられた恵みであり、賜物であると私は思うのである。
さて、先週は、千葉の南、先々週は能登半島で大きな地震があった。神こそ苦難の叫びを聞いてくださる。一方、私たちは無事と、これからの歩みを祈り、出来ることを考えることが何よりも大切だと思う。私たち人間は、弱い者にすぎない。だからこそ互いに支え合い、助け合い生きることが大切である。一方、自然災害など様々な災害にあったとき、私たちは悪いことをした罰が下ったと考えてしまう。その感覚は、決して悪いことではないと思う。というのは、それは謙虚な姿勢でもあるからである。一方、地震が起こったとき、誰かが悪いことをしたから罰が降ったとは、神罰だとは、他者や公には述べるべきではないと思う。一見、謙虚だが、それは裁きでしかないからである。というのは、自然災害は神の裁きではないからである。神は、応報原理ではないと私は信じている。少なくともイエスは応報原理を述べなかった。ここで私たちが覚えるべきは、7節の「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった」ということであろう。この詩編の作者には、人生の幸・不幸のすべてを応報思想に還元しない信仰がある。19節に「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」とある。次のような訳がある。「主は砕かれた者に寄り添い、霊の打ちのめされた者たちを救われる」である。神が私たちの声を聴いてくださり、私たちを救ってくださることに条件などない。神は、応報原理で導くのではない。なぜなら私たちの神、独子イエスは、ただ愛なる方、恵み深い方だからである。神は恵み深く、私たちを愛し、お導きくださることを、本日の詩編から確信したいと思う。苦難の中にこそ、神は私たちの声を聞いてくださる。つまり、私たちの切なる祈りを聞いてくださり、寄り添ってくださるのである。神こそ私たちの希望である。ただ神を信じ、神により頼み、そして、友と支え合いながら生きたいと思う。
祈祷 全知全能の神様 私たちは弱く、利己的なものです。神は、私たちといつも共にあり、私たちの声を聞き、苦難の中、寄り添ってくださります。そして、救いへと導いてくださいます。私たちはあなたに祈ることができます。ここにこそ希望があります。どうか神を畏れ、隣人と支え合いながら、神を讃美し歩みたいと思います。神こそ私たちの救いです。どうか、この喜びを多くの人と分かち合うことができますように。そのため、私たちをお用いください。能登半島、千葉県の南部で大きな地震が起こり、また、その後も小さいながらも様々な場所で地震が起こっています。被災された方々、不安の中にある方々を支え、お守りください。争いは人間の欲でしかないと思います。どうか、自己欲ではなく隣人を愛する心を持ち、違いに受け入れ合う平和な世となりますようお導きください。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友、介護看病をされている方をお支えくださいますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 15章 11~17節」
聖書朗読
15:11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 15:12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 15:13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 15:14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 15:17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「喜びが満たされる」
今年度の主題聖句は、ローマの信徒への手紙12章15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」である。総会が行われた4月23日は、この聖句による説教をした。その日の礼拝後に、この聖句の続き20節の意味が分からないという質問を受けた。20節「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」前半は、敵を愛せよということでしょう。一方、後半「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」である。炭火は、神の裁きを意味する。訳出されていないが、原文には、20節の最初に「むしろ」という言葉がある。ますます分からない。20節は、旧約聖書の箴言25章21~22節の引用である。次のように理解できる。エジプトの儀礼的慣習から考えると、敵意を親切に迎えることによって、敵は完全に自らを恥じ、私たちの友だちになるであろうということである。パウロはその意味で用いたと言えよう。そこで、面白いことを書いている学者がいた。「やはりパウロという人は、ひどくひねくれている。『敵を愛せ』と端的に言い切ったイエスとの決定的な違いである。」と。思わず笑ってしまった。イエスは、人間に分かりやすく述べてくださっている。また、イエスの言葉こそ、神と同じ力を持っているから、私たちの心に響くのである。
本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書15章11節以下に心を傾けたいと思う。その箇所を愛唱聖句にしている方も少なくないと思う。12節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とある。イエスが私たちに伝えたいことこそ、この言葉だと思う。とても分かりやすい言葉である。13節には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とある。私が洗礼を受けたきっかけとなった聖句である。中学生の時、CSで牧師が次のように話してくださった。知的に障がいのある人が船員をしていた。航海中、彼は船の底に穴があることに気づき、自分の足をそこに入れ、水漏れを防いだ。そのことによって船は無事に港に帰ることができた。港に戻ってから他の船員が彼に気づいた。しかし彼は、既に天に召されていた。そのような内容だったと記憶している。その時に読まれた聖句だった。
イエスは「互いに愛し合いなさい」との掟を述べた後、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と述べた。また、14節には「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とのイエスの言葉が書かれている。互いに愛し合うということ、友のために命を捨てることがイエスの命じる掟であり、それを行ったらイエスは私たちの友となってくださるということなのであろうか。
本日の箇所でイエスは「友のために命を捨てなさい」と命じているのか。いや、決してそうではない。この言葉は、イエスにとって友とはいかなる存在か、そして、誰が友なのかということが示されているのだと思う。私は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉に感激し、私もそのような人間になれればよいと思っていた。しかし、現実的にはかなり難しいと感じている。そこで、重要なのは誰が友のために命を捨てたのかということである。私が大学生の頃、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」が好きな聖句だと述べた時、牧師の連れ合いさんに「それはイエスでしょう」と言われた。私は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉をイエスのことを思わず、ただただかっこいい言葉として受け取っていたのである。当たり前だが、神の独子であるイエスこそ、この世に遣わされ、私たちを愛し、友となって下さり、そして、友のために命を捨てた、つまり、最も大きな愛を示してくださったイエスなのであった。そのことを理解した時、私はそのような愛の業はできないと思ったと同時に、喜びを感じた。イエスこそ私たちの友となってくださったからである。
そこで、「友」という言葉について考えてみたい。旧約聖書では「友」という言葉はどこにあるか。出エジプト記に「友」という言葉が出てきている。出エジプト記は、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しめられている声を神が聞き、モーセを指導者として脱出させ、約束の地に連れていくという話である。出エジプト記33章11節に「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。」とある。神がモーセを友としている、と読める。しかも、旧約聖書においては、神を見る者は死ぬという理解があった。つまり、人間にとって神とは、自分たちとはかけ離れた畏れ敬うべき偉大な存在なのであった。その神が、モーセと顔と顔を合わせるというのである。確かにモーセは偉大な指導者だった。救い主はダビデの子孫からでるというイメージが強いと思う。というのは、旧約聖書でそのように預言されているからである。実際、イエスはダビデの家系の者であった。マタイによる福音書にも、ルカによる福音書にも系図が記されている。一方、旧約聖書、ユダヤ教では、救い主はモーセのような偉大な指導者だという考えがある。確かに、イエスの誕生物語は、モーセの誕生物語に重ねられて記されている。
さて、私が何を言いたいのか。ヨハネによる福音書15章14節では、イエスは私たちを友と呼んでくださるという。そのことはとても重要だと思う。つまり、神がモーセを友としたように、今、イエスが私たちの友になってくださるのである。私たちはモーセのような偉大な存在ではない。しかし、イエスは私たちの友となってくださった。そして、イエスこそ私たちの友として、友のために命を捨ててくださったのである。偉大なモーセと同じように、私たちを招き友となってくださる。それは、とても大きな出来事であり、喜びである。イエスは神の独子、神と同じ権能を持っておられる。しかも、イエスは私たちのことを「僕」とは呼ばないと述べている。それは、私たちに自由を与えてくださっているということに他ならないのである。イエスは、父、神から聞いたことを、私たちに惜しげもなく知らせてくださった。
一方、次のように思うではなかろうか。「互いに愛することができなければ、イエスは友となってくれないのでは」「私は隣人を愛することができるのか」と。そこでもう一度、12節を見たい。「わたしがあなたがたを愛したように」とある。まず、イエスが私たちを愛してくださっているということが前提なのである。イエスが私たちを愛してくださっているからこそ、私たちは互いに愛し合うことができると言えるであろう。私たちはイエスに愛され、友として招かれている。そこで私たちは愛を知っている。私たちは、イエス、神から無条件に愛という賜物を与えられている存在なのである。そのことが前提にある。
そして重要なのは、イエスが私たちを選んでくださったということである。イエスから手を差し伸べてくださっていると言ってもよいであろう。つまり、イエスが私たちに先立って愛し、招いてくださっている。そして、友として命を捨ててくださった。それは、私たち側からではなく、イエスからの働きである。一人の大切な人格として私たちを愛し、友となってくださっているのである。私たちは、イエスの招きに応答したいと思う。イエスの、互いに愛し合う輪に招かれているのである。それこそ私たちにとって、よき知らせであり、喜びである。
祈祷 愛なる神様 御子は、互いに愛し合いなさいと述べられました。また、友のために命を捨てることこそ大いなる愛である、と。一方、私たちはそのような愛の業はなかなかできません。大切なのは、何より先に、神の独子イエスが私たちの友になってくださったこと、そして、友のために命を捨てた方こそイエスであるということです。私たちは既にイエスに愛されてしまっている者です。そして、イエスの互いに愛し合う輪に招かれているのです。どうか、イエスの招きに応えることができますように。また、イエスの互いに愛し合う輪の中に多くの人を招くことができますよう、私たちを用い、強めてください。報復は神がなさることである、と聖書に記されています。どうか争うのではなく、受け入れ、愛し合うことができますようお導きください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。今月誕生日を迎える方、既に迎えられた方の上に主の祝福がありますように。ゴールデンウィークの最終日です。安全に過ごすことができますようお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 1章 18~20節」
聖書朗読
01:18論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。/01:19お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。/01:20かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「共にある交わり」
40年ほど前、「パウロへの新しい視点(New perspective on Paul)」という神学の流れが、英米から出てきた。もちろん、その考えは、今までの新約聖書の研究の積み重ねから出てきたものである。その考えの重要な位置にいた学者の本から、私は聖書の読み方に多大な影響を与えられた。新約聖書の学問だが、パウロの時代のユダヤ教を問い直し、ユダヤ教の再評価を行うことにより、パウロに対する新しい視点が見だされたのである。
そこで重要なのが、キリスト教はユダヤ教をどのように理解していたのかということである。皆さんはユダヤ教を、あるいは旧約聖書をどのように理解しておられるであろうか。「旧約聖書は怖い。なぜなら神の裁きが記されているからだ。そこでは、神から与えられた律法を守らなければならない。律法は掟であり、掟を守ることができなければ神に裁かれ、律法を厳しく守っていれば神の救いに与る。」といたtイメージがあるのではないだろうか。すなわち、律法を守ることによって救われる。そこで旧約聖書は、人間の行為が重要になっているという理解である。一方、キリスト教は神から恵みが注がれると理解する。ユダヤ教は自力救済であり、キリスト教は恵みの宗教である。正直に言って、それがそれまでのキリスト教から見るユダヤ教への理解であったといえるであろう。その理解の仕方を再評価しているのである。
律法とは何か。「パウロへの新しい視点」の代表的な理解では、ユダヤ教も恵みの宗教であると考える。そして、人は神の一方的な選びの恵みによって神との契約に招かれ、契約を結んだ者として、それに相応しい行いをすることが期待される。しかし、人間は弱く罪を犯してしまうことがある。そこで罪の赦しの手段を神は与えてくださった。人は罪を犯しても、悔い改めと神殿での祭儀により、罪が赦されて契約に留まることができる。神との関係はこのように継続される。そこで「律法の行いは救いを勝ち取るためでなく、契約に留まるためのものである」というのである。契約に留まるとは、神との関係が継続するということである。それが「パウロへの新しい視点」で最も重要な本に記されている。罪を犯しても、赦しの手段を神は与えてくださる。確かに、年に一度の赦しの祭儀が、律法で規定されている。それは重要なことである。私は旧約聖書を読み、面白いと思ったことがある。神は神に背く者を裁くが、抜け道を用意して下さり、必ず助けてくださると旧約聖書を理解した。神が抜け道を、必ず救いの道を与えてくださるという私の理解を、「パウロへの新しい視点」の考えにも支持されたように思った。
さて本日は、イザヤ書1章18節からである。1節から見てゆきたい。1節には、イザヤがエルサレム神殿でこれを読み上げたとある。そこで2節以下は、イザヤが預かった神の言葉になろう。神はイスラエルの民を育てたが、しかし、背いた。そこで、異国の民によって町々は焼き払われ、イスラエルの地は荒廃した。そして、娘シオンつまりエルサレムが残った。逆に他の町々は滅ぼされたということである。イザヤが活動した南ユダは、アッシリアによって荒廃したことが示されているといえる。紀元前8世紀、アッシリアは、イスラエルにも勢力を伸ばした。イスラエルは、既に南ユダと北イスラエルに分裂していた。北イスラエルは、シリアと同盟を組みアッシリアに抵抗した。そこで北イスラエルは南ユダに同盟を申し入れた。しかし、南ユダは拒んだ。その結果、北イスラエルとシリアの同盟が南ユダを攻めた。南ユダは、アッシリアに助けを求めた。南ユダは助かったが、そのことにより南ユダはアッシリアの属国になったといえるであろう。アッシリアはエルサレム神殿にアッシリアの神の像を置くということもした。その後、南ユダはアッシリアと戦い、敗北寸前にまで至ったが、エルサレムは奇跡的に助かった。それが2~9節の背景であると考えられる。実は、2~9節は、イザヤの活動の後半の出来事が最初に記されていると理解できる。実際、イザヤが預言者となる記事は、6章に記されてる。つまりイザヤ書の最初は、後の南ユダの悲劇的な状況が記されていると考えられる。
10~17節を見よう。そこはユダヤ教祭儀に対する批判である。この箇所は、時代が戻り、イザヤが預言者になった頃のことではないかと考えられる。ウジヤ王の治世は、神に従順で栄えていた。しかし、それが災いしたのである。イザヤはウジヤが死んだ年に、預言者になった。まだ繁栄の名残があった。繁栄によって富を持つ者が傲慢になったのではないかと考えられる。倫理的、社会的な不正をしながら捧げものをした。具体的にはわからない。もしかしたら、弱者を犠牲にして富を得た。あるいは犠牲を救いの手段としてしまった。救われるために犠牲を捧げた。大切なのは罪を思い、神に心から悔い改めることである。神の愛を信じ、罪を思い悔い改め、心から赦しを願うことこそが大切なのである。一方、犠牲が赦しの手段になり、悔い改めの心がない。神は、捧げものを求めているのではなく、内面を見ておられるということである。
神に頼むのではなく、同盟を大国と結び平和を得ようとした。この世的な考えである。また、犠牲を赦しの手段とした。心からの悔い改めはなく、偽善として捧げものをした。それらを神は、イザヤを通して警告していたのである。では、その箇所に救いはないのか。
そこで18節を見よう。「論じ合おうではないか、と主は言われます」とある。失礼かもしれないが、とても面白いと思う。神が、私たちに話し合おうと述べてくださっている。緋は、明るく濃い紅色であっても白くなることができると神は教えてくださっている。また、神に従うことによって大地が実る、救われる。逆にかたくなに背くなら、剣によって、神は異邦の民を用い、神の民を荒廃させるというのである。
9節を見よう。10節にもあるが、ソドムとゴモラとの記載がある。ソドムとゴモラは、神に背くということを象徴的に示している。創世記18章でソドムとゴモラの罪がひどいので、神は滅ぼすと述べた。するとアブラハムは、神と駆け引きをして、10人ソドムに正しい人がいれば滅ぼすことはやめてくれるようにとの約束ができた。神は滅びを望むのではない。しかし、正しい者はいなかったので、ソドムは滅ぼされた。そこで9節を見ると「わずかでも生存者を残されなかったなら」とある。神はわずかではあるが生存者を残したのだと理解できると思う。そこに、わずかだが、神の恵みがある。それは、18節以下でも見ることができると思う。神は、「論じ合おうではないか」と、神から救いの手を差し伸べてくださっている。悔い改めへと導いてくださっている。それだけではない。明るく濃い紅色であっても白くなることができると述べておられる。つまり神は、どのような重い罪さえも赦してくださる力を持っている。人間のいかなる罪、神への背きも、神は赦してくださるのだと述べているのである。人間のどんな罪よりも、神の愛は大きいといえるであろう。
私たち人間は弱く、そのため神に背いてしまうことがある。だから、律法には年に一度の赦しの儀式がある。それは神の愛を示しているといえるであろう。また、神は「論じ合おうではないか」と救いの御手を差し伸べてくださるのである。その最も大いなる愛の業こそが、独子イエスをこの世に遣わされた出来事である。神は独子の命を用い、人間を救いへと導きくださったのである。神の愛は人間の罪より大きい。私たちは神の愛を理解し、ただ感謝したいと思う。神は、話し合おうと私たちに救いの手を差し伸べてくださっている。悔い改めへの逃げ道を必ず与えてくださるのである。神の愛、恵みは私たちの想像を絶するほど大きいものであることに気づきたいと思う。
祈祷 愛なる神様 私たち人間は弱く、神に背いてしまうものです。神はまずイスラエルを選び律法を与えられました。そこには赦しの祭儀が規定されています。本日の箇所でも神は、神に背くイスラエルに警告を与えながら、「話し合おう」と救いの道を教え、お導きくださいます。神の愛は、人間の罪より力があり、また、私たちの想像を超えるほど大きいものです。神は、必ず私たちに救いの道を示してくださいます。その最も大いなる出来事こそ独子イエスをこの世に遣わされたことです。どうか私たちが神の大いなる愛に気づくことができますように。また、大いなる愛によって見守られ導かれている喜びを、多くの人と分かち合うことができますようお導きください。争いで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。どうか争いではなく、こどもたちに希望の持てる素晴らしい未来を与えることができますよう指導者、一人一人の賜物をお用いください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。先週、筑波学園教会の定期総会が行われ、新しい歩みとなりました。どうか選ばれた執事を教会に集う方々が支えながら交わり、良き宣教の業を行うことができますようお導きください。ゴールデンウィークになっています。良き安らぎの時になりますように。また、安全に過ごすことができますようお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ローマの信徒への手紙 12章 9~15節」
聖書朗読
12:09愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 12:10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 12:11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 12:12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 12:13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 12:14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 12:15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「共にある交わり」
本日は、ローマの信徒への手紙の12章9節以下に心を傾けたいと思う。9節に「愛には偽りがあってはなりません」とある。とても面白い理解があった。逆説的に受け取り、パウロは、人間たちが「愛」とよんでいるものがいかに偽善であるかを、よく知っていたというのである。つまり、人間の愛と神の愛は異なる。異なるということを把握することが大切であると、私は理解した。だからこそ、「悪を憎み、善から離れず」にいることが大切であるといえるであろう。そこで「善から離れず」ではなく、1955年に最終改定された口語訳「善には親しみ結び」という方が優しく、受け取りやすいように思う。1987年の新共同訳を2018年に改定した聖書協会共同訳も「親しみ」と訳している。善に親しむ姿勢を、私たちは持つべきではないだろうか。神との関係も同様なのかもしれない。
10節には「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とある。能力、賜物は人によって異なる。だからといって、優れて価値のある特別な人間がいるわけではない。いや、全ての存在が優れて価値がある。その証拠がイエスの死である。イエスにとって全ての存在、全ての人間が等しく大切である。一人一人が特別であるから自らの命をもって私たちを救ってくださった。イエスは今もなお、私たちの重荷を十字架で共に負ってくださっているのである。私たちは、どのような苦難に置かれても、一人ではない。イエスが共にいてくださるのである。人間は神に愛されるに値する存在である。神が御自分の独り子を死に渡すほどにも、存在する価値がある。私たち一人一人が神に愛され、神にあなたは必要な存在だといわれているのである。
そこで、後半の「優れた者としなさい」を見よう。その言葉の元の意味は「先に立って導く」「道案内する」である。つまり「尊敬を持って互いを導き」という意味に解することができる。自分一人が指導者であると威張るべきではないと受け取れるのかもしれない。手紙の著者パウロは、「相手を自分より前にし」という趣旨で記していると考えられるので、相手をたてる、優れた者とすると訳すことができる。そこで、互いを指導者とする、互いに導く、つまり、神の前において、人間は優劣、高い低いなどない。互いに人格を認めあい、それぞれ持っている賜物を用い、導きあうことが大切なのだと受け取ることができると私は思う。だからこそ、「兄弟愛をもって互いに愛」する。神が一人一人を受け入れてくださっている。だから、私たちも互いに相手を優れた者と受け入れあうべきであるといえるのではないだろうか。
11節に「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」ある。信仰的な姿勢といえよう。燃え尽きてしまってはいけない。神の霊を受け、絶えず燃え続けることが大切である。12節に「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」とある。この「希望」については、終末論的な意味を考えるべきだと思う。パウロは、「神の国の到来は近い」と教えていた。神の国は、世の終わり、終末である。その時、イエスを信じる者は迫害に会うと理解していたのである。キリスト教の初期、原始キリスト教は、ユダヤ教から迫害を受けていた。パウロは、ユダヤ教の律法を堅く守るファリサイ派に属していた。そこでパウロは、イエスが律法をないがしろにしたと理解し、キリスト者を迫害した。しかし、復活のイエスに会い、パウロはイエスこそ唯一の神がこの世に遣わした神の独り子だと気づいたのである。迫害する立場から迫害される立場になったのである。
イエスを救い主と信じる者は、神の国に招かれる。だから、苦難の中でも神を信じ、希望をもって歩むことができる。そこで大切なことは祈りである。祈りは神との対話である。イエスは、神をアッバ、すなわちお父ちゃんと呼び、私たちにも「アッバ父よ」と呼びかけることを赦してくださった。私たちは、親しい関係で神に語り掛けることが、祈ることができるようになった。すなわち、私たちは神の子とされたのである。そこで祈りを通して、私たちは神から力を与えられる。大切なのは、神の子とされたから神に親しく祈ることができるということである。
さて、人間の愛は偽善、利己的かもしれない。一方、神こそが真の愛なる方である。愛とは自分の欲求を満たすことではない。愛は見返りを求めない。無条件に相手を受け入れることだと思う。そこで13と14節には「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」とあり、そして「聖なるものたち」はキリスト者のことだといえるであろう。貧しい者を助け、旅人をもてなすよう努めなさい。それだけではなく、「迫害する者のために祝福を祈りなさい」というのである。それはイエスが述べている。マタイによる福音書5章44節に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とある。そこには究極的な愛が示されていると思う。イエスは十字架上で述べた。ルカによる福音書23章34節に「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」とある。苦難を受けながらも敵を赦す、イエスの姿がそこにある。そこから、祈りについて分かることがある。それは、自分の事だけではなく、隣人の救いを神に願うことができるということである。祈りは愛の業であるとも、私は思う。
そして、15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とある。イエスが行った業、隣人と共に歩んだことを思い起こす。イエスこそ、弱い立場、困っている人のもとに行った。そして十字架の出来事こそ、私たちの重荷を今も共に負ってくださっている救いの業である。つまり、泣く者と共にある出来事であるといってよいであろう。今もなお、イエスは私たちと共にいてくださっているのである。
人間の愛は神の愛とは異なるかもしれない。しかし、イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えてくださった。つまり、私たちを信頼し、私たちに希望を託しているのである。イエスは、私たちに何かができるからではなく、何も根拠もなく信頼して下さっているのである。もし根拠があるなら、神、イエスが私たちを愛してくださっていること、そして、私たちを子どもとして迎えてくだり、神が私たちに愛という賜物を与えてくださっていることである。私たちは、一人一人神から愛という賜物が無条件に与えられたのである。人間の愛は利己的なものかもしれない。しかし、私たちは他者の喜びを自分の喜びとすることができる。そして、他者のために祈ることができる。だからこそ、パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と示したのではなかろうか。利己的な愛が真の愛に近づくのである。互いに優れたものとして受け入れ合う。そして、他者と喜び、悲しみを分かち合うことができる愛を、神が私たち一人一人に与えてくださった。愛し合うことができると、イエスは私たちを信頼してくださっているのである。
本日はこの礼拝の後に、一年の歩みを反省し、そして、新しい一年の歩みを決める教会総会が行われる。今年度の主題聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」である。教会に集う者こそ、神に愛され、赦され、信頼されていることに気づいた者である。神、イエスを中心とする交わりこそ、「共に喜び、共に泣く」ことを可能とする。なぜなら、イエスが共におられるからである。そして、神、イエスが共におられる集まりこそ、礼拝である。礼拝を通してこそ、神から愛という賜物が豊かに与えられる。私たちはイエスに倣い、共に喜び、共に泣く親しい仲間として互いに導き合い、愛し合い、支え合いならがこの新しい年度歩みたいと思う。そして、この恵みを、この地で多くの人たちと分かち合いたいと思う。そこにこそイエスは私たちと共にいてくださるのである。
祈祷 愛なる神様 パウロは、神、イエスが私たちを愛してくださっているということ、一人一人の命が尊いこと、そして、互いに愛し合うよう教えてくださっています。私たちの愛は神の真の愛と異なるかもしれません。しかしイエス、神は私たちが互いに愛し合うことができることを信頼し、導いてくださっています。どうか、イエスに倣い共に喜び、共に泣き、互いに支え合う交わりとしてくださいますように。そして、この喜び、愛をつくばで分かち合うことができますお導きください。私たちは争い合うためではなく、互いに愛し合うために命が与えられました。互いの命を尊重し合い、手を結ぶ平和な世としてください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。礼拝後、筑波学園教会の定期総会が行われます。一年を悔い改め、良き一年の歩みを決めるときなりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 16編 1~11節」
聖書朗読
16:01【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。/16:02主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」/16:03この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。/16:04「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」/16:05主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。/16:06測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。/16:07わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。/16:08わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。/16:09わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。/16:10あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/16:11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「復活とは」
詩篇16編に心を傾けたいと思う。1節に「ミクタム。ダビデの詩」とある。「ミクタム」とは、いくつかの解釈があるが、正直言って、意味はよく分かっていない。そして、ダビデの詩とある。これも様々な理解があるが、レビ人であったユダヤ教の司祭が作者であるといえよう。この詩編は、原文に不完全な部分があったことから、解釈が学者によって異なるところがある。本日は、新共同訳の分け方とは異なる分け方で読んでみたい。
1~2節は、祈りと告白からなる導入部である。「あなたを避けどころとする」とは、神に信頼して生きることを意味している。そして、神こそ「わが幸い」と告白している。それが、この詩編の主題であるといえよう。それ以降は、様々な言い方で、その主題を語っていっている。
3~4節、この部分が不完全なために様々な解釈がある。ユダヤ教においても、異教の神々を崇拝していた指導者たちがいた。その箇所とは異なるが、旧約聖書において、ヨシア王の宗教改革と呼ばれる出来事があった。改革の一つに、神殿における異教的要素を排除したことがあげられる。本日の箇所でも、異教の神々の崇拝に走る指導者たちを批判し、自分たちは異教の祭儀を行わないと誓ったと考えられる。5~6節は、昔から神によって土地が与えられたこと、神から与えられた恵み、つまり嗣業を神に讃美している。7~9節は、神と共に生きることこそ正しい歩みであるということを述べている。10~11節は、神による救いと喜びを述べている。魂を死に渡さず、命の道を知らせてくださる神こそ、喜びの基であると神を讃えて詩が終っている。
さて、昨年度私は基本的に、日本キリスト教団の聖書日課を用いて、礼拝と祈祷会を行ってきた。教団の聖書日課には、日曜日は旧約聖書2箇所、新約聖書2箇所が掲げられている。本日もその聖書日課から聖書箇所を選んだ。復活、イースターの翌週の本日に、詩編16編が与えられているのは、どうしてなのか。それは、次のような理由だと考えられる。使徒言行録2章、また13章に、詩編16編10節が引用されている。使徒言行録2章1節以下は、ペンテコステ、聖霊降臨の話である。イエスが天に上げられた後、ペンテコステの日に、弟子たちが集まっていた。すると聖霊が注がれ、イエスの教えを述べ伝える力が与えられた。続く14節以下で、弟子のペトロが説教を語る。そこでは復活のイエスのことが語られた。イエスの復活は、旧約聖書においてダビデが預言したというのである。そこで、聖書日課が引用したのが、詩編16編10節だったのである。ダビデが預言した方こそがイエスであり、イエスが復活したことによって、その詩編の預言が成し遂げられたというのである。13章にも同様に用いられている。使徒言行録が記された時代、イエスを信じる者は詩編16編10節を復活の預言であると理解していた。宗教改革者カルヴァンの詩編の注解書でも、詩編16編10節をイエスの復活の預言であると解釈している。
では、詩編16編10節は、本当にイエスの復活を預言していたのであろうか。そこで、使徒言行録2章31節における詩編16編の引用の言葉を読んでみたい。「彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない」とある。本日の詩編16編10節に「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」とある。前半の使徒言行録の「陰府に捨てておかれず」と、詩編「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく」は、ほぼ同じ内容であると受け取れるであろう。しかし、後半使徒言行録の「その体は朽ち果てることがない」と、詩編の「あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」は、意味が異なる。使徒言行録は、ギリシア語聖書の七十人訳を用いている。詩編16編10節で「墓穴」と訳されている言葉は、言語のヘブライ語の「朽ちる」から派生した語である。そこで「朽ちる」と訳すと、死からの復活の思想を読み取ることができる。七十人訳聖書は、そのようになっている。「朽ちる」と訳し、使徒言行録のペトロは、詩編16編10節がイエスの復活を預言していると理解し、用いたのである。
では、詩編16編の本来の意味はどうなのか。実は、復活を意味していないと考えられるのである。そこでは「朽ちる」ではなく「墓」を意味しているので、復活ではないと理解できる。また、10節の「陰府」は、病苦や危害による絶望的状況の比喩的表現であり、そこでは死を意味しているのではないと考えられる。そして、続く11節の「生命の道」も、永遠の生命に至る道を意味してはいない。詩編16編は、最初の段落での祈り「私を守ってください」、そして「あなたの他にわたしの幸いはありません」の告白に応えるように、最後の段落である10節と11節で、死の危険から守り、喜びあふれる地上の生命を約束する神を讃えているのである。つまり、生かすという約束をしてくださる神を讃えているのである。最初に述べた通り、神が共にいて生かしてくださる「幸い」の告白なのである。
では、詩編16編は、復活とまったく関係ないのであろうか。そこで、私たちにとってイエスの復活とはいかなることかを考えたいと思う。イエスは十字架に掛けられ、死に、陰府にくだった。そのことにより陰府は、神に対立する闇ではなくなり、イエス、神の支配の領域になった。だから、死を恐れる必要はなくなったのである。死はイエスの支配の領域になり、人間は死ぬとイエス、神のもとに行くといえるであろう。イエスはまさしく死に勝利したのである。そして、イエスが復活したように、死んだ者は死に、闇に縛られるのではなく、神の国の到来においてイエスと共に復活するのである。言い過ぎかもしれないが、死の領域は天国となり、神の国への待合室といえるのかもしれない。
復活の意味は、それだけではないと思う。死とは、いかなる意味を持つのだろうか。旧約聖書においては、死は神との断絶、神との関係が切れることであると考えられている。イエスの十字架は、人間の罪をイエスが贖ってくださる出来事であり、神と人間との和解の出来事であるといえる。つまり、人間は神と共に生きる者とされた。イエスの十字架は一回だけの出来事、つまり、この一回で、全ての人が神と関係を回復し、これからも人間と神の関係は終わることはないのである。そのような意味で、私たちは死を克服したのである。しかも神、イエスの導きは、神の国の到来につながる。神が、その独り子イエスをこの世に遣わしたのは、この世を愛するゆえであった。人間が神と正しい関係に生きるようにしてくださるためであった。イエスの復活は、神の国が到来する時に、私たち人間も復活するという希望である。死は神の支配の領域になり、そこは闇ではなくなった。イエスは死に勝利した。それと同時に、イエスの十字架においては、神と人間との和解が示された。つまり、イエスの十字架により、神はいついかなる時も、私たちと共にいてくださるということである。イエスが復活したように、私たちも新たなる者として、神と共に今を生きることができる。神が共にいてくださるのだから、私たちは何も心配することはないともいえるであろう。復活とは、この詩編16編がまさしく述べている神による「幸い」である。私たちにとって、神が共にあり導いてくださることほど、幸いなことはない。また、もしかしたら、神が共にてくださるということこそ嗣業、神から与えられた恵みではないだろうか。私たちは何も心配せず、神にすべてを委ね、今を大切に生きることができるのである。つまり、復活の恵みこそ、今を生きる希望、力を与えられた出来事であると私は信じている。私たちは、命の道を教えてくださる神が共にいてくださるという幸いを覚え、主の御顔を仰ぎ、日々歩みたいと思う。
祈祷 独子をこの世にお遣わしになられた導き主なる神様 あなたは、旧約聖書にける契約、律法の授与、新しい契約の約束、救い主の預言を通し、独り子イエスをこの世にお遣わしになり、その業、特に十字架、復活を通して、救いを示してくださいました。それは、いつも私たちと共にいてお導きくださる。その導きは永遠であるという、幸いの約束です。本日は詩編16編を通して、そのことを知ることができました。あなたがただ私たちを愛し、共に、お導きくださることを、感謝いたします。いついかなる時も、あなたが共にいてくださることを感謝し、あなたを見上げて歩むことができますよう、お導きください。そして、この幸いを多くの人と分かち合うことができますよう私たちをお用いください。争いで被害にあうのは弱いものです。また、相手を攻撃するのは弱さを隠すためなのかもしれません。どうか互いの弱さを受け入れ合い、手を結ぶ平和な世となりますようお導きください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。次週には、筑波学園教会の定期総会が行われます。一年を悔い改め、良き一年の歩みを決めるときなりますようお導きください。先週は、御子イエス・キリストの復活を祝いました。どうかすべての人に復活の恵みが与えられますように。また、新しい歩みを始めた方々をお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 24章1~12節」
聖書朗読
24:01そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 24:02見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 24:03中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 24:04そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 24:05婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 24:06あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 24:07人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 24:08そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 24:09そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 24:10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 24:11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 24:12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「何度も何度も」
本日はイースター、復活祭である。イエスが十字架につけられて死に、三日目に復活した。皆さんは、エルサレムに行ったことがあろうか。エルサレムには聖墳墓教会というイエスの墓といわれる場所がある。また、近くの場所では、2000年前の墓が発掘された。ある教派は、そこがイエスの墓であると考えているようだ。そこには「イエスは復活したので、ここにはいない」と英語で書かれた看板が置かれている。当時の墓は岩を横に堀り、入り口には、大人一人では動かすことのできないくらいの大きな石の円盤でふたをしていた。その墓にも石のふたがあった。
本日は、ルカによる福音書の24章1節以下に心を傾けたい。十字架の死から三日目、ユダヤ教の教え、すなわち律法に規定されていた安息日が、休まなければならない時が明けたので、婦人たちは準備しておいた香料を持って、埋葬したイエスに塗るために、墓に行った。遺体に香料を塗ることは、家族が行うことであった。婦人たちはイエスの家族ではなかった。しかしここからイエスが、すべての人を家族として招き、家族として接し、愛してくださったということを知ることが出来る。
婦人たちが墓に行くと、入り口の石の円盤が動かされていた。婦人たちは墓の中に入った。するとイエスの遺体は見当たらなかった。途方に暮れていると、輝く衣を来た二人が現れた。それは、天使であったと言ってよいだろう。なぜ、天使は二人だったのか。律法であった旧約聖書の申命記19章15節に、「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」とある。その出来事を立証するために、二人の天使がいたのである。5節以下にその証言がある。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と。神は、天使を二人遣わし、イエスの復活を告げた。ガリラヤでのイエスの言葉が、9章22節に書かれている。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。9章44節、18章32~33節も同様の内容である。つまりイエスは三度も復活を予告した。天使たちは、婦人たちが思い出すことができるように導いたのである。
さて、そこでは婦人たちが墓に行ったことが重要である。なぜならイエスを墓に埋葬したのは、ユダヤ最高法院議員のヨセフと婦人たちだったからである。婦人たちはイエスの死を確認し、墓に埋葬した。イエスは、決して死んだふりをしたのではなかった。確実に人間として死んだ。埋葬した婦人たち、つまりイエスの死についての二人以上の証言が、そこでは成立していたのである。次に、埋葬した婦人たちは、イエスの遺体がないことを見て確認した。そして、二人の天使がイエスの復活を伝えた。二人の天使に伝えられた言葉を、二人以上の婦人が聞いた。墓は空で、天使たちがイエスの復活を述べた。婦人たちは天使に会い、イエスの復活を聞いた。イエスの死と復活が、婦人たちによって立証されたのである。
墓から帰った婦人たちは、そのことを他の婦人や11人のイエスの弟子に知らせた。しかし11人の弟子たちは「たわ言のように思ったので、婦人たちを信じなかった」のである。それまで弟子たちは、イエスを信じ共に歩んできた仲間であった。弟子たちは、イエスが招いた家族同様の存在であったのに、婦人たちの話を信じなかった。12節に、ペトロは立ち上がって走っていったとある。ペトロだけは確認しようとした。一方、次のような理解がある。12節は、本来ルカによる福音書にはなかったが、後で書き加えられたというのである。実際、以前の口語訳聖書には12節を、後から書き加えられたと考えて括弧に入れている。私が持っている英語の聖書では、12節は削除されている。様々な意見がある。本日は、付加されたと受け取る。12節が後から書き加えられたと考えると、ペトロを含め弟子たちは、墓で天使に会ったという婦人たちの証言だけでなく、イエスが復活したことをも信じなかった、理解できなかったのである。ルカによる福音書は、弟子たちを権威的に記しているが、この箇所では弟子たちがイエスの復活を理解できないでいたことを記しているのである。
そこで、イエスが12歳の時の出来事を思い起こす。それは2章41節以下に記されている。イエスの両親、ヨセフとマリアは過越し祭に、毎年神殿のあるエルサレムに旅をした。祭りが終わり両親は帰路についた。しかし、イエスはエルサレムに残っていた。そのことに気づかず両親たちが、すでに一日分歩いてしまったときに、二人はイエスがいないことに気付いた。両親は探し回り、エルサレムに引き返すと、少年イエスは神殿の境内で学者たちと討論をしていたとうのである。母マリアは「心配をかけて」と、イエスを叱った。すると少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と述べた。神殿は、神が臨在する場所である。イエスを身ごもった時、マリアはおなかの子が神の子であると告げ知らされ、受け入れた。それにもかかわらず、そのときマリアは、イエスが神の子であり、神殿には神がおられるから大丈夫であるということに気づいていなかった。つまり、そのときのマリアもイエスの力を理解できていなかったのである。
弟子たちも、イエスが神の子であり、復活すると三度も予告していたにもかかわらず、信じることが出来なかった。いや、まったく理解していなかった。それだけではなく、弟子たちは、墓に行った婦人たちのことも相手にしなかった。
それらのことから、私は次のように理解したい。イエスの少年時代の話、イエスの十字架、復活の出来事は、そのように弱い人間の姿が重複されているといえるのではないか。そこで人間は、神、神の子、復活をすぐに理解することが出来ない。自分たちの理解でしか物事を受け入れることが出来ない。目で見えるものしか信じることが出来ない。つまり、人間とは弱い存在である。その結果、何度も神を疑い、裏切ってしまう。しかし、理解できなくても何度も繰り返し、分かるように神は、イエスは導いてくださる。つまり、人間の立場に立ち、人間の弱さを受け入れ、導いてくださる神の愛、イエスの愛がそこに示されていると思うのである。実際、その後、復活のイエスは弟子たちに現われたのである。
私は信仰とは、らせん階段のようなものであると思っている。上がっているようで上がらない。同じこと繰り返す。それでも、少しずつでも前に進めばいいのではないか。それが人間、また信仰なのではなかろうか。神、イエスは、弱い人間をよくご存じで何度も過ちを繰り返す人間を愛し導いてくださる。イエスが三度も復活を予告したにもかかわらず、信じることのできなかった弟子たちのことさえも、イエスは受け入れ、導き、用いてくださった。
イエスの復活は、人間の弱さを受け入れてくださり、人間の立場に立ち、導いてくださる神の、イエスの愛がある。そして空の墓にこそ、イエスの復活の希望がある。空の墓は、復活の希望の象徴なのである。私たちは復活のイエスに出会うことはできない。しかし、信じることができる時を、必ずイエスは与えてくださる。イエスの復活は、弱い私たちを受け入れてくださるイエスの、愛の象徴的な出来事なのである。そこに私たちの希望がある。弱い私たちを信じることができるように、何度も何度も導いてくださるのが復活のイエスなのである。私たちはイエスのその導きにより、新たなものとされるのである。それこそが復活の恵みなのではないだろうか。
祈祷 愛なる神様 本日は、イースター、独子イエス・キリストの復活を祝う時を持っています。婦人たちが香油を塗りに行くとイエスの遺体はありませんでした。イエスは三度も復活を予言されています。一方、報告を聞いた弟子たちは信じません。人間の弱さを思います。この弱い人間を受け入れてくださる愛が、復活にあると思います。信じることができない人間を何度も何度もイエスは受け入れ、お導きくださいます。このことを信じたいと思います。この導きこそ、復活であると思います。どうか弱い私たちを受け入れてください。また、私たちも互いの弱さを受け入れ合うことができますようお導きください。互いを受け入れある平和な世となりますように。そして、イエスの復活と共に私たちの歩みをあたらなるものとしてくださいますように。特に新しい歩みをはじめられた方を支え、祝してください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り、主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヘブライ人への手紙 10章 1~10節」 10:01いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 10:02もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。 10:03ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。 10:04雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。 10:05それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。 10:06あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。 10:07そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」 10:08ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 10:09次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 10:10この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「御心を行うために」
本日は、棕櫚の主日である。エルサレムには神殿があり、ユダヤ教の中心地だった。そこはつまり、イエスに敵対するユダヤ教の権力者がいる場所だった。一方、民衆はナツメヤシ、棕櫚の枝をふり、イエスをエルサレムに迎えた。その歓迎とは反対に、イエスがエルサレムに入ったのは、十字架に掛けられるためであった。
この世における罪の赦しの祭儀は、エルサレム神殿の奥にある至聖所という場所で大祭司によって行なわれていた。そこでは人間の代わりに、雄牛や雄山羊などの血を犠牲として神に捧げた。一方、旧約聖書に記されていた教え、すなわち律法は不完全であった。罪の赦しの祭儀を、真の大祭司イエスが、天にある真の神殿において行い、完全なものとしてくださった。そのことがヘブライ人への手紙に記されている。それはいかなることなのか。
本日は、ヘブライ人への手紙の10章1節以下に心を傾けたい。ユダヤ教の教え、律法に記されている祭儀は、影のようなものにしか過ぎず、実体はないという。そのように言えるであろう。この世で行われる祭儀は、天にある真の神殿の真の祭儀の写しであると、真似にしか過ぎないというのは、もしこの世の祭儀が完全なものであるなら、実際に罪そのものがなくなっている。そうだとするならば、当然、罪の意識もなくなる。つまり、罪の赦しを願う祭儀を行う必要はなくなるはずだ。しかし、実際には年毎、年に一度罪の赦しを願う祭儀を行っているではないか。家畜などの血では、罪を取り除くことなどできないと言うのである。血は生命の象徴である。私たちが負うべき罪の罰の代わりに、雄牛や雄山羊の命を代わりとする。それは律法に規定されている。つまり、神が定めたことだから、正しい祭儀である。雄牛や雄山羊の血を用いるのは、人間が働き所有したもの、つまり財産の一部を神に捧げること。だから、その意味では人間自身が痛みを伴うことになると思う。だから、家畜の血を用いるというのは正しいかもしれない。しかし、次のように考えることができるのではないだろうか。他の生き物の命を自分の代わりにするというのは、人間の都合の良い考えではないかと。
5節以下には「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」とある。
5節以下の『(括弧)』は、旧約聖書詩篇40編7~9節の言葉である。ヘブライ人への手紙10章8節以下に、その言葉の意味が解釈されている。神は、もともといけにえを望んではいなのだと言うのである。そこで「私たちのために、体を備えてくださいました」なのである。イエス・キリストがこの世にやって来たのは、その体を犠牲として神に捧げるためであった。それは、神の意志を神の独子イエス・キリストが行うために、この世に来られたのである。そのことが詩編40編で、既に預言されていた。イエス自身がそのように述べたではないかと言うのである。
そこでヘブライ人への手紙の著者は、次のように考えた。イエスは、完全な赦しの祭儀を行なうためこの世に来られた。その出来事こそが十字架の出来事である。そこで複雑なのは、十字架の出来事は、この世の出来事である一方、真の祭儀は天で行われる。十字架の出来事は、神の意志である。人間は、自分の力で神に対する罪を無くすことはできない。そこで、人間の罪を赦すために、イエスの血という犠牲が必要だった。一方、ヘブライ人への手紙の著者は、天にある真の神殿で真の罪の赦しの祭儀が行われたと言うのである。それは、イエスが天に上げられてから真の大祭司として、人間と神とを取り次いだのであると理解できるであろう。
神は、そもそもいけにえを望んでいなかったというのである。マタイによる福音書は、神殿祭儀を重視するユダヤ教の在り方を批判して、この世に現実に生きる人間の倫理に重きを置こうとしていた。山上の説教を思い出していただければわかるであろう。右の頬を打たれたら左の頬を出しなさいとあった。祭儀を重視することに対する批判は、預言者の一部や詩編の一部にも見られる。ヘブライ人への手紙の著者は、マタイによる福音書とは直接関係ないとはいえ、神はそもそもいけにえを望んでいないという基本の姿勢は共通していると考えられる。やはり家畜の血を私たちの代わりに犠牲とするというのは、人間の都合の良い考え方なのかもしれない。一方で神は、独り子イエスを犠牲にした。それは神自身、痛みを伴う出来事だったはずである。
ヘブライ人への手紙の著者には、イエスの十字架について、犠牲という理解があったのであろう。一方で、私はあまり「犠牲」という言葉は用いたくはない。用いるとするなら、イエスのみである。犠牲という言葉は、戦争などでも、人間の都合よい使い方ができるからである。そこで、犠牲について考えたい。昨年、マタイによる福音書を中心にした主の祈りに関する本が出版された。
犠牲、英語では「サクリファイス」である。この言葉は、「神聖化する」という意味のラテン語「サクルム・ファケレ」に由来する。神に対する贈り物や食事を神聖化するということである。私たち人間は、お互いの関係を維持・回復するために贈り物や食事を利用する。そして、人間は神に対しても、まったく同じことをするというのである。それが犠牲である。つまり、犠牲は私たちの罪の代わりという理解ではなく、贈り物であるというのである。とても面白い理解だと思った。すなわち、十字架のイエスの犠牲は神からの贈り物なのである。
イエスの十字架とは、いかなることだったのか。イエスが民衆から王になると期待されたことに対する権力者の嫉妬、または自分たちの地位を脅かす存在として、イエスを敵視した権力者の暴力的行為。それが十字架といえるのではなかったか。十字架は、人間の罪、欲を映し出している一方、イエスは人間の欲からなる暴力行為としての十字架に対して無抵抗、非暴力だった。それこそが神の本質であると言えるのかもしれない。イエスの死こそ、私たち人間が真に生きるための出来事だったのである。イエスこそ隣人のために生きた。人を生かすことがイエス自身の死の意味だったのではなだろうか。イエスの十字架は、生と死を尊いものとしたのである。
そのように理解すると、イエスの犠牲はまさしく「贈り物」だったのではないかと思ったのである。イエスの十字架は、生きるとはいかなることかを私たちに示してくださった出来事ではないだろうか。命とは尊いものだからこそ、大切にしなければならない。イエスは、一人一人の命を尊いものと理解した。一人一人の命は何にも変えることのできない大切なものであり、一人一人が唯一無二の存在であることを、十字架を通して教えて下さった。そして、イエス自身が犠牲となって、十字架につけられた。そのことによって、私たちは神と正しい関係を持つことができたのである。十字架は、イエス・キリストの死を神聖化するだけではなく、イエス自身をも神聖化する。それと共に、聖なる贈り物を私たちが与えられた。それは罪深い私たちが生かされるということである。少し危険な言い方だが、私たちを聖としてくださったと言えよう。それは神と同じ存在という意味ではなく、神、イエスと共に生きる存在としてくださったということである。神と正しい関係になった。それこそが、イエスからの贈り物である。そして、それに応えるために、私たちはイエスに倣い、義しく生きようと欲するのではないだろうか。つまり、いかに生きるかという問いかけが、イエスの十字架にあると思うのである。
神はいけにえを欲するのではなく、私たち人間が神と正しい関係にあることを欲せられた。それこそが神の御心なのではないだろうか。そのため、イエスは十字架につけられたのである。私たちは、この最も喜ばしい贈り物を受け取り、イエス、神に応答したいと思う。
祈祷 独子をこの世に遣わされたほどこの世を愛された神様 御子イエスは本日、エルサレムに入られました。それは苦難を負う出来事です。そして十字架に向かわれます。しかし、それは隣人を愛すること、つまり私たち人間が人間として歩むための贈り物でした。私たちが神、イエスの愛を確信し、イエスに倣い、隣人を愛し、互いの命を尊重し合うことができますように。それこそが、十字架の愛に対する私たちの応答であると思います。次の金曜日はイエスの受難日です。十字架に掛けられるイエスの愛を確信できますように。互い愛し合うため命は与えられました。互いの命を尊重し合うことができますように。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。4月になりました。それぞれ新しい歩みを始めていると思います。どうかそれぞれの新しい歩みを祝し、お導きくださいますように。また、教会の新しい一年の歩みを祝してくださいますように。今月、誕生日を迎えられる方を祝してください。次週は、イースター、イエスの復活を祝います。多くの方と御子の復活を祝うことができますように。集うとしている方々の健康をお支えください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン