聖書:新共同訳聖書「詩編 54編1~9節」
聖書朗読
54:01【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。/54:02ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】
54:03神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。/54:04神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。/54:05異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ
54:06見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。/54:07わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。/54:08主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。/54:09主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「魂の支え手」
音声配信
昔、他教派の家庭集会に話に行く機会を与えられた。話し終わって、お茶を飲んでいるときに質問を受けた。「近所で葬儀が最近ありました。亡くなられた方は何度か教会に来られたことがあります。葬儀から帰る途中、ある教会員が『誰々さんは、洗礼を受けていないから天国に行くことができないのでかわいそう』といわれたのです。どう思いますか?」と。私は「そう発言された方は信仰の熱心な方なのですね。私なら『天国に行けるようお祈りしましょう』といいます」と答えた。質問した方は「そうですよね」と述べた。質問をした方は、天に召された方と、そのご家族の悲しみに配慮し、天国に行けないという言葉はどうなのか、支えにならないのではと思ったのであろう。
また、ある若い男性に「教会に言って話がしたい」と電話をいただいた。その話の内容は、数か月前のこと。4年生の娘が学校から帰ってくると熱を出し、倒れた。病院に行くと脳にウイルスが入り、脳死の状態であると言われたいう。さっきまで元気だった子どもが、いきなり動かなくなってしまった。本当に悲しい。お話を伺うと、彼のおばあさまがクリスチャンとのことだった。そこで教会に来たという。彼は、「娘はもう目を覚ますことはないと思っています。既に天国に行っていると信じています」と述べた。私は、祈った。その後、彼は月に1,2度礼拝に通うようになった。それから2年ほど経ち、3月の上旬だったと記憶しているが、また電話があり、娘さんが天に召されたと伝えられた。葬儀は、献花だけのお別れ会だった。私は葬儀に伺った。葬儀に来ていた多くの人は、天に召された娘さんの友達だった。4月から中学校に上がる子どもたちで、みんな中学校の制服を着ていた。最後に娘さんの父親の彼が挨拶をした。「友達がいっぱい来てくれました。娘のことを覚えてくれて本当にありがとう。娘はみんなと同じようにセーラー服を着て、中学校にあがる年でした。娘もみんなのセーラー服姿を見ることができ喜んでいるでしょう」と。その後、彼は礼拝にやってきた。、小学校の卒業式では、卒業証書授与で、娘さんの名前が読み上げられたと話してくださった。その後、その娘さんの両親が洗礼を受けたわけではない。やがて彼は、あまり教会には来なくなってしまった。ただ、この両親には、娘が天国に行っているという思いが、彼らの心、そして魂の支えとなっていることは事実であろう。いつしかまた、彼らが教会に来る日を祈っている。教会が、イエスが、彼らの心の支えになっていれば何よりうれしい。きっと娘さんは天国で神の平安のうちあるであろう。そして、イエスが娘さんの家族の心を、今もお支えくださっていると信じる。
本日の聖書箇所、詩編54編は、第二ダビデの詩集である。2節に「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」とある。それはサムエル記上23章14節以下の物語を踏まえている。イスラエルの最初の王サウルは、ダビデの存在が邪魔になり、殺そうとした。ダビデが隠れていると、ジフ人に居場所を明かされ、サウルの軍隊に討たれるところだった。そのとき、敵のペリシテ人がイスラエルに侵入してきたという知らせを聞いたサウルは、ダビデの追跡をあきらめたのである。つまり、サウルから逃げているダビデが救いを願う祈りである。それは5節の「命をねらっている」が、サムエル記上23章の表現に似ていたので、後に結び付けたと考えられる。
元来は、3節以下の詩編だったと考えられる。だから、私たちにとってこの詩編は、救いを求める個人の祈りと受け止めてよいであろう。3~4節は、祈りを聞きいて欲しいとの懇願である。というのは5節で、敵の攻撃にさらされていたことがわかるからである。6節で神に対する信頼を表している。7節では、敵の滅びを願っている。8~9節は、救いの感謝を表すためささげものをし、讃美することを神に約束している。9節の「わたしの目が敵を支配しますように」とは、敵の敗北を見ることができますようにという意味である。
さて、皆さんは「あなたの御心ならば」と祈りの最後に述べることがあるのではないか。或いは、その言葉を聞くことがあるのではなかろうか。祈りの内容が神の意志に適うならばなしとげられますようにということである。私も以前は、そのように祈っていた。神をうやまう謙虚な姿勢だと思っていたからである。しかし、ある本に次のように記されていた。「御心のままに」とは祈らなくていい。神様は、何でも知っている。また、全能な神はなんでもできる。だから「御心のままに」ではなく、素直に願いを述べるべきだというのである。私はとても驚いた。自分勝手な祈りとなっている可能性もある。だから神の考えにあうようでしたらかなえて下さいという祈りは、つつしみ深くてよいと思っていたからである。確かに、神様は私たちのこと、私たちに必要なこともご存じである。そして何より私たちを正しい道に導いてくださる。そのように考えると、私たちは何でも祈っていいのである。神は何でもできるのだから信頼して祈ればいいのである。神様の前ではかっこつける必要などないなと思ったのである。その本を読んでから私は「御心のままに」とは、あまり祈らなくなった。しかしそれは、あくまで考え方の一つである。
本日の詩編54編の祈りこそ、救いを求める祈りである。それでいいのだと思った。3節に「わたしを裁いて下さい」とある。それは「自分が悪いことをしたなら裁いて下さい」と理解してしまうかもしれない。しかし、そうではない。「わたしを弁護して下さい」、または「わたしの正当性を認めて下さい」という意味である。もちろん、自分が無実であることを前提としている。そして神を信頼しているからこそ、そのように祈ることができるのである。その信頼は、「御名によって」という言葉に現われている。神の名、名は力を、全てを意味する。神は全知全能の方である。何でもできる。神に対する絶対的な信頼があるからこそ、神の名によって祈ることができるのである。
そして、この箇所で見たいのは6節「主はわたしの魂を支えてくださる」という言葉である。そこには、神の支えが実現するという信頼がある。今、私たちはレントの時を過ごしている。イエスこそ神の独子、神と同じ権能を持っているのにもかかわらず、私たちと同じ肉体、弱さをもってこの世に遣わされた。イエスは、人々から王となると期待された。一方、権力者たちはそのことに対し嫉妬した。自分の地位をおびやかすとイエスを敵対視した。または、同じ宣教方法であることから邪魔であると、この世の王になると期待していたが違うこととが分かり、期待を裏切られたから背いたなどと、様々な理由が考えられる。
どちらにしても、人間の欲によってイエスは苦難を受けたのである。イエスの受けた受難は、人間の弱さを映し出していると思う。一方、イエスは、人間として苦難を受けた。弱い人間の立場に立ち、歩んだ。つまり、苦難を体験し、人間の欲、弱さを知ってくださったのである。そのことが、イエスの苦難の意味にあると思う。そこで6節に「主はわたしの魂を支えてくださる」とある。直接的な神による魂の支えを意味する。イエスこそ私たちの痛み、苦しみ、重荷を体験し知ってくださっているからこそ、私たちの魂を支えてくださる。それと同時に、同胞、周りの人々の支えがあるということを意味しているのである。イエスが天に上げられてから後は、友、同胞、周りの人間を通して、神がそれぞれの魂をお支えくださると理解してよいであろう。だからこそ、魂の支えが実現するのである。逆に、神、イエスに支えられているからこそ、隣人を支えようと思うのではないだろうか。
本日は、今年度最後の礼拝である。皆さんがお支えくださり、この一年を歩むことができた。特に、赴任してすぐの6月に私は敗血症で倒れ、10日間入院をしてしまった。しかし、その間も皆さんがお支えくださった。私だけではなく家族に対しても様々のお支えをくださった。今も、私と家族を心配してくださっている。もちろん体だけでなく、魂、心を本当に皆様に支えられた一年だった。ほんとうに感謝である。まさしく54編6節に記されていることだと思った。
教会は、神、主イエスを中心に支えられながら、また、互いに支え合う場所であると思う。それは今日の詩編にも記されている通りである。また、神は、イエスを通し、人間の苦難、重荷を誰よりも知ってくださっている。だからこそ、どのような祈りをも聞いて下さり、魂を支えてくださるのである。私たちはこの事実を確信したいと思う。
私たちは神に何でも語っていいのである。神は聞いて下さり、私たちを支え、導いてくださる。4月から始まる新しい年度も神、主イエスに支えられながら、また、神、イエスから与えられた恵みを確信し、互いに支え合い歩みたいと思う。
祈祷 愛なる神様 私たちはあなたに命を与えられ、生かされている者です。そして、神は私たちを支えてくださっています。特に独子イエスをこの世に遣わしになり、苦難を受けられました。だからこそ、人間の弱さ、苦難をよく知っておられます。そして、今もなおイエスを通して私たちをお支えくださっています。どうか、あなたに支えられている者として隣人を支える、互いに支え合うものとなりたいと思います。そのようにお導きください。私たちは互い愛し合うため命が与えられました。どうか争いではなく支え合う世となりますように。 地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。新しい歩みの準備の時となっています。どうか、よき準備の時になりますようお導きください。また、年度末、忙しい時です。一人一人をお支えください。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。レントのときを過ごしています。独子イエスの苦難は、神ご自身の苦難です。どうか苦難を負ってまでも人間を救いに導かれる神の愛を思う時としてください。本日は、今年度最後の礼拝になります。この一年お導きくださいましたことを感謝いたします。新しい一年の歩みも祝してください。次週は棕櫚の主日です。御子がエルサレムに入られます。どうかその意味を考える時としてください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 9章28~36節」
聖書朗読
09:28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 09:29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 09:30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 09:31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 09:32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 09:33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 09:34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 09:35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 09:36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「栄光のイエス」
本日は、この筑波学園教会の創立礼拝である。昨年、二代目の牧師若月健悟先生が天に召された。若月先生のお働きに感謝し、天における主の平安を祈る。
さて、イエスは弟子3人を連れて、祈るために山に登った。ルカによる福音書においては、重要な出来事の前の祈りが記載されている。祈りとは、神との会話であり、私たちを導く力であると思う。祈っているとイエスの姿が変わり、服は真っ白に輝いた。イエスの復活の場にいた二人の天使も、輝く衣を着ていた。それは天的な姿を意味する。また、復活の姿を暗示しているのかもしれない。イエスはモーセとエリヤと語り合っていた。モーセとは、エジプトで奴隷として苦しみの中にあるイスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地へと導いた人物である。そしてモーセは、律法の基である十戒をシナイ山で神から与えられた。エリヤは、紀元前800年中頃に活躍したイスラエルの初期預言者である。彼は異邦の神を拝む王を批判したり、良い土地を不正に奪おうとした王を告発したりした。またエリヤは、終末に再臨するとも聖書には記されている。つまり、二人は旧約聖書の偉大な指導者といえるであろう。二人は律法と預言を代表している。そこでイエスが律法と預言を成就させることを、完成させることを示している。また、偉大な指導者が神の意志をイエスに伝えるということも意味しているであろう。だから、二人とイエスは最期について話し合っていた。ここに記されている「最期」とは、日本語で死を意味する。十字架について話し合ったということであろうか。
一方、偉大な指導者たちを前にして、ペトロたち三人の弟子は「ひどく眠かったが、じっとこらえている」と書かれている。さすがに、この状況で眠ることなどできなかったのではないか。しかし、前の口語訳聖書、新しい新協会訳聖書では、「熟睡していた」「眠りこけていた」と訳されている。この箇所では、弟子たちは寝ていたという訳の方が適切であると考えらる。
先ほど、重要な出来事の前には、イエスは祈ったと述べた。つまり、そののちイエスは決断をしたといえるであろう。先ほどの「最期」という言葉について考えてみたい。ここで用いられている原語のギリシャ語は、劇場用語の「終曲」、フィナーレを意味する言葉だという理解がある。つまり、死、十字架だけを意味するのではなく、イエスの受難、死、復活、昇天を意味している。フランシスコ会訳聖書では、新共同訳と同じ「最期」と訳されているが、その注に「イエスが、受難、死去、復活、昇天を通して現世から離れることを指す。」とある。「旅立ち」と訳している日本語訳の聖書もある。イエスは、受難、十字架、復活という重要なことをモーセ、エリヤと話し合い、決断をするため祈っていたのである。しかし、弟子たちはイエスのことを理解せず、この重要な場面で寝てしまった。それだけではなく33節に、目を覚ましたペトロは、「仮小屋を三つ建てましょう」と述べたとある。イエスの姿が変わり、モーセとエリヤが現れたことを記念するというのであったか。この世的な気がする。そこでペトロが述べている仮小屋とは、幕屋、つまり神と出会う場所を意味している。神と出会う場所が、神殿が三つ必要なのか。また、エリヤ、モーセは神ではない。つまり、讃美する対象ではない。私はイエスがエルサレム神殿を批判していたと理解している。神殿は権威的な場所となり、また、捧げ物を売るなどの商人がいて、その売りあげの一部は祭司長たちに入るという仕組みだった。神殿に行くことも、また、献げ物を買うこともできない貧しい人々は、神の赦し、祝福に与れない。イエスはそのようなこの世的システムの神殿を批判していたと私は理解している。つまり、ペトロがイエスのことを理解していないということを、ペトロの言葉からも知ることができるのである。
そして、雲が現れ、イエスたちを包みこんだ。雲は、神が現れることを意味している。また、その雲は聖霊であるともいえよう。雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が聞こえた。その言葉は、イエスが洗礼を受けるときにもくだった。まさしく神が語りかけたのである。イエスこそ神の独子であり、神の意思を行う者であるということを示している。そこでは、イエスこそ神の独子であるということを弟子たちに知らせると同時に、洗礼を受けた時と同様に、これからイエスが歩むべき道を神が祝したのではなかろうか。では、これから歩むイエスの道とはいかなるものであろうか。
そこでモーセとエリヤを見たいと思う。先ほど、モーセは出エジプトの指導者であると、そして、エリヤは時の権力者を告発するほどの信仰をもった預言者であると述べた。偉大な指導者が現れた。だからイエスも偉大な歩みをなす。いや、イエスは、偉大なモーセ、エリヤ以上の存在であることを示しているともいえるであろう。
また、私は次のように考える。エリヤは、権力者を批判し弾圧を受けた。モーセも、指導者であったが神が約束してくださった土地に着く手前で天に召された。その理由は、イスラエルの民が神に背いたからである。モーセが背いたわけではない。そのような意味では、モーセには悲劇的な面があった。つまり、モーセもエリヤも人間の罪をその身に負った。モーセもエリヤも人間の欲により弾圧を受けた。まさしく、イエスのその後の苦難の歩みを示している。
イエスも同様に、英雄としてこの世に遣わされたのではなかったということである。自分勝手な欲望を持つ人間によって、イエスは苦難を受けた。しかし、その苦難の歩みを、救い、そして、復活という希望に変えてくださったのである。31節の「最期」という言葉は、死だけの、十字架の死だけの意味ではなく、受難、死、復活、昇天を意味していると述べた。雲もまた、そのようなことを暗示しているのかもしれない。ダニエル書には「人の子」救い主が雲に乗り、日の老いたる者の前に来ることが預言されている。ルカによる福音書の21章に、そのように、イエスも雲に乗って天に上げられ、雲に乗って戻ってくる、復活するのである。そして、「あなたがたの解放の日が近いからだ」と記されている。だから「最期」ではなく「終曲」である。イエスは人間から苦難を受け、十字架にかけられた。しかし、そこで終わらず復活した。そこに私たちの希望がある。イエスは権力者たちから苦難を受け、十字架を通して、今もなお私たちの重荷を負ってくださっている。そして、復活という希望を与えてくださっているのである。その救いを今まさに、モーセとエリヤと話し合っている。そして、31節に「最期」と訳されている言葉は「エクソドス」、脱出である。その後のイエスの出発、旅立ちを意味する。また「エクソドス」は脱出、出エジプトを意味する言葉でもある。出エジプト、つまり、解放である。しかしここでは、解放という意味を強調していいのかは難しいところである。
しかし、私は次のように理解したい。イエスはモーセ、エリヤと話し合い、輝いた。それは、イエスこそ天におられる方、つまり、神の独子である。そして、その神の独子が肉体をもってこの世に来られ苦難を受け、十字架に懸けられる。モーセもエリヤも苦難を受け、人々の背きをその身に負った。一方、ペトロたち三人の弟子は、イエスのそののちの受難、十字架、復活を理解することなく寝てしまった。それだけではなく、ペトロは三つ仮小屋を建てようと述べた。イエスの救いをまったく理解できないペトロをイエスは受け入れ、その後も導いていった。その導きは、イエスこそこの世的な価値観からの解放、この世の支配階級のもとにある神殿のシステムなどからの解放を意味しているのではなかろうか。権力者ではなく、全ての人を愛し、救いへと導きくださるイエスの働きこそ神の御心、意志であるということである。自分のためではなく、救いを必要としている者のために自らを献げる。そして、イエスのことを理解していなかったペトロ、弟子たちをも受け入れ、導き、用いくださる。それはペトロたちだけではない。現代の私たちも同様である。イエスは、自分のためではなく人間と共に歩み、救い、希望へと導いてくださる。この世の価値観から解放してくださるのである。そこにこそ栄光のイエスがおられるのである。
本日は創立記念礼拝である。これまで筑波学園教会を支えてくださった方々に感謝すると共に、神、イエスこそ、どのようなことがあろうとも主の体であるこの教会をお導きくださるということを確信したいと思う。イエスの受難、そして、復活、解放という救いがある。私たちは栄光のイエス、神の救いを、つくばという地で述べ伝え、分かち合いたいと思う。
祈祷 愛なる神様 御子イエスは、変貌しモーセ、エリヤと話し合います。それはこれからの歩み、受難、十字架、復活への歩みです。この歩みこそ神の意志です。それは、救い、解放であるといえるでしょう。自分のためではなく被造物のためになされる業です。ここにこそ栄光のイエスがおられます。私たちはイエスが示してさった神の愛を確信したいと思います。本日は、創立記念礼拝です。これまで主が共にあってお導きくださいましたことを感謝いたします。また、これまでつくばの地で伝道を行ってくださった先達に感謝し、伝道の志を受け継ぎ、歩みたいと思います。そのため私たちを強めてください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。新しい歩みの準備の時となっています。どうか、よき準備の時になりますよう、祝し、お導きください。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。レントのときを過ごしています。イエスの受難、十字架の意味を考え、受け入れる時としてください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネの手紙(1) 4章1~6節」
聖書朗読
04:01愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 04:02イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。 04:03イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。 04:04子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。 04:05偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。 04:06わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「真実の聖霊」
昨日3月11日、東日本大震災から12年を迎えた。たしか震災後4年ほどたってから、岩手県沿岸の被災地に行ったとき、ガイドから話を聞いた。地震による津波によって大きな災害があったある村では、昔から地震があったらすぐに高台に逃げるよう語り伝えられていた。その村では語り伝えが生かされ、東日本大震災のときには被害が少なかったと。語り伝えることの重要さを知った。そのガイドも、3.11を忘れることなく、これからも語り伝えたいと話していた。
聖書でいう預言者とは、未来を語る者ではなく神の言葉を預かり、人々を導く者のことである。イザヤ書は、3つに分けることができる。1~39章が第一イザヤ、40~55章が第二イザヤ、56~65章が第三イザヤである。年代、状況が異なっている。本当のイザヤは、第一イザヤで、第二、第三イザヤは預言者イザヤの弟子、あるいはイザヤの意思を継ぐ預言者であると考えられている。63章は、第三イザヤである。南ユダ王国は、紀元前586年にバビロニア帝国によって滅ぼされ、ユダ王国の権力者たちはバビロニアに連れていかれた。その後、バビロニア帝国は、ペルシャ帝国に負け、バビロニア捕囚のイスラエルの民は解放された。しかし、エルサレム帰還に問題が起こった。バビロニア捕囚は約50年、そこで生活の基盤ができ、エルサレムに帰ることを反対する人々がいたからである。それでも、多くのイスラエルの民はエルサレムに帰った。それでよかったということにはならない。エルサレム神殿の再建という希望を持っていたが、エルサレムは荒れ果てていた。希望を持っていた神殿の再建はかなわないなど、苦難の状況にいたのである。神殿の再建は、イスラエル民族の復興でもあった。そのような状況の中で記されたのである。
唯一の神を信じるイスラエルの民は、バビロニア帝国に支配されたとき、どのように考えたであろうか。神は私たちを見捨てたと考えた。しかし、それだけではなかった。預言者イザヤは、振り返り次のように考えた。10節に「彼らは背き、主の霊を苦しめた」とある。つまり、イスラエルの民が神を裏切ったので、神はイスラエルの民の敵となり、戦いを挑まれたというのである。聖書は面白い書物である。神に対するイスラエルの従順な姿だけが記されているのではない。自分たちの罪、神への裏切りも記されている。そこでイザヤは、バビロニアに敗北したことを神の責任にするのではなく、自分たちが神の神聖さを汚し、罪を犯したため苦難にあったのだと受け取った。事実、神は、罪を引き起こすことはしなかった。イスラエルの民は、過去を振り返り、自分たちの罪を認識したのである。
神はなぜイスラエルの民をさばいたのであろうか。神がさばくというのは、さばくに値する者として責任を負わせることを意味する。神が人間を愛していないなら、さばかず放っておく。しかし、さばきは、悔い改めへと導くことなのである。神は、私たちを導くに値する者であるとみてくださっているのである。神は人間に自由を与えた。その自由によって、人間は神に従うことも、裏切ることもできるのである。神は人間に自由を与え、責任を負うべき人格として私たちと接してくださっているのである。それは、神が人間を信頼しているからである。信頼し、愛する者として、神は私たちと接してくださっている。神の子に値する者として交わりを持ってくださっているのである。一方、神は創り主として責任を持ち、被造物を見守ってくださっている。つまり、神は、人間と共に歩み、導いてくださっているのである。そこにこそ神の愛がある。
ではなぜ、イスラエルの民は自分の罪を見ることができたのか。7節に「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを。」と書かれている。7節の「心に留める」と11節の「思い起こした」の原語は同一である。神が多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを賜ってくださっていることを、イザヤ、いや、イスラエルの民は心に留めていたのである。神は、イスラエルをわたしの民として選び、しかも偽りのない子らとみなしてくださった。イスラエルは、そのように神の恵みを受けた経験を得ていたし、また、導きを得ていたからこそ、自らの罪を自覚できたのである。
私は、牧師になり、実家に帰省する時には、祖父祖母に会いに行くよう心掛けていた。その理由の一つは、昔の出来事を聞きたいと思ったからである。その中に関東大震災があった。関東大震災の時、祖父はまだ10歳前後だった。それでも、ひどかったと話してくれた。
経験を聞くことによって、私自身がその出来事を知ることになると、また、経験することにもなると私は考えている。昔の話が出来るというのは、一つに、苦しみ、悲しみを乗り越えることが出来たから、また、乗り越えようとしているから話をするのだと思うのである。つまり、昔話しをするというのは、苦難、重荷を乗り越えるための作業、乗り越えた時の作業であると思うのである。そして、経験を伝え、聞くことによって、苦難を乗り切る力にしてほしいという思いがある。悲しみを乗り越えることは、一人では出来ないと思う。そこには、多くの出会いや、多くの人の支えがあって、そのことで悲しみを乗り越えることが出来るのではなかろうか。そして大切なのは、その出会い、支えの背後に神の働きが、神の導きがあるということである。
イザヤは、11節以下にあるように、過去の神の救いの導きを民に思い起させた。旧約聖書に出エジプトという出来事が書かれている。イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦難にあっていた。その嘆きを神が聞き、モーセを指導者として立て、エジプトでの苦難からイスラエルの民を解放させた。その出来事を振り返り、神は憐れみ深い方であること、神の恵みをイザヤは思い起こしたのである。
イスラエルの民は、出エジプトの出来事を思い起こし、神の導きがあったことを確信したのである。そして、その確信は、信頼になった。神は、信じる者を導いてくださる憐れみ深い方である。そのとき苦難の中にあっても、きっと、神が救いへと導いてくださると思うことが出来るのである。それは、今を生きる力、前進する力になる。
しかし、苦しみの中にこそ神がいると、神の導きがあったではないかと言われて「はい、そうですね」と簡単には納得出来ないと思う。そこで、9節の言葉が重要であると思う。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった」とある。何が重大なのか。神は、神の民の苦難を自らの苦難として共に負ってくださっている。しかも彼らを負い、担ってくださった。私たちの苦難は私たちだけのものではないということである。私たちは、どのような苦難の中にいても、孤独を感じていても、決して一人ではないと、神がいつも共にいて私たちの苦難、重荷を負ってくださっているのである。
イエスは、マタイによる福音書11章28節以下で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と述べている。軛とは牛などが荷車を運ぶときに首にかける木製の道具である。イエスは大工であった。私たち一人一人に合った軛を与えて下さる。いや、私は次のように理解したい。荷車を引く一頭ではなく二頭の牛の姿を写真などで見る。つまり、イエスが共に軛を負い、苦難、重荷を負ってくださっている。だから、その軛は負いやすく、荷物は軽くなる。旧約聖書の時代からイエスの父、つまり、唯一の神は私たちを憐み、愛し、担って下っているのである。イエス、神が共に重荷を負い、共に歩んでくださっている。その姿こそ、十字架を負い、ゴルゴダへの道を歩むイエスの姿である。今もなおイエスは、私たちの重荷、苦難を十字架で負ってくださっているのである。そのことを聖書から私たちは知ることができる。十字架のイエスを、いつも思い起こし、神、イエスに感謝し、前を向き歩みたいと思う。そして、私たちも友の重荷を共に負う者になりたいと思う。
祈祷 恵み深い神様 あなたはイスラエルの民、いや、私たち人間を愛しお導きくださいます。その導きには、時にさばきがあり、苦難を伴うことがあります。もちろん、それは人間が神を裏切ったからこそ受ける苦難です。一方、神は、神を裏切る人間を信頼し、愛し、その苦難を共に負い、正しい道にお導きくださいます。そのもっとも大きな出来事こそ、独子イエスの苦難です。イエスは今もなお私たちの苦難を共に負ってくださっています。私たちがイエスの十字架を思い起こし、イエスの苦難を正面から見、悔い改め、神の愛に気づき、そして、神に従い歩むことができますようお導きください。また、神の愛を多くの人と分かち合うことができますよう私たちを強め、お用いください。3・11東日本大震災から12年が経ちました。何年たっても悲しみはなくなりません。また、復興もまだ途中です。トルコ・シリアのことも覚えます。私たちがこれらのことを忘れることないようにしたいと思います。主がともにあり地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。私たちをお用いください。受験も最終的になっています。学んだことが十分発揮できますように。卒業シーズンです。卒業は、始まりをまた意味します。どうか新しい歩みのよき準備の時としてください。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。レントのときを過ごしています。このとき御子イエス、神の愛を受け取る時としてください。本日は、2時から茨城地区総会となります。一年を振り返り、新しい歩みの糧となる会となりますようお導きください。この礼拝を通して一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、新しく始まった一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネの手紙(1) 4章1~6節」
聖書朗読
04:01愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 04:02イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。 04:03イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。 04:04子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。 04:05偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。 04:06わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「真実の聖霊」
あるキリスト教季刊誌に、カルト宗教脱会の記事があった。数年前、ある牧師が年配の女性から相談を受けたという。彼女は息子の病気のことで悩んでいた。彼女の家に出入りしていたカルト宗教信者から「病気を治してくれるところがある」と言われ、ビデオセンターなるところに誘われ、通うようになった。そこで家系図を作らされた。霊能師役の人から「先祖の供養をしなければならない。先祖の苦しみの救いには先祖解怨が必要」と説かれ、彼女は数回に分けて多額の費用を支払ったというのである。先祖解怨は、そのカルト宗教の用語だそうである。霊感商法である。彼女には、たまたまクリスチャンの知り合いがいた。「それは本当のキリスト教じゃない、だまされている。牧師に相談しなさい」と言われた。そこで、彼女は牧師の元に相談に来たという。牧師は、カルト宗教から断ち切らせるためこの女性の承諾を得、脱会の知識のある人の元に連れて行った。そこで彼女は教義や組織の問題点、また霊界の恐怖や先祖の因縁トークを利用した金銭収奪の実態の説明を受けた。彼女は多額の献金をしたが、カルト宗教から領収書は出ていない。それだけではなく、彼女は多額の献金を家族に知られることを恐れて記録さえしていなかったのである。そこで、銀行の通帳から推測できるということで、おおよその献金額を算出し、脱会と返金の手続きをした。病気を癒す、先祖供養、そのために多額の金が必要である。また、霊界の恐怖、先祖の因縁・・・そのようなことは、キリスト教にはない。
霊とはいかなるものであろうか。ヨハネの手紙(1)4章1節以下に心を傾けたいと思う。1節、「霊」がいくつもあるように思う。大切なのは、イエスを信じるように、唯一の神、イエスからなる霊を信じるということである。また、唯一の神からなる霊こそ、唯一の霊である。では、霊はどのような働きを私たちにもたらしてくださるのであろうか。2節、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」とある。そのことが重要である。神の独子イエスが肉体をもって来たことを信じる導きこそ、霊の働きである。実は、ヨハネの教会に異なる考えを持つ人々が出てきたからだった。だから1節後半に、「偽預言者が大勢世に出てきている」とある。また、3節には「反キリスト」とある。では、そこで異なる考えとはいかなることであったか。その考えは「仮現論」という。イエスと神の子キリストは別である。人間イエスが洗礼を受けたときに、キリストが入った。そして、十字架で死ぬときに、キリストはイエスから出ていった。つまり、人間イエスをこの世の仮の姿にして、キリストが入ったという考えである。キリストは肉体を持っていないという理解である。
次のことを私は、どのように受け取ればいいのかと以前から思っていた。キリスト教で信じる救い主イエスは、神の子である。神の子は、神と同じ権能を持っている。つまり、神と同じ永遠である。しかし、永遠である神の子が肉体をもっている。肉体は必ず朽ちて滅びる。永遠である神の子が朽ちる肉体を持っている。それは矛盾している。当時の人々、いや現代の私たちでも、それを矛盾していると思う。それに理屈をつけて解決しようとした試みが仮現論ではなかったか。その理解の方が筋が通っているという理解である。もちろん、仮現論が正しいといっているわけではない。筋が通っているのか。神の子が肉体を持つことと、神の子が霊としてイエスの肉体に入る。どちらにしても、人間には理解しがたいのではなかろうか。一歩譲り、仮現論の方が筋は通っているかもしれないが、それは人間の理解であり、神を人間の理解によって収めようとすることが仮現論にはあると思う。カルト宗教のように、先祖の苦しみを解かなければ息子は災いから解放されない。応報思想、理解できるように思うが、おかしな話である。
聖書において、歴史の中で神が人間、被造物と共に歩んでくださっているということが重要である。神は愛する対象として、天地を創造した。神は愛そのものである。それは傲慢な言い方になるが、愛する対象がなければ、そこに愛はない。神が天地を創造したからこそ、そこに愛がある。神こそ愛であり、創った存在があるから、そこに愛という現象が現れる。愛、そのものは目に見えない。見えるのは、愛からなる現象である。逆にいうと、愛という現象に神がおられる。愛からなる現象から、この歴史に神が介入されていることを確証できるのである。また、愛からなる現象が神の介入ならば、神はそこにいる。つまり、神は私たちと共にある。私たちの内に、神はいてくださっているのである。その出来事こそ、真の霊、聖霊によって行われているのである。聖霊は、目に見えない神、イエスの働きである。イエスが地上において行った愛の業は、今、聖霊によって起こっているのである。愛の最も大いなる現象こそ、イエスの業である。
次のようにも言えるであろう。聖霊とは、神が共にいてくださるということに気づかせてくださる働きである。イエスこそ、神がいつも共にいてくださること、愛してくださっていることを、私たちに教えてくださった。そこで6節「神を知る者は、わたしたちに耳を傾けることができます」とある。「わたしたち」とは、ヨハネに伝えられたイエスの教え、伝承を語る者である。つまり、正しく伝えられたイエスの教え、伝承を聞くべきであるということである。現代の私たちは聖書を読むことによって、それを聞くことができるのである。イエスは次のように語っている。ヨハネによる福音書8章47節において「神に属するものは神の言葉を聞く」と。また、18章37節には「そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」とある。私たちは自分の都合、また人間的理解で神、独子イエス、聖霊を理解するのではなく、イエスの言葉、つまり聖書を通して、また祈りを通して神の御心、意志に耳を傾けたいと思う。
そして今、考えたいのは、イエスこそ神の子であり、その神の子が肉体をもってこの世に来られたことを信じることこそ、聖霊の働きであるということである。神の独子が肉体をもってこの世に現われた。それは仮現論、仮ではない。神の独子が肉体としてこの世に遣わされたからこそ、私たちはイエスに倣うことができる。イエスの教えに心を動かされる。そして、神の独子が肉体をもってこられたからこそ、救いがある。ローマの信徒への手紙8章26節に「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とある。その箇所の解釈は難しい。言葉にならない人間の深い悲しみ、痛み、苦しみをも霊は理解し、神の働きである霊が共にうめき、私たちの祈りを神へと届けてくださると私は理解したい。神の独子が人間として、肉体をもってこの世に遣わされたからこそ、人間のうめき、苦難を理解してくださる。神の独子ご自身が苦しみをうけたからこそなせる業なのである。
神がこの歴史に介入してくださっている出来事のもっとも顕著な業こそ、独子イエス・キリストが肉体をもってこの世に来られたことである。永遠が朽ちるというのは矛盾している。しかし、神は人間の理解を超えた方である。信仰とは、理解ではなく気づきであると私は思っている。人間の理解、論理を超えるところに神はおられる。それに気づかせてくださる働きこそ霊なのである。
イエスが十字架に向かうことを覚えるレントの時である。永遠である独子が、朽ちる肉体としてこの世に遣わされた。そして、人間の重荷、苦難を経験した。だからこそ、私たちの重荷、苦難を理解し、今もなお、共に重荷を負い、霊によってお導きくださっている。そのことに気づき、感謝したいと思う。
祈祷 愛なる神様 霊とは何でしょうか。霊は神が共にいてくださるということに、私たちに気づかせてくださる働きです。イエスこそ永遠ですが、朽ちる肉体をもちました。ここに救いがあります。御子が人間として苦しみ、喜びを分かち合ってくださったからこそ、私たちのうめきを知り、霊を通して神へと私たちの声を届けてくださいます。どうか、神の御子が人間としてこの世に遣わされたこと、ここに神の愛が現れていることに気づくことができますように。また、この救いを多くの人と分かち合うことができますよう、私たちを聖霊によって強めお用いください。梅も咲き、春を感じる気温になってきました。一方、朝晩はまだ寒くなっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねられた方、子どもたちをウイルスなどの感染症、事故など様々なことからお守りください。受験シーズン、これまで学んだことが十分発揮できますように。また、卒業シーズンです。新しい歩みのよき準備の時になりますように。地震など自然災害で被災された方々を守り、お支えください。今月、誕生された方の上に命の息吹が与えられたような祝福がありますように。レントになりました。主イエスの十字架の出来事こそ、私たちの罪を映し出す鏡です。どうか気づかぬうちにしてしまう罪に気づき、和解へとお導きください。この礼拝を通して一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、新しく始まった一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「申命記 6章10~19節」
聖書朗読
06:10あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、 06:11自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、 06:12あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。 06:13あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。 06:14他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。 06:15あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。 06:16あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。 06:17あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、 06:18主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、 06:19主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「自己からの解放」
宗教改革者カルヴァンは予定論という考えを持っていた。カルヴァンはこのように記している。「ある者は永遠の生命に、ある者は永遠の断罪に、あらかじめ定められているからである」と。あらかじめ決まっているのなら、神を信じなくてもよいと考えることができるのではかろうか。信仰者として歩んでも意味はないと思ってしまう。私は学生時代に、カルヴァンの考えを中心とした改革派を学ぶ友人に、予定論を改革派ではどう考えているのか聞いてみたことがある。その友人は「自分の考えではあるが」とことわりながら「救われるか否かはあらかじめ定められている。それは神が定められたことで、人間には誰が救われるのかは分からない。だから、ただ、信じることが大切だと考えている」と説明してくれた。私は、それを聞いて素晴らしいと思った。人間には分からないからこそ、神を信じることが大切なのである。私なりにそう納得した。私は全ての人がきっと救われると考えている。私が赦されるのなら、きっとすべての人が赦される。逆に、全ての人が救われるのなら私も救われるだろうと考えている。私は、救われると考えるのはエゴだと私自身思っている。しかし、すべての人が救われると考えるのなら、自分のエゴも少し拭い去ることができるようにも思っているのである。
人間には分からないことばかりである。特に、神、イエスに関して人間は、理解できない。当たり前である。人間は罪人である一方、神は完全、善なる方である。つまり、全く異なる存在である。だからこそ、神を信じることが、神に全てを委ねることができる。また、神にすべてを委ねることが赦されていることによって、希望を持つことができる。一方、人間はどうしても自我、エゴ拭い去ることはできない。
先週、以前読んだ本のことを思い出した。新約聖書は27巻でできている。そのうち13巻が、パウロの名による手紙である。パウロは、ユダヤ教の教え方、すなわち律法を遵守するファリサイ派に属していた。しかし復活のイエスに出会い、自分で行う律法の業によっては義とされないこと、イエスの義、信によって救われるという確信に至った。つまりパウロは、自分が信じたから救われたのではない。ただ、イエスの十字架の死による信、義によって救われたと確信した。自分が律法を行うという自己、自我から解放された。私は、パウロの主語は神であるとよく述べる。一方この本では、確かにそこでパウロは自我から解放されているが「罪あるありのままの自分を受け入れることができず、義認を『欲する』のである。ここには、パウロの超克しきれないエゴがある」というのである。パウロは「義」について語る時、「罪」にとどまっている人から自分を切り離してしまうとも指摘した。なかなか厳しい指摘である。では、聖書にはどのように記されているのであろうか。
そこで、申命記6章10節以下に心を傾けたいと思う。申命記6章では、4節の「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」が有名である。有名と言うか、最大の戒めといってよいであろう。ちなみに申命記の申には「重ねる」という意味があるので、申命とは「再び命じる」ということである。つまり、神の教えである律法が、出エジプト記に続き、再び記されていると覚えていただけるとよいと思う。申命記には、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの声を聞き、神が脱出させ、約束の地へと導く旅の途中に与えられた律法が記されている。10~19節は、4~5節の最大の戒めを説明し、勧めをなしている。
先に16節以下を見たい。そこには「主を試してはならない」とある。人間が主になっているといえるであろう。神が願いをかなえてくれたら私は信る。主語が私になる。都合の良い神、と言ってよいであろう。「神を試すとは」主客が逆転している状態である。そこで、10~12節を見てみたい。10節以下の「あなた」とは、イスラエルの民である。「神がイスラエルに与えると誓われた土地にイスラエルを導き入れ、イスラエル自身が建てたのではない大きな美しい町々、イスラエル自ら満たしたのではないあらゆる財産で満ちた家、イスラエル自ら掘ったのではない貯水池、イスラエル自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足する時、イスラエルをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主ヤハウェを決して忘れないよう注意しなさい」。そこに与えられると記されている事柄、土地、建物などは荒野での旅の途中、民が夢見た事柄、欲したものであるといえるであろう。そこで見たいことは、イスラエルの民の努力や力や功績によって、それらのことが与えられたのではないことが強調されているということである。
そもそもイスラエルの民は奴隷の状態から、なぜエジプトから出ることができたのか。先ほども述べた通り、イスラエルの民の苦しみの声を神が聞いてくださったからである。イスラエルの民が特別優秀だったからではない。イスラエルが弱小であったから神はイスラエルを選んだと聖書に記されている。つまり、神の憐みゆえに行われたのである。もちろん神とアブラハムの契約があるからである。そして重要なのは、律法を守ったから約束の地へと導かれたのでもないということである。なぜなら、律法は約束の地への旅の途中に与えられたからである。イスラエルの民が業績を積み上げて、神の好意に触れたことによって脱出できたのではない。神の一方的な無償の愛、理由なき愛によってイスラエルは救われたのである。奴隷の苦しい状態から解放されたということである。
しかし、いつしか律法が自分の業績を積み上げるための道具となってしまったといっても過言ではないと私は思う。律法を守っている者が救われ、律法を犯した者は裁かれる。二元論的になってしまった。理由なき無償の愛によって救ってくれた神への応答の手引きとして、律法は与えられた。先ほど、パウロは「義」を求め、救われる者と救われない者を区別してしまっていた。つまり、パウロにもエゴがあったと述べた。それも仕方がない。私たちは完全な存在ではなく、弱い人間なのだから。パウロでもエゴがあったと聞くと安心してしまうのは、私だけだろうか。また、「義」を説明する時に、救われる者と救われない者という言い方の方が分かりやすい。一方、パウロこそ律法によって自我にとらわれていることを知っていた。そして、神の愛、恵みの下で生かされていることを確信していた。ローマの信徒への手紙6章14節に「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」とある。エフェソの信徒への手紙2章8~9節には「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」とある。
本来、律法とは神から与えられた恵みである。律法を守ることによって、神の恵み、愛の下で生きていることを、いつも神が共にいてくださるこのことを実感する。律法を守るとは神の愛に対する応答である。それが本来の律法に対する考えである。しかし、それが業績を積み上げるかのようになってしまった。そこに人間のエゴがある。神の愛は無償である。私たちは、ただ神に愛されている。神の愛を確信した時、業績を求めることや他者と比べることから、つまり、自己、自我から解放されるのである。究極的な信仰は、自分が信じているという意識、救われるという意識からも解放されることなのかもしれない。ただ、神が私たちと共にいて、無償の愛をそそいでくださっていることを覚えること、つまり、神の無償の愛をそのまま受け取るということである。すべてを神にお任せすることができるともいえるであろう。簡単そうに思えるが、それはとても難しいと思う。そのためにこそ、このレントの期間、イエスの受難を覚えたいと思う。私たちのすべての重荷、エゴさえも、イエスは十字架によって負ってくださっている。十字架こそ神の無償の愛のるしるしといってよいであろう。イエスの痛みは、神の痛みでもある。痛みを負ってまでも、神は人間を愛してくださっているである。神は、ありのままの私たちを良しとして受け入れてくださっている。すべてを神にお任せすればよい。神の愛の下、私たちは、業績を積み上げることや他者と比べることから解放されている。もっと強くいえば、信仰持っているから救われるということからも解放されている。なぜなら、神は無償の愛で私たちをお導きくださっているからである。
祈祷 愛なる神様 人間は救われているという確証を求め、律法など業績を積み上げたから救われるのだと考えてしまいます。また、救われる者、救われない者と区別することによって、安心してしまうことさえあります。神は、ただ無償の愛で私たちをお導きくださっています。理由などありません。いや、あるとするなら、私たちが小さく、弱いからです。どうか、神がありのままの私たちを愛してくださっていることを確信させてください。この確信によってこそ、自我などすべてのことから解放されます。そして、この喜びを多くの人と分かち合うことができますよう私たちをお用いください。梅が咲き始め春へと歩んでいることを感じる気候になってきました。一方、寒暖の差が大きく、朝晩はとても寒くなっています。体調の崩しやすい時です。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、入院をされている方を心身共に癒してください。悲しみ、悩みの中にある方、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。受験シーズンとなっています。これまで学んだことが十分発揮できますようお導きください。また、卒業のシーズンになります。春から新しい歩みをはじめられる方のよき準備の時としてください。戦争は自己欲だと思います。戦うことを自己正当化するのではなく罪を覚えることができますように。地震など自然災害で被災された方々を守り、お支えください。レントになりました。主イエスの苦しみは私たちのために行われた愛なる業であることを覚える時としてください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。 この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 9章 10~17節」
聖書朗読
09:10使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。 09:11群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。 09:12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」 09:13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 09:14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 09:15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。 09:16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 09:17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神に感謝して」
最初に赴任した教会には附属の幼稚園があった。その幼稚園での出来事。子どもたちと一緒に遊んでいると、お昼になった。すると幼稚園の先生が「一緒にお昼食べませんか」と声をかけてくれた。私が「今日は弁当を用意していないので」というと、先生は「大丈夫ですよ」という。子どもたちがお弁当の用意をすると、先生が「上原先生はお弁当を持っていないのでみんな少しずつ分けて」と子どもたちに呼びかけたのである。お皿の上に、子どもたちが少しずつ自分のお弁当から分けてくれたのである。私の立派なお弁当ができた。隣にいた女の子が「いっぱいになってよかったね」と言ってくれた。その日私は、幼稚園の子どもたちと楽しくお昼ご飯を食べた。
ルカによる福音書9章10節以下は、五千人の給食の奇跡としてよく知られている。聖書に福音書は四巻ある。この五千人の給食は、全ての福音書に記されていいる。五つのパンと二匹の魚で五千人もの人々を満腹にしたという出来事は、イエスの食事についての象徴的な出来事であったといえるのかもしれない。旧約聖書にも、食事の奇跡は記されている。エジプトで奴隷として苦しみにあったイスラエルの民を、神は約束の地へと脱出させてくださった。旅の途中、荒れ野で人々が空腹になったとき、神はマナを天から降らせ、空腹を満たしてくださった。偉大な預言者エリシャは、飢饉のなか20個のパンを100人の人々に分け与えた。そうしたら食べきれず残ったと、奇跡として記されている。
ルカによる福音書9章10節以下、イエスと弟子たちを追って、多くの人々がついてきた。イエスの話を聞きたかったからであろう。やがて、夕方になった。弟子たちはイエスに「後からついてくる多くの人たちに、自分の家に帰るように、また、どこか泊まる所を探すように言ってください。ここには食べ物を売っている所もありません」といったとある。つまり弟子たちは、大勢の人が着いてくるが、その人々に分ける食事などないと心配していたのである。
イエスは弟子たちに「あなたがたが食べ物をみんなに与えなさい」というと、弟子たちは「わたしたちはパン5つと魚2匹しか持っていません。大勢の人がいるのですから、まったく足りないのです」とこたえた。聖書には、男の人が5千人いたと記されている。女の人、子どもを合わせたらもっと多かったはずである。その人々が、5つのパンと2匹の魚を分けあったらどうなるか。弟子たちは、全く足りないと考えたに違いないのである。
イエスは、50人ずつの組にしなさいといい、祈った。意味としては、祈りをささげるということだが、元の言葉では、イエスは「祝福した」と記されている。それは、パンと魚を祝福したということではない。食事の前に、神に対して感謝の心を表現するため祝福したということである。
私たちが、日々生きているのは、自分の力によってではない。食べて生きることができる食料、それを育ててくれる人がいる。いや、種があり、土があり、太陽が光をさし、雨が降り、食物は育つ。それは人間にできることではない。全部、神がそのようにしてくださっている。人間も同様である。私たちの生きる力は、神が与えてくださっているのである。そうして、5つのパンと2匹の魚を分けると、みんながお腹いっぱいになった。それだけではなかった。残ったパンくずを集めると、12かごにもなったというのである。
子どもの頃に、CSの説教で次のように聞いた。イエスに従う群衆の多くの人がお弁当を持ってきていた。だから大丈夫だったのだと。確かに納得できる考え方である。しかし私は、イエスの奇跡を人間の考えで説明しなくてもいいと思った。イエスのなされることは、人間の理解をはるかに超えるのである。
私たちは日々の歩みの中でも、思いもしないことがある。一方で、自分には力が無いから、大したことはできない。頭もよくないと考えてしまう。きっと、この時の弟子たちも同じだったと思うのである。たった5つのパンと2匹の魚しかない。自分たちにはそれしかない。だから分けることはできないと。
私は次のように理解したい。神は、一人一人に十分な力、必要なものをお与えくださっている。その人によって、できることは様々である。神から与えられた力、賜物を感謝する心が大切だと思う。わずかだと思うのは、人間だけである。十分足りている。何もできないのではなく、何かする時、神はきっと力を与えてくださる。友だちや、周りの人を通して、神はできるように、また、支えてくださっているのである。
では、今日の箇所では、何がなされたのかか。イエスの元に集まった群衆は食べ物を持参していたから2匹の魚と5つのパンで満たされたのだと、私はかつて教会学校で聞いた。小学生ながら、とてもがっかりしたことを覚えている。私は人間的な理由を聞きたかったのではなかった。今、私は次のように考えることができる。弟子たちは2匹の魚と5つのパンでは足りないと思った。しかし、イエスはそれを分けようとした。群衆は、イエスの行為に感謝し、感激した。イエスは自分の持っているわずかなものをも分けてくださる。自分たちもわずかだが食べ物を持ってきた。これを皆で分ければよいと多くの人が考えた。イエスの行いが感謝となり、大きな力となったと考えることはできないだろうか。もちろん、イエスの奇跡も信じる。5千人もの群衆の気持ちを変化させたことこそ、奇跡なのではないだろうか。イエスの思い、行動が5千人もの人々の心を変え、動かした。そして、そこにいた全ての人が心を満たし、感謝し、つながりを持った。イエスこそ、そのように私たちの心を動かし、行いへと変えてくださるのである。しかも、わずかでも分かち合うことができる。大切なのは、わずかであるが持っているそれが、神から頂いた恵みであるということに気づいたことである。そして感謝の気持ちをもって、分かち合ったと考えることができると思うのである。
最初に出エジプト記のマナの出来事、エリシャの奇跡を述べた。何を意味しているのか。イエスは、エリシャよりわずかな食糧で、より多くの人々の空腹を満たした。つまり、イエスは預言者エリシャより偉大な方であるという意味がある。そして、出エジプトの出来事、エリシャの奇跡など、神、イエスが与えてくださる食事は、神の愛が象徴されているといえるであろう。神は私たちが困ったとき助けてくださる。つまり、食事を通して愛の業を示してくださったということである。食べることは生きることである。神は、私たちを愛し生かしてくださっている。
そして、13節に「すべての人々のために」とある。それはルカによる福音書にしか記されていない。そこで「すべての人々」は「すべての民」と訳すことができる。というより「民」と訳したほうが適切であると思う。そこで「民」という言葉が用いられているのは、神の国の実現のしるしとしての食事が示唆されているという理解があるからである。神は民に食事、恵みを与え生かしてくださる。
私はそのように理解したい。イエス、神の愛は旧約、昔から注がれていて、神の国へとお導きくださる。同時に、神の国とは、自分の所有だなど利己的になるのではなく、全ての人が平等に与えられる場である。それだけではなく、神の国とはすべての人が恵みを分かち合い、支え合う場所であるということが意味されているのではないだろうか。神の愛の光の下で生きるということである。そして、分かち合い、支え合うことによって、大きな業となるのである。弟子たちに配らせたことも、足りないと思った弟子たちを用いて分かち合うことの大切さを、そして、神が用いてくださるという意味があるといえるであろう。
私たちは、神、イエスに愛を注がれ、生かされている。そのことを神、イエスに感謝したいと思う。そして、いつも神さまが支えてくださっていることを感謝することによって、思いもしない力、行いができるのである。イエス、神に感謝する心は、私たち一人一人の勇気と力となる。神に生かされている。自分一人ではないということにも気づかされる。神は、私たちと共にいて愛を、恵みを注いでくださっているのである。そのことを感謝し、神、イエスの愛、恵みを分かち合うものになりたいと思う。神、イエスに感謝の祈りをささげたいと思う。
祈祷 命と愛の源なる神様 一週間お守りくださり、御堂にお招きくださいましたこと、オンラインで礼拝に参加できますことを感謝いたします。神は、いつもわたしたちと一緒にいてくださり、支え、生かしてくださいます。神さまの御業を讃美いたします。弟子たちは、5つのパンと2匹の魚では足りないと思いました。しかし、十分に与えられていたのです。神様は、必要なもの、力をわたしたちに与えてくださっています。できないではなく、神様に感謝し、そして、神様に祈り、語り掛けたいと思います。その時にこそ、分かち合う心、愛、勇気、生きる力が与えられるのです。神様の愛を多くの人と分かち合うことができますように。そのために私たちを持ちください。感染症が収束しますように。全ての人の健康をお守りください。病の中にある方、骨折などで入院されている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。トルコ・シリアの地震の被災者を守りください。援助活動が進みますように。受験シーズンになりました。これまで学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守り下さい。今週の22日は灰の水曜日、この日からレントになります。主の受難の意味を特に考える時としてください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨブ記 2章 1~10節」
聖書朗読
02:01またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。 02:02主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。 02:03主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」 02:04サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。 02:05手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 02:06主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」 02:07サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。 02:08ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。 02:09彼の妻は、/「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、 02:10ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「約束を受けている」
ヨブ記の最初はとても面白い内容だと思う。1章と2章には、ほぼ同じことが記されている。神の前に、み使いが集まっていた。神はサタンに、ヨブほどの正しい者はいないと述べた。するとサタンは、「利益があるから神を敬う。不幸が襲ったならきっと変わる」といった。すると神は「ヨブに何をしてもよいが命だけは奪うな」とサタンにいった。1章では、ヨブの全ての家畜、多くの財産、子どもたちの命が奪われた。それでも、ヨブは神を非難することはなかった。2章で、はじめは、神とサタンは同じ会話だった。次に、サタンはヨブの皮膚に病気をもたらした。それでもヨブは罪を犯すことはなかったというのである。面白いというのは、神とサタンが賭けをしているかのようだからである。その後、ヨブの許に三人の友人がきて、ヨブが罪を犯したから災いが起こった。だから神に謝りなさいと忠告した。しかしヨブは、自分は悪いことはしていないと友人の言葉を拒否した。そういう内容である。結末はハッピーエンドである。
本日は、二つのことを述べたい。まず、神は正しい方、義なる方であるということである。そして、応報思想をヨブ記は批判しているということである。罪を犯したから罰を受ける。善悪の行為に対する報いである。ヨブ記には、律法主義に対する批判があると考えられる。神の教えである律法を守れば救われ、破れば罰が下る。神は応報思想で私たちを導くのであろうか。人間的には、分かりやすい導きである。しかし、ヨブ記の著者は応報思想を批判している。病気は罪を犯した罰である。本当にそうであろうか。イエスこそ応報思想を否定している。ヨハネによる福音書の9章1節以下には、生まれつき目の見えない人を見た弟子たちが、イエスに問うた。「目が見えないのは誰が罪を犯したからですか」と。イエスは、「誰のせいでもない神の業がこの人に現われるためである」と述べ、癒した。
ヨブ記の内容に戻る。3節、神がヨブの正しさを述べた。その後、4節と5節、サタンは次のように述べた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と。「皮には皮を」、様々な解釈がある。創世記からの理解がある。楽園追放物語、アダムとエバは禁断の木の実を食べ、楽園から追放された。そこで神は、二人に皮の衣を造って着せた。楽園を出ていく二人に、神の守りと祝福があるということであると私は理解した。そこから、ヨブの皮膚が病気になることは、アダムとエバに与えた皮衣がなくなることを示しているというのである。つまり、ヨブの皮がただれてなくなる。それは神の護りがなくなることを意味する。それはサタンの作戦であり、4節と5節は次のように読めるというのである。「皮には皮、とはよく言ったものです。皮膚を守るには皮衣が一番ですからね。神様、あなたは確かに最初の夫婦アダムとエバに皮衣を与えて、彼らの皮膚を守りましたね。これでは彼は本心を露呈しませんよ。神様には先ほど彼の財産の保護を停止していただきましたが、今度は彼の皮膚の保護を停止していただきましょう。彼は裸になったといっています。今がチャンスです。彼の皮膚を突き破って肉と骨とを撃たせて下さい。そうすれば、彼も音を上げて本心を曝け出すに違いありません。つまり、エゴをさらけ出し神を呪う。そうでしょう。神様」と。1章、一回目、サタンはヨブの外部の垣根を外し、そして、2章の二回目は内の垣根をはずすということである。8節「灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった」。皮膚は破られて、膿が絶えず出てくる重い皮膚病だということがわかる。皮膚病はレビ記では「汚れ」であり、律法において高い社会的地位にある人も汚れに陥るならば、その栄光を一気に失うというのである。「灰の中に」は、塵芥の山の上に座ったように見える。ヨブが一片の人間のゴミになった悲しき自己受容か、神の働きがあったことを公にするためなど考えられる。
そのような苦難の中、ヨブには支えがなかったのであろうか。そこでヨブの妻は何を語ったのか。9節「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」。ヨブの妻の発言はヨブを突き放し、サタンの手先をして述べた冷たい女性を示すのであろうか。10節、ヨブの「お前まで愚かなことを言うのか」という妻への言葉は、「お前は愚かだ」と決めつけているのではない。ヨブには妻の気持ちが分かっていた。「今日のお前は馬鹿なことを言うね」という感じで、問いかけるように述べたと理解できる。ヨブは苦難を受けた。その苦難を支え続けたのは、その妻であった。妻の名前は記されていない。名前が記されていないのは、読者に彼女の重さを考えさせようとする作者の仕掛けの一つであるというのである。確かにアダムとエバの物語は、パートナーである二人が力を合わせ、これから楽園を離れ苦楽を共にして歩むという話だと私は理解している。ヨブとその妻も、今の苦難を支え合い歩んでいくという意味が二人の言葉にあるのではないだろうか。ヨブの妻は、ヨブの皮膚病があまりにもひどいので、神から苦楽を与えられるように死を与えられた方がよいのではと、述べている。ヨブを思うゆえに述べた言葉である。そこでのヨブの答えは素晴らしい。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」いかがであろう。そこに神は正しい、義なる方であるというヨブのゆるぎない信仰を見ることができる。
一方、3章で、ヨブは、自分はどうして生まれたのかなど、神の創造の業を問い、苦しみのあまり死を願って苦闘している。ヨブは、神がサタンにヨブの命は護れと述べたことを知らないからである。神の創造の業を否定するということ、死を願うことは、神を信じる者としていけないことであると考えられる。本当にそうなのであろうか。
4節「皮には皮」、ヨブの皮膚はただれ、なくなった。つまり、神の保護が失われたということを意味している。神とは、いかなる方なのか。ヨブに神の保護がなくなったときに、それでも、ヨブは神を信頼していた。神は神であるからこそ、私たちを保護してくださる。もしかしたらヨブにパートナーすなわち妻という支えがあったのは、神の保護の一つなのかもしれない。
ヨブ記は、神とはいかなる方なのかを考えるようにと、私たちを導いているのではないだろうか。神は応報思想ではなく、ただ、義なる方である。ヨブの神に対する信頼は、妻への信頼になったのではないかと私は思うのである。
一方、ヨブは神が義なる方であることを確信しながらも、神に訴えかけた(3章)。それは神との直接の会話を求めたといってよいであろう。この出来事こそ、イエスが私たちに与えてくださった。イエスは、アッバ父よと幼子が父親に語るように、私たちも神に語ることができるようお許しくださった。ヨブも神を信頼しているからこそ、「神から幸福を頂いたのだから、不幸もいただこうではないか」と述べることができた。また、その後も神を信頼しているからこそ、天地創造を否定するようなことなどを神に語ることができたと思うのである。私たちは、神に何でも語ることが許されている。どうしてこんな苦難に遭っているのかという言葉であっても、神に語ることが許されているのである。神は、善悪の行為によって報いる方ではなく、ただ人間を愛し、信頼して下さっているのである。私たちはヨブのような義人ではない。しかし、義人ではない私たちを神は愛し、信頼して下さっている。神のヨブへの信頼は、私たちに対する信頼を示しているように私には思える。神こそ義なる方、正しい方だからこそ、応報ではなく、ただ私たちを愛してくださっているのである。一方、私にどうしてそのようなことが起こるのかと思うことがある。悪いことをしたからだと、自分を責めてしまうこともある。しかし、神は応報思想ではない。私たちは苦難の理由を知りたがる。また、他人を応報思想で裁いてしまう。しかし、大切なのは、神こそ義なる方であると確信することである。神は義なる方だからこそ、私たちは神に何でも語り掛けることが許されている。神の義、愛は応報思想を超える。私たちはただ神を信頼したいと思う。神こそ義なる方であるからこそ、私たちの言葉を聞き、正しい道に導いてくださるのである。
祈祷 命と愛の源なる神様 神とサタンは、ヨブこそ義人で、信仰を捨てることはないと賭けのようなことをしました。神はヨブをとことん信頼しています。だからこそ、ヨブは神に苦難などを直接語りました。神は応報思想を越え、ただ愛をもって私たちを導いてくださいます。それは神こそ義なる方だからです。私たちは弱く、神に疑問を投げかけることもあります。どうか私たちの言葉を聞いてください。そして、その人が悪いから苦難が訪れるのではない。自分を責めること、相手を責めることから解放させてください。そして、何より苦難の中にある方に護り、お導きいてくださいますように。争いにおいて武器は命を奪うものです。イザヤは「剣を打ち直して鋤とし、もう戦うことは学ばない」と預言しています。どうか人間の武器を作るという賜物を、和解するということに用いることができますようお導きください。争いで被害にあうのは弱者、子どもたちです。本当に必要なのは何か。和解へと導く仲介なのではないでしょうか。どうか指導者が最も弱い者に寄り添い、違いを受け入れながら、互いの命を尊重し歩むことができますように。そして、子どもたちに素晴らしい未来を与えることができますようお導きください。新型コロナウイルス感染がまた拡大しています。収束しますように。寒く、乾燥した日々となっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、手術を受けられた方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。天に召された方々に平安がありますように。悲しみの中にあるご家族をお支えください。昨日は、関東でも雪が降りました。例年にない積雪となっています。様々な被害が出ています。自然災害で被害にあわれた方々をお守り、お支えください。トルコ・シリアの地震で多くの被害が出ています。どうかお守りください。救援活動を行われる方の賜物をお用いください。また、私たちをお用いくださいますように。神の名を用い、また、自分をメシアだと述べ洗脳することは、神の求めていることではありません。被害の中にある方をお救い下さい。そのため働かれている方々をお支えください。受験シーズンになりました。これまで学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守り下さい。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 8章 4~15節」 08:04大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 08:05「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 08:06ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 08:07ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 08:08また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。 08:09弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。 08:10イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」 08:11「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 08:12道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。 08:13石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。 08:14そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。 08:15良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師種まきのたとえ」
ルカによる福音書の8章4節以下は、種まきのたとえである。しかも、11節以下にはたとえのことが説明されている。だから、私が語る必要などない。しかし、そういう訳にもいかない。
種をまいていると、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまう。他の種は石地に落ち、芽は出すが水気が無いので育たない。茨の中に落ちた種は、芽は出るが、茨によってふさがれ成長を止められてしまう。一方、良い土地に落ちた種は、百倍もの実を結んだ。これは、神の国の秘密であり、イエスに従う者、弟子たちにはこの秘密を悟ることが許されているというのである。10節に「悟る」と記されているが、「知る」という方が適切であるといえる。
では、どのような意味なのか。11節に、種は神の言葉であるとある。道端のものとは、神の御言葉を聞くが、後から悪魔が来てそれを奪い去る。悪魔の誘惑に負けるといえるであろう。石地では、神の言葉を受け入れ喜ぶが、試練にあうと神から離れてしまう。茨の中に落ちたものは、神を信じて歩んだが、欲に負けてしまう。そして神の国に入ることができない。良い土地に落ちたものは、心で神の言葉を聴き、行いを伴い、忍耐し、神の国に入ることができる。マルコによる福音書にもこのたとえは記されている。ルカによる福音書は「聞く」というだけではなく「行い」が強く示されているといえる。
種は神の言葉である。それは神の種が、神への信仰が、神の愛が私たちの心に育つといえるであろう。では、誰が、神の種を蒔いたのか。それは、神の一人子イエスにほかない。私たちの心に、神の種がイエスによって蒔かれた。当たり前のように思えるが、それは喜ばしい事なのではないだろうか。私たちの心には、この世を創った絶対者である神の種が蒔かれている。私たちは神の種を育てる価値のある者だといえるであろう。神が私たちを愛し、導いてくださる。ただ、そこで一つ気をつけなければならないことがあると思う。10節に「神の国の秘密を悟ることが許されている」とある。「秘密」、それは特別な人にしか明らかにされないといえるであろう。では、その「秘密」を知ることができるのは、特別な人なのであろうか。いや、そうではないと思うのである。「秘密」を知ることができるのは、神に選ばれた特別な者であると考えるのは、私は傲慢だと思う。大切なのは、この秘密がイエスによってすべての人に明らかにされたとことであると私は考える。
というのは、本日の聖書箇所において、イエスは良い地だけに種を蒔いているわけではないと私は考えるからである。「種が落ち」とある。しかし、当時の農夫にとって種は大切なものだった。種を落とすなど粗末に扱わなかったであろう。そこで、落ちたのではなく、あえて蒔いたと受け取りたいのである。イエスは、種を人が踏みつけ、鳥が食べてしまうような道端に、つまり誰もイエスの言葉を受け入れないような場所に、石地のように芽は出るかもしれないがそれ以上育たないようなところに、また、茨で覆いふさがれてしまうような場所にも、種を蒔く。イエスは、茨の冠をかぶせられ苦難を受け十字架で殺された。それはイエスを邪魔であると考えた者たちの仕業だった。そのようにして、神の言葉を述べ伝えるイエスの活動は茨で覆いふさがれたように、人間の欲によって止まった。しかし、終わることはなかったのである。イエスは復活した。そして、神の言葉、救いを述べ伝える業は、より強力なものとなったのである。イエスは、悪魔の誘惑にも打ち勝った。イエスは、どのような場所であろうと、種から芽がでない、芽が出ても育たないと思われるような場所においても、神の言葉を述べ伝えた。そこに救いがあるのではなかろうか。
さて、最近、私の考えに近い解釈に出会った。そのまま引用したい。前半、「このたとえは元来、イエスによる神の国宣教が困難な状況に遭いながらも、少しずつ発展していくことを示そうとしていたと考えられる。」とあった。まず、蒔かれた種は必ず少しずつ育つということであろう。種まきのたとえは、蒔かれた私たちの心を示しているだけではなく、種を蒔く者としても理解する。宣教、神の救いを述べ伝えるのは、決して楽ではない。時に道端、カラスに種を取られることもある。また、芽を出したが、この世的な誘惑などによって神から離れてしまう者もいるかもしれない。そのように宣教には失敗が伴うのであると、イエスは私たちに述べている。だからこそ、あきらめず種を蒔くべきであると、イエスは教えてくださっている。そして、失敗するときもある。しかし必ず信仰という芽は育つのであると支えてくださっているのである。
ルカによる福音書の22章3節には、ユダの中にサタンが入ったと記されている。最後の晩餐で、イエスは裏切る者がいると予言した。そして、28節、イエスは弟子たちに語った。「あなたがたは、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒にとどまってくれた」と。イエスの弟子として成長するために試練や誘惑にあったとき、心にしっかりとイエスという根をおろすことの大切さをイエスは述べたのである。時に、忍耐しなければならない時もある。しかしイエスこそ、そのようなとき共にいて、種を一緒に成長させてくださるのである。それが、茨の冠をかぶせられたイエスの姿なのではなかったか。そして、弟子たちをほめていることに大きな意味があると思う。弟子たちはイエスの言葉を喜び受け、歩む力にしたであろう。
イエスは、そのように人間の弱さを知り、また、苦しみを受け神の種を蒔いた。そこから、もう少し考えたい。先ほど述べた私の理解に近い解釈の後半には次のようにあった。「また同時に、この譬えは、困難な状況の中にいるわたしたちに、たとえ見通しは悪くても、最終的には道が開け、結実するという希望を抱かせる。」と。
詩編126編5~6節に「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる」とある。バビロン捕囚からエルサレム帰還、そして神殿再建の希望が、この詩編の背景にあると考えられる。つまり、イスラエルの苦難を神は知り、涙を喜びに変えてくださるというのである。私は、この詩編の箇所から、イエスの言葉を考えた。苦難のなか種を蒔いた人こそが、イエスであり、そして私たちが苦難の中にある時にこそ、イエスは共にいて支えくださっている。つまりイエスこそ誘惑、苦難を共に負ってくださり、そして、共に喜んでくださる方である。
私たちの心こそ、時に道端のようであり、石地でもあり、また茨のような時があるのではないだろうか。神を信じることができない。神を疑ってしまう。この世的な、悪魔の誘惑は、洗礼を受けた後にも多々ある。しかし、イエスは人間の弱さをすべてご存知で、私たちに神の種を蒔いてくださっているのではないだろうか。
しかも、その種は神の種である。種とは新たな命を見栄えさせる力である。つまり、私たちはイエスによって種蒔かれ、新しく歩むことのできる者として導かれている。私たちは、特別に選ばれる素晴らしい存在でも何でもない。イエスを裏切る、神に背いてしまう弱い人間の一人である。イエスは私たちの弱さをご存知で、いつも種を蒔き、新たに歩むことができるよう力をお与えくださっている。しかも、それは神の種なのだから、新しく生きる勇気、力であるといえるであろう。そのような希望の種を、私たちの心にイエスは蒔いてくださっている。私たちは、その種を育てるべきなのである。それは、新しく歩む力をお与えくださる希望、救いの種である。
このたとえは、私たち自身、種を蒔く者として、忍耐して宣教を行っていれば必ず種は実るという励ましである。同時に、イエス、神は、私たちの心を理解し、苦難を共に負い、励まし導いてくださっている。そして必ず救いに導いてくださる。そこに希望がある。私たちの宣教の業、そして日常にも、私たちにも苦難、誘惑がある。しかしイエス、神が共にいて支え、必ず希望の道に導き実を結ぶという、イエスの励ましの言葉であるとこの「種まきの譬え」を受け取りたいのである。イエスこそ私たちに神の愛、救いという希望の種を与えてくださるのである。
祈祷 命と愛の源なる神様 イエスは種まきの譬えを語られました。宣教の業はどうしても苦難、困難がある。しかし必ず希望、実を結ぶのであるということです。同時に、人間の弱さを共に負い、困難、苦難を分かち合い、救い、希望へとイエスはお導きくださるという励ましであると、受け取りたいのです。イエスこそ私たちに希望の光を指してくださり、救いに導いてくださいます。このことを確信したいと思います。また、この喜びを多くの人と分かち合うことができますよう私たちをお用いください。この世は愛し合うために神によって創られました。争うことは神の思いではありません。報復は神のなされることであると聖書にも記されています。また、それぞれの国が武器を提供しています。これは争いをより激化させることになる。また、代理戦争のようでもあります。そこで被害にあうのは弱者、子どもたちです。本当に必要なのは何か。和解へと導く仲介なのではないでしょうか。どうか指導者が最も弱い者に寄り添い、違いを受け入れながら、互いの命を尊重し歩むことができますように。そして、子どもたちに素晴らしい未来を与えることができますようお導きください。新型コロナウイルス感染がまた拡大しています。収束しますように。寒く、乾燥した日々となっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、手術を受けられた方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。天に召された方々に平安がありますように。悲しみの中にあるご家族をお支えください。今月誕生日を迎える方々の上に主の豊かな祝福がありますように。例年にない大寒波が到来しています。様々な被害が出ています。自然災害で被害にあわれた方々をお守り、お支えください。神の名を用い、また、自分をメシアだと述べ洗脳することは、神の求めていることではありません。被害の中にある方をお救い下さい。そのため働かれている方々をお支えください。受験シーズンになりました。これまで学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守り下さい。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、すでにはじまっています新しい月、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(2) 6章14節~7章1節」
聖書朗読
06:14あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。 06:15キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。 06:16神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。 06:17だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、 06:18父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」 07:01愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「約束を受けている」
コリントの信徒への手紙(二)は、パウロによって記された。パウロは、ユダヤ教の教え律法を厳しく守るファリサイ派に属していた。しかし復活のイエスに出会った。全ての人が神との契約に招かれていること、そして、イエスの十字架により律法から解放されたことを知った。パウロは、イエスこそ唯一の神の独子、救い主だということに気づいたのである。そして、パウロはユダヤ人以外の人々に、神の救いを述べ伝えたのである。パウロは、宣教をした教会に何か問題が生じた時、手紙を記して導くことをした。新約聖書には、27巻の文章がある。そのうち13巻がパウロの名によって記されている。しかし今、学問的には、その13巻のうち、パウロが本当に書いた手紙は7巻であると考えられている。
コリントの信徒への手紙(二)は複雑である。パウロが記した5つの手紙は、後の人によって編集され、組み合わされたと考えられている。そして本日の箇所は、それとは別に、パウロが記した文章ではないものが、そこに入れられたと考えられる。その箇所は前後の文章とつながらない。また、その個所を切りとると話がつながるのである。一見、パウロに似せて記されているが、パウロが用いなかった、いや、新約聖書にはこの箇所にしか用いられていない単語がいくつかある。旧約聖書の引用も、他の箇所に比べるとパウロと異なる。内容もパウロの考えとは異なると考えられる。一方で、パウロが何かの機会にメモをしたものという理解もある。
16節から18節は、旧約聖書の引用である。16節はエゼキエル書の37章27節とレビ記の26章12節、17節はイザヤ書の52章11節の後半の一部、エゼキエル書の20章34節の一部、18節はサムエル記の7章8節からというように、かなり自由にもちいている。そのほかにもある。複数の聖書箇所を組み合わせるという手法は、当時のユダヤ教の学者たちの間では発達していた。新約聖書にも、旧約聖書を組み合わせて引用した箇所は、ある。しかし、引用は2箇所か3箇所である。
14節にあるのは、キリスト教の信者は、未信者と関わりをもつなということである。以下、正義と不正義、光と闇は正反対。ベリアルは悪魔といってよいであろう。キリストと悪魔は調和しない、反している。信仰と不信仰、真の神がいる神殿と偶像も全く異なるものであるというのである。不思議に思うかもしれない。パウロは、未信者と関わりを持たないようにと他の手紙で記しているのか。逆ではないか。パウロが一番人々に伝えたいことは、イエスを通して神との契約に全ての人が招かれたということだと私は考えている。神はユダヤの先祖であるアブラハムと契約を結び、ユダヤ民族に継承された。同じように、全ての人が神との契約に招かれている。だからパウロが、未信者とキリスト者を区別するとは思えないのである。コリントの信徒への手紙(一)7章12節以下では、未信者の妻と離婚することを思い留まらせている。また、7章1節「肉と霊の汚れ」、パウロにとって霊とは本質上聖霊である。その点でもパウロと異なっている。一方、前の5章では、神の和解が記されている。神と和解したのだから異教徒との別れが必要と考え、本日の箇所があると理解することもできるであろう。
14節、「信仰のない人々」、未信者というより敵対するというか異なった種類に属しているというほどの隔絶がある人々といってよいであろう。
さて、私はトルコに行ったときに、当時のローマの繁栄を知り、ギリシャの神々の像を見た。キリスト教はユダヤという小さな国の田舎ナザレの大工の息子イエスを救い主とする小さな集まりであった。パウロが大都市の異教徒のいる場所でイエスの救いを述べ伝えたということを思うと、その勇気、イエスに対するパウロの信仰を思わずにはいられなかった。当時のキリスト教は少数、いや異邦人にとって新しい神の教えだった。そこで重要なのは、キリスト者自身の信仰を律すること、確かな信仰をもつ持つことだったのではなかろうか。神ではない偶像、それを信じる者たちと一線を引かなければならなかった。キリスト者に対する迫害、悪魔的な誘惑もあっただろうことなどが推測できる。
そこで重要なのは、16節以下、旧約聖書の引用の言葉ではないだろうか。神が私たちの神となってくださる。神は、神を信じる者たちが集まる神殿、あるいは神を信じる者たちの間にいてくださる。神は、私たちが息子、娘となるよう受け入れ、招いてくださっている。つまり、いついかなる時も、神は私たちのことを覚え、共にいてくださる。だからこそ、どのような状況、少数であろうとも、キリスト者との交わりの中で信仰を保つことができるのである。また、そのことが大切である。
ところで、「クオ・ヴァディス」とは、ローマ皇帝ネロによるキリスト教迫害のなか、キリスト教信者の女性と軍人の恋愛を軸にした物語である。キリスト者は少数、迫害を受けていた。キリスト教迫害が激しくなり、ペトロはローマから出た。すると復活のイエスに出会った。ペトロは「クオ・ヴァディス(ヨハネによる福音書の13章36節のことば)、主よ、どこに行くのですか」と聞きいた。イエスは、ペトロがローマの人々を見捨てるならば、私がローマに行って十字架にかかるといった。そこでペトロは、ローマにもどり、イエスの救いを述べ伝えることによって十字架に掛けられたのである。ネロの治世が始まったのはコリントの信徒への手紙が書かれた数年後であったが、想像しやすのではないかと思う。
当時のキリスト者は少数であった。だからこそ自分自身の信仰を確かなものにしなければならなかった。また、どうしても異なった種類に属している人と離れることが必要だったのかもしれない。
一方、どのような逆境の中にいても、神は共にいてくださる。特に、神を信じる者の間にいてくださる。7章1節に「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」とある。私たちを娘、息子として招き、信じる者たちの間に住んでくださる。神が私たちの神となることを宣言してくださった。私たちは神からこれらの約束を受けているということを、確信することが大切である。その応答として聖なる者となるよう歩むことができるのである。
神は旧約聖書の預言、約束を、独子イエスをこの世に遣わされたことなどによって、成し遂げてくださった。つまり神は、約束したことを必ず行ってくださるのである。私たちには、様々な厳しい出来事がある。そこで神から私たちを引き離すものから離れなければばらない時があると思う。パウロ、当時のキリスト者には、様々な苦難、そして迫害があった。しかし、いつも神が共にいてくださるという確信があったからこそ、異教の神が根付いている場所で、唯一の神を述べ伝えるという大変な業を行うことができたのである。「完全に聖なる者」になるのは難しい。しかし、いついかなる時も、神は私たちの間に住んでくださっている。そのことによって神との関係を持つことができる。だからこそキリスト者の交わりは大切であり、貴いのである。神は私たちの神になると宣言し、共にいると約束してくださった。それこそ苦難の中にある信仰者にとって、最も力強い導き支えなのである。神の宣言、約束を確信し、神を信じ、従いたいと思う。
祈祷 愛なる神様 聖書には一見、矛盾しているようなことが記されています。様々な角度から記すことにより、調和を保っています。本日の箇所は、パウロが記した文章でないかもしれません。しかし当時の苦難などから考えると、それは励ましの言葉であり、現代の私たちを支え、導くものでもあります。神は、どのようなときも私たちの間にいて下さり、招き、救いへとお導きくださいます。何より神は、約束されたことを必ず成し遂げてくださいます。どうかこのことを確信し、信仰の友と共に歩みたいと思います。また、この喜びを多くの人と分かち合いたいと思います。どうか私たちをお用いください。この世は愛し合うために神によって創られました。争うことは神の思いではありません。報復は神のなされることであると聖書にも記されています。また、それぞれの国が武器を提供しています。これは争いをより激化させることになる。また、代理戦争のようでもあります。そこで被害にあうのは弱者、子どもたちです。本当に必要なのは何か。和解へと導く仲介なのではないでしょうか。どうか指導者が最も弱い者に寄り添い、違いを受け入れながら、互いの命を尊重し歩むことができますように。そして、子どもたちに素晴らしい未来を与えることができますようお導きください。新型コロナウイルス感染がまた拡大しています。収束しますように。寒く、乾燥した日々となっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、手術を受けられた方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。天に召された方々に平安がありますように。悲しみの中にあるご家族をお支えください。例年にない大寒波が到来しています。様々な被害が出ています。自然災害で被害にあわれた方々をお守り、お支えください。神の名を用い、また、自分をメシアだと述べ洗脳することは、神の求めていることではありません。被害の中にある方をお救い下さい。そのため働かれている方々をお支えください。受験シーズンになりました。これまで学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守り下さい。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 4章 16~30節」
聖書朗読
04:16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 04:17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 04:18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 04:19主の恵みの年を告げるためである。」 04:20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 04:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 04:22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 04:23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 04:24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 04:25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 04:26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 04:27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 04:28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 04:29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 04:30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「イエスの宣言」
イエスは故郷のナザレに行き、安息日にユダヤ教の会堂に入った。キリスト教でいう礼拝を守るということであった。イエスに当番が当たっていたのだろうか。聖書を読むと17節に「目に留まった」とある。安息日毎に読まれる聖書の箇所は決まっていたので、その箇所を読んだはずである。もしかしたら著者のルカは、ユダヤ教の詳細な決まりごとを知らなかったのかもしれない。イエスは、旧約聖書イザヤ書の61章1節と2節の前半と58章6節「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」を読んだ。。その箇所を読み終えるとイエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語った。会堂に来ていた会衆はイエスの言葉を褒め、また驚いたとある。
次を読むと、違和感を持つのではないか。というのは、22節後半「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。」とあり、その後に「この人はヨセフの子ではないか」とあるからである。褒めた後、「あいつは大工のヨセフの息子ではないか。何を偉そうに預言者のような発言をしているのだ」と理解できる。「ほめ」るという言葉、元々のギリシャ語の意味は「証言する」という意味で用いられることが多い。確かに辞書には「讃美を示す」と載ってはいる。しかし「讃美を示す」と用いられることは少なく、また、そのような意味はないといっている学者もいる。この箇所の場合は、イエスは自分たちの村のヨセフの息子だという事実を、その場にいた人たちは証言したという意味だと受け取りたい。つまり、イエスがイザヤの言葉をそのように上手に解説したということを、不思議に思ったということである。その方が文脈的にもしっくりくる。そして、イエスは「医者よ、自分自身を直せ」ということわざを、会衆が述べるだろうといった。それは、他人の病気を癒すといって金を取って儲けている医者が、実は自分の傷さえ癒せないという悪口である。そして、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」、つまり、奇跡を行えというに違いないだろうともイエスはいった。奇跡を行えば信じるという試み、また、悪魔的な発言をするだろうと受け取れるであろう。
次にイエスは、旧約聖書に登場する偉大な預言者のエリヤとエリシャの物語を語った。まず、列王紀上17章9節である。大飢饉のときに、エリヤは神によって、ユダヤの民ではなく異邦人のもとに遣わされ救いに導いた。列王記下5章14節には、エリシャも病が流行っていたときに、異邦人を癒したとある。異邦人が救われユダヤ人は救われないと理解できるイエスの発言に対し、ナザレの人々は怒った。もちろん、イエスを救い主であるとは認めない。大工のヨセフの子ではないか。その息子イエスが、そんなに立派になるはずがないと。ナザレの人々は意地悪だったのか。そうではなかった。当時の社会的考えも関係していた。当時、富、名誉は一定の限られた量だと考えられていた。そこで、ある人が富を多く持てば、他の人の持つ分が減る。名誉も同様で、ある人が名誉を受ければ、他の人は与えられない。そこで、イエスに名誉が与えられれば、自分に与えられる名誉が失われると思った。また、名誉は恥を受けることによって失うとも考えられていた。そこで、会衆がイエスを恥に陥れ、名誉が失われるようにしたとも考えられる。もちろん嫉妬もあったであろう。人の心の中にある思いは複雑である。会衆は、救いを求めていた。特に、ローマによって支配されたユダヤの人々は、ユダ王国の復興、王のように導いてくださる救い主を待ち望んでいた。しかし、イエスが救い主であると述べると、それを否定する。イエスは、ヨセフの子だ。昔からあの家族のことは知っている。そんなはずがない。信じられないということだけではなく、嫉妬のような思いもあったのだろう。そして、預言者は故郷で受け入れられない。また、先ほどのことわざなど、エリヤ、エリシャの話を用いたイエスの発言に対して、会衆は怒った。イエスはがけがら落とされそうになったが、逃げることができたのである。
そこで18節以下をもう一度見てみたい。「『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』」、そこでイエスは、「『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』」と話し始めた。」とある。
18、19節はイザヤ書の言葉である。イザヤ書には、救い主、神の僕が現れるという預言が記されている。そこで、貧しい人、弱い立場にある者たちに神の救いが告げ知らされるというのである。救い主を指すメシアという言葉は、油注がれた者という意味である。それは、神の祝福を受け、神から役割が与えられた者である。「主がわたしに油を注がれた」とあり、イエスこそメシア、救い主であるということ、そして、「捕われている人に解放を」ということである。解放とは、捕虜や囚人を自由にするという意味だが、宗教的な意味としての解放と受け取りたい。19節の「主の恵みの年」とは、ヨベルの年、安息年の7年を7回重ねて50年目に守られる解放の年、奴隷、土地の権利などが所有者に返還されるという年と理解されることがよくある。しかし、イエスがここでヨベルの年のことを示したのかどうかは定かでない。そこで「主の恵みの年」とは意訳で、「主に受け入れられる年」が元の意味である。「年」、ここでは時という思いで記されているようにも思える。神によって受け入れられる。特別な意味をそこから受け取ることはできないのだが、私は「主の恵みの年」という言葉を、神によってすべての人が救い主を通してありのまま受け入れられる時という意味であると理解したい。
イエスは、イザヤ書を読み、その後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と述べた。つまり、油注がれ、弱い立場にある人々に、神の救いが告げられる。また、神が罪ある人間をありのまま受け入れてくださるのは、わたしイエスが油注がれた者、メシアとしてこの世に遣われ、活動を始めたからだと宣言されたといって良いのではないだろうか。イザヤ書を読んだ。この箇所がこの日のために定められていた。つまり、神の導きがあったと私は思うのである。そのように考えると、人間の様々な思いを超えて働く神の力、計画があると考えられるのではないだろうか。
イエスの救い、そして解放とは、いかなることであったか。大工のヨセフの息子のくせになど、人と自分を比べ、名誉がイエスによって取られると考えてしまう。イエスがもたらした解放こそ、人と比べることからの解放、神の恵みは他の人と分かち合えば分かち合うほど満ちあふれるものであるということを教えて下さるためではなかったか。
つまりそれは、この世的な価値観からの解放である。ナザレの人々は、そのことを理解できなかった。受け入れることができなかった。イエスの十字架の救いこそ、全ての人に対して与えられる神の愛である。分け隔てなく一人一人を愛してくださる神の愛を、イエスは示したのである。神の愛のもとでは、他の人と自分を比べること、名誉の分配など必要ない。一人一人が神によって大切な存在として愛し、受け入れられている。神は、分け隔てなどしない。このことを理解すべきなのではないだろうか。だからといって、イエスの故郷の人々を非難すべきではない。私たちの心にも同じような思いがあるように思う。私たちは、ただ神に分け隔てなく愛されている。人間的な思い、この世価値観から解放されていることを確信したいと思う。
祈祷 憐れみ深い神さま イエスは故郷において救い主とは受け入れられませんでした。それは、この世的価値観、嫉妬、また、人と比べてしまうという思いが人間にあるからかもしれません。一方、イエスこそ一人一人をありのまま受け入れてくださる神の愛を示し、また、この世的な価値観から解放してくださいました。そして、ご自分を救い主だと宣言されたのです。私たちは神に愛され、この世的価値観から解放されています。イエスこそ救い主であると信じ、神の愛、救いを確信し、それぞれの違いを受け入れ合い、互いに支え合うことができますようお導きください。この喜びを多くの人と分かち合うことができますようお用いください。戦争を起こすことは自然を破壊することにもつながります。戦争は始めるより停戦、止めることの方が勇気を必要とします。どうか、イエスが人間と神とを和解させてくださいましたように指導者に和解する勇気をお与えください。また、この寒さのなかインフラを攻撃することは市民を死に至らせるということでもあります。争いで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。イエスこそ弱い者に寄り添い歩みました。どうか指導者が最も弱い者に寄り添い、違いを受け入れながら、互いの命を尊重し歩むことができますように。そして、子どもたちに素晴らしい未来を与えることができますようお導きください。新型コロナウイルス感染がまた拡大しています。収束しますように。寒く、乾燥した日々となっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、手術を受けられた方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。天に召された方々に平安がありますように。悲しみの中にあるご家族をお支えください。例年にない大寒波が到来しています。様々な被害が出ています。自然災害で被害にあわれた方々をお守り、お支えください。神の名を用い、また、自分をメシアだと述べ洗脳することは、神の求めていることではありません。被害の中にある方をお救い下さい。そのため働かれている方々をお支えください。受験シーズンになりました。これまで学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守り下さい。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 16章 11~15節」 16:11わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、 16:12そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。 16:13安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。 16:14ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。 16:15そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「聞き入れる」
使徒言行録は、ルカによる福音書の続編である。そこには、救い主イエスが天に上げられてからの弟子たちの、特にペトロ、そしてパウロの宣教の働きが記されている。本日の箇所は、パウロの第二の伝道旅行におけるマケドニアにあるフィリピでの出来事である。現在もギリシャにはフィリポイという町がある。パウロは、安息日の祈りの場所があると思われる川岸に行った。きっとユダヤ人たちが集まって祈る場所があったのであろう。そこで、集まっていた女性たちに話しかけたのである。
そこに集まっていたのは「女たち」だった。聖書の古代社会は家父長制である。その場所はユダヤではなくギリシャだったが、はたしてユダヤ教において、女性たちだけが集まっていたということがあったのか疑問に思う。しかもローマ支配下において、ユダヤ教などの外来の宗教の入り込む余地はなかったと思われる。実際、フィリピにユダヤ人会堂があったという資料はなく、考古学からも立証されてない。しかし川岸、つまり町のはじっこに、かろうじて祈りの場所があったと推測できるのである。
そこで、紫布を商う人、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていた。「神をあがめる」祈りの場に、熱心に通っていたことが表現されている。彼女はユダヤ人ではないと考えられる。リディアは「紫布を商う人」とのこと。そこには「商人」ではなく、「紫染の職人」という解釈がある。その場合、多くは奴隷であり、また紫の染めによって匂いが体につき、その匂いから軽蔑を受けていた。つまり、リディアは軽蔑された下層階級に属し、差別を受けていたという理解があ。しかし、元のギリシャ語などから考慮し、紫布の商人と理解したいと思う。その後に彼女は、パウロたちを自分の家に泊まるよう懇願した。複数人を宿泊させ、もてなすことのできる家と考えると、彼女は商人と理解したほうが納得できる。
この箇所では、神を信じていた者が、パウロと出会うことによって洗礼を受けたことが記されている。その出会いは偶然だったのであろうか。14節に「主が彼女の心を開かれた」と記されている。パウロの働きが素晴らしかったからリディアは洗礼を受けたのではない。そこに主の「心を開かれる」働きがあったからこそ、リディアは洗礼を受けたのであるといえる。リディアとパウロの出会いも、きっと主の導きだったと私は思うのである。だからこそ、リディアの家族の者も洗礼を受けたのだといえるであろう。
そこで、見たいことがある。まず13節、パウロは祈りの場に行き「座って、集まっていた女性たちに話をした」とある。「座って話をする」とは、ルカによる福音書4章20節「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあるように、会堂で話をするときに「座る」という言葉が用いられている。そして「話をする」。ルカによる福音書の9章11節「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り」など、「話をする」は、ルカによれば、宣教する意味で用いられているのである。ルカによる福音書の著者と使徒言行録の著者は同一人物である。意図的に同じ言葉を用いていると考えられるのである。
次に見たいのが14節「注意深く聞いた」である。聖書を読んでいて、女性がイエスの話を聞いたということで、思いうかべる出来事がある。「聞いた」という言葉は模範的信徒の姿勢を表すルカ的な表現で。ルカによる福音書の10章39節には「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とある。マリアとマルタ姉妹の物語である。イエスがマリアとマルタ姉妹の家に行くと、マルタはイエスをもてなすため働いた。しかしマリアは働かず、熱心にイエスの話を座って聞いていたのである。マルタは、マリアが働くようイエスから何か言って欲しいと願った。そこで、イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と述べた。今一番大切なのは、イエスの言葉を聞くことなのだとイエスは述べたのである。マリアと同じように、リディアはパウロを通してイエスの救いの言葉を聞いたのである。
そして14節に「主が彼女の心を開かれたので」とある。そこでの「主」とは、イエス・キリストのことである。ルカによる福音書の24章31節以下、イエスの十字架の後に、エマオへ行く二人の弟子たちの出来事である。弟子二人がエマオへ歩んでいると声をかける人がいた。二人は歩きながらその人と話し、日が暮れたので共に宿泊し、食事をした。話しかけた人がパンを裂いた時、弟子二人はその人がイエスだと気づいた。次のように記されている。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」と。この「二人の目が開け」と今日の使徒言行録の主が彼女の心を「開かれた」は、同じ言葉です。主イエスが二人の弟子たちの心を開いたように、リディアの心も開いたのです。また、ルカによる福音書の24章29節には「二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」とある。本日の箇所の15節の最後には「『私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください』と言って、わたしたちを招待し、無理に承知させた」とある。両者の「無理に」も、同じ言葉である。それは懇願する者の、懇願される者に対する熱心さを示すものである。そして、リディアの懇願も、それに対するパウロらの応答は書かれてはいないが、エマオ途上の二人の弟子たちの懇願の場合と同じように、パウロらもリディアの願いを聞き入れたと考えられる。
著者のルカは、福音書を「イエスの時」と考え、使徒言行録を「原始教会の時」と考えていたといえる。そして、イエスが行ったことを次に使徒たちが行っていった。イエスが歩んだ道を使徒たちが歩むのである。もちろんそれは、イエスの救い、神の救いを述べ伝える出来事である。
マリアとマルタの出来事とリディアの出来事を重ねているのは、同じ女性であるから分かりやすい。そこで私が見たいのは、二人の弟子たちとリディアの出来事を重ねているということである。二人の弟子は男性である。リディアは女性である。そこには男性だろうが女性だろうが、神、イエス、そして宣教の出来事には関係ない。いや、女性が祈りの場所を持っていた。リディアもそこに行き、神を熱心に求めていた。しかもリディアはユダヤ人ではなく異邦人だった。そのように救いが異邦人へと広がる。それだけではなく、女性の働きの大きさをそこで示しているように思える。また、女性男性に関係なく、神の御計画、導きがあるということではないだろうか。ルカによる福音書は、イエスの時、使徒言行録は原始教会の時である。そして、ルカによる福音書、使徒言行録を読む者たちの時があるということを示しているのではないかと私は考える。
一つは、イエスが神の救いを述べ伝えたように、弟子たち、そしてパウロがイエスに倣い、イエスと同じ道を歩み、イエス、神の救いを述べ伝えた。そして今、ルカによる福音書、使徒言行録を読む私たちが、イエス、弟子たち、パウロに倣い、イエス、神の救いを述べ伝える時である。神、イエスはそのように私たちに聖霊を注ぎ、お導き下っているということである。そして、本日の箇所には、リディアがイエスによって心開かれたように、私たちも心開かれ、今、この教会に聖霊によって招かれているのである。つまり、リディアにイエスの導きがあったように、私たちもリディアと同じように、目に見えない主イエスの働き、聖霊によって導かれている。私たちが救い主イエスに出会うのは、誰の働きでもなく主イエスの働きによる。そして、その働きは男性、女性関係なく全ての人に働いているのである。
私たちもパウロ、弟子たちのように神、イエスに用いられている。そして、何よりリディアがパウロと出会い心開かれたように、目に見えないイエスの働きが私たちたちにも注がれている。目に見えないイエスの働きを聖霊といってよいであろう。私たちも主イエスと出会い、心開かれ導かれている。そこに神、イエスの御計画がある。聖書に記されている出来事が、現代も私たちにも起こっている。私たちもイエスの導きの中にあることを確信したいと思う。
祈祷 愛なる神さま 赦しの内に一週間お導きくださり、今日ここにお招きくださいましたことを感謝いたします。使徒言行録は、イエスの十字架以降の弟子たち、パウロの働きが記されています。それは、イエスに倣い同じ道を歩む働きです。ここにこそ聖霊、イエスの目に見えない働き、導きがあります。今、福音書、使徒言行録を読む私たちも、イエスに倣い歩むように主の導きによって歩むことができると、使徒言行録は示しています。また、弟子たち、パウロ、今日の箇所のリディアに聖霊は注がれ、主イエスの導きがあります。リディアの心が開かれたように、私たちの心を開き主に従うことができますようお導きください。そして、どうか私たちにも主の霊が注がれていることを確信させていください。また、主の導きを多くの人と分かち合うことができますように。主の聖霊を感じ、この一週間を歩むことができますようお導きください。戦争は、人と人とが殺し合うだけではなく、自然をも破壊することになります。その痛み、悲しみは終わることがありません。争いは悲しみ、憎しみしか生み出しません。特に争いで被害にあうのは弱者、子どもたちです。子どもたちに素晴らしい未来を与えることができますように。今、指導者が目の前のことだけではなく将来のことを本当に考えることができますように。争いを止めるのは、始めることより勇気のいることです。どうか、争いではなく、争いを止める勇気を指導者にお与えください。新型コロナウイルス感染が拡大しています。収束しますように。寒く、乾燥した日々となっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。天に召された方々に平安がありますように。悲しみの中にあるご家族をお支えください。この冬は例年にない大雪となっています。同時に、寒暖の差が大きく、雪崩など雪による被害が懸念されます。どうかお守りください。そして自然災害で被害にあわれた方々をお支えください。神の名を用い、また自分をメシアだと述べ洗脳することは、神の求めていることではありません。被害の中にある方をお救い下さい。そのため働かれている方々をお支えください。本格的に受験シーズンとなりました。これまで学んだことが十分発揮できますように。そのため受験生の健康をお守り下さい。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 104編 24~30節」 104:24主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。 104:25同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。 104:26舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。 104:27彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。 104:28あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。 104:29御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。 104:30あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「私たちの特権」
詩編104編は、神による世界の創造と統治の御業をほめたたえる讃美の歌である。神は全地を創造した。神の支配は、人間に限定されるだけではない。湧き水は川となり、野の獣がそれを飲む。雨によって木々が成長し、そこに鳥は巣を作る。月を創って季節を定め、太陽は沈む時を知る。そして闇になると、獣が活動する。すべての創造物に神の支配の恵みが注がれ、創られたものは調和し生かされている。104編には、そのように詠われている。つまり、神に創造されたものは神無しでは存在しえないし、生きていくことさえできないということである。その事実を知ることによって、人間は奢り高ぶりをおさえ、謙遜になることができる。この世に生きているのは人間だけではない。私たち人間は、人間の力ですべてを行えると、人間がこの世を支配しようという気持ちを、持ってしまっているかもしれない。しかし、人間に出来ることなどは、ほんのわずかなことにしかすぎない。人間が神無しで何でも出来ると思いあがることは、神への反逆行為であり、悪へと向っていることになる。神は、その創造物の一つとして人間を創った。神は、創造物すべてが調和し、共に生きるようこの世界を創ったのではなかろうか。
神が創ったのだから、神が支配しているのである。それは、神に創造されたものたちは神の導きによって生きているということである。神は、天と地、また、その中にあるものを無から造り・保ち・支配し、神自ら創ったものの存在と現状に対して責任を負ってくださっているのである。その一番のしるしは、神が一人子イエス・キリストをこの世に遣して下さったことであるといえるであろう。
この世は、神によって創られたものが互いに調和している。つまり、すべてが必要な存在である。神は、創ったものをよしとし、信頼してくださっている。一方、私たちはこの世を創った神を信頼することが許されている。それが、創られた私たちの特権である。神によって創られたものは、この世において居場所がある。なぜなら神が必要としてくださっているからである。
創ったものに対して神が責任を持つということは、この世の生物のために、食物、陽の光、生活をしていくのに必要なものすべてを与えてくださるということである。つまり、すべては神の管理のもとにとあると言える。神の管理の範囲は人間の理解を超える。だから、人間には分からないのである。人間の重荷さえも負ってくださる。私たちは神の手のひらにいると言っても過言ではないであろう。そして、神はその創造の業としての導きを、今もなおなしてくださっている。働きかけてくださっているのである。
詩編104編は、この世を創った神のその知恵の偉大さ壮大さにすっかり圧倒され、嘆願の叫び声を上げているのである。
注目したいのは、30節の「あなたはご自分の息を送って彼らを創造し地の面を新たにされる」である。そこには「息を送って」とある。元のヘブライ語では、ルアハといいう。神が人間に息を吹き込んだことによって、人間は生きる者となった。命の根拠は神にある。創世記2章7節にそう記されている。逆に、それを取り去られたとき生物は「ちり」に帰る。人間は、ちりから創られ、ちりに帰る。それは、土に帰るということである。つまり人間は、自然との調和の中で生きている。最初に述べたように、そのことを知ることによって人間は、高慢になることから守られるのである。人間も、この世のあらゆる生物も、ちりにしか過ぎない。ちりにしかすぎないものが神によって形造られた。しかし、ちりにしかすぎないが、神に必要とされ、一人一人が大切な存在にされている。しかも、「新たにされる」と記されている。すなわち、この世にあるものは、日々生かされている中で、絶えず創造の力を繰り返し受け、新たにされているのである。それを進化としてとらえたとき、新しい命が芽生え、状況により変化する。それだけではなく、私たち自身、神によって日々新たなものとされているのではないだろうか。
そこに書かれている「息」という言葉ルアハは、霊とも訳される言葉である。聖霊とは神の働きである。実際、その箇所を「息」とではなく「霊」と訳している日本語聖書がいくつもある。次のように言えるのではなかろうか。私たちは神によって「息」が吹き込まれ生きる者となったと同時に、私たちは神によって「霊」が与えられ、生かされているのだと。
スピリチュアリティについての古典的な神学書を読み、思ったことがある。人間は聖霊によって生かされている。聖霊が共にあり、生きるものとされていることに、私は気付いた。つまり聖霊を感じるとは、神が共にいてくださることに気づくことであると。「息」が、吹き入れられたように、「霊」も、実は私たちの身近に、いや、私たちが息を吸っているように、聖霊を受けている。キリスト者とは、神の聖霊に生かされていることに気付いた者であるとも思うのである。つまり、すべての人が息を吹き入れられ、息をしているように、聖霊もすべての人に注がれ、神によって生かされている。一人一人がこの世において神が必要としてくださり、生きている存在である。一人一人が存在することによって、この世は調和しているのである。
人間は、時に自分の失敗を卑下してしまい悩み、苦しむことがある。時には、理由もなく不安になることもあるだろう。確かに、失敗を反省することは必要であると思う。それが次のステップになるのだから。しかし、悲しみ、不安の中に閉じこもってしまうことや、自分は生きる存在価値があるのかと悩むことが、そして立ち上がれないときもある。そのような時、私たちはただ神に生かされ、神に必要とされている。一人一人の存在が、世界を成り立たせるため、調和するための大切な存在である。そして、神の御手の中にあるのだということを、ただ信じることが大切なのではないだろうか。それほどの支えがあるだろうか。神は私たちに息を与えてくださった。つまり祝福し、この世に存在させてくださった。いや、今もなお聖霊によって、神がいつも共にいてくださり、日々新たにされる。それが、私たちにとって生きる励ましとなる。イエスこそ、最も低いものとなり、ちりにしか過ぎない私たちと共にいてくださるのである。生きる、いや、生かされている喜びを覚えることこそ、命を与えてくださった神への感謝になるのではないだろうか。私たちは、この全世界の調和の中で神が必要してくださり、神に命を与えられ、神に必要とされている存在なのである。その考えこそ、キリスト者が与えられた特権であり、生きる力となる。新しい年も、日々新たにさえていることを覚え、神と共に歩みたいと思う。
祈祷 憐れみ深い神さま 私たちは神によって、ちりから創られたものに過ぎず、また、ちりに帰るものです。しかし、そのようなものを、神は必要とし、息を吹きいれてくださいました。この息こそ、聖霊であり、今も与えられ、生かされているのです。このことを知ることによって高慢から守られ、すべての人、ものと共に生きることができます。どうか、私たちが神に創られたものとして互いに支えあい、生きるものとしてください。そして、このような神の業を讃美すると共に、生かされていることを喜び、この喜びを多くの人と分かち合いたいとも思います。どうか強め、お用いください。私たち人間は互いに調和し合うため命を与えられました。決して、争い、憎むためではありません。どうかこの世が平和になりますように。争いで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。イエスこそ弱い者に寄り添い歩みました。どうか指導者が最も弱い者に寄り添い、違いを受け入れながら、互いの命を尊重し歩むことができますように。そして、子どもたちに素晴らしい未来を与えることができますようお導きください。新型コロナウイルス感染がまた拡大しています。収束しますように。寒く、乾燥した日々となっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。天に召された方々に平安がありますように。悲しみの中にあるご家族をお支えください。この冬は寒波が襲い、例年にない大雪となっています。様々な被害が出ています。自然災害で被害にあわれた方々をお守り、お支えください。神の名を用い、また、自分をメシアだと述べ洗脳することは、神の求めていることではありません。被害の中にある方をお救い下さい。そのため働かれている方々をお支えください。新年になり新しい歩みがはじまりました。それぞれの場にある方々の歩みを祝してください。受験シーズンとなります。これまで学んだことが十分発揮できますように。そのため健康をお守り下さい。今月誕生日を迎えられた方の上に主の祝福がありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「マタイによる福音書 1章1節」
聖書朗読
01:01アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「この世的思いからの解放」
キリスト教では、クリスマスから新しい暦が始まる。イエスの誕生と共に私たちも新しい歩みを始めるといえるだろう。一方、日本では、1月1日を一年の始めとして大切にしている。今日は一年の最初の日なので、新約聖書の最初の言葉に心を共に傾けたいと思う。
マタイによる福音書1章1節「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。この文は、2節以下から始まる「イエスの系図」の題として記されているのであろうか。マタイによる福音書の最初の「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」は、マタイによる福音書全体の表題として記されているとも理解できる。つまり、この1節の言葉は、マタイによる福音書全体を把握しているといえるであろう。不思議に思うのではなかろうか。この短い文をどのように解釈するかによって、その答えがわかる。
マタイによる福音書1章1節のそれは、新共同訳聖書では、「アブラハムの子」は「ダビデ」にかけている。4年前に出版された聖書協会共同訳聖書では「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と訳してあった。「アブラハムの子」が「ダビデ」にかかるのか、「イエス・キリスト」にかかるのか。それは、どちらにもかかると理解したい。つまり、イエスは「アブラハムの子」であり「ダビデの子」である。まず、「アブラハムの子」。ユダヤ人全員がアブラハムの子という言い方であるということ、そして、イエスもユダヤ人であるということを意味している。同時に、次のような意味がある。アブラハムは、神と最初に契約を交わした人物である。創世記12章で、アブラハムは「地上のすべて あなたによって祝福を受ける」と神に言われている。それは、ユダヤ人だけではなく異邦人、すべての人が神に祝福されるという約束である。神とアブラハムの契約が、アブラハムの子孫であるイエスによって実現されるという意味であると考えられる。神との契約は、人間が何をしようが、神は共にいて導いてくださるというものである。実際、旧約聖書に記されているユダヤ人たちは、神を何度も裏切った。しかしそれでも、この契約のゆえに神はユダヤ人を導いた。つまり、神の祝福がイエスによって異邦人、いや、全ての人に注がれるということを意味しているのである。
次に、「ダビデの子」。ダビデとは、今から約3000年前のイスラエルの王であった。イスラエルが最も繁栄したのは、ダビデとその息子ソロモンの時代であった。旧約聖書を正典とするユダヤ教では、ダビデの子孫から救い主が生まれ、再びイスラエルの繁栄があると考えている。また、王ダビデの子として、王の血統を持つもの、ダビデの子孫として神から遣わされる救い主は、合法的に王としてこの世を支配する者であるということが言われている。その方こそ、最後の王であり、この世を支配される方であるということが、ユダヤ教で言われているのである。確かに、イエスの到来は、この世を神の平安に満たすため、神の愛で支配するということが成し遂げられた出来事である。
また違う視点で、この個所を理解してみる。1節の「系図」という言葉は、元のギリシア語では「ゲネシス」である。実は、ゲネシスを「系図」という意味で用いることには、議論がある。私が持っている2冊のギリシア語辞典でも「系図」とは記されていない。ゲネシスの意味は「発生、誕生、起源」などである。ギリシア語で「ビブロス ゲネシス」、「ゲネシスの書」。これを「系図」と訳しているのである。ただ、それでは「ビブロス」が訳されているのか曖昧であるともいえる。2~17節に系図が記されているので「系図」と訳すと、話が通じる。問題は「ゲネシス」に系図という意味があるのか、そして、1節「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」は2~17節の表題なのかということである。
ゲネシスは、旧約聖書の「創世記」であり、天地創造を意味する。マタイによる福音書1章1節の「ゲネシス」という言葉は、創世記2章4節の「天地創造」を暗示していると考えられる。つまり、このゲネシスという言葉から、旧約聖書創世記においてこの世の始まりが記され、今、イエス・キリストにおいて神が新しいことを再び開始されたのだということを意味していると読み取ることができるのである。新しいこととは、それは何か。神は、ユダヤの民だけではなく、この世にあるすべての者を救ってくださるため、神の御子をこの世に遣わされ、神の愛をこの世に示し、全ての人と救いの契約を交わしてくださる。つまり、新たなる創造、始まりのときが意味さている。神が天地を創造されたように新たな神の救いの業が始まったということを意味すると理解できるのである。
ダビデの子孫である救い主イエスは、神の国の到来を語った。それは神の国の出来事をイエスがこの世に現わしたということ、神の国の光をこの世に照らし出したのである。そして、アブラハムと神が契約を交わしユダヤ人に継承されたように、イエスを通して神と人間との新たな契約が開始される。そのことが意味されているのである。では、新たなる救いの業は、どのようにして生じたのであろうか。
罪ある人間の歴史に、真の人間として、神の子イエス・キリストはこの世に遣われた。そして、イエスこそ神の愛をこの世に現し、何より十字架によって人間の罪、重荷を負うことによって人間と神との関係を和解させてくださった。人間は、神と正しい関係を持つことができたことにより、正しい歩みへと招かれたということである。もちろん、それはユダヤ人だけにとどまらず、全ての人が招かれているのである。つまり、唯一の神は全ての人と共に新たな契約を結び、新たに歩む道を示してくださったのである。
そのように見ていくと、マタイによる福音書1章1節「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という聖句は、これから神の独子として行うイエスの救いの業を暗示しているといっても過言ではない。そこで、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」は、「イエス・キリストのゲネシス」というマタイによる福音書全体の表題として理解できるのである。だからこそ、そこから始まる喜ばしき知らせ、それがこの聖句から知ることができるのである。この聖句は「イエス・キリスト、またその誕生によって、全世界的歴史の新しい時代が始まる」ということを意味する。私たちも、新しい一年を今日から歩み始めた。イエスと共に新しい年を共に歩みたいと思う。神は新しい年の歩みを祝してくださるのである。
祈祷 天地を創造され、愛をもってお導きくださる神様 本日は、元日礼拝です。昨年、お導きくださり、年の初めの日に讃美の時を持つことができますことを、心より感謝いたします。昨年は、一人一人、それぞれの場にあって様々な出来事がありました。あなたは、喜ぶものと共に喜び、悲しむものと共に悲しんでくださる方です。どうか、この新しい年も共にあってお導きください。御子イエス・キリストは、私たちの罪、重荷を共に負い、共に歩んでくださるため、この世に遣わされました。それは、罪あるこの世、私たちのただなかに来られ、そして新たなる救いを私たちにお与えくださるためです。私たちは、イエス・キリストによって無条件に愛されています。心より感謝いたします。イエス・キリストによって始まった新たなる救いを信じ、喜びを持って歩みたいと思います。そして、この大いなる喜びを多くの人と分かち合いたいと思います。そのためわたしたちの信仰をお強めください。未だに争いが絶えません。御子は、神と人、人と人を和解させるためにこの世に遣わされました。どうか国同士の和解がありますように。戦争では勝ち負けどちらにしても、被害、悲しみ、憎しみが残ります。争うことではなく、その民がその民らしく歩むことができますよう指導者をお導きください。平和な世となりますように。新型コロナウイルス感染拡が収束しますように。寒い日が続きます。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。神の名を用い、また、自分をメシアだと述べて洗脳することは、神の求めていることではありません。被害の中にある方をお救い下さい。そのため働かれている方々をお支えください。先週は御子の誕生を祝うことができました。感謝いたします。どうか御子の救いが全ての人にありますように。1月は年の初め、忙しくなります。また、受験シーズンになります。一人一人の歩みを支え、お導きください。今年は大雪となっています。どうかその場にあってお守りください。この礼拝を通して一週間、一年の罪を赦し、今日から始まりました一週間、一年の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
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聖書:新共同訳聖書「マタイによる福音書 2章1~12節」
聖書朗読
02:01イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 02:02言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 02:03これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 02:04王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 02:05彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 02:06『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 02:07そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 02:08そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 02:09彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 02:10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 02:11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 02:12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「この世的思いからの解放」
マタイによる福音書2章1節以下は、三人の博士が救い主の誕生を星で知り、会いに行くという物語である。本来この箇所は、三人の博士を中心にお話しすべきであろう。しかし今日は、もう一人の登場人物に目を向けたい。その人物とは、ヘロデ王である。
王といっても、当時ユダヤはローマに支配されていた。ローマの支配下にありながらユダヤの王として存在していた。実際、ヘロデ王の死後、三人の息子が跡を継いだ。しかしヘロデの三人の息子は、三分割した領土の領主という形式になった。もちろん、ヘロデ王の息子たちは「王」という名称を欲していたが、ローマはそれを許さなかったのである。
さて、ヘロデ王とはどのような人物だったのか。ヘロデは、イドマヤ人でユダヤ人ではなかった。イドマヤ人とは、ヤコブの兄エサウの家系であるエドム人の子孫である。ユダヤ人は、ヤコブの息子12人を家系とする民族であると旧約聖書にしるされている。イドマヤ人は、祭司、王の家系でもない。ユダヤは紀元前586年バビロンに負けた後、他国の支配下にあった。しかし紀元前142年からローマに支配される紀元前63年までのわずかな期間、ハスモン王朝ユダヤ王国として存在した。ヘロデは、そのハスモンの下にある有力な兵士だった。ヘロデの父、アンティパストがハスモン家の内紛に乗じて力をつけ実質的な権力者になった。紀元前40年、その息子ヘロデは親ローマ派として自らローマに赴き、政務官アントニウスに取り入って元老院からユダヤ王の地位を与えられた。その後、紀元前37年にハスモン家を滅ぼし、名実ともにヘロデはユダヤの王になった。ヘロデは、策略家で手柄をなし、ローマとも良い関係を持つことによって王にのしあがった人物だったのである。繁栄期には、エルサレムに劇場を建てるなど建築も行った。そのもっとも有名なのがエルサレム神殿の改修である。その荘厳さは「ヘロデの建物を見たことがないものは誰でも、決して美しいものを見たとは言えない」ということわざが生まれたほどだった。
では、信仰的にはどうだったのか。エルサレム神殿を改修した。王だからといって神殿に無理強いすることはなかった。つまり、神に対してわきまえることはあった。そのような意味では、神を信じる者であったといえるであろう。一方、ヘロデには10人の妻がいた。政略結婚もあった。ヘロデは自分の地位を守るためなら王妃だけではなく、自分の息子二人も殺した。ヘロデは、そのような意味では、残虐な者であったといえるであろう。それはマタイによる福音書の2章1節以下、占星術の学者たちが救い主に会いにきた出来事からも分かる。ヘロデは、生まれた救い主を拝みに行くから、分かったら知らせてくれと学者に述べた。しかし拝もうなど思ってもいなかった。救い主を殺そうと思っていたからである。だから12節、学者たちに「ヘロデの所へ帰るな」と夢でお告げがあった。16節以下には、ヘロデはベツレヘムで救い主が生まれたと分かると、生まれた赤ちゃんを殺したとある。つまり、自分の地位を脅かす存在を殺してしまう残虐な者だったのである。
では、ヘロデは救い主、メシアをどのように思っていたのであろうか。最近読んだ本に興味深いことが記されていた。ヘロデは王の家系ではなかった。そこで自分が王としてユダヤ支配を正当化するため、自分をメシア、救い主として認めさせようとしたというのである。だから、新たにベツレヘムで生まれた幼児は排除すべき危険なライバルでしかなかった。そこで自分の地位を守るため救い主を殺そうと、ベツレヘムの赤ちゃんを虐殺した。ヘロデにとってメシア、救い主は政治的なものだったのである。一方、イエスはこの世的王ではなかった。神の愛を示し、人間が人間としていかに歩むべきかを示してくださったのである。決してこの世の王と競合するためではなかった。しかし、ヘロデ王は、真の救い主の誕生によって自分の立場が脅かさせられると勘違いした。
イエスの誕生には牧歌的な、貧しいながらも人の優しさにあふれているというイメージがあるかもしれない。しかし、イエスは、そのような危険の中で生まれた。次のように言えるのではないだろうか。イエスの十字架は人間の罪を映し出す鏡であると。それはよく言われる。実は、イエスの誕生も同様である。
ユダヤの民は、他国に支配されていないユダヤ王国の復興を望んでいた。当時、出エジプトのモーセのような偉大な指導者、そして、ユダヤを最も繁栄させたダビデ王のような救い主を、ユダヤの人々は求めていたのである。確かにヘロデは、ローマからユダヤの王という称号を用いることが認められた。一方、ヘロデは、王としてユダヤ支配を正当化するため、自分をメシアとして認めさせようとした。逆にいうと、ユダヤの民からは認められなかったのであろう。ヘロデは、王でも、祭司の家系でもない、イドマヤ人としての自分に嫌悪感をもっていたかもしれない。だからこそ、自分をメシアであると認めさせようとした。そこで、ヘロデにとって救い主、メシア誕生という知らせは不愉快なものにすぎなかった。いや、それは自分の地位を脅かす者である。と同時に、ダビデ王の家系として生まれる救い主に対して、嫉妬したのかもしれない。
つまり、イエスの十字架は民衆からイエスが支持され、自分たちの立場が脅かされるというユダヤ教権力者たちの利己的な思い、嫉妬によって行われた。同じようにイエスの誕生の出来事にもヘロデの嫉妬によってイエスを殺すため幼児殺害という恐ろしい出来事が行われたといえるであろう。私たちは、イエスの誕生をただ喜ぶのではなく、そこにも人間の欲、嫉妬があったことを見たいと思うのである。イエスの誕生こそ危険な状態の中にあった。それはイエスのこれからの苦難の生涯を暗示する出来事であったともいえるであろう。とはいえ、私たちはただヘロデを悪者とみることができるであろうか。私たちの心にも嫉妬心、悪がある。イエスを死刑にしろと叫んだ民衆、殺そうと企てたユダヤ教権力者とヘロデも同様であり、イエス誕生の出来事も人間の罪ある心を映し出す鏡でもあるといえるであろう。私たちはイエスの誕生をただ喜ぶのではなく自分自身を見つめるときにしたいと思う。
そして神は、人間の嫉妬をも知っていた。すべてをご存じで、この時にイエスを誕生させたのである。逆にいうと神は、人間の欲望、嫉妬をすべて受け入れて、イエスを誕生させたといってよいであろう。人間の弱さをすべて受け入れ、そして、その罪を共に負うため、独子を誕生させたのである。子どもに苦難を負わせる親がいるだろうか。それほどこの世を神が愛してくださっているということが、そこから理解できるのである。誕生する独子に苦難を負わせてまでも、この世に救いをもたらしたいという神の愛があった。人間は、弱く、利己的である。だからこそ、そこに神は独子をお遣わしになった。神は、御子の誕生を通して「あなたたちは、そのままで十分愛されている存在だ。権力などを認められることによって存在価値があるのではなく、今生きているあなたのままで存在する価値がある。私神があなたたちを愛し、必要としている。だから権力を求める、また、嫉妬などすることなどから解放されているのだ」と私たちに語り掛けてくださっているのではなかろうか。ヘロデ王は、権力を求め、救い主と認められ王という立場を正当化しようとした。現在でも、自分をメシアであると述べる人がいる。その背後には利己的な思いがあるように思えてならない。神は、人間の欲望、嫉妬を理解したからこそ、独子をこの世にお遣わしになり、そのような人間の思いから解放してくださっているのである。苦難を負うことを知っていながら、独子をこの世にお遣わしになった。それはただ私たち一人一人を愛してくださっているからである。その神の愛をクリスマスの時、確信したいと思う。
祈祷 この世を救うため御子をお遣わしになられた憐れみ深い神さま 本日は、クリスマス礼拝、御子の誕生の喜びに私たちをこの御堂にお招きくださりありがとうございます。また、今年最後の礼拝になります。これまでのお導きを感謝し、御業を讃美いたします。御子イエスの誕生の喜びを多くの人と分かち合うことができますように。御子誕生の恵みを全ての人にお注ぎください。そして、聖霊を通して全ての人と心を合わせ共に御子の誕生を祝うことができますように。ヘロデ王はメシアと認められることによって王という立場が正当化したいと考えました。しかしメシア、救い主は神の独子イエス以外にいません。人間が自らをメシアと名乗ることは神に背くことであり、利己的な思いしかありません。真の救い主はイエスのみであり、イエスは権威を欲せず、仕える者になりました。どうかクリスマスのとき神が私たちの欲望、嫉妬などの思いを、イエスを通して解放してくださったことを確信させてください。私たちは、一人一人ありのまま神によって受けいれられ、愛されている者であることを確信したいと思います。その神の愛を伝えるため御子はこの世に遣わされました。この喜びを多くの人と分かち合うことができますようお導きください。御子は「平和の君」として誕生しました。どうか争いのない世としてください。しかし争いが未だに行われています。この寒さの中インフラを攻撃することは市民の命を奪うことです。御子こそ一人一人の命の大切さを教えてくださるためこの世に遣わされました。どうか互いの命を尊重し、手を結ぶ世としてください。争いでは何も解決できないことを特に指導者に分からせてください。新型コロナウイルス感染拡大が収束しますように。寒い日が続きます。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。寒波が襲い大雪となり日本海側では命の危険さえあります。お守りください。神の名を用い、不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。年末、年始忙しくなります。また、受験シーズンになります。一人一人の歩みを支え、お導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。 この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「マタイによる福音書 1章18~25節」
聖書朗読
01:18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 01:19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 01:20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 01:21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 01:22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 01:23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 01:24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 01:25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「父の愛」
カトリック教会には、イエスの母マリアは聖母として崇められマリア像が飾られている。一般的にも、イエスの母マリアは有名である。では、イエスの父ヨセフはどうであろうか。ヨセフは、その名さえもあまり知られていないと思う。
ヨセフは、マリアと婚約していた。きっと結婚する日を二人とも待ち望んでいたことであろう。そのような喜びの中にあるとき、マリアの妊娠がわかったのである。しかし、ヨセフには身に覚えがなかった。マタイによる福音書1章18節には「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とある。ヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもったことを、まだこのとき知らなかったと考えられる。だから19節にあるように、ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のである。姦淫した者は、石打ちの刑に処せられるとユダヤ教の掟、律法に記されている。マリアもヨセフもユダヤ人だから、ヨセフは身に覚えのない子を宿したマリアを公の場に出して罰することができた。しかし、ヨセフは、そのようなことはしなかったのである。19節は、次のようにも訳せよう。「マリアを公にはずかしめることを望まなかった」と。あるいは「公のさらし者にするのを望まなかった」と。そこにヨセフの優しさが感じられる。ヨセフは、公にはしない、つまり、マリアとその子の命を守ろうとしたのである。
それから主の天使がヨセフの夢に現れ「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げ知らせた。そして「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、そして、その子をイエスと名付け」たのである。
ヨセフがマリアと、マリアのお腹の子を受け入れたということは、大変なことであった。第一に、自分の血の分けた子どもではないということ。そして、その子どもは神から遣わされる救い主だということである。ユダヤ人は、神から救い主が遣わされると信じていた。その救い主の父になりなさいと、役割が神からヨセフに与えられた。ユダヤ人にとって神は、畏れ敬う存在である。神から遣わされる救い主の父になるとは、畏れ多いことであると、ヨセフは思ったであろう。
さて、天使は、お告げの中で「その子をイエスと名付けなさい」と述べた。それには次のような意味がある。神が遣わされる救い主は、ユダヤを繁栄させた王ダビデの家系から出ると、旧約聖書で預言されていた。ユダヤの人々は、この預言を信じていた。ヨセフはダビデの子孫であり、ヨセフがイエスの父となったら、預言の通りイエスはダビデの子孫から出る救い主となる。しかし実際に、イエスは聖霊によって身ごもったので、ダビデの血を受け継いでいない。そこで、ダビデの子孫であるヨセフが子どもにイエスと名付けることによって、ヨセフがイエスを子どもとして受け入れたという証しとなる。そのことによって、イエスはヨセフの子、ダビデの家系の子であると承認される。わたしはそのように思うのである。ヨセフに名を付けさせることにより、イエスに対して愛と責任を持つことができるように、神が導いている。実際、ヨセフ自身もイエスと名付けたことにより責任を自覚し、イエスの真の父となったであろう。それは、大いなる決断であったはずである。その決断の背後に何があったのであろうか。
ヨセフは、神から救い主の父としての役割を与えられた。つまり、神から特別な役割が与えられたのである。通常なら、そこで救い主の父という権力、特別な地位を求めてしまう。また、自分を誇ってもおかしくない。ヨセフは、どうだったのであろうか。ヨセフは自分を誇ることも、権力も求めなかった。ヨセフが有名ではないこと、ヨセフの無名性は、権力からの解放性でもある。救い主の父であるから、神から特別な役割を与えられたから自分は特別な存在だなどとはヨセフは考えることもなく、ただ、マリアとその子を守ろうとした。
イエスの誕生の出来事には、権力、欲からも解放されている人がいた。その人こそ、ただ受け入れるという形でイエスを守り、イエスを最初に愛した普通の人間、ヨセフであった。婚約者が自分を裏切ったと思ったかもしれない。しかし、先ほども述べたように、ヨセフは、「マリアを公にはずかしめることを望」まなかった。マリアを告発すれば裁くことができた。しかし、マリアを守った。それだけではなく、天使のお告げの通り、ヨセフは血のつながっていない子どもを受け入れた。そして、まだ生まれていないおなかの中のイエス。それは、何もできない最も弱い存在であった。その弱い存在のイエスを、ヨセフは守ったのである。クリスマスの物語は、弱い存在に愛を持って寄り添った人間の物語でもある。弱い存在を守る愛こそ神の愛であり、イエス・キリストがこの世に現したことなのである。ヨセフの行為には神の愛が現われている。イエスは神のことを、「アッバ」すなわち「お父ちゃん」と呼んだ。わたしは、ヨセフとイエスの関係をそこに見ることができると思う。ヨセフが、父としてイエスを愛した。良い関係だったからこそ、イエスは天の父である神をアッバ、おとうちゃんと呼んだのではないかと思うのである。そこに、わたしたちの希望があるように思えてならない。人間は、弱い存在であるにもかかわらず、今ここに生まれる命をこよなく愛することができる。そして、神から救い主の父となるという特別な役割を与えられたのにもかかわらず、権力も何も欲しない。
ヨセフが無条件にその出来事を受け入れることができたのは、神を信じる信仰を持っていたからといえるかもしれない。確かに、ヨセフは信仰の人だったであろう。しかし、ヨセフは特別な人ではなく、われわれと同じ普通の人間だったのである。普通の人間が、権力を求めず、弱い存在を愛し、無条件にすべてを受け入れることができるという希望が、そこにはあった。イエスの誕生は、わたしたちに希望を与えてくれる。人間は、ヨセフのような愛を持つことができる。神は、ヨセフという人を通して、人間の持っている愛の可能性を示さしたのだと思う。愛なる神によって創られた人間は、神の愛を心に抱いているのだと。クリスマスの物語には、神に愛されている故に、人間も神の愛を持つことができるという希望が示されている。次のようにもいえるでしょう。クリスマス、罪人を受け入れてくださる無条件の神、イエスの愛がヨセフを通して示されている。私たちも神に愛されていることを確信したいと思う。その確信こそ、私たちに希望を与えてくれるのである。
祈祷 慈しみ深い神さま 御子イエス・キリストの誕生には、普通の人間ヨセフの愛が示されています。ヨセフは、権力も欲せず、ただ無条件にマリア、その子を受け入れました。ここに人間の希望があります。わたしたちは、神から愛され、また、愛を注がれています。人間は愛を持つことができるという希望が、クリスマスに示されていると信じます。また、ここに無条件にわたしたちを受け入れ、愛してくださる神の御心が示されています。私たちが、あなたの愛を持って、互いに愛し合うことができますようお導きください。この礼拝を通して全ての人に聖霊を注ぎ、御子と共に新たに誕生し、その人がその人らしく日々歩むことができますようお導きください。
聖書:新共同訳聖書「マタイによる福音書 1章1~17節」
聖書朗読
01:01アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 01:02アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、 01:03ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、 01:04アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、 01:05サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、 01:06エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、 01:07ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、 01:08アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、 01:09ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、 01:10ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、 01:11ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。 01:12バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、 01:13ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、 01:14アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、 01:15エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、 01:16ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。 01:17こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「栄光に満ちている命」
「栄光」とはどのような意味かと問われたら、何と答えるであろうか。ある日本語の辞書には「輝かしい誉、大きな名誉」と書かれていた。では「神の栄光」とは、どうか。一言でいうのは大変難しい言葉である。あえて私なりにいうと、「この世を創り、導きくださる偉大な力と、人間には計り知れない愛によって光り輝く働きをなす神の存在」となろうか。栄光の「栄」の漢字の成り立ちは、闇を照らすかがり火が明るく燃えさかる様子である。神、独子イエスこそ、混とん、罪深い闇の世に光を灯してくださる方といえるのかもしれない。
マタイによる福音書の1章1節以下は、新約聖書の最初である。系図で名前ばかり記されているので、聖書を読むことに最初から挫折してしまう個所ともいえる。系図というからには、名門、権威ある家系、血筋を証明する書類であると思う。では、イエスこそ権威ある家系の出であるということを、ここで示しているのであろうか。系図には両親の名が記されているのが普通であると思う。しかしこの系図には、父親の名前は記されているが母親の名前が記されているのは4名のみである。いや、4名のうちの一人はその女性の名前ではなく、前の夫の名が記されている。この系図にイエスの救いが暗示されていると私は考える。
どうしてそうなのか。2節、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを」とあり、3節「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とある。3節にやっと父親だけではなく「タマルによって」と母親の名前が記されている。このタマルという女性は、最初ユダではなくユダの息子と結婚した。しかし若くして死別し、その後、タマルは娼婦になりすまして義理の父であるユダの床に入り、身ごもった。そのような行動をしたのには理由があった。大胆な女性である。5節「サルモンはラハブによってボアズを」。ラハブという女性は、エリコという街の遊女、すなわち娼婦だった。この記述のすぐ後に、「ボアズはルツによってオベドを」とある。ルツは、旧約聖書において信仰的、そして、義理の母を愛する敬虔な女性として出てくる。若くして夫を失うが、ルツは故郷に帰らず義理の母ナオミと共に住み、ナオミの信じる唯一の神に従ったのである。義母に従うルツは、ナオミの言いつけどおり、酔っている親戚のボアズの床に入った。大胆である。しかしボアズは正しい人で、その時はルツを受け入れなかったが、その後二人は結婚した。
6節後半「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とある。そに女性の名前は記されていない。「ウリヤの妻」という。どうしてそうなのか。ダビデは、イスラエル12部族を統一し、文武両道、しかも、信仰にもあつい王であり、イスラエルの勢力を拡大し、繁栄させた。しかし神に従う王ダビデも、罪を犯したことがある。ダビデが屋上からあたりを見ていると、美しい女性が水浴びをしていた。ダビデは、女性を呼び寄せ、床を共にしたのである。その女性は、ダビデの従順な家来ウリヤの妻バト・シェバでした。バト・シェバはダビデの子を妊娠した。そこでダビデは、戦場にいるウリヤに戦場から帰らせ、妻バト・シェバと夜を共にさせようとした。しかし、まじめなウリヤは戦地にいる家来のことを思い、妻の元に行かなかった。そこで、ダビデは、ウリヤを争いの最前線に行かせ、戦死するように仕向けた。そして、ダビデは、ウリヤの妻バト・シェバと結婚することになった。妻バト・シェバの名が記されていないのは、そのようなひどい話を暗示していると考えられる。
さて、系図に記されている女性4人を見ると、娼婦になりすましたとか、娼婦であったとか、姦淫を犯したといった出来事が背後にある。それは、神の教え、律法から見れば罪である。ただ、罪を犯した者は、この女性たちやダビデだけではなかった。ダビデの子ソロモン王には多くの王妃がいた。それは王としての政略結婚である。ソロモンは、イスラエルではない他国の王の娘と結婚した。そこで、王妃の中には唯一の神ではなく、他国の神を信じる者もいた。王妃の信じる他国の神を崇拝するという罪を、王ソロモンは犯していたのである。
完全な人間などはいない。敬虔なダビデ、英知を極めたソロンでさえ罪を犯した。人間は弱く、神に背いてしまう可能性を持っている。つまり、人間は弱い存在である。この系図から、神に背く人間の弱さを見ることができる。つまり、イエスこそ真の人間として人間の系図のなかに生まれてきた。私たち弱い人間のただなかに入ってきてくださったということを、意味しているのである。
また、先ほどあげた4名の女性は、イスラエル人ではなく異邦人であった。唯一の神を信じるイスラエル人は、イスラエル民族が救われると信じていた。しかし、旧約聖書で敬虔な女性として知られているルツは、イスラエルの民ではなく異邦人だった。また、イスラエルの民は、エジプトを脱出し、40年荒れ野を旅し、やっと神が与えてくださる約束の地に着いた。しかし、その土地には他の民が住んでいた。約束の地の目前で指導者モーセが天に召された後、指導者となったヨシュアが約束の地エリコに偵察に行ったとき、街で危険に遭遇した。そこで彼を助けたのは、エリコに住む異邦人ラハブだった。それだけではなく、ラハブはイスラエルがエリコを占領できるように手伝った。そのことにより、出エジプトで旅をしていたイスラエルの民は、定住地、神の約束の地を得たのである。他の二人の女性も、イスラエルの民ではなかった。異邦人の女性が系図に記されていることに、イエスの系図の意味、救いの方向性が示されている。つまり、イエス・キリストがこの世に遣わされたのは、イスラエルの民だけを救うのではなく、その系図にタマル、ラハブ、ルツ、バト・シェバの名があるように、異邦人、つまり、すべての民を救うということが示されていると受け取ることができるのである。
そのようにしてこの系図を見ると、旧約聖書のことを把握していなければ理解することが難しいように思える。確かにそうかもしれない。神から遣わされる救い主は、旧約聖書の時代から預言され、また、待ち望まれていた。そして、約2000年前、旧約聖書でイスラエルの民を導いた唯一の神は、すべての人を救うために、独子を人間としてこの世に遣わしたのである。旧約聖書に預言されていた救い主として、イエスはこの世に遣わされた。預言が成就したのである。それは、旧約聖書で約束されていた救いがこの世に現れる、それと同時に旧約聖書でイスラエルと神が交した救いの契約を、すべての人が新たに交わすためであったということである。
人間は弱い者にしかすぎない。だからこそ、人間としてイエスは誕生したのである。肉をまとい人間の弱さのただなかにこそ、神は共にいてくださったのである。そのことを知るためにこの系図はあるといってよいのではなかろうか。人間とは罪深い者である。イエスは人間としてこの世に遣わされた。神は、独り子が罪深い人間になることを、栄光に満ちたことであると考えたのである。また、イエスは、マタイによる福音書の21章31節で「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と述べている。ラハブは娼婦だった。家族と共にいたとあるので、娼婦ではなかったという考えもある。一方で、それはあくまでも私の推測にしかすぎないが、ラハブが一家を養うため娼婦にならざるを得ない事情があったのかもしれない。イエスこそ、そのようなラハブを包み、苦難を共に負ってくださった。それがイエスの誕生の意味である。
現在も、悲しいくらい人間の弱さ、罪が多く見出される。未だに争いは終わらない。神の名を用い利己的に富を搾取する等々、様々なことがある。また、悲しみの中に多くの人々がおられる。しかし、神はこの世を見捨てずに御子をこの世に遣わしてくださった。そこに大きな意味がある。イエスを通して神は、弱い人間のただ中にこそ栄光を現わした。イエスが罪深い人間になることを、栄光に満ちたことであるとされた。そこに、人間に生きる力を与えて下さる神の愛がある。独り子イエスをお遣わしになられた神の愛を確信し、応答する者になりたいと思う。
祈祷 この世を救うため御子をお遣わしになられた憐れみ深い神さま 今アドベントの時を過ごしています。御子の誕生を待ち望むとは、今も神の栄光、救いが現れていることを確信することです。神は、ただ人間を救いため、また、無条件に愛してくださることを教えてくださるために独子をこの世に遣わしました。この愛を多くの人と分かち合うことができますようお導きください。人間は弱く、罪深い存在です。神は、この罪深い世に独子をお遣わしになられました。御子は罪深い人間になることを栄光に満ちたことであるとされたのです。それは、人間の罪、苦難を共に負い、全てを受け入れて下さり、私たちの存在を良しとしてくださる神の愛を示す業です。私たちが神の愛を確信し、多くの人と分かち合うことができますようお導きください。人と人とが争うために神はこの世を創られたのではありません。すべてのものが手を結び、愛し合いながら歩むためこの世を創られました。どのようなことがあろうとも命を奪う正しい理由などありません。どうかそれぞれの立場を分かち合い、受け入れ合うことができますように。特に指導者をお導きください。新型コロナウイルス感染拡が収束しますように。寒い日が続きます。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。神の名を用い、不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。まそのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。12月、忙しい季節です。また、受験シーズンになります。一人一人の歩みを支え、お導きください。今週の土曜日はクリスマスイブ礼拝、次週の主日礼拝はクリスマスになります。御子の誕生を多くの人と祝うことができますように。そのため体調を整えてください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネの手紙(1) 3章 19~24節」
聖書朗読
03:19これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、 03:20心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。 03:21愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、 03:22神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。 03:23その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。 03:24神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神が共にいてくださる」
水曜日の祈祷会では多くの質問、ご意見をいただき、とても勉強になっている。楽しい時間にもなっている。私が伝道師になりたての時に牧会していた教会の祈祷会では、多くの意見が活発に出された。1節しか進まないということもあった。そこでよく出た議論に、「ヒットラーは赦されるのか」というものがあった。私は「神の愛は人間には、はかることはできません。神はきっと全ての人を赦してくださるでしょう。ただ神様の思いのままに、としか言えません」と言った。すると、「いや、ヒットラーが赦されるはずはない」という。皆さんは、どう思われるであろうか。また、よく次のような質問をいただく。「自分にいやなことをする相手がいる。しかし、キリスト者としてその人をも許さないといけないと思う。しかし、できない。どうすればいいのか。」と。私は「人間は弱い存在で許すことのできない人がいても、仕方がないと思います。許さなければならないと葛藤している時点で、素晴らしいと思います。そこで、許すことのできない自分を赦してくださいと神様に祈るのはどうでしょうか。また、その人と会う時は無視するのではなく、挨拶をすればよいのではないでしょうか。話す必要はないと思います。そのうちに神が何かしてくださるでしょう。」と答える。皆さんは、どう思われるだろうか。
新約聖書に、ヨハネと名前の付く文書は5つある。ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙1、2、3、ヨハネの黙示録である。それらは関係があるのか。ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、一定の地域にある複数の個別の教会宛であり、手紙の執筆者はその諸教会を束ねる精神的な指導者であったと考えられる。そこで、いくつか考えられる。その手紙の著者、三通の手紙の執筆は同一者だが、福音書とは別という理解。または、第二、第三の手紙は同一の執筆者、第一の手紙と福音書はそれぞれ別の執筆者。それら二つのどちらかが妥当だと考えられている。
ヨハネの手紙一が記されたのは紀元110年頃と考えらえている。その手紙は、教会内部から現れた異端説が間違いであることを教え、信徒をその影響力から守るために記された。そこで、教会で重要なこととはいかなることであろうか。神、神の独子イエスを信頼すること、互いに愛し合うことではないだろうか。真の神の教えとは異なる考えが出ないためであり、内部分裂こそ危険であると思うからであ。
本日の箇所、ヨハネの手紙一の3章19節以下に心を傾けたいと思う。19節最初の「これによって」とは、前の文を指している。それはイエスが私たちのために命を犠牲にして罪をお赦しくださったこと、無条件に私たちを愛してくださっていることと言えるであろう。では、「真理に属する」とはいかなることであろうか。「真理」とは神であり、私たち人間は神に属する。神を信じる者は、神の支配のもとにある存在であるということである。神の支配といっても、神は偉大で、人間に自由は確保されている。19節後半「安心できます」は意訳である。直訳では「説得する」である。「自分自身の心を説得する」という意味であるといえよう。転じて「安心できます」としているのである。
「説得する」と理解すると、20節の「心に責められることがあろうとも」という言葉が理解しやすいように思う。その箇所に該当する当時のギリシャ語は、語順を変えて訳すことができる。私が納得できたのは「心が我々を告発する、責める」という訳だった。神を信じる者、キリスト者はとても真面目である。キリスト者として神、イエスの愛に倣い生きなければいけないと思っているからである。
だから、人を許さなければならないと考える。神は厳しい方であると、私は思っている。というのは、神は人間を導かれている。そして最も正しい規範として、独子イエスをこの世に遣わした。そこで、私たちはイエスを規範にして何を行うべきか自ら考え、決めなければならない。私たち人間は「これを行いなさい」などと明確な指示があったほうが、楽に生きることができる。しかし神は、人間に考えることをさせ、決断をさせている。神は人間に自由を与えてくださったからである。そこに厳しさがあると、私は思っている。自分で決断するため、私たちは自分の歩み、行いが正しいのか不安になることがあるのではなかろうか。そこで、私たちは真理、つまり神に属し正しく歩んでいると確認し、自分自身を説得させるのではないだろうか。そして、もし失敗したときには、心が私たちを告発し、責める。
では、人間がイエスを規範として決断し、行ったことが間違えであるとき、神は人間を裁くのであろうか。実は、私たちは自分を裁くことから解放されている。裁くことができるのは、神のみだからである。一方、それだけではないと思う。20節の後半には、次のように記されている。「神は、私たちの心よりも大きく、全てをご存じだからです」と。その言葉はとても力強い。そこにこそ、神の憐みが示されているからである。つまり、神は大きな心で全てを受け入れてくださっている。しかも、全てをご存じである。そこに私たちが自分を責めることから解放されているということが意味されていると理解したいのである。イエスを規範として歩んだけれども、失敗したときこそそうなのである。また、神、イエスの教えのとおり相手を許さなければいけないと思っているが、どうしても許すことができない。そういう葛藤が私たちの心にある。神は、私たちの心の葛藤を全て知ってくださっている。心で葛藤をしている弱い人間を、受け入れてくださっている憐れみ深い神がおられる。そこで、私たちは自分を責めることから解放されているのである。但し、私たちが神の教えを知っているということが前提である。22節の「願うことは何でもかなえられます」とは、神の掟、教えに適したことを願うということである。
では、神の教えとは何か。23節に記されている。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」と。神の独子イエスを信じること、互いに愛し合うこと、この神の教えを知っていれば、私たちは自分を責めることから解放されている。いや、それだけではなく、私たちの内に神がとどまってくださっているというのである。神が、私たちのうちに留まってくださっているからこそ、私たちは自分の行い、思いが、神の教えに適っているのかを考え、神に支えられながら歩むことができるのである。神の願いと神を信じる私たちの願いが一つになるともいえるであろう。
神は、厳しいと同時に、憐れみ深い。イエスを通して神が次のように言ってくださっていると私は信じている。「あなたはあなたが正しいと思うことを行いなさい。もし、それが失敗したのならば、私の所に来て休みなさい。わたしはいつもあなたと共にいる」と。だから、私たちはまた前に進むことができるのではないだろうか。イエスを通して私たちは神の愛を知り、赦され、また、神に直接祈ることができるようになった。そして、何より神を信じること、互いに愛し合いなさいとの、最も大切な教え、掟を私たちに教えてくださった。そして、その教えをこの世で実践してくださった方こそ、神の独子イエス・キリストである。そこで、イエスに倣い生きることができる。
イエスを通して、神は私たちの内にいてくださる。神が共に歩んでくださるからこそ、私たちは正しい歩みをなすことができる。また、私たちは自分を責めることをしなくていいのである神、独子イエスがすべてを知り、受け入れてくださっているからである。その前提こそが、イエスの十字架の出来事であった。十字架を通して私たちの重荷を、今もなおイエスは負ってくださっている。そのイエス、神の大いなる愛を私たちは知っているからこそ、互いに愛し合うことができるのではないだろうか。今、神の独り子の誕生を待ち望むアドベントの時を過ごしている。イエス、神はいつも共にいて下さり、私たちを大いなる愛で包んでくださっているのである。イエスが教えてくださった神の愛を確信したいと思う。
祈祷 この世を救うため御子をお遣わしになられた憐れみ深い神さま 今アドベントの時を過ごしています。御子の誕生は、全ての人に神の救いが開かれた出来事です。どうかこの時、御子がこの世に示して下さった神の愛を、多くの人と分かち合うことができますように。あなたは、厳しい方であると同時に、それ以上に憐み深い方です。御子イエス・キリストを通して人間と共にあり、神は人間を理解し、ありのままを受け入れ、私自身を裁くことから解放してくださいました。この出来事こそ、御子の誕生を通して与えられました。この喜びを多くの人と分かち合うことができますよう、信仰を強めてください。そして、私たちがあなたから与えられた大いなる愛を確信し、互いに愛し合うことができますよう強め、お導きください。争いは人間の欲でしかありません。インフラを攻撃することは市民を苦しめ、死に至らしめることになります。イエスは弱い者の立場に立ち、弱い者と共に歩まれました。どうか人間の指導者が強さを誇るのではなく最も弱い者の立場に立ち歩むことができますように。互いを受け入れ合い、手を結ぶ世としてください。新型コロナウイルス感染の拡大が収束しますように。寒い日が続きます。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。神の名を用い、不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。新しい命、子どもたちを祝し、お導きください。新しい歩みをはじめられた方々の上に祝福がありますように。天に召された方の上に平安、地で悲しみの中にある方にあなたの慰めがありますように。12月、忙しい季節です。また、受験シーズンになります。一人一人の歩みを支え、お導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ダニエル書 7章 13~14節」
聖書朗読
07:13夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 07:14権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「人の子」
旧約聖書ダニエル書は、黙示文学と言われていいる。黙示とは、隠されていたものが明らかになること、神の救いが明らかにされることである。ダニエル書が記されたのは、紀元前2世紀であると考えられる。その時代、ユダヤはシリアに支配されていた。シリア王アンティオコス四世は、ユダヤに対し徹底的に宗教弾圧をした。また、自分をエピファネス、すなわち現人神と呼んだ。ユダヤの民にとって苦しい時代だったのである。そこでダニエル書は、苦難の中でも神は見捨てることないと苦しむ人々を励まし、また復活の希望を与えるため書かれた。
ダニエル書は、前半と後半に分けられる。前半、6章まではダニエルの物語である。後半、7章以下には、ダニエルが見た幻とその意味が記されている。その後半が黙示文学である。
まず7章1節以下、ダニエルは四頭の獣が現れた幻を見たとある。この四頭とは、これまでユダヤの民に敵対した帝国、王を意味している。一方、「日の老いたる者」は、獣を殺し、また、権力を奪った。「日の老いたる者」とは神である。神が、ユダヤの民に迫害する者たちを滅ぼす、裁くというのである。
そして、13、14節、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、権威、威光、王権を受けたとある。そして諸国、諸族、諸言語の民は皆、「人の子」に仕え、彼の支配は永久に続き、滅びることがないというのである。「人の子」とは何か。人の子は、「日の老いたる者」、神から権威、力を受け、あらゆる国の人々を永遠に支配するという。それがダニエルの見た幻であった。その幻は、預言であり、神から与えられたしるしといえる。
ユダヤ人は、紀元前6世紀にバビロニア帝国に滅ぼされてから、他国の支配下にあった。ユダヤ人は、自分の国を持つことができなかった。また、他の神を信じる国の支配下にあったので、唯一の神、ヤハウェを自由に讃美できない時期があった。そこで、ユダヤ人は、他国の支配から解放してくれる救い主の到来を待望するようになったのである。
では、「人の子」とは誰なのか。新約聖書ヨハネによる福音書5章26、27節に「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」とある。この箇所に「人の子」とあり、神は「人の子」に命を持つようにしてくださり、そして裁きを行う権能をお与えになったと記されている。つまり「人の子」とは、神の独子、救い主イエスのことである。ダニエル書に預言されている「人の子」こそ、神の権能を持ち、この世に遣わされた神の独子イエスであるといえるであろう。ダニエル書に記されている預言が、イエスによって成し遂げられたのである。
しかし、単純にそのようには言えない。というのは、イエスが自分のことを「人の子」と本当に言ったのか。また、ダニエル書で「人の子」は救い主を意味していたのかという疑問がある。実は、ダニエル書における「人の子」は、個人の救い主を意味していない。ダニエル書の「人の子」は個人ではなく、ユダヤ人全体を指していると考えられるからである。つまり、「人の子」であるユダヤ共同体が、神の権威、威光、王権を神から受けると預言されているのである。ダニエル書の「人の子」に救い主、メシアという意味は元来はないと考えられる。しかし、後に「人の子」という言葉はメシア、救い主という意味を持つようになった。イエスこそ救い主であると気付き、信じた者たちによってイエスは「人の子」であるという考えができたのである。そこで現在では、福音書でイエス自らが「人の子」と言ったように記したと考えてられている。
ただ、私はイエスが「人の子」という言葉を用いた可能性はあると考えている。また、福音書でイエスが自らを「人の子」と述べていることには、大きな意味があると思う。そこで、マタイによる福音書9章6節に「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである』」とある。26章64節には「イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。』」とある。
次のような解釈があった。マタイによる福音書において、「人の子」は神から権能を与えられ、世の終わりに至るまで自分に属する者たちの間にいつも存在している。教会の永続性の根拠は「人の子」によるという。とても興味深い解釈である。「人の子」は、神を信じる共同体の中にいて、働いてくださっていることを示していると、私は理解したからである。
イエスはこの世に神の愛、神の救いを現わしてくださった。イエスが神の国の到来を語ったと同時に、神の国で起こっている神の愛の出来事をこの世に現わしてくださったともいえるであろう。旧約聖書では、ユダヤ人が神と契約を交わしたことによって、神はユダヤの民を導いた。一方、イエスによって神との契約が全ての人に与えられた。それが新しい契約である。すべての人が神の救い、神の国に入ることができるためである。そこで、ダニエル書でいう神の権威、威光、王権が与えられる「人の子」という共同体に、私たちをイエスが招いてくださっているといえるのではないだろうか。マタイによる福音書で「人の子」とは、神を信じる共同隊、教会に集う者と共にいて、永遠にお導きくださるという意味があると先ほど述べた。そこでダニエル書に記されている「人の子」は、今、私たち教会に集う共同体のただなかにいるイエスであるということに他ならない。そのように言えるのではないだろうか。
イエスは私たちが「人の子」に属するように、私たちを「人の子」として招いている。マタイによる福音書18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とある。「人の子」イエスこそ、神を信じる共同体の中にいてくださる。神を信じる共同体である教会に、イエスこそ神の権能をもって今もなお、共にいて働きかけてくださっている「人の子」である。そのような意味において、イエスが自らを「人の子」と述べた可能性は十分にある。いや、きっと私たちを神の民の共同体に招くため、自らを「人の子」と述べたのではないかと思うのである。
それだけではない。ダニエル書は、苦難から神が解放し、励ましてくださるために記されたと、最初に述べた。現代も様々な状況で苦しみの中にある人々がいる。イエスは苦しみの中にある全ての人に、生きる力と勇気、励ましを与えてくださっている。そのために働き、十字架にかけられた。また、次のようにも考えたい。私たちイエスを信じる共同体は、イエスに倣い苦難を分かち合い、支え合う共同体である。イエスが共同体のただなかにある「人の子」とは、そのような意味があるのではないだろうか。
今、アドベント、御子イエスの誕生を待ち望むときとなった。なぜ、御子の誕生を待ち望むのか。イエスの誕生は2000年前の出来事である。しかし、そこに留まらず、「人の子」として神を信じる者の只中にいて、今もなお、そして永遠にいて、導いてくださっているということを、私たちが確認するためである。イエスは、今もなお神に属するように、私たちを招いてくださっている。すべての人が苦難から解放され、神の救いに与るためである。私たちも御子イエスの誕生を待ち望むこのとき、多くの人と神の救いを分かち合い、苦難を分かち合い、支え合いたいと思う。そして、多くの人をイエスのもとに招きたいと思う。イエスこそ、二人または三人がイエスの名によって集まるところにいて、励まし、導いてくださる「人の子」なのである。
祈祷 この世を救うため御子をお遣わしになられた憐れみ深い神さま 今、アドベントの時を過ごしています。独子イエスの苦しみは、神ご自身の苦しみです。しかし、それでも神はこの世を愛するゆえ独子を、この世に遣わされました。どうか私たちがこの時を、神の愛を確認する時としてください。御子イエス・キリストは、ご自分を「人の子」と呼びました。ダニエル書には、人の子こそイスラエルであり、迫害から解放され、神の権威が与えられ、永遠の救いに与ることができると記されています。イエスは、全ての人を「人の子」に属することができるようにと、神の救いにお導きくださっています。わたしたちは、人の子であるイエスに属する者となりたいと思います。ここにこそ救い主は生まれるのです。クリスマスに誕生する救い主は、平和の君であると預言されています。イエスこそ神と人、そして人と人とを和解させるために、この世に遣わされました。どうか、この世に争いがなくなりますように。争いを中止する勇気をお与え下さい。互いを受け入れ合い、手を結ぶ世としてください。新型コロナウイルスの感染がまた拡大しています。収束しますように。寒くりました。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。神の名を用い、不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのために悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。新しい命、子どもたちを祝し、お導きください。新しい歩みをはじめられた方々の上に、祝福がありますように。天に召された方の上に平安、地で悲しみの中にある方にあなたの慰めがありますように。12月、忙しい季節です。また、受験シーズンになります。一人一人の歩みを支え、お導きください。 この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間、新しく始まった一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「出エジプト記 23章10~13節」
聖書朗読
23:10あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。 23:11しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。 23:12あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。 23:13わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「どの立場に立つのか」
11月に出版されたカルト二世の実体験が記された「カルトの花嫁」という本を読むと、カルト宗教のことがよく分かる。私には想像もできないような苦難の話が書かれていた。母親がカルト宗教に入信した。母が喜ぶと思い著者であるその女性も同じカルト宗教に入信した。その宗教での合同結婚式で結婚をした。結婚相手は他国の人で、日本永住権を取りたいだけのためにその宗教に入信し結婚をした。彼女はDVを受け、生活費ももらえず、子どもの面倒も見てもらえなかった。それで離婚に至った。二回目の合同結婚式の相手も履歴が嘘だらけ、だった。その相手には、著者のクレジットカードが勝手に使われた。またその相手は、商売を始めたが失敗し、借金を払いきれず、一人逃げてしまった。彼女は子ども二人と路頭に迷ってしまった。しかも他国での出来事である。カルト宗教には「救世主をきちんと信じていないから、サタンに取りつかれ苦難にあっているのだ」と洗脳されていた。母親についても「あなたの信心が悪いから、乗り越えるべき苦難だ」といわれた。彼女は自分を責めた。日本では多額の献金を求められた。神は人間に苦難を合わせるのだろうか。神はそんな意地悪なのであろうか。しかし、苦しみ中で手を差し伸べ助けてくれたのは合同結婚式で二人を組み合わせたカルト宗教ではなく、全くの他人だったという。
申命記7章7~8節には、神がイスラエルの民を選んだのは「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではないと、あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」からだとの神のことばが記されている。しかも神は、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民の叫びを聞き、エジプトから脱出させてくれた。
罪とはいかなることであろうか。キリスト教でもユダヤ教でも、罪とは神に背くことである。愛なる神に背く、愛のない状態といえるであろう。ユダヤ教では、神の教えである律法に反することも罪になる。ユダヤ教指導者や律法学者などによって罪が定められた。大切なのは、たとえ指導者であろうとも自分を絶対化しないことである。絶対であるのは神のみだからである。神に向かう、祈りの姿勢を持つとは、神の意志に反していないか常に確認する姿勢を持つことであり、自分を絶対化しないことだと私は思っている。宗教指導者が自分を絶対化したとき、もっとも危険な状況に陥ると私は思う。カルトなどで、指導者が自分はメシアだと、救い主であると絶対化しているということは、そのこと自体がおかしいということである。
イエスは、マタイによる福音書23章9~12節において「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者である。仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と語っている。イエスこそへりくだり、最も低い者となられた。そのために神と同じ権能を持っていながら肉をもってこの世に遣わされたのである。
イエスの時代のユダヤ教では、病人は罪人であった。本人あるいは、先祖が神に背き罪を犯したから、律法に違反したから病気になったと考えられていた。そこから差別が生まれてしまうのではないだろうか。ヨハネによる福音書で、イエスの弟子が聞いた。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と答えた。
では、神はどのような人たちの立場に立っておられるのか。出エジプト記23章10~12節には「あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」とある。10、11節は、安息年といって、6年用いられた土地は、7年目休ませるという規定であった。休ませることによって土の栄養を蓄えるということであろう。ブドウ畑、オリーブ畑も同様である。本来、土地は神のものであり、神から借りているのであるという考えがあった。一方、土地は、何をしなくても草などが生え、実を結ぶ。大切なことは、乏しい者や野の獣たちが一年休ませている畑のものを自由にとって食べてよかったということである。そこには、土地を一年休ませると共に、乏しい人、野の獣に対する配慮があった。つまりそこには、社会的弱者を守るためにということが記されているのである。野の獣に対しても、神にはこの世を創ったという責任がある。野の獣も人間も、神から見れば同じく神の愛する被造物といえるであろう。また12節は、安息日の規定である。6日働き7日目を休む。その理由について、神が天地創造をされたのが6日間で7日目に休んだからであると他の箇所に記されている。しかし安息日の元来の目的は、全ての人に休みを与えるためなのであった。牛やロバ、そして女奴隷の子や寄留者、つまり、弱い立場のものたちにこそ休みを与え元気を回復させるという意味が安息日にはあったということである。寄留者とは、イスラエルの民ではない者、弱いものの立場に立って記されている。すべてのものが支えあって共に生きられるよう、神は創られたすべてを愛し、導いてくださるということなのである。
律法には、そのほかにも弱いものの立場に立ち記されている箇所がある。律法には、そのように弱者の立場にたつという視点がある。確かに、イエスの時代のユダヤ教では弱い者に施しを与えることは善い事であるという考えがあった。一方で、律法が罪人を規定することになってしまったのである。そこから弱者が作られ、差別ができてしまった。しかも、それを決めるのは人間の宗教指導者なのである。神は、弱いイスラエルだからこそ、それを選んだ。神は手を差し伸べずにはいられなかったのであろう。つまり、弱い者にこそ神の愛が注がれ、神の導きがある。神こそ弱い立場にあるものと共にいるということが律法に記されているといってよいであろ。それが神の意志なのである。
イエスこそ、神の意志を現すためにこの世に遣わされた。弱いもの、神の愛を必要としているものにこそ、神は御手を差し伸べてくださる。律法は、元来、罪人を規定するものではなく、人間が集団としていかに生きるべきかを示すものである。一人ひとりが、その人らしく生きるためであり、互いに支えあうといってもよいと思う。それが、神の愛の元で生きるということなのである。弱いイスラエルを選んだ神の愛を分かち合うといってもよい。イエスこそ、旧約聖書に記されている神の愛を私たちに現わしてくださったのである。
私たち教会に集うものは、神の愛を必要とする弱い存在である。それでいい、強い人間などいないのである。神は、弱い者にこそ愛を注いでくださる。いや、神の前で、強いもの、正しいものなどいない。そして、イエスが、この世に遣わされたのは、神の愛とはいかなるものか教えて下さり、この世にあるすべての者に神の愛を告げ知らせ、神の愛を分かち合うためであった。また、イエスは「弱くていい、弱いからこそ支え合うことができるのだ」と教えてくださっているように思える。だからこそイエスは、神の愛を分かち合うため弱い人間の肉をもってこの世に遣わされた。私たちは、神の独り子の誕生を待ち望むアドベントのとき、弱いものの立場に立ち、神の愛を私たちに分かち合ってくださるためにイエスはこの世に遣わされたということを再確認したいと思う。
祈祷 この世を救うため御子をお遣わしになられた憐れみ深い神さま 本日から御子の誕生を待ち望むアドベントに入りました。あなたがなぜ独り子をこの世にお遣わしになられたのかを考える時としてください。また、多くの人と共に御子の誕生の喜びを分かち合うことができますように。自分を絶対化し、他者とは違うという思いを持つことはとても危険で、特に弱い者こそ、差別され苦しい目にあうことがあります。私たちは、あなたの愛を必要としている者です。あなたの前では誰でも平等です。あなたは、弱い者、支えを必要としている者こそ愛してくださる方であると信じます。誰もがあなたの愛を求めることができる、いや、あなたは求めることを喜んでくださることを信じます。御子をこの世に遣わした出来事こそ、あなたの愛によります。どうか私たちが神の愛を分かち合うことができますようお導きください。寒くなるこの時、インフラを攻撃することは死を意味します。しかも、それは争う者ではなく、一般の民の苦しみです。特に被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。どうか争いを止める勇気を指導者にお与えください。憎しみからは、善い何をも生み出されません。争いを止め、愛し合う世としてください。すべての人が手を結びあうことができますように。新型コロナウイルス感染がまた拡大しています。収束しますように。これから寒さが日に日に増してまいります。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。神の名を用い、不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。新しい命、子どもたちを祝し、お導きください。新しい歩みをはじめられた方々の上に祝福がありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間、今週から始まる一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますよう、お支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 15章 20~34節」
聖書朗読
15:20しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 15:21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 15:22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 15:23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 15:24次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 15:25キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 15:26最後の敵として、死が滅ぼされます。 15:27「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。 15:28すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。 15:29そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。 15:30また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。 15:31兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。 15:32単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。 15:33思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。 15:34正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「復活があるのだから」
イエスはユダヤ人であり、最初ユダヤでイエスの救いが述べ伝えられた。イエスが天に召された後、ユダヤ人以外にもイエスの救いが述べ伝えられた。そこで大きな働きをした人こそがパウロだった。コリントの教会は、パウロの宣教によって設立した。私はトルコに旅行したとき、ローマ支配の力を古代遺跡から知った。パウロが異教の神々のもとでイエスの救いを述べ伝えたことを考えると、私は鳥肌が立った。なぜなら誰も知らない土地で、誰も知らない神の救いを述べ伝えることは、想像もできない勇気と信念が必要であると思ったからである。
人々は復活を信じたであろうか。この手紙を記したのはパウロで、それはイエスが天に召されてから約20年後だったと考えられている。当時は、神の国がすぐに到来すると信じられていた。神の国は神の完全な支配であり、その前に天に召された方々が復活するというのであった。一方、コリントの教会では、聖霊を与えられた自分たちは既に復活しているのだと考える人々が現れた。それらのため教会は混乱した。そこで、パウロは混乱をおさめるためにコリントの教会に手紙を書いた。
ローマの信徒への手紙5章12節に、パウロは記した。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」と。最初の人間アダムは、楽園において、食べてはいけないと神にいわれていた木の実を食べた。そのことから、人間は罪をもって生まれるようになった。それを原罪という。そしてこの楽園追放の出来事を、アダムが罪を犯したために人間に死が与えられたとパウロは理解した。22節には「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになった。死者の復活も一人の人によって来るのです」とある。イエスは、十字架に掛けられて死に三日目に復活した。アダムによってすべての人が死ぬことになったように、逆に、イエスという神の独り子が死から復活したことにより人間も復活するのであるというのである。20節に「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」とある。「初穂」とは、最初に実った穂であり、神への感謝の献げものである。イエスは、人間の罪を帳消しにするため、自分を初穂とし、十字架を通して神に献げた。そして、復活した。そこで「初穂」とは復活を意味のである。
パウロは、既に[自分たちは]復活していると主張している者、またその言葉に惑わされている人々に、復活の順番を語った。最初にキリスト、次に、キリストを信じる者たちが復活し、神の国が到来するのである。キリストは、権威、すなわちこの世的な価値観、人を惑わす思想など、神の愛に対する敵をもご自分の支配下に置き、それを神にお渡しする。しかも、最後の敵として死をも、滅ぼすというのである。死は悪が支配する場であり、死を滅ぼすとは死という恐怖、闇から解放するということである。
コリントの教会の人々を説得するため、パウロは次のように語った。29節「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」と。その箇所は理解が難しい。言葉通りに受け取ると、イエスの救いを知りながら洗礼を受けずに死んだ者は、神の救いに与れないのか、すなわち復活しないのかという不安があったと考えられる。そこで当時、死者の代わりに代理人がこの世において洗礼を受けるということが行われていたと考えられる。死者も代理の洗礼によって神の救いに与ることできる。そこで、代理洗礼を受けた死者はまだ復活していない。何のために代理洗礼を受けたのか。まだ、復活の時ではないのだとパウロは説明した。ただ、パウロは、死者の代理洗礼を喜んで認めていたわけではなかったと理解できる。パウロは、洗礼に魔術的な理解はもっていなかった。代理洗礼については認めてはいたが、勧めもしなかったというところであろうか。また、パウロは、既に復活していると主張しながら、死者の代行洗礼を行っているのは矛盾していないかと指摘したと考えられる。自分の都合のよいように神・イエスを理解していることを、指摘していたといえるであろう。
31、32節に「兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」とある。この言葉を、私は次のように理解したい。「日々死んでいます」と。パウロはイエスの救いを述べ伝えることによって、さまざまな迫害と苦難にあった。使徒言行録によるとパウロは、リストラにおいて石打で殺されそうになり、他にも人々を惑わしていると訴えられ牢獄に入れられた。そのうえ、パウロには身体的問題もあったと考えられる。また「野獣と闘った」とは、現実ではなく「野獣」とは、そのくらい恐ろしい敵がいたことを意味すると理解できる。つまり、パウロにとってイエスの救いを述べ伝えるという働きは、まさしく命がけであったといえる。
そして、34節には「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです」とある。この言葉は厳しい。恥じ入らせると述べることにより、パウロは彼らが自分のことしか考えていないという罪と向かい合うことを勧め、そして神の御心、愛はどうであるかを考えるようにと導いていたのである。パウロの言葉は、厳しかったかもしれない。しかし、神の救いへと導きたいという思いがあったからこそ、パウロは、厳しく述べた。その意味で、愛の導きだったと思うのである。
復活を信じるとは、いかなることであったか。神は、独り子イエスをこの世に遣わした。それは、弱く都合よく利己的になってしまう人間を、ありのまま受け入れてくださり、救いへと導くためであった。多くの人を救いたいという神の愛を知り、パウロは命をかけて神の救いを述べ伝えた。その原動力の一つが復活を信じることだったといえるであろう。パウロは、復活のイエスこそ、この世的な権威、価値観、人々を惑わす考え、死さえも、すべて支配すると言った。これは、この世的な苦難、価値観からの解放を意味する。つまり、復活は希望であるといえよう。わたしたちには、復活という希望をもつことが許されている。復活を信じるということは、将来への希望と同時に、神に応答し、将来に向けて今をいかに生きるかを考えることである。復活こそ、完全な救いである神の国に入ることができる前提の一つである。神の永遠の導きである復活があるからこそ、将来への希望と同時に、神の愛に応答し違いを受け入れ合い、今を大切に誠実に生きることができるのである。現代の私たちは、復活をどのように思っているであろう。しかし、そこにこそ神の愛、イエスの救いがあることを信じたいと思う。つまり、復活という神の国の救いの希望こそ、今を大切に生きる力になるのである。
祈祷 憐れみ深い神さま パウロは、復活、神の国の到来を語りました。それは命がけの出来事です。パウロはなぜ、命がけでイエスの救いを述べ伝えたのでしょうか。それは、すべての人が救いに与る、それが神の御心だからです。神の御心こそ愛です。どうか私たちが復活という希望を持ち、神の愛を多くの人と分かち合うことができますよう、お導きください。また、私たちが神の愛に応答し、互いに愛し合い、受け入れ合うことができますように。そして日々、希望をもって歩むことができますようお導きください。報復は神がなさることだと聖書に記されています。神は、人間同士が殺し合うこと、憎しみ会うことを求めておられません。互いに愛し合うため神は、この世を創られました。どうか憎しみではなく、愛を私たちが行うことができますように。また、争いで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。子どもたちに良い未来を与えることができますように。どうか互いの命を尊重し、手を結びあう世としてください。新型コロナウイルス感染がまた拡大し、第八波がはじまったと言われています。収束しますように。これから寒さが増してまいります。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。神の名を用い、人を不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。新しい命、子どもたちを祝し、お導きください。新しい歩みをはじめられた方々の上に祝福がありますように。次週から、神の独子イエスの誕生を待ち望む、アドベントになります。どうか多くの人と御子の誕生を喜ぶことができますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますよう、お支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「出エジプト記 3章1~15節」
聖書朗読
03:01モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 03:02そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 03:03モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 03:04主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 03:05神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 03:06神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 03:07主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 03:08それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 03:09見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 03:10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 03:11モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 03:12神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 03:13モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 03:14神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 03:15神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「在って在るもの」
旧約聖書出エジプト記3章1節によれば、モーセは、ミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていた。そのとき芝の間で燃え上がっている炎の中に、神の使いが現れた。すると主は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った(7節)」と言われた。今から約3300年前、唯一の神を信じるイスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しみの中にあった。神は、イスラエルの苦しみの叫びを聞かれた、いや神自身が民の苦しみを感じながら叫びを聞いたのである。そして、モーセを指導者とし、イスラエルの民をエジプトから脱出させた。神がエジプトから脱出するために指導者としてモーセに使命召命を与えた場面である。神は、イスラエルの先祖であるアブラハムと契約を交わした。その契約のゆえ、神はイスラエルの民を守り、導びいてくださった。そして、8節、神はイスラエルの民をエジプト人から救いだし、乳と蜜の流れる地、豊かな地に連れて行くと約束した。そのため、神はモーセに、エジプトの王ファラオの元に交渉に行けと言ったのである。
そこでモーセの生い立ちを見たい。モーセが誕生した時代、エジプトでイスラエルの民が増えていることを、エジプトの王ファラオは恐れた。そこで王ファラオは「イスラエルの民に生まれた男の子を一人残らずナイル川に放り込め」と、つまり殺せと命令を出した。しかし、モーセの母は、モーセを助けようと、防水した籠に赤ちゃんのモーセを入れ、ナイル河畔の茂みに置いた。すると、ファラオの娘がその籠を見つけ、自分の子どもとして赤ちゃんを育てることになったのである。モーセは、イスラエルの民として、唯一の神の信じる交わりの中で育ったわけではなかった。王宮で育ち、エジプトの上層教育を受けた。そのような教育を受けたから、モーセは指導者として人々を導くことができたのかもしれない。また、次のようなことがあった。成人したモーセは、イスラエルの民がエジプト人に打たれているのを見た。モーセは、そのイスラエル人を助けるため、エジプト人を殺して死体を砂に埋めた。同胞イスラエルの民を守ろうとしたモーセの姿を見ることができる。一方、後にイスラエル人同士がケンカしているのをモーセが見て止めようとしたとき、イスラエル人に次ように言われた。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」。そのイスラエル人は、モーセがエジプト人を殺したのを知っていた。もしかしたら見ていたのかもしれない。また「誰がお前を我らの監督や裁判官にしたのか」と言ったのである。「誰が、モーセを我々イスラエルの民の監督、指導者としたのか。お前のことを私たちの指導者などと認めない」とも言っていると受け取ってよいと思う。ファラオも、モーセがエジプト人を殺したことを知り、モーセを殺そうとした。そこで、モーセは、ミディアン地方に逃げた。だからモーセは1節にあるように、ミディアンのエトロのもとにいたのである。
神は、逃げたモーセを、イスラエルの民をエジプトから助け出す指導者とした。そこに神の導きがあると思えてならない。きっとモーセの誕生から、彼を指導者とする導きがあったと考えられる。一方、同胞のイスラエルの民からは「お前は、わたしたちの指導者、上に立つ者などとは認めない」と言われた。モーセを指導者とする神の働きは、私たちには思いもしない導きである。モーセは、エジプト人を殺したとき、もしかしたらイスラエルの民を助けたと思ったかもしれない。しかし、イスラエルの民は、モーセを認めなかった。逆に、モーセがイスラエルの民に認められなかったから、真の指導者になることができたのかもしれない。挫折を味わったモーセ、苦難を経たモーセだったからこそ、イスラエルの民の苦しみを本当に理解することができた。また、そのように挫折し、苦しみを味わったモーセだからこそ、神はモーセを指導者にしたのではないかと、私には思えてならないのである。
そして神がモーセを指導者にしたというのには、次のような意味があると思う。神は、人間を用いて、この世、歴史に介入する。この世に対して働きかけてくださる。神は、自分勝手に人間に働きかけるのではなく、モーセを指導者とした。人間を用いて、人間と共に、解放の業を行ってくださるのである。そこで重要なのは、神が歴史に介入し、共にイスラエルの民を導くということである。神は歴史の中で共にいてくださるのである。
実は、モーセは、神から指導者の召命を受けたとき、断ろうとした。13節以下の言葉から分かる。モーセがイスラエルの人々の所に行き「イスラエルの先祖の神が私をここに遣わした」と述べたなら、イスラエルの民は「その神は何か」と質問するに違いなかったとモーセは神に述べた。どうにかして指導者という立場を逃げようとしていたように思う。すると14節、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とイスラエルの人々に告げなさいと言った。文語訳聖書では「有ってあるもの」、また「わたしはなる、わたしがなるものに」などの訳がある。それが名前であろうか。ヘブライ語ではエフィアシェルエフィである。それは名前でなく、名によって神が人間にとって操作可能となることを拒否する響きを聞きとることができるという理解がある。古代、名前を知るとは相手を支配するという意味があったからである。人間が神の名を知ることにより神を支配、操作可能としてしまう危険を避けた言葉であるというのである。
一方、神の「わたしはある。わたしはあるというものだ」という言葉には、大きな意味があると理解できる。それは神の存在を示しているのであるという理解である。ヘブライ語エフィの元はハーヤーである。日本語で「ある、いる、なる」と訳せる。英語ではbe動詞、ドイツ語でsein、werdenである。しかし、神はただ「いる、ある」ではない。ヘブライ語のハーヤーは、存在を意味するだけではなく、神が存在することは神が働くということであるという。働きの中に神が存在する。神はいるのではなく、動的、働きかけてくださるということが、ハーヤーという単語にある。だから、神が「有ってあるもの」と述べたのは、ただ名前を述べたのではないのである。それをある人は宣言であると解釈している。救いのために働きかける意志と決断を表明し、共に生きて働く神として、モーセに自己を顕現した言葉であるというのである。
Be動詞のように存在を表すだけではなく、働きかけてくださるという意味がハーヤーにあるという解釈を、私は学生のときの講義で聞いた。ハヤトロギアである。学生の私は、その解釈を聞き、とても感激したのを今でも覚えている。その後、その解釈を知りたいと思い、本を読んだ。難しくてなかなか理解できなかった。神はただ存在するのではなく、働きかけてくださる方である。それはモーセと出エジプトだけではなく、現代の私たちに対しても同様であると言ってよいであろう。「有ってあるもの」とは、共に生きて救いへと働きかけてくださると神自らが宣言している言葉であ。それが神の存在なのである。それほど心強いことはない。だからこそ、出エジプトという40年の荒れ野の旅を、イスラエルの民は歩むことができたのである。
私たちは弱く、何もできないと思ってしまうのではなかろうか。モーセは同族から「お前は人を殺した、そんな奴は認めない」と言われた。そのこともあったのであろう。モーセはその後も、弱気に指導者を回避しようとしてたが、最終的にエジプトから脱出するという大きな働きの指導者という召命を受け入れた。その背後には、神が私はあなたと共にいて働く、それがあなたの神なのだという言葉があったからにほかならない。神は今もなお、出エジプトのように歴史のなかにおいて私たちと共に生きて働きかけてくださっているのである。その神を、私たちはただ信じたいと思う。
祈祷 憐れみ深い神さま モーセは偉大な指導者です。しかし、モーセは罪を犯し逃げた過去を持っています。しかも、自分は指導者の器ではないというのです。モーセが優れているのではなく、神がモーセと共にいるから大丈夫だ、と神は言ってくださいます。わたしたちは、弱く、小さい者であると思ってしまいます。しかし、神が必ずわたしたちと共にいて、神の器として用いてくださる事を信じたいと思います。神こそ共にあって救いへと働き、お導きくださる。このことを信じ、苦難にあっても希望をもって歩みたいと思います。また、支えを多くの人と分かち合いたいと思います。 争いは憎しみ、悲しみしか生み出しません。そして、悲しみはなくなることはありません。また、そこで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。どうか子どもたちに良い未来を与えることができますように。主こそ平和の君です。どうか互いの命を尊重し、手を結びあう世としてください。新型コロナウイルス感染がまた拡大しています。収束しますように。秋が深まり、寒くなり、乾燥しています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人を不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。新しい命、子どもたちを祝し、お導きください。新しい歩みをはじめられた方々の上に祝福がありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「フィリピの信徒への手紙 2章10~11節」
聖書朗読
02:10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 02:11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「天上のもの」
フィリピの信徒への手紙に「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあった。「ひざまずき」とは、礼拝することを意味する。天上でも地上でもイエスのもとで礼拝をする。今きっと、天においても讃美の時を持っている。わたしたちも同じように神を讃美することによって、天とつながっているといえるであろう。
旧約聖書のルツ記2章20節に「ナオミは嫁に言った。『どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。』ナオミは更に続けた。『その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。』」とある。ルツ記の主人公であるルツはモアブ人、イスラエル人から見れば異邦人であった。その義理の母ナオミはイスラエル人だった。ルツの夫、つまりナオミの息子は、若くして死んでしまった。当時、夫が死ねば、義母離れ、自分の故郷に帰ることができた。しかしルツは、ナオミとナオミの故郷で暮らすことを決めたのである。そこでルツは、働かなければならなかった。ボアズが、異邦人のルツに働く場を与えてくれた。そのことを知り、ナオミはボアズが祝福されますようにと言った。後に、ルツはボアズと再婚する。マタイによる福音書のはじめに、イエスの系図がある。ルツは、その中にその名が記されている。
ナオミは、神のことを次のように示した。「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」と。「惜しまれない」とは「捨てない」というのが元の意味である。そこで、「生きている人にも死んだ人にも慈しみを捨てない」とは、死んだ人を神はいつまでも慈しむと理解できよう。その導きは、永遠であるといってもいいのかもしれない。つまり、神の恵みは、生きている者たちにあるのと全く同じように、死んだ者たちにも与えられるのである。
キリスト教でいう「福音」とは、良き知らせのことである。では、その良き知らせとはいかなることであろうか。私は、「神、イエス・キリストが全ての人をありのまま受け入れてくださる。その人がその人として、その人らしくいることができるように導いてくださっている。それが福音である」と説明したい。先ほどのフィリピの信徒への手紙やルツ記の言葉から考えると、天においてもその人がその人らしく存在することができるよう神は導いてくださっているであろう。
さて、宗教改革者のルター、そしてカルヴァンは、天職という考えを持っていた。召命、神から職を与えられるのは祭司、牧師など、神に仕えることだけではなく、一人一人の職業は神から与えられたものであるという考えである。コリントの信徒への手紙(一)7章17節には「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」とある。そこからルターは、天職ということを考えた。カルヴァンも天職という考えを持ち、「どんなにいやがられる卑しい仕事であっても、あなたがそこであなたの召命に従えさえすれば、神の前で輝き、最も尊いものとならぬものはない」と記している。
わたしの個人的な考え、解釈になってしまうが、神の恵みが、生きている者たちにあるのと同じように、死んだ者たちにも与えられると考えるなら、天においても人間は神によってありのまま受け入れられ、その人らしくいることができ、その人としての場所が与えられているのだと思う。ヨハネによる福音書の14章には、イエスが場所を天に用意してくださると述べたと書かれている。もしかしたら、天においても職が与えられるのかもしれない。洒落のようになってしまうが、まさしく天職である。皆さんは、天に行ってまで働きたくないと思うかもしれない。しかし、この世にいる人々の悲しみをぬぐい去るという仕事が、そのような仕事が与えられたならば、幸せではないだろうか。きっと天におられる方々は、そのようにこの世にある人々が悲しみ続けないように、イエスと共に見守ってくださっているのだと、私は思う。私たちは神に、この世で幸せに暮らすことを望まれていたように、神は天においてもそのことを望んでおられる。
私たちは、讃美の時を持っている。神を讃美することにより、私たちは天におられる方々と、そして天におられる神によってつながっている。神の恵みが共に注がれていることを信じたい。この世における恵みが天にも行われる。きっと、わたしたちが天の方を思っているように、天におられる方々もこの世にいる一人一人のことを思い、讃美の時をもっているのではなかろうか。神によってつながっている。わたしたちは、神こそ、生きている者にも死んでいる者にも、慈しみを惜しまない、永遠に導いてくださることを信じたいと思う。
祈祷 私たちといつも共にいて永遠にお導きくださる神様 神様は生きている者にも死んでいる者にも慈しみを惜しまず、永遠にお導きくださいます。天におられる方々のことをわたしたちが覚え、それぞれ与えられた愛を感謝する時としてください。天においても、わたしたちを愛し、見守ってくださっていることを信じます。どうか、主イエス、神を通し、天におられる方々と共にあることができると確信させてください。神は、争いを求めていません。そこで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。どうか、子どもたちに良い未来を与えることができますように。そのため指導者たちをお導きください。本日は、召天者記念礼拝を守っています。神の御もとにある方々は、主を通して今、共に讃美の時を守っていると信じます。どうか天にある方々に平安を、地において悲しみの中にある方々に慰めをお与えください。また、礼拝後、墓前礼拝を行います。集おうとされている方々の足をお守りください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。朝晩が寒く、また乾燥しています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人を不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。まそのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。新しい命、子どもたちを祝し、お導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 11章 33~36節」
聖書朗読
11:33「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。 11:34あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。 11:35だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。 11:36あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「賛美の呼びかけ」
今日はハロウィン、しかしプロテスタント教会としては、明日の宗教改革記念日の方が重要である。本日の讃美歌「神はわが砦(21-377)」は、宗教改革者マルティン・ルターが作った。私の尊敬する先生は次のようにおっしゃっていた。「宗教改革は、信徒が讃美歌を勝ち取った出来事である」と。カトリックでは、聖職者からなる聖歌隊がラテン語で讃美の歌を歌っていた。会衆は、それらの意味が分からず、歌うこともできなかった。しかしルターは、自国語で、しかも当時の流行りの歌のメロディーに聖書の言葉をのせて歌うことができるようにしたのである。私たちが讃美の歌声をあげることができるのは、喜びであるといってよいであろう。会衆が讃美の声をあげることができる。それも信仰者としての証なのではないだろうか。だから下手でもなんでもよい。子どもの讃美歌集に「歌の声は小さくても喜びなさる神さま」という歌詞がある(こどもさんびか改訂版10)。その通りだと思う。讃美する心が何よりも大切なのである。
本日の聖書箇所、ルカによる福音書の11章33節以下に心を傾けたいと思う。33節にある「穴蔵」を、皆さんはイメージできるであろうか。「地下」、「暗い通路」等と訳している学者もおられる。単純に暗いところをイメージしていただければよいと思う。「升の下に置く」とは、古くなった升でろうそくの火を消したと考えられる。そこで、人気のない穴蔵、ともし火を消す升の下にろうそくをおいても、何も灯さないということである。当時、オリーブ油をともし火のために使用していた。それは家などで、人が生活するために必要な光だった。
34節に「あなたの体のともし火は目である」とある。マンガのように、目からビームのような光線が出るということであろうか。ある意味、そのようなのである。現代の私たちは、外からの光によって何かを見ることができると理解している。古代、ギリシア・ローマ、ユダヤでは、目が光を放ち、視力は中からの光が外からの光に出会うときに可能となるという理解が一般的だった。古代と現代の認識が異なり、私たちの中に光があると理解していたというのは面白い。そこで考えたいのが、次の「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体が暗い」という言葉である。「澄んでいる」と「濁っている」が対になっている。「澄んでいれば」を直訳すると「純粋」「真心」である。「濁っている」は「悪い」「よこしま」「邪悪」である。そこで「目が澄んでいれば」というのは、二心を持たないこととある人は解釈している。つまり、神、イエスに純粋に心を向けている状態といってよいだろう。
この箇所で「ともし火」「光」とは何を意味しているのであろうか。旧約聖書サムエル記下22章29節に「主よ、あなたはわたしのともし火/主はわたしの闇を照らしてくださる」とある。また、ルカによる福音書の1章78節には「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」とある。これは救い主の道を整える洗礼者ヨハネの誕生における父ザカリアの預言である。2章32節「異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」の「光」は、救い主、イエスを意味し、暗闇に光を灯す方こそイエスであるというのである。つまり、本日の箇所の「ともし火」「光」こそイエスであるといえるであろう。そこで35節の「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」という言葉は重要であると思う。そこで「あなた」とは、弟子たちを指している。「光が消えてないか調べなさい」というのだから、弟子たちの中に光があるということである。しかし弟子たち自身が光というわけでは決してない。弟子たちの中にある光とは、純粋な目、心でイエスを見ることによって、光であるイエスが弟子たちの中にいるということである。イエスを純粋な目、心もって信じる者にイエスという光に照らされ、心にイエスが共にいてくださる。共にいてくださるイエスこそ信仰といえるであろう。それは、とても重要なことである。そして、光が中にあることによって何ができるのか。36節に「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」とある。「全身は輝いている」、確かにそのように訳すことができるが、意味が曖昧になってしまう。多くの訳が「全体が輝くのである」としている。「全身」ではなく「全体」と訳している。つまり、イエスという光に照らされるように、弟子たちの中に光があればあなたの周りも輝くのである。厳密にいうと弟子たちに述べているので、この「全体」とは教会であるといえる。しかし限定する必要はないだろう。「全体が輝くだろう」とは、そこは未来形として理解できる。そこで、イエスを信じる者はイエスこそこの世に神の愛、救いという光を照らす存在である。イエスという光によって照らされた者は、イエスを信じることによってその人の中に光があり、周りを照らすことができるということがいわれている。つまり、イエスを信じる者は、イエスと同じように、神の愛、救いをこの世に輝かすことができるということなのである。そのようにいえるでしょう。イエスによって神の救い、愛をこの世に現わすという任務が弟子たち、私たちに与えられた。そこにあるのは、イエスの人間に対する信頼であるといえるであろう。「あなたたちの中に光を置き、全体を輝かすことできるのだ」と。
一方、私たちは神、イエスを裏切ってしまう可能性のある者、いや、自分の利益を求めてしまう弱い存在にしかすぎない。このイエスの言葉は、24節以下の前の「汚れた霊が戻ってくる」、「真の幸い」、「人々はしるしを欲しがる」という話の後に話されていることに意味がある。24節以下、汚れた霊はある人から出て行った。良い場所を探すが見つからない。前にいた人の所に戻ると汚れた霊にとっては以前より住みやすい場所になっていた。そこで自分より悪い汚れた霊を七つ連れてきて住み着いた。そのことによって、汚れた霊に取りつかれた人は以前より悪くなったという話である。その後に本日の話があることが重要である。つまり、私たち人間は、汚れた霊、様々な誘惑に陥り愛を失い、神を裏切ってしまう弱い存在である。その状態が続けば、より汚れた霊が襲ってくる。そうならないためにどうするか。それは神というともし火、イエスという光を私たちの中に宿すべきである。汚れのない純粋な目、心で神、イエスを信じることによってこそ、その人の中に信仰というともし火、光が宿り、汚れた霊は来ないということである。先ほど歌った377番、ルターによる讃美歌も、ある意味同様であるといえるであろう。「神はわがとりで、わが強き盾」、「悪魔世に満ちて、責め囲むとも…主の言葉は悪に打ち勝つ」。つまり、神、イエスを信じる信仰によってこそよこしまな企て、悪魔は私たちに宿ることはなく、追い払う、打ち勝つことができるのである。私たちと共に神、イエスはいてくださる。神我の内にありということである。それほど心強いことはない。しかも本日の聖書箇所では、それだけではなく、神が私たちと共にいてくださることによって、私たちは全体を輝かす、照らすことができる。神の救い、イエスの愛をこの世に現わすことができるのであるというのである。
もちろん、それは私たちの力ではない。イエス、神が私たちを照らしてくださる。共にいてくださるからである。そして、イエスが私たちの中にいるように歩むことができるのだと、イエスは私たちを導いてくださっているのである。そこにあるのは、イエスの救いと私たちに対する信頼である。私たちはイエスに信頼されているのである。36節の最後の言葉「全体が輝くだろう」を未来形であると述べた。つまり、私たちも輝くことができるよう今導かれている。今、イエス、神が私たちを照らし、共にいてくださるのである。それは、イエスは共にいていつも私たちを照らしてくださるという、イエスの励ましともいえるであろう。それこそ私たちの希望なのではないだろうか。「悪魔世に満ちても悪に打ち勝つ」ことができるのである。私たちは、イエスという愛なる光によって照らされ、私たち自身の中にその光を持っていることができるのである。その光を私たちはこの世に輝かせたいと思う。そのため純粋な目でイエスを見、信じたいと思う。信仰という希望こそ私たちを輝かすのである。
祈祷 私たちといつも共にいてお導きくださる神様 純粋な心でイエス、神を見ることにより、その人の中に光はあるとイエスは述べられました。ここに希望があります。神というともし火、イエスという光が私たちを照らしてくださる。そこで私たち人間は、光ることができる。それは、人間はイエスに倣い生きるということ、そして、イエスがそのように人間を信頼し、導き、励ましてくださっているということです。どうか、いつも共にいて支えてくださり、イエスの光、愛に答えることのできるものとしてください。これこそ希望であり、喜びです。この喜びを多くの人と分かち合うことができますよう強めてください。争いは神が喜ばれることではありません。そこで被害にあうのは弱者、子どもたちです。また、戦争にかり出される兵士も精神を病んでしまいます。被害はその家族にも及びます。一方、指導者は一方的に指示をするだけです。人を殺す武器は一般の民には何も益になりません。どうか主が国々の争いを裁いてください。そして、指導者は剣を鋤とし、槍を鎌とし、争うことを学ばないようお導きください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。朝晩が寒く、また乾燥してきました。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人を不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。まそのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 148章 1~6節」
聖書朗読
148:01ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。 148:02御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。 148:03日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。 148:04天の天よ/天の上にある水よ主を賛美せよ。 148:05主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。 148:06主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。 148:07地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 148:08火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ 148:09山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ 148:10野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ 148:11地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ 148:12若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。 148:13主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。 148:14主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「賛美の呼びかけ」
早いもので、教会歴は本日から降誕節前に入った。そのことから本日、アドベントの歌を歌った。といってもイエスの誕生を待ち望むアドベントは、11月27日からである。一方で、街を歩いていると、あふれるようなハロウィンの飾り付けが目につく。「ハロウィンとは何ですか?」と聞かれると「あれは西洋お盆のようなもの、けれど本来キリスト教とは関係はありません。現代では、ほぼ民間行事になっていますが・・・」と答えます。先日、朝のある情報番組で、「ハロウィンは日本でいうと何の行事でしょうか?」かとの出題があった。その答えは、「大晦日」とのことだった。ハロウィンはもともとケルト民族の祭りで、10月31日を一年の終わりとし、その夜は秋の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていたそうである。カトリック教会では、聖人の日をそのハロウィンと重ねた。だから私は「西洋お盆」と答えたのです。
カトリックには、「聖人」と呼ばれる人がたてられている。近年ではマザーテレサが聖人と認定された。有名なところでは聖ニコラウス、サンタクロースである。また聖バレンタインなどがあげられよう。そして、アッシジのフランチェスコという名前を聞いたことがあるかもしれない。アッシジのフランチェスコは、1181年頃、豊かな商人の家に生まれたが、全財産を捨て、何も持たずにイエスの愛に倣う者として生涯を過ごした人である。彼の日々の食事は、自分の労働の報酬として与えられる食べ物のみで、仕事のない時は乞食托鉢によって恵まれるわずかな食べ物だったという。家を持つこともせず、寝るところは無人の小屋か教会の軒下か、さもなければ野原の木陰だったそうである。徹底した無所有を貫きながら貧しい人々、悲しむ人々の友となり、ハンセン病者と共に生き、人々に神の愛とキリストに従うことの喜びを解き続けたのである。有名なのは野の小鳥たちにも説教したと伝えられていることではなかろうか。彼にとってすべては神から頂いたものだった。太陽も、月も、死すらも、神からの賜物だった。彼が、死を前にして訪れたのが、サン・ダミアーノのクララの草庵だった。そこで、有名な「太陽の賛歌」は生まれたのである。「あなたを讃美させてください、私の主よ、あなたのすべての創造物のゆえに、なによりも強大なる太陽のゆえに。太陽は昼であり、太陽によってあなたは光を送ってくださるからです。なんと美しいことか、なんとその陽光の冠は輝くことか。あなたの生きた似姿です、至高の主よ。あなたを讃美させてください、私の主よ、姉妹なる月と星たちのゆえに、あなたは天に月と星を置かれました、何と明るく、尊く、美しいことか。」
アッシジのフランチェスコの「太陽の讃美」は、詩編148編を基にして作られたと言われている。本日はその箇所に心を傾けたいと思う。まず詩編全体の内容を最初に述べたい。天、太陽、月、星、天の大洋、淵、火、雹、雪、霧、嵐、山、丘、樹木、動物、人間、つまり、神が創られたすべてのものに対し主、神を讃美せよと呼びかけている。次のような解釈がある。「天からの讃美が高きところで始まり、創造主をたたえる被造物世界の一大シンフォニーの幕が切って落とされる」である。創造というと、地球という世界を思い浮かべてしまうかもしれない。しかし神が創られたのは、宇宙全てである。太陽も月も星もすべて神によって創られた。5節に「主は命じられ、全てのものは創造された」とある。旧約聖書の創世記の天地創造、いや天地だけではなく宇宙もすべて神によって創られた。そして、6節には「主はそれらを世々限りなく立て超えない掟を与えられた」とある。つまり、宇宙を含めこの世界は、神の秩序によって保たれているのである。すべて神の御守りのうちに歩んでいるともいえるであろう。そして、全てのものは神の創造の力、栄光を示す。神を讃美しているのであるというのである。
もしかしたら、「キリスト教は、自然を大切にしない。自然を尊ばない。一方、日本は八百万の神という理解があり、自然、一つ一つに神がいると理解する。だから自然を尊び、愛している」というイメージがあるかもしれない。では、キリスト教は本当に自然を大切にしないのか。決してそうではない。聖書には自然、いや、宇宙を大切にする理解がある。詩編148編もその一つである。先ほど述べた解釈「創造主をたたえる被造物世界の一大シンフォニー」という表現は素晴らしい。つまり、この世にある自然、すべてが一つになり神を讃えている。逆に次のようにも言えるであろう。「然の美しさ感じ、この世を創られた神の偉大さをその美しさから感じることができる」と。つまり、すべて神が創られたものであるからこそ、大切にすべきであるという理解を持つことができる。逆に美しい自然を破壊することは、それを創った神を冒涜することに、神に逆らうことになると思う。私がこの詩編で見たいのは、宇宙、自然、野の獣、海、火、雨など、全ての被造物と共に主を讃美せよといわれていることである。
一方、11節には王が最初に書かれているので、この世的な地位の順番という理解がある。もしかしたら詳しく地位を記すことにより、人間を中心としているのかもしれない。しかし、諸国の民、君主、地上の支配者、若者、おとめ、老人、幼子となっている。地位の高い順番ではないと私は理解する。そこでは、太陽、獣、人間、王、君主、若者、おとめ、老人、幼子、全てが並列、つまり、神の前においてどれが偉いのではなく平等に主を讃美するといわれていると理解する。しかもシンフォニー、それぞれの役割があるということがここに示されているといえるであろう。決して人間が中心、人間が偉いというのではなく、すべてが神によって創られたものでしかない。アッシジのフランチェスコがすべて神の賜物であり、無所有であると考えたのは、神が神によって創られたもの、すなわち自然を通して生かしてくださるという理解があったからではないかと思うのである。生かされていることを喜び、日々過ごすことこそ神を讃美することなのではないだろうか。花がきれいに咲いている、それは神様を讃美しているのだと思う信仰が大切なのではなかろうか。
そして、この詩編で面白いのは、「み使いよ、主の万軍よ、主を讃美せよ」と記されていることである。主の万軍、み使い、つまり、天使たちも神に創られたものにしか過ぎない。天使も神を讃美する存在であるということである。
では、天使が讃美している姿とは、どのように想像されるだろうか。きっと、天使がイエスの誕生を羊飼いに告げ知らせるクリスマスの出来事を思い浮かべるであろう。ルカによる福音書の2章8節以下に記されている。羊飼いが「夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、…『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。』…すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ』…。」クリスマスこそ天使も人間も、いや全ての被造物が神を讃美すべき喜びの出来事なのである。イエスは教えてくださった。「どんなに栄華を極めたソロン王でさえ野の花ほど着飾っていない」と。つまり、神の創られたこの世にある存在は、神に愛され、生かされていてそのままで美しいと述べているのである。神の独子イエスが、この世にある存在すべてはそのままで美しい。ありのままでいいのだと教えてくださっているといえるであろう。人間も、花も、山も、太陽も、月も、獣も、雨も、海も、すべて神が創られた大切な存在である。神は、この世を創られ、全てを見たとき「極めてよかった」と述べた。すべて極めて良い存在なのである。そして、イエスは、あなたはあなたのままで神に愛されている大切な存在である。この世に不必要なものなどない。すべてが必要な美しい存在である。種々の構成物が渾然一体となっている美しい世界だと言う。そして、神は弱い時には慰め、力づけお導きくださる。だからこそ私たちはこの世の創り主を讃美するのである。
この後に歌う讃美歌223編は、アッシジのフランチェスコが作った「太陽の讃美」を編集し作詞された。作者としてアッシジのフランチェスコの名前が記されている。すべてのこの世にあるものはみな等しく神を讃美する存在である。この世、自然の美しさを見て神の偉大な業を讃美することは、いけないことではない。いや、すべてが神の秩序によって導かれ、すべてものが神を讃美しているのである。そして、神の秩序、導きの中にイエスの誕生があったのである。
本日は、詩編148編を通して神を讃美することの意味を知ることができた。その最も喜ばしい讃美こそ、御子イエスの誕生である。すべてが神に創られ、生かされ、ありのまま愛されている。この世にあるすべてのものは美しく、神が認めてくださった存在であること、そして決して一人ではないことを感謝して祈りを捧げたい。
祈祷 この世の創り主である愛なる神様 この世界は、すべて神によって創られました。それを極めて良いとあなたは認めておられます。あなたに創られたものがシンフォニーを奏でています。つまりすべて必要な存在で、役割があり、全てあなたが導いてくださっています。どうか私たちが神に創られたものとしてそれぞれを尊重し、大切に思い合うことができますように。それこそ神が喜ばれることです。また、生かされていることを感謝し、神を讃美することができますように。そして、神に良しとされている喜びを多くの人と分かち合うことができますようお導きください。私たちは、このようにすべて神によいとされている者です。だからこそ相手の命を尊重しあい生きるべきです。しかしこの世に争いは絶えません。人と人とが殺し合うことを神は悲しまれます。特に被害にあうのは弱者、子どもたちです。どうかイエスの愛に倣い、全ての人が手を結び歩むことができますようお導きください。また、そのため私たちをお用いください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。朝晩と日中の気温の差が大きくなっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方、手術を終えられた方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。神の名を都合よく用い金銭を搾取すること、マインドコントロールによる洗脳、サタンの名を用い人を不安に陥れることは、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。まそのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「マタイによる福音書 5章 1~12節」
聖書朗読
05:01イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 05:02そこで、イエスは口を開き、教えられた。 05:03「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 05:04悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 05:05柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 05:06義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 05:07憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 05:08心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 05:09平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 05:10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 05:11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 05:12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「何が幸いなのか」
礼拝の最後の祝祷は、コリントの信徒への手紙(2)13章13節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」だが私は、言葉を少し変えている。「あなたがた一同」ではなく「私たち一同」と述べている。それは私が先輩牧師の考え方に共感したことによる。神、イエスのみが祝福を与えてくださるのであって、牧師に祝福する力があるわけではない。そして、牧師も神の前で祝福を与えられている一人にすぎないという考えである。その通りだと思った。神、イエスが祝福を与えてくださるとはつまり、いつも共にいてくださるということである。
マタイによる福音書の5~7章は、山上の説教と呼ばれる。その最初、3~11節までには「幸いである」という言葉がある。まず、「幸い」について考えたい。何が幸せなのであろうか。そこで詩編1編1節の最初を見ると「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず」とある。意味は同じである。祝福しているのである。マタイによる福音書の5章2節に次のような訳がある。「幸いだ、心の貧しい人たち」。文法に違いがあるが、もとのギリシャ語においても祝福の言葉が先にある。英語でも「Blessed are the poor in spirit」という訳がある。イエスは「幸いだ」と祝福しているのである。
では、「心の貧しい人々」とはいかなる意味なのであろうか。ルカによる福音書にも「平野の説教」といわれている並行記事がある。そこでは「貧しい人々」となっている。6節の「義に飢え渇く人々」も、ルカは「今飢えている人々」と書いており、現実的な貧しさと空腹である。一方、マタイによる福音書では「心の」と精神化されている。では、マタイによる福音書では、どのような意味になるのか。「心の貧しい人々」は、弱い人、悩みある人ということであろうか。「心」はギリシャ語で「プネウマ」、この言葉は「霊」とも訳すことができる。そこで、「幸い、霊の貧しい人々」との訳もある。様々な理解があるが、カトリックのフランシスコ会訳聖書が分かりやすいように思う。「自分の貧しさを知る人」と意訳されている。霊の貧しい人々、神の霊が少ない、不信心ではなく、自分の霊が貧しいと感じ、霊を求めている人々と理解したい。そこで私は「心の貧しい」を「へりくだった」と理解する。7節の「憐れみ深い」に近いといえよう。へりくだった人々、天の国はその人たちのものである。自分の力で生きているのではなく、神に生かされていることを知っている。人を幸福にするものは、自分の力で手に入れられるこの世の富ではなく、祈りによって神から与えられる恵みだけであるということを知っている人といえるであろう。だからこそイエスは、「幸い」と祝福したのである。
6節の「義に飢え渇く人々」について考えたい。義とは、神の正義、転じて神の救いの働きといえるであろう。解釈史から見ると、プロテスタント教会においては神の義を求めること、と理解しているといってよいであろう。完全に正しい人間などいない。完全である人間はイエスのみである。イエスの完全性を見て自分の欠落を強く感じ、自分の欠けている部分をイエスに求め、満たされる。受動的といえよう。一方、カトリック教会では理解が異なる。カトリックでは人間が神の義を求めるのではなく、義、正義を行うという理解だという。能動的といえるであろう。ユダヤ教的な理解も、義を行うのは人間の側であるというのである。「義に飢え渇く」を、イエスの義を求めるという受動的な理解、また、イエスに倣い義を行うという能動的理解がある。私は、どちらが正しいということはないと思う。かなりの意訳だが、面白い訳である。6節「自分たちのは、神が要求されることを行うことであるとする者は、幸福である」。
次に3節を見ると、「悲しむ人々は、幸いである」とある。イエスは、悲しむ人を慰めてくださる。一方、この背後にはイザヤ書61章1~4節があると考えられる。イザヤ書61章2~3節には「嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」とある。イザヤ書は、イスラエルの敗北の苦難を嘆き悲しみながら、神の導きを信じ、エルサレム再建に向け力を合わせ歩むということが記されているといってよいであろう。イエスの時代、権力者たちによって作られた制度によって不正義を悲しむ弱い人々が多くいた。イザヤ書から考えると、イエスは悲しむ人々に対して神を信じる民がいかに共に慰め合うか。そこにこそ、イエスの祝福があるのだと示していると理解できる。
イエスの山上の説教は、「人類の最高倫理」ともいわれる。この「幸い」の句の理解は様々で難しいのだが、私は次のように理解したい。山上の説教といわれるイエスの教えは、厳しいことが記されている。「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」「敵を愛しなさい」「腹を立ててはならない」等である。この幸い句においても、イエスは私たちに倫理的な要求をしていると理解したいのである。
つまり、「悲しむ人々は幸いである」とは、悲しむ人の立場に立ち、慰めるということである。「義に飢え渇く人々は幸いである」とは、義、神の正義を考え、行うということである。なかなか厳しい、耳が痛い理解である。山上の説教全体のイエスの倫理的要求は、人間の能力を超えている。そこにどのような意味があるのか。その箇所が「山上の説教」といわれることには意味がある。それは、モーセがシナイ山で神から与えられた十戒、つまり、律法の授与が関係していると理解できる。すなわちイエスは、モーセが神から授かった十戒、律法ではなく、イエスが神の教えを新たな救いを完成させているということが意味されているのである。では、律法とは何か。それは神の意思であり、人間がいかに生きるかという神の導きである。それは、神から与えられた賜物なのである。「~せねばならない」という掟ではなく、人間を信頼し、生きる道を示す教えである。
イエスが山上の説教を語ったのは、人間に対する恵みであるといえよう。人間はいかに生きていくのかという導きである。そこに人間に対する信頼がある。そして重要なのは、この山上の説教で示したことを行ったその人こそがイエスであるということである。そこに救いがある。私たちは、イエスによって救われている。だからイエスに倣い生きていく、その教えとして山上の説教がある。そして、山上の説教の最初に、「貧しい人々は、幸いである」という言葉があることに大きな意味があるように私は思う。人間は、自分の力で生きる者ではなく、神に生かされている者としてへりくだる者である。そこに神の祝福が与えられる。いや、すでに先に祝福が与えられているのである。へりくだるからこそ、悲しみの中にある者と同じ立場に立ち、慰め合うことができる。また、へりくだるからこそ、イエスに倣い、自分は何ができるのか考えることができる。すべての人が神、イエスの前でへりくだることによってこそ、互いに支え合うことができるのではないだろうか。山上の説教こそ、イエスから与えられた恵みである。山上の説教を覚えるとは、イエスから恵みが与えられた、つまりイエスはそのようにしていつも共にいてくださるということを覚えることになる。そして、そこでこそ、イエスは私たちに祝福を与えてくださるのである。イエスが恵みを与えてくださる。それは、いつも人間を覚え、愛し、祈ってくださっているということに他ならない。
祈祷 導き主なる愛なる神様 イエスは倫理的要求として、私たちの歩むべき道を示してくださいました。感謝いたします。一方、私たちは弱く完全にはできないものです。だからこそ、主イエスは自らその教えを実践し、私たちに示してくださいました。へりくだり、イエスに倣い歩むことができますように。特に、隣人にもへりくだり、共に力を合わせることができますよう、お導きください。イエスこそ、新たな教え、救いを完成させてくださり、今もなお私たちと共にいてお導きくださっていることを確信したいと思います。互いに支え合い歩むことができますようお導きください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。天候が不順となっています。どうか、すべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方、手術を終えられた方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。報復は、あなたが行うことで、私たちはあなたにすべてをお委ねすることができる、と聖書に記されています。人間の報復は、悲しみしか生み出しません。どうすれば民が傷つかずに済むのか、指導者同士が話し合うことができますように。一握りの人の利権ではなく、全ての民がその人らしく歩むことができることこそ大切なことです。どうか、そのようにお導きください。自然災害で被災された方々をお支えください。神の名を都合よく用い金銭を搾取すること、マインドコントロールによる洗脳、サタンの名を用い、人を不安に陥れることは神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「創世記 32章 23~33節」
聖書朗読
32:23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 32:24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 32:25ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 32:26ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 32:27「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 32:28「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 32:29その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 32:30「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 32:31ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32:32ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 32:33こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神に勝つ」
ヤコブは、神と最初に契約を交わしたアブラハムの孫、父はイサクである。ヤコブにはエサウという兄がいた。エサウとヤコブの母リベカはヤコブを可愛がり、兄エサウではなく、弟ヤコブに、父イサクから祝福を受けさせようとした。祝福とは、家督の継承と共に、家を継ぐ者として神の恵みを継承するという意味があり、一度しか行われない。母リベカとヤコブは年老いて目の見えない父イサクをだましてヤコブを祝福するように仕向けた。ヤコブは祝福を受けたが、兄エサウはヤコブを殺そうとするほど怒った。そこで、ヤコブは故郷を離れなければならなくなった。故郷を離れたヤコブは一所懸命に働き、財を蓄えた。そして20年後、兄エサウに謝りに行こうとした。創世記32章23節以下は、その直前の出来事である。
ヤコブが兄エサウと会う直前、ヤコブは家族をヤボク川を先に渡らせた。それは、家族に危険がおよばないようにという配慮であったと考えられる。すると、25節「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」というのである。「何者かが」とある。様々な解釈がある。ヤコブが思った通りに「何者か」を、神と理解しておく。神はヤコブに勝てないと思い、ヤコブのももの関節をはずした。しかも、神は「もう去らせてくれ、夜が明けてしまうから(27節)」といったのである。様々な理解があるが、「夜が明ける」とは、長い時間が過ぎたということであろう。するとヤコブは「祝福してくださるまで離れません」と言った。そこで神は「ヤコブではなく、イスラエルと名付ける。神に勝ったからだ」と応えた。ヤコブが「名前を教えてください」と尋ねると、神は「どうして名前を尋ねるのか」と聞き返し、ヤコブを祝福した。また、ヤコブは「わたしは神と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている」と述べ、その地を神の顔を意味する「ペヌエル」と名付けた。「神を見たのに生きている」とは、神を見る者は死ぬという考えが旧約聖書にあったからである。ヤコブが兄エサウと再会する前に、なぜ神が現れたのか、その意味は何かということについて考えたい。
ヤコブは兄エサウとの再会について、どのような思いを持っていたのであろうか。ヤコブには、まだ許されていないのではないかという不安があった。それは前の10~13節のヤコブの祈りから分かる。「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません(12節)」。状況は異なるが、十字架の前で祈ったイエスの、ゲッセマネの祈りを思い起こす。ヤコブは、兄エサウに再会するのを恐れていた。そこで神に祈った。それは神の導きを求めたといっても、過言ではないと思うのである。
ヤコブが夜に格闘したというのは、ヤコブの不安の心を意味しているのかもしれない。格闘の末、夜が明けた。つまり、この戦いを通して兄エサウとの再会の不安の気持ちが吹っ切れた。この出来事を通してヤコブは、恐れがなくなり、兄エサウと顔を合わせることができた。
さて、神は、本当にヤコブに勝てなかったのか。そこに神の恩寵、恵みがあるのではないだろうか。29節で神は述べている。「お前は神と人と闘って勝ったからだ」と。それを、次のように考察した人がいる。ヤコブは内なる人間、すなわち自己に勝ったと理解するというのである。古き自己にうち勝つことによって、神から祝福を受けた。ヤコブは、関節を外された。本来、それは負けを意味するのではなかろうか。しかし、神はわざと負けることによってヤコブを導いた。ヤコブは、古き自分に勝って、新しくされたということを意味するのではなかろうか。そのような神の祝福を得た。また、このヤコブが受けた足の傷は、痛みを伴うものであった。つまりこの出来事は、現実であったということが示されている。それと同時に、次のような意味があるのではなかろうか。それは、神が与えた新たな歩みの一つなのかもしれない。つまり、神に勝ったという自己満足ではなく、神の前で謙虚になるという意味があった。いや、今までの歩みは神の導き、守りであり、そして、怒っている兄エサウに会うための勇気を与えてくださった。それから故郷、それは神の陣営(2節)に入るのに必要な痛みだったのかのかもしれない。新約聖書でパウロは次のように記している。コリントの信徒への手紙(二)12章7節に「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」とある。そこからパウロは癒されることのない病を負っていたと理解できる。しかしその病は神が与えたもので、思い上がらないためのであるというのである。そのときのヤコブにとっても、同様なのかもしれない。神の前で謙虚である。それは兄エサウ、いや、他の人に対しても謙虚なるための痛みとしての教えだったのかもしれない。ヤコブの力だったのではなく、神の導きがあったからこそ、故郷から逃げ出した後も、財を蓄えることができ、そして、兄エサウとの再会の時が与えられた。その再会は、父イサクをだまし、祝福を得たというヤコブの罪とも言えるわだかまりを解消する出来事にもなった。父、兄に対して負っていた重荷を、そこでおろすことができたという導きである。
わたしは思う。ヤコブ自身が、その20年を通して、そして、兄エサウと再会する前に神と格闘し得たのは、自分は神の祝福なくして生きることはできないということに気づいたということではなかったか。神と自分の関係を改めて知った。ヤコブが父をだまして受けた祝福の、真の意味を知った。古い自分に打ち勝ち、新たなる者となされたのではないかということである。ヤコブは、兄エサウに会う前に神に祈り、神はその祈りを聞き、再会を戸惑っているヤコブに勇気と導きを与えた。いや、それだけではなく、祝福を与えたのである。ヤコブも祝福を求めた。神の祝福の本当の意味を知った。自分は、神の祝福なくして生きることのできない弱い存在である。自分の弱さを知ったときにこそ、神にすべてを委ね、兄エサウにありのままの自分として会うという勇気が与えられたのではなかったか。その出来事は、ヤコブだけではなく、私たちをも導いてくれる。神に導かれ、生かされているということである。私たちも神の祝福を求め、新しい週、新たなる者として歩みたいと思う。
祈祷 恵み深い愛なる神様 私たちは欲により過ちを犯してしまうことがあります。しかし、あなたはそのような私たちを理解しお導きくださいます。ヤコブは兄から父の祝福を奪いました。その結果、故郷から、兄から離れなければならなくなりました。そして、その重荷をずっと負ったままでした。しかし、神は兄に再会する不安な心を拭い去り、しかも新たなる者として祝福してくださいました。私たちも誤った道に向かってしまうことがあります。どうか正しい道へとお導きください。また、どうか私たちの不安の声を聞き、新たなる者としてくださいますように。あなたは私たちを新たなる者としてくださいます。この喜びを多くの人と分かち合うことができますように、私たちをお用いください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。先週の木曜日、金曜日は冬の寒さとなりました。寒暖の差が激しくなっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方、手術を終えられた方を心身ともにお癒しください。悩み、悲しみの中にある方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人の命を奪うことに正当な理由などありません。悲しみ、憎しみが生み出されるだけです。また、その悲しみを癒されることはありません。被害にあうのは弱い者、子どもたちです。どうかこの世に争いがなくなりますように。そのため指導者をお導きください。自然災害で被災された方々をお支えください。神の名を都合よく用い金銭を搾取すること、マインドコントロールによる洗脳、サタンの名を用いて人を不安に陥れることは、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。またそのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。今月誕生日を迎えられる方の上に主の祝福が豊かにありますように。三連休の中日となっています。よき休みの時になりますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヘブライ人への手紙 9章 23~28節」
聖書朗読
09:23このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 09:24なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 09:25また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 09:26もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 09:27また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 09:28キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「一回限りの犠牲」
ヘブライ人への手紙は、いつ誰によって記されたのか、はっきりとは分かっていない。現在では、紀元80~90年代に記されたのではないかと考えられている。ヘブライ人への手紙というからには、ヘブライ人、すなわちユダヤ人キリスト者に対して記されたと考えられる。しかしそれは、後からつけられた題名である。この手紙は、諸教会に対して記された勧告、勧めの言葉といえるであろう。著者をあえて匿名にしたとも考えられている。分からないことだらけである。しかし、それにもかかわらず、私たちを導いてくれる。9章23節以下は、ヘブライ人への手紙においてそこまでに記されたことのまとめ、すなわち著者が言いたかったことの結論である。
23節に「天にあるもの」と記され、24節には「人間の手で造られた聖所にではなく」とある。ヘブライ人への手紙の著者は、神がおられる天にある神殿こそが本物で、この世にある神殿は天にあるものの写しにしか過ぎないというのである。では、神殿とは何をする場所なのか。そこは神を讃美する場所である。それと同時に、神殿では大切な儀式が行われる。それは罪の赦しの儀式である。一年に一度、大祭司によって行われていた。そこでは人間の犠牲として動物の血がながされていた。しかしそれも天にある神殿で行われる罪の赦しの儀式の写しでしかないというのである。というのは、人間の大祭司が行う罪の赦しは、完全ではないので、年に一度行わなければならない。だから、天地創造、この世が創られてから、人間は度々苦しむのだというのである。
神の独子イエスがこの世に遣わされた。そして、十字架によって罪の赦しが行われた。イエスこそ天の真の大祭司であり、イエス自身が犠牲として血を流したので、完全な罪の赦しの儀式が行われた。その一回の出来事で、すべての人の罪、過去も今もすべて赦されるというのである。ただ、そこで疑問に思うことがある。イエスはこの世において十字架で殺された。天で行われたのではないと指摘できる。比喩であるとご理解いただきたい。
重要なのは、人間の大祭司における罪の赦しの儀式は、天の写しなので完全ではない。真の大祭司こそ神の独子イエスであり、イエスはご自分を犠牲にして完全な罪の赦しの儀式を行った。それが天における真の罪の赦しの儀式なのだということである。
そこで覚えておきたいのは、「一度」という言葉である。まず、イエスの一度の赦しで、全ての罪が赦されるということである。そして、次のような意味がある。イエスがこの世に遣わされたのが、一度だということである。それは、神の独子であるイエスが、この世に肉体として遣わされたということを意味している。肉体として遣わされたということには、次のような意味が含まれている。イエスは、人間として苦しみ、悲しみを経験したということ。人間の罪を見てきたともいえるであろう。罪がなかったのに十字架に掛けられた。それは人間の欲望によってであった。おのれの権威を守るために、民衆から支持されているイエスが邪魔になった。そこで殺した。人間の欲望は、様々な苦難を生み出す。欲は権力という上下関係を生み出す。そして、そこには強者、弱者という構図ができ、苦しみを受ける人々を生んでゆく。イエスこそが弱者の立場に立ち、歩んだ。つまり、人間として人間の罪、苦しみなど、すべて知っておられるのがイエスであるということである。だからこそ、真の罪の赦しを行うことができた。私たちの罪を今もなお負ってくださるのが、人間として苦難を負ってくださったイエスなのである。
そして、28節には「一度献げられた後、二度目には罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです」とある。それは、神の国、終末、この世の終わりの裁き、救いが述べられている。二度目は、終末を待ち望む人たちのためにイエスは遣わされ、神の国が現れるということである。
ヘブライ人への手紙の著者は、神の国の到来の預言を、そこで一番に示したかったのであろうか。そうではない。そこにある「ご自分を待望している人々」とは、神を信じるキリスト者である。では、なぜ神の国を待望していると記したのか。当初、神の国がすぐに訪れると信じ、信仰的に活気に満ちあふれていた。しかし、なかなか神の国が到来しないので、待ちくたびれてしまった。また、キリスト者が二代、三代になり信仰的に減退した。そこで著者は、信仰の希望の再活性化を企てたのであると考えられる。確かに、そのようにも考えられるであろう。一方、ヘブライ人への手紙を読む人々は、迫害にあっていたという理解もある。
私は、次のように理解したい。「ヘブライ人への手紙は、神・イエスを信じ、いま希望をもって歩もうという、励ましの手紙である。」と。私はじつは、聖書全体が励ましの書であると考えている。ヘブライ人への手紙で重要なのは、イエスが一度限りの完全な救いの儀式を行ってくださったということである。つまり、救いの道が私たちに開かれた。開かれたからこそ、神の国がイエスの十字架を通して表れ始めている。そこで大切なのは、神の国が現れ始め、完全な救いの到来を待ち望むという希望が与えられたということである。
神の独子イエスがこの世に遣わされ、私たちは罪を赦された。十字架の罪の赦しとは、いかなることなのか。罪とは、この世を創られた神を裏切ることである。神に対する罪であるから、赦すことができるのは神のみである。そこで重要なのは、犠牲としてイエスの血を用いなければならなかったということである。旧約聖書のイザヤ書22章14節には、「人間は死ぬまで罪が赦されることはない」と記されている。逆にいうと、人間の罪は、死によってしか赦されることはないということである。神殿では、動物の血が犠牲としてながされた。しかし本来、私たちは自分の血、命をもってしか自分の罪を償うことはできないのである。しかし神は、神の独子イエスの血、命を用いて、すべての人の罪を赦してくださったのである。人間の一度限りの命を、イエスは自分の命によって救ってくださった。つまり、私たちは罪ある者にもかかわらず、生かされているということなのである。神は愛なる方で、私たちをありのまま受け入れてくださっているとも言い換えることができるであろう。
一方、私たち人間は、それでも、この世において苦しみを負わねばならない。また、愛なる神を忘れる。それは愛を行わないということである。そのような人間に対し、終末に神の国が到来する。すでに表れ始めている。この手紙は、神の国の到来を信じ、神に生かされている者として、希望をもって今を歩もうと述べてくださっているのではないだろうか。つまり、イエスは私たちと共にいて、希望なる新た道を与えてくださったということである。しかも、人間の苦しみ悲しみを知っているイエスが、今もなお私たちと共にいて罪を負ってくださる。その根拠はイエスの十字架である。神はこのように、私たちに関与してくださっているのである。
ヘブライ人への手紙は、イエスの真の十字架の救いこそ、天における真の神殿における罪の真の赦しの儀式であると述べている。イエスの真の罪の赦しがあるからこそ、私たちは今生かされ、希望をもって歩んでいけるのである。悲しみ、嘆き、迫害にあっても、イエスが共にいてくださる。私たちは真の大祭司イエス、神に新たな希望の歩みが与えられている。神、イエスによって励まされていることを信じ、日々感謝をもって歩みたいと思う。
祈祷 贖い主なる神さま 御子イエスはこの世に遣わされ十字架を通して人間の罪をお赦し下さいました。真の大祭司イエスが、天の神殿でご自分の命を犠牲に血を流し、すべての罪をお赦し下さった。一回のこの出来事に、救いと希望があります。罪ある私たちにも関わらず神、イエスは私たちを生かしてくださり、希望の道を与えてくださっています。どうか、感謝し歩むことができますように。そして、この喜びを多くの人と分かち合うことができますようお導きください。本日は、世界聖餐、世界宣教の日です。現在、聖餐式はパンと葡萄酒を分かち合うことはできません。しかし、主イエスの救いを想起し、神の恵みを世界中の人々と分かち合う時として下さい。そして、神、イエスの救いを多くの人と分かち合うため私たちを強め、お用いください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。寒暖の差が大きくなっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方を心身ともにお癒しください。悩み、悲しみの中にある方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人間は欲深い者です。心の内を見ることはとても辛いことです。どうかイエスがともにあり、私たちが心にある欲を見ることができますように。特に指導者たちが自分の欲と向き合うことができますように。指導者は、民を導くことが何よりもの働きです。どうかそれぞれの国の民がその人らしく歩むことができるよう、指導者を導きください。争いは何も解決にならないことを教えてください。自然災害で被災された方々をお支えください。神の名を都合よく用い金銭を搾取することは、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。まそのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。今月誕生日を迎えられる方の上に主の祝福が豊かにありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間、新しい月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 14章 3~9節」
聖書朗読
14:03イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 14:04そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。 14:05この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。 14:06イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 14:07貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 14:08この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 14:09はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「仕える姿」
マルコによる福音書14章3節以下の物語は、四つの福音書すべてに記されている。それは皮膚病のシモンのベタニアにあった家に、イエスが行ったときの出来事である。当時、病人は罪を犯した罰であると考えられていた。また、皮膚病の人は隔離されていた。イエスが皮膚病であったシモンの家に行ったということから、イエスが社会的弱者や差別を受けていた者と共におられたということが分かる。エルサレム近郊の町ベタニアのその家でイエスが食事の席に着くと、一人の女性がやってきた。彼女は、非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもっていた。それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。ヨハネによる福音書には、女性の名前をマリアと記されている。しかし、マルコによる福音書には記されていない。女性の名を残さなかったのは、マルコが、彼女の名前ではなく彼女の行為を読者の記憶にとどめるべきであると考えたからだと理解できる。
そこにいた人の何人かが憤慨し、女性の持っていた高価な香油を「300デナリオン以上に売って、貧しい人に施すことができるのに」と叱った。1デナリオンは、1日の賃金にあたる。300デナリオンとは、ひとりの年収に相当すると考えることができよう。それだけ大きな額を、彼女はほんの一瞬で使ってしまった。そこにいた人々はなぜ憤慨したのか。第一に、当時、女性が男性の出席している食事の場に勝手に入ることはなかった。そこから、この女性は当時において社会的に身分の低い者だったと考えられる。憤慨した人々は、その香油が高価なものであったからこそ、貧しい人と分かち合うことが道徳的に正しいと考えたのであろう。持っているものを持っていない人に分えることは、道徳的に正しいといえよう。もちろんユダヤ教でも、貧しい人に施しを行うことは神の思いに適うことであるとして行われていた。
さて、現代ではどうか。食事の席で、いきなり頭に香油を注がれたなら、どうであろう。誰もが驚き怒るのではなかろうか。しかし、イエスは怒らなかった。それどころか、その女性の行いを褒めたのである。そこには、どのような意味があるのか。その壷または、その器には次のような意味があったと思う。人間が器を両手でかかげて持つということは、自分自身を、その対象の人にささげるという意味がある。つまりその女性の行為は、高価なナルドの香油を捧げたということと共に、彼女自身をイエスに捧げたということを意味している。また、壺を壊したという行為も、女性自身の心をイエスに対して開いたという意味があると考えられる。イエスは「この女性はよいことをしたのだ」と述べた。そこで「よい」と述べたギリシャ語は「カロス」である。その語には、道徳的に良いことをしたという意味がある。憤慨した人たちは、道徳的に正しいことを行うようにと述べたのに対し、イエスは女性の行いは道徳的に正しいのだと答えたのである。また、その女性の行為は、イエスを讃美するものといえよう。イエスに心を開き、そのときその女性ができた最高の捧げもの、もてなしをしたと理解できる。ユダヤ教では、死者を丁重に葬ることを大切にしていた。香油を塗るという行為は、宗教的な行為だったのである。そのときまだ生きておられたイエスに、死者を葬るような作法を行った彼女の行為は、いかがなものであったか。イエスはそれまで幾度か、自身の十字架の死を予告していた。つまり、イエスの言葉に対して心を開き、聞いていれば、イエスが十字架によって殺されることを理解できていたといえる。香油を注いだその女性がそのとき、イエスの十字架の予言をどれだけ理解していたかは分からない。しかし、香油を注ぐという行為は、イエスの十字架の死に対する葬りの準備を行ったといえよう。それは、十字架という神の計画が成し遂げられることを讃美する出来事であった。そのようにイエスは受けとり、女性の行いを褒めた。いや、それだけではなくイエスは「世界中どこでもイエスの救いが述べ伝えられる場所では、この人のしたことは記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃったのである。その女性の香油を注ぐ行為は、イエスに対する信仰の応答のしるしの一つであった。それは信仰者として倣うべき行為なのだと、イエスがそう述べたといってよいであろう。また、イエスは「貧しい人はいつもあなたがたと共にいる」と述べた。わたしは思う。貧しい人に施しを行うことは正しい。一方、その女性は十字架に向かうイエスを讃美していた。その時にしかできないことを行った。十字架によってイエスがこの地上から去った後は、貧しい人に施しを行うことがイエスに対する信仰の応答となるということではなかろうか。マタイによる福音書の25章でイエスは「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言っている。また、旧約聖書申命記15章には「この国に貧しい者はいなくなることがない」とあり、それは「あなたがたは施しを行っているのか」というイエスの問いでもあるように思える。
4節に「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った」とある。彼らは憤慨しただけでなく「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。(5節)」と言った。「そして、彼女を厳しくとがめた。」とある。かなり厳しく叱ったことが分かる。憤慨し怒った理由の一つとして、それが女性であったからということがあげらあれよう。先ほども述べたが、女性が男性の出席していた食事の場に勝手に入ってきたことが、当時としてはかなり異常だった。一方、イエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか(6節)」と言っている。そこに大きな意味がある。当時はもちろんのこと、男性上位という価値観があった。女性や子どもは、一人の人格と理解されず、奴隷と同じ低い立場に追いやられていたと考えられる。脚を招待する食事の場は、男性の場であった。女性がそこに入ることはゆるされなかった。そのような価値観からの解放が、そこにある。イエスは、子どもに対しても、マルコによる福音書10章で「子どもたちをわたしのところに来させなさい。さまたげてはならない」と述べている。イエスにとって、女性も、子どもも、病人も、奴隷も、みな一人の大切な人格なのであった。それは人間だけではなく、この世にあるものはすべて神によって創られた大切な存在であり、神はそれを養ってくださるということである。男性上位の社会において、イエスはすべての人が平等であると、すべての人にイエス、神への道が開かれていると、すなわち、全ての人が神の愛を受け、救いへと導かれていると示してくださった。イエスは、すべての人をありのまま受け入れ、その存在を肯定していた。この世的な価値観からの解放が、そこには示されていたのである。すべての人に神によって自由が与えられている。自由であるからこそ私たちは、神イエスを讃美し、イエス神に仕えることができるのである。神は、神を讃美すること、神に仕えることを強制してはいない。すべての人が神の前で平等であり、自由を与えられているのである。その喜びに私たちは応答すべきなのである。イエス、神の救いの応答として、その女性は、そのときできることをイエスに対して行った。それは信仰の証の一つであり、感謝の応答だった。だからこそ、記念として世界中で語り伝えられたのではないだろうか。私たちも、イエスによってありのまま受け入れられている。神イエスの前では誰もが愛され、平等なのである。私たちも、この世的な価値観から解放されているのである。その喜びに感謝し、互いの存在を尊重し、神イエスに応答したいと思う。そのことによって差別や偏見はなくなるのである。
祈祷 全知全能なる主なる神さま 私たちは、様々な偏見、差別、この世的な価値観にとらわれてしまいます。神、イエスは、一人ひとりをありのまま愛し、受け入れ、その存在を肯定してくださいます。私たちも、あなたに愛されている者として応答することができますように。また、あなたに愛されていることを確信したときにこそ、隣人を愛し、受け入れ合うことができます。どうか私たち、神、イエスに愛されている者同士が、互いを尊重し、歩むことができますように。台風が2週連続で到来しました。被災された方々をお支えください。世界では異常気象によりかんばつ、水害が行っています。どうかその場にあってお支えください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方を心身ともにお癒しください。争いでは何も解決しません。「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」。このことが行われますように。争いで最も被害にあうのは、弱者、子どもたちです。子どもたちによき未来を与えることができますよう指導者を導きください。そのため私たちをお用いください。神の名を用い金銭を搾取することは、神の求めていることではありません。一方、そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。土曜日から新しい月がはじまります。よき月となりますように。また、そのためこの礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。 この小さき祈り、主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(2) 4章 16~18節」
聖書朗読
04:16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 04:17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 04:18わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「日々新たにされる」
コリントの信徒への手紙(二)4章16節以下に心を傾けたいと思う。16節に「わたしたちは落胆しません」とある。落胆するとは、日本語の意味では、期待通りにならなくて、がっかりすること、失望することである。何に対して失望していないと言っているのか。それは「『外なる人』が衰えても失望することはない」と言うことなのか。「外なる人」とは、肉体を意味している。
「落胆しない」と訳された元のギリシャ語は「エンカケオー」である。その言葉は、コリントの信徒への手紙(二)の4章1節にも用いられている。そのことから、4章1節以下と16節以下は、同じ主題を扱っていると言える。実は、この「エンカケオー」に「落胆しない」という意味はないと述べている学者がいる。理由として、古典ギリシャ語では「怠慢である。さぼる、さぼって実行しない」という趣旨である。新約聖書のギリシャ語にだけ、それと違う意味を考えるべき特別な理由は何もないというのである。他の学者も、その言葉は元々「悪い(カコス)」状態になることを意味すると記している。そこで「落胆しない」ではなく、「私たちは怠けることなく」、また、「さぼることはしない」と訳しているのである。
では、4章1節以下では、どのようなことが記されているのか。「私たちを憐れみ、どんなに迫害、苦難の中にあっても、神は見捨てることなく、イエスを通して私たちと共にいて力を与えてくださっている。イエスが十字架で死に復活されたように、私たちにもその復活の力が働いている。そこで、多くの人と神の恵みを分かち合って生きる」というのである。しかも7節には「弱くてもろい『土の器』である私たちにもかかわらず、神は『宝』を『土の器』の中に収めてくださっている」と書かれている。宝とは「キリストの栄光の福音」である。簡単に言えば「イエスの十字架による救い」、「ありのままを受け入れてくださる愛」といって良いと思う。イエス、神の恵みを与えられている者として、神の恵みを多くの人と分かち合うため、「さぼることはしない」と理解することができるであろう。
コリントの信徒への手紙を記したのは、パウロである。パウロは、元々ユダヤ教のファリサイ派に属し、神を述べ伝えていた。しかし、復活のイエスに出会い、イエスこそがパウロの信じている唯一の神の独り子であるということに気づいたのである。それからイエスの救いを述べ伝えた。そのために、パウロは「さぼることはしない」と自ら鼓舞したと理解できるのではないだろうか。パウロの宣教には、様々な苦難があった。パウロはユダヤ人ではない異邦人だった。イエスが活動したパレスチナではなく、現在のトルコからローマにかけて、イエスの救いを述べ伝えた。イエスを知らない人々に語ることによって被害にあった。また、当時のエルサレム教会から理解されないという苦難もあった。しかしパウロは、どんな苦難な中でも、十字架のイエスが共にいて導いてくださるという強い確信をもって歩んだのである。しかもパウロは、身体的な病気、障害を持っていた可能性がある。それにも関わらず、「さぼることはしない」というのである。「どのような苦難の状況においてもイエスの救いを述べ伝えるのだ」という思いを見ることができる。その前提には、神による導き、励ましがあるということである。神様の恵みに応えようとするパウロが見える。
「さぼることはしない」とは、厳しい意味ではなく、神の恵みを受けた者として神に対する感謝をもち神の栄光をこの世に現わすように生きようという、いや、そのように生きることができるように、神がイエスを通して恵みを与え、共に歩んでくださっているのだという励ましであると私は理解したい。つまり、信仰、神の救いを与えられていることに対する応答である。
次にパウロは「『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と述べている。「外なる人」とは肉体である。私たちの肉体は弱まり、滅びる。しかし、「内なる人は日々新たにされる」のである。他方、私たちの肉体は、この世的・悪魔的な誘惑または苦難を受ける。もしかしたら、さぼるということも誘惑なのかもしれない。しかし、「日々新たにされる」のである。そこに大きな意味がある。それは、「この世的・悪魔的な誘惑にさらされていても、私たちはそれ以上に、日々新たにされる。神の恵み・導きが、聖霊を通して、この世的・悪魔的な誘惑、苦難を受ける以上に、事前に与えられている。だから、『内なる人』は負けることがない。神が絶対・永遠であるように、『内なる人』はこの世的・悪魔的な誘惑、苦難に打ち勝つことができる。いや、神、イエスが、すでに打ち勝つよう力を与え、支え、導いてくださっているのだ」である。しかも、その誘惑・苦難は「一時」なのである。それは「一瞬」といってもよい。神の救いは永遠だからである。では、「内なる人」とはいかなることなのか。それは、聖霊が与えられる私たち自身の内の出来事である。心に宿る信仰といっても良いかもしれない。「日々新たにされていきます」も継続的でよいのだが、面白い訳がある。もっと分かりやすく「私たちの内なる人は日に日に新たにされ続けます」という訳である。分かりやすいと思った。というのは、「新たにされる」は、ギリシャ語でアナカイノー。「アナ」と「カイノオー」という単語が組み合わされている。「アナ」とは「反復」、「カイノオー」は「新たにする」を意味し、何度も何度も、その都度、新たにされるという意味合いがあるからである。
「外なる人」、肉体は衰えても「内なる人」、つまり、聖霊によって私たちの信仰は日々新たにされている。そこに年齢は関係ない。パウロが苦難にあっても神の救いを述べ伝えることができたのは、神による聖霊が何度も何度も、日々、その都度与えられていたからである。それは、私たちも同様である。私たちは日々、その都度、聖霊によって新たにされている。聖霊は見えないが、確かな神の働き、力である。その聖霊が何度も、何度も与えられている。
本日の礼拝は、敬老祝福礼拝としている。年を重ねられた方々は、その分、日々新たにされてきた。つまり、聖霊を何度も何度も与えられ、応答してこられた方々といえるであろう。その恵みを私たちは覚え、感謝したいと思う。そして、日々、神によって聖霊が与えられてきたということを、私たちは年を重ねられた方々を通して教えてきただき、希望を持つことができるのである。私たちは日々新たにされている。信仰に衰えなどない。主の聖霊が今もなお、ここに注がれている。そのことを確信することこそ、私たちの生きる支え、力、励ましになる。新たなる者とされていることを感謝し、神に応答したいと思う。応答のしるしとしての祈りを捧げたい。
祈祷 全知全能なる主なる神さま あなたは、一人一人に命を与え、その生涯、いや永遠にお導きくださいます。私たちは弱く誘惑される者ですが、あなたはそれ以上に私たちに聖霊を注ぎ新たなる者として守り、お導きくださいます。わたしたちの肉体は朽ちますが、信仰は日々新たにされると信じます。どうか、あなたに生かされていることを信じる力を与え、日々新たなる者としてください。そして、神の恵みを多くの人と分かち合うことができますように。あなたに応答し、感謝をもって日々歩むことができますように。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。台風が到来する季節になりました。今も台風14号が到来しています。どうかそれぞれの場にある方々をお守りくださいますように。被害がこれ以上でないようお導きください。世界では異常気象によりかんばつ、水害が行っています。どうかその場にあってお支えください。三連休の中日となっています。それぞれの場にある方々がよき休みとなりますように。争いは人間の欲でしかありません。互いを尊重し、和解するようお導きください。イエスこそ神と人間の和解をもたらしてくださいました。それは私たちが倣うべき事柄であり人と人との和解の導きでもあります。どうかこの世に争いがなくなりますように。そのため私たちをお用いください。神の名を用い金銭を搾取することは、神の求めていることではありません。一方、そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。 新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時を迎えることができますように。金曜日には、茨城地区大会が当教会で行われます。よき学びとなりますように。講師でお越しくださる平良さんの健康をお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ホセア書 11章 1~9節」
聖書朗読
11:01まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。 11:02わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。 11:03エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。 11:04わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。 11:05彼らはエジプトの地に帰ることもできず
アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。 11:06剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち
たくらみのゆえに滅ぼす。 11:07わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも
助け起こされることは決してない。 11:08ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。 11:09わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の子となる」
新約聖書を読んだことがある私たち、そして、イエスの言葉を知っている私たちは、神を父と呼ぶ。神が父であるとは、親という親しい関係であると理解できるであろう。イエスは、神を「アッバ」と呼んだ。それは、幼子が親しみを込め「おとうちゃん」と呼ぶ言葉である。そして、神の独り子イエスは、主の祈りで「天におられるわたしたちの父よ」と教えてくださった。そこで、私たちも神を「父」と直接呼びかけることが許されたのである。聖書は、神のことを父と教えているのであろうか。実は、旧約聖書では異なっている。「神」と直接呼びかけることさえおこがましい。神は畏れ敬うべき存在であり、神を見ることは死を意味するという理解さえある。あるとき私が、主の祈りについてお話をしたときに、「旧約聖書でも神を父としているのでしょうか」という質問を受けた。「旧約聖書では神を父、親とする考えは基本的にない。しかし『ない』とは言い切れないと私は考えています」と答えた。すると、ある先生から「旧約聖書には神を父と呼ぶ理解はない」と指摘を受けた。確かに基本はそうであるといえるであろう。しかし、本当にそうなのか。
そこで、本日与えられた聖書箇所、旧約聖書のホセア書11章1節以下に心を傾けたい。1節には「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とある。神は奴隷として苦しんでいたイスラエルの声を聞き、モーセを指導者としてエジプトから脱出させた。イスラエルを「わが子とした」。養子とするという理解である。しかし2節には、「イスラエルは唯一の神と契約を交わしたにもかかわらず、古代パレスチナの民が礼拝した豊作の神バアルを拝んだ」とある。3節にあるエフライムとは、イスラエルの別称である。神はイスラエルの先祖となるアブラハム、また出エジプト記のときに契約を交わして、これを幼い子どものように大切に育て、導き、傷を癒してくださった。
4節は「愛の絆」でお導きくださる。イスラエルを雄牛にたとえている。「軛(くびき)」は、牛などの首につけ荷車などに結び付ける木の棒の器具である。軛を外さなければ食事ができない。神は軛をはずし、しかも身をかがめて食事を与えてくださった。そのように大切に育ててくださる。そこで、カトリックのフランシスコ会訳聖書を見ると「慈悲の紐(ひも)や愛の絆(くびき)で、わたしは彼らを導いた。わたしは彼らに対しては、赤子を抱き上げて頬ずりする者のようであった。わたしは身をかがめて彼に食べさせた」とある。新共同訳聖書とかなり異なっている。確かに「本文を僅かに修正した」と注釈に記されている。フランシスコ会訳は、神を父、イスラエルを子とする理解に立って訳していると思う。神が人間に頬ずりしてくださる。それほどイスラエルを愛おしい存在だと思っていることが分かる。
紀元前722年、ホセアが預言活動をした北イスラエルは、エジプトと同盟を組みアッシリアと闘うという期待があった。しかし結局、イスラエルはアッシリアに負けて滅ぼされた。エジプトと同盟を組もうが、アッシリアに負けようが、どちらにしても奴隷という状態になった。政治的駆け引きは、人間の策略にしかすぎない。人間の策略は、自分の力を信じる現れである。それでは問題は解決しないという意味もあるだろう。結局、争いでは解決できず、荒れ果てる。「たわごと」、占いも何も意味はないというのである。7節には、このようにイスラエルは神に背いてしまい自ら滅びたとある。
しかし、8節に「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」と書かれている。神の愛、思いが最高度に描かれている。申命記に、アダマとツェボイムは、ソドムとゴモラと共に記されている。創世記18章20、21節に「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう』」とある。ソドムとゴモラは、結局、罪深いため、神の裁きを受け滅びに至った。アダマとツェボイムも、同じように神に背いたことによって滅ぼされたということの象徴として、それが8節に記されていると考えることができる。しかし神は、アドマとツェボイムのようにイスラエルを見捨てること、滅ぼすことなどできないというのである。神は、「憐れみに胸を焼かれる」。興味深い言葉である。神が苦しんでおられるということを、そこから見ることができるからである。苦しむほどにイスラエルを愛している。そして、9節には「わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」とある。わたしは神であり、人間ではない。神は聖なる方です。「聖」とは人間とはまったく異なり、完全、絶対的な力を持っておられるということである。それは力だけではなく、愛も同様である。人間の愛と神の愛は比べものにはならない、人間には想像もできないほど大きいといってよいであろう。神は、聖なる方であるから、イスラエルを滅ぼすことなく愛し続けるというのである。
新約聖書ルカによる福音書の15章でイエスは、放蕩息子のたとえを語っている。親が生きているのに財産を求めた息子は都市の生活にあこがれ、親のもとを離れ、都市で財産を用いて豪遊した。しかし、財産を使い果たすと、誰も彼を助けてくれない。息子は自分の行なったことを悔い改め、親の元に帰った。父は何も言わず喜び息子を抱きしめ、家に迎えた。そのたとえ話は、帰ってきた息子を受け入れる親のたとえである。その親こそ神であり、神の愛が述べられている。「放蕩息子のたとえ」ではなく「放蕩の息子をありのまま受け入れる父親のたとえ」という言い方が正しいと言える。ホセア書11章も、神は裏切ったイスラエルをただ愛し、帰りを待ってくださる。ホセア書でも、神は、人間に対し父と子の関係をもってくださったといえるであろう。
イスラエルは、神に背き、自分の力、同盟などの政策で、困難な状況を乗り切ろうとした。自分の力を信じたといえよう。しかし、結局、アッシリアに滅ぼされてしまった。神は、居ても立っても居られない。子どもであるイスラエルを愛し、心配した。神は、愛する対象として、この世を創った。そして、弱い民であるイスラエルと契約を交わした。神からの一方的な契約であり、契約の通りに愛し、導いてくださるのである。しかし、イスラエルは神に背き、神ではない神を拝み、神ではなく自分の力を信じた。そのよなイスラエルを、神は子どもとしてくださるのである。ここに大きな意味がある。父と子という関係は、契約以上に、断ち切ることのできない関係と言えるのではなかろうか。親は基本的に、子どもに対して責任を持っている。神は、親としての責任を自ら負ってくださったのである。元来、神と人間は父と子という関係ではない。しかし、神に背いてしまったイスラエルを愛したからこそ、父と子という関係としてくださった。それは、絆を切ることなく、責任をもって神が導いてくださるということである。「父と子の関係」は契約ではなく、愛をもって導く、と理解できるのかもしれない。究極的な救いの関係といえるであろう。つまり「父と子」という関係によって、神の救いの一大転換が起こったのである。
私たちにも同様である。イエスによって、より父と子という関係が完成した。しかも、イスラエルだけではなく、すべの人が神の子とされたのである。私たちは神の子とされてしまった。切ることのできない絆を、神はもってくださった。一方、私たち自身も、神の子であるという自覚を持つべきなのではなかろうか。子どもとして神に無条件に愛されていることを確信したいと思う。その時、自分自身を受け入れることができ、神に愛されている他者をも受け入れることができるのではないだろうか。また、神の愛に倣い、その愛のもとで生きるという思いを持つことができる。私たちは決して一人ではない。神は、私たちに頬ずりするほど愛してくださっている親なのである。神の無償の愛を理解し、受け取りたいと思う。そのことを理解したときにこそ、私たちの歩みにも一大転換が起こるのである。新たな歩みがはじまるのである。
祈祷 愛なる神さま、わたしたち人間は、あなたに愛されているのにもかかわらず、あなたの愛を忘れ、あなたから離れてしまうことがあります。あなたは、どんなことがあろうとも人間を見放すことなく、責任を持って愛し、導いてくださいます。あなたが私たちを子どもとしての関係・絆を結んでくださったからです。あなたの愛を感謝いたします。わたしたちが神の子として歩むことができますよう、これからもお導きください。そして、私たちが神の子同士として、手を結び歩むことができますように。人と人とが争うことは、神の御心ではありません。神は、互いに愛し合うようこの世を創られました。また、争いで被害にあうのは最も弱い者、子どもたちです。争いは悲しみしか生み出しません。しかも、悲しみは癒されることなく心に残ります。どうか、この世において争いがなくなりますように。わたしたちをお用いください。これから台風が発生する季節になります。11号でも被害が起こりました。それは日本だけではありません。また、世界では大雨による水没、逆にかんばつにより被害が出ています。どうか被災された方々、悲しみの中にある方々、不安の中にある方々をお支えください。これ以上被害が出ないようお守りください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々に心身ともにお癒しください。お金を搾取することは神の意思ではありません。神の名を用い私腹を肥やす者、そのために悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。どうかお救い下さい。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時を迎えることができるようお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間、一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 5章 1~7節」
聖書朗読
05:01わたしは歌おう、わたしの愛する者のために
そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に
ぶどう畑を持っていた。
05:02よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り
良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
05:03さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ
わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
05:04わたしがぶどう畑のためになすべきことで
何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
05:05さあ、お前たちに告げよう
わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ
石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ
05:06わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず
耕されることもなく
茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
05:07イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに
見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに
見よ、叫喚(ツェアカ)。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「期待している」
紀元前1000年頃、ダビデによって12部族の統一王国となったイスラエルは紀元前922年、エルサレム神殿のある南ユダと、サマリアのある北イスラエルに分裂した。6章に、イザヤが預言者となる召命記事がある。年代は南ユダを長く治めていたウジヤ王が天に召された紀元前736年頃であると考えられる。南ユダの転換期となる。本日の箇所は、イザヤの召命の前だが、イザヤの歌であるといってよいであろう。またこの頃、ウジヤ王の死と共に、アッシリアが侵略政策を展開し、対外的に緊張した状態でもあった。その状況であるからこそ、神へと導く預言者が必要であった。なお本日の箇所ではイスラエルとユダとに呼びかけているが、一緒にしてイスラエルと述べる。
政治的に緊張した状態と述べたが、1節に「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を」とある。ぶどう畑の愛の歌と記されているように、愛の歌という明るい記述から始まっている。
ぶどうにはどのような意味があるのだろうか。現在では、ワインにはポリフェノールが含まれていて、体に良いと言われたりしている。古代オリエントでも、ぶどうの樹は健康と富の象徴とされていた。そして聖書では、ぶどうの樹は選ばれた民の象徴である。ぶどう畑は、天と地を結びつける神の愛のしるしとして、旧約聖書の雅歌などでも用いられている。
1節に「わたしは歌おう」とある。「わたし」とは、新郎の親友である。次の「わたしの愛する者」とは、新郎である。「私の愛する者は、ぶどう畑を持っていた」のである。ぶどう畑は新婦である。そのような愛の歌である。新郎の親友は預言者イザヤ、後に明らかになるが、畑の持ち主である新郎は神、ぶどう畑の新婦はイスラエルを指している。神とイスラエルはパートナーであったといってよいであろう。ぶどう畑の持ち主は、肥沃な丘を持つ。これはエルサレム、シオンの丘を意味している。2節に「畑をよく耕し、石を除き、見張りの塔を立てる。」とある。つまり、ぶどう畑である新婦イスラエルを大切にし、守っている。そして、ぶどう酒を作るために酒ぶねを掘り、大切に育てたので、よいぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。それは、イスラエルが神に対して不従順であったことを意味する。
3節から語り手が交代している。語り手は親友からぶどう畑の持ち主、つまり神が語るようになっている。そこで神は、イスラエルに対して裁きを求めた。私はそのように受け取りたいのである。神から与えられた愛と神への背きの歩みを客観的に見るようにと、神はイスラエルに求めているのではないか。4節では、ぶどう畑に対して持ち主はできる限りのことを行ってきた。神は、イスラエルを自分の民として、「これ以上何ができるのか」というくらいに愛を注いできたので、良い実を結ぶことを待った。つまり、イスラエルの民が神と正しい関係を持つよう待った。しかし、イスラエルは、神に背いた。イスラエルは、神に対する背きを認めざるを得ないであろうと言える。
5節に「そこで神は、ぶどう畑の囲いを取り払い、石垣を崩す」とある。つまり、周りの敵から守るものをすべてなくしてしまう。そうしたなら、敵がぶどう畑、イスラエルを焼き払い、踏み荒らす、崩壊をもたらす。6節で「しかも見捨てる」と神は言うのである。「茨やおどろ」は、荒れ果ててしまうことを象徴する言葉である。イスラエルは敵によって荒れ果ててしまう。そこで、ぶどう畑の持ち主は「雨を降らせるな、と雲に命じる」のである。雲に命令することができるのは、この世を創造されたぶどう畑の持ち主、すなわち神であることが示される。そして、7節では、ぶどう畑の持ち主こそ、万軍の主であることが明らかにされる。主は楽しんでぶどうを植えた。神こそイスラエルの民を選び、育て、良い実を結ぶことを楽しみに待っていた。神との正しい関係にあることを楽しみにした。7節後半は、語呂合わせをしながら、イスラエルを批判している。「主は裁きを待っておられた」と。公平を待ち望まれたと訳したほうが分かりやすいのかもしれない。しかし、流血、争いを行ったといえるであろう。正義を待っておられたのに叫喚、大声で叫んだ。号泣したという訳の方が理解できるかもしれない。イスラエルは、神が期待していたことと違うことを行い、悲しみであふれたのであろう。
本日の箇所は、愛の歌から始まった。神はイスラエルを選び、関係を正しく持とうと手塩にかけ導き、待った。しかしイスラエルは、神に従わず、号泣した。神の裁きが記されているのであろうか。
ここでイザヤ書27章4節をみると「わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば/わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。」とある。この個所は、黙示的に記されている。黙示とは、神の意思があきらかにされることである。神の裁きがあるが、最終的に神は救いをもたらしてくださると言えるであろう。「茨とおどろ」とは、荒れ果ててしまうことの象徴と述べた。27章4節には、荒れ果てさせようとする者、つまり敵を神は焼き尽くすとある。27章4節は、本日の聖句「ぶどう畑の歌」を念頭に置いて記されたと考えられる。また、マルコによる福音書12章1~12節にも、イエスのぶどう畑のたとえが記されている。ぶどう畑の持ち主が収穫時に収穫を受け取るためぶどう畑に僕を送った。しかし農夫たちは、ぶどう畑を自分たちのものにするため僕を殺した。それを数回行った後、ぶどう畑の持ち主は、自分の一人息子なら農夫は話を聞くだろうと息子をつかわした。しかし、農夫たちはその息子をも殺してしまったというたとえ話である。息子はイエス、僕は預言者である。イスラエルの民は、神の僕である預言者を殺し、しかも、神の独り子イエスさえも殺してしまった。イスラエルの不従順と十字架の予言が記された箇所である。そのたとえ話は、本日のイザヤ書のぶどう畑の歌を思い起こさせる。イエスのたとえ話で、独り子は殺された。
しかしその死、つまり十字架をも、神は人間の救いに用いた。また、イザヤ書27章4節のように、本日の箇所も神の救いが暗示されているといってよいように思う。というのは、本日の箇所で、最後に神は裁きを述べていないからである。「民は流血し、泣く」で終わっている。そこに、大きな意味があると思う。それはいかなることか。最後に神が裁きを述べていないのは、イスラエルが神に向かうように、花婿が花嫁との関係が上手くいくように、ぶどう畑の持ち主がよい実がなるように待っているように、つまり神は、神に背くイスラエルを信頼し、待ってくださっているということが意味されていると受け取りたい。ぶどう畑の持ち主が手塩にかけてぶどうを育てる。つまり、神がイスラエルの民を愛し、守り、導いてきたことを振り返り見て、神の愛に気づくよう待っていると理解したいのである。
それは、私たちに対しても同様である。神が無条件に私たちを愛してくださっていることを、私たちは改めて見たいと思う。私たちには、悔い改めることも必要であるが、同時に神の愛なる導きを思い起こすこと、すなわち神の恵みの数を数えることも必要なのである。神は沈黙し、どのような状態になろうとも、私たちに期待し待ってくださっている。そこに神の愛を思う。神に応答したいと思う。応答とは、ただ神を愛し、導きを信じるということである。神の愛を確信し、応答することによって、対外的な緊張を打開できるのではなかろうか。イザヤこそ、人間的な政策ではなくただ神の導きを信じなさいと呼びかけた。神に背くとは、神の導きを信じないで、自分の力で解決しようとする思いである。神は、最も良い道を私たちに示してくださる。過去も今も。神は、私たちが神の導きに従い、正しい関係を持つことを期待してくださっている。その期待に応答したいと思う。
祈祷 いつくしみ深い神様、あなたは、イスラエルを選びただ愛し導きます。しかし、イスラエルは神の導きに反してしまうことがありました。それにもかかわらず神は、イスラエルが神に向かうよう信頼し、待っておられます。1800年前に記されたイザヤ書を通して神の愛を知ります。それは、現代の私たちに対しても同様です。人間は自分の力を信じ、自分の企てによって自ら滅びへと向かってしまいます。どうか私たちが神の愛、導きを改めてみることを通して、神に応答することができますようお導きください。主こそ、私たちと共にいて正しい道へとお導きくださいます。人間は自分の企てにより争いを起こしてしまいます。しかし神が私たちを愛し、共に歩んでくださるように、私たちも隣人と共に歩むことができますように。特に、国の指導者をそのように導き、争いが終わるようにしてください。大型台風の影響で大雨となっています。また、日本だけではなくパキスタンでは国土の三分の一が水没しています。どうか被災された方々、悲しみの中にある方々、不安の中にある方々をお支えください。被害が出ないようお守りください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々に心身ともにお癒しください。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時を迎えることができるようお守りください。 この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間、一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「エフェソの信徒への手紙 2章 1~10節」
聖書朗読
02:01さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 02:02この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 02:03わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 02:04しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 02:05罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 02:06キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 02:07こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 02:08事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 02:09行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 02:10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
礼拝メッセージ:和寺 悠佳 牧師「ここにいる意味」
1 私は現在、キリスト教学校にお仕えしています。日本のキリスト者の人口は非常に少ないのですが、キリスト教学校で学ぶ生徒や学生、そしてそこで働く教職員は、かなりの数になります。それでもキリスト教学校の中でのキリスト者は、少数派です。だからでしょうか、キリスト教学校に働きの場を与えられておりますと、キリスト者である、クリスチャンであるということは、いくらか特別な見方をされているように思えることがあります。学生と話をしていて「クリスチャンの人に会ったことはなかったけれど、先生も普通なんだ」と言われたことがあります。「普通」であることが話題になるのですから、キリスト者であることが、そうではない人から見て「普通」ではない、どこか特別な存在に思われているのかも知れません。
似たような感覚は、私たちキリスト者自身も持っているのかも知れないと思います。「キリスト者であるのだから、こうあるべきだ」「キリスト者として相応しい生き方をしなければならない」そのように感じた経験を、恐らくほとんどの方がお持ちなのではないかと想像します。キリスト者として相応しい歩みとは何か、何をすることがキリスト者に相応しいのかという問いは、私たちの頭から離れないものだろうと思います。
2 今朝与えられた御言葉には、「あなたがた」「わたしたち」という表現が多く用いられています。「あなたがた」「わたしたち」とは、複数のキリスト者のこと、つまり教会を指しています。教会に連なる私たちに向けて、神様は御言葉を与えてくださっています。
今朝の御言葉は、「あなたがたは、以前は過ちと罪のために死んでいたのです(1節)」と始まります。「死んでいた」とは、とても強い表現ですが、確かに死んでいたとしか言いようのない状況にあったのが、私たちの歩みかも知れません。なぜ死んでいたのかと言えば「自分の過ちと罪のため」でした。過ちと罪を犯す理由について、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者(2節)」に従ったからだと説明されています。「この世」とは神様に敵対する、神様に従わない世界のことで、「かの空中」とは、私たちが生きているこの世界のことであり、いずれも神様に従わない存在、神様から私たちを引き離そうとする存在を指していると言ってよいでしょう。私たちを神様から引き離そうとする力は確かに存在します。神様のほうを向こうと思っても、それを妨げようとする力は確かに存在する。その力に従ってしまうから、神様から離れてしまうのであり、それが「過ちと罪」だと言われているのです。
神様から離れてしまう、その経験は、信仰の歩みを続けている者にとっても、無縁なものとは言えないのではないでしょうか。主日の礼拝で、日々の祈りの生活の中で、主の祈りを祈ります。主の祈りでは、「我らの罪をも赦したまえ」と祈ります。私たちには罪がある。だから、その罪を赦してください、と日々の祈りで、祈り続けるのです。私たちは罪がある、それならば、私たちは「死んでいる」存在でしかないのでしょうか。
もう一度、御言葉に丁寧に聴いてみたいと思います。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです(1節)」と言われていたのでした。まず、「以前は」とあります。「今」の私たちのことを言っているのではなさそうです。「以前は」「死んでいた」と言うのなら、「今」は生きていると言いたいことになるでしょう。また、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者」は、「不従順な者たちの内に今も働く霊(2節)」だとも言われています。「不従順な者」とは、信仰のない者のことです。私たちは自分の信仰のあり方について、胸を張ることはできないかも知れません。けれども、自分には信仰はない、自分は信仰者ではないと言うことは決してできないでしょう。すると、私たち自身は「不従順な者」、信仰を持たない者というわけではなくなります。さらに、3節では「不従順な者たち」は「こういう者たち」と呼ばれ、「わたしたち」とは区別されています。すると「不従順な者たち」とは私たちキリスト者を指しているのではないことになります。
そのように、1~3節において語られていることは、私たちの姿ではないことになるでしょう。
3 それでは、「以前」でもなく、「不従順な者」でもない、私たちキリスト者のあり方とは、どのようなものなのでしょうか。それが4節以降で語られています。ここに、「今」の、「従順な者」つまり信仰を与えられた者の姿が、示されています。ここに示されているのが、私たちの姿です。もっと正確には、私たちに対して神様が何をしてくださったのかが、記されています。
神は、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました(5~6節)」。それが、私たちに対して起こっていることです。そこに「共に」という言葉が3回も用いられています。「共に」とは、誰かと「共に」ということです。私以外の誰かの存在があるということです。その誰かとは、もちろん、イエス・キリストです。私たちは、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストと共に復活し、イエス・キリストと共に天の王座に着いている者だと、ここで言われていることになります。私たちは、すでに、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストと共に復活し、さらに、イエス・キリストと共に天の王座についている。私たちは、今や、そのような存在となっている。聖書は、そのように語るのです。
それでは、私たちは、どのようにしてイエス・キリストと共にいる者とされたのでしょうか。それは、洗礼です。洗礼により、私たちはイエス・キリストと共に生きる者とされました。洗礼により、私たちは、イエス・キリストの復活に共に与る者とされました。洗礼により、私たちは、イエス・キリストのおられる天に、自らの居場所を持つ者とされました。洗礼の出来事は、これほどのことを私たちにもたらしてくれました。洗礼により、私たちは「以前」の「不従順な」あり方とは全く異なる、「今」の「従順な」あり方へと変えられたのです。
しかも、大切なのは、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです(5節)」と言われていること。「恵み」、つまり、ただ神様のみわざによって、私たちが何もしていないのに、私たちはイエス・キリストと共に生きる者とされた。私たちのあり方が変えられたということです。クリスマスの出来事も、十字架の出来事も、イースターの出来事も、全て父なる神様が起こしてくださったみわざです。私たちには思いもつかないような仕方で、神様は私たちを救ってくださいました。神の御子イエス・キリストを人として地上に生まれさせ、私たちの罪を十字架でイエス・キリストに負わせ、イエス・キリストを復活させて全てに勝利させた。そんな救いの道を誰が思いつくでしょうか。誰も思いつかないから、つまり、私たち人間から出たものではないから、神様から出た、神様のみわざであるから、恵みなのです。
「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり(4節)」ともあります。神様の「恵み」、私たちを救うみわざは、私たちをこの上なく愛する愛から起こされたことです。「以前は」過ちや罪の中にあった私たちですが、その私たちを神様は愛してくださり、「今は」私たちを、過ちや罪から救い出してくださり、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストと共に復活し、イエス・キリストと共に天の王座に着く者としてくださいました。
復活とは、死に対する勝利です。聖書は、死は罪の結果だと言っています。すると、キリストと共に復活するとは、私たちが死に対して勝利したということであり、私たちの死の原因である罪の問題が解決されたということになります。そして、キリストと共に天の王座に着くとは、あらゆるものの支配者となる、罪や死であってもそれを支配しているということです。イエス・キリストと共に生き、復活し、天の王座に着くことで、私たちは、聖書が「この世を支配する者」「かの空中に勢力を持つ者」と語る、神様に敵対する存在をも支配する者にされている。そのような存在にも打ち勝つ者とされている。それが、私たちの姿なのだと、聖書は伝えます。私たちのわざではなく、神の愛、恵みによって、そのように変えられた、それが私たちキリスト者なのだと、聖書は告げています。キリストと「共に」とは、このように、私たちのあり方を根本的に変えてしまうことなのです。それが洗礼で起きたことです。
「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました(8節)」とあります。この部分は、「恵みにより、信仰を通して救われました」と訳すこともできます。今や、神様の恵みが示されました。私たちを、イエス・キリストと共に生き、復活し、天の王座に着く者へと変えてくださったという恵み、神様のみわざが示されました。私たちは、それを「信仰を通して」受け取るだけです。神様の恵みはすでに起こっています。神様の恵みによって、私たちのあり方は変えられました。これが事実です。私たちの思いとは関係なく、私たちの自覚とも関係なく、ただ神様のみわざによって、私たちのあり方は変えられていました。それをただ受け止めるのが、信仰なのです。信仰者、キリスト者のあり方なのです。
4 そのような信仰者、キリスト者とは、「神に造られたもの(10節)」だと言われています。以前の口語訳では「神の作品」と書かれていた箇所です。私たちは、父なる神様に造られた者です。天地を造られた神様は、お造りになったすべてのものをご覧になり、「極めて良かった」と言われました。神様に造られた私たちは「極めて良かった」のです。その私たちは、一度は過ちと罪のために死にました。しかし、神の恵みにより、信仰を通して、イエス・キリストと共に生き、復活し、天の王座に着く者とされました。その私たちは「キリスト・イエスにおいて造られた(10節)」と言われます。
私たちは、何のために、キリスト・イエスにおいて造られたのか。それは「神が前もって準備してくださった善い業のために」と説明されています。「善い業」と言われています。そこでは「業」「行動」「行い」の話が出てきています。すると、キリスト者としてどのように行動すべきかが言われているようです。
それでは、「業」「行動」「行い」に着目して、今朝の御言葉を振り返ってみたいと思います。「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた(3節)」と言われ、イエス・キリストと共に生きる以前の私たちの行動は、「肉の欲望」「肉や心の欲するまま」になされたものだと言われています。これに思い当たることは多いのではないでしょうか。「肉の欲望」。「肉」とは罪へと向かってしまう人間存在を意味しますから、罪という神様からは敵対する存在に従ってしまう私たちのあり方、私たちの行ないを言い表しています。日々の自らの歩みを振り返るとき、「肉の欲望」に従ってしまった、と思われる方も多いことでしょう。
それでは、「肉の欲望」に従うのが私たちのあり方なのでしょうか。今朝の御言葉は、そのようには語っていません。私たちが救われたのは「行いによるのではありません(9節)」。「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた」「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです(10節)」。私たちは、「神の作品」です。私たちが自分で自身を形作ったのではなく、神様が私たちを造ってくださったのです。神様が「善い業のために」、それも「前もって準備してくださった善い業のために」造ってくださったのです。「前もって準備してくださった」と言うのですから、私たちは神様のご計画の中に入れられているということです。私たちが善い業をすることが出来るとか出来ないとかいう話ではなく、神様は、私たちのことを「善い業」をなす者として、ご計画の内に造ってくださっているのです。
どのような歩みがキリスト者に相応しいのか、どのような業がキリスト者として相応しいのか、私たちはそのことを考えます。自分は、キリスト者として相応しい業や歩みをしているだろうかと、私たちは不安になることがあります。その場合、相応しいか、相応しくないかを決めているのは誰でしょうか。それは、私たち自身です。自分がキリスト者として相応しいか、相応しくないかを判断している時、私たちはキリスト者として判断していることになります。その判断の前にあるのは、キリスト者である私です。
ここまで、キリスト者、信仰者とはどのような存在であるのかを御言葉から聴いてきました。キリスト者とは、「神の作品」です。信仰者とは、「善い業」をなす「神の作品」です。私たちが相応しい、相応しくないと判断する以前に、私たちはキリスト者とされ、善い業をなすことのできる存在に造られていたのです。
自分はキリスト者として相応しい業、歩みが出来ているのだろうか、自分はキリスト者として相応しい存在なのだろうか。そう思うことは、自らの信仰のあり方、キリスト者としてのあり方を問うことであり、信仰の歩みにおいて必要なことでしょう。けれども、そこに留まるわけにはいかないのです。自分の問いと判断に従うことはできません。私たちが問う以前に、神様が恵みを与えてくださっています。イエス・キリストと共に生きる、「神の作品」として私たちを造ってくださっています。この、神様の恵み、みわざに目を向けたいと思います。神様の恵みによって、「神様の作品」として造られた私なのですから、「神様の作品」に相応しい「善い業」をなすことができる。それが、私たちに対して、神様がなしてくださったみわざです。神様の恵みです。
「神は、イエス・キリストにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです(7節)」と聖書は語ります。私たちは、神様の恵み、慈しみによって「神の作品」とされ、「善い業」を行なっています。そのこと、つまり、私たちの存在、キリスト者の存在自体が、神様の恵みを現しているのであり、私たちは、神様の恵みを示すために、洗礼を受けて教会に入れられました。私たちが洗礼を受けたキリスト者として歩んでいること自体が、神様のご計画にかなう、私たちに相応しいあり方なのです。
祈祷 私たちは、あなたに見出されるまで、罪の中におりました。あなたは、愛と憐れみをもって私たちの救いをご計画くださり、御子イエス・キリストの十字架と復活の出来事を起こしてくださり、私たちを神の作品としてくださいました。あなたから与えられたこの恵みに感謝いたします。聖霊によって、あなたの恵みを受け止める信仰をお与えくださり、御子キリストに結んでください。キリストと共に歩む私たちの全てを、あなたの御心にかなうものとして祝してお受けくださり、あなたの恵みを指し示す器として用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「エフェソの信徒への手紙 5章 21~33節」
聖書朗読
05:21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 05:22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 05:23キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 05:24また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 05:25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 05:26キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 05:27しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 05:28そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。 05:29わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 05:30わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 05:31「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 05:32この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 05:33いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「大切にする」
エフェソの信徒への手紙5章21節以下は、家庭訓と受け取りたいと思う。それは21節から理解できる。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」とある。ここには、今まで教会全体に述べてきたことを、次に個々人への語りかけになるという意図がある。つまり教会訓ではなく、個々の家庭に対する訓戒となる。21節は「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合い」とある。キリストは、私たちとは絶対的に異なる。私たちはキリスト、神を、畏怖すべきであると、恐れ敬うべきであると、それが人間の生きる根底であるといえるのではなかろうか。「キリストに仕えるように、互いに仕え合いなさい」というのである。キリストに仕えるように相手をうやまう、また、イエスの前にいるように謙虚さを抱くと理解したい。
22節に「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」とある。妻は夫に従うべきであるという。23節には「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです」とある。簡単にいうと、「キリストは教会の主人である」同じように「夫は妻の主人である」ということ、つまり、従属する関係である。確かに、夫に仕えるのではなく、キリストに仕えることが前提となっている。また、キリストは救い主であると、和らげるように記されているが、従属関係は変わらない。エフェソの信徒への手紙は、実際にはパウロの手紙でないとされている。しかしパウロ自身もそのように述べている。コリントの信徒への手紙(一)の11章3節には「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです」とある。コリントの信徒への手紙(一)11章8~9節にも「というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」とある。さらに、続く11節と13節にも「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。…自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか」とある。そのようにパウロも男尊女卑的な発言をしている。
一方、本日の箇所では「妻を愛しなさい」と述べられているので、異なるのではないかと思ってしまうかもしれない。次のような理解がある。「女は男に従え、男は女を愛せというのだから、この場合の『愛』は上の立場の者が下の立場の者に対する上下関係しか意味しない。それにしてもこういわれると、『愛』という単語がいかにも軽薄になってきます」である。とても厳しい指摘だと思う。わたしはそのように思う。確かに、パウロにも本日の個所にも、男尊女卑があることは免れない。
そこで考えなければならないのは、当時の社会通念であろう。当時の社会での考えとしては、どうしても、女性は男性に仕えるという理解があった。正直なところ、パウロもキリスト教においても、その社会通念という壁を崩すことはできなかった。言い訳としてだが、当時の社会的考えがあるので、人々に理解できるように記すという意味では、パウロがそのように記したのはやむを得ない。一方、その「やむを得ない」を壊す、つまり、社会通念を超える、それが、イエスであった。
神の働きを、よく「上から」と述べる。しかし神は、上からはなさらない。26節に「言葉を伴う水の洗いによって」とある。それは洗礼と理解する。27節の「ご自分の前に立たせる」は、最後の審判のことを述べているのではなく、今、現在、すでに教会はキリストにとっては栄光あるものとなっているのだと理解したいと思う。何が言いたいのかというと、イエスは最後の審判以前に、すでに救いを私たちに与えてくださっていたということである。そこに神の愛がある。そこで28節の「夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」に、自己愛があると指摘することができるであろう。自分を大切にするように、妻を大切にすると理解したい。30節には「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」とある。イエスが私たち教会を、体の一部として養ってくださる。同じように、妻を自分の体の一部のように大切にしなさいと理解できるであろう。
本日の聖書箇所には、当時の社会通念が背景にあり、男尊女卑のような考えがある。そのことを私たちは受入れたうえで、現代的な理解、いやイエスを基にする理解を持たなければならないと思うのである。ルカによる福音書のマリアとマルタの姉妹、マルタはイエスを迎え入れた。マルタはイエスをもてなすため働いた。しかしマリアは、イエスの足元に座り話を聞きいていた。マルタは、イエスに、マリアに手伝うように言って欲しいと言った。しかしイエスは「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と述べた。本日の聖句には、女性は男性に仕えるべきであるとあった。当時、女性は一人の人格と考えられなていなかった。奴隷と同じようにさえ受け取られていた。奴隷は財産でもあったから、人格ではなく物質であった。しかし本日の箇所には、自分の体のように妻を愛しなさいとあった。いや敢えて、妻を大切にしなさいと受け取りたいと思う。それは家庭訓であると最初に述べた。そこにあるのは、人格的な交わりである。つまり、妻との人格的な関係、交わりを持ち、大切にしなさいと述べている。
それは、31節の括弧の言葉からもうかがうことができると思う。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」は、旧約聖書創世記2章24節の言葉である。アダムとエバが楽園を追放されたことを、私は次のように理解する。人間は、親という楽園から離れ、パートナーと共に苦労、喜びを分かち合い生きていくものであるという教えであると。そこにあるのは、互いに支え合う人格的な交わり、最も小さい共同体の単位としてのパートナーを示している。そのような解釈はないが、21節には「互いに仕えあいなさい」とある。夫婦とは最も小さい共同体である。この共同体は、人間として、人格としての交わり、支え合いが必要である。そこでは、心も体もすべて支えあうために互いに大切にする。そして、最後の「妻は夫を敬いなさい」とは、敬われる者にならなければならないといえるのではないだろうか。キリストこそ恐れ敬う存在、愛されるべき存在として、人間に働きかけてくださっている。キリストが教会の頭であるように、夫が妻の頭であるのなら、キリストの無償の愛に倣うべきである。しかし、キリストのようにはできない。だからこそ、大切にすべきである。つまり、互いの人格を尊重し、大切にしあう。そのように本日の箇所を受け取るべきなのではないだろうか。イエスこそ上からではなく、傍らにいて、共に歩んでくださるのである。
当時の社会通念を、この手紙は、パウロさえ、超えることができなかった。一方、主に従うように互いに仕えるという意味では、夫も妻も立場は同じであることをパウロは示しているといえるであろう。そのことをイエスは、徹底的に教え、行ってくださった。社会通念を越え、当時、罪人、奴隷、弱い者と同じ立場に立ち、歩まれ、大切にされた。イエスに倣い、互いに尊重し合い、相手を大切にする。そして、本日の箇所でも見てきたように、聖書には互いに大切にしあうことの重要さが記されている。教会、この世においても、その思いを根底とすべきなのではなかろうか。単純ではあるが、最も大切なことだと思う。イエスのように実践したいと思う。
祈祷 愛の源なる神様 パウロは男尊女卑のようなことを記しています。それは、当時の社会通念を持っている言葉です。一方、その内容は、イエスに従い、互いに大切にしあうということです。夫婦は、一番小さな共同体です。どの共同体でも、互いを思いあうことによって成立するのではないでしょうか。どうか、互いに大切にしあいたいと思います。また、その大切にするという思い、姿勢が子ども、隣人に伝わり、この世の人々が互いに大切にしあうことができるようになると信じます。どうかそのようにお導いください。争いを行う。それは欲であり、また、人間の愚かさであるように思います。互いの違いを尊重し、受け入れ合うことの大切さを思います。何よりこの世にあるものは人間の所有ではなく、神のものです。私たちは神の恵みを分かち合うべきです。どうか、全ての人が神の恵みを分かち合うよとなりますように。豪雨が続き、全国で多くの被害が出ています。悲しみの中にある方々を支え、お慰めくださいますように。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々に心身ともにお癒しください。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時を迎えることができるようお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 9章 38~41節」
聖書朗読
09:38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 09:39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 09:40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 09:41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「味方として迎える」
讃美歌21の472番には、1節に「朝ごとに主は目を覚まさせ、わたしの耳に語りかける。主の御言葉で、迎える朝、私と共に主はおられる。」とある。この讃美歌は、ルター訳聖書のイザヤ書50章4節を用いている。詩を書いたドイツ人クレッパーの連れ合いとその連れ子の娘は、ユダヤ人だったとのことである。彼が生きていた時代は、ヒットラーの政権下にあった。詩人クレッパーは、作家でもあり、歴史小説を執筆し成功を収め始めた。しかし帝国著作協会は、彼がユダヤ人女性と結婚していたことから彼を除名した。そのためクレッパーは、すべての出版の道を閉ざされた。彼は、その四年後、妻と娘と共に命を絶った。独裁政権の怖さを思う。おそらく帝国著作協会は、ヒットラーに喜ばれると思い、また恐れて、クレッパーを除名した。その裏にあったのは、独裁者への忖度、相手を裁き自分たちの優位性を持とうとする心、また、支配者の権力が自分にあるような錯覚に陥ってしまったのではないか、と想像する。政治的独裁、また、権力者、政権の暴走は本当に怖い、危険だということを知さられる。
さて、本日の聖書箇所、マルコによる福音書9章38節以下に心を傾けたい。38節に弟子のヨハネの「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」がある。ヨハネは、イエスの弟子の中でもペトロに続く有力な人物の一人であったといえるであろう。というのは、ヨハネはペトロの仲間であり、一緒にイエスの弟子となった人だからである。「やめさせようとしました」とあるが、「やめさせました」とも訳せる。どちらにしても、自分たちこそ真のイエスの弟子であるという思いがあった。ヨハネの特権意識、党派根性丸出しという心の内を見ることができよう。
イエスは、神の子としての奇跡を行っていた。その力がヨハネ自身にもあるかのように錯覚をした。そして、イエスに選ばれ従う自分は特別で偉いという勘違いもあったのかもしれない。ヨハネは「わたしたちに従わないので」と述べた。本来なら「イエスに従わないので」と言うべきであろう。主語が「私たち」、つまりヨハネ自身にもなってしまっている。「お名前を使って」とある。当時、名前とはその人の力、その人自身と考えられていた。児童文学に、名前を知られると負けるという物語がある。それは、名前を知られることで力が奪われるというような意味があるからである。もちろん、悪魔はイエスの神の力を知っているので、イエスの名を出しただけで逃げ出すということもあった。力があったのはイエスであって、ヨハネや弟子たちではなかった。しかも、イエスの力は愛によって行われたのである。
一方、39、40節でイエスは言っている。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と。ヨハネには思いもしない言葉だったであろう。イエスは、悪霊に取りつかれている人が、イエスの名前を用いて癒されるのを許した。つまり、弱い者が助かることを優先した。そのため勝手に自分の名前を使われてもよいと考えた。また、イエスの名前を用いる人を信頼した。一方私は、それを次のように理解したい。40節に「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とある。まず、曖昧にイエスの名を用いるものを許したということではなく、徹底的に人々を包み込むイエスの心の広さと柔軟さが、この言葉にある。そして、党派心、特権意識、差別意識を根底から突き崩しているイエスが、そこにおられたということである。実はそれは、イエスの時代の弟子たちではなく、その後、イエスが天に上げられてから後の、原始キリスト教の指導者たちに対する批判であると考えられる。イエスの死後、弟子たちではなく、イエスの弟ヤコブがエルサレム教会を導いた。ユダヤ教による迫害中の導きであったから、大変だったであろう。一方イエスの教えとは異なり、律法主義になっていった。そのうえ、ヤコブの後も、親族が指導者となった。イエスは、血族的な兄弟ではなく、神を信じる者すべてが兄弟姉妹であると述べた。もしかしたら、原始キリスト教会では、指導者の特権意識ができてしまった。また、イエスの弟ヤコブに権力が集中し、その後もそのようになってしまったようにも考えられる。そこでマルコによる福音書は、イエスの言葉を用い、弟子たち、つまり指導者に対して批判的、いや導きを記していると考えられるのである。
41節に「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」とある。唐突な言葉である。その言葉は、続く42節と結ぶほうがよいという理解もある。飲み水は貴重である。そこで弱っている者に水を与えるということは、相手を思う愛の業である。また、コリントの信徒への手紙(一)の13章3節に「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」とあるように、大切なのは、そこに神、イエスの愛があることであるといえるであろう。そして、重要なのは、どんなに小さな業でも神様は見てくださるということが、41節に意味されている。すなわち、全ての業を神は見てくださっている。だから弟子たち、人間が裁くべきではないといえるのかもしれない。
本日の箇所でヨハネは、イエスに従っていた。確かにそのことは素晴らしく、大変なことだった。家族から離れ、仕事、いや全てを捨てて、イエスに従った。だからこそ、イエスに従うことに対する思いが強かった、そのことは理解できる。しかし、その思いが特権的、権威的なものになってしまったらどうか。「自分たちは、イエスに選ばれて特別だ。だから自分たち以外のものはすべて排除する。正しいのは自分たちだけである。」と。しかし、私たちは誰もヨハネを批判することはできない。人間には、そのような特権意識を持ってしまうことがある。その考えは、人種差別につながってゆく。「自分たちの人種は素晴らしい」と。ヒットラーは敵を作ること、特権意識を持たせることによって、人々の心を悪い意味で高揚させ、悪い方向へ導いた。それが、ユダヤ人に対する迫害につながった。特権意識、自分たちが正しい、特別だという一方的な思いは、危険である。
そこでイエスが述べたのは、いかなることであったか。「逆らわない者は、味方である」だった。それは、とても重いと思う。イエスこそ、徹底的に人々を包み込む心の広さと柔軟さがあった。受け入れられることによってこそ、相手も柔軟になるのではないだろうか。私たちこそ、イエスによって受け入れられ、信頼されている者なのである。イエスは、特権を与えたのではなく、また、敵を作りだしたのでもなかった。イエスこそ人間を受け入れ、味方として招き、共に生きてくださる方なのではいか。そこに大きな希望がある。特別な人などいない。互いに受け入れ合い、尊重し合い、イエスの愛を分かち合いたいと思う。そこにこそ平和は生まれるのではなかろうか。
祈祷 愛なる神様、イエスは、敵を作るのではなく相手を受けいれることを教えてくださいました。一方、人間は、特権、特別であると思いこみ、そのため相手を敵視し、裁いてしまうことがあります。裁きではなく、互いに受け入れ、結びつきを作り、共に歩む者となりたいと思います。それこそイエスが示してくださったことです。8月には6日、9日、15日を思います。争いでは何も解決できません。争いで生まれるのは悲しみ、憎しみです。そして、悲しみ、憎しみは何年たっても忘れられることはありません。先の戦争から77年経ちました。しかし悲しみはなくなりません。今も世界では争いが続いています。戦うことは勇気ではなく欲です。戦争をやめる勇気を指導者にお与えください。欲ではなく愛が心に宿るようお導きください。昨日は、台風、そして、東北では大雨が続き、多くの被害が出ています。被災された方々をどうかお支えください。暑い日が続いています。新型コロナウイルス感染増加もとまりません。すべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをどうかお守りください。コロナウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々に心身ともにお癒しくださいますように。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時となりますようお導きください。お盆休みとなっています。よきリフレッシュの時となりますように。子どもたちにとってよき夏休みになりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン
聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 9章 42~50節」
聖書朗読
09:42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 09:43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 09:44(地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。) 09:45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 09:46(地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。) 09:47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 09:48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 09:49人は皆、火で塩味を付けられる。 09:50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「心に塩水を」
マルコによる福音書9章42節以下に心を傾けたい。新共同訳聖書この章には、十字のようなマークが記されている。44節と46節がない。その2つの聖句は、後から付け加えられたと考えられ、この福音書の最後に記されている。
さて42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とある。「小さい者」とは、子どものような年齢を指すのではなく、イエスを信じたばかりの者、または、社会的弱者と理解できる。弱者やイエスを信じて間もない者をつまずかせる。神とは異なる方向に導くならば、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによいと、恐ろしいことを述べている。他者との接し方を、私たちも問わなければならないと思う。
43~47節には「片方の手、片方の足、片方の目が、あなたをつまずかせるなら、それらは無い方がよい」とある。手足は暴力、目は欲望というユダヤ教的考えであるという理解がある。また、「神に従うために妨げとなるものから解放することを目指す」隠喩という理解もある。単純に何か悪い行いをして神に背き、裁かれるよりは、神への背きの原因になるものを根絶した方が無くした方がよいと言えるであろう。48節は、旧約聖書のイザヤ書66章24節の言葉、地獄の描写である。ウジ虫が滅ぼされる者たちを食い尽くすという。想像しただけでも恐ろしい。42節は、「小さな者をつまずかせるなら」と、他者を悪い方向に向かわせてしまうということが前提である。弱い者への配慮がある。しかし、43節は「あなた」となっている。つまり、42節と43~47節は、内容が異なる。43節以下は、自分自身が神に背かないように気を付けることといえるであろう。
一方、42~47節は、共通して次のように言える。イエスの弟子たちは、イエスが十字架の苦難を予告しているのにもかかわらず、全く理解せず自分たちのことばかり考えていたと。少し前の9章33節以下、イエスが十字架にかけられると予告した直後にもかかわらず、自分たちの中で一番偉いのは誰かと、弟子たちは議論した。弟子たちは、イエスがこの世の王となると考えていた。そこで、権力争い、自分の地位等に心を奪われていたのである。そのような弟子たちを、イエスは厳しく批判した。手や足を「切り捨てなさい」。その発言は、言葉通り受け取るのではなく、それだけ真剣に神の意志を問うべきであるという、つまり、自分たちの欲ではなく、まず、神の意志は何か、神の愛を考えるべきであると、イエスは弟子たちに忠告しているといえるであろう。イエスの愛を理解できない者に、いや、だからこそ忠告し導きくださるのである。
重要なのは、小さい者をつまずかせてはならないということである。相手のことを思わなければいけない。49節には「人は皆、火で塩味を付けられる」とある。48節と異なり、そこでは「火」は良い意味で用いられている。その「火」は自己犠牲という意味が含まれていると考えられる。イエスの十字架に倣うようにという、弟子たちに対する導きとも理解できる。また、48節は「火」という言葉から「塩」という言葉につなげたいということもあるのだろう。では、「塩」にはいかなる意味があるのか。塩は料理にも、人間にとっても不可欠である。人間は塩なしでは生きていけない。
聖書で、塩には、次のような意味がある。レビ記2章13節「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」。神に献げる穀物にはすべて塩をかけなさいと記されている。献げものとは、収穫などの感謝と共に、自分たちの日々の罪を赦してもらうため、自分の代わりに神に犠牲を献げるものである。つまり神と人間との契約において、塩は欠かせないものである。次のようにも言える。塩は、人間と神を結びつける象徴的な媒介物であると。すなわち、献げ物に塩味を付けるのだから、互いに共同で塩を食すことにより、パートナー間の契約が成立したということが意味されるのである。
49節には「人は皆、火で塩味を付けられる」とある。私たちは、塩で味付けされている。つまり、イエスは私たちをパートナーとして契約を交わし、共に歩む者として招き、導いてくださっているといえるであろう。50節には「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」とある。塩味がなくなるとは、イエスが王となり自分たちはよい地位を与えられるに違いないと考える弟子たちに対する批判であるといえるであろう。では、私たちは何によって味をつけるのか。私たち自身の内に塩を持つようにというのである。
イエスは、弟子たちに十字架の苦難を予告した。十字架とはいかなることか。人間は、歴史の中で神に背き、神の愛を忘れ、自分の欲ばかりを求めてきた。罪とは神に背くことである。神は愛である。つまり、愛を失うことともいえる。神に対する罪なのだから、それを赦すことができるのは神のみである。人間には、神に対して自分の罪を償う力はない。また、罪を償うのは死であるという言葉が、旧約聖書にあった。そこで、イエスは人間の代わりに、自分を神への献げ物として十字架に付けたのである。人間の代わりに献げ物になり、罪を負うということである。自分の命を犠牲にしてまでも人間の罪を負ってくださる愛が、十字架にはある。自分の欲を求めず、人間を愛する故に、人間の罪を負い、救いを与えた。神との関係を修復してくださった。そこで、塩味をつけるとは、そのように考えることができるのではなかろうか。献げものに塩をつける。イエスの十字架が犠牲であるなら、それこそ塩をつけられた献げものである。つまり、塩味を付けなさいとは「イエスという味を付けなさい、イエスの愛、十字架に倣いなさい、イエスに従う者のとなりなさい」という意味である。
イエスに倣うと、イエスの十字架の苦難のように苦しみを受けるかもしれない。なぜなら、この世は欲望に満ちているからである。しかし、イエスには、塩味が付けられている。また、塩味を付けなさいと教えてくださっている。逆に言うと、私たちは心に塩味、つまりイエスの愛という味をつけることができると、イエスは述べてくださっている。また、塩にはパートナー間の契約関係が成立するという意味がある。イエスと同じ塩味を付けなさいと述べてくださることによって、私たちはイエスのパートナーとしての契約関係に招かれているのである。つまり、わたしたちをパートナーとして、必要としてくださっている。人間はイエスに信頼されているといえるであろう。私たちは、心にイエスという塩味を付けるべき、いや、付けることができると、イエスは私たちを導いてくださっている。だから、イエスは「互いに平和に過ごしなさい」と言っているのである。イエスという塩味を、その愛を心に持つことによってこそ、平和が訪れるのである。それは、相手を思う気持ちなのである。
祈祷 愛なる神様、弟子たちは自分たちの欲で、イエスの本当の愛が見えないことがあります。それは弟子たちだけでなく、私たちも同様です。一方、イエスは私たちを信頼し、パートナーとして招き、イエスに倣い歩むことができると励まし、お導きくださいます。どうか、私たちがイエスの十字架の愛を受け入れ、隣人を愛し、互いに支え合い歩むことができますようお導きください。6日、9日は原子爆弾が落とされた日です。どうか、戦争の過ちを覚えるときとしてください。しかし、世界では争い、また国家間の緊張感が絶えません。どうか指導者がイエスの愛に倣い、最も弱い者の立場に立って、導く者としてください。また私たちも、できることがありましたらお用いください。どうか、すべての人が尊重し合い、パートナーとして手を結び合う世としてください。そして、相手を思いあう平和の世としてください。暑い日が続きます。また、新型コロナウイルス感染増加がとまりません。どうか、すべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。コロナウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々を、心身ともお癒しくださいますように。大雨となり多くの被害が出ています。どうか、被災された方々をお支えくださいますように。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時となりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(2) 6章 1~10節」
聖書朗読
06:01わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 06:02なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 06:03わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 06:04あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 06:05鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 06:06純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 06:07真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 06:08栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 06:09人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 06:10悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「恵みの時」
元総理が殺された。人を殺すことは神の意志ではない。一方、殺害とは別に、このことに関しては、罪を犯させた背後の問題を考えなければならないと思う。他宗教を批判するつもりはない。しかし、カルトと定義できる集団には気を付けるべきである。マインドコロントロールによって都合のよいように従わせる。私はそのことから精神的に病んでしまったある女性に、お会いしたことがある。本当に純粋な彼女の、そこに付け込んでボロボロにし、その人だけでなく家族の一生をも狂わせてしまった。弱みに付け込んで、その人の先祖、その人の家族が悪いことをしたから、悪霊が取り付いているのだと信じ込ませ、そこから救われるためにと高額なものを購入させ、また、高額な献金を強いた。悲しみしか出てこない。
イエス以外に救い主はいない。イエスはその人が病気になったのは誰のせいでもないと、はっきりと述べている。大切なことは、良いことが起こった時も悪いことが起こった時も、いついかなる時も、神、イエスは私たちと共にいてくださるということである。
コリントの信徒への手紙(2)の6章1節以下に心を傾けたいと思う。1節、パウロは「神の協力者」と述べている。パウロは、自ら神と共に働く者であると述べ、神からいただいた恵み、与えられた賜物を用いようと言った。2節の括弧は、旧約聖書イザヤ書49章8節の引用である。「恵みの時」は、原文では「神のみ旨にかなった時」である。パウロがよく用いた七十人訳と言われるギリシア語聖書で、その箇所は「恵みの時」と記されているので、新共同訳聖書でも「恵みの時」と訳しているのであろう。では、パウロにとっては、コリントの信徒への手紙(2)を記したときは、「恵みの時」というほど順風満帆、上手くいっていたのか。
コリントの教会は、パウロの宣教によってできた集会である。一方、パウロがコリントから離れている間に、コリントの教会にパウロの反対者たちが侵入した。この手紙の10章以降では、エルサレムにいる原始キリスト教の責任者、使徒たちと密接な関係にあった人たちが訪れ、パウロの教えに疑問を呈したと考えられる。そのことと関係があるのか。コリント教会にパウロへの反対者が侵入してきて、コリントの人々の心がパウロから離れるという事態が起こった。その侵入者たちは、ある種の力強さ、優秀さを誇り、それによってキリスト者のあるべき姿を基礎づけたと思われる。一方、パウロには何らかの障がいが与えられ、10章10節「私のことを、手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです」と自ら書いている。パウロは力強さ、優秀さがあるようには受け取られていなかったといえるであろう。また、パウロはイエスの逆説「貧しい人は、幸いである」に深く通ずる形で、「十字架の逆説」を一貫させていた。そのことに侵入者たちは反対し、パウロの使徒職を疑問視する態度をとった。パウロに反対の立場をとった。何よりパウロの反対者たちは、イエスの本来の教えから離れてしまったといえるであろう。それらのため、パウロはこの手紙を書いたと考えられる。
3節から4節の前半に「私たちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」とある。「非難されないように」十分気を付けて、神の救いを述べ伝えている。そして、どんな苦しい状況にあっても「大いなる忍耐をもって」、神の奉仕者であることを証しするというのである。そのように言えるであろう。パウロは、常に変わることなく使徒、キリストの奉仕者として徹していたのである。
6節と7節には、徳目や心的な諸要素が挙げられている。その中に「聖霊」がある。聖霊は、ここに挙げられているすべての「善」や「徳」の源泉であるという理解がある。例として「寛容」、「親切」は、コリントの信徒への手紙(1)13章の愛の讃歌4節の愛の特質の1番目、2番目として挙げられている。7節最後「左右の手に義の武器を持ち」とは、神と正しい関係を攻撃や防御の武器とするという意味である。神、イエスの愛を思い、神との正しい関係を持つというパウロの立ち位置を見ることができるように思う。
8節後半から10節は、イエスの福音の逆説、すなわち「貧しい人々は、幸いである(ルカによる福音書6章20節)」や「悲しむ人々は、幸いである(マタイによる福音書5章4節)」、貧しい人々、悲しむ人にこそ、神は救いを賜るといえるであろう。この聖句に代表される逆説と同じ形で、パウロは「十字架の逆説」を一貫させている。人を裁いているようで誠実である。反対者たちたちは、パウロが本当に使徒なのかと疑問視した。つまり、パウロが述べた救いを否定したのであろう。「欺いている」と。しかし、パウロは誠実にイエスの救いを述べ伝えた。パウロが述べ伝える言葉にこそ、イエスの救いがある。パウロの姿はみすぼらしくても、神が与えた弱さであることを受け入れ、生かされている喜びを示した。何も持っていないようで神の恵みをいただいている。いや、神は必要なものを与えてくださる。神の恵みをパウロこそ十分知っていたのである。
旧約聖書のヨブ記やコヘレトの言葉等から、聖書は、応報思想になりすぎることを警告していることが分かる。イエスに因果応報的な考えはないと、私は思っている。神の教えである律法を破ったから、罰として病気になる、イエスは、そのことを否定した。イエスは神の教えである律法を破ったから病気になったのではないと、はっきりと述べている。11章で「私の弱さにかかわることを誇りましょう」、12章で「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』」と言っている。「だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とパウロは記している。十字架という弱さにこそ、真の救い、神の愛がある。
パウロの使徒職を疑問視したパウロに反対する人々がいた。パウロを排除しようとしていたといってよいであろう。そのような状況においても、「救いの時」と述べることができたのは、パウロに現れた復活のイエスが、神の救いを述べ伝える責任を与えて下さったという自負がパウロにあるからである。それはパウロの思い込みではなく事実だった。パウロにとって、イエスの救いを述べ伝えるのにふさわしくない時はない。いつでも、どこでも神の愛を述べ伝える。状況が悪いからこそ、きちんとしたイエスの救いを述べ伝えるべきだ、新たなチャンスの時、と思ったのかもしれない。
さて、「あなた、あなたの先祖が罪を犯したから悪いことが起きている」、「これを買えば罪が許される」とイエスが述べるであろうか。排除するであろうか。イエスが私たちに述べたのは、「私はいつもあなたと共にいる」、「あなたはあなたのままでいいのだ」、「私があなたを受け入れ、認める」、「あなたは私の友である」。イエスはそのように私たちに述べてくださり、また私たちは、いつでも、どこでも、神をアッバ(父ちゃん)と述べ、何でも話すことができる。つまり、祈ることができる。この恵みを、イエスは私たちに与えてくださった。私たちにとって一番の強みは、いつでも、どこでも神に祈ることができるということである。それは、いつでも、どのような状況でも、イエスが必ず共にいてくださり、支えてくださると確信することができるということである。つまり、私たちはいつも「恵みの時」にいるのである。もちろん、悲しいとき、不安なときもある。そのような時にこそ、イエスは共にいてくださる。パウロこそ、このことを確信しているから、今この時が、神のみ旨に適ったとき、恵みの時として、常に変わらずにいることができたのではなかったか。とはいっても、私たちはパウロのように強くない。だからこそ、私たちは互いに支えあうべきだと思うのである。不安に陥れることは、神の意志ではない。私たちはいつもイエスが共にいてくださることを確信し、違いを受け入れあい、支えあい、祈りあいたいと思う。そのことを通して、神がいつもいてくださる。恵みの時であることを確信できるのである。
祈祷 愛なる神様、パウロは反対者たちによって、さまざまな危機がありました。しかし、そのような状況でも恵みの時であると述べ、イエスの救いを述べ伝えることに専念します。パウロは、どのような状況においても、変わらず神の恵みを確信しています。私たちは、悪いことが起こったとき、神の恵みを感じることができずにいます。また、悪いことが起こったときに、誰かが悪いことを行ったからだと応報的な考えを持ちます。しかし神、イエスは、どのような時も、私たちを共にあり、お導きくださっています。どうか日々、神の恵みを確信し歩むことができますようお導きください。また、そのような時にこそ、互いに支え合うことができますように。暑い日々となっています。また、新型コロナウイルス感染も増加しています。すべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。コロナで苦しみの中にある方、病の中にある方、入院、手術後の方々に、心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。重荷を負われている方、悩み、苦しみの中にある方、介護看病をされている方、一人で暮らされている方に主のお支えがありますように。新しい命を祝してください。妊娠されている方、母子ともに主の守り、導きがありますように。大雨が続いています。自然災害で被災された方々をお支えください。争いは、人の欲でしかありません。指導者こそ、その人らしく民を導く者です。そのため他国との和解を目指す者です。どうか争いで被害にあわれている方々をお守りください。私たちにできることがありましたらお用いください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン
聖書:新共同訳聖書「テモテへの手紙(1) 3章 14~16節」
聖書朗読
03:14わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。 03:15行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。 03:16信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、
キリストは肉において現れ、
“霊”において義とされ、
天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「生きている神」
この教会の前の私の赴任地、甘楽教会には幼稚園がある。そこでの話である。年長組の先生はドッヂボールが好きで、よく子どもたちにドッヂボールをさせていた。20人ほどの子どもたちに対して、次のようなチーム分けをしていた。まず子どもたちを二人組にして、ジャンケンをさせた。次に勝った子ども同士の二人組でまたジャンケンをさせる。それを繰り返して最終的に、一番と二番目に勝った子どもの2チームにする。ジャンケンで一番になった子どもが、まず自分のチームのために一人の子を指名する。次に二番目に勝った子どもが一人を選ぶ。そのように交互に仲間を選んでいく。この方法の良いところは、二つのチームを同じくらいの強さにすることができる。一方、悪い面としては、弱い子が最後まで残ってしまう。
ある日、タイラくんという子がジャンケンに勝った。彼はいつもは最後まで選ばれないキヨちゃんを最初に選んだ。キヨちゃんは良い子なのに「私は最後まで選ばれない」と言って、いつもいじけてしまっていた。けれどそのときは、一番に選ばれた。キヨちゃんは、とても喜んだ。それだけではない。もともと運動が嫌いな子ではなかったから、そのことで喜び、自信がついたのか、器用にボールから逃げられるようになった。そのうちボールの受け方も投げ方もうまくなっていった。そのとき私は、6歳の子どもから、リーダーとはいかなる存在かを教わった気がした。タイラくんは、弱い者にこそ目を向け、共に歩む姿勢を示し、そして、力を引き出したのである。
さて本日の聖書箇所、テモテへの手紙(1)の著者はパウロとあるが、そうではない。パウロの死後、それも約40年後、紀元100年前後に記されたと考えられている。その時代には、キリスト教では、教会に仕える者などの職制ができてきていた。つまり、聖職、牧会者が選ばれ、職業となっていた。そこで、テモテへの手紙やテトスへの手紙は、牧会書簡といわれ、聖職への導きが記されていると考えられている。もちろん、信徒への信仰の継承という面もある。
3章14節以下に心を傾けたい。著者をパウロということでお話をする。14節、パウロはテモテのもとに行きたいが遅れる可能性があるので、神の家、教会でどのように歩むか知ってもらいたいといっている。では、神の家、教会とはいかなる所で、どのように歩むのであったか。15節に「真理の柱であり、土台である生ける教会です」とある。そこでは、教会は真理を柱、土台としているという意味ではない。教会は真理を支え保持するための土台であるとの理解であるというのである。つまり、教会は真理を告げ知らせる、真理をこの世に現わす柱、土台といってよいと思うのである。教会は、キリストの体であるという。そのような意味では、この世にキリストの働きをなし、キリストを現わす場である所こそ、教会であるといえるであろう。16節はじめに「信心の秘められた真理」とあり、正しい神信仰を有している教えの内容という意味であると考えられる。つまり、教会を司る者は、正しい信仰を保持し、導くべきである。では、正しい信仰と何か。
16節の後半は、讃美歌、あるいは信仰告白であると考えられる。二つの行を一組と考えると、それらは対比していると考えられる。最初は「キリストは肉において現われ」と「霊において義とされ」、肉つまり地と、霊つまり天を、対比している。二つ目「天使たちに見られ」と「異邦人の間で述べ伝えられ」。天使は天に存在するので「天」、異邦人伝道であるから「地」、天と地を対比している。三つめは「世界中で信じられ」は地。「栄光の内に上げられた」。天に「上げられた」のですだから、天を意味する。「地と天」。そこで「地と天」、「天と地」、「地と天」という対比を組合わせていると理解できる。確かに対比しているといえるであろう。では、対比しながら、何を示しているのか。「肉」、「霊」、「天使たち」、「異邦人たち」、「この世」、「栄光」、肉として現れ、聖霊によって復活し、天で天使たちに認められ、異邦人たちに神の愛を述べ伝え、この世で神の愛が信じられ、天に上げられ神の栄光を与えられた。それがイエスの業である。
しかし本日は柔軟に考えたい。順番は異なるが、2行目「霊において義とされ」は、イエスは聖霊において神に受け入れられ、天的な地位を与えられた。3行目「天使たちに見られ」は「天使たちに現われ」と訳すことができ、受け入れられたというのである。イエスは天的な存在として神に受け入れられ、天使たちにも受け入れられたと、2行と3行目がつながる。4行目「異邦人の間で述べ伝えられ」、5行目「世界中で信じられ」た。4行目の異邦人は、「諸民族」と理解でき、4行、5行はすべての民に告げ知らされ世界中で信じられたといえる。
では、残りの1行目「キリストは肉において現われ」と6行目「栄光の内に上げられた」は、どうなのか。1行目と6行目が対比的に記されているのだという理解がある。1行目「キリストは肉において現われ」。「キリスト」、つまり神の独り子、天的な存在が、この世に肉、人間として現れた。そして、16節「栄光の内に上げられた」。人間として業をなしたキリスト、そして、天に上げられ神によって栄光を与えられたという対比である。キリストは、肉、つまり人間として全ての人に救いを述べ伝え、天に上げられたと理解できるであろう。そこで、見たいのは「栄光の内に」という言葉である。その言葉は、古代オリエントの王即位式の文体形式の影響を受けていると考えられる。マルコによる福音書16章19節「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」。イエスは天に上げられ、神の右の座についた。王の右の座、あるいは神と共に王の座についたといえるであろう。つまり、この6行目の「栄光の内に上げられ」は、イエスが神から認められた王的支配を象徴している表現であると考えらえるというのである。次のようにも言えるであろう。キリストは天に上げられ神から認めらえた真の王である。つまり、この地も天も、イエス、神に支配されているのであるということである。2,3行目で、天で受け入れられ、4,5行目で地においても信じられた。つまり、1、6行で地と天の真の王であると囲んでいるといえるのではないであろうか。
そして、大切なのは15節「生ける神の教会」という言葉だと思う。キリストと神は、この世、天の真の王である。この真の王である神の働きを、教会は「生ける神の教会」として、この世において現わしていくといえるであろう。キリスト、神を、この世に生きる存在として現わす。それが正しい信仰であるということではなかろうか。では、真の王としてのキリストとは、いかなる方なのか。
キリストとは、油注がれた者という意味で、その儀式は元来、王の就任などに行われていた。では、王とはいかなる存在なのか。王とはすべての民を、その人らしく導く者といえるであろう。マルコによる福音書の10章43~45節には「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」とある。また、マタイによる福音書の25章40節には「王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」とある。イエスこそ仕える者になられ、最も弱い者と共にいてくださるといってよいであろう。キリストこそ天と地の真の王である。それこそ、教会が保持しなければならない信仰の教えである。それは、弱い私たちと思に歩んでくださるキリストである。そして、生ける神の教会として私たちがこの世に現わすべきことこそ、イエスが王としてこの世に現わした救いの出来事である。では、その業と何か。それは、仕える者となる、そして、最も弱い者と共にあり、励ましあうということである。私たちは真の王であるキリストに倣い、歩みたいと思う。そこにこそ真の神の救い、平安が現れるのである。
祈祷 恵み深い神様、御子イエス・キリストは、肉をまとい、人間としてこの世に遣わされました。そして、この世、天の真の王として、神の救いをこの世に現わされ、天に上げられ、聖霊、天使、神に認められ、王の座に着きました。真の王こそ、民と共にあり、弱き者の立場に立って導き、救ってくださる方です。私たちが生きる神の教会として、王としてのキリストの業に倣い、そして、多くの人と神の愛を分かち合うことができますようお導きください。人間は弱いもので、自分より下のものを作り、抑圧してしまいます。それは人間の欲望です。また、その弱さ、欲により、人間は争いをはじめてしまいます。争いで最も被害にあうのは弱者、子どもたちです。どうか、全てのものが平等になり、手をつなぐことができますように、子どもたちによき未来を与えることができますように。暑い日が続きます。また、新型コロナウィルス感染が増加しています。どうか、すべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々のことを覚えます。心身ともにお癒しくださいますように。大雨など自然災害で被災されている方々をお支えください。この礼拝を通して、一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を、すべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン
聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 8章 14~21節」
聖書朗読
08:14弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 08:15そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 08:16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 08:17イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 08:18目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 08:19わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 08:20「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 08:21イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「まだ悟らないのか」
(要旨掲載 準備中)
聖書:新共同訳聖書「ガラテヤの信徒への手紙 3章 27~29節」
聖書朗読
03:27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 03:28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 03:29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の子とされる」
入院中に、私は病名を医師から聞いていなかった。連れあいが私の妹に送ったLINEを見てはじめて、敗血症という病名を知った。ネット検索して調べたところ、日本でも敗血症で年間10万人の方が天に召されることを知り驚いた。私は病院嫌いで、なかなか行かない。私が今回、夕礼拝の最後に倒れたのは、神の恵みであったと思っている。礼拝堂には、すぐ脈を図り救急車を呼ぶように指示してくださった人がおられた。すぐに119に電話をかけてくださった人がおられた。執事に次々連絡をしてくださった人がおられた。救急隊員が中に入れるように用意してくださった人たちがおられた。もし家で倒れていたらおそらく私は、大丈夫だといって救急車を呼ぶことなく、もっと病状がひどくなってから病院に行ったと思う。そうしたらもっともっと悪化していたであろう。今回、私が最短で退院することができたのは、あの日の夕礼拝に出席されていたみなさん、そして祈ってくださったみなさんのおかげであると本当に思っている。
さて、6月19日の礼拝祈祷で、新しい命のことを祈った。ある教会員にお子さんが誕生されたことを、少し前に知らされていたからである。その教会員は、私が礼拝堂で倒れたときに救急車を手配してくださった人である。そして入院して2日目、たまたま前の甘楽教会の会員からLINEメールが届いた。以前に、その人のお孫さんが400グラム以下で生まれたことを知らされていた。それには「いろいろな危険がありましたが、5年がたち、元気に過ごしています。いつも祈りに覚えて下さり有り難うございます。」という文章に動画が添えられていた。病気で弱くなっていたせいもあったと思う。私は、神が与えてくださる命の尊さ、神の祝福を思い、涙が溢れた。そこで、ある聖句が頭に浮かんだ。それは、天地創造の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。また、「天にある星の数のようにあなたの子孫は増える」という言葉だった。その言葉は、創世記にある。信仰の父と呼ばれたアブラハムに対する神の約束、祝福である。神は、アブラハムと契約を交わした後、「あなたを多くの国民の父とする」とも述べている。命、それは神の大いなる祝福の一つであることを、私は改めて実感した。
さて、そこから私は、さらにガラテヤ書が頭に浮かんだ。皆さんは、信仰義認、イエスを信じる信仰によって義とされるということをご存じだと思う。パウロの手紙は、新約聖書に13通ある。現在では、そのうち本当にパウロが記したのは、7通であると考えられている。その中で、パウロはイエスを信じる信仰によって議されると記した。信仰義認といわれている。では、なぜパウロは信仰義認を考え、記したのか。ある学者は次のように考えた。イエスはユダヤ人で、キリスト教は最初、ユダヤ人に告げ知らせた。そして、復活のイエスがパウロに現れた。ユダヤ教のファリサイ派に属し、宣教を行っていたパウロは、自分が信じている唯一の神こそイエスをこの世に遣わされたということに気づいた。そして、パウロは、イエスの救いをユダヤ人ではない異邦人に告げ知らせた。一方、ユダヤ人キリスト者は、選民意識を持ち、律法に記されている割礼、食物規定、安息日を大切にしていた。そこで、割礼を受けていない、食物規定、安息日、つまり律法を守らない異邦人キリスト者に対して、ユダヤ人キリスト者はよい思いを抱いていなかった。選民意識を持っていたユダヤ人に対して弱い立場にあった異邦人キリスト者を守るため、律法を守ることではなく信仰によってこそ義とされると、真のイスラエルの民となるのであると、パウロは説いたと理解できるというのである。また、ある学者が記した本には、パウロが伝えたいのは信仰義認ではないと書かれていた。伝えたいのは、すべての人が神とアブラハムとの契約に入ることができるということであり、その説明のために信仰義認があるという説を唱えた。その理由が、本日与えられた聖句である。私はとても刺激を受けた。信仰義認がパウロの大切な主張の一つであると学び、そうだと思っていた。しかし、当たり前だと思っていたことを前提に聖書を読むのではなく、まっしろな状態で聖書を読んだとき、新たなるメッセージが与えられると知った。アブラハムと神との契約は聖書の最初、創世記17章に記されている。その契約のゆえに神は、アブラハムの子孫であるユダヤ、イスラエルの民を必ず守ると言ったのである。
信仰義認はすべての人がアブラハムと神との契約に与ることができるというための説明であるという理解に、なぜ私は納得したのか。それは旧約聖書の文書の並べ方に、そのような理解があるからである。キリスト教とユダヤ教において、旧約聖書の文書の並び方は異なっている。そもそも、ユダヤ教では旧約聖書とは呼ばない。最初の創世記~申命記のモーセ五書までは、キリスト教もユダヤ教も同じである。その次、ヨシュア記~列王記までが異なっている。ユダヤ教では、ルツ記はもっと後ろに位置している。つまり、ユダヤ教では、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記となっている。この編集の理由は、ユダヤ、イスラエルの民は歴史で何度も神を裏切っているが、アブラハムとの契約のゆえに必ず神はユダヤ、イスラエルの民を救ってくださる。そこには、アブラハムと神との契約に帰ってくる。そのことが前提として編纂されているという理解がある。つまり、アブラハムと神との契約はユダヤ、イスラエルの民にとって、重要な神との関係の中心といえるのではないだろうか。パウロは、元々ユダヤ教ファリサイ派の宣教者であり、聖書をよく知っている立場だった。だからこそ、旧約聖書で神との関係に欠かせないアブラハムと神との契約を中心に考え、大切に扱うのは当たり前のことではないか。パウロが主張したいのは、アブラハムと神との契約にすべての人が招かれているのは確かではないかと私は思ったのである。
そこで重要なのは、パウロが否定したことは、ユダヤ人の選民意識であるということである。そのように考えることができるのではなかろうか。神は、ユダヤの民が優れているから契約を交わしたのではなく、最も小さいく弱い民であるから選んだと旧約聖書に記されている。神がユダヤの民を選んだことは、威張ること、自慢することではない。いや、パウロは選民意識を否定した。それはひとくくりにした民という概念ではなく、すべての人を救うといことである。そして、神はアブラハムと契約を交わしたように、一人一人と契約を交わすということではなかろうか。星のように子孫が増える。それはひとくくりにした子孫ではなく、星によってその輝きがすべて異なるように、一人一人の異なる人格を神は尊び、一人一人をし、契約を交わしてくださる。パウロは、イエスを信じる前、ファリサイ派としてイエスを信じる人々を迫害した。イエスを信じる者は律法を守っていない、ないがしろにしたと考えたからである。しかし、神は律法を守ることを大切にしたのではなく、人間がいつも神を覚えて日々過ごすことを大切にし、そのために律法を与えた。律法は、一人一人がその人らしく生きることができるようにという神の導き、恵みでもある。パウロは、その恵みに気づき、律法を守ることではなく、神が一人一人を愛してくださる。その応答として神を信じる。一人一人が神に向き合うことの大切さを教え、かつ、神が一人一人を愛してくださることを示した。神は、一人一人と契約を交わしてくださる。一人一人に命を吹き込み祝福し、導いてくださるのである。
私は今回、入院するほどの病気にかかったことによって、一人一人に祝福をもって神が命を与え、その命を尊び、導いてくださることに改めて気づかせていただいた。本当に、その喜びを感じ、涙を流した。一人、一人、その人として神は私たちと接し、愛し、導いてくださる。一人一人、神との契約に招いてくださる。その契約は、神が永遠であるように永遠である。そして、神は一度契約した者がどのようになろうとも忘れず導いてくださる。決して契約を打ち切ることはなさらない。パウロ、いや、聖書は、私たちにそのことを教えてくださっていると改めて確信した。一人一人の命を尊ぶ神の愛を確信していただければ嬉しく思う。そして、神の愛を多くの人と分かち合いたいと思う。
祈祷 愛なる神様、あなたは、一人一人を祝し、命を与えてくださいました。そして、命を大切にしてくださいます。それゆえ、神とアブラハムとの契約にユダヤ人だけではなく、御子イエスを通してすべての人を招いてくださいました。私たちは神と無条件に契約を交わすことができます。それは、永遠に神の守りのうちにあるということです。神は、一人一人を愛し、お導きくださいます。このことを多くの人と分かち合いたいと思います。神の愛する命を奪うことは神の御心ではありません。兵士は命令で争いに行かなければならない。それは兵士にとってさえも、怖いことです。しかも、そこで最も被害にあうのは弱者、子どもたちです。どうか争いがなくなりますように。互いに手を結びあう世として下ださい。新しい命の上に祝福がありますように。入院し、手術を控えている友のことを覚えます。どうか成功しますように、癒しの御手を差し伸べてください。暑い日々となっています。熱中症など心配されます。また、コロナウイルス感染も増加傾向にあります。どうか、すべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。自然災害で被災された方々をお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヘブライ人への手紙 12章 1~13節」
聖書朗読
12:01こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 12:02信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 12:03あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 12:04あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 12:05また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 12:06なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 12:07あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 12:08もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 12:09更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 12:10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 12:11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12:12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 12:13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
礼拝メッセージ:陣内 厚生 牧師「信仰の創始者また完成者」
皆さんは、この数か月というものを、どのような思いをもってお迎えになられましたでしょうか。かつて我が国の指導者たちが、いいえ私たちが日本の歴史を作り上げてきたのでありまして、私たちはその身近な歴史に責任をもって生きている存在に他ならないということを知らされているのであります。まして、キリスト者たる私たちには、明らかな問題意識と方向性、さらには展望が与えられていると言わなければなりません。今朝は、本日の聖句によって、そのことを考えてみたいと思っております。
我々の日本の教会は、きわめて小さな集団であります。しかしキリスト教は、その前史を含む旧約の時代以来という歴史の長さにおいては、他の宗教の及ぶところではないものを持っております。小さな集団ではありますが、それを問題としないほどに、はるかに大きな伝統と豊かさを持っているのであります。聖書のいう歴史の中心とも言うべきイエス・キリストの到来と、その意味、神様の救済のドラマのなかに登場してきた人々の群像には、実に目を見張るものがあります。
ヘブライ人への手紙の著者は、実際にはどのような人物だったのかはわかっておりません。そのことをはじめ、この手紙には、解明のできていない点が多々あるのです。それにもかかわらず、この手紙はイスラエル民族の歴史を顧みさせ、イエス・キリストの到来の意味を、必然のことと考える立場をとってきました。その点では、実に明快で一貫しているのです。つまりヘブライ人にとって、イエス・キリストは大祭司という存在であると位置付けているのです。神様は最愛の独り子をこの世に遣わし、その子イエス・キリストに責任と特権とを負わせ給いました。そのうえで、それに対応すべき人間の側の責任と特権とを教え伝えているのです。
さて、旧約時代の信仰の先達の名前が出て参ります。彼らは、イエス・キリストを知りませんでした。それにもかかわらず、ちゃんと信仰をもって神様に従った人々でありました。11章には、それら登場人物の名が出てきております。彼らは、約束のものは手に入れませんでした。けれども、遥か遠くにその約束を望み見て、喜びの声をあげ、地上においてはよそ者であり、仮住まいの者であることを公にし、天の故郷を渇望したのです。それは、次のように言うことができます。信仰の報いは直ぐには現わされず、時間と空間の外において、遠き地を望見させるということ。そして、信仰は常に信仰者の一団を形成するということ。また同時期にではないながら歴代の信仰者の系譜、つまり「おびただしい証人の群れ」に囲まれているということです。この手紙の著者は、円形劇場の観衆を思い起しているのでしょう。私たちは、毎年行う「永眠者記念礼拝」において先達の写真を並べます。あたかも、彼ら先達が観客席を埋め尽くしているように。信仰者の一団、おびただしい証人の群れとは、そのように考えてみることができるのではないでしょうか。
キリスト者たるものは、その観衆の注目の中にあって、懸命に競争を走り抜かねばならない、しかも決勝点をしっかりと見定めた走りをしなくてはならないのです。つまり、キリスト者の人生は漫然とではなく、先へ先はと進む巡礼の人生であります。ゴールは、他ならぬイエス・キリストであり、キリストの御前に出て、受け止めて頂くことが目標であります。
しかし、そこには障害があります。最悪の障害は「重荷」であり、「絡みつく罪」であります。それらをどのようにして振り払っていくか、それが難問であります。私たちには、罪や重荷があり、それらが信仰の足を引っ張っているのです。私たちは、それらを気にする余り、中途半端な不安になったり、諦めたり、妙に妥協して安堵したりしているのです。しかし、それでは真の解決にはならないのです。私たちは、自身の生きているその影を飛び越えることはできません。実にそれは、ここにいる私たち一人ひとりを見ればわかるのです。私たちのなかに、誰が疲れた人、諦めた人、失望した人、悲しんでいない人がいるでしょうか。この世では高みにある権威的な者が何か頼りがいがあると思われ、それを仰ぎ見ることもしたが、しかしそれは制限された高みであるに過ぎないとわかると、疲れ果ててしまうのです。そこに、何か人生の分岐点ともいうべきポイントがあるのです。「かなぐり捨てる」ということには、証人たちの既に実現されている実例があります。「かなぐり捨てる」にふさわしい手ごたえがありそうです。それには、賭けるに値するものがあるのです。
イエス・キリストは天においても地においても、一切の権能をもつ主であることを信じるべきであります。しかし、私たちの重荷や罪を良く見ると「十字架、私たちの生の影を形成する恥は担われ、取り去られた」という福音を聞くことを許されるのです。「あなたの重荷や罪は、もはやあなたのものではなくなるために、イエスが贖ってくださった。」たとえ、それが私たちを取り囲んでいても、それはただあるだけに過ぎません。主であり勝利者であるイエスがいて下さるゆえに、私たちにとっては脅威ではありません。そのことこそが、大きな力となるはずなのであります。
もう一つは、「忍耐強く」ということです。それも奨めの一つであります。勝利者イエス・キリストを知ったならば、この忍耐は何かをつかもうとするための喜びの戦いに変わっていることを知るでありましょう。それは祝福に満ち、平和で希望に溢れた戦いであります。毎日、「神様はキリストにあって、この世とご自分を和解させてくださった」ということを真実たらしめることであります。私たちは、主が勝ち獲た勝利の実りをつかむために、そこにいるだけで良いのです。
そして、イエスを仰ぎ見ようではありませんか。そのイエスは、自らの喜びを捨て、十字架の死をもって贖いを成就させ給いました。耐え抜かれたイエスであればこそ、私たちの贖い主となられたのです。「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです(2章18節)」。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神様の子イエスがあたえられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです(4章14,15節)」。イエスは信仰の創始者、完成者であられます。その祭壇にパルピットがあります。「α(アルファー)」と「Ω(オメガ)」があるのです。すなわち、初めであり終わりであります。すべてを解決して下さる方であられ、その全てなのであります。
次に「信仰を鍛える」ということについて考えてみたいとと思います。私たちの教会は、信仰の喜びを発信すると共に、信仰を強化することも試みようではありませんか。信仰を鍛えるには、私たちは如何にすべきでしょうか。この手紙の著者は言います。「イエスの苦しみと比較するとき、今のあなた方の苦しみは、物の数ではない。イエスはあなた方のために、このようなことをされた。あなたはイエスのために、何をするのか。」と。求められているのは、高価な代価が払われたことへの私たちの応答であります。今の苦難、それは訓練として神様から与えられたものであります。父親が子を訓練するように、霊の父、神様は私たちをそれぞれに鍛えて下さるのです。手紙の著者は、「人生の苦難は神様が与える訓練であり、その訓練は私たちを傷つけるものでなく、最高の益をはかるものであると思いなさい」と言っています。そのことについては、様々な受け止め方があると思います。最もふさわしい受け止め方は、困難を愛の訓練と考える人の場合でありましょう。訓練はことごとく神様の愛から出たものでありまして、私たちの信仰の益を計ってのことであります。そのことを知るならば、私たちの自己憐憫、怒り、反逆、不平は消えるでありましょう。
最後に、私が体験したことをお話したいと思います。私は20代の後半から60歳まで、山口県宇部市において伝道牧会を経験いたしました。そこは炭鉱の町であったため、在日の朝鮮人・韓国人が現在も2300人ほど住んでいるところです。市内には在日大韓教会もあります。ある時、一人の朝鮮総連の青年が聖書の勉強をしたいとして求道し、数か月後に洗礼を受けました。私たちは喜び、教会も彼を歓迎いたしました。しかし、一年ほど経ったとき、同朋や組織から厳しい非難が集中し、彼は精神的に追い込まれてしまいました。「先生、信仰をやめていいですか?」と言ってきたのです。私は彼を引き留め、「いまは辛いかも知れないけれど、君の存在と君の信仰が周りから必要とされるときが必ず来る。いまは忍耐し、時を待って下さい。」と申し上げました。その後、私は宇部から東京に転任しました。その4~5年後に、記念行事に呼ばれて宇部に参りました。その時、何と彼の母親が満面に笑みを浮かべて、私を迎えてくれたのです。洗礼を受けた彼女が、本当に幸せそうに教会で奉仕している姿を私に見せてくれたのです。私は神様の大きな恵みを知りました。主は生きておられ、今も働いておられることを知らされたのです。
聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 2章 1~5節」 02:01兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 02:02なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 02:03そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 02:04わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 02:05それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
礼拝メッセージ:本田 真也 執事「共にいてくださる」
(要旨の掲載はありません)
聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 4章 23~31節」
聖書朗読
04:23さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。 04:24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。 04:25あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。 04:26地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』 04:27事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。 04:28そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。 04:29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。 04:30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 04:31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「力を与えてくださる方」
私が大学院1年生のときの8月の一か月間、夏期伝道の実習を札幌の月寒教会で行わせていただいた。それは、本当に良い学びとなった。私にとって教会での説教は、そのときがはじめてだった。そのとき司式をしていただいた教会役員が、緊張をしている私が聖壇に上がる直前、「大胆に福音を語ってください」と私に言ってくださった。その一言で緊張が和らいだ。私なら「大丈夫、聴衆をかぼちゃだと思って」と声をかけたかもしれない。聖書箇所を思い出し、神さまが共にいてくださる。聖霊が導いてくださるということを改めて心に置き、説教を語ることができた。本当に感謝している。
使徒言行録の使徒とは、イエスの12弟子といってよいであろう。イエスが天にあげられてからエルサレムにおける使徒を中心とするキリスト者の集まりは、原始キリスト教団といわれる。使徒言行録は、イエスが天に上げられた後の使徒たちの働きが記されている。前半は、ペトロを中心とした働きといってよいであろう。また、使徒言行録は聖霊による導きが中心にあると言ってよいと思う。それはペンテコステの出来事からもうかがうことができるであろう。
弟子のペトロとヨハネはエルサレム神殿に行き、イエスの名によって足の不自由な人を癒し、イエスの救いを語った。一方、神殿の秩序を乱す者としてペトロとヨハネは捕らえられ、ユダヤの議員、長老、大祭司、その一族、つまりユダヤの権力者が集まり、取り調べを受けた。そこで、ペトロはイエスの救いを証言した。彼らの行いは良いものであり真実だったので、罰せられることはなかった。しかし二人は、もう誰にも話さないようにと権力者から脅されて釈放された。それが、本日の箇所の前の話である。つまり、当時、イエスを信じる者たちは、ユダヤ教権力者たちから行動を慎むよう圧力をかけられていた。迫害されていたのである。
使徒言行録4章23節には、ペトロとヨハネは、釈放され仲間の所に帰ったとある。彼らは、取り調べを受けた出来事すべてを仲間たちに話した。そして、心を一つにした。「心を一つにし」とは、原始キリスト教団の模範的一致を示している。迫害、苦難の中でこそ一致が必要なのである。そして、神に向かって声を上げた。祈ったのである。神は、この世を創った。神は、この世の支配者といえるであろう。神は、ダビデを通して預言した。25節の途中からの二重括弧は、ダビデが作ったとされる旧約聖書詩編2編1、2節の引用である。ダビデは、紀元前1000年頃活躍した人で、イスラエル12部族を統一した文武両道、信仰の厚い王であった。詩編のそれは、王の即位に用いられた詩であると考えられる。詩編2編は、キリスト教においては、救い主、メシアの預言と理解され、クリスマスの時期に読むこともある。「諸国の民」とは、イスラエルの12部族の人々を意味していると考えられる。そこでイスラエルの民ではない異邦人、イスラエルの民、すなわちすべての民が、騒ぎ立ち、空しく声をあげたというのである。それは何を意味するのか。異邦人は父なる神の存在とその業を知らずに傲慢になり、また、イスラエルの民はこの世を創った絶対者である神を知っていながら、神の意思を見ず、独子イエスを迫害した。そして26節の「地上の王たち」とは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスやユダヤ州総督ポンテオ・ピラトを指している。当時、イスラエルはローマの支配下にあった。次の「指導者たち」とは、ユダヤ教の祭司長たちである。彼らは団結して神とその独子イエスに逆らう。つまり、イエスの十字架の出来事を、ダビデは詩編2編で預言していたというのである。十字架とは、イエスが民衆から王となると支持を受けたことに嫉妬したユダヤ教権力者によってなされた出来事といえるであろう。一方、28節では、イエスの十字架の出来事は神の計画であったとも言っている。
そこで考えたいことがある。ユダヤ教は、異邦人と食事を一緒にとると汚れると考えていた。と言うのは彼らは、異邦人はユダヤ教の掟である律法を守っていないので罪がある、汚れていると考えていたからである。ユダヤ教権力者たちは、そのような考えを持ちながらも、自分たちの欲のためには異邦人であるローマのピラトをも利用したのである。自分たちの欲のため団結する。神を見ず、ただ自分の欲望にしがみついている。権力者たちの傲慢、横暴を思う。それは、心を一つにしたのではなく、欲望を一つにしたと言えるのかもしれない。ダビデは油を注がれて王となった。油注がれる、ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストである。つまり、元来王とは神から油注がれ祝福を受け、役割を与えられ、神に代わりこの世において民を導く存在である。民を導くという意味では、ユダヤ教権力者たちも指導者として同様の立場だったと言えるであろう。それにも関わらず、神の思いではなく自分の思いばかりを考えた。しかも、元来手を結ぶことがないローマと手を結び、神の子であるイエスを殺した。それだけではなく、ユダヤ教権力者たちはイエスを信じる者たちをも迫害した。そこで、ユダヤ権力者たちはペトロとヨハネを脅した。ユダヤ教権力者たちは、エルサレム神殿、つまりユダヤの民の信仰を守るため、人々を惑わすキリスト者を罰したという理解である。しかしその考えは、自分たちの欲望を隠すための言い訳だったといえるのではないだろうか。神の意思を思わない過ちがそこにあるように思う。
イエスの救いを述べ伝えることによって迫害を受けるという状況において、イエスを信じる者は何を求めたのであろうか。祭司長、ユダヤ教権力者から脅されている状況である。私なら、「私たちの命をお守りください、また、私たちを迫害する者を罰してください」と祈ったであろう。弟子たちを中心とするイエスを信じる者たちは、自分たちを守って欲しい祈ったのではなく、「大胆にみ言葉を語ることができるように」と祈り、神の力を求めたのである。それは、ともても驚くべきことである。自分たちの身を守るのではなく、神の救いを多くの人々に告げ知らせるため大胆にみ言葉を語ることができるようにと、神に求めた。自分たちの救いではなく、多くの人が救われるために祈った。それは、指導者としての真の願いといえるであろう。
その「大胆に」という言葉が「正々堂々、また、堂々」と訳されていることがある。正々堂々、自分たちの行為が正しい、つまり、み言葉、イエスの救いを語ることこそ正しいという思いが、使徒たちにあったと理解できるであろう。神の意思を思い、正しいことを行っていると確信している。その思いは大切である。圧力、迫害では人を屈することはできないのである。
本日の聖句は、誰より牧師であるわたしに勇気をくれる。また、キリスト者にとっても勇気づけられる聖句であると思う。なぜ、勇気づけられるのか。31節の最後に「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」とある。神、イエスこそ祈りの言葉を聴いてくださるのである。人々は、聖霊に満たされて祈り求めたとおり、大胆に神のみ言葉を語りだした。神、イエスは、いつも私たちと共にいて導きくださり、わたしたちの祈りの声を聞き、そのときに必要な力をお与えくださっている。だからこそ、私たちは勇気づけられ、一つになり、何をも恐れることなく神を讃美することができる。神は、私たちの声を聞きくださり力を与えてくださるのである。そのことを確信し、心を一つにし、福音を大胆に語り、イエスの救いを多くの人と分かち合いたいと思う。
祈祷 恵み深い神様、イエスが天に上げられた後、弟子たちはイエスの救いを述べ伝えました。一方、弟子たちは、ユダヤ教の権力者たちから迫害にあっていました。そこで彼らが祈り求めたのは、大胆にみ言葉を語ることができるようにとの祈りでした。神は、その声を聞いてくださり、力をお与えくださいました。イエス、神の救いを分かち合うことが最も大切であり、そのことによって多くの人は救いに与ることができます。どうか、現代の私たちも、大胆にみ言葉を語ること、また、イエスの愛をこの世に現わすことができますよう力をお与えください。心を一つにして歩みたいと思います。いま争いが終わりません。人と人とが争うことをあなたは求めません。争いは、憎しみを生み出し、平和は生み出されません。ただ悲しみが残るだけです。どうか、争いではなく、手を結び歩む世としてください。そのために私たちをお用い下さい。自然災害で被災された人々をお支え下さい。病の中にある友、入院をしている友の上に心身共に癒しの御手を差し伸べてください。新しい命を与えられたご家族の上に主の祝福がありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますようにお導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り、主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン
聖書:新共同訳聖書「申命記 6章 1~9節」
聖書朗読
06:01これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。 06:02あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。 06:03イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。 06:04聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 06:05あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 06:06今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 06:07子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 06:08更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 06:09あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「継承すべきこと」
14年前の8月のこと、父から連絡があった日のことを思い出す。医師から祖父が危険な状態だと言われたとのことだった。長女は生後5か月を過ぎていたので、家族一緒にその病院へ行った。祖父はICUにいるとのことだった。きっと危険な状態だろうと覚悟をしてICUに入った。すると、手をあげた祖父が「おう、秀樹か」というではないか。拍子抜けしたし、驚きもした。それどころか、祖父にとってはその日が初対面のひ孫を、祖父は抱っこしたいというのだった。私は長女を支えて祖父が無理なく抱っこができるようにした。すると祖父は満面の笑顔で長女をしばらく抱いていた。そのように嬉しそうな顔をした祖父を、私はあまり見たことがなかった。私は今でもそのときの写真を大切に保存している。祖父が元気そうに見えたので、次は一緒にお酒を飲もうと約束し、当時、牧会していた代官山に帰った。しかし二日後、祖父は天に召された。93歳だった。その時に、以前に父からよく聞かされていた話を思い出した。私たち家族は、私が2歳近くまで祖父母と同居していた。祖父は、2歳上の兄と手をつなぎ、赤ちゃんだった私をおんぶして、毎朝散歩に出かけたそうである。散歩の途中で祖父はいつも兄にあんパンを買い与えた。それで兄は太ったのだと、父は話していた。また、いつも私と兄を風呂に入れるのは祖父だった。絶対に、その役を譲らなかったそうである。祖父の話になると、私はいつも長女に「あなたは皆から愛されているのだよ」と、その話を聞かせる。
さて、申命記とは、日本語で申(かさ)ねて命じるという意味がある。しかし申命記とは、勘違いからこの訳になった。それが実は内容的には適していて、エジプト脱出以来の出来事を振り返り、イスラエルの人々に、律法の精神をもう一度、教え諭している本だと覚えることができるのである。
では、その律法とはいかなるものか。律法を守ればと救われるということなのか。律法とは、神の意思である。神は十戒、すなわち律法をイスラエルの民に与えた。人間からすると、十戒は、律法は神から授かった賜物、恵みである。律法を守ることによって契約を結んでくださった神が共にいてくださるということ、神が恵みをくださることを覚えながら日々の生活をおくるものであるといえよう。本日の箇所からも、それをうかがうことができる。申命記の6章8節9節にあるように、ユダヤ教では、頭、腕につける小さな箱がある。それはテフィリンという。その中に、本日の箇所と他の聖句が記された紙を入れている。また、イスラエルではホテルの部屋にもあるが、戸口に小さな箱をつけている。それをネズサといい、本日の聖句が記された紙が納めらえている。神がいつも共にあるということである。そのように律法は、守らなければならないという掟ではない。そこにあるのは、神の人間に対する愛と信頼といってよいであろう。
申命記6章4節以下は、ユダヤ教において重要な聖句の一つである。十戒の要約ともいえよう。十戒の第一の掟は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、つまり、唯一の神を意味している。マルコによる福音書の12章29節以下には、「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』とある。第二の掟は、「『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」とイエスが述べている通りである。
本日の申命記の箇所は、「シェマ」という。4節の「聞け」という言葉が、ヘブライ語でシェマだからである。一方、その「聞け」は、命令形で記されている。続く5節も、「あなたの神、主を愛しなさい」と命じている。神は、私たちに神を愛することを強制しているのであろうか。その愛は、人情や親切、情愛に留まらず、契約を忠実に守る姿勢、また、その意味で人の真心や真実で偽りのない心をいう。私たちは、掟を忠実に守り、真実で偽りのない心で神に向き合わなければならないといえるであろう。しかし、私たちにそのようなことができるのであろうか。
聖書には、人間が神に背く姿が多く記されている。創世記には、神がアブラハムと契約を交わしてくださったことが書かれている。神の側から契約を結んでくださった。人間と共にあることを、人間を救うことを、神が自ら契約という形で縛ったのである。そのような理解があった。ルツ記を除く創世記から列王記下まで、イスラエルの民は神に背いてばかりいることが記されている。しかし、神は、アブラハムとの契約の故に、必ずイスラエルを救ってくださる。アブラハムの契約を原点と意図して、創世記から列王記を編纂しているのである。その理解を、私はとても気に入っている。それは、神と人間との関係を分かりやすく示していると思うのである。もちろん、神と人間との関係は、他の箇所にも記されている。12小預言書のひとつホセア書は、愛と真実の預言者ともいわれている。ホセア書の11章8~9節、エフライムとはイスラエルのことである。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」。旧約聖書学者の関根正雄は、ホセア書に記されている神の愛、つまりイスラエルは神を何度も裏切ったが、神は愛し、必ず救ってくださった。この愛を前提として、申命記のそ箇所の「あなたの神、主を愛しなさい」という言葉があるのだというのである。
「聞け、イスラエルよ」と記されている。現代にとってイスラエルとは、神を信じる者のことであるといってよいであろう。なぜなら、神の独り子イエスこそ、神の愛はすべての人に注がれているのであるということを教えてくださったからである。イエスは、第一の掟として「唯一の神を愛しなさい」と、私たちに教えてくださっている。何かをしたから神は私たちを愛してくださっているというのではなく、創造主として無条件に私たちを愛してくださっている。だからこそ、私たちは神を愛することができるのである。大切なことは、まず私たちが愛されていることを確信すること。そして、7節にあるように私たちは、私たちの子どもたちに、繰り返し繰り返しそれらの言葉を語り聞かせるべきではないだろうか。神はあなたのことを無条件に愛してくださっている。だから神を信じ、神を愛するのだよと。そして、神を愛する者こそ、隣人を愛することができるのである。現代の私たちも、その言葉を聞き、そして、多くの人たちに述べ伝え、神の愛を分かち合い、継承したいと思うのである。また、そのことによって神の愛は広がっていくのである。
祈祷 愛の源なる神様 申命記には律法が記されています。律法は、守らなければならない掟ではなく、人間が神の御意思、御恵みを覚え、それを支えに歩んでいくことができるものです。神は、この世、人間をただ愛してくださっています。そのことが前提です。私たちは、愛されていることを確信し、その愛を多くの人と分かち合い、継承していきたいと思います。どうか、そのため、強め、お用いください。争いが開始されると、やめるという時をなかなか持つことができません。争いをやめることには勇気と決断が必要です。そして、そこで最も必要なのは民を愛し、守るということです。争いは憎しみ、悲しみしか生み出しません。争いで悲しみ、不安の中にある人々を守り、お支えください。そして、争いをやめる勇気と愛をお与えくださいますように。私たちにできることがありましたらお用いください。病の中にある方、検査入院をされている方、心身共にお癒しください。本来は、こども日・花の日礼拝の日ですが、この状況で子どもたちと共に讃美を守ることができません。イエスはこどもを招かれます。どうか、共に讃美できる日が早く来ますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧をお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますよう、共にいてお支えください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 122編 1~9節」
聖書朗読
122:01【都に上る歌。ダビデの詩。】主の家に行こう、と人々が言ったとき
わたしはうれしかった。 122:02エルサレムよ、あなたの城門の中に
わたしたちの足は立っている。 122:03エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い 122:04そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。 122:05そこにこそ、裁きの王座が
ダビデの家の王座が据えられている。 122:06エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。 122:07あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」 122:08わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」 122:09わたしは願おう
わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「平和の使者」
皆さんは、イスラエルに行かれたことはあろうか。私は18年前に行った。今もそうだが、イスラエルはパレスチナとの間に問題を抱えている。パレスチナ自治区に大きな壁を作り、行き来ができないようにしている。私が行った1か月前には、エルサレム市街地でバスのテロがあり、行っている間にもテルアビブへの攻撃があった。その時に、ガイドをしてくださったのは日本人だったが、エルサレムに住みユダヤ教徒として生活しているとのことだった。イエスが、その十字架の死の前に祈ったゲッセマネにも行ってきた。そこでガイドが、お土産をこの人から買ってくださいと男性をバスに入れた。彼は、障がいをもつパレスチナ人だった。そこでは争いがあるため観光客が少ない。困っているから彼から買ってほしいと、ガイドは話してくれた。また、イエス誕生の地であるベツレヘムは、パレスチナ自治区のため壁がある。そのような状況なので治安が悪く、観光客はベツレヘムに行かない。そのガイドは、ベツレヘムのそのような商売をするパレスチナ人とも通じていて、危ないことにならないようにイエス誕生の地に連れて行ってくれた。その後、そこの店でお土産を買った。店の人は観光客が来ないので困っていたとのことであった。そのガイドから私は、宗教、民族を超え困っているときにこそ助け合う人と人との関係を大切にすること、平和を望むことを、あらためて教えていただいた気がした。
本日はペンテコステである。イエスが天に上げられた後、エルサレムに集まった弟子たちに聖霊が降り、イエスの救いを述べ伝える力が与えられたことを覚える時である。教会の誕生日ともいわれている。そこからイエスの救いが世界に広まったのである。
旧約聖書の詩篇122編に心を傾けたいと思う。最初に「都に上る詩」とある。都とは神殿のあるエルサレム、つまり、巡礼を意味している。巡礼とは、宗教の聖地等にお参りすることといってよいだろう。エルサレム神殿には元来、モーセが神から頂いた十戒の刻まれた石板があった。また、神の命令によりアブラハムが、息子イサクを神にささげようとした場所、モリヤこそエルサレムである。つまりそこは、神がいる場所といってよいのかもしれない。
聖書にある教え、律法には巡礼が定められている。本日の詩編の箇所で、まず見たいのは、巡礼という旅に1人ではなく仲間と共に行くということである。そして、エルサレム神殿にいることを喜んでいるのである。このような理解がある。「今、城門の所にいる詩人は、巡礼の仲間たちと出会いの瞬間を、喜びをもって回想するところから作品を始めている」。友と一緒に神を讃美できることの喜び、といってもよいかもしれない。今年の年間聖句である詩篇133編に連なるともいえる。イエスは述べた。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。3節を見ると「すべては結び合い」とある。イスラエル12部族の民が一つとなるといえるであろう。5節には「裁きの王座」とあるが、「公正の座」と訳した方がいいという理解もある。正しい神がおられる座と理解したいのである。
この詩編で特徴的なのが、6節以下「平和、平安」を求めているということである。では、誰の平和を求めているのであろうか。6節以下の「あなた」は、エルサレムを指している。エルサレムの平和が求められている。昔からイスラエル、エルサレムは争いの多い場所である。イスラエルは、ペルシア湾からパレスチナにおいての肥沃の三日月地帯の端、また、ペルシア、アッシリア、エジプトなど大国に挟まれた戦争の絶えない土地なのである。聖書には争いが多く記され、敵を撃破する神の勝利などが記されている。しかし、この詩編の箇所には、そのような争いではなく、エルサレム神殿に集う民の和合への願いが語られているのである。
この詩編の箇所は、民族統合、唯一の神、その神殿を前にして平和への願いを表明しているのである。そこで注目したいのは、先ほど述べたように、イスラエル12部族が一つとなること、つまりこの詩人の信仰には、歴史や伝統に深く根ざしながらも、単なる伝統や習慣を乗り越えていこうとする極めて人間的なものが現れていることがうかがえるということである。友のためにエルサレムはある。そのような信仰の在り方が、遠く隔たった時と所に生きている我々の心にも訴えている。旧約聖書の神は、イスラエルの民と契約を交わした。また、イエスを通しての神との契約の対象は、イスラエルにとどまらず、全ての人になった。つまり、神の民とはイスラエル12部族だけではなく神を信じるすべての民なのである。そして、イエスが述べた通り、神は神を信じる者と共にある。教会こそ神がおられる場所であり、祈りの地なのである。
ペンテコステにおいて、エルサレムに集まるイエスの弟子たちに聖霊が降り、イエスの救いを述べ伝える力が与えられた。詩編122編は、エルサレムの平和を求めるということではなく、神を信じる者たちが互いに平和を求める場こそが神殿であるということ、そして神が求めておられることこそ、すべての人の和合という平和であると教えているといえるであろう。弟子たちがエルサレムから旅立ち、イエスの救いを述べ伝えた。それは神の求める平和を述べ伝えることであるといってもよいであろう。現代の私たちも、弟子たちと同じように聖霊が与えられている。友と共に平和を祈り求めたいと思う。友のことを祈るために教会はある。そのことによってこそ一つになるのである。
祈祷 恵み深い愛なる神様 ペンテコステ、弟子たちに聖霊が降り、宣教の力が与えられた日です。神を讃美するとは、神の愛する友と平和を求めることであると信じます。なぜなら平和であることによって、その人がその人としていることができるからです。弟子たちに聖霊が注がれたように、私たちにも聖霊が与えられています。私たちは、友のことを覚え、平和を祈るべきです。しかし、この世では争いが絶えません。どうか、指導者たちの心にあなたの愛を与え、その民がその民らしく歩むことができるようお導きください。また、病にかかっている方々に心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。私たちにできることがありましたらお用いください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 45章 1~7節」
聖書朗読
45:01主が油を注がれた人キュロスについて
主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り
国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ
どの城門も閉ざされることはない。
45:02わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし
青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り
45:03暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる
わたしは主、あなたの名を呼ぶ者
イスラエルの神である、と。
45:04わたしの僕ヤコブのために
わたしの選んだイスラエルのために
わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが
あなたは知らなかった。
4
5:05わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが
あなたは知らなかった。
45:06日の昇るところから日の沈むところまで
人々は知るようになる
わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。
45:07光を造り、闇を創造し
平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「災いを創造する神」
イザヤ書45章1節に記されているキュロスとは誰か。ペルシアの王である。彼に油が注がれる。「油注ぐ」とは、ヘブライ語でマーハーシーアハ、メシア、ギリシア語ではキリスト、つまり、救い主を意味する。本当にペルシア王のキュロスがメシア、救い主なのか。イザヤ書が記された時代、油注がれた者に「救い主」という意味はまだなかった。当時、「油注ぐ」とは、王の就任を示していた。神が選び、召した者に対して油を注ぎ、王とする。つまり王は、神から民を導くよう委託された者といっていいであろう。では、なぜペルシア王がイエスラエルの神から油注がれたのか。
紀元前1,000年頃、ダビデによってイスラエル12部族統一王国となった。しかし紀元前922年、イスラエルは、エルサレム神殿のある南ユダと北イスラエルに分裂した。紀元前722年、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、紀元前586年、南ユダは、バビロンによって滅ぼされた。このとき多くの上層階級の人がバビロンに連れていかれた。それをバビロン捕囚という。それから約50年後、ペルシアがバビロンを滅ぼした。バビロンに連れていかれたユダの民はそのことによって解放され、エルサレムへの帰還、神殿再建等の希望を持つという歴史がある。
本日の聖書箇所では、まだイスラエルはバビロンの支配下にあった。神がペルシアのキュロス王に油を注いだとは、ユダの民を解放させるためであった。唯一の神はユダの民が神に従わなかったので、バビロンを用いてこの民を罰した。しかし神は、ただ罰せられる方ではなかった。神とアブラハムとの契約によって、ユダの民は神の守りの内にあった。神は罰するが、一方、契約のゆえにユダの民を忘れることなく、異邦のペルシア王クロスを用いて救ってくださった。
神はこの世を創造した神である。バビロニアの王もペルシアの王も、神が創造した被造物にしかすぎない。神はあらゆるものを用いて、契約を交わしたユダの民を導く。ペルシアの王は唯一の神に創られた者にしか過ぎない。神こそ唯一、絶対であるということが分かる。1節は、王の就任を示し、神がペルシア王キュロスを、ユダの民を救うために任命した。
2節は、キュロスを用いユダの民を救うということ、また、キュロスに唯一の神を知らせると言うことが記されている。一方、キュロスは、唯一の神を認識しなかったということが、4節から記されている。3節、暗闇に置かれた宝、隠された財宝とは、バビロンの宝の倉の財宝であると考えられる。6節、「わたしは主、ほかにいない」と記されている通り、唯一神のほかに神はない。唯一の神であると自ら明らかにされ、すべての人が神を知るようになるというのである。
さて、本日の箇所には疑問に思う言葉がある。それは7節「光を作り、闇を創造し、平和を造り、災いを創造する者」である。そこでは単純に、光と闇、平和と災い、相対するものを記している。つまり、最後にあるように「すべてを作る者」こそ神であるということを示しているといえるであろう。また、ペルシアのゾロアスター教の神と唯一の神、またキュロスとバビロニアを比喩的に記している。つまり、神でない者、それは闇、災いに陥る。真の神は、光、平和である。また、唯一の神に用いられたキュロスは光、平和、バビロニアは闇、災いということを比喩的に述べているなどと考えることができる。
一方、疑問に思うというのは、神は災いをも創造したのかということである。神は本当に災いを創造したのか。実は、それはとても難しい議論となろう。というのは、神は義、正しい方である。その正しい方が災いを創造するのかと。災いを創造する神、それは神について人間が語ること、考えることの限界、神学の限界を突き破っていると記している解釈があった。たしかにその通りだと思う。わたしは単純に考えたい。確かに人間の理解には限界がある。それは当たり前のことである。人間は神ではない。人間が神を理解することなどできないのである。そこには絶対的な違いがある。人間にできるのは、神に語り掛けること、神を讃美することである。神は、敵をも用いて導く、また、他の神を信じるペルシア王キュロスさえ用いてユダの民を救う。それは人間の理解を越えている。実際、人間は知らないことだらけである。人間には禍だが、この世的には必要なものがあるのかもしれない。一方、神が災いをも創造したのなら、人間を襲う災いも神は支配しているので、必ず救いへと導きくださると理解できるのではないだろうか。災いをも創造する神とは、人間には思いもしない出来事が起こったとしても、人間には思いもしない出来事を通して必ず救いへと導いてくださるということが意味されているのではないだろうか。そのように考えると、わたしたちの希望、救いとなる。神が災いを創造するとは、神はすべてを支配しているということであり、どんな苦しいことがあっても、神は必ず救いへと導いてくださる。他の神を信じ、唯一の神を認識できないペルシア王キュロスを用いたように、人間には思いもしない方法で救いへと導いてくださる。その顕著なことがイエスの十字架である。神こそ、すべてを支配し、全てを用いて導いてくださる方であると理解したいのである。神は人間の理解を越えている。その神が、必ず私たちと共にいて導いてくださる。だからこそ神を信じ、神にすべてを委ねることができるのである。
祈祷 全知全能の神様 わたしたちには、様々な災いが降り注ぎます。しかし、あなたは災いをも創造しました。それは、この世のすべてがあなたの支配の中にあり、どのような災いでもあなたは必ず救いへとお導きくださると理解します。私たちは神を理解するはできません。あなたは私たちの想像を超えるほどの方であり、また、想像を超える愛なる方です。どうか、災い、苦しみの中にある方々をお支えくださいますように。一方、人間が災いを起こしてしまうことがあります。その一つが、争いです。争いは神の御心ではなく、人間の欲望にしかすぎません。そして、そこに救いはありません。また、国の指導者こそ、その民がその民らしく歩むことができるよう仕える者です。そのようにお導きください。また、自然災害で被災された方々をお守りください。私たちにできることがありましたらお用いください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「ローマの信徒への手紙 8章 22~27節」 08:22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 08:23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 08:24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 08:25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 08:26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 08:27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「どうしたら祈れるの?」
嬉しい知らせが届いた。以前に筑波学園教会の教会員だったある方からの、結婚の案内のお手紙である。その中に「新型コロナ等の時勢なので、ご無理はなさらず、お祈りのうちに覚えていただければありがたく存じます」と記されていた。祈りの大切さを思った。祈られているというのは支えになる。祝福にもなる。祈りは、自分のことはもちろん、相手のことを思うことができる。しかも、全知全能の神にお委ねすることができるのである。それほど力強いことは他にない。
「祈りは魂の呼吸である」と、また「最大の罪は祈らないことである」と記している祈りの本があった。祈るとは、神との会話である。「祈りは魂の呼吸である」と、そして「最大の罪は祈らないことである」と記している祈りの本があった。祈らないとは、神を忘れている状態であるといえるであろう。一方、わたしたちは祈れないときがあるのではなかろうか。
祈りは、イエスがわたしたちに下さった恵みである。ローマの信徒への手紙の8章15節には「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とある。聖霊によって導かれ、神の子とされるのである。そして、わたしたちは、「アッバ」、子どもが「お父ちゃん」と呼ぶ親しさで、神に呼び掛けることが、イエスによって赦されている。祈りはイエスの、神の招きといえるのかもしれない。
では、聖霊とはいかなるものであろうか。聖霊は、目に見えない神・イエスの働きである。一方、わたしたちは、祈りの言葉が聴かれるのか、疑ってしまうかもしれない。ヨハネの黙示録の3章20節に「見よ、わたしは戸口にたって、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」とある。わたしたちが心の戸を開くのを、神は戸口に立ち、待ってくださっているのである。わたしたちが神に祈ろうと思うより前に、神は深い関心をわたしたち一人一人に向けてくださっている。ローマの信徒への手紙8章15節にあったように、わたしたちは神の子とされる霊を受けた。わたしたちは神の子であり、神は全てを知り、わたしたちが祈ることを待ち続けてくださっている。つまり、神は、わたしたちとの会話を楽しみにされているのである。子どもとの会話、交わりを楽しみにしない親がいるであろうか。交わりを喜ぶ、それが神の思いなのである。
わたしがいた甘楽教会には幼稚園があった。あるとき、年少3歳の子どもが、わたしに「どうして『イエスさまのお名を通して』というの?」と聞いてきた。素晴らしい。ヨハネによる福音書の16章23節にあるように「あなたがたが何かを父に願うならば、父はわたしの名によってこれを与えられるであろう」と、イエスが約束してくださったからである。
一方、何を祈っていいか分からない。上手く祈れないと思われる方もいるであろう。しかし、気にする必要はない。神はわたしたちの心を、わたしたち以上にご存知なのである。その上で、神はわたしたちが語りかけることを求めておられる。それでも、祈るというのは難しいと、恥ずかしいと思われるかもしれない。しかし、祈れないときには「祈れません」と神に述べればいいのである。それが祈りなのである。なぜなら神に語りかけ、苦しいという心の内を神に開いているのだから。
では、上手に語るため祈りに訓練が必要なのであろうか。そこで、本日の聖書箇所のローマの信徒への手紙8章26~27節を見ると「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」とある。神・イエスの働きである聖霊が、人間の弱い言葉を神にふさわしい言葉に通訳し、神へと送ってくださるといえるであろう。その「霊自らが、言葉では表せないうめきをもって」という言葉を、どのように理解すべきなのであろうか。22節に、「被造物がうめき、生みの苦しみに味わっている」とある。被造物が人間の罪の巻き添えを食っているという理解がある。そして23節の「贖い」は、律法違反の罪の贖いではなく、それを越えた全人格的な贖いと理解できる。完全な救い、といえるであろう。被造物、わたしたち人間が救いを待ち望んでいるのを、神はご存じである。つまり、人間を含め被造物の苦難は、この世を創られた神の苦難であるといえるであろう。神こそ「言葉では表せないうめき」を知っておられる。そこで、被造物、人間の言葉にならない深い悲しみ、痛み、苦しみをも神は理解し、神の働きである聖霊が共にうめき、取り成してくださると受け取りたい。だからこそパウロは、聖霊抜きの祈りは不可能であるというのではないだろうか。
わたしたちは、自分が祈っていると思っているのではないか。しかし、そうではなく神との会話である祈りは、聖霊によって導かれる出来事なのである。祈ろうという思いこそ、神の導きである。だからこそ、わたしたちの祈りは、神に聴かれているのである。特に顕著なのは、神の御前における礼拝の祈り、讃美の言葉である。
26節にあるように、「聖霊が祈ることができるように内側から導いてくださっている」、「弱いわたしたちを助けてくださっている」のである。「弱い」とは、罪ある、すなわち神に背く、神の愛を忘れてしまうということである。そのような弱いわたしたちを、聖霊が共にうめき、助け、わたしたちの言葉を神に語りかけるにふさわしくしてくださる。祈る言葉を、聖霊が与えてくださるのである。だから、祈りに良し悪しなどない。神はわたしたち一人一人の言葉を、喜んで聴いてくださる。日々、祈りたいと思う。
祈祷 いつくしみ深い神様、あなたは、いつもわたしたちの心の戸口に立ち、祈ることを待ってくださっています。また、わたしたち、被造物のうめきを知り、共にうめき祈るべき言葉をお与えくださいます。そのように、神の子としてわたしたちをお招きくださいます。どうか、わたしたちのうめきを知り、祈る言葉を与えてくださいますように。特に、苦しみの中にある方々の声を聞き、お支え、お導きくださいますように。争いは、神の御心ではなく、最も弱い者こそが被害にあいます。どうか、まずその方々をお守りください。また、争うことをやめさせる力、勇気を指導者たちの心にお与えください。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。アーメン
聖書:新共同訳聖書「ペトロの手紙(1) 2章 1~10節」 02:01だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 02:02生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 02:03あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 02:04この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 02:05あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 02:06聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 02:07従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、 02:08また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。 02:09しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 02:10あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神のものとなった民」
ペトロの手紙(1)が記された時代、この手紙を読むキリスト教徒は社会的に苦難を受けていた。そこでペトロは、苦しみの中にあっても神を信じ、イエスに倣い正しいことを行おうと述べている。イエスの受けた苦難を、共に負うという恵みとして受け入れようと教えているのである。また、正しいことを行っていれば、いつか人々も理解し、結果的にキリスト教は社会に浸透し、社会を変革してゆくことになるだろうという希望を、著者ペトロはキリスト者に示している。
本日は、ペトロの手紙(1)の2章1節以下に心を傾けたいと思う。「石」という言葉が目に留まるのではなかろうか。パウロもローマ書9章33節で、イザヤ書を引用し「「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。(6節)」と記している。また、イエス自身も、マルコによる福音書の12章10節で、詩編を引用し「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。(7節)」と述べている。ペトロの手紙でも、同様に旧約聖書をその箇所引用している。そこでも「石」は両義的な意味を持っている。建築物において石は、土台などとして中心的な働きをなす。一方で、道にある石によって人はつまずいてしまうことがある。ユダヤ人たちはイエスを信じなかった。つまり、ユダヤ人にとってイエスは神へと導くものではなく、つまずきであった。
しかし、シオン、エルサレムにおけるイエスの十字架を計画した方こそ神であり、そこに救いがある。またイエスは、罪人として処刑されたが、十字架が救いとなり、信仰、救いの礎になった。そのように苦難を受けたイエスが、信仰、救いの頭石になったのである。神は苦難を通して、救いへと導いてくださる。だから、イエスを信じる者も「生きた石」としてイエスに倣いなさいと、ペトロは述べているのである。ペトロ自身、イエスから「ペトロ」すなわち「岩」と名付けられた。ペトロはイエスに述べたように、イエスを信じる者たちを信頼し、「生きた石」になるよう呼び掛けていると言えるであろう。
では、イエスに倣うとは、いかなることであろうか。10節にホセア書を引用し、この手紙を読む者たちや苦難にあっている者たちを、神は憐れんでくださると記している。「憐れむ」とは、相手の立場になって同情し、行動をすることである。つまり父なる神はその御子を、人と同じ肉をまとわせてイエスとしてこの世に与えたことによって、真の憐れみを示し、この神の御子イエスを受け入れることによって、同様にして神の子となり、「神の民」とされたのである。大変なことだが、神、イエスを信じる者こそ、イエス、神の憐れみに倣うべきであると言えるのではなかろうか。
一方、そのように苦難にあっている者に「イエスに倣い歩みなさい」という言葉は、厳しいように思える。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です(9節)」。この言葉は、王の系統、しかも祭司という特別な権威をキリスト者には与えられるということであろうか。そこでは特別な権威ではなく、神がイエスを信じる者の側にいてくださるということを意味しているのである。選ばれた民、苦難にあっている者たちにとって、それは励ましの言葉となる。神が選び、神の民として守り導いてくださるといえるであろう。
「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです(9節)」。神、イエスは、暗闇から光の中へと招き入れてくださった。暗闇、どのように歩むべきか分らない状況から、歩むべき道を光によって照らし、招いてくださったのである。つまり神は招いてくださる方であり、その招きに条件などはない。招くというのだから、一人ひとりをよしとし、肯定して下さってということに他ならないと思うのである。
そこでもう一度9節を見ると、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と書かれている。それはイエスの存在を表す称号として用いられる言葉である。イエスは、王、祭司、預言者、聖なる方、神の子などと呼ばれた。神を信じる者も、祭司、聖なる者、神のもの、つまりイエスと同じ称号が与えられる。イエスと同じ存在として、神はわたしたちを招き、受け入れて下さるということである。「わたしたちもイエスと同じ神の子とされる」といっても過言ではないと思う。しかも「神のものとなった」。神を信じる者は、神のものとして大切にされ、愛されていると言っていいであろう。
今回この聖句を読み、なぜ食事、パンでなく、「乳(2節)」なのかと思った。皆さんは、どのように思われるであろうか。赤ちゃんのように、まず求めなさいということであろう。そのような解釈があった。「初歩的な教え」である。わたしは、そのように理解した。この手紙を読む人々は、ユダヤ人ではなく、異邦人が多かったと考えられる。つまり、神、イエスに出会ったばかりの人たちである。または、初心、神に出会ったときのように救いを求めるべきだということか。同時に、赤ちゃんには乳が必要なように、神はいま必要な栄養をお与え下さるということなのではないかと思ったのである。神を信じる者たちを憐れみ、いま必要な恵みを神はお与えくださる。恵みを求めなさい。神は、わたしたちを憐れみ、いま必要な恵みをお与えくだる。そして、神の民として導いてくださる。現代のわたしたちに対しても同様である。神は、神の民としてわたしたちを招き、憐れんでくださっている。神の恵みを求め、イエスに倣い歩みたいと思う。そのことによってこそ、すばらしい世となるのである。
祈祷 憐れみ深い神様、あなたは、御子イエスに苦難を与え、十字架にけられました。それは、今もなおわたしたちの苦難を共に負って下さっているということです。どうか、苦難の中にある一人一人と共にありますように。そして、その場においてイエスに倣うことができますように。また、そのため、いま必要な恵みを与え下さい。イエスに倣い歩むことにより、この世に神の栄光を表すことができます。それは神の愛がこの世に満ちることであり、この世はきっとよき方向へと歩むことができるようになります。どうか、わたしたちをそのためにお用いください。特に、この世の指導者の心に愛を満たし、争いを止め、手を結び歩むことができますように。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げ致します。アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネの手紙(1) 4章 13~21節」 04:13神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 04:14わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 04:15イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。 04:16わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 04:17こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 04:18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 04:19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 04:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 04:21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の戒め」
ゴールデンウィークは、祈祷会を休みにしていただいた。小学生3年生の息子が、東京の地下鉄メトロが大好きなので乗りに出かけた。つくばを8時頃に出て、5時40分に帰宅するまでの間、食事の1時間を除いてずっと路線を変えながら地下鉄に、ただ乗っていた。なぜ息子が地下鉄が、それもメトロが好きなのかは分からない。新幹線の方がかっこいいと感じるように思うが、息子は一番好きなのはメトロとのことである。それを本人も説明できない。神様が人間に与えてくださった賜物に、好き、好奇心、興味を持つということがあると思う。そこから学びが生まれる。賜物なのだから、好き、興味を持つことに理由などいらないと思う。小さな赤ちゃんを見たときに、ほとんどの人がかわいいと思う。そこに理由などいらない。かわいいと思える賜物を与えてくださった。神様は一人一人に様々な賜物をくださる。その創造の業は本当に素晴らしいと思う。ただ感謝するのみである。
さて、日本においてキリスト教、キリスト者は、一般的に良いイメージを持たれていると思う。優しいとか、隣人を愛するなど。一方、全ての人を愛することなどできない。だからキリスト者になれないという意見を聞いたことがある。
本日の聖書箇所のヨハネの手紙は、ヨハネによる福音書と同様に、愛という言葉が多く記されている。「神は愛です」。そのことから本日の箇所を好きな聖句としている方も多いと思う。13節に「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内に留まって下さることが分かります」とある。わたしたちの心というより、この世、そして、教会という共同体であると理解できる。それは、神から離れてしまうこの世的な中に、神が入ってくださるということであり、神の霊を通して神の愛、導きをわたしたちは知ることができる、気づくということに他ならないということである。それは、また、わたしたちの希望になる。
15節に「イエスこそ神の子であると告白する者は、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまる」と記されている。「その人の内」とある。12、13節には「わたしたちの内」と複数形で記されている。だから教会等の共同体、この世の内と理解できる。一方、15、16節は、単数形、ある人の内に神がとどまってくださるという。そこでは、キリスト者、人間と神との相互内在性を述べている。これは、2章18節以下に記されていた「反キリスト」が教会内部を惑わしているという背景があると理解できる。そして、18節の「恐れ」とは、世の終わり終末の到来が背景にある。「世の終わりに神の裁きがある。また、惑わす者たちが現れる。しかし神を信じる者は、心の内に神がいてくださるので恐れることはない」というのである。
16節に「神は愛です」とある。最初にキリスト教、キリスト者は一般に良いイメージを持たれていると述べた。神は愛であるから神を信じる者も愛なる人であるというイメージがあるのだろう。本当にそうであろうか。本日の箇所の最後にも「神を愛する人は兄妹を愛すべきです。これが神から受けた掟です」と記されている。神を信じるわたしたちは、その掟として「愛さなければ」ならないのであろうか。
わたしは「掟」という言葉に躓きを感じる。「掟」には、行わなければならないというイメージがある。では、神は、愛することをわたしたちに強制しているだろうか。その言葉は「掟」のほかに「戒め、委託」と訳すことができる。「戒め」とは、罪を犯さないよう注意するという厳しい意味である。「委託」という言葉を聞くと、そこに信頼関係があるというイメージがある。神は、わたしたちを信頼し、愛しなさいと述べている。確かに信頼されていることは嬉しい。しかし愛さなければならないことには変わりない。そこで考えたい。「神は愛です」。つまり、愛の源は神である。その神が、わたしたちの内にいてくださる。その箇所を調べていると、「愛とは何か」との問いのこたえが「賜物」であるという解釈があった。愛される資格などない人間であるにもかかわらず、神はわたしたちを愛してくださっている。弱く、欠けのある人間を、ありのまま受け入れてくださっているのである。その愛ゆえに独り子をこの世にお遣わしになった。そして、神の前に立つことができるようにしてくださったのである。そのため独り子に苦難を負わせた。独り子イエスの苦しみ、痛みは神様自身の痛みである。痛みを負うほどこの世を愛してくださった。わたしたちは神にいやおうなしに愛されてしまっている存在なのである。それだけではなく愛を賜物として与えられてしまったのである。愛された者だからこそ愛することができる。「兄弟を愛する」の前提は、まず神によって愛され、愛がわたしたちの内に賜物として与えられているということなのである。先ほど、反キリストがヨハネの教会を惑わしていると述べた。それによって教会で分裂が起こりそうである。内部分裂こそが危険である。だからこそ「兄弟を愛しなさい」と記されている。この世、教会等共同体の内、それだけではなくわたしたちの心の内にも神がいてくださる。神に愛される資格もないわたしたちにも関わらず、神はわたしたちの内にいてくださる。わたしたちが愛するのではなく、愛する力を神がすでにわたしたちに与えてくださっているのである。争うこと、分裂することは神の意志ではない。なぜなら、神は愛だからである。愛こそ、和解する力、一つになる力なのではないだろうか。また、愛することによって神がわたしたちの内にいてくださることを実感することができる。わたしたちが愛するのではなく、愛なる神が共にいて、愛する力を与えてくださる。愛は神との共同作業であるといえるであろう。愛することから大きな力、働きが生まれる。神から愛という賜物を与えられていることを確信したいと思う。それほどに大きな支えは他にない。
祈祷 愛の源なる神様、神様は愛です。すべての愛は神様から出ています。わたしたち一人一人、神様から愛をいただいています。だからわたしたちは他の人を愛することができます。愛することは掟ではなく神様から頂いた賜物です。わたしたちは神様から愛されてしまっている存在です。そして、愛するということによって神様、イエスさまがわたしたちの内にいてくださることを気づくことができます。どうか、神様が与えてくださった最も大切な愛という賜物を用いることができますようにお導きください。そして、この世にも争いなど分裂ではなく、和解と一致が待たされますように。そのためわたしたちをお用いください。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この小さき祈り主の御名を通して御前にお献げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 10章 7~18節」 10:07イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 10:08わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 10:09わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10:10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 10:12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「私は良い羊飼い」
羊飼いに皆さんはどのようなイメージを持っておられるであろうか。のどかな牧草地で羊たちを見守っているほのぼのとした姿ではないだろうか。旧約聖書の詩編23編4節に「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」とある。羊飼いたちが持っている鞭と杖は、羊を強盗、また狼などの獣から守るための武器である。羊飼いは、羊の群れを毎朝牧場へ連れ出して草を食べさせ、水を与え、夕方には囲いに連れ帰るだけではなく、昼夜を分かたず、野獣や盗賊から群れを守っていた。それは危険が伴う仕事だったと考えられる。
本日のヨハネによる福音書10章7節以下でイエスは「羊飼いである」と述べ、また羊を守るために命をも惜しまないとも述べている。羊のために命を捨てるというのは、当時の羊飼いとしては、ありうる出来事と考えられる。羊飼いたちが、夜に焚き火をし、羊の番をするとういうのも、獣から羊を守るために、寝ずに番をしていたのである。羊の持ち主に忠実であればあるほど命をかけて羊を守る。それは羊に対して責任を果たすということである。
ヨハネによる福音書の10章7節でイエスは「わたしは羊の門である」と、そして11節では「わたしは良い羊飼いである」と自分のことを形容している。ヨハネによる福音書において特徴的なことの一つである。イエスは自分を証しするとき「わたしは……である」というふうに述べ、自分を定義する。その言葉の背後には、旧約聖書で神が自身を明らかにしたときの言葉があると考えられる。神は、出エジプト記やイザヤ書で、自身を明らかにするとき、「わたしは……である」といっている。イエスも神と同様の言い方で自身の存在を明らかにした。それは、わたしたち人間に対してイエスが、どのような存在であるかを宣言したといえる。
宣言するとは、どのような意味があるのか。ひとつに自分がどのようなものであるかを明らかにしている。また、イエスがわたしたちに自分を開いているといえる。そして、宣言したということで考えられるのは、責任が伴うということである。現代では、選挙のときには、立候補者は公約を宣言する。「わたしが当選したあかつきには・・・を行います。だから、皆さん投票してください」と宣言する。それは、公に宣言しているのだから、責任が伴うということであり、ある意味では契約であるといえるのではないだろうか。ところが、人間は弱いもので、公約をあやふやにし、守らないことがある。しかし、神、また、その一人子イエスは異なる。わたしたちに宣言したことを必ず成し遂げてくださるのが神、その独り子イエスである。イエスが「わたしは……である」と宣言したということは、イエス、神の救いが成し遂げられるということを意味する。神は、人間を創った。そこには人間に対する責任が伴う。神は、その責任として人間を導く。また、神はアブラハムと契約を結んだ。神は、人間との救いの契約に自ら縛られたともいえよう。神の側から契約を破ることはない。神は導き手である救い主の到来を人間に約束した。神は、神の権能を与えイエスによって約束を果たした。いや、それは、現在形で今もなお行われているのである。
イエスは、「わたしは良い羊飼いである」と宣言した。つまり、イエスこそ、神が遣わした人間を導く羊飼いであるということである。神の約束がイエスによって成し遂げられた。そして旧約聖書で、神が自身を明らかにした言葉と同じ言葉を用いてイエスは、自分こそ神が約束した救い主であると宣言しているのである。わたしたちにとって、これほど力強い宣言はない。
イエスは「わたしは…である」と、自分自身を定義している。それは、ヨハネによる福音書において、様々な場面で見ることができる。イエスは、命のパンであり、世の光であり、羊の門であり、良い羊飼いであり、復活であり、道であり、真理であり、命であると証し、宣言している。
なぜ、イエスは、そのように自分を明らかにしたのであろうか。「わたしは……である」というのは、偽者を前提としている。9節の「盗人」、12節の「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人」は、自分たちの思いによって神から離れている人々であると理解できる。「盗人」は、当時キリスト者を迫害していたユダヤ権力者たちであると考えられる。「自分の羊を持たない雇い人」とは様々な解釈があるが、私は誤った導きを行っているキリスト教指導者と受け取りたいと思う。つまり、門であるイエスをきちんと理解せず、自分たちの思いを中心に置いてしまった人々である。しかしこのわたしたちも、そのような過ちに陥ってしまうことがある。だからこそ大切なのは、イエスを通して神と向き合うことなのである。
決してイエスは人間を置き去りにはしない。イエスの心にあるのは、いかに人間を正しい道に導くかということに他ならない。13節に、悪い羊飼いは「羊のことに心をかけていない」と記されている。逆に言えばイエスは、常にわたしたちに心をかけてくださっているのである。
イエスこそ、わたしたち人間のために命をかけ、救いに導いてくださっている方である。わたしたちは、自分の命をも投げ捨て守ってくださるイエスを信じたい。イエスは、そのために自分を定義する言葉を用い、何をする者かを宣言してくださった。イエスこそ良き羊飼いなのである。イエスがわたしたちに心をかけ、自ら開かれたように、わたしたちもイエスに心を開き、善き羊飼いであるイエスの導きに従いたいと思う。
祈祷 ご在天の恵み深い神様、あなたは、人間と契約され、約束された救いを成就してくださり、今もなおわたしたちを救いに導いてくださっています。御子イエスは、ご自分を様々な言葉で言い表されました。あなたは、イエスとはどのような方であるか、救いに導いてくださる真の方とはいかなる方かをわたしたちに知らせるため導いてくださっています。わたしたちが、御子とわたしたちの関係をより深く考え、そして、その導きに気づくことが出来ますようお導きください。この世にあなたの愛が満たされますようにここに集うわたしたちをお強め用いくださいください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 20章 19~23節」 20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 20:22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「平和があるように」
19節にある「その日」とは、十字架につけられ死んだイエスが三日目に蘇りマグダラのマリアの前に現れた日のことである。それは日曜日の朝の出来事であった。弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、家の戸に鍵をかけていた。そのユダヤ人たちとはユダヤ教権力者たちで、イエスを迫害し十字架につけるよう扇動した者たちである。イエスの弟子たちは、イエスが迫害され十字架につけられたように自分たちも迫害されるのではないかとおびえ、不安を抱き隠れていたのである。彼らをわたしたちは批判できるであろうか。彼らに対し恐れずイエスの救いを述べ伝えるべきであるとわたしたちはいえるであろうか。弱いわたしはきっと弟子たちと同じことをするに違いないと思う。批判はできない。一方、彼らは最も偉大な力を忘れていた。つまり、鍵をかけていたというのは、この世の力に対しおびえ不安になってしまったということ、そして神とその独り子イエスの力を理解していなかったということである。彼らは、闇の中にいたといえるであろう。
そこにイエスが入ってきた。イエスにとってこの世の鍵など何の効力もない。イエスは闇の中にある弟子たちのもとに来てくださった。それこそが、わたしたちにとっての希望である。そこにイエスを信じる共同体、すなわち教会とはいかなるものであるかがよく表れていると思う。教会に、わたしたちの真ん中にイエスはいつもいてくださるのである。同じようにイエスは、わたしたちの心の鍵を解き、心の真ん中に入ってくださるのである。イエスは「あなたがたに平和があるように」と述べた。そのことばは、イスラエルの日常の挨拶である。イエスは十字架で釘打たれた手、槍で刺されたわき腹を弟子たちに見せた。イエス自ら、十字架につけられたイエスであるとことを明らかにされた。弟子たちの心を理解し、自ら弟子たちの不安を取り除いてくださった。イエスこそ、わたしたち人間より先に声をかけ、自身を開いてくださるのである。そして、神の救いを述べ伝える責任を与え、息を吹きかけたのである。ヘブライ語で聖霊は、もともと「息」という意味を持っていた。宣教へと派遣するため、聖霊を弟子たちに注いだ。つまりそれが、ペンテコステの出来事である。そこで宣教の業として罪の赦しを弟子たちに委ねたのである。それはすばらしいことである。そのように言えるであろう。弟子たちにイエスの持つ罪の赦しの権能を与えた。逆に弟子たち、そして、イエスを信じる者は、隣人を赦すことができるのだとイエスがいってくださっている。そこにあるのは、無条件の信頼である。弟子たちは信頼されている。嬉しいと同時に重要な責任である。イエスは、鍵を閉めた弟子たちを決して叱ることなく、ありのまま受け入れてくださった。弟子たちは既に赦されていたのである。救いに与っていた。赦された者こそ赦すことができるのである。
さて、本日わたしは、イエスが弟子たちに述べた「あなたがたに平和があるように」という言葉に注目したい。それはヘブライ語で「シャローム」である。確かに、古くからイスラエルの民が用いている挨拶である。一方、イエスはそこで二度もその言葉を述べている。ヨハネによる福音書で「シャローム」は、イエスと深いかかわりのある言葉なのである。弟子たちとの別れの告別説教といわれる箇所がある。14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」、16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。そこに平和、シャロームが用いられている。既に弟子たちはイエスから平和、つまり、支え、力を受けているといえるのではないだろうか。そしてイエスが弟子たちに、そしてわたしたちに対して与える平和は、一時的なはかないものではない。いついかなる時も与えられ、かつ、永遠にかかわるものなのである。イエスは、弟子たちに息、聖霊を吹きかけた。つまりイエスが世に勝っているように、弟子たちもイエスにより既に世に勝ち、心を騒がせることもおびえる心配もないと聖霊の働きを通して導かれている。イエスがいつも一緒にいてくださるということを示しているのである。聖霊とは目に見えないイエスの働きといってよいであろう。
実は、当時の教会の人々も、ユダヤ教からの迫害を受けていた。だからそれらのイエスの言葉は、当時の教会の人々にとっては、たとえ迫害にあっても信仰をもって歩むための勇気づけ言葉だったのである。それはわたしたちにも与えられている。そしてそれは、闇から光へと導いてくださるイエスの導きでもある。創世記、天地創造で人が息吹を吹きかけられ生きる者となったように、闇から光に歩むことができる新たな創造、新たなる者としての歩みの力をイエスが弟子たちに与えてくださったということなのである。そして、弟子たちがイエスから罪の赦しの権能、述べ伝えられた福音、救いを現代のわたしたちも与えられている。つまり、わたしたちも復活のイエスに赦され、救いを述べ伝える力、新たなる者とされ闇から光へと歩むための息吹、祝福が与えられているということなのである。いまのわたしたちも様々な状況にある。喜びの救いを知らされ、ありのまま受け入れられた者として、その喜びを多くの人と分かり合いたいと思う。その喜びの救い、福音を多くの人と分かち合うことによってこそ、この世に真の平和が訪れるのである。
祈祷 愛なる神様、あなたは独り子をこの世にお遣わしになり、私たちの罪を赦し、不安、おびえ、重荷を共に負ってくださいます。それだけではなく闇から光へと希望の道を示し、新たなる者としての力をお与えくださっています。どうか、復活のイエスが、真ん中に立ち、全ての人と共にありお導きくださいますように。そして、この喜び、平安を多くの人と分かち合うことができますよう私たちを神の御用のためお用いください。また、世界では争いが起こっています。指導者に真の愛を示し、真の平安へと歩むことができますようお導きください。 地震がありました。不安の中にある方々をお支えください。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリスト御名を通して御前にお献げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 15章 1~11節」 15:01兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 15:02どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 15:03最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 15:04葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 15:05ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 15:06次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 15:07次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 15:08そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 15:09わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 15:10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 15:11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「復活の証人」
コリントの信徒への手紙はパウロによって記された。パウロはユダヤ教の教えである律法を厳守するファリサイ派に属していた。キリスト教は律法をないがしろにすると考え、キリスト者を迫害していた。しかし復活のイエスがパウロに現れたことにより、パウロはイエスこそが唯一の神の子、救い主であると信じイエスの救いを宣教する者となった。
1節に「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」とある。福音とは良き知らせであり、パウロにとって良き知らせである救いは、イエスの十字架と復活にあった。4節などから十字架と復活は、神によってなされた救いの業であること理解できる。
では、イエスの復活は、本当の出来事なのか。3節以下が復活の証拠、根拠である。聖書とは旧約聖書のことである。そこでパウロが、どの箇所を示したのかは明確でなく、旧約聖書全体であるといえるであろう。また、3節はイザヤ書53章、4節はホセア書6章などからの引用と考えられる。十字架、復活の出来事は旧約聖書に預言され、イエスによって成し遂げられたとパウロはいう。5節以下に、復活のイエスと出会った人の名前が記されている。ケファとは、使徒ペトロのことである。復活のイエスは、ケファ、12弟子に現われ、その後500人以上の兄弟たちに同時に現われた。また、イエスの兄弟ヤコブ、全ての使徒にも現われたとある。そして8節、パウロは復活のイエスと出会ったと自分のことを付け加えている。「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現われた。」「月足らずで生まれた。」それらは西洋語諸訳の伝統としての日本語訳である。その言葉は「早産」あるいは「流産」と二つの説がある。ある学者は、「月足らずで生まれた」ではなく、流産、死産を支持し「生まれそこない」と訳している。それは現代では差別語だが、古代人のパウロには差別語という感覚はなかった。もちろん、神はすべての人を祝福し命を与えたので、生まれそこないなどいないのである。パウロは、ひどい言葉を用い自分を表した。つまり、パウロは自分を卑下し、罪人であると自覚していたということである。
復活のイエスがパウロに現れ、パウロは本当の救いを知った。それはイエスの十字架による罪の赦しであった。律法を守らなければ救われない、律法を守るという自分の行為によって救われるという考えから離れ、パウロはありのままを受け入れてくださる神の恵みのみによって救われることを知った。つまりパウロは、復活のイエスによって変えられたのである。新たなる者とされたのである。
10節に「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです」とある。パウロは、自分の力でイエスの救いを述べ伝えたのではなく、すべてが神の働き、恵みであると述べている。復活のイエスに出会ったパウロは、決して自分を誇らない者となったのである。
コリントの教会の人々は、パウロを通して復活のイエスに出会い、救いに与り、新たなる者とされた。コリントの教会の人々もまた、神ではないものを神と信じていた。パウロの宣教により誤った道から引き出され、真の道へと導かれたのである。
4節に「復活した」とある。これはキリストが復活した状態であるということを意味している。つまりそれは、過去の出来事が今も継続しているということである。復活のイエスは、今もパウロと共にあり、パウロに恵みを注ぎ、復活の証人として用いている。また、キリスト教徒を迫害していたという罪を、重荷を、十字架のイエスがパウロと共に負ってくださっている。それと同じようにわたしたちは、パウロを通して復活のイエスと出会い、復活のイエスによってありのまま受け入れられ、新たなる者とされ、そして、復活のイエスの証人として用いられているのである。
パウロは以前、自分こそ律法を完全に守り、救われると確信していた。しかし、復活のイエスに出会ったことによって、その根底が崩された。律法を守るという自分の力によって救われるのではなく、神の恵みによって、イエスの十字架によってのみ救われるということを知らされた。自分は生まれそこないであると自覚したパウロだからこそ、神ではないものを信じ、誤った道を歩んでいる人々の心を理解し、真の道、神へと導くことができたのではないだろうか。キリスト者を迫害した者であるにもかかわらず、いや、そのような者であったからこそ神は、パウロを用いた。そこにあるのは神の大いなる愛、神の一方的な恵みに他ならない。なぜなら、パウロが欲したのではないから、復活のイエスがパウロに現れ、罪の赦しを知らしめたからである。わたしたちも自分の力ではなく、神の前で謙虚になりたいと思う。復活のイエス、神は、わたしたちに思いもよらない恵みを一方的に注いでくださる。神の恵みこそわたしたちを生かす力であり、救いである。イエスが復活したように、わたしたちも復活の恵みに与り新たな者として神の、イエスの恵みの証人として歩みたいと思う。
祈祷 いつくしみ深い神様、復活のイエスは、キリスト者を迫害していたパウロに現れました。そこにこそ神の一方的な恵があります。パウロは、自分の力ではなく、神の恵みによって救われると気づきました。わたしたちは、パウロを通して復活のイエスと出会い、罪赦され、新たなる者とされます。わたしたちもパウロのように復活のイエスの救いを多くの人と分かち会うことのできる者としてください。争いで悲しみの中にある方々を覚えます。特に子どもたちの上に主の豊かな恵みがありますように。指導者が横暴ではなく神に生かされている者として謙虚になりますように。また、新型コロナウィルスが収束しますように。主の復活の恵みがすべての人にありますようにお願いいたします。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリスト御名を通して御前にお献げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 14章 32~42節」 14:32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 14:33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 14:34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 14:35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 14:36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 14:37それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 14:38誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 14:39更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 14:40再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 14:41イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 14:42立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「祈り」
本日は棕櫚の主日といい、イエスがエルサレムに入城し、十字架へと向かったことを覚える日である。マルコによる福音書の14章32節以下は、ゲッセマネの祈りと呼ばれる箇所である。その祈りの後すぐ、ユダの裏切りによってイエスは捕らえられた。イエスは病人を癒し悪霊を追い払うなどの奇跡を行って、人々からはユダヤの王となると期待されていた。そこでユダヤ教の権力者たちは嫉妬し、また自分たちの地位が脅かされていると思い、イエスを捕え、殺そうと計画したのである。それが十字架の出来事である。
最後の晩餐を終えたイエスは祈るために、ゲッセマネという場所のオリーブ山に弟子三人を連れて行った。そこでイエスはひどく恐れ、もだえ始めた。そして弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と語った。
イエスは、これから起こる拷問と十字架という苦難を「無くしてください」と3回以上祈った。しかもイエスは弟子たちから離れ祈っていた。それは、静かに誰にも邪魔されずに神に語りかけ、神と一対一で向かい合った。わたしたちはそこから少しでも、イエスの苦しみを理解しようとすることができるのではかろうか。拷問、そして十字架という苦しみの中で死なねばならない、しかもそれが間近に迫っていた。苦しみを受け、死ぬときを知っていたという恐ろしさ。そのようなことが、わたしたちに耐えられるであろうか。
そこにはイエスの弱さが記されている。拷問と死刑を前にした者の死に向かう姿であるともいえるであろう。人間は弱く、死に対して恐れと不安を感じる存在だと思う。神の子であるにもかかわらず、イエスは人間として死を受け入れなければならない。人間にとって絶対といえるのは、神は全知全能であるということと、わたしたちは死ぬべき存在であるということである。神の独り子であるイエスでさえ死に対して恐れを感じ、死を受け入れるため何度も祈っている。わたしは、ゲッセマネの祈りのイエスの姿をそのように受け取りたい。イエスは、わたしたちに弱い姿を見せることによって、苦難のときに何が大切なのかを示してくださっている。
イエスは拷問と十字架に対して「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈った。御心、神の意思とは、イエスの死を指しているのであろうか。そうではないと私は思う。人間の死を神が求めるであろうか。イエスは、人間の罪をその身に負い十字架に掛けられた。神は、殉教をわたしたちに求めておられるのであろうか。そのようなことはない。神は、天地を創造し、一人ひとり人間に命の息吹を注いだ。命を与える神が、人の死を望むはずがあない。そこでの御心とは「人間を救いへと導くこと、愛に生きること」ではないだろうか。イエスの「御心に適うことが行われますように」との祈りは、「神の愛に従い生きる者としてください、わたしを神の御用のために用いてください」ということであると受け取りたい。イエスは、どのような状況にあろうとも神、その愛に従って生きた。神の愛に従い生きる者としてイエスは、弱さをわたしたちに見せてくださっているといえるのではなかろうか。イエスは、弟子たちに「死ぬばかりに悲しい」と弱音を吐き、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と悩み祈った。そしてその場に、弟子たちを連れて行ったのである。それは、人間に弱さを隠さず見せてくださるためであると思うのである。「わたしは、神の独り子であるが、わたしイエスは人間として弱さを持っていて、拷問、十字架という苦難を恐れる存在なのだ」と、わたしたちに示してくださっていると受け取りたいのである。つまり、人間は弱い存在なのだと。まさにそのような重要なときに、弟子たちは寝てしまった。イエスは、寝ていた弟子たちに「心は燃えても、肉体は弱い」と語った。それは、イエスが弟子たちを叱ったということなのであろうか。弟子たちを励ましたのではないかと、わたしは思うのである。「人間は、弱い存在であるが、弱いことは悪くない、だから自分の弱さを知り、弱さを受け入れ生きていけばいいのだ」と。イエスご自身も自分の弱さを人間に示してくださった。そして、イエスがその弱さの中で行なったのが、神との会話、祈りだったのである。イエスは、ご自身の弱さを隠すことなく神に向かい、ありのままを述べた。そして神は、嘆きを受け入れてくださっていたのである。
「人間は、決して強い存在ではない。だからこそ神に祈ること、語りかけることが許されているのだ。苦難、悩みに襲われるとき、いやどのような時も神に祈りなさい。それほどの支えは無い、神は祈りを通してわたしたちと共に居てくださるということを確信させてくださり、そして、力と支え、すなわち、前に歩くよう導いてくださるのだ。祈りによって神の意思、愛を知ることができる」と、このゲッセマネの祈りを通してイエスは教えてくださっているのではないだろうか。
イエスは、十字架へと向かうその苦難の中で自らの弱さを隠すことなく、ありのままわたしたちに示してくださることによって、「わたしも弱さを持っているのだ」と、眠ってしまう弟子たち、そして、弱いわたしたちを受け入れてくださっているのではないだろうか。イエスは、わたしたち人間の弱さを受け入れてくださり、弱いからこそ神に祈ることの大切さ、いや、神に祈るという力を教えてくださっている。イエスは、その祈りを通して神への祈りに招いてくださっているのである。
祈祷 慈しみ深い神さま、御子イエス・キリストは、あなたの御心に従うため、祈りのときを持ちました。そこで人間としての弱さを見せています。人間は弱い者であるとわたしたちを受け入れると共に、祈りこそ人間を支える大切なものであると教えてくださっています。わたしたちは祈ること、あなたに語りかけることを許されていますことを感謝します。また、自分のことだけではなく他者のことを思い、祈ることのできる者とならしめてください。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 10章 32~34節」 10:32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 10:33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 10:34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「決断」
マルコによる福音書10章33節以下でイエスは、自分の苦難と復活を予言している。その苦難の予言は、三度目になる。イエスは自分が受ける苦難を知っていたのである。しかも、そこでは十字架のことは言っていないが、他の箇所で詳しく苦難の出来事を述べている。イエスはユダの裏切りによって、ユダヤ教の祭司長たちや律法学者たちに売り渡されることになる。ユダヤ教の権力者の祭司長、律法学者たちは、イエスが人々から王になると期待されていることをねたんでいたと考えることができる。そしてイエスは、当時ユダヤを支配していたローマから派遣されていたユダヤ総督に引き渡され、鞭打たれ、裁判の結果十字架にかけられた。
弟子たちは、イエスの十字架の予言を既に聞いていた。イエスがなぜエルサレムに向かうのかを、少しでも弟子たちは理解しているべきだった。しかし32節で、イエスが先頭に立ちエルサレムへ向かおうとすると弟子たちは、驚いたというのである。そこに弟子たちの無理解が示されている。弟子たちにはイエスの行いがまったく理解できていなかったのである。
一方、32節には「従う者は恐れた」と記されている。驚く弟子たちに対して、恐れ従う者たちがいたということである。そこでは敢えて驚く弟子と恐れ従う者を区別していると考えることができる。従う者たちは、イエスがエルサレムに向かうことが悪いことだと察知できたのかもしれない。というのは、エルサレムはユダヤ教の中心地であり律法学者や祭司たちの活動の中心地でもあった。それまでイエスを陥れようとエルサレムから律法学者、祭司たちがイエスの元に来た。今度は、逆にイエスがエルサレムに向かうというのだから、恐れたというのは当然のことと考えられる。推測にしかすぎないが、この恐れた者たちは女性であると考えることができる。イエスが十字架にかけられるその場にいたのは、弟子たちではなくイエスの母マリア、マグダラのマリアなど女性たちだった。そこでイエスがエルサレムに向かうことが恐ろしいこと苦難であることに気付いたにもかかわらず、イエスに従った者たちがいた。その人々は、どんなことがあろうともイエスに従うということを決断した人々であったといえるであろう。イエスに従うことこそが、神の思いに適うことであると考え、決断したといえるのではないだろうか。
さて、32節の前半には「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」とある。イエスは、先頭に立って進んだのである。指導者として、人々を導くイエスが先頭に立つのは当たり前のことと思われるかもしれない。しかしここでは、あえて「先頭に立って」と記されていることに意味があると思う。イエスは、「エルサレムに行けば苦難に会う、そこには十字架の死刑という苦しみが待っている」ということを知っていた。それにもかかわらず、先頭に立って進んだ。そこにイエスの固い意志と決断が表されている。つまり、十字架という苦難を受けることが神の意志であり、イエスは神の意志に従う。神の求めていることが何か考え、知り、決断した。その背後にあるのは、十字架によって全ての人の罪を共に負うという神の愛の業である。イエスは、神の愛、思いを理解し、決断したのである。
一方、「イエスが先頭に立って」ということにこそ意味があると思うのである。イエスは先頭に立ち、弟子たちをイエスの苦難の場に連れて行った。それは、イエスがこれから行うことを、弟子たちが理解できるよう導いている。それは、イエスと共に歩むことの意味を知るということ、そして、苦難を共に負うことの意味を知るということである。イエスは、十字架を通して人間の重荷、苦難を共に負ってくださった。イエスは弟子たちに、隣人の苦難を共に負うことの意味を伝えようとしていたのではないかと思うのである。つまり、イエスの愛の業の意味、それに倣うということである。
わたしたちも、このイエスの決断に倣うべきだと思う。何が神の意志、何が神の思いなのか考え決断をする。決断することの一つに信仰を告白する、洗礼を受けるということが上げられると思う。もちろん神は、愛をわたしたちに注ぎ、導いてくださっている。同時に神は、人間に自由を与えてくださっている。人間には、神を信じない、神に背くという自由もある。そこで、神の愛を知っている者としてわたしたちは、どうするかの決断をするときがあるのではないだろうか。洗礼を受けるということだけではない。日々の生活の中で、何が神の思いなのか考え、決断すべきなのである。その決断の判断の基準こそ、イエスの愛の業なのである。わたしたちはイエスの愛に倣い、決断をしたい。
最後に一つ加えさせていただきたい。神は、わたしたちが考え、決断したことを否定しない。それはわたしたちを信頼しているからである。もしそれが善い結果を生み出さなくても、神は叱りはしはないであろう。きっと、そのときわたしたちを受け入れてくださる。だから、わたしたちはまた前に歩むことが出来るのである。それこそが、神の愛であり、イエスの十字架の業こそ、誤りを犯してしまうわたしたちを受け入れ、新たに歩むよう導いてくださる出来事なのである。無理解であり、十字架を前に逃げ出した弟子たちも、その後、イエスの愛の業を述べ伝える決断をした。神、イエスは、失敗した弟子たちを受け入れ、歩む力を与えてくださる。わたしたちは、神、イエスに愛されている者として、神の思いは何かを常に考え、イエスに倣い決断する者となりたいと思う。
祈祷 愛なる神さま、御子イエス・キリストは、苦難が待ち受けていることを知っているのにも関わらず、決断しエルサレムに向かわれました。イエスが受ける苦難は、神の意思であり、人間を救いに導く神の業です。イエスこそ、神の意思に従い、愛の業を行われました。わたしたたちは、イエス、神の愛を理解できない時があります。しかし神の思いを考え、イエスに倣い決断することができますようお導きください。そして、もしわたしたちが失敗した時には、どうかあなたが受け入れ、再び歩む力を全ての人にお与えください。4月になり新しい歩みが始まりました。それぞれの歩みを祝してくださいますように。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。アーメン