聖書:新共同訳聖書「詩編 77編 17~21節」
聖書朗読
77:17大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし/深淵はおののいた。/77:18雨雲は水を注ぎ/雲は声をあげた。あなたの矢は飛び交い/77:19あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。稲妻は世界を照らし出し/地はおののき、震えた。/77:20あなたの道は海の中にあり/あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。/77:21あなたはモーセとアロンの手をとおして/羊の群れのように御自分の民を導かれました。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「耳を傾けてくださる」
説教音声
(要旨掲載 準備中)
聖書:新共同訳聖書「マタイによる福音書 3章 7~12節」
聖書朗読
03:07ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 03:08悔い改めにふさわしい実を結べ。 03:09『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 03:10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 03:11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 03:12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「わたしの後から来る方」
(要旨掲載 準備中)
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 25章 6~9節」
聖書朗読
25:06万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。/25:07主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/25:08死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。/25:09その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「涙をぬぐう」
(要旨掲載 準備中)
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 35章 1~10節」
聖書朗読
35:01荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。/35:02花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。/35:03弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。/35:04心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」/35:05そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。/35:06そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。/35:07熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。/35:08そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。/35:09そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み/35:10主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「贖われた者たちの行進」
イザヤ書35章1節以下に、共に心を傾けたいと思う。紀元前586年、イスラエルはバビロンによって征服された。正確には南ユダだが、今回はイスラエルと呼ばせていただく。神によって救われることが35章に示されていると理解できる。1節と2節には、「荒野」「砂漠」、「喜び」、「花」、「野ばら」を咲かせよとある。神は、この世の創造主である。神は人間だけでなく、この世にある全てを創り、治めるということが意味されている。「レバノン」、「カルメル」、「シャロン」は、土地の名前で、美しく緑豊かな場所を示している。「荒れ野」に、「砂漠」に、何もないような場所に花が咲くという神による再生する姿が生き生きと記されている。つまり、どんなに厳しい状況であっても、この世を創った神が再び歩む力を与えてくださるということが記されている。それはイスラエルがバビロンに征服されても、再生する時が来るということである。3節と4節も「神が共にいて下さるのだから、何も恐れることはない、神が救って下さるのだから」ということを示している。
5節と6節のはじめは、身体の癒しの奇跡が記されている。当時、そのような奇蹟が起こり始めたら、新しい時代が始まり神の国が近づいたしるしだと信じられていた。また、それは「イスラエルの敵から解放されるということが比喩として記されている」という理解もある。6節後半~7節は、再び荒れ野の出来事が書かれている。山犬が住むというのは、荒廃の象徴である。一方、葦やパピルス、つまり植物が茂るということは、そこに水があるしるしである。つまり、荒れ野が水に恵まれた土地に変わるということが意味されている。すべて神の業である。
バビロンによってイスラエルは征服された。この時、イスラルの権力者たちの多くが、バビロンに捕虜として連れていかれた。これをバビロン捕囚と言う。8~10節に、「大路」とある。大きな道を通ってバビロン捕囚から解放される人々がエルサレムに戻って来るということが意味されている。捕囚から解放される人々を10節に「贖われた人々」と記している。この人々がシオンへ、つまり、神殿のあるエルサレムに帰って来るというのである。さて、なぜ争いで負け、捕虜に連れていかれた人々が「贖われた人々」なのであろうか。私はどうして、イスラエルはバビロンに征服されたのかと、バビロンが勢力をのばし大国になったのかと思うのである。バビロンの勢力が小さな国イスラエルにおよんだからだと言えるであろう。一方、預言者イザヤは、「人間の考えではなく、ただ神のみを信じなさい」と訴えた。しかし、イスラエルの権力者たちは、バビロンを前にエジプトと同盟を組んだ。つまり、この世的策略を大事にした。「自分たちはエジプトと同盟を組んだからバビロンと闘うことができるのだ」とイスラエルの権力者たちは考えた。それは神を信じず、人間の策略、人間の力を信じてしまったということである。神はそのようなイスラエルの民を、バビロンを用いて罰したとイザヤは理解したと言えるであろう。しかし、神は罰するだけではない。その罰は神へと戻るための導きでもある。イスラエルの民が悔い改めるための導きと言えるであろう。一方、イスラエルの罪を誰が負うのか。神はイスラエルの罪を、神自身が贖った。つまり、「罪の埋め合わせを神自身が行い、イスラエルの民に再生へと歩む力を与えて下さるのだ」とイザヤは預言したのである。
4節に「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」とある。聖書協会共同訳では「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。報復が、神の報いが来る。神は来られ、あなたがたを救う」としている。フランシスコ会訳もそうだが、「敵を打ち」を「報復」と訳している。また、4節「悪に報いる神が来られる」を「報復が来る」との訳もある。そこで、「報復」については、次のような理解がある。「そもそも『報復(ナーカム)』という語は、旧約聖書の言語であるヘブライ語もその一つであるセム語では、単に『仕返しをする』ことではなく、基本的には『バランスが崩れている関係を正す。正しい統治を回復する』という意味です」とのことである。人間の報復は、悪い連鎖になる。また、35章の『報復が来る』とは、シオンに救いの時が訪れ、『荒れ野』『乾いた土地』『砂漠』が再生され、弱った者たち、また困難を抱えた者たちに、神によって回復がもたらされるということである。だから、『報復』と『救い』ということが一息で語られているのである。旧約聖書申命記32章35節には、「わたしが報復し、報いをする」とある。つまり、旧約聖書においては、報復は神がなさることであるという理解がある。新約聖書において、パウロもローマの信徒への手紙12章19節で、先の申命記の言葉を引用している。
この世を創った神は、アブラハムと契約を交わした。神はアブラハムの子孫であるイスラエルの民とその契約を継続させた。そして、神はアブラハムとの契約のゆえに、イスラエルの民を導いた。どんなにイスラエルの民が神に背こうとも、契約のゆえに神はイスラエルの民を愛し、導いてくださった。たとえ神に背いたゆえに国が滅びようとも、神はイスラエルの民に再生する道を与え、導いてくださった。それは、さきほどの「報復」という言葉からも理解できる。神の報復とは「バランスが崩れている関係を正す。正しい統治を回復する」ことだと理解することができる。それは次のように言い変えることができると思う。関係を正すとは、神とイスラエルとを正しい関係にしてくださる。また、正しい統治を回復する。人間は自分の力でこの世を支配しようと欲し、また、人間の考えで自分たちを守ろうとしてしまう。しかも、人間は、神に背き、自らを誇ってしまう。しかし、人間には神の前で自分を誇る力も知恵もない。人間は神の前で、また神が創られたこの世にある全てのものの前で、謙虚にならなければならないのではないだろうか。それは自分の力ではなく、神が創られたこの世にある全てのものと共に生きるべきである。つまり、神を信じ、神に従い歩むことである。神は荒野に水を満たし、花を咲かせてくださる。つまり、どんなに人間の手によって荒廃した砂漠をも再生する力がある。また、どんなに神を裏切ろうとも贖い、正しい関係、正しい大路へと神は、導いてくださるということである。
その救いは、イザヤ書40章以降につながる。イザヤ書40章以降は第二イザヤと呼ばれ、第二の出エジプトなどとも言われる。つまりそこには、神の救いが示されている。イザヤ書40章3節に「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とある。神は、荒れ野に道を備えて下さるのである。
では、それは契約を交わしたイスラエルの民だけなのか。そうではない。この世にある全てのものが、神の愛によって創られた存在である。マルコによる福音書1章3節には「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」とあり、先ほどのイザヤ書40章3節は、洗礼者ヨハネが現れる預言であると言う。もちろん、洗礼者ヨハネが整えた道こそ、神の独子イエスの歩む道を整えるということである。そして、イエスはアブラハムと神との契約を、全ての者に開いた。私は、このイザヤ書35章を読み、ローマの信徒への手紙11章36節を思い起こした。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。この世を創った神が、私たちと共に歩んでくださる。しかも、イエスが一歩手前を歩き、人間が誤らないように振り返りながらその道を導いてくださるということを、ローマの信徒への手紙11章が示していると私は理解する。
報復の神は、人間が神と正しい関係を持ち、正しい道に歩むよう導いてくださっている。それは、イエラエルの民だけではない。ローマの信徒への手紙に記されているように、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」のですある。全てが神に導かれている。神と正しい関係にないとは、この世における全てのものとの正しい関係にないということであると私は思う。人間は、自己を過信し失敗を犯してしまう存在である。それでも、神は私たちを愛し、その罪を神ご自身が贖い、罪を引き受けて、人間との正しい関係を保ってくださっている。神は、人間が誤った道を歩んでしまっても、正しい道に何度も導いてくださる。そして力づけ再生へと導いて下さる。荒野に花を咲かせてくださるのである。私たちは謙虚に、神の導きを信じたいと思う。
祈祷 この世の創り主なる神様 イスラエルは危機の時、神に頼るのではなく自らの考え、策略、他国に頼ってしまいました。これは決してイスラエルだけではありません。人間は弱く神に背いてしまうことがあります。それでも神は、罪を贖い、関係を正し、回復してくださいます。神は、その大いなる愛をイエスによって現わされました。神は、自ら人間との関係を正しいものとし、回復へとお導きくださいます。どうか神の導き、愛を私たちが信じ、歩むことができますようお導きください。また、神の前、すべてのものの前で謙虚に歩むことができますようお導きください。天候が不順で、寒暖の差も大きくなっています。また、これから本格的な冬に向かい寒くなります。どうか全ての人の健康をお守りください。特に自然災害で被災された方々、年を重ねられた方々、子どもたちをお守りくださいますように。病の中にある友、手術後の経過を見ている子どもたち、友、リハビリを行われている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うとのできない友をお支えください。争いは最も弱いもの、子どもたちに多くの被害をもたらします。私たちは、神の国を目指す旅する民としてイエスの愛に倣い歩むべきです。イエスこそ最も弱いものと共に歩まれました。どうか指導者たちが最も弱い方々の立場に立つことができますように。私たちにできることがありましたらお用いください。次週は、召天者記念礼拝、墓前礼拝を行います。天に召された方を覚え、共に礼拝を守ります。集うとされている方々の健康をお守りください。この礼拝を通して先一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「フィリピの信徒への手紙 3章 12~21節」
聖書朗読
03:12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 03:13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 03:14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 03:15だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 03:16いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 03:17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 03:18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 03:19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 03:20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 03:21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「捕らえられる」
フリーのカメラマンの親戚のこと。約20年前当時、ある格闘家の専属カメラマンだった。その格闘家は、プロの格闘家を一時辞め、オリンピックを目指した。私の兄は、その親戚カメラマンから「オリンピックにでる選手は一段階違う強さだ。そのくらいオリンピック選手は強い。」と聞いたそうである。その格闘家は、オリンピックには出場できなかった。そのようなオリンピック選手というのは、完全なのであろうか。いや、そもそも完全な人間がいるのであろうか。完全なものとは何であろうか。この世の中に完全なものなどないと思う。すべて、創られたもの、滅びゆくものなのだから・・・。一方、この世を無から創った神こそが完全であると言えるであろう。つまり、神こそ完全であるということである。また、ヨハネによる福音書の1章に記されているように、イエスも神と共にこの世を創ったのだから、完全と言えるであろう。
フィリピの信徒への手紙というのは、3つのフィリピの教会に送られた手紙が、一つにまとめられたものではないかと考えられている。3章1節~4章1節が、三つのうちの一つの手紙の断片だと考えられている。本日は、3章12節以下に心を傾けたいと思う。この箇所を理解するために、まず3章2節を見る。「あの犬どもに注意しなさい」とある。そのことから、パウロに反対する者たちがいたことが分かる。パウロは、反対者たちを「犬ども」と呼んだ。犬は、忠実さをほめられることもある。しかしユダヤでは、犬は不浄の動物と見なされ、軽蔑の対象だった。他人を「犬」と呼ぶことは、最大の侮辱を意味したのである。では、パウロの反対者たちとは、いかなる存在だったのか。様々な理解がある。パウロの反対者たちは、この世において、自分たちは既に完全であると考えていた。また、古代ギリシャの秘儀宗教から強く影響を受けながら、完全さの前提としるしを律法主義の中に見出した。その意味では、ユダヤ主義的傾向を持った者たちであった。つまり、パウロの反対者とは、古代ギリシャの密儀宗教とユダヤ主義を融合したキリスト教の人々ではなかったかとの理解がある。
そこで12節をみると、パウロは「それを得たというわけではなく」、また「完全な者となっているわけではありません」と言っている。それは、パウロの反対者たちが、知恵などを得た、律法を完全に守った、そのため完全な者となったと述べていたと考えられる。パウロは反対者が使用していた「得た」、「完全な者」という言葉を用いて反論したと考えられる。そこでパウロは「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と言ったのである。その「捕らえられた」とは、復活のイエスと出会い、イエスにより神の愛を宣べ伝えるという役割を与えられたということ、召されたということである。つまり、イエスに捕らえられているからイエスが示す神の道を捕らえようと努めているのだとパウロは言ったのである。14節でも、イエスが召して与える賞を得るため、目標を目指して走るとパウロは言っている。賞とは、救いの完成といえるであろう。つまり、パウロは、最初に神が、イエスがパウロを捕らえて下さった、招いてくださったから、神を、イエスを目標にして捕らえようとしているというのである。次のように言えるであろう。救いの完成の途上を歩んでいるということを自覚しなさいとパウロはと述べているのである。
一方、15節に「私たちの中で完全な者」とある。「その完全である我々は」とも訳すことができ、パウロが自分のことを完全な者と言っているとも読める。パウロは自分を完全だと思っていたのであろうか。そこで大切なのは、13節の「捕らえたとは思っていません」、「目標を目指してひたすら走ることです」という言葉だと思う。救いにいたる途上の道をパウロは、そして我々は歩んでいる。つまり、まだ完全ではないとパウロは言っているのである。反対者がいう「完全な者」とは、倫理的、道徳的ではなく宗教としての完全な者である。すなわち、反対者たちは、知識を得て律法を完全に守っているから、すでに完全な救いを獲得していると理解していると言えるであろう。一方、パウロが15節で述べた「完全な者」とはいかなる意味なのか。パウロは神、イエスに捕らえられたから目標に向かい、救いを捕らえようと努めていた。パウロは神、イエスを主語とした。つまり、パウロにとって主権者は神、イエスであるということである。パウロが自分自身のことを「完全な者」と言っているのは、完全であるイエス・キリストの前に自分を誇るべきではないと、イエスの前において自分の不完全さを自他共に認めることができるキリスト者たちこそが真に「完全な者」だといっているのだと理解できる。つまり、人間は完全ではないからこそ、完全である神、イエス・キリストに望みを託すことができる。神、イエス・キリストに望みを託す者こそが完全な者であるというのである。知識を得て律法を守る自分たちが完全な者であると言っている反対者たちに対する警告として反論として、パウロは神、イエスを信じる者のあり方を示しているのである。完全であると自分を誇ることは、神を必要としなくなる。
そこで、17節に、パウロは「わたしに倣う者となりなさい」といっている。パウロは、自分を優秀な指導者であると述べているように聞こえる。しかし、自分の不完全さを認識するという意味で倣いなさいと述べていると理解すれば、パウロは自分を優秀な指導者と述べているのではないと理解できるであろう。また、パウロの歩んでいた道は、十字架で苦難にあうイエスが歩んだ道だったのである。
18節に「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」とある。フィリピの教会の状況が、反対者たちによって悪化しているといえるであろう。キリストを信じていると言いながら、知識を得、律法を守ることによって完全な者となること、つまり、自分の能力や業によって救いを得たと考えている。イエスによる救いの業を不要とする人たちがいる。そのことをパウロは嘆いていたのである。パウロが示す目標、すなわち救いとは、終末、つまり、神の国に与ることである。イエスによる救いの業を不要とすることによって、真の救いに与ることができなくなってしまう。
19節に「彼らは腹を神とし」とある。「腹」とは、反対者たちが過行くもの、滅びるものとして軽視しているものと考えられる。確かに、パウロも「腹」「肉体」は過行くものであると考えていた。一方、既に完全になり神化していると反対者たちは考えていた。しかし、彼らは今生きているのだから腹、肉体を持っていた。つまり、食事で腹を満たし生きていた。その状況で、反対者たちが「腹」「肉体」を軽視していたが、現実的にはそうなっていないことをパウロは指摘したのではないだろうか。この世にある腹、つまり、滅びるものを持ちながら今すでに完全な者、完全な救いに与っているというのはおかしいと、パウロは指摘したのではないだろうか。
そこで完全な者となる、完全な救いを与えられるのは、神の国の到来によるのである。そのことを20節以下でパウロは示した。21節に「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」とある。完全な者、完全な救いはイエス・キリストが再びこの世に現われることによって到来する神の国で与ることができる。救いは、人間の業ではなく神、イエスの業によるのである。人間は、イエス、神の救いに招かれ、与ることしかできない。だからこそ目標である神の国の到来に向かい、神、イエスを信じ、イエスに倣い歩むべきであるとパウロはいう。それは神の前で不完全であることを自ら認識し、神、イエスの救いを信じ、歩むということである。
人間は、確かな目に見える救いのしるしを欲する。だからこそ律法を守ることなどによって救われることを実感、確かだと思ってしまう。それは人間の弱さではなかろうか。律法を守る自分は完全な者であると思い込む。これは完全ではない人間の弱さのあらわれであるように私は思う。パウロがいうように自分の弱さ、不完全さを認識することこそ完全な者と言えるのかもしれない。そこで重要なのは、このような不完全な人間であるにもかかわらず、神、イエスは私たちを愛し、そして、私たちのために十字架に掛けられ、救いを確実なものとしてくださったということである。つまり、私たち一人ひとり、イエス、神によって既に捕らえられているのである。完全なイエス、神に捕らえられていることによって完全に属することができるのではないだろうか。私たちは、神、イエスに捕らえられていることを確信したいと思う。救いの確信こそ神、イエスとの交わり、つまり、讃美を通して与えられる。讃美をする、それは神、イエスに捕らえられているという証拠だと私は信る。
祈祷 一人ひとりに命の息吹を注ぎ、永遠にお導きくださる神様 私たち人間は救いの確信のしるし、人間が実感できるしるしを求め、あたかも自分はそれを獲得し完全になったと錯覚してしまうことがあります。完全なのは神、また一人子イエスのみです。私たちは完全である神、イエスに従うことによって完全に属することができます。神はそのため独子をこの世に遣わしました。私たちは完全ではなくただ神、イエスの救いを求めることができる者です。どうか神の前、人の前で謙虚になり、弱いからこそ互いに支え合い、神へと歩むことができますようお支えください。あなたに捕らえられていることを確信させてください。天候の変化があり体調を崩しやすくなっています。特に大雨、地震などで被災され苦しい歩みの中にある方を覚えます。どうか一人ひとりお支え下さい。また、全ての人、特に年を重ねられている方、幼い子どもたちの健康をお支えください。病の中にある友、手術後の経過を見ている子どもたち、友、リハビリを行われている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うとのできない友をお支えください。報復は人間が行うことではなく、神が行うことだと聖書に記されています。神は争うためにこの世を創られたのではなく、互いに愛し合うためにこの世を創られました。神が創られ極めてよいものとして、互いに認め合い、支え合うことのできる世としてください。この後、教会懇談会が行われます。よき話し合いの時となりますように。この礼拝を通して先一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 130編1 ~8節」
聖書朗読
130:01【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 130:02主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 130:03主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。 130:04しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。 130:05わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。 130:06わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。 130:07イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。 130:08主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「深き淵から」
学生時代のこと、私は教会の青年会のバーベキューの食材を買い行くため、牧師の車を借りた。雨が降っていて視界が悪いせいもあった。私はその車に傷をつけてしまった。あまり大きな傷はつけてないと思い、また、慌ただしく忙しかったので、牧師に伝えるのを忘れてしまった。するとあとで牧師から「上原君、車に傷をつけたでしょう。そういうことは、すぐに伝えなくてはいけないよ」と言われた。大変怒られると思っていたが、ちょっとだけ怒られ、注意を受けたという程度だった。それは、私が怒られることに弱い、私自身の心が傷ついてしまうのではないかという牧師の配慮からであった。その牧師は、言うべきことは言うという態度を持っていた。一方、とても配慮をしてくれる面も持っていた。私は、大反省した。それと同時に、その牧師に感謝の思いを持った。それから約10年後、牧師になり、私は先輩牧師に車を貸すことになった。すると先輩は車をぶつけてしまったのである。私は怒れなかった。私が学生時代に牧師の車を傷つけことを知っている先輩に、その話したところ「君は、以前、許してもらっているからね」と笑った。しかしもちろん、車を貸した先輩には修理代を出していただいた。
さて現在、祈祷会では、ローマの信徒への手紙を読んでいる。私にとって大きな学びとなっている。ローマの信徒への手紙の9章31節以下の解釈である。なぜユダヤ人が律法を通して義に到達しなかったのかということを説明する。ユダヤ人は、神から律法を与えられた。守ることができるから神が律法を与えて下さったとユダヤ人たちは理解した。そこでユダヤ人は熱心に律法を守った。しかし、いつしかユダヤ人は律法を守るという自らの手柄を求めてしまった。しかし、律法を完全に守ることは人間にはできない。律法を守ることのできない自分を認める。人間は神の前で謙虚になるべきである。そのとき、人間の独善的な生き方や思いから解放されるのである。しかし、ユダヤ人は律法を守るという手柄を求めるという利己的な生き方の監禁となってしまったというのである。では、ユダヤ教は律法という掟を守ることによって救われるという教えなのであろうか。決してそうではない。ユダヤ教は年に一度、赦しの儀式を行っていた。神は神に背くことに対して罰を与えるということが、旧約聖書には記されている。つまり、ユダヤ教の神は裁きの神であると同時に、赦しの神でもあった。神の赦しとは、神の愛なる働きと言ってよいであろう。神の愛と赦しをこの世に現わした方こそ、独子イエスであると私は信じている。聖書に記されている神は愛なる方であると言ってよいであろう。
本日は、そのことを詩編130編から見たいと思う。1節に「深い淵の底から」とある。それはどのような意味なのか。「深い淵」とは、光の届かない絶望の暗黒の場と言ってよいであろう。1節は、絶望の暗黒からは、この世を創られた神以外に救いを求める他に出来ることがないということを示している。2節でも、著者は神に願いの声をあげている。では、著者は何を願っていたのであろうか。3節に「あなたが罪をすべて心に留められるなら」とあるように、神が人間の罪をすべて覚えている。そこで、神の罪に対する裁きが下る。誰も神の下す罰に耐えることはできないというのである。一方、4節には、神は罰を下すと同時に、その罪を赦して下さるのも神であると書かれている。そこで、罪の赦しをこの詩編の作者は神に願っていると読み取ることができる。そして、5~6節は、この著者が神による救いを待ち望んでいたことを明らかに示している。5節の「わたし」を6節では「わたしの魂」と言い変え、5節「望みをおき」、6節「待ち望む」と繰り返すことによって、著者の希望は神以外にないということを強調している。「見張りが朝を待つにもまして」とは、夜の暗闇は絶望であり、朝にでる光が闇を打ち払うという意味であると考えられる。最後の7~8節は、イスラエルに対する呼びかけに変わっている。いきなりイスラエル民族になるが、一連の流れであると理解したい。そこは巡礼、つまり、エルサレムへの宮詣であるという理解がある。6節には「見張りが朝を待つ」とある。詩編5編4節の「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください」、他の箇所にもあるが、朝は祈りが聴き届けられる喜びの時であると理解できる。巡礼者たちのなかには、エルサレム神殿の境内の周辺にある宿泊施設で夜を過ごし、時には夜を徹して祈りを捧げる人もいたようである。そして、陽の光が闇を打ち払い、「朝」に祈りが神に聴き届けられたという体験をした人々がいたと、他の詩編などから、この箇所を理解することができる。つまり、7節以下の「イスラエル」という呼びかけは、「朝」に次々と神殿に神を拝みに行く参拝者たちのことを示しているのではないかというのである。
7節で「主を待ち望め」と作者は呼びかけている。神のもとにこそ「慈しみ」があり、「贖い」があり、8節「すべての罪から」神が贖ってくださるというのである。そこでは、この詩編の作者が、どのような罪を犯したのかは分からない。しかし、「深い淵」、光も何もない絶望に陥っていたにも関わらず、神が救って下さったという体験がここに記されていると言えよう。そこで、4節にある「赦し」という言葉をみる。この言葉には、神による罪の赦しが意味されている。「赦し」という言葉の用い方として、三通りあるという。一つが、祭儀による赦しである。神殿で行われる大祭司による赦しの儀式である。二つ目は、預言者によるユダヤの民の罪に対する一方的な神の赦しである。エレミヤ書の「新しい契約」があげられる。ユダヤの救いと回復のため、新しい契約に招く神の赦しと言えるであろう。三つめが、神の特性、神の特有な性質とみなす用例である。詩篇130編の赦しは、三つ目の神の特性としての赦しであると言うのである。神は、罪を厳しく裁くが、同時に、罪を赦すのも神である。旧約聖書の民数記14章18節に「『主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われる方である』」とある。そこでは、「裁き」より「赦し」に重点が置かれているというのである。
そのように見ていくと、神は裁きの神ではなく、赦しの神であると言えるであろう。裁きは、ユダヤの民が神に戻るための導きといえるのかもしれない。しかも、神は人間の罪に対して忍耐強いというのである。神は、人間を忍耐強く見守ってくださっていると言えるであろう。詩編130編4節に「人はあなたを畏れ敬うのです」とある。そのことについて、「人々がヤハウェ(主)におそれを抱くのは処罰のゆえでなく、『赦し』の故であると、語りかける」とする解釈があった。私は、その言葉をどのように理解すべきか悩んだ。神の処罰より、神の赦しをおそれる。私なりの考えである。裁きは罪、つまり、神に背くことに対する罰である。罪に対して罰を下すことはある意味、簡単であると思う。悪いことに対する報いなのだから。一方、赦しとはいかなるものであろうか。もし、人間が他の人を許す場合、どのような気持ちを持つであろうか。人間の場合、相手を許すとは、忍耐して相手の立場に立ち、相手を受け入れること、また、相手のこれからの歩みを考えるという思い、決断が必要なのではなかろうか。確かに、裁きにも相手のこれからを考えるという視点は必要である。しかし、「許す」ことの方がよりエネルギーが、より愛が必要になると思うのである。神が人間の罪を赦すという業に、どれだけの慈しみ、愛が必要であろうか。おそろしいほど神の愛は大きいといえるであろう。神の圧倒的な愛をおそれ、受け容れることしか人間にはできない。しかも、8節では「罪からの贖い」が示されている。人間の罪の埋め合わせを神がしなければならない。人間の罪を代わりに負うものが必要となる。神は、ご自身で埋め合わせ、人間の代わりに罪の償いを負うということである。そこに、人間に何も求めない神の無償の愛がある。私たちが想像する以上の神の愛が、神の赦しにあるということである。私たちは、神の愛の前にひれ伏し、ただ神に感謝し、讃美することしか出来ない。神は、神であるからこそ、私たちをただただお赦しくださるのである。それが神の特性である。その最も大いなる赦しこそ、神が独子イエスをこの世にお遣わしになった出来事である。その赦しを前に、人間はおそれ敬うべきなのである。神は、深淵から叫ぶ私たちの声をお聴きくださり、愛するゆえに罪を赦し、慈しみにより今もなお私たちを正しい道にお導きくださっているのである。私たちは神の愛の内に生かされているからこそ、神への応答として神を信じ、神の愛に倣い生きるべきなのである。
祈祷 この世の造り主なる神様 私たちは自分の思いを先行し、神から離れ、神を裏切ってしまいます。一方、あなたから離れた場所は、深淵であり絶望であります。罪深く、絶望に陥っている私たちの声を神はお聞きくださり、赦してくださいます。私たちは神に望みを置き、神に従うことができます。いや、神が私たちを見守り、従うようお導きくださっているのです。神は、裁きの神である以前に、赦し、愛なる神なのです。私たちは神の大いなる愛の前で神を讃美することしかできません。私たちは神の圧倒的な愛を多くの人と分かち合いたいと思います。この三連休は天候がよいという予報です。一方、急に寒くなり、天候の変化が厳しくなっています。その中で体調を崩されている方もおられると思います。どうか全ての人、特に年を重ねられた方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見ている子どもたち、友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うとのできない友をお支えください。争いは何も解決しません。争いは人々の悲しみ、憎しみしか残しません。どうか、全ての争いが終わり、互いに手を結び、平和へと歩むことができますようお導きください。互いに許しあうことのできる者としてください。この礼拝を通して先一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 11章 38~44節」
聖書朗読
11:38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 11:39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 11:40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 11:41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 11:42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 11:43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 11:44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「真に生きるために」
さて、本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書11章38節以下に心を傾けたい。38節、イエスは、憤り、ラザロの墓に来た。なぜ、イエスは、憤ったのか。ラザロの姉妹、マルタとマリア、そしてユダヤ人たちがラザロを墓に葬ったからだった。ラザロは死んだ。とむらいのため墓に葬るのは当然だと人々は考えるであろう。それでも、イエスは憤った。というのは、マルタ、マリアがイエスをまだ、本当に信じていなかったからである。
当時の墓は、ほら穴のようなものだった。その入り口は、大きな石にふさがれていた。イエスは、その石を取り去って墓を開けるようにと命じた。そこで、ラザロの姉妹マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と述べた。ユダヤでは、死人の霊魂は三日間死人の周りに漂っているが、それから最終的に去り、腐敗が始まると信じられていたからである。しかし、それは人間の考えにしか過ぎなかった。では、マルタのこのことばには、どのような考えが含まれていたのであろうか。魂は去っていった。マルタは、「ラザロは死の領域に行ってしまったのでもうこの世に戻ることはない、もう私たちと同じ領域に存在していない」と考えていたのであろう。当時、死の領域を暗黒と考え、自分たちの領域とは異なると、隔てられていると、そして、この世と死の領域を仲介する闇を破る力など、この世にはないと考えていた。いや、イエスには癒しの力はあるが、その力はないとマルタたちは考えていたのであろう。つまり、マルタはイエスの力を未だに理解していなかった。イエスが、神と同じ権能、力を持つ救い主、神の御子であることに気づいていなかったのである。
旧約聖書のエゼキエル書37章には、死者の復活の預言がある。「主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。…見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた』」とある。エゼキエル書が記された時代、ユダヤ人は争いによって国を奪われ、絶望し、何の希望もなく死んだような状態にあった。その中で、エゼキエルは神の創造の力によって、彼らは再び回復すると宣言した。それが、エゼキエル書37章に記されている死者の復活の幻である。ユダヤの民がは死んだような絶望の状態にあるが、神の創造の力によって生きたものとなる。それはつまり、再び希望を持って神と共に歩む日が来るという預言である。
さて、マルタとマリアは、「ラザロは葬られ、腐敗し、死という暗黒の領域に入ったので、もうこの世において会うことはない、たとえイエスであろうと死んだラザロを生き返せることなどできない」と思い込んでいた。すぐ前の箇所に、「イエスを神の御子であり神から遣わされた救い主であると信じています」とマルタが告白したとある。それでも、イエスが神の御子であるということの本当の意味を、まだ理解していなかった。先ほどのマルタの言葉に対して、イエスは「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか(40節)」と述べた。きっと、イエスのこの言葉は、「しかし、マルタたちよ、お前たちはまだ信じていないのか」と続くのではないかと私は理解する。
私たちが信じる神とは、いかなるものなのか。神は、天地を創造した。神がこの世を創った。創造とは、無から創るということを意味する。では、なぜ神はこの世を創ったのか。それは、神が愛する対象を求めたからである。そして神は、その愛する対象との応答を求めておられる。神は、神ご自身が創ったこの世を愛しておられる。神が天地を創造したとは、この世にあるすべての根拠が神にあるということである。では、イエスが神の御子であるとは、いかなることであろうか。それはイエスが神と同じ力、権能を持っているということ。すなわち、天地創造の力を持っている方がこの世に現れたということである。
旧約聖書のエゼキエル書に、死者からの復活が預言されていた。それはユダヤ人が再び希望を持って神と共に歩む日が来るという預言である。ユダヤ人が、いや人間が、真に生きる者となる日が来ることであると私は理解する。つまり、全てのものが命の源である神を信じる日が来るということ、いや、神がそのように導くということである。
マルタとマリア、そしてユダヤ人たちは、死者の復活など全く考えてもいなかった。それは人間の常識からいえば、当然のことであろう。もし、死者の復活があったとしたら、それはいわば奇跡である。しかし、この世における本当の奇跡とは、いかなることであろうか。本当の奇跡とは、この世を創った力を持った神、神が人間と同じ姿で来られるということ、神が人間として私たちと交わり、同じ時を過ごすということ、そして、そのことを人間が信じることこそが奇跡であると私は思うのである。神と人間が交わりを持つ。それが、イエスの業である。マルタとマリア、そしてユダヤ人たちは、その奇跡を未だに信じることができないでいた。イエスは何度も彼女らに問うた。マルタもマリアも、信じると述べていた。しかし、実際には、まだイエスの神の力を信じていなかった。それでも、イエスはマルタとマリアに何度も問うて下さったのである。
そして、人々が墓の石を取りのけると、イエスは天を仰いで「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝いたします。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです(41節以下)」と祈った。この祈りの中でイエスは、「ラザロを復活させてください」とは述べず、「わたしの願いを聞き入れてくださったことに感謝いたします」と述べた。それは過去形であった。そこには、イエスの願いと神の願いが一緒であるという意味がある。つまり、神とイエスは一致している。そして重要なのは、「イエスが神の御子であるということを信じることのできない者のために、これから先の出来事をお示しください」ということである。イエスはラザロの死からの復活を通して、人々を導いておられたのである。イエスは人々を導くために、ラザロにあえて死という道を与えた。神、そしてイエスの計画の上にラザロの死があったということである。そして、イエスは「ラザロ、出て来なさい」と言った。すると、布で包まれていたラザロが出て来た。それは、死からの復活である。この出来事によって、マリアとマルタは、イエスの神の力を理解し、イエスを本当に信じるようになったのである。
そこで、死から復活したのはラザロだった。しかし、実際どうだったのであろうか。そこで復活したのは、ラザロだったのであろうか。そうではなかったのである。この出来事を通して、イエスのことを真に信じることができるようになったマリアとマルタこそが、真に復活した者だったのである。マリアとマルタこそが、命の息吹を再び与えられた者と言えるであろう。つまり、暗黒にいたのは、マリアとマルタだったのである。死の領域は、決して暗黒ではない。死んでも神は共にいてくださる。死んでも神との関係は絶えることはない。しかし、マルタとマリアは肉体の死によって自分たちとラザロの関係が絶たれると思っていた。同じように、マルタとマリアは死によって神との関係が絶たれると思っていたと私は理解する。しかし、そうではないのだということを、ラザロの復活を通してマルタとマリアは知った。イエスを信じることのできない心こそ、神との関係が絶たれる闇の領域なのである。闇の領域は死にあるのではなく、この世にある。神との関係の断絶という闇の領域を打ち破るために、イエスは私たちのもとに来たのである。それは、天地創造の力を持った方がこの世に現れ、新たに命の息吹を与えてくださるという出来事である。現代の私たちに命の息吹を、今与えてくださる方こそがイエスなのである。私たちも、様々な形で闇を心に中に持っているのではないだろうか。この世の常識とか、自分の思い込み、利己的な想いなど、私たちは多くの闇をもっている。時には、これらの闇を前に、絶望してしまうことさえある。その闇の中にイエスは来て、その闇を打ち破ってくださるのである。次のようにも言えるであろう。それは、絶望だと思えることに、神は介入してくださるということである。それは神と交わりを持つということである。そこにm神の栄光は現れる。そして、神との交わりこそが、私たちが真に生きるということなのである。そこにこそ希望がある。神、イエスは、私たちに信仰を与え、歩むべき道を照らしてくださるのである。
祈祷 ご在天の恵み深い神様 あなたは、愛によってこの世を創造され、それ以降、私たちを導いてくださっています。それにも関わらず、人間は、自分の思いばかりを先行させてしまい、あなたに背を向けてしまうことがあります。そのような人間にも関わらず、あなたは御子をこの世にお遣わしになり、あなたの愛をこの世に現わしてくださいました。それは、人間があなたに従うように、つまり真に生きるための導きです。ラザロを復活させたように、私たち人間が真に生きることができますよう、復活の力を差し伸べてください。そのことを通して、あなたの愛を多くの人と分かち合うことができますよう、私たちをお用いください。10月になったにもかかわらず、真夏日になるなど厳しい天候となっています。どうかすべての人、特に年を重ねられた方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見ている友、子どもたちのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うとのできない友をお支えください。争いで被害に会うのは最も弱い者、子どもたちです。どうか子どもたちの命をお守りください。そして、子どもたちに希望の未来をお与えくださいますように。新しい月が始まりました。誕生日を迎えられる方の上に主の豊かな祝福がありますように。また、その年は一生に一度しかありません。この一年の歩みの上に主の豊かな恵みがありますように。この礼拝を通して先の一か月、一週間の罪を赦し、新しい月、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネの手紙(1) 5章 6~12節」 05:06この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。 05:07証しするのは三者で、 05:08“霊”と水と血です。この三者は一致しています。 05:09わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。 05:10神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。 05:11その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。 05:12御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「霊なる導き」
さて、ヨハネの手紙(一)は、なぜ記されたのであろうか。このヨハネの手紙が記されたのは、イエスの十字架から約80年後、紀元110年頃だと考えられている。当時、教会内部からは、異端という誤った教えを宣べる人々が現れた。そこでヨハネは、教会に集う信徒たちが誤った考えに引き込まれないように教会の人々を導くため、この手紙を記したと考えられる。では、当時の教会では、どのような誤った考えがでてきたのか。それは、イエスは肉体をもっていたわけではないという考え、仮現論である。仮現論とは、神の子キリストは洗礼において人間イエスと合体し、十字架の死刑の前にその業を終えて、キリストは再び肉体イエスから離れられた。そして、このような神の子キリストを信じる者は、光の中におり、神との交わりを持ち、神を知っている。そのことを知っている者は既に救われ、さらに「神の種子」を持ち、罪を犯すことがないと考えたのである。人間イエスを否定していると言えるであろう。
ヨハネの手紙(一)の5章6節以下に心を傾けたいと思う。6節に「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」とある。水とは洗礼を意味し、血とは十字架の出来事を示している。イエスはヨルダン川で洗礼を受け受けた。それは、何を示しているのか。歴史を歩んだイエス、つまり、神の独子イエスは、人間としてこの世に遣わされたということである。先ほど、ヨハネの教会で誤った考えをもった人々はイエスの人間性を否定したと述べた。つまりヨハネは、仮現論を述べた人たちに対して反論したのである。「自分たちが宣べ伝えることこそ、イエスの教えを真に伝承しており、霊はこの事を証しする方である」と記されている。そこで、ヨハネによる福音書の19章34節を見ると「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」とある。これは、イエスの十字架の出来事において、兵士がイエスの死が確かかどうか槍を指し確かめたという場面である。そのとき、血と水が出たとある。ヨハネによる福音書の7章38節において「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とイエスは述べ、この水こそ「聖霊」であるというのである。聖霊とは目に見えないイエスの働きである。聖霊の最も顕著な業は、イエスを神の独子であると人間に知らせ、また、神へと導く働きである。私たちが神を認識すること、信仰を持つこと、そして、信仰告白をすることは、私たちの力ではなく聖霊によって与えられる賜物であるということである。そこで、次のように言えるであろう。ヨハネの教会が持っていた信仰は、聖霊によって与えられた賜物である。同時に、それはイエスを通して伝承されたもの、つまり、イエスの生涯が記されている福音書に行くように、この手紙は導いている。先ほど、ヨハネによる福音書の19章34節を読んだ。そのことから、聖霊がどこから出たのかという根拠を示し、また、神の意志である十字架のイエスの姿を示している。つまり、ヨハネの手紙が教会に伝えた信仰は、聖霊によるものであり、その聖霊の根拠こそ十字架のイエスにあるということを示しているのである。
7節と8節に「証しするのは三者で、霊と水と血です」とある。これは申命記19章15節の「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」が基にある。証言には三人の証言が必要である。そこで、水、血、聖霊の三つが証しするのであるから、ヨハネの手紙の教会に伝承された信仰は確かで証しされているということが示されている。ここで、6節と水と血の意味が変わっているのである。7節と8節では、私たちにとってイエスの流した水と血とは何かということが示されている。水は洗礼であり、6節と変わらない。洗礼を私たちが受けるということは、神から与えられた救いである。そして、7節と8節の血は、十字架ではなく、聖餐を意味していると考えられる。聖餐式とは、イエスとの出会い、交わり、イエスの恵みを想起することと言えるであろう。6節では、イエスが受けたこと、7節以下は、私たちが受ける救いに関して示されている。そして、9節には「人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています」とある。ここでの「神の証し」とは何であろうか。イエスこそ神の独子であり、神の愛をこの世に現わしたことを神は証しする。この神の証しこそ確かであるというのである。
では、神はどのように証ししたのか。11節と12節から見ると、神が永遠の命を私たちに与えて下さったからであると言うのである。永遠の命がイエスのうちにあり、イエスと結ばれている人には永遠の命が与えられる。それが証しであるというのである。難しさを感じる。では、「永遠の命」とは何であろうか。時間的に永遠に生きるということであろうか。永遠の命とは、神の国に入ることと言えるであろう。同時に、次のように私は理解したい。永遠の命とは、永遠である神、神の独子に結ばれることだと。イエスに結ばれるとは、イエスを信じると言えるであろう。
「神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり」とは、イエスがこの世において行った神の愛の業、イエス、神の言葉が私たちの内にあり、信仰者としての私たちを成り立たせているということではないだろうか。言い換えれば、神、イエスが私たちのうちに神の愛の業、言葉を宿らせてくださっているということである。それは、私たち自身の力で行うことができるのではなく、イエスの目に見えない聖霊による働きである。すなわち、神、神の独子イエスがそのように私たちに働きかけてくださっていると言えるであろう。信仰さえも私たちだけでなく、神、イエスが聖霊を通して与えて下さっている。神、イエスの愛が私たちの内に宿るように、神、イエスは今もなお、聖霊を通して私たちに働きかけて下さっているのである。だからこそ、私たちはイエスを信じることができ、時には、証し、神の愛の業をこの世で行うことができるのである。聖霊を通して神、イエスの愛が私たちの内にある。それはイエスが人間としてこの世に遣わされたからである。イエスは人間として苦しみ、悲しみ、欲望によって裏切られもした。だからこそ、人間のことをよくご存じで、人間の悲しみ、苦しみ、欲からなる罪を、今もなお負ってくださっているのである。それは神の愛による業である。私たちは聖霊を通して神、イエスの愛を受けている、与えられていることをただ受け入れたいと思う。神、イエスは私たちの内に生きる力をお与えくださっているのである。
祈祷 愛なる神様 私たちは自分たちの都合の良いように神、イエスを理解してしまうことがあります。イエスこそ神の独り子、人間としてこの世に遣わされました。そして、人間の欲、苦しみを知り人間として受け、人間のことをよく知り、そこで救いへとイエスはお導きくださっています。そのイエスの業は神の愛によります。それは、イエスを信じる者は永遠の命に与ることができるということで、神は証してくださいます。永遠の命とは永遠である神に結び付けられることです。そして、今そのことを、聖霊を通して私たちに教え、お導きくださっています。すべては神の業です。私たちはその神の愛を、聖霊を通して受けるものです。どうか神の愛を受け取り、その愛を多くの人と分かち合い、神の愛を証しする者となりたいと思います。能登半島豪雨では多くの被害が出ています。どうか、悲しみの中にある方々を慰め、お支えくださいますように。急に涼しくなってきました。寒暖の差も大きくなっています。どうかすべての人、特に年を重ねられた方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見ている友、子どもたち、これから手術を受ける友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うとのできない友をお支えください。争いは人間の欲でしかないと思います。神が宿された命を奪うことは神に背くことであると思います。神こそ命を尊ばれ、一人ひとりを愛してくださっています。互いの命を尊重しあうことができますように。今週のなかばから新しい月になります。どうかよき歩みになりますように恵み、お導きください。先日、天に召された友に安らぎを与え、地において悲しみの中にある悲しみの中にある方々を慰め、お支えください。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 33章 1~6節」
聖書朗読
33:01災いだ、略奪されもしないのに、略奪し/欺かれもしないのに、欺く者は。お前は略奪し尽くしたときに、略奪され/欺き終えたときに、欺かれる。/33:02主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり/苦難のとき、我らの救いとなってください。/33:03どよめきの声によって、もろもろの民は逃げ/あなたが立ち上がられると、国々は散る。/33:04いなごが奪い去るように、戦利品を奪い去り/ばったが跳ねるように/人々はそれに飛びつく。/33:05主は、はるかに高い天に住まわれ/シオンに正義と恵みの業を満たされる。/33:06主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「主を畏れること」
本日の聖書箇所、イザヤ書の33章6節「主を畏れることは宝である」から、箴言の1章7節「主を畏れることは知恵の初め」を思い起こす。学生の時、牧会カウンセリングで病院実習の授業があった。病院のチャプレン(牧師)がいて、患者とお話をする。それを授業で行うというものであった。その患者との会話は、当然のこと外部に話してはいけない。しかし、もう30年ほど前のことであり、お許しいただければと思う。私は、この授業で20歳手前の女性患者とお話をすることになった。彼女は、この実習病院の付属施設の看護学校の生徒で、体調を崩し入院したとのことだった。同時に、私はこの時期に、実習病院の夜間の見守りと救急の電話を受け取るというアルバイトをはじめていた。私がアルバイトに入った夜のこと、その女性が廊下の長椅子に一人で座っていた。授業で話したことがあるので、私は声をかけた。そこでの私と彼女の会話はやがて、その病院の看護部長の話になった。その病院の看護部長は看護学校で授業を持っており教えていて、とても厳しい先生であるとのことだった。彼女は、体が弱ければ看護師になることはよく考えたほうがいいと、その看護部長に言われたという。その看護部長は、私の牧会カウンセリングの授業で、一度お話をしてくださったので、私も知っていた。その授業においてその看護部長は、患者との話し方を教えて下さった。実は、その看護部長が話すべきことは病院のこと、この病院が患者さんをどのように思っているかというお話しだと私は思っていた。しかしその看護部長は、患者との話し方を教えてくださったのである。患者との話し方は、その授業を担当する先生、カウンセラーが行うべきである。授業を行う先生と看護部長の間でうまく話が通じていなかったように感じたと私はその女性に話した。するとなんと、その看護部長が、私たちの近くで私の言葉を聞いていたのである。その看護部長は、私が悪口を言っていると受け取ったのである。確かに、女性と話すのに悪口の方がよいと思い、悪口のように話したのは事実である。当然のごとく、私は看護部長室で「聖書には『主を畏れることは知恵の初め』とある。あなたは謙虚になりなさい」とその看護部長からお叱りを受けた。それ以来『主を畏れることは知恵の初め』という言葉を聞くと、その看護部長を思い出すのである。確かに、私が悪口を言ってしまったのは、いけないことだった。
一方、この出来事を通して、その女性と仲間意識的なものができたことはよかったと思っている。その女性とはその後、もう一度授業で話す機会があった。彼女は「体調を崩し、看護婦になれるのか不安を持っている」と話してくれた。私は「あなたは今回の入院を通して患者の気持ちが分かる看護師になれるのでは」と話したことを記憶している。看護部長には失礼をしたと思っている一方、その女性の前ではへりくだることができたのではないかと思う。そこで私は彼女とよい関係で話すことができたと思っている。看護部長に怒られたことによって、である。そのときに叱られたことは、マイナスではなくプラスになったと思っている。そのような意味では、看護部長にも感謝の思いを持っている。神のなさることはわからない。看護部長の言うように、私たちは神の前で謙虚にならなければいけないと思う。ちなみにこの看護部長は、休みも取らず、患者さん、看護師さんたちとコミュニケーションを取っておられた。とても熱心な方だった。
さて、本日の箇所、イザヤ書33章1節以下に心を傾けたいと思う。1節に「災いだ、略奪されもしないのに、略奪し/欺かれもしないのに、欺く者は」とある。「欺く者」とは誰なのか。「欺く者」を「裏切る者」と訳している日本語訳聖書がある。また、「欺く」は「滅ぼす」とも訳すことができる。そこで、イザヤの時代、「滅ぼす」「裏切る者」としてあげられる人物がいる。それはイスラエルに敵対する者であったアッシリア王センナケリブである。センナケリブ王は、勢力をのばしていた。南ユダ王のヒゼキヤは、攻撃を避けるためアッシリア王センナケリブに貢物を送った。しかし、センナケリブは、貢物を受け取ったにも関わらず南ユダを侵略して46の町を占拠したのである。センナケリブは南ユダを裏切り、略奪した。一方、センナケリブ自身、自分の息子に裏切られ、ニネベで暗殺されたのである。そこから、1節に記されている「欺く者」、「欺き終えたときに、欺かれる」とは、アッシリア王センナケリブであると考えることができる。そこで、この箇所は、センナケリブ、ヒゼキヤ王の時代、紀元700年前後のことであると考えられる。
2節では、見方が変わり、1節で記されている欺く者がもたらす苦しみからの救いを、神の民が神に願う。「朝ごとに、我らの腕となり」とある。それは、我々の腕であるようにと神に懇願しているのである。争いの開始が朝だったのかもしれない。神自身が敵の軍勢を、夜明け前にエルサレムの門前で滅ぼしたといえるであろう。つまり、南ユダは、強い軍隊を持つことができないほど弱くなっていた。そこで戦いの腕をのばした。敵対することができるのは神のみであり、南ユダの人々はひたすら神が手をのばし、戦ってくれることをより頼んだのである。3節の「どよめきの声」とは、神の声であり、その声によって敵は逃げる。また、神が立ち上がられると敵の国は散る。神による未来の救いを述べている。
4節は、どのように理解すればよいのか難しい箇所である。戦利品とは、闘いによって勝った国が負けた国から富を奪ったということであろう。南ユダが負け、戦利品を奪われたと考えられる(1節)。2、3節は、その逆の立場になることを願っている。一方、4節は、特定の民や国を示しているのではないと、私は理解する。この世において争いが起こり、混乱に陥ったときに、弱い国に対し、言わば、いなご、バッタのように強い国は襲いかかっていく。この世は、悪い意味において弱い者に対し、更に人間は攻撃してしまうという人間の醜さが述べられているように思う。
5節と6節は、4節と対照的なことが示されている。まず、世界を超越する神を強調する讃歌的な宣告から始まっている。「高い天に住まわれ」とは、神とこの世の距離、つまり、この世と神との違いを際立たせていると私は理解する。神こそがシオン、エルサレムに正義と恵みを与えて下さる。つまり、神のみがエルサレムを公正と正義の宿る場とすることができるというのである。そして、6節には「主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である」とある。南ユダにとって、イスラエルにとって安定した時は、ただ神の業によってなされるということである。人間にはできないともいえるであろう。そして、「主を畏れることは宝である」とある。箴言1章7節の「主を畏れることは知恵の初め」を参考にできると思う。箴言1章7節は、神と人間との絶対的違い、つまり、人間は神の前で謙虚になるべきであると、そして、神を信ずることによってこそ救いが与えられるということが示されているといえる。私は、5節と6節から次のように理解したい。人間は自分の力でこの世を征服し、富を得ようとする。いなご、バッタが襲うように富を得ようとする。他のものを略奪し、また、自分のために他者を欺き、裏切る。そこでは、奪略者は他の奪略者によって奪われ、欺かれる。しかし、この世の富よりはるかに大いなる宝がある。それは神を畏れることである。なぜなら、神こそがこの世の真の支配主だからである。救いは人間の力によるのではなく、神によって与えられる。私たちは神によって命が与えられ、神に生かされている者にしかすぎない。しかし、私たちの「主よ、我らを憐れんでください」という言葉を神は聞いてくださり、そして、苦難の時、救ってくださるのである。神と私たちは創った者と創られた者という絶対的な違いがある。創った者、すなわち神は、創ったものである私たちを愛し、救って下さるのである。すなわち。ここで言われているのは、私たちの希望、救いは神にのみにあるということである。
神のなさることは、私たち人間には理解できない。私たちが自分たちにとってマイナスだと思うことでも、神はプラスに変えて下さるのである。そのもっとも大いなる出来事こそが、イエスの十字架であると信じる。十字架とは、当時のローマの極刑である。当時、神の民であるユダヤはローマの支配下にあった。そこで、十字架とは、この世的権力に負けた弱いイエスの姿である。しかし、この世的権力に負けたように弱さしか見えない十字架にこそ、救いがある。十字架とは、私たちの罪、重荷を今もなおイエスが共に負ってくださっている業だからである。小さく、弱い者にしか過ぎない私たちの存在を肯定し、ありのままを、イエスは受け入れて下さっているということである。イエスこそ神の愛をこの世に現わした。小さな私たちの声を聞き、救いへとお導きくださるのが神なのである。私たちは、ただ神の前にへりくだり、神を畏れ、信じ、歩みたいと思う。神は、どんな小さな私たちの声をも聞いてくださる。神を畏れること、そこにこそ希望がある。私たち人間にはできなくても、神が救いへと今も導いてくださっているのである。そのことを私たちは信じたいと思う。
祈祷 愛なる神さま 私たち人間は欲が深く、自分の利益などを求めてしまいます。その顕著な出来事こそ争いだと思います。他国に対しイナゴ、バッタのように食い尽くす。争いは武力だけではなく、経済という意味でも行われているのかもしれません。しかし、私たち人間のできることには限界があります。また、この世的な欲においては相手を搾取するだけになってしまいます。神は、全てのものを愛し、救いへとお導きくださいます。その導きを信じ、神の前でへりくだり、ただ神の愛を信じ歩みたいと思います。私たちが神に対し、隣人に対しへりくだり、イエスの愛に倣い、互いに尊重し合うことができますようお導きください。台風、大雨などによって各地で被害が出ています。どうか、被災された方々をお守りください。9月も後半になったにも関わらず、暑い日が続いています。全ての人、特に年を重ねられた方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にある友、手術後の経過を見ている友、子どもたち、これから手術を受ける友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。憎しみは争いを起こします。神は争い、命を奪うためではなく、互いに愛し合うためこの世を創られました。どうか、一人ひとりの命が尊いものであることを私たちが誰に対しても思うことができますように。また、子どもたちに明るい未来を与えることができますようお導きください。明日は茨城地区高いが行われます。どうかよき交わりのときになりますようにお導きください。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「テモテの手紙(1) 5章 1~2節、17節」
聖書朗読
05:01老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、 05:02年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。06:17この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「み言葉と教えのために」
私が高校生だった頃に、祖母が私に次のようなことを言ったのをよく覚えている。「わたしは勉強の知識は少ないけれども、長く生きてきた分の経験は語ることが出来る。年寄りの経験は聞くべきだよ。」と。
さて、旧約聖書は文章ではなく、口伝で伝えられていたと考えられる。また、その方が良いと考えられていたようである。それは語り伝わることにより、そのときの状況の教訓が含まれるから、つまり先人が経験した多くの教訓が積み重ねられるからだというのである。次のようにも言い換えることができると思う。神が共にあり導いてくださったという経験が重ねられ、より恵み深い言葉となって語り伝えられた。
本日は最初に旧約聖書出エジプト記20章12節を読む。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」とある。これはモーセの十戒の第五である。出エジプトとは、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエル民族の苦しみの声を神が聞き、モーセを指導者としてエジプトから脱出させ、約束された地に神によって導かれたという出来事である。この旅で与えられたのが十戒である、十戒は、神から与えられた掟、教えである。十戒の第一は、「唯一の神以外のものを神としてはならない」である。十戒とは、神を中心とし人間が集団として生活するのに最低限必要な掟ともいえるであろう。また、次のようにも考えられる。十戒は、集団生活で生きるために一人ひとりが擁護される自由、存在の尊厳を守るためのもの。
十戒の最初の4つまでは、神、また、信仰について記され、そして、5番目からは、日常の教えについての事柄である。その最初が、この「父母を敬え」である。
「父母を敬え」より「殺してはならない」という教えの方が大切なのではないかと思う。しかし、「父母を敬え」とは、人間の根本的な姿勢であるとも考えられる。「敬う」とは、神や神的権威に対する態度と関係するあり方である。子どもは、神から授けられた存在であり両親は子どもを神へと導くよう委託されている。つまり、両親は神的代理者といっても良いであろう。ユダヤ教において、両親は宗教教育を施す者であり、その役割を果たさなければならない。そのように育てられた子どもは、神への信仰を両親から受け継ぎ、神を信じ、敬う。同時に、子どもはその教育の中で、両親をも敬う。
また、12節の後半に「主が与えられる土地に長く生きることが出来る」と記されている。神によって与えられた土地で生きる人々が長くそこで生活できるか否かは、両親への態度、両親を敬うか否かに対応するというのである。神へと導いてくれた両親との正しい関係は、神との正しい関係につながる。つまり、神との正しい関係こそ神の祝福に満ちて生きる基本であることが、出エジプト記20章12節で語られている。また、次のように考えることができるのではないだろうか。この世において最も小さな集団とは家族である。その集団において最も近い関係こそ親子であり、その関係が正しいものであるなら、大きな集団においても正しい関係を他者と結ぶことが出来る。
さらに、「父母を敬え」という教えには、次のような意味がある。この戒めの中心点は、老人の扶養問題である。当時のイスラエルは父系的社会だった。そこで、「父母を敬え」が意味するところは、年老いた両親をその死に至るまで適切に扶養すること、また、親として敬意を込め、どのような事態になっても相応しい扱いをするということなのである。そこで言われているのは、老いて、もはや土地を自分で耕すことができなくても、両親としての地位にふさわしい生活を保証することが意味されている。年を重ねた人たちは、自由と、住んでいる土地とを、もはや自分では守ることができない。この戒めは、年を重ね力がなくなった弱い人々にも、神から与えられた自由を、生きる尊厳を保証するための規定であったといえるであろう。
旧約聖書において「父母を敬え」は、出エジプト記だけにではなく、旧約聖書において10箇所以上に記されている。そこで、十戒、また、律法全体から考えると、イスラエルという民族は老人に対して敬意を払い尊厳を守るために、イスラエル全体で老人、弱者を扶養するという考えがあったと理解することができる。そこには愛が必要だったであろう。だから「父母を敬え」とは、神への信仰、神の愛につながるのである。また、次のようにも考えられると思う。父母によって伝えられる信仰は、経験による賜物である。つまり、年を重ねた人たちの信仰による知恵は、何にも代えがたい民族全体の財産であったということである。歳を重ねた人たちの言葉は、神がその人と共にあったという神の守りの歴史であり、その歴史における神的経験は何にも変えがたい宗教的恵みと言えたであろう。旧約聖書において歴史書があるのは、神がユダヤの民と共にあり守ってくださったという、経験から得られた神の恵みが記載されているからである。共にいてくださる神を述べ伝えることが出来るのは、神の恵みを経験から得た年長者であると考えられる。それは宣べ伝えられた。つまり、口伝による信仰の継承といえるであろう。
そこで、本日の聖書箇所、新約聖書テモテの手紙(一)の5章1と2節を見ると、「老人を叱ってはなりません。むしろ,自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい」とある。キリスト教会は、一つの大きな家族といえよう。イエス自身が弟子たちを兄弟、姉妹、母と呼んでいた(マルコによる福音書3章31~35節)。イエスの跡に従う者たちに私たちは、大きな家族だとも教えられてきた(マルコによる福音書10章29~30節)。そのことは、教会全体として、みんなで互いに弱い者を扶養するということになると思う。そのように、一つの大きな家族、共同体として父母、年長者を敬うべきであるという考えは、旧約聖書、新約聖書に貫かれているのである。
17節には「長老」と記されている。この言葉には、「老人」という意味もある。この箇所の長老という語を老人だと理解することができるかは、様々な考えがある。現代では、長老を教会の役職名と理解している。しかし、本日は、この長老という語を老人と受け取りたい。長老、老人は二倍の報酬を受けるにふさわしいと記されている。それは、働きに応じてとも受け取れる。しかし、次のように考えることも出来るのではなかろうか。歳を重ねた方の意見には、それ相応の価値があるということ。いや、その言葉には耳を傾けるべきである。経験を通して与えられた神の恵みを、教会は大事にしていたと言えるのではないだろうか。
人生の経験から語られる神にこそ、真実の神の姿があると思う。経験から語られる神の救いの業は、私が勉強して述べる説教より力強い言葉である。私たちは、経験を通して与えられた神の働きを聞き、そして、擬似体験として神の恵みに与ることができる。それこそが、信仰の継承なのではなかろうか。歴史の中で人間を導いて下さる神こそ、私たちを、いま支え、導いてくださる神なのである。もちろん、その経験には、素晴らしいことだけではなく、辛く、困難なこともあったであろう。だからこそ、経験を通して神を語る言葉は、真実の神の働きなのではなかろうか。
「父母を敬え」とは、現代においても大切な教えであると思う。何歳になっても、その人の自由と存在の尊厳を神は与え、また、大切にすべきであると教えてくださっている。この掟は、命は神から与えられた年月を全うするまで大切な命であり、そして、歳を重ねられた方が得た信仰による知恵を、私たちは神の恵み、信仰的財産として継承すべきあることを教えていると思う。父母を通して得る神との信仰的関係と言えるのではないだろうか。それは神、そして、人間関係の大切さ、神の愛のもと互いに支え合い生きるということにつながると思う。そこにこそ、人間の基本的な歩むべき道がある。
逆に、歳を重ねた人たちには、神の導きを喜び、神に感謝する姿を若い者に見せていただきたいと思う。その喜びの姿は、若い者の明るい未来につながるからである。私たちは経験を重ねたことによって与えられた、神の恵みを信仰の糧として継承すべきなのである。
また、父母を敬えとは、自分に帰ってくることでもある。父母を敬わない人は、自分がその立場になった時に、敬われなくなるのではなかろうか。父母を敬うとは、人間関係の始まりであり、神との関係、神を敬うことにつながる。現代の、人間関係のすさんだ時代にこそ大切な教訓であると私は思う。この「父母を敬え」という教えは、神から頂いた大切な恵みとして受け取りたいと思う。
祈祷 恵み深い神さま あなたはわたしたち被造物を、命の初めから終りまで導いてくださります。あなたのその導きに感謝いたします。私たちが、父母を敬うと共に、あなたを敬うようお導きください。私たちが人生の先輩を通してあなたの恵みを知ることができますように。また、高齢の方の健康、その歩みをこれからもお支え下さいますように。父母を敬うというあなたの教えが、現代のこの世において全うされますようにお導きください。また台風による被害が懸念されます。自然災害で被災された方々をお支えくださいますように。また、残暑厳しい日が続いています。どうかすべての人、特に歳を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守り下さい。病の中にある友、手術後の経過を見ている友、子どもたちのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。争いは憎しみ、悲しみしか起こりません。それは負の連鎖しか生み出しません。争いからは良いものはおこりません。どうか、全ての人が手を結び、互いの存在を尊重するようになりますように。9月は、教区、地区において様々な集会があります。どうか良い学び、集まりとなりますようにお導きください。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
敬老祝福祈祷 創世記24章1節「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。」イザヤ書46章3節~4節「わたしに聞け、ヤコブの家よイスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」お祈りいたします。この世にあるすべてのものに命の息吹を注がれ、その初めから終りの時まで、祝福を持って導いてくださる愛なる神さま。あなたは、全ての者を祝福のうちに誕生させ、そして、私たち人間と歴史の中で共に歩みつづけて下さっています。あなたは、それぞれの人生の歩みに共にあり、その人にふさわしい道を与えてくださいます。今日は、歳を重ねられた方々の歩みの中に神の恵み、御守りがあったことを感謝し、また、そのことを祝う時を持っています。あなたの御守りのうちに重ねてこられた年月を感謝いたします。と共に、これからの歩みの上も、あなたが共にいてお守りくださいますように。そして、重ねられた経験から与えられた神の恵み、その信仰を、わたしたちこの筑波学園教会の財産として、継承することができますようにお導きください。多くの年月の中で教会を今日まで支えてくださったことを感謝いたします。礼拝に来られ讃美できること、そのこと自体が信仰の証です。わたしたちがその信仰に倣うことができますように、お力をお与え下さい。あなたと共に歩まれたそれぞれの兄弟姉妹に、特別に祝福を注がれますように。そして、これからの信仰の歩みをあなたが祝し、お支えください。また、それぞれのご家族の方々にあなたの恵みがより一層ありますようにお願いいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 23編 1~6節」
聖書朗読
23:01【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。/23:02主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/23:03魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。/23:04死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。/23:05わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。/23:06命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「人をひとりにしない神」
2日の午前9時、私の父が天に召された。83歳、死因はALS(筋萎縮性側索硬化症)、筋肉が衰える病である。病名が分かった時にはすでに病状が進んでいた。医師から長くて3年と言われた。しかしその後、寝たきりだったが13年生きることができた。神に感謝。2日の早朝、父の顔色が悪いことに母が気付き、酸素を入れると、少し顔色がよくなったという。しかし、母、妹、兄に看取られ、父は最期を迎えた。家で最期を迎えることが父の希望であった。家族に看取られ家で父が最期を迎えることができたのは、神からのプレゼントだったと思う。私の父は家族をとても大切にしてくれた。だからこそ家で最期を迎えたかった。外食よりも、家でご飯を食べるのが一番だと父はいつも言っていた。この言葉は、母に対する一番の誉め言葉であり、感謝の言葉であると、私は理解していた。家族、特に母に看取られることが、父の一番の希望だったのではないかと私は思っている。あるキリスト者の精神科医の本にあった。熱心なキリスト者の女性が、神のために教会で奉仕しているのに、キリスト者ではない夫が、彼女が教会に行くことをよく思っていないという。そこで、どうすればいいのかと医師に質問したそうである。医師は、一番近い隣人はあなたにとって夫ではないかと述べたそうである。まさしく、私の父は、一番近い隣人である母を大切にしていた。その母に最期を看取られたからこそ、安らかに最期を迎えられたのだと思う。私が天に召された父の顔を見た時、この数年で一番よい顔をしていたのは、最期を家族に看取られたためであると思わずにいられなかった。
さて、聖書は夫婦について、どのように記しているであろうか。旧約聖書の創世記に、神による天地創造が記されている。人を創ったとき、神は「彼に合う助け手」として、地上の獣と空の鳥を創った。しかし、それらのなかに彼に合う助け手は見出せなかった。そこで、神は人のあばら骨の一部を取り、そこから女を創った。神は人を創ったとき、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と考えたからだった。
私はアダムとエバの楽園物語を、次のように理解する。人間はいかに生きるべき存在かということが記されていると。人間は一人ではなくパートナー、隣人と共に生きる存在である。逆にいうと、人間は一人で生きることはできないのである。そして、人間は楽園、つまり親の元から離れ、パートナー、隣人と苦労を共にして生きる存在である。では、神は楽園から離れた人間を放っておくのだろうか。そうではない。神は、アダムとエバに皮衣を作って着せた。この物語には、神の人間に対する姿勢が示されているように思う。「人はひとりでいるのはよくない」とは、神が人間を決して一人にはさせないと宣言しているように思える。
そこで、本日与えられた詩編23編に、心を共に傾けたいと思う。詩編23編を愛唱聖句としている方は多いと思う。では、詩編23編は、どのような内容なのであろうか。1節に「主は羊飼い」とある。つまり神は羊飼いとして、羊を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴って下さるのである。もちろん、羊はこの詩を詠む「わたし」である。「死の陰の谷」すなわち、敵から殺される危険にあっても、「あなた」すなわち、神が共にいて下さるから、わたしは恐れない。神の鞭、杖がわたしを力づけるのである。1~4節は、羊飼いと羊の比喩となっている。
5節で、主人と客人の比喩へと変わる。「あなた」つまり神は旅人を敵から守り、客人を喜び迎える主人である。護られ、祝福をもって迎えられる客人は「わたし」である。「わたし」は、この詩を詠む者である。そして、この詩人は、高らかに言う。私に追いせまるのは「恵みと慈しみ」以外になく、生涯に渡ってわたしは神の家で日々過ごすであろうと。
詩編23編は、個人の詩だが、イスラエル民族の歴史を示しているとも考えられる。それは、いかなることなのか。1~4節までは牧羊、5~6節は定住という流れがある。では、それがなぜイスラエルの歴史なのか。それは、出エジプトの出来事を示していると考えられる。では、出エジプトとはどのような出来事であったか。エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神はモーセを指導者としてエジプトから脱出させ、荒れ野を40年旅させた。それが1~4節である。例えば、1節「欠けることがない」は、荒れ野をさまようときを思い起こさせる表現になっている。申命記2章7節に「あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった」とある。2節「伴う」は、出エジプト記15章13節の「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き/御力をもって聖なる住まいに伴われた。」のことである。4から5節への展開は、出エジプト記の後の、荒れ野の旅の時代を経て、約束の地に定住を果たしたイスラエルの民の歴史を思い起こさせると理解できる。そして、続く6節の「主の家」は、エルサレム神殿を意味する。エルサレム神殿であるから、定住している。そこで、エルサレム神殿を中心とする信仰共同体の理想的な姿を映し出していると理解できるのである。そのように理解すると、詩編23編はイスラエル民族の歴史を示していると言える。しかし、詩編23編は、イスラエルの民の歴史を詠っているのではない。イスラエルの歴史伝承が、個人の信仰に表現のかたちを与えていることを示しているのである。私は次のように理解する。この詩編は、出エジプトが、すなわち神の働きがイスラエルの民にあったように、個人にも与えられるという確信をもって信仰的な歩みへと導く、また、神の導きを確信する個人の詩である。羊飼いとして、神は羊であるイスラエルをお導きくださっている。神の導きを確信し、神はわたしを神の家、救いへとお導きくださるという信頼を詠っていると言えるであろう。
詩編23編が、出エジプトという神の導きの歴史を示していると理解できると述べた。では、出エジプトとは、いかなる神の業なのか。最初に述べたように、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民に、神は約束の地を与え、そこへ導くという救いを示した。出エジプトは、神自らがイスラエルの民に対して、直接的に救いへと導いてくださった出来事である。出エジプトの荒れ野の旅において、イスラエルの民は、神に背くようなことを行った。例えば、金で偶像をつくり、それを神にしようとした。それでも、神は、イスラエルの民を約束の地へと導いてくださった。次のように言えるのではないだろうか。神はイスラエルが背こうとも、共にあり、正しい道へとお導きくださる。神はイスラエルの民を決して見放しはしない。それが神のイスラエル、いや人間に対する神の姿勢であるということである。そこで、ヨハネによる福音書の14章18節を見ると「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」とある。このイエスの言葉も、神様の約束として読むことができる。神はイスラエルの民を見放さない。この愛なる業は、イエスによって現代の私たちにも与えられているのである。それがヨハネによる福音書の14章18節の約束である。実は、最初に見た天地創造の業、アダムとエバの「人が独りでいるのはよくない」という神の言葉も、同じような意味をもっていると考えられる。「ひとはひとりでいるのはよくない」とは、神は「人はひとりにしない」という神の姿勢を現わしていると考えられるからである。神は人をひとりにはしない。つまり神は、いつも私たちと共にいて下さっているというその姿勢である。
そして、神が人をひとりにしないということが端的に示されているのが、詩編23編であるという理解がある。神は人をひとりにはしないというのは、神の愛であり、「隣人愛」であると考えられる。愛は対象があってこそ成り立つ。イエスは、律法とは神を愛することであると、そして自分を愛するように隣人を愛することであると述べた。隣人を愛するとは、隣人と共に歩むことである。神は、アダムとエバを、互いに助け合う者として創った。神こそ、神の愛する対象を求め、この世、被造物、人間を創ったのである。神は人間を愛している。つまり、神は人間と関係を持っておられる。決して人間を一人にしないということである。
そして、詩篇23編は、イスラエルの歴史、出エジプトの出来事を思い起こしながら、個人にも、イスラエルの歴史と同じように、神は死の陰が襲う危険なとき共にいて下さる。つまり、出エジプトのイスラエルの民と同じように、神は私たち一人ひとりと共にあり、そして、最終的に神の家に住む、完全な安らぎの場にお導きくださる。神こそ、そのようにして人間を決して一人にしないということが詩編23編で詠われているのである。神はいつも私たちと共にいて下さっているのである。最後に、もう一度ヨハネによる福音書の14章18節を読んでみたい。そこに「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」とある。今もイエス、神は私たちを一人にせず、いつも寄り添ってくださっている。ここにこそ、恐れはなく、力づけられる。そして、神の恵みと慈しみはいつもわたしを追うのである。神は、私たちを愛し、いつも恵みを満ちたらしてくださるのである。私たちは、神、隣人と共に助け合い、愛し合って歩みたいと思う。それが神の思いなのである。
祈祷 牧者として私たちを救いへとお導きくださる神様 詩編23編は、イスラエルの歴史、出エジプトを想起させ、神は出エジプトのようにどのようなことがあろうと、いつも人間と共にあり、救いへとお導きくださるということが詠われています。しかも、神は恵みと慈しみをお与えくださるというのです。しかも、神、イエスは決して人間をひとりにはしないと約束してくださっています。ここに神の大いなる愛があります。神に愛されている者として神に応答し、また、神の愛を多くの人と分かち合いたいと思います。大雨が降り、各地で被害が出ています。どうか被災された方々をお支えくださいますように。季節の変わり目、寒暖の差が大きくなっています。どうかすべての人、特に歳を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守り下さい。病の中にある友、手術後の経過を見ている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。争いで被害にあうのは弱者、子どもたちです。どうか指導者が弱者の立場に立つことができますように。子どもたちに素晴らしい将来を与えることができますように。秋には、様々な集会があります。どうか良い学び、集まりとなりますようにお導きください。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 5章 9b~18節」
聖書朗読
その日は安息日であった。 05:10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」 05:11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。 05:12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。 05:13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。 05:14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」 05:15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。 05:16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。 05:17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 05:18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「今もなお働いておられる方」
夏季休暇をいただいたことに感謝。さて先週の日曜日は、体調を崩され休まれている手束先生の代わりに、水海道教会で説教を奉仕させていただいた。手束先生は、治療のため約2ケ月入院し24日に退院されたので、その日共に礼拝を守ることができた。手束先生は私と同じ年齢である。手塚先生の治療は、これからも続く。実は、この日に共に礼拝を守ることができるとは思ってなかった。手束先生に今、主の癒しが働いていると思わずにはいられなかった。皆さんも手束先生のことを覚え、お祈りいただければと思う。
本日与えられたヨハネによる福音書の5章9節以下に心を傾けたいと思う。この箇所は、前の話からの続きである。イエスは、38年も病気で苦しんでいた人を癒した。病人がイエスに助けを求めたのではなく、イエスがその人に声をかけたのである。それは、人を生かす力である。
イエスが病人を癒したその日は、安息日だった。安息日とは、ユダヤ教の律法による規定で、一週間の第7日目を休みなさいという教えである。元来、安息日は人間や家畜を過重労働させないため休みを取らせる規定であったと、旧約聖書の出エジプト記23章12節に記されている。安息日はユダヤ人だけでなく、ユダヤ人以外の労働者、奴隷、家畜に、疲れの回復のために休みを与える教えであった。安息日とは、最も弱い者のために神から与えた、人を生かす恵みといえるであろう。しかし、いつしか「神が休んだ時なのだから休まねばならない、働いてはならない」という掟に変わってしまった。
イエスが病気の人を癒した時の言葉が、この前のページに記されている。8節に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」とある。床を担いで歩くということが、安息日には禁じられた行為であると、ユダヤ人たちが言った。現在のイスラエルでも、エレベーターのスイッチを押すのは労働になるとして禁止されている。それほど、安息日は徹底されているのである。
さて、10節に記されている「ユダヤ人たち」とは、誰を指すのか理解が難しい。ユダヤ人一般をさしているのであろうか。この福音書が記された時代、ユダヤ教はイエスを信じる者を迫害していた。そのため、ヨハネによる福音書は「ユダヤ人たち」と記したのではないかという理解がある。迫害を扇動するのは権力者たちであるとも言えるであろう。本日は、分かりやすいように「ユダヤ教権力者たち」と呼ぶことにしたい。ユダヤ教権力者は、床を担いで歩いていたことが律法違反であると、癒された人をとがめた。そうすると癒された人は、「わたしを癒してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。私には、この言葉は言い訳に聞こえる。「私が悪いわけではない」「私を癒した方が床を担いで歩きなさいと言った」「私はその言葉に聞き従っただけである」と。癒しが行なわれた時、この人はイエスに対しても、癒されないのは自分が悪いのではない、助けてくれる人がいないからだと、言い訳を述べた。ここに人間の弱さを見出すことができる。
するとユダヤ教権力者たちは、その人物は誰かと尋ねた。しかし、癒された人はイエスのことを知らなかったのである。きっと、喜びが先んじて、その人に名前さえも聞かなかったのであろう。すると癒された人は、イエスに神殿で再び出会った。イエスは言った。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない(14節)」。イエスは、言い訳を述べた弱い人間に対しても忠告をしてくださるのである。弱さを受け入れてくださるのである。一方、私は、イエスが本当にそのようなことを述べたのかに、疑問を持っている。というのは、「もう、罪を犯してはいけいない」という言葉に、病気は罪の罰であるという理解があるからである。その後、イエスが目の癒しの奇跡を行ったとき、イエスは「目が見えないのはこの人が罪を犯したわけではない、神の御心が現れるためだ」と述べた。つまり、イエスは、病気は罪の罰であるという考えを否定していたのである。イエスは、因果応報的な理解を否定していた。特に、病気は罪の罰であるという理解は、弱い立場にいる人を搾取することになる。14節の「もう、罪を犯してはいけない」という言葉は、後から付加されたと記している学者は少ないのだが私は、後から付加されたものであると理解したいのである。イエスは、病気は罪の罰であるという理解から解放されている。人間に自由を与えている。癒された人は自由であるからこそ、イエスのことをユダヤ教権力者に教えた。本来、イエスはそれをとめることができた。しかし、イエスは癒した人に自由を与えた。だから、癒された人は何を話してもよいのである。
ユダヤ教権力者たちは、安息日には仕事をしてはいけないと厳しく守っていた。ユダヤ教権力者たちは当初、床を担いで歩いたということを問題にしていた。しかし、ユダヤ教権力者たちは、床を担いで歩きなさいと述べたイエスに目を向けた。イエスは言葉だけでこの人を癒した。イエスが治療という行為を行ったとは言えない。そのように理解すると、イエスは働いたわけではないので、安息日の規定に反していない。しかし、ユダヤ教権力者たちは、床を担ぎ歩いた人ではなく、イエスを批判の対象とした。以前からイエスに対して、邪魔だと思っていたのかもしれない。
そして、16節、ユダヤ教権力者はイエスを迫害し始めた。イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ(17節)」と答えた。イエスは神の独子として、神のことを一番よく知っておられた。イエスは神と同じように、私もこの世に対して働く、と述べた。確かに、イエスは神と共にこの世を創造したと、ヨハネによる福音書の冒頭に記されている。神と同じように働くというイエスの言葉を、神を冒涜しているとユダヤ教権力者たちは受け取った。そこで、ユダヤ権力者たちは怒った。神は唯一であり、神と同じように働く者などいないと、ユダヤ教では考えていたからである。
一方、ユダヤ権力者たちは本当に神を見ていたのであろうか。確かに、神からいただいた教え、律法を守るというのは、神との契約では重要なことである。では、律法とはいかなるものか。律法は神からの恵みである。神は人間に、律法という教えを与えた。人間はその教え、律法を守ることによって、神が人間を愛し、人間に働きかけ、共にいて下さることを実感する。それが元来の律法を守ることの意味である。
安息日は、人を生かすための教えである。いや、律法こそが神の恵みである。そして、人間は神の恵みの内に生きることを、喜びとすることができる。つまり、律法という恵みが生きる力となるのである。しかし、この基本的な理解を、ユダヤ教権力者たちは忘れてしまった。律法を守る者は救われる。守ることが大切だ。そこで、律法を守る者は自分を誇り、そして守らない者を卑下する。また、病人は罪を犯したからだと、レッテルを貼ってしまう。そこにあるのは優越感と差別である。そして、差別を生み出すことによって、権力者たちは、人々を管理しやすくなった。律法を管理のための道具にしたと言えるのではなかろうか。そして、いつしか、律法を守ることが信仰であるという束縛となってしまった。考えるのではなく、守ることが大切である。権力者たちは人々に自ら考える力を与ず、考えることを停止させたとも言えるのではないか。そこにも、権力者たちの弱さを見ることができるように思う。それが神のなさることであろうか。そこで、イエスの言葉を見ると、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ(17節)」である。規定した教えで人を拘束するのではなく、今もなお人間に対し働きかけ、導いてくださる方こそ神であると、この言葉を受け取りたい。神、イエスは人間の状況にあわせ、導いてくださるとも言えるであろう。
本日の箇所にある出来事は、神の愛をイエスご自身が現わしているとイエスが宣言された。つまり、イエスの業こそ、神の働きをこの世に現わしている。そして律法による管理、支配ではなく、人間は神に愛され生かされていることを、イエスは宣言されたということである。安息日、律法とは、神が与えてくださったものである。それは神が人間を愛し、生かすためものである。その神の愛を知った者こそ、自分が何をすべきかを考えるのではないか。イエスは律法をただ守るということではなく、神の愛を受けた者として、どのように応答すべきか考えるよう導いているのである。神こそ、イエスを通して、今もなお私たちに働きかけて下さっている。本来の律法の意味は神の恵み、愛を覚える、ということである。イエスがこの世に現わしたことと言えるであろう。一方、ユダヤ教権力者たちは律法に拘束され、自由になっていない。それは神の愛を理解せず、自分の欲から解放されていないということなのかもしれません。だから、イエスを迫害した。イエスは自分たちにとって邪魔であると考えたのである。
イエスの業は、ある一人の人に行われただけではない。一人の人に対する癒しの業は、神の愛がこの世に現れた良き知らせの現れなのである。つまり、イエスは人間の弱さを受け入れて下さり、そして、今もなお、私たちに対し働きかけて下さっているのである。そこに、イエスの、神の愛がある。たとえ迫害されようとも、人間を生かすため、イエスは今も働いてくださっている。私たちは、イエスの愛に応えたいと思う。それは、イエスを信じるということから始まるのである。
祈祷 ご在天の恵み深い神様 あなたは、あなたと等しい権能を持たれた独り子イエスをこの世に遣わし、あなたの義と愛をこの世に表し、私たちを救いに導いてくださいます。御子は、今もなお働き、私たちを導いてくださっています。イエスは、ご自分のためではなく、人間のために働かれ、神の愛を現わされました。感謝いたします。私たちはイエスに愛されている者として、イエスに応答する者になりたいと思います。また、あなたの愛に気づいていない方に、あなたの愛を述べ伝えることができますように、私たちをお用い下さい。台風が到来し、各地で被害が出ています。どうか被災された方々を守り、悲しみの中にある方々をお支えください。これ以上、被害が出ませんように。どうかすべての人、特に歳を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守り下さい。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。争いは悲しみ、憎しみしか生み出しません。どうかすべての争いがなくなりますように。明日から学校が始まります。どうか主の導きにより友との良き交わり、良き学びの時になりますように。今月誕生日を迎えられる方々のことを覚えます。この年齢は一生に一度しかありません。この時を祝し、お導きください。本日は、関東大震災が起こった日です。地震の怖さと同時に、恐怖の中にある人間は自己保存のため暴動を起こしてしまいました。地震への備えと共に、冷静さをもつ心をお与えください。そして、助け合う心をお与えくださいますように。この礼拝を通して先の月、先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい月、新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「哀歌 5章 1~22節」
聖書朗読
05:01主よ/わたしたちにふりかかったことに心を留め/わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください。/05:02わたしたちの嗣業は他国の民のものとなり/家は異邦の民のものとなった。/05:03父はなく、わたしたちは孤児となり/母はやもめとなった。/05:04自分の水をすら、金を払って飲み/自分の木からすら、価を払って取り入れる。/05:05首には軛を負わされて追い立てられ/疲れても、憩いはない。/05:06わたしたちはエジプトに手を出し/パンに飽こうとアッシリアに向かった。/05:07父祖は罪を犯したが、今は亡く/その咎をわたしたちが負わされている。/05:08奴隷であった者らがわたしたちを支配し/その手からわたしたちを奪い返す者はない。/05:09パンを取って来るには命をかけねばならない。荒れ野には剣が待っている。/05:10飢えは熱病をもたらし/皮膚は炉のように焼けただれている。/05:11人妻はシオンで犯され/おとめはユダの町々で犯されている。/05:12君侯は敵の手で吊り刑にされ/長老も敬われない。/05:13若者は挽き臼を負わされ/子供は薪を負わされてよろめく。/05:14長老は町の門の集いから姿を消し/若者の音楽は絶えた。/05:15わたしたちの心は楽しむことを忘れ/踊りは喪の嘆きに変わった。/05:16冠は頭から落ちた。いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ。/05:17それゆえ、心は病み/この有様に目はかすんでゆく。/05:18シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。/05:19主よ、あなたはとこしえにいまし/代々に続く御座にいます方。/05:20なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ/果てしなく見捨てておかれるのですか。/05:21主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。/05:22あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
礼拝メッセージ:和寺 悠佳 牧師「ここに希望が」
(要旨の掲載はありません)
聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 3章 20~30節」
聖書朗読
03:20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 03:21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 03:22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 03:23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 03:24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 03:25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 03:26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 03:27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 03:28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 03:29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 03:30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
礼拝メッセージ:鵜崎 寿 牧師「ゆるされない罪」
(要旨の掲載はありません)
聖書:新共同訳聖書「ヨブ記 42章 7~9節」
聖書朗読
42:07主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。 42:08しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」 42:09テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「忖度」
本日の説教題を「忖度」とした。忖度とは、相手の気持ちを推し量ることである。忖度は元来、ポジティブなイメージを持つ言葉である。一方で近年、忖度は「顔色をうかがう」などのネガティブな用い方をするようになってきたと思う。私自身は、ある事件をきっかけにネガティブな意味で用いるようになった。ある学校法人が、小学校を新設しようとした。その際に国有地が安く売却されたという事件である。その事件で「忖度」という言葉が注目されたと記憶している。当時の首相の連れ合いがその学校法人の名誉校長に就任した。そのことによって役人の忖度があったのではないかということだったと記憶している。その場合、役人は首相の顔色をうかがったか、あるいは、首相から良い評価を得るためであったのかもしれない。その事件の真相は分からないが、そのときから忖度という言葉がネガティブに用いられたと私は記憶している。相手の気持ちを推し量ることは大切である。一方、ネガティブな意味で相手の顔をうかがってしまうと、そこで必要な対話をしないと、正しさを確認しないという危険が起こる。そして、そのことにより誤った方向に進んでしまう可能性があるのではなかろうか。
ヨブ記は、とても面白い内容である。神は、サタンに、ヨブという正しい人がいると言った。サタンは、ヨブに意地悪すれば彼は神を呪うであろうと神に言った。すると神はヨブに手を出さなければ何をしてもいいと、ヨブは神を呪うようなことはしないと言った。そこでサタンは、ヨブの全財産、子どもを奪い、また、ヨブを皮膚病にして苦しめた。そのようにヨブ記は、理不尽な始まり方をしている。苦難にあったヨブは嘆いた。そこに友人が来て、ヨブにその苦難を神の訓戒であるとして受け止めるようにと説得した。また、神に対する邪悪な者がたどるはずの憐れな結末を提示した。そこで神に赦しを乞うべきだと友人たちはヨブに助言したのである。ヨブは無実な自分を神が不当に攻撃しているといった。そこで姿勢を変えるのは自分ではなく神であるとヨブは主張し、友人の勧告を拒否した。そして、最後に神がヨブの前に現れ、知恵についてヨブに質問した。ヨブは、神の偉大さに改めて気付き、感謝し改心した。本日の箇所は、その最後の、友人たちは正しくなかったので神は怒っているという場面である。そこで、ヨブのもとに雄牛、雄羊を七頭ずつ持って行き、それを捧げ物にしてヨブがそれを受け入れ祈れば罰を与えないと神はヨブの友人に述べた。ヨブはそれを受け入れ、友人のために祈った。神はヨブの願いを受け入れ、友人を赦したというのである。
本日の箇所で見たいのは7節の「お前たちは、わたしについて僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」という神の言葉である。お前たち、つまりヨブの友人は正しくなく、ヨブは正しかった。そこで問題になったのは、ヨブの正しさとは何かということである。ヨブは、神が認めるほどの義人であった。一方、サタンによって苦しめられた時、ヨブは神に対して自分は無実だと述べ続けた。そこで神がヨブに現れた時、神はヨブに対して正しいとは述べず、ヨブが答えられないような質問をした。ヨブは、人間の弱さ、罪、神の偉大さを改めて知り、改心した。つまり、ヨブがずっと正しいことを言っていたということではないのである。
ヨブの友人は、行為の善悪に応じて幸・不幸の果報があるという因果応報主義になり、ヨブに罪があるから苦難に会うのだと言った。だから神に赦しを乞うべきであると友人たちはヨブに助言し続けた。しかし神は人間の考え、理解には収まらない。つまり、神は因果応報という考えには収まらない。神の前で正しい者はいない。人間は自分の罪を償うこともできない。だから神自身が人間の罪のため独子をこの世に遣わし、人間の罪を負ってくださった。罪人であるにも関わらず神の恵みによって人間はいかされている。そこに人間の応報という考えを越える神の愛、正義があるといえるであろう。ヨブの友人たちの応報主義は間違っていると、神は述べたと言える。
では、ヨブの何が正しかったのか。それは神がヨブに現れたとき、ヨブが改心したからだという理解がある。それだけなのか。次のような理解がある。ヨブは、苦難の中で神に何を語ったのかというと、自分は無実だと、それが神に認められないと言い続けた。神が正義であれば無実である私が罰せられるのはおかしい。つまり、神の正義をヨブは問い続けたのである。それを私はとても面白いと思った。神は正しい方である。そこで私は、人間が神の正しさを問うてよいのであろうかと思った。人間が神の正しさを問うことは何ら問題ないとヨブ記は示しているといってよいであろう。神の正義を問い続けたこと、それがヨブの正しさである。この聖書箇所にある「正しい」という言葉は、ヨブの発する言葉が正しさと勘違いしてしまう。そこで「正しい」ではなく、多くの日本語聖書は「ヨブのように確かなことを語らなかった」と訳している。「確かなこと」とは神の正義を問いつづけたということである。罪ある人間が神の正義を問うことを神は赦してくださる。私は次のように理解する。神に問う、それは神に語りかけ神と交わり、話し合うことに他ならない。そして、その問いの中で神の偉大さ、正義を人間は知るのである。ヨブは、苦難のなか神に問い続けた。神は、人間が神の正義を問うことを赦してくださっている。いや、人間の言葉を神は待っている。神こそ正義、真理であるからこそ、神は問い続けられても壊れることなどない、びくともしないのである。一方、友人たちは神に問わなかったという意味で忖度してしまったと言えるのかもしれない。
人間は、ネガティブな意味で忖度してしまう。つまり人間は、話し合わずに確認をせずに相手の顔を見てしまう。国を導く者に対してまで、ネガティブな意味で忖度してしまう。時に、イエスマンになってしまうことによって指導者の暴走を止めることができなくなる。そこに危険が生じるのではないだろうか。争いはそのようにして起こってしまう可能性があると私は思うのである。何が正しいのか問うことをしないことによって多くの過ちが起こる。ヨブは、神に対しても正しさを問い続けた。神は、人間に神の正義を問うことを赦してくださっている。人間こそが過ちを犯してしまう。しかし神は、ヨブ記を通して正義を問うことの大切さを私たちに教えて下さっているように私は思うのである。
人間は、神に、そして、この世に対して正義を問い続けなければいけないと私は思う。声をあげて訴えるということが、問うという自由が私たちに与えられている。私たちは、ネガティブな意味で忖度するのではなく、声をあげて正義を問う者となりたいと思う。神こそ、正義を求めるよう私たちに教え、導いてくださっている。そして、正義を求めることによってこそ、神から真の救いが与えられる。正義を求めるとは、神と関係を持つということに他ならない。なぜなら神こそが真の正義だからである。そして、正義を求めることにより、人間が人間として生きることができるのである。
そこで、怖いことは、自分こそ正しいと人間が思い込んでしまうことである。それがヨブの友人たちの姿だったのかもしれない。神こそ、正しさへと私たちを導いてくださる。それだけではなく、神は、ヨブの友人が誤っていても、最終的にヨブを通して赦してくださった。私は、神がヨブを通して友人たちを赦してくださったことに、大いなる愛を感じた。つまり、神はヨブと友人との間を和解するよう導いていると私は理解したい。神との和解は、人間との和解に通じる。神の愛は私たちが思う以上に偉大なのである。私たちは神に対して、そして、この世に対して正義を問い続け、そして、神の義、愛をこの世に現わしたいと思う。
祈祷 愛なる神様 ヨブは、理不尽な苦難の中、神の正義を問い続けました。ここにヨブの挑戦があります。神は、神の義を問うことを赦してくださる。それは、私たちも同様です。神に対して、そして、この世に対して正義を問う者となりたいと思います。また、私たちは、神を信じる者としてこの世の正義を問う責任をも、与えられているものであると信じます。どうか、忖度ではなく、この世において変だと思うこと、人間の欲を問う者としてください。そして、真の真理、正義をすべての人と分かち合い、互いに支えあい、愛し合う者としてください。そして、この世にあなたの平安が現れますように。8月の6日、9日、15日。争いは悲しみしか生み出しません。救い主イエスこそ「平和の君」としてこの世に遣わされました。神、救い主イエスによる真の平和を私たちが求め、そのため歩むことができますようお導きください。先日、九州で地震が起こりました。また、大雨の被害がでています。能登半島沖地震の復興が進んでいません。どうか、被災された方々をお支えください。酷暑となっています。また、感染症も流行っています。すべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、リハビリを行われている友、治療後の経過を見られている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。不安、悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。お盆休みの中にある方々によきリフレッシュの時をお与えください。また、お守りくださいますように。教会に来ることのできない友、離れている友と主が共にありますように。妊娠をされている母子共に守り、また、新しい命を祝してください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 7章 1~9節」
聖書朗読
07:01その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。 07:02ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。 07:03イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。 07:04公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」 07:05兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。 07:06そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。 07:07世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。 07:08あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」 07:09こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「救いの時」
ヨハネによる福音書7章1節以下に心を傾けたいと思う。1節の「イエスは、ユダヤ人に命を狙われていた。」というのは、ユダヤ教の律法に規定されている安息日に、休まなければならない日に、イエスが病人を癒すという労働を行ったからである。律法を司るユダヤ教の権力者たちは、イエスを律法違反とし、イエスを迫害した。それにまして、イエスは、自分は神の子であると述べた。ユダヤ教権力者たちにとって、それは神を冒涜する言葉だった。つまり、イエスが真の神の御子であることをユダヤ教の権力者は理解していなかった。ユダヤ教権力者たちは、自分たちこそ正しいと理解しイエスを受け入れることができなかったと言えるであろう。それは神の意志ではなく、人間的な価値観だったのかもしれない。
1節の「ユダヤを巡ろうとは思わなかった。」のユダヤとは、エルサレムすなわちユダヤ教の中心地、権力者たちがいる場であった。そこに行くことを避けるためであった。ユダヤに行くとは、イエスを迫害する者、つまり敵の地に入るということになるからである。一方、イエスにとってガリラヤは、安全な地であったかもしれない。
その時、仮庵祭が近づいていた。仮庵祭とは、ユダヤ教の三大祭の中で最も大きな祭である。出エジプトとは、今から約3200年前、エジプトで奴隷として搾取されていた神の民が、神の導きでエジプトから脱出した出来事である。出エジプトでの荒野の40年の旅の中で、指導者モーセは神から十戒という教えをいただいた。旅の途中、神の民は十戒を刻んだ石の板を収めた幕屋で神を讃美した。荒野での仮住まいの間も、神の導きと守りがあったことを感謝した。同時に、この世も仮の住まいであることを告白するのが、その祭であった。祭りを通して、過去の救いを確認し、今もな働き導いてくださっている神を神の民は覚えるのであった。
3節のイエスの兄弟とは、肉親の弟のことである。弟たちが「仮庵祭で多くの人がユダヤ、エルサレムに集まる。そこで、あなたのしている業を多くの人に見せなさい。そうすれば、多くの人があなたに注目し、信じることになるだろう」と言った。その言葉は、一見、的を射ている。イエスの活動を支援しているかのような発言である。多くの人が集るところに行けば、多くの人の目に留まり、イエスを信じる人もきっと増えるであろう。しかし、5節には「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのです」とある。
そのことは何を意味していたのか。どうしてイエスの兄弟たちの言葉は、間違っていると言えるだろうか。まず、兄弟たちは、イエスがなぜガリラヤにとどまっていたかという理由を考えることなく、自分たちの考えを、ただ押し付けていたことがあげられるであろう。それは、神の御子であるイエスの力を信じていなかったということでもある。
また、イエスの真の業と、兄弟たちが述べている業との違いがあげられると思う。イエスの業とは、イエスが救い主であると明かしするもの、今ここに神の働きが現れているということである。しかし、イエスの弟たちが述べた業とは、奇跡、目に見える業であった。イエスの働きの中心は奇跡ではない。イエスの兄弟たちは、簡単に早く人々をひきつけること、業績を上げることだけを考えていたと言ってもよいであろう。この世的な価値観で話していた。つまり、兄弟たちはイエスを理解していなかった。そのような意味で、イエスの兄弟たちは、この世の代表者といえるであろう。それは神の働きを信頼せず、この世の価値にとらわれていたということである。
さて、兄弟たちの言葉に対して、イエスは「わたしの時はまだ来ていない。世はあなた方を憎まないが、わたしを憎んでいる(6節)」と答えた。つまり、イエスの兄弟たちがこの世の価値観で語るので、同じ価値観を持つこの世はイエスの兄弟を憎まない。それに対して、イエスは「この世の行っている業は悪いと証しているから(7節)」と、この世に憎まれるといった。この世の価値観は神の愛に反している。一方、イエスの業は、神の愛に根ざしていると言えるであろう。
イエスは「わたしの時がまだ来ていない」と述べた。この「時」という言葉は、私たちの考える時間的な時を意味しているのではない。イエスが述べた「時」とは、世界の持続的な時の流れの中から取り出された特定の時点を意味していた。ヨハネによる福音書において、イエスは「時(カイロス)」という言葉をここで用いた。カイロスは、十字架の時、復活の時、使徒たちに聖霊が注がれ宣教の力が与えられた時を意味している。それは神が計画し定めた時なのである。イエスは、神の定めてくださった時を待ち、忠実に神の働きに徹しようとした。それは、神を信頼する姿である。この世の時の場合「クロノス」また、ヨハネ福音書では「ホーラ」という言葉を用いている。つまり、「時」と言っても、意味が異なり、言葉を使い分けていたのである。
仮庵祭とは、神が生ける神であり人間を救いに導いてくださることを祝う祭である。イエスこそ今、神の救いをこの世に現し、人間を救いに導いてくださっている。その時がイエスによって現れる。神が定めてくださった時。しかし、イエスは「まだその時は来ていない」と言うのである。
ここで考えたいことがある。イエスの兄弟たちは、イエスを理解していなかった。それは肉親だからこそ、仕方のないことなのかもしれない。彼らは、イエスがこの世に現わしていること、イエスの活動が神の働きであることを理解せずにいた。つまり、神を信頼していなかった。なぜなら、イエスに忠告するということは、イエスが神の御子であるということを受け入れていない証拠だからである。
また、ヨハネによる福音書の2章には、婚礼での奇跡が記されている。婚礼の席で、ぶどう酒がなくなると、母マリアはイエスにぶどう酒の奇跡を求めた。それはマリアがイエスのことをまだ理解していなかったことを意味していると私は思う。イエスはマリアにも「わたしの時はきていない」と述べた。母マリアであっても、イエスを理解していなかった姿が示されていると言えるであろう。同時に、マリアもイエスの兄弟たちにも、その時がくる。イエスを理解する時が来る。イエスを理解する時が用意され、与えられるのである。だから、イエスは無理解であった母や兄弟たちを、非難したり責めたりはしなかった。いつか、きっとイエスを理解してくれる日が来ることを確信していたからである。それは、「十字架」、「復活」を通してであると言える。そして母マリア、兄弟たちにも、その時がくる。イエスを理解した時、この世の価値から解放されたのではなかったか。きっとイエスは、無理解な兄弟たちと同じように、私たちも受け入れてくださっているのである。それは、イエスが私たちを信頼して、導いて下っているからである。
6節に「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている』」とある。「わたしの時」は「カイロス」、イエスの救いの業が現れる時を意味する。その次の「あなたがたの時」も「カイロス」を用いている。この箇所で、イエスは「あなたがたの時」をこの世の「時」として用い、兄弟たちがイエスを理解する時が来るのを拒否しているという理解がある。一方、ここは「カイロス」を用いているので、イエスに従う人々が永遠の命を受ける時であり、それはイエスを神の独子であると信じるなら、いつでも命なる神から永遠の命が与えられるという、肯定的な理解もある。
7章から10章にわたって、イエスとこの世との戦いの場面が記されている。私たちは、この世に生きている。一方、すでにイエスの十字架の業は2000年前に終わっている。すなわち、イエスの救いの時、カイロスは、既に過去の出来事である。次のように言えるであろう。私たちは、この世の流れを意味する「時、クロノス」の中で、神の救いであるイエスの業を知っている。つまり、今、この世の時の中で、イエスの救いの時を理解することができる。
そこで、私は次のように理解したい。6節で「あなたがたの時はいつも備えられている」とイエスは述べた。私たちは「クロノス」、この世の流れの中で、神の救いの時、「カイロス」を受け入れる時が与えられていると言えるであろう。私たちが、神、イエスに心を向け、その愛を確信した時こそ、「カイロス」となる。いや、私たちが神の救いに心を傾けるようにイエスは導いてくださり、その時を与えてくださるということである。実際、母マリアはイエスの十字架の場にいた。また、イエスの弟ヤコブは後に原始キリスト教の中心人物になってゆく。神はこのように導いてくださるのである。イエス、神は、この世の時の流れの中でイエスを遣わした。つまり、私たちはクロノス、時の流れの中で、カイロス、イエスの救いの時を受けることができる。この世的であり、弱さのある私たちにも関わらず、神は救いの時を示してくださった。また、計画してその時を定めて下さるのである。本日の箇所には、この世的な価値観を持つ兄弟を受け入れ、導いてくださるイエスがおられると思う。つまり、ここにすべての弱さを受け入れ、ありのままを受け入れてくださる神の愛がある。神は、私たちが神、イエスの愛を受け入れる時を備えてくださっているのである。そして、私たちがイエスを受け入れるよう導き、その時をお与えくださるのである。イエスはこの世的な価値観を持ってしまう私たちを受け入れ、導き、私たちがイエスを理解し、救われる時を与えて下さるのである。
祈祷 ご在天の恵み深い神様 私たちは、あなたを信頼することなく、自分の考え、この世の価値観を基準としてしまうことがあります。あなたは私たちを受け入れ信頼して下っています。だからこそ、私たちもあなたをただ信じ、歩む者となるその時をお与えください。御子イエス・キリストの時を私たちが覚え、神の救いの出来事を感謝する者としてください。そして、私たちの心が解放され、神へと向かいますようにお導きください。真の救いの時があなたによって与えられることを信じます。同時に、あなたの救いの出来事がすべての人に与えられていることを私たちが告げ知らせることができますよう強めてください。暑い日がしばらく続くようです。感染症も流行っています。全ての人、特に年を重ねられている方、幼い者たちの健康をお守りください。病の中にあり治療を受けられている友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい命を宿られている方々、母子共に守り、良き出産のときをお与えください。戦争は神の思いではなく、人間の思い、欲望でしかないと思います。争いは悲しみの連鎖しか生み出しません。どうか、互いの違いを尊重し、支え合う世として下さい。今月誕生日を迎えられた方、迎えられる方を祝福し、これからの歩みが神の御心にかなう良き時となりますようお守りください。この礼拝を通して先の一週間、先の月の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 11章 23~29節」
聖書朗読
11:23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 11:24感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 11:25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 11:26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。 11:27従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。 11:28だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。 11:29主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「同じ釜の飯を食う」
先週の水曜日の朝、祈祷会の準備をするため礼拝堂に入ると、一人の女性がいた。彼女は友だちに会いにつくばに来たと言った。話をすると、彼女は大阪に住み、教会に通い、現在、同志社女子大学に通っているとのことだった。そして彼女は今、神学部の3年に編入しようかと考えているというのである。その後、祈祷会に参加してくれた。祈祷会に参加した別の女性は、今月30日に平和を祈るコンサートを行う。彼女は長崎出身で原爆体験者だと話した。いっぽう大阪から来たという若い彼女は最近、サークルで核兵器禁止条項について話し合ったという。その後二人は、日本が核兵器禁止条約に署名しないことについてどう思うかというような話をしていた。そこには世代を超えた良き出会いがあったといえよう。
私は学生時代、教会は不思議な場であると思ったことがある。教会は、イエスの名によって赤ちゃんから年を重ねた方までが招かれ、交わりを持つことができる。それは素晴らしい場であると思った。そこで私は「教会は寄せ鍋」だと考えた。全てを受け入れる鍋がイエス、出汁は聖霊、私たちは材料としてその鍋に入り、そして美味しく味を整えて下さるのが神である。寄せ鍋であるから、いろいろな具でよい、何を入れてもよい。そして、何を入れても美味しくなる。私たちにはそれぞれ個性があり、違いがある。違いがあるからこそ、その鍋は複雑になる。それを最高の味に調えて下さるのが神である。逆にいうと、私たちは神によってひとつにされるのである。また、私たちはそのようにひとつになるように歩むべきなのかもしれない。個性があるからこそ複雑になる。いや、それは複雑なのではなく、豊かさであり、それぞれが生かされ、より深い味になる。それが教会という場であると私は思っている。
本日与えられた聖書箇所は、パウロによって記された新約聖書コリントの信徒への手紙(一)11章23節以下である。この手紙は、イエスの十字架から約20年後、紀元53~55年頃記されたと考えられる。本日の箇所の言葉は、聖餐式に用いられる。つまりこの時代、すでに聖餐が行われていた。ただ、聖餐は今のように礼拝の中で行われていたのではなく、礼拝に続いて食事の時があった。現代、礼拝後の食事会を愛餐会と呼ぶ。つまり2000年前にも、愛餐が行われていた。それを後に聖餐と位置づけていたと考えられる。福音書には、イエスの食事の場面が多く記されている。イエスはそのように、多くの人と共に食卓に着いた。イエスとの食事を覚え、イエスの昇天後も教会は食事の時をもったといえるであろう。
本日の箇所の前、17節にある「このことを指示するにあたって」の、「このこと」とは何を指しているのかは分からない。19節の「適格者」という言葉は、元の言葉では「ほんとうの者」であり、現代の私たちに理解できるように訳すことが難しい。19節後半に「仲間争いも避けられないかもしれません」とある。これは分派との議論によって、本物がはっきり見えて来ると理解できる。一方、22節でパウロは「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません」と言っている。ここにある「貧しい人々」とは、元の言葉で「持っていない人」である。「持っていない人」とは、21節から考えると、礼拝後の食事の時、お弁当、食事を持っていない人といえるであろう。食事を持参できないと理解し、新共同訳聖書では「貧しい人」と訳している。そして、21節には「なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」とある。持っていない人に恥をかかせてはいけない。この点についてほめるわけにはいかないと、パウロはいうのである。20節には「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」とある。これらのことからコリント教会内部では、分裂が起こっていたと考えられるのである。
そのことを前提にして23節以下を見たいと思う。先ほど述べたように、食事の席で、食べられることのできる者と食べることのできない者がいて分裂が起こっていた。そこで、パウロは、伝えられたことをコリントの教会の人々に教えるというのである。それがイエスの最後の晩餐の言葉である。本日の箇所は、現代の聖餐式において述べる言葉である。そこで注目したいのが、27節の「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」である。ここで問題になるのが「ふさわしくないままで」という言葉である。「ふさわしくないまま」とは、どのようなことか。実は私は、今月の聖餐式において「ふさわしくないままで」という言葉を述べなかった。それは、この言葉を皆さんが個人的なことと受け取っているように思ったからである。ここで「ふさわしくないまま」とは、キリスト者として正しい生活をしていないという意味、心が神に向かってないという意味であろうか。そう受け取ることによって、洗礼を受けていても、自分は最近、神の意志に背いたとか、このような罪深い者がイエスの祝福したパンと葡萄酒、つまり聖餐に与っていいのかとか、ふさわしくないのではないかと思ったことはないだろうか。しかし、先ほど見た17節以下から考えると「ふさわしくないままで」というのは、個人、あるいは人に対してではない。この箇所では文法的にも、人ではなく「仕方」と訳すほうが適していると考えられる。そこで、私は次のように訳したい。「ふさわしくない仕方で」と。つまり、コリントの教会の状況を指しているということである。コリントの教会内部で分裂が起こっていた。パウロが「ふさわしくない仕方、状況」と述べたのは、分裂の中ある教会の姿を指したと言える。
28節に「自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」とある。完全な人間などいない。人間は、愛を忘れてしまうことがある。人間は、完全である神の前において罪人でしかない。つまり勝手な行いで分裂を起こしてしまう可能性が私たちにはある。
では、聖餐式の起源は何か。実は、史実として聖餐式の起源は解明できていないのである。「いや、福音書において、最後の晩餐でイエスが記念としてこのようにパンと葡萄酒をとりなさいと述べられているではないか。それが聖餐式の始まりではないのか」そう皆さん思っているのではないか。しかし、正確なことは今も分からない。ただ、私は単純に考えたい。イエスは、共にする食事の時を大切にした。そのことは福音書で分かる。そのことは事実であろう。最後の晩餐のようなこともあったであろう。イエスと共に食事の席に着いたということが、イエスに従う人々にとって一番の思い出となったのではないかと思うのである。イエスとの食事の席は、イエスが恵みを与えてくださる象徴的な出来事として、弟子たち、当時の人々の心に残っている。そこで、当時のキリスト者は礼拝後、共に食事をとっているとき、そこにイエスがいて下さると感じたのではなかったか。イエスがパンを裂いてくださったことを思いだした。目には見えないが、イエスが共にいて下さることを、食事の時に感じた。イエスの恵みが今も注がれていると気づいた。そして、それが聖餐という儀式になったと私は理解する。
聖餐式とは、まずアブラハムとの契約に、私たちもイエスによって招かれている、その契約の更新であると言えるであろう。そして、次のようにも言えると思う。聖餐式は、イエスとの出会い、救いを思い出すこと、そして、その恵みにいま与ることであると。だからこそ感謝をもって聖餐に与るべきなのである。
では、イエスの救いとはいかなることか。イエス救いとは、私たち人間の重荷を共に負い、罪深い私たちをありのまま受け入れてくださっているということではないだろうか。こんな私にもかかわらず、イエスは招いてくださるという恵みである。イエスは、食事の席に罪人とされていた病人、言われもない差別を受けていた者を招き、受け入れた。そして今もなお、イエスは私たちの罪を共に負ってくださっているのである。つまりイエスは、「あなたはあなたのままで十分神に愛される存在なのだ」と、私たちを受け入れてくださっているということである。その顕著な業こそ、十字架の出来事であると私は信じている。社会的弱者、病人は、人々から罪人とされ、自分は罪人であると自覚せざるを得なかった。神の御前に立つのに相応しくないと自ら自覚していた人々であったと言えると思う。私たちも、自分の罪を思う時があるのではなかろうか。実は、その人々こそ、神に愛される存在なのである。つまり十字架の出来事こそが「ゆるされざる者が赦される」という出来事といえるであろう。イエスは、ゆるされざる者を赦し、お招きくださる方であり、共に食事を取る。つまり、イエスこそ同じ釜の飯を食う友、仲間として招いてくださる方、交わりをもってくださる方なのである。
私たちは、イエスが重荷を負ってくださっているように、互いの重荷を分かち合い、そして、支え合えるのである。なぜなら、私たちは同じ釜の飯を食う仲間だからである。そのことによってこそ、教会はひとつになれるのではなかろうか。聖餐式にこそ、イエスはその真ん中にいて、私たちを招き、パン、ぶどう酒、つまり、恵みを分かち合ってくださるのである。教会こそイエスを中心に共に歩む場所だと、私は信じている。私たちはイエスを中心とする同じ釜の飯を食う仲間として歩みたいと思う。
祈祷 恵み深い愛なる神様 福音書には、イエスと共にある食事の場面が多く記されています。それは、イエスの恵みの分かち合いの象徴であるからだと思います。イエスは、疎外されている人、社会的に弱い立場の人々をも、食事の席に招きました。それは、全ての人が神に愛されているという恵みの象徴であるといえるでしょう。きっと初期のキリスト者たちは、礼拝後の食事を共にする中で、ここにこそイエスが共にいて下さることを実感し、気づいたのだと思います。食事の場にイエスの招きがあり、同じ釜の飯を食う仲間として、イエスは接してくださったという恵みです。教会こそ、イエスを中心として歩む場であります。イエスがそうであるように私たちは、互いの重荷を負い、共に歩む者になりたいと思います。先週、東北で大雨となり川が氾濫するなどの災害となってしまいました。どうか被災された方々をお支えください。私たちにできることがありましたらお用いください。これから台風の季節になります。どうかお守りくださいますように。暑い日が続いています。熱中症など懸念されます。感染症も流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守り下さい。病の中にあり治療を受けられている友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい命を宿られている方々、母子共に守り、良き出産のときをお与えください。報復は神のなさることであると聖書にあります。争いは神の御心ではありません。互いの違いを尊重する世界となりますように。また子どもたちに素晴らしい未来を与えることができますように。夏休み、このとき安全に楽しく過ごすことができますようお導きください。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 32章 15~20節」
聖書朗読
32:15ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。/32:16そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。/32:17正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。/32:18わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。/32:19しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。/32:20すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放つあなたたちは/なんと幸いなことか。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の霊」
旧約聖書イザヤ書32章15節以下に、共に心を傾けたいと思う。本日の箇所は、どのような歴史的背景を持っているのであろうか。イザヤ書32章15節以下はエルサレムの悲しみの後、霊がイスラエルの運命の転換をもたらすという希望が記されている。では、エルサレムの悲しみとはいかなることであったか。紀元前598年、バビロニアのネブカドネザル王によってエルサレムが占領されたという出来事が考えられる。また、この箇所は、黙示なのだという理解がある。黙示とは、終末における神の救いの到来が示されているということである。どちらが正しいのか難しいところだが私は、黙示文学として理解することがよいように思う。どちらにしてもイスラエルにおいて苦難があったということがこの箇所の背景にあると言えるであろう。
15節の「ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる」に、「高い」とある。「神」と言い換えることができるというのである。「天」とは、神が住む場所である。そして、神は天から霊を注がれるというのである。「霊」とは、いかなるものか。旧約聖書で、霊という言葉は「息」、「風」という意味もある。創世記の2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とある。神は、私たち人間に命の息を注いだ。そこで、私たちは生きるものとされたのである。つまり、霊は生命を与える神の力であると言えるであろう。霊は神の力だが、同時に神の意志でもある。神は何故、世界を創造し、私たちに命の息を注いだのであろうか。それは、愛する対象を求めたからである。神の働きには、神の意志がそこに現われるのである。神自身の意志を示してくださるという意味で、霊は預言の賜物ともいえるであろう。神は霊を通して預言者に言葉を預けるのである。霊は神の働きといえるであろう。エゼキエル書の36章26節に「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」とある。また、詩編51編12節には「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」とある。先ほど私は、霊とは私たちに命を与える力であると述べた。そこで、本日の箇所において、霊とは新たな歩みを始める力、働きと理解したいのである。神の「霊」が注がれると、「荒れ野は園となり/園は森と見なされる」。霊の注ぎにより繁栄をもたらし、荒野は果樹園になり、果実園は森となるのである。このように、霊は荒野から園として新たな歩みを始める力であると言えるであろう。神は、そのように導いてくださるのである。
16節の「そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう」において、「正義」と訳されている語は、「公平」と並んで、「勝利、救い」を暗示している。17節の「正義が造り出すものは平和であり」の「平和」には、戦争がないことと並んで、「豊富、健康、赦し」の意味が含まれている。18節の「わが民は…憂いなき休息の場所に住まう」の「休息の場所」という語は、約束の地を連想させる一連の思想とイメージに由来していている。約束の地とは、神がアブラハムに約束した土地である。出エジプトは、その約束の地へと歩む話と言ってよいであろう。また、次のようにも考えられるのではないだろうか。約束の地とは、神が約束された終末に訪れる神の救いである。新約聖書でいう神の国と言ってよいであろう。正義の結果、豊穣となる。そこは平和で、安らぎの場であるというのである。それは、神によって与えられた新たな生の可能性である。また、正義によって規定された人間の社会生活が自然の変貌を伴って実現するというのである。正義の結果、豊穣となる。つまり、森は茂り、実り豊かになるということ。そのことによって人間の歩みも平和になるのである。
しかし、19節では「森には雹が降る。町は大いに辱められる」と、一変している。ここで「雹」は大きな災害をもたらすものとして言われている。そのことは、現代の私たちもよく分かる。現代でも同様である。近年は、大雨が降り、時にはゴルフボールほどの雹が降る。雹は、作物などに被害を及ぼす。荒野から森になったにもかかわらず雹に襲われて滅びる。それには神の都に神に反する軍勢が襲いかかることが意味されているといってよいであろう。
ここで疑問がわく。私はこの箇所を黙示と受け取りたいと述べた。黙示は、苦難の後、神の救い、神の国の到来を示していると言えるであろう。神の国は、神の完全な支配の場である。それなら、雹は、すなわち神の国に襲い掛かる力、勢力があるのはおかしいのではないか。では、この箇所は黙示ではないのか。そこでは、17~18節で言われている神の救いが強調されるためであろうか。次のようには理解できないか。神の国の到来の途中、神に敵対する勢力が現れる。確かに、神の国の到来の前に人々を惑わすものが現れると黙示文学には記されている。
そして、最後の20節、「すべての水のほとり」とは、種が成長するのにふさわしい場所といえるであろう。その場で、種は豊かに実るのである。豊かに草木が実るから、そこに牛やろばを自由に放つことができる。「自由に放つ」ということで考えたいことがある。イエスの誕生の場面で、羊飼いは火を焚き、寝ずの番をしていた。それは、羊たちを奪う強盗、また、羊たちを食べようとする獣から羊たちを守るためであった。安全ではない。そこで、この箇所で牛やろばを自由に放つことができるというのは、それほど安全な場所であるということを示しているのではないかと思うのである。それは、「幸い」なことなのである。
本日のイザヤ書32章15節以下は、とても面白い内容であると思う。17節に「正義が作り出すのは平和」とある。では、平和とは何か。それは人間、動物、森などの自然が外部からの妨害のない生の営みを増進できるということである。また、正義が生み出すのは、安らかな信頼であるというのである。その信頼は、神と人間だけでなく、人間と人間、人間と動物、人間と自然との関係における信頼と言えるのではないだろうか。すべてのものが信頼することができる場である。このように、神は被造物のために安らかな救いという平和をお与えくださるということである。
ここで重要なのは、この平和をもたらしてくださるのは霊であるということである。悲しいことだが、人間には、そのような平和をもたらす力はない。真の救い、平和をもたらしてくださるのは霊である。つまり、神による働きということなのである。次のように言いかえることもできると思う。私たち人間は、不完全なものにしか過ぎないということである。完全なのは正義である神のみである。時に人間は、悪に捕らえられてしまうことがある。そこで、大切なことは、人間は不完全だからこそ謙虚になるべきだということではないだろうか。人間がこの世を支配しているのではないということである。そこで、重要だと思うのは、平和こそ人間だけではなく、森、つまり自然、動物など、この世にある全てのものと共に生きることと言えるであろう。雹が降って困難になるのは、自然だけではなく、人間も同じ困難にあうと言えるのではないだろうか。自然が困難になれば、町、つまり人間も辱められる。
本日の箇所において「正義が作り出すのは平和」であり、「荒野に公平が宿り園に正義が住まう」。そして、「馬やろばを自由に解き放つあなたたちは、なんと幸いか」と述べられているとおり、自然も動物も妨害もなく自由にいられることこそが幸い、つまり、平和なのである。神が創られたすべてのものに自由がある。もちろん、私たち人間にも自由がある。自分の自由を求めるように、相手の自由を尊重すべきである。つまり、自由であるからこそ自然も動物も隣人も共に生きるため、互いの自由、そして、互いの生を認め、尊重することが必要なのではないだろうか。自由であるからこそ仕えることができると言ってもいいであろう。
神こそ正義であり、正義をこの世に現わしてくださる。神は、平和を聖霊によってお与えくださるのである。私たちは神を信頼し、神がこの世に現わしてくださる平和を待ち望みたいと思う。また、そのため私たちは謙虚に、この世にあるものすべてのものの存在を尊重し、共に生きるものになりたいと思う。それが正義なのではないかと、私は思った。神は愛する対象を欲しこの世を作られた。私たちは神に愛されているものとし神の正義、愛に倣い歩むものであるということである。そして、神は新たなるものとしてくださる。私たちは霊によって新たなる者とされるという希望が、ここに示されているのである。神が霊を通して与えて下さる救い、平和を信じ、求めたいと思う。
祈祷 この世の造り主なる主なる神様 私たちは悪に捕らえられてしまうことがあります。それは人間がこの世を支配しているかのように思ってしまうことです。しかし、人間は不完全なものにしかすぎません。完全であるのは神、その独り子イエスのみです。神は不完全な人間、この世を愛し、お導きくださっています。その働きを霊と言います。神の霊は、この世を創り出す力です。同時に、困難のなかにあるとき、新たな始まりを与え、新たに歩む力をお与えくださいます。そして、霊の働きは正義であり、正義は平和を創り出します。その平和こそ、神が創られた全てのものが共に生きる場です。神は、そのようにお導きくださっています。どうか私たちを悪から引き離し、互いに信頼し合い、互いに仕え合い、すべてのものと共に生きることができますようお導きください。私たちは、神の霊によって導かれています。私たち一人ではなく、神が正義をもって正しくお導きくださる。ここに平和が訪れます。この希望を多くの人に告げ知らせることができますよう私たちをお用いください。梅雨が明け、暑い日が続きます。熱中症などが懸念されます。また、ウイルスによる感染症も流行っているようです。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守り下さい。病の中にあり治療を受けられている友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい命を宿られている方々、母子共に守り、良き出産のときをお与えください。自然災害で被災された方々を支え、復興へとお導きください。人と人とが争い、殺し合うことを神は求めていません。全てのものが信頼し、共に歩むことを神は求め、導いてくださっています。争いは人間の欲であると思います。どうか神の愛を心に置くことができますように。学校は夏休みに入りました。このとき安全に楽しく過ごすことができますようお導きください。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 54編 1~9節」
聖書朗読
54:01【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。/54:02ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】/54:03神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。/54:04神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。/54:05異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ/54:06見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。/54:07わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。/54:08主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。/54:09主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「魂を支える方」
詩編54編は、第二ダビデの詩集である。2節に「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」とある。これはサムエル記上の23章14節以下の物語を踏まえている。ダビデは神の導きにより、戦いに勝ち進んだ。人々は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」とダビデを称賛した。一方、王サウルはダビデに嫉妬し、怒り、ダビデを殺そうとした。サムエル記上の23章14節以下は、神がサウルからダビデを守るという出来事である。詩編54編5節の「命をねらっている」という言葉が、サムエル記上23章の表現に似ていたので結び付けたと考えられる。サウルから逃げているダビデが救いを願う祈りと理解したのであろう。しかし、詩編54編は、ダビデの救いの祈りの詩ではない。1~3節は、後から付け加えられたのである。
それでは詩編54編は、いかなる詩なのであろうか。この詩編は救いを求める個人の祈り、と言ってよいであろう。3節の「裁いて下さい」は、神の助けを期待して神の判決に身を委ねている。つまり3~4節は、救いを求め、祈りを聞いて欲しいと懇願している。というのは5節で敵の攻撃にさらされているからである。6節は、神に対する信頼を表している。7節では、敵の滅びを願う。8~9節は、救いの感謝を表すためささげものをし、讃美することを、神への約束として表現している。
さて、児童文学の「ゲド戦記」をご存じであろうか。本日の詩編を読み、『ゲド戦記Ⅰ「影との闘い」』を思い出した。私が読んだのは30年以上前なので、ほとんど忘れてしまっていた。しかし、最後の場面を思い出した。主人公ゲドは、ダニーという少年だったが、魔法使いの弟子になり、ゲドという真の名前を付けられた。先生の留守の時、ゲドが魔術書を読むと、暗黒の影の塊が現れた。ゲドはその影と闘うことになるという話である。最後、ゲドは影と名前を言い合う。それは同じ「ゲド」であり、勝ち負けはなく、ゲドと影はひとつになる。これは古代からある「名」に対する考えを用いている。古代から、相手の真の名を知られた者は自由を奪われ、思いのままにされてしまうと考えられていた。名前にその人自身、またその人の力があるという理解でよいと思う。そこで、勝つためゲドは影の名前を言った。このような古代の名に対する理解を児童文学で用いている。ちなみに、この『ゲド戦記Ⅰ「影との闘い」』は、ゲドの人間としての成長を物語っている。人間は良い面だけではなく、自分の悪い面をも自分のものとして受け入れることが大切である。光と影は、一つであるということであろう。そのことを受け入れた時、人は成長できるということだと思う。実は、聖書にこそ「名」に対する力が記されている。
聖書でも、名前はその所有者の本質的な特性をあらわしていると考えられている。そのことを前提にして、詩編54編を見る。3節に「神よ、御名によって私を救い力強い御業によって、私を裁いて下さい」とある。そして、8節には「主よ私は自ら進んでいけにえをささげ恵み深いあなたの御名に感謝しています」とある。3節では「御名によって」と「力強い御業によって」とが対に用いられている。ここで、名は地上における神の働きを意味し、働きに示される神の意志と力を一つにしている。対になっているのだから「御名によって」とは「力強い御業によって」ということであり、だから「私を救い」出してくださいと願うことできる。「神の名」に働き、力がある。それならば、私たちは神の名を用いてなんでも願い、適えることができるのであろうか。つまり、「神の名」を呪術的な力として用いていいのかということである。
旧約聖書には、神の名を出すのは畏ろしいことであるという理解がある。ヘブライ語では唯一の神を「ヤハウェ」という。アルファベットの4つの子音でYHWHと記される。ユダヤ教では、この四文字を神聖なものと理解し、発音してはならないものと考えられていた。そのため、聖書朗読の際、神聖四字は、「主」を意味する「アドナイ」という、代わりの呼び名を用いて置き換えられた。それほど神の名は偉大なのである。
また、預言者エレミヤは次のように述べている。「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない(エレミヤ書7章4節)」と。どう理解すべきであろうか。「主の神殿」、「ヤハウェの家、神殿」とも訳すことができる。エレミヤの時代、神殿に対して迷信的、呪術的に願っていた。そこでエレミヤは、自分の都合よく、むなしい言葉で神に願い、祈ってはいけないと警告したのである。神の名を唱えるときも同様である。祈り、神の名によって願う時、神との正しい信頼関係が必要なのである。なぜなら神の名は、神の働き、力そのものだからである。
次のように言えるであろう。「神の名を知っている者は、神、神の偉大さを知っている」と。一方、私たちから神を知ることはできない。正しく言えば、神が自らを人間に開き、示して下さったことによって、私たちは神を知ることができるのである。では、神はどのように神の名を私たちに示して下さったのか。イザヤ書42章8節にある「わたしは主、これがわたしの名」は、「わたしはヤハウェ、これがわたしの名前」と訳すことができる。神自ら示して下さらなければ、私たちは神の名、いや、神の偉大さも知ることはできないのである。
本日の箇所、詩編54編は、始めと終わりに神の「御名」という言葉が記されている。つまり、詩編54編には、神の「御名」への関心がある。54編は「あなたの御名によって私をお救い下さい(3節)」という祈りではじまり、締めくくりとなる讃美の約束は「あなたの御名に感謝します(8節)」である。また、9節には「主は苦難から常に救い出してくださいます」とある。この言葉は「主」ではなく「それ」が元の言葉であり、「それ」とは「御名」つまり、「神の名」であるという理解がよいであろう。まさしく最後の9節で、「神の御名」は苦難から常に救い出してくださるというのである。「神の御名」とは、神自身、神の力を指す。特に「主、ヤハウェ」という名は、民を救うために「共にいる」ことを指すのである。このように理解すると「神の名」によって祈ることは、畏れ多いことである。一方、大いなる恵みであるとも言えるであろう。神は「神の名」によって祈ることを私たちに許して下さっているのである。詩編54編は、「神の名」を唱えることにこそ救いがあり、希望があるということを教えてくれていると言ってよいのではなかろうか。
それは神の民であるユダヤ、イスラエルの民だけなのであろうか。そうではない。新約聖書のヨハネによる福音書に「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである(15章16節)」とある。イエスは、イエスの名を通して神に求めることを許して下さっているのである。イエスこそ神と同じ権能、力を持っておられる。イエスがイエスの名に通して神に祈ることを許して下さった。次のように言えるであろう。「人間としての苦難、喜びを知っているイエスが、私たちのために常に神に執り成してくださる」と。イエスはこの聖句で表明しているのである。そこには希望がある。イエスが私たちと神とを執り成して下さる。そのことによって、私たちの祈りは神に聞き入れられるのである。新約聖書は、イエスの名を通して私たちが神に祈ることができることを教えてくれている。いや、イエスは神に祈りなさいと、私たちを招いているのである。
詩編54編は、神の力であり、共にいてお導きくださる神の働きである御名によって祈ることができることを、私たちに教えていると言ってよいであろう。神の御名を用いて祈ることができることこそ恵みである。「神の名、イエスの名」を用いることを、神は私たちに許して下さった。私たちは神に信頼されていると言えるであろう。私たちは神、イエスの信頼に答えるべきではないか。祈りとは交わりでもある。神は神自身の力、働きである神の御名を私たちに教えて下さり、神との交わりに招いて下さっている。それこそが、私たちの魂を支えて下さる力である。私たちは、神の御名、イエスの御名によって祈りたいと思う。それは神の偉大な力、愛をいつも覚えるということなのである。
祈祷 独子イエスをこの世にお遣わしになり救いを示された愛なる神様 名前は、その方自身、また、その方の力を示します。特に、神の御名は、働き、共いてくださることが意味されています。私たちは神の御名を用いて祈ることが許されています。神は私たちに祈るように、つまり、神との交わりに招いてくださっている。詩編54編から、このことを知ることができます。また、イエスはご自分の名を通して神に執り成して下さると表明してくださいました。祈りは必ず神に届けられるという希望がここにあります。祈ることによって一人でなく、いつも神が共にいて下さり、支えられ、そして、前に歩む力が与えられます。どうか私たちが神の恵みを覚え、いついかなる時も神に顔を向け祈ることができますようにお導きください。暑い日々が続いてたと思っていたら、急に大雨となる。気候の変化が大きな時となっています。体調を維持するのが難しい時となっています。様々なウイルス等の病気が流行っているそうです。どうか、全ての人、特に歳を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にあり治療を受けられている友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい命を宿られている方々、母子共に守り、良き出産のときをお与えください。大雨で土砂崩れなど、自然災害で被災された方々を支え、復興へとお導きください。争いは悲しみ、憎しみという負の連鎖しか生み出しません。互いに受け容れ合い、愛し合うことによってよき連鎖が起こります。神は、人と人とが争うことを求め、天地を創造されたのではありません。どうか、この世に平安を来たらせてください。三連休の中日となっています。よきリフレッシュの時となりますように。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 5章 19~30節」
聖書朗読
05:19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 05:20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 05:21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 05:22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 05:23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 05:24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 05:25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。 05:26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 05:27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。 05:28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 05:29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 05:30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「永遠の命」
新約聖書ヨハネによる福音書5章19節以下に共に心を傾けたいと思う。19節に「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」とある。父である神の働きを子であるイエスは行うことできる。20節に「父は子を愛して、ご自分のなさることすべて子に示されるからである」とある。神は、イエスを愛し、自分の業を示した。すなわち神は、神の業をイエスが行うことできるようにしたといえるであろう。しかも神は「大きな業」をイエスに示したというのである。21節に、神もイエスも死者を復活させることができるということが書かれている。なぜなら26節に「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」とある。ヨハネによる福音書の1章1~3節には「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。…万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とある。言こそイエスである。イエスは神と共に天地を創造されたことが意味されている。つまり、神とイエスは同じ権能、同じ力を持っているのである。
22節に「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」とある。「裁き」という言葉から、私たちは終末の裁きを思いうかべるであろう。世の終わり、イエスが復活し、救われる者と救われない者とを裁く。神の国に入る者は救われる。この箇所でイエスは終末の裁きを述べているのであろうか。
本日の聖書箇所は、終末をとなえるユダヤ教の理解とキリスト教の理解とが異なると考える学者がいる。22節に「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」とある。25節には「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」とある。22節に、神は裁きを行わず、神の独子イエスが裁くとあり、25節ではその裁きとは今であるというのである。終末ではなく今、裁きを行うというのである。いろいろな理解があるが、ヨハネによる福音書では、終末の裁きという考えが薄いという理解がある。22節、25節のイエスの言葉から考えると、世の終わりは、終末の裁きはないとも読める。28節、29節と矛盾しているといえるが、28節、29節は後から付け加えられたと理解できる。先ほど述べたように、22節の、「神は裁きを行わない」、「独り子イエスに任せる」、「そのイエスの裁きは今」は、何を示しているのであろうか。イエスとの出会いが裁きとなっている。それはイエスを信じるか否かということである。私たちは、イエスと出会いどのような姿勢をとるべきなのかということである。ギリシャ語における裁きとは、否定的なことだけではなく、元来、正しく判断するという意味を持つ言葉であった。そのことから考えると、イエスの裁きとは、罰することだけではなく、正しく判断すること、判断に伴い救いへと導いてくださることであるとも言えるであろう。
では、イエスの救いとは何であろうか。24節に「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」とある。私たちは永遠の命を得ることができるとイエスはいうのである。ここで永遠について考えたい。「永遠」、簡単に言うと、終わりがないことといえるであろう。では、神が永遠であるとはいかなることなのか。古代教父アウグスティヌスは著書『告白』のなかで次のように記している。「あなたの年は恒常不変であるから、全てが同時に存在している」と。また、「神のよわいは今日という日である」と。時間、年という単位は、人間が考え出したものにしかすぎない。神は、時間、歴史の流れに拘束されていない。それを超越している。アウグスティヌスが記しているように、神はこの世の時間の上に存在しているので、どのような時代にも同時に存在している。大学生の頃、神について先生の説明に納得したことがある。時間の始まりと終り、この世の歴史が一本線であるとする。始まりの時があって、終りの時がある。では、この中で神は何処に位置するのか。神は、人間の歴史を囲んでいると考えられるという。だから、どの時代にも神は介入できる。どの時代にもいる。それが神の永遠であるという理解である。神は、時の流れの上に存在している。
そこで、神の独子イエスも永遠なのか。イエスは神と共にこの世を創ったのだから、神と同じ権能、力を持っておられる。つまり、イエスも永遠であると言えるであろう。では、イエスは自分のことを何と述べているのか。27節に「裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」とある。イエスはご自身のことを「人の子」と呼んでいた。では、「人の子」とはいかなる意味なのか。私は、ヨハネの「人の子」について述べるのを避けてきた。というのはまだ、私の中でしっかり理解できていないからである。「人の子」は旧約聖書のダニエル書に出てくる。黙示文学において「人の子」は、人間を超越した領域を働き場とし、悪しき者を裁く宇宙的な裁き主として描かれている。ヨハネによる福音書でも、そのような面がある。しかし、それにとどまらないといえる。「人の子」について、「全時的人の子」と述べている学者がいる。この言葉自体、私は理解できていない。次のように記されていた。「むしろあの全時的人格としてのイエス・キリストの「今」、それゆえに過去,現在,未来のあらゆる時を内包した「全時的今」なのです」と。「全時的」とは、文字通り過去、現在、未来すべての時のことを示していると思う。すなわち、イエスの内にすべての時間、過去、現在、未来がある。先ほど、大学生の時の説明と似ているのではないかと思う。つまり、イエスは時間、この世すべてを包んでいるということである。イエス自身が永遠である。永遠であるイエスが、2000年前に人の姿をとって介入なさった。なんだか難しい話である。この世を創造した神は、この創造のすべてを包んでおられるといってもよいであろう。
一方、「「人の子」という単語そのものに特別な意味があるというのではなく、単に「一人の人である私」というだけの意味であって、「ただ、ヨハネによる福音書のイエスは、自分自身のことを述べる時に「人の子」を主語とする言い方を好むということなのである」と記している学者もいる。一方、私は、「人の子」について、イエスとはイエスという唯一の存在であると理解したいのである。つまり、「人の子」とは、福音書に記されている通り人間であり、超越者であり、私たち人間には想像もできない力、愛によって救ってくださる方である。だからこそ歴史を包んでいる方が、この歴史に介入して下さる。これが今、私が理解する「人の子」である。
そこで、25節を見ると「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」とある。「死」とは神、イエスから離れることを意味していると理解したい。逆に、「死」ではなく「命」とは何か。「命」とは神、イエスと正しい関係にあることを意味していると理解する。神、イエスと正しい関係にあることによって、私たちは今、永遠である神、イエスと交わりを持つことができる。つまり、私たちは今、永遠に属しているのである。それは、何か。私たちは、今すでにイエスと、神と正しい関係を持つことによって生かされているということ、愛されているということである。
一方、イエスは2000年前に歴史に介入したのであり、現代の私たちはイエスの愛、導きを直接受けているわけではないと思うかもしれない。しかし、そうではない。ヨハネによる福音書は、紀元90年代に記されたと考えられている。イエスが活動したのは、紀元30年ごろである。その差60年。しかし、この著者、または、この福音書を読んでいた人々は、イエスの出来事が決して60年前の出来事ではなく、いま自分たちにも現れていると理解していたのである。イエスの出来事と自分たちを重ねていた。つまり、イエスは、永遠なる神と等しい方として、いつ、どのような時代、時間にも救いの御業を示されるということである。永遠なる方イエスは、今から2000年前に誕生し、十字架に掛けられただけではなく、今もなお、私たちに対して働きかけてくださっている、共に歩んでくださっているのである。先ほどのアウグスティヌスの神の説明は、時間を超越し、どの時代にも共にいてくださるというものであった。つまり、今ここに神、イエスは私たちに救いの御手を差し伸べてくださっているということなのである。その働きを聖霊という。永遠とは、超越、歴史を包んでいると私は理解している。そこで、いついかなる時も神、イエスは聖霊という働きでこの世に介入してくださるのである。今もなお、私たちは永遠である神、イエスによって見守られているということである。
神と等しい方、永遠なるイエスは2000年前に目に見える姿で現れ、永遠に属すよう私たちを招いてくださっている。今も聖霊によってその業が行われている。今もイエスは私たちに働きかけてくださっているのである。
永遠が、今日この時に現れている。つまり、私たちは今日というこの時に、イエスによって永遠の命という救いに招かれている。イエスの裁きとは、罰することではなく救いへと至らせる判断である。神、イエスは歴史を超越し、いつでも、どこにいて私たちに聖霊を通して導き、また、時に共に泣き、共に喜び、共に歩んでくださっているのである。それは神、イエスが永遠だからである。私たちはこのそとを信じたいと思う。それこそが希望となるのである。
祈祷 この世の創り主なる神様 御子は、神の愛をこの世に示すために2000年前に遣わされました。イエスは神の独子であり、神と同じ権能を持っておられます。その方が人間の姿をとってこられました。ここに愛があります。それは私たちと共に喜び、泣き、共に歩み、そして、救いへとお導きくださるためです。一方、イエスは神と同じ権能を持っておられる。それは永遠であるということです。神、イエスは時間、この世を超越され、歴史を内に持っておられます。そこで、今、聖霊を通して私たちに働きかけ、救いへとお導きくださっています。その働きこそ神の独子イエスによってしかなすことはできません。きっとそのことをイエスは「人の子」と表現していると私は理解します。「人の子」イエスにこそ救いがあります。どうかイエスが示し、導いてくださっている救いを信じ、希望をもって日々歩ませてください。そして、その喜びを多くの人と分かち合うことができますように。梅雨は明けていませんが、暑さ厳しい日が続いています。また、大雨も降りっています。自然災害で被災された方々をお守りください。特に、能登半島地震から半年が過ぎていますが、復興が進んでいません。どうか私たちも能登の方々を覚えたいと思います。そして、復興のために私たちをお用いください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友、手術を受けられる友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい命を宿られている方々、母子共に守り、良き出産のときをお与えください。争いは欲でしかないと思います。どうか指導者が最も弱い民の立場に立ち、導くことができますように。和解へとお導きください。そして、子どもたちに希望ある将来を与えることができますように。今月誕生日を迎える方々の上に主の豊かな祝福がありますように。天に召された方のことを覚えます。どうか天において主の平安がありますように。地において悲しみの中にあるご家族をお慰めください。この礼拝を通して先の一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 25章 1~12節」
聖書朗読
25:01主よ、あなたはわたしの神わたしはあなたをあがめ/御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された/遠い昔からの揺るぎない真実をもって。/25:02あなたは都を石塚とし/城壁のある町を瓦礫の山とし/異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう。/25:03それゆえ、強い民もあなたを敬い/暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。/25:04まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨/25:05乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。/25:06万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。/25:07主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/25:08死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。/25:09その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。/25:10主の御手はこの山の上にとどまる。モアブは主の下に踏みにじられる/わらが踏みつけられて堆肥の山にされるように。/25:11モアブはそこで手を広げる/泳ぐ人が泳ごうとして手を広げるように。しかし、巧みな手の業を重ねても/主はその誇りを打ち倒される。/25:12主はお前の城壁の砦と塔を砕き/打ち倒して地の塵に伏させる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「弱い者の砦」
本日の聖書箇所、旧約聖書イザヤ書25章1節以下に心を傾けたい。1~5節は、預言者的感謝の歌である。それは信頼に満ちた告白といえるであろう。そこで1節を見ると、まず、神への感謝を捧げている。そして後半「あなたは驚くべき計画を成就された」とある。この「驚くべき計画」とは何か。旧約聖書で起きた出来事から考えると、奴隷だったイスラエルの民が解放され、神の約束の地が与えられた出エジプトの出来事であろうか。また、神から契約という恵みが与えられた出来事であろうか。アブラハムと神との契約など、その契約のゆえに、神はアブラハムの子孫であるイスラエルの民を導いたのである。そして、もう一つ、終末、世の終わりに神の国が到来するという未来の出来事を指しているということがあげられる。
正直言って、どれが正しいのか分からない。今回私は、終末、神の国の到来と受け取りたい。神の国とは、神の完全な支配といえるであろう。神は愛であるから、愛に満ちた所といって良いと思う。その驚くべき救いの計画が行われるということである。2節には、神を信じない異邦の民、その都、その行政の中心である宮廷は神によって滅ぼされ、がれきの山となり、再び建てられることはないとあることから、3節では強い民も神を敬い、どんなに荒ぶる国の人々も神を畏れるというのである。4節にある「弱い者」とは、神を信じる民のことを指していると考えられる。次のように言えるのかもしれない。神は強い民の神になるのではなく、弱いからこそ、その民の神となるのである。だから神は弱い者、苦難に会う者の砦となり、守ってくださる。また、どんなひどい豪雨であっても神は壁となり豪雨をはね返して下さる。つまり、神の守りがあるということである。5節に、神は暑さから守ってくださり、異邦の騒ぎをも静めてくださるとある。紀元前587年、南ユダ、神の民は、バビロニアよって滅ぼされた。それ以降、異国の民の支配下で、神を信じる民が苦難を受けていたことが、この箇所の背後にあるとも考えられる。神を信じる民の具体的な苦難を思い起こさせながら、苦難のなか神が共にいて下さり、そして、救いへとお導きくださるということが、ここに示されているといえるであろう。
そして、6節~10節前半、「この山」とは、シオン、つまり神殿のあるエルサレムを意味している。エルサレムでの祝宴において、神は、最もおいしい脂身とぶどう酒をもって、全ての者をもてなすという情景がこの箇所に描かれている。ここで特に見たいことは、祝宴に招かれるのが神の民イスラエルだけではなく、全ての民であるということである。そして、シオン、エルサレムに招かれるとは、巡礼を意味すると考えられる。巡礼とは聖地、聖なる場所に行くことである。巡礼、つまり聖なる地に行き聖なる方、神を讃美すると言えるであろう。エルサレムは神殿があり、神のおられる場と考えられていた。祝宴が巡礼であるということは、神を賛美するということ、全ての民が神との交わりに入るということが意味されている。すなわち、全ての民が神に受け入れられているということである。7節にあるように、「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼ」すというのである。ここにある「包んでいた布、あるいは、覆っていた布」とは、いかなることなのか。4節に「暑さを避ける」とある。暑さから守るため覆う布だったのか。5節から考えると、神の裁きから守るための布であったか。私は次のように受け取りたい。それは視界を遮る布であると。どのような意味かというと、真の神を見ることができないように覆われていた布であった。つまり、異邦人はこのように目がさえぎられていたので、真の神を見ることができなかった。しかし、今はすべての民が真の神を見ることができるようになる。それは本当に見るということではなく、神の前にあって神を信じることができるようになるということと私は理解する。
そして、8節に「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる」とある。同じような聖句を聞いたことがあるだろう。まず、「恥」という言葉について考えたい。聖書で「恥」は、神の恵みからはずれた状態などが考えられる。ここでは、先ほど述べた紀元前587年、南ユダがバビロニアに滅亡されたことだと考えられる。では、負けたことが恥なのか。異邦人に支配され、また、首都バビロンに連れて行かれ、よそ者として生きなければならなかった。それだけでなく異邦の地、異邦人による支配の中で、真の神を讃美できない状況にあった。そのような神の恵みの下にいられない状態を「恥」と考えたのではないかったか。主なる神は、そのような悲しみの顔から涙をぬぐい、自分の民の恥をぬぐってくださる。つまり、神はバビロニアの支配から解放してくださる。そして、シオン、神殿のあるエルサレムに、すべての民を招き祝宴を開く。8節最初の「永久に」と訳された旧約聖書の言語ヘブライ語は、アラム語とシリア語では「勝利」を意味している。つまり、アラム語、シリア語の場合、「死は勝利に飲み込まれる」という意味になる。イエスはアラム語を話していた。「死は勝利に飲み込まれる」とは、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)15章55節の括弧「死は勝利にのみ込まれた」と同じであるといって良いであろう。つまり、コリントの信徒への手紙(一)は、イザヤ書25章8節からの引用なのである。では、コリントの信徒への手紙(一)は、どのようなことを示しているのか。神の国が到来した時、死んだ者は復活し、永遠の命に与ることができる。つまり、死ということがなくなる。死が勝利に飲み込まれるとは、神の国の完成を示しているのである。
8節に「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい」とある。神は、覆いを取り去られた顔に、まだ涙が残っているのであれば、それをことごとく拭ってくださり、エルサレムで支配に就くための祝宴に参集した人々の心の痛みを和らげてくださるのである。そのことは何を意味しているのか。先ほど述べたように神は、神の祝宴にすべての人を招いてくださる。祝宴は巡礼を意味し、神への讃美、つまり神との交わりである。8節においても、神が涙を拭い去ってくださるのだから、神との交わりと言えるであろう。「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい」は、ヨハネの黙示録21章4節で引用されている。ヨハネの黙示録は、ローマによる迫害の中にあったとき、神の国の到来する時には神の完全な救いが訪れるからと、そのときに神を信じる者は神の国に入ることができ、永遠の命に与るといって、迫害されているキリスト者を励ました。そして、それは、8節最初「死を永久に滅ぼしてくださる」という出来事になるというのである。死を滅ぼしてくださる。つまり、神の被造物は死から免れる。その出来事こそ、神の国の到来なのである。神は愛なる方である。神の国が神の完全な支配の場であるなら、神の国は愛に満ちている。そこは神の愛に満ち、神との交わり、そして、平和な場である。神の平和に与る喜びと言えるであろう。だからこそ、9節「見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍」るとなるのだと思う。
私は最初、この箇所は終末、神の国の到来を示しているのではないかと述べた。それは、救いの預言といえるであろう。この箇所は、私たちに多くのことを教えてくれていると思う。聖書、ユダヤ教、キリスト教のイメージには、選民思想がある。ユダヤ教は、神の民であるユダヤ人、イスラエル人のみが救われると教えている。また、キリスト教においても信じる者は救われる。その意味では、選民、選ばれた民のみが救われるという理解になる。確かに8節に「ご自分の民の恥を地上から拭い去ってくださる」とあるように、神は神の民が神の恵みを与えられないという苦難から救って下さると記されている。それはバビロン捕囚からの解放を意味していると述べた。しかし、7節には全ての民を神の祝宴に招いてくださるとも書かれている。私は次のように理解する。神は選んだ民のみを救う方ではない。神は、神の恵みを求める者を拒むことはなく、十分にお与えくださるということである。逆に、神の恵みを人々からさえぎるものを、ことごとく拭い去ってくださるのである。また、4節においては、神は弱い者の砦であると、つまり、神は、弱い者こそを救って下さるという。神は、全ての者の神であり、弱い者こそを助け、そして全ての民を愛してくださるということがここに示されているのではないだろうか。バビロニアに負け、多くの人がバビロンに連れていかれた。そのような希望のない時、神は共にいて救いへと導いてくださった。それだけではなく、真の神を知らない人々、弱い人々をも招くのである。そのことを、この世に示してくださった方、実現してくださった方こそ神の独子イエスである。イエスは、ヨハネによる福音書3章16節で次のように述べている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私は本日の箇所からイエスの救いを見出すことができると思った。神の愛の業をこの世において行ってくださった方こそ、イエスである。つまり、神は、自分の偉大な計画を成し遂げてくださるのである。それこそ、全ての人を救って下さるということである。本日の箇所こそ、すべての民を招くという神の愛が示されていると言えるのではないだろうか。私たちは、この神の愛のもとで生かされているのである。そこに神の私たちに対する支え、励ましがある。私たちは神の愛を確信し、希望と喜びをもって日々歩みたいと思う。
祈祷 愛なる神様 私たちは弱い者です。あなたは弱い私たちの砦となり、苦難のとき守りお導きくださいます。しかも、あなたはアブラハムと契約を交わし、イスラエルの神となられましたが、それは神の計画の一部であり、神は独子イエスを通し全ての者を招き、全ての者の神としてお導きくださっています。その導きは、神の御計画によります。しかも、完全なる救いである終末における神の国に、私たちをお招きくださいます。あなたに愛され、守られ、導かれていることを、私たちが確信することができますように。そして、この希望、喜びを多くの人と分かち合うことができますよう、私たちを強め、お用いください。梅雨になり大雨となっています。被災された方々を支えてください。また、今週は暑くなる予報です。寒暖の差が大きく体調の崩しやすい時となっています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友、手術を受けられる友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しいあゆみの準備の中にある友の上に主の導きがありますように。命は尊いものです。それを奪うことは神の意志ではありません。また、争いは自然をも破壊します。神は、人間同士が愛し合い、また、人間にこの世界を守るように責任を与えました。私たちは神の愛を思い、人に対し、この世に対し責任を持つべきです。争いは、その反対の行為だと思います。どうか、神の愛に倣い歩むことができますように。本日、午後、茨城地区祈祷会が石岡教会で行われます。茨城地区にある諸教会・伝道所の課題を共に担う良き祈りの時となりますようお導きください。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間、明日から始まる新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 126編 1~6節」
聖書朗読
126:01【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。 126:02そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 126:03主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。 126:04主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。 126:05涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 126:06種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「喜んで家に帰る」
6月17日~18日に行われた東日本同信伝道会の一泊研修会に参加できたことを皆さんに感謝したい。その研修会で私は、喜びをもって家に帰ってきた。まず、約10年ぶりに、先輩後輩たちに会えた。また、講演会によって勇気づけられた。そして、講演を聞き、本日の聖書の箇所とつながると思った。実は今回、参加人数が少ないから参加しないかと先輩から連絡があり、はじめてその研修会があることを知った。私のところに案内が届いていなかったのである。そのようなことから、内容をあまり知らずに参加した。たまたまであるが、本日の詩編126編と講演会で私が受け取ったことがつながった。それで私は、本日の説教ができると確信し、喜んで家に帰ってきた。神のなさることは不思議である。様々なことで、弱い私を助けてくださる。
研修会では、カトリック宇部教会司祭の片柳弘史先生が主題公演でお話しくださった。片柳先生は、マザー・テレサのもとに行き、司祭になることを勧められ、司祭になった方である。多くの本を出されている。先生のお話しをお聞きすることができてほんとうに良かった。講演会の主題は「道は必ず開かれる~カトリック教会の現状と展望~」だった。今回の研修会の全体的な内容は、二日目の主題「教会の危機と展望」にあった。少子高齢化による教会員数の減少に加え、新型コロナウイルスによって危機がより深刻になっていったことに対して、どのように歩もうかということである。実は、そのとは、プロテスタント教会に限った危機ではなく、カトリック教会も同様であるというのである。そこで片柳先生が、その危機に対しての現状と展望をお話しくださったのである。片柳先生は、講演の中で一冊の雑誌を見せてくださった。その雑誌「週刊東洋経済」は、ちょうど一年前に出版されたものであった。「宗教消滅危機」という特集が組まれていた。キリスト教界だけでなく、仏教など日本にある宗教が危機的な状況であるというのである。その雑誌の記事で、檀家さんの減少により一人の住職がいくつものお寺を兼務するということが、しかも、お寺の維持、管理に費用が掛かり大変であるということ。また、小さいお寺は大きなお寺に飲み込まれていく現状。そして、葬儀のあり方、お墓のあり方の変化により、ビジネス的にも成り立たなくなっていること。・・・などなど、様々な点からの宗教の危機が記されていた。そのような状況において、片柳先生が現在行っていることをお話ししてくださった。この講演会で重要であると思ったのは、マザー・テレサの言葉だと私は受け取った。一つは、マザー・テレサの遺言とあり「あなたたちの中に、まだイエスと本当に出会っていない人がいるのではないかと心配です。一対一で、あなたとイエスだけでということです。わたしたちは聖堂で時を過ごしていますが、あなたたちは、イエスが愛をこめてあなたたちを見ているのを自分の魂の目でことがありますか。あなたたちは、本当に生きているキリストを知っていますか。本によってではなく、心の中でイエスと共にとどまることによって。あなたたちは、イエスが語りかける愛情のこもった言葉を聞いたことがありますか」である。もう一つ「イエスを愛する喜びを、いつも心に持っていなさい。そして、その喜びを出会う全ての人と分かち合いなさい」である。今回、私が思ったのは、危機であると不安になるのではなく、イエスとの出会いを喜ぶということ、そして、この喜びをもって一日一日を歩もうということ、イエスの恵みを述べ伝えることだと受け取った。もちろん、マザー・テレサのようには、困っている人を助けることはできないかもしれない。しかし、ただ神を信じ、イエスとの出会いを喜び歩む、イエスは私たちをありのまま受け入れてくださるという恵みを、お与えくださったからである。私は、イエスとの出会い、その恵みを喜び分かち合うということを改めて思う時を持つことができた。危機的状況においてこそ、イエスに出会えた喜びを覚えるべきである。そして、その恵みを語ることによって、きっと神がよい方向へとお導きくださると思ったのである。
私は、楽観的なのであろうか。実際、私自身も前向きにとらえ過ぎていると思う。では、聖書にはどのように記されているのか。そこで、本日の箇所、旧約聖書詩編126編に心を傾けたいと思う。1節に「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった」とある。「捕われ人を連れ帰られる」を「運命を転ぜられたとき」と訳している聖書がある。どちらにしても、ここでは紀元前538年、バビロン捕囚からの解放を意味しているのではないかと考えられている。南ユダはバビロニアに負け、多くの人が首都バビロンに連れていかれた。それから約50年後、バビロニアは、ペルシャに負け、そのことによって、バビロンに連れていかれたイスラエルの民は解放された。古代人は「夢」を神のお告げと受け取った。神のお告げであるから、必ず実現するということを、その解放の夢を見ている人のようになったというのである。
2節と3節は、同じ内容であると言えよう。神が苦難から救って下さる。そこでは「神が、大きな業を成し遂げられた」と、喜びの歌が国々に満ちるであろうというのである。私は解放の喜びの歌こそ、神への讃美であると理解したい。そして、4節では再び、1節のように神に助けを求める祈願、すなわち、祈りの叫びが置かれている。「捕らわれ人を連れて帰ってください」という言葉を「運命を転じてください」と訳している聖書がある。
では、なぜ二回、同じようなことを祈願したのか。私は次のように理解したい。先ほども述べたように、南ユダはバビロニアによって負け、多くの人がバビロンに連れていかれた。それをバビロン捕囚という。しかし、約50年後、バビロニアはペルシャに負け、イスラエルの民は解放された。そして、エルサレムに帰った人々は神殿を再建した。しかし、エルサレムは荒れ果てていたので、簡単に神殿を再建できなかった。エルサレム神殿再建には25年もの年月がかかった。すなわち解放されたと思っても、また苦難があった。この一連の出来事を1節と4節が示していると私は理解したい。だから、4節は、「捕らわれ人を連れて帰ってください」というより、「運命を転じてください」という言葉の方がよいように思う。つまり、思いもしない大転換が神によって起こるということが、ここでは示されているのである。
そして、5節に「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる」とある。「涙」は、苦難、苦しみを意味する。苦難の中でも種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。旧聖書において「種蒔き」と「刈り入れ」は、人生における因果応報を説明するための比喩になっていることが多くある。例えばヨブ記の4章8節「わたしの見てきたところでは/災いを耕し、労苦を蒔く者が/災いと労苦を収穫することになっている」である。災いを蒔く者は、苦難を受けることになると言う。ヨブは正しい人であったにもかかわらず苦難に陥った。そこで、ヨブの友であるエリファズは、ヨブを諭そうとして語った。ヨブが悪いことをしたからと、災難の原因を暗示しようとした。そして、神に赦しを請うべきだと。箴言11章18節には「慈善を蒔く人の収穫は真実」とありまた、箴言22章8節には「悪を蒔く者は災いを刈り入れる」とあることなどがあげられる。では、本日の詩編も因果応報が述べられているのであろうか。そうではない。詩編126編は、神が苦難から転換してくださるということが言われている。それは因果応報ではなく、ただ神がそのようにお導きくださるということである。6節に「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる」とある。泣きながら出て行った人は、喜びのうたを歌いながら帰ってくるのである。そこで重要なのは「泣きながら」ということである。イザヤ書25章8節「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい」とある。その言葉は、新約聖書の最後ヨハネの黙示録21章4節にも引用されている。私たちには涙をぬぐってくださる方がいるということである。つまり、苦難は苦難で終わることはない。苦難の中に共にいて救って下さる方がいるということである。イエスは述べている。ヨハネ福音書16章20節で「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。イエス自身が、涙の中で種を蒔き続けたのである。イエスは、種まきのたとえを述べておられる。
本日の詩編126編は、古代から神を信じる者たちに、励ましと慰めを与えてつづけてきた。つまり、どんな苦難においても、必ず神による大転換が起こるという、希望がここに記されているのである。私たちは苦難において、必ず神を、神の独子イエスが共にいてくださることを信じたいと思う。神、イエスは、涙をことごとく拭い去ってくださる。どんな苦難、危機的な状況においても、神は、イエスは、大転換、救いへとお導きくださるということである。私たちは神、イエスの導きを信じ、喜びをもって日々歩みたいと思う。そして、神、イエスに出会った喜びを多くの人と分かち合いたいと思う。
祈祷 恵み深い主なる神様 私たちは危機、苦難において希望をなくしてしまいます。時には、神なんていない。どうして自分ばかりが苦難にあうのかと嘆くこともあります。また、私が悪いことをしたから苦難にあうのだとも考えてしまいます。しかし、苦難の中にこそ神、イエスは共にいてお支えくださっている。いや、それだけではなく、その状況を転換してくださいます。つまり、苦難を救いへとしてくださいます。私たちはこのことを信じ、イエスが私たちといつも共にいて涙をぬぐってくださること、苦難から転換してくださることを確信したいと思います。そして、この喜びを多くの人と分かち合いたいと思います。来週には梅雨に入ると予報されています。体調の崩しやすい時です。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちをお守りください。これから大雨の季節となります。災害も懸念されます。どうかお守りください。また、自然災害などで被災された方々をお支えください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友などのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しいあゆみの準備の中にある友の上に主の導きがありますように。争いは人間の欲でしかないと思います。人と人とが殺し合うことを神は求められません。神を愛し、隣人を愛することこそ人間の歩みの基です。どうか互いの違いを受け入れ、全ての人が手を結ぶ世としてください。本日午後3時より下館教会牧師就任式があります。下館教会、付属こども園、両者に集う方々、就任される先生たちの上に主の祝福がありますように。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の歩みの心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 3章 1~8節」
聖書朗読
03:01ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。 03:02すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。 03:03彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。 03:04ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 03:05その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、 03:06ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 03:07そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 03:08躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「最も重要な掟」
私の家族は、私が1歳位まで、祖父・祖母の家に住んでいた。祖父はやんちゃな人で、祖母は大変苦労したようである。その祖父は、毎日赤ちゃんの私をおんぶし、私の兄と手をつなぎ、散歩に出かけた。また、赤ちゃんの私をお風呂に入れるのはいつも祖父だったそうである。父は、それを祖父が誰にも譲らなかったと言っていた。私の祖父は、今から16年前、93歳で天に召された。父から、祖父が死にそうなので会いたいならすぐに来なさいと電話があった。私は、生後5ケ月の長女を連れて群馬の病院に行った。長女にとっては、初めての遠出だった。覚悟を決めICUに入ると、祖父は「おう、秀樹」と私にいった。私は「元気じゃないか」と思った。祖父は、ひ孫である長女を見ると、抱っこしたいといった。それはできないと言い、長女を祖父のベッドに寝かせ、一緒に写真を撮った。祖父は満面の笑顔だった。翌日、祖父は一般病棟に移った。しかし、その翌日、天に召された。長女は、初ひ孫ではなかったが、まるで長女に会うために、その時まで頑張ってくれたかのようだった。私は、祖父からお小遣いをもらうことはほとんどなかったが、祖父から一番大切なものをもらったと思っている。
さて本日の聖書箇所、使徒言行録3章1節以下は、イエスが天に上げられた後の話である。イエスの弟子たちは、神さまから力を与えられて、イエスのことを述べ伝える新しい歩みをはじめるようになった。
イエスの弟子ペトロとヨハネが祈るために、エルサレム神殿に行った。神殿の「美しい門」に、生まれた時から足の不自由な人が運ばれてきた。足が不自由なのは、その人が悪いことをしたからでも、親が悪いことをしたからでもない。それは誰かが悪いということはない。しかし聖書の時代には、足の不自由な人には仕事がなかった。仕事ができないので、お金を持っていない。そこで、神殿に運んでもらい、神殿に来る人たちに施しを求めた。神殿に来る人は、神さまを信じている人であったから、困っている人を助けることは神様が喜ぶことで、良いことだと教えられていた。お金を稼げたことも神さまの恵みであると考え、神さまが与えてくださった恵みを困っている人に分けることはよいことだと考えていた。だから、足の不自由な人は、神殿の門に座り、来る人に施しを求めていたのである。
さて、そこにペトロとヨハネが来やってきた。足の不自由なその人は、ペトロとヨハネを見ると、施しを求めた。ペトロは「わたしを見なさい」と言った。足の不自由な人は、何かもらえるだろうと期待したであろう。そこでペトロは「わたしには金や銀はないが」と語った。そのとき、足の不自由な人は残念に思ったかもしれない。お金を持っていないとペトロが言ったからである。当時のキリスト教では、みんなのお金などをすべて一つに集め、そのお金でみんなの食べる食事など必要なものを買っていた。つまり、個人でお金を持っていることはなかったのである。しかし、ペトロは「持っているものをあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ちあがり、歩きなさい」と言った。イエスの名とは、イエスの力といってよいであろう。そして、ペトロは足の不自由な人の手を握り、立ち上がらせた。
足の不自由な人は、40歳ほどだった。つまり、生まれてから40年もの間、自分の足で立ち、歩いたことがなかった。しかしそのとき、立ちあがり、踊り、歩くことができた。それは、思いもしないことだったであろう。その人は、歩く事をあきらめていたと思う。その人は、お金より素晴らしいものをもらった。
ペトロは「わたしの持っているものをあげよう」と言った。ペトロは一部ではなく、持っているものをおしみなくあげたのである。では、ペトロが持っていたものとはなんであったか。それは、イエスに守られ、愛されていたということである。ペトロはイエスと出会い、イエスに、そして神さまに愛されていることを知った。そして、イエスに従うという新しい人生が与えられたのである。今、ペトロはイエスの愛を、足の不自由な人に分け与えた。そうすると、足の不自由な人は今までとは違う、新しい人生を始めることができた。それは足が治ったということだけでなく、イエスが共にいて、守り支えてくださるということ、私たちを愛してくださるイエスとの出会いであった。
イエスは、目の前に困っている人がいると、その人に話しかけ、病気を治し、友だちになった。それはイエスの愛、優しさである。弟子のペトロは、愛をいっぱいイエスからもらった。だからペトロは、目の前で困っている足の不自由な人に、イエスの愛を分けた。
愛、優しさはお金で買うことはできない。しかし、私たちの心には、すでに愛、優しさがある。それはイエスによって与えられている。イエスがみなを愛しているからである。みなの心には愛、優しさがある。だから、愛、優しさを多くの人と分かちあいたいと思う。それは、分かち合うほど大きくなるのである。
祈祷
神さま 本日は、子どもと大人が一緒に礼拝をまもる「子どもの日・花の日礼拝」です。本日、みなで礼拝を守れることを感謝いたします。イエスさまは私たちを愛してくださいました。そのことによって、私たちの心にも愛、優しさがあると信じます。愛は分かち合うほど、大きくなります。どうか、私たちがイエスさまの愛、優しさを他の人と分かち合うことができますよう、お導きください。これから夏本番になります。既に暑さが日に日に増しています。体調の崩しやすい時です。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友などのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。また、大雨も懸念されます。世界でも自然災害が起こっています。被害が出ないようお守りください。被災された方々をお支えください。争いにおいて被害に会うのは弱者、特に子どもたちです。どうか子どもたちをお守りください。全ての子供たちに素晴らしい未来を与えることが大人、特に指導者の責任だと思います。どうか手を結びあう平和な世としてください。本日は、礼拝後にミニバザーが行われます。楽しい時になりますように。一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン
幼児祝福のお祈りをします。サムエル記上1:27~28ハンナはいいました。「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。祈り命を与えてくださる神よあなたは、この幼な子を、かけがえない宝として、この世界に送り出してくださいました。尊い幼児の誕生を心から感謝いたします。主なる神よ、この幼ない子(ひろむくん)の生涯を、御手の内において下さい。そして、いついかなる時にも、あなたの祝福で満たしてくださいますように。恵み深い神よ、あなたはこの父母(家族)に、この幼な子をおゆだねになりました。どうか、その養育に関わる者たちが、命の息吹を吹き込んで下さったあなたへの畏れをもって、この幼な子を育てることができますように。また、あなたが必要なものすべてをお与えくださり、この子が神からも人からも愛され、神にも人にも仕える者となりますように。この幼な子がこの子らしく生涯を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 5章 19~30節」 05:19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 05:20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 05:21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 05:22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 05:23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 05:24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 05:25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。 05:26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 05:27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。 05:28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 05:29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 05:30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
礼拝メッセージ:飯岡 洋介 牧師「最も重要な掟」
(要旨の掲載はありません)
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 3章 1~15節」
聖書朗読
03:01さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 03:02ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 03:03イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 03:04ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 03:05イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 03:06肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 03:07『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 03:08風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 03:09するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 03:10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 03:11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 03:12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 03:13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 03:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 03:15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「新たに生まれる」 本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書3章1節以下に、共に心を傾けたいと思う。ユダヤの議員であったニコデモが夜、イエスのもとに来た。「議員」とは、直訳は「指導者」である。当時のユダヤの最高法院の「議員」あるいは、指導的地位にいたラビとも取れる。つまり、ユダヤにおいて地位のあった人と言えよう。ここでは、ニコデモが「夜に来た」ということに注目したい。なぜニコデモは、夜にイエスのもとに来たのか。忙しいからであろうか。人の目を盗んで、夜暗くなってから来たという理解がある。議員というユダヤ社会において、地位のある人がエルサレム神殿の祭司たちに従うのではなく、イエスに従うというのは、立場的にありえないといえよう。12章42節には「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」とある。そのことから、ニコデモが「夜」にイエスを訪ねた理由は、自分の社会的地位を守るためであると考えられる。 では、ニコデモは何のためにイエスの元に来たのか。2節で、ニコデモは「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言っている。ニコデモはイエスに「ラビ、神のもとから来た教師」と呼びかけた。ここでの「教師」という言葉は、出エジプトのモーセのような指導者を意味していたという解釈がある。ニコデモは、イエスのしるし、奇跡を通して、神が共におられることを確信したというのである。イエスは次のように述べた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。イエスは、ニコデモの心を見通していたのであろう。ニコデモが望んでいたのが、神の国に入ることだろうと。神の国とは、神の完全な支配、完全な救いといえるであろう。神の国が訪れるとき、そこは入ることができる者とできない者とを神が裁く、決める、と考えられていた。ニコデモは、神の国の救いに入ることを望み、夜イエスのもとに来たといえるのではなかろうか。そのため、ひっそりと人目を盗み、夜に来た。 本日の箇所のイエスとニコデモの会話は、成立していないと私は思う。3節の「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」の「新たに」とは、直訳では「上から」である。そして、8節に「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」とある。「風」は、原典のギリシャ語では「プネウマ」である。プネウマは、新約聖書で「霊」とも訳される言葉である。2000年前のユダヤ人にとって、風とか霊とか呼んでいたものは、そもそも同一のものだという感覚であったのではないかという理解がある。風は空気であり、空気には酸素、二酸化炭素、窒素などが含まれている気体という現代の理解は、2000年前の人々にはなかった。そこで、呼吸によって人間に入り出たりしているものもプネウマであり、外で吹いている風もプネウマの働きなのであった。2000年前の古代の人々にとっては、風と霊という区別はなく、自分たちを生かしている働き、つまり人知を超える見えない働きに対して、「プネウマ」という感覚を持っていたと理解できるのではないかというのである。古代の人々を、現代の私たちが馬鹿にできるであろうか。現代でも天気予報は完全ではない。地震の予測なども難しい。人知を超える働きを私たちはもっと感覚として感じ、持つべきなのではないだろうか。 さて、イエスが、「新たに生まれなければ」と述べた時、ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と問うた。「新たに生まれる」というイエスの言葉を、ニコデモは母の胎内に入って新たに生まれると考えた。つまり、生まれ変わるとは肉体的な事柄だと、ニコデモは理解した。そこから、次のように考えることができるのではないだろうか。 ニコデモは、イエスを教師と呼びんだ。それはエジプトで奴隷の状態であった人々を、約束の地へと導いたモーセのような指導者を意味していたと考えられる。イエスの時代、ユダヤはローマによって支配されていた。ニコデモは、ローマからの解放を求めていたのではないか。そこで、奇跡を行うイエスに期待を寄せた。しかも、イエスは神の国の到来を述べ伝えていた。ニコデモはローマからの解放と、神の国のおとずれを一緒していたのかもしれない。また、ニコデモは、夜にイエスのもとに行った。それはイエスに期待を寄せていたことがばれると、社会的地位を奪われる可能性があったからであろう。ニコデモは自分の社会的地位にも固執していたし、またローマからの解放、救いも求めていた。つまり、ニコデモは自分の願望、願いを求め、イエスのもとに来た。イエスを、自分に都合のよい指導者であると理解していたのではないだろうか。また「夜」には、次のような理解がある。ヨハネによる福音書は、「霊と肉」、「光と闇」という二元論的な記し方をしている。イエスは光であり、この世は闇である。一方、イエスの元にいない、イエスを信じない、理解できないことを「闇」だと示している。そこでニコデモが「夜」に来たというのは、イエスのことを理解できていないことを示していると思うのである。 「新たに生まれる」は、「上から生まれる」とも訳せる。「上」、それは「天」、つまり神と受け取れるのかもしれない。そして、先ほども述べたように「風は思いのままに吹く」。風は、人知を超えた働きである。つまり、神の働きである。神の思いのまま、神の意志、導きがプネウマを通してあると考えると、どうであろうか。イエスがニコデモに教えたことは、自分の救い、願望をただ望むのではない。それは、自己欲にしか過ぎない。また、「新たに生まれる」のは、自分が母の胎内に戻ることではない。すべて、上からの働きによって、つまり、風、霊である人知を超える神の働きによって、新たに生まれ変えられるのであるということを、イエスは示したのではないだろうか。 そのように理解した時、イエスとニコデモの会話がずれているということも納得がいくように思う。イエスはあくまでも上におられ、上から下へと働いてくださる神が、主語である。つまり、すべて神がこの世を導いてくださる。この神にすべてを委ねたときにこそ、新たに生まれることができる。そして、風がいつもそよいでいるように、神の働きがいつもあり、その流れは救いへと導いてくださっているということが分かる。つまり、神がいつも共にいること、神の働きをただ信じるべきであるのだとイエスは述べた。一方、ニコデモは自分の救いのみを念頭に置いていた。自分が救われるには、自分の社会的地位を守るには、自分が神の国に入るには、それらのために何をすればいいのか。主語がすべて「自分」である。主語が違うのだから、イエスとニコデモの会話が成立しないといえる。 私たちが新たになるとは、私たちの働きではなく、上からの神の導きに他ならない。私たちには神の働きがいつも風のように注がれている。つまり、日々霊によって導かれていることを知ることによって、新たな者とされていることに気づくのではなかろうか。 イエスは「私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」と語った。イエスは、天地創造の時から神と共にあったと、1章に記されている。つまり、イエスは天において神と共にあり、神のことを知っておられる唯一のお方である。そのイエスが、この世に来てくださった。そのイエスの言っていることを受け入れない限り、神のことを知ることはできないのである。自分の願望だけを話し求めても、それは天にある事柄でもなければ、神の意志でもない。神の導きがあることに気づかなければ、天から来たイエスとの会話が成立しない。それが本日の箇所の出来事であると、私は思うのである。 霊は、風のように注がれている。つまり、息をするように私たちは霊に与かっているのである。霊とは、神の目に見えない働きである。つまり、私たちはいつも神の働きのうちに生かされている。そのことに気づいたときにこそ、自分の願望ではなく、ただ神の導きがあることを理解できる。つまり、神の霊によって新たにされていることを私たちは受け入れることができるのである。 私たちが、何かをするから、何かができるから新たにされるのではなく、霊なる神の恵みによって私たちは新たな者とされているのである。イエスこそ、目に見えない霊という神の導きを、この世に示してくださった。このイエスの働きが霊によって現代の私たちにも与えられているのである。私たちは超越的な方、命をお与えくださった方のもとで生かされ、導かれているのである。つまり、神はいつも私たちと共にいてくださっている。そこにこそ一番の支えがある。生きる勇気が与えられるのである。私たちは、イエスの言葉を受入れ、神に生かされ、導かれ、新たなる者とされていることに気づきたいと思う。
祈祷 私たちの導き主なる神様 私たちは、つい自分の都合のよい神、自分が何をしたら救われるのかを求めてしまいます。しかし、神は、風がいつも吹いているように聖霊を注ぎ、私たちを生かしてくださっています。つまり、私たちは神によって日々新たなるものとされている存在です。どうか、「私」ではなく「神」を主語と考え、神の導きがいつもあることを確信させてください。私たちは、日々、新たなるものとされ、主の守り、愛の内に生かされています。どうか、この救い、恵みを多くの人と分かち合うことができますよう強めてください。梅雨の季節になります。先日は台風の影響で大雨となりました。これからも大雨による被害が懸念されます。世界でも自然災害が起こっています。被害が出ないようお守りください。被災された方々をお支えください。梅雨、体調の崩しやすい時です。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友などのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。天地創造において人間が作られたとき、世界を支配させると述べられました。それはこの世を正しく導く責任です。私たちは神が創られた世界に対して責任を与えられました。それは、人間同士が愛し合い、この世にあるすべての存在がそのものらしく過ごすことができる責任です。一方、争いはその反対の出来事です。命を奪い合い、しかも、この世界に対しても被害をもたらすという、神の意志に反することです。どうか、神の愛に倣い、互いに受け容れ合い、命を大切にするよう人間、特に指導者をお導きください。新しい月が始まりました。今月誕生日を迎える方を祝し、よき一年になりますようお導きください。今年は、茨城YMCA30年周年です。これからも主の導きがありますように。この礼拝を通して、この一週間、先月の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 17章 12~14節」
聖書朗読
17:12災いだ、多くの民がどよめく/どよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ/騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。/17:13国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる/山の上で、もみ殻が大風に/枯れ葉がつむじ風に追われるように。/17:14夕べには、見よ、破滅が襲い/夜の明ける前に消えうせる。これが我々を略奪する者の受ける分/我々を強奪する者の運命だ。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「運命の大転換」
5月19日に、ドジャーズの大谷選手が逆転サヨナラヒットを打ったと報じられた。私たちは、大逆転というのが好きなのではなかろうか。私も好きである。一方、人生においての転換というのは、苦しいものではないだろうか。私は福祉の仕事をしようと考えて、大学に入学した。東北学院大学文学部キリスト教学科では、福祉の資格も取れた。聖書のこと、神の愛について学び、その愛をもって福祉にたずさわれたならばと考えていた。大学に入るとどうであったか。キリスト教学科というくらいだから、基本的に牧師育成機関だったのである。多くが牧師になるため入学した。その中には、福祉あるいは一般企業への就職を考えていた者も数名いた。入学当初、私はその数名の同級生と「ここは牧師養成機関だよ。どうしよう」とよく話していた。私は悩んだ。実際、友だちと一緒に、福祉の先生に相談にいった。そのころ私は「牧師にはならない」と、ずっと言い張っていた。一方、友だちや先輩たちとの交わりは楽しいものだった。二つ上の先輩が3人、夜に集まっているところに、私もよく加わらせてもらった。その一人が2.11集会にお招きした白河教会牧師でありカルト脱会支援をおこなっている竹迫先生である。そして、特にお世話になったのが、当時同じ教会に通っていた先輩である。その先輩が4月から、いわきの教会に赴任したので、竹迫先生に声をかけ、会いに行ってきた。いわきに赴任したその先輩は、筋ジストロフィーという病気を患っている。私を含め3人で会うのは、学生時代以来だった(そこに、この教会のTさんの義理の弟さんがいれば全員集合だった。)この先輩たちとの出会いは、私にとってとても大きなものだった。特に、病気を患っているその先輩は当初、日立系のプログラミング会社で働いておられた。当時の給料としては、一般より高かったそうである。それなのに、なぜその職を辞し、牧師になろうとしたのか。私には不思議であった。竹迫先生も、統一教会から脱会したばかりであった。本当に不思議な出会いだと、私は今でも思っている。高校生3年生の時に私は、担任の先生から「牧師になりたいなら同志社神学部の推薦入学に推薦することもできる」と言われた。しかし私は「絶対、牧師にはならないので、けっこうです」と答えたのを、今でも覚えている。さまざまな出会いが、私を牧師という道に導いてくれた。今でも自分が皆さんの前で語っているのを不思議に思っている。牧師としての能力などない者が、神によって用いられているとしか思えない。神は私に、自分が思いもしない運命の転換を与えてくださるのだと思わずにはいられない。人間のはかりごとや計画など、あてにならないということなのかもしれない。
さて、本日与えられた聖書箇所イザヤ書17章12節以下に共に心を傾けたいと思う。12節に「災いだ、多くの民がどよめくどよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ騒ぎ立つ大水の騒ぎのように」とある。聖書において、海は諸民族の浮き沈み、栄えたり、おとろえたりするという象徴として用いられている。そこで13節を見ると「国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる」とある。諸国民に対し、神はいかりの声だけで負けさせるというのである。13節後半も同様である。「枯れ草」とは、あざみの一種と考えられている。それは小さな茂みのようになる植物で、枯れた後、茎がもとから折れて玉のように丸まり、風に吹かれて転がって、種を蒔き散らすそうである。つまり、大風によって丸まった枯れ草が吹き飛ばされ転がっていくように、神は敵を破滅させるということである。そのように神は大いなる力をもってエルサレムを守り、敵を追い散らす。どんなに人間的な繁栄をもたらし、どんなに武力が強くても神の前では何もかなわない。神の力の偉大さがここに記されているといってよいと思う。
そこで、14節を見ると「夕べには、見よ、破壊が襲い」とある。つまり、夕べ、大群の敵が襲い、危機的な状況に陥っている。しかし、「夜の明ける前に消え失せる」、朝にはその敵の大群がいなくなっている。「これが我々を強奪する者の受ける分我々を強奪する者の運命だ」。つまり、神のいるエルサレム、南ユダを神は偉大な力で守ってくださる。だから敵が攻め入って来ても大丈夫だ。唯一の神を信じる者に敵対する者の運命は、神に裁かれるというのである。
この箇所は紀元前701年の出来事を示しているのではないかという理解がある。南ユダは、アッシリアの属国だった。しかし、アッシリアの勢力が弱くなると、南ユダは属国関係を破棄した。そこで南ユダのヒゼキヤ王は、バビロニア、エジプトと関係を結び、南パレスチナ諸国と反アッシリア同盟を組む。一方、アッシリアは勢力を取り戻し、シリア・パレスチナの鎮圧を開始し、次々と諸国を屈服させた。さらにアッシリアは、同盟軍を支援するためにきたエジプト軍をも撃破した。その後、アッシリアは南ユダに侵入し、町々を征服した。そして、最後にエルサレムを包囲した。エルサレムは絶体絶命の危機に陥った。すると転換が起こった。主の使いがエルサレムを包囲しているアッシリア軍の多くを滅ぼした。そして、アッシリア軍は退却したというのである。イザヤ書37章36~37節に、同じ内容として列王記下19章35~36節に「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」とある。今日の箇所は、そのことを示していると理解できる。つまり、危機の中にある神の民に、神による運命の転換が起こるということが示されているのである。一方、この箇所は終末、世の終わりにおける神の業であるという理解もある。実は、イザヤは、先ほど説明した反アッシリア同盟に反対していた。イザヤは、ただ神のみを信頼し、外国の力に頼ってはならないと警告したのである。
さて、今、私は旧約聖書神学者である並木浩一先生と、学生時代に並木先生の講義を受けた小説家奥泉光さんの対話本『旧約聖書がわかる本』を読んでいる。アモス書5章21節に、「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない」とある。神は、社会的正義をなおざりにして、祭りに熱を入れることを退けるというのである。祭りは神に献げ物をし、神を喜ばせるものである。また、祭りは神との合一体験など、人間的陶酔の経験を行う。そして、祭りが政治に結び付くと祀るものの権威が増大する。統治者が神をまつる祭祀権を握ると、祀る者が祀られるものよりも偉くなる傾向が生まれる。祭儀を行う者が自分の都合の良いように祭り、神名をもちいるという権力を持つということであろう。その例として大和朝廷、ペルシアをあげている。一方、ペルシア時代以降において、イスラエルは祭祀の権力が政治の統治権力として強化されることはなかったというのである。というのは、祭司権力よりも、実際に人々をまとめる力を発揮したのは、律法の定めに従う行動にあったからだというのである。私は、この律法理解をはじめて知った。確かに、バビロンによってエルサレム神殿が滅ぼされ、神殿祭儀ができない時代があった。そこで私は、イスラエルの民を一つにしたのは律法であると理解していた。一方、政治と祭儀というところまで私は考えていなかったのである。また、この本に「ユダヤ教が始めた礼拝は、本質を言えば、祭祀(神をまつること)を必要としない。礼拝は神を讃美することで、人間の神支配へのアンチテーゼとしてなりたつ。だから礼拝では指導者が修行を積んで神もしくは仏に近づく資格を得ているという発想がない。参加者も陶酔によって神に近づく必要がない」と記されていた。唯一の神は、祀られる神ではなく、讃美される神である。献げ物が大切ではなく神を信じること、神との関係が大切である。祭儀は、祭儀を行う者が特別な存在となる。そこで祭儀を行う人の権威が強くなる。そうではなく、人間は律法を通して唯一の神との関係、つながりを持つことができる。だから儀式を行う指導者の権威は必要ないということであろう。それは、イエスの名を通して祈ることができるということに通じるように、私は思う。私自身、牧師に権威があるのではなく、神に権威があると思っている。
イザヤが私たちに示しているのも、似ているのではないかと思った。私たちはただ神を信じ、神により頼むことができる存在にしか過ぎない。そこに神の力が働く。人間的な力を過信してはいけない。権力者が、この世的な同盟を組むことは滅びに至るのである。人間的な繁栄は、永遠ではない。神の叱咤、怒りの声だけで、私たちは消え去ってしまうのである。この世的なはかりごとは神の前においてすべて拭い去られる。つまり、人間的なはかりごとは神によって転換がおこる。神に対する信頼こそが私たちを平安へと導くのであると、イザヤは教えているのではないだろうか。イエスの十字架も大転換だと私は考える。民衆に王となるとイエスは期待された。そのことに対して権力者たちはイエスに嫉妬し、また、地位が奪われるのではないかと考えた。そこで、権力者たちはイエスを十字架に掛ける計画を立てた。そして、この世の裁判でイエスは敗北し、十字架刑に決まった。つまり、イエスはこの世的権力に負けた。イエスの十字架は、この世的権力の象徴かもしれない。しかし、十字架というこの世的敗北を、神は人間を救う業へと転換したのである。イエスが十字架を負うことにより人間の罪を負い、人間は神と正しい関係へと導かれている。この世的権力は神の前では無力であるということが示されている。そこにあるのは、真の愛である。人間を愛するゆえに、神はこの世的敗北、危機的状況も、救いへ転換してくださる。そこに必要なのは、イザヤが示したように、ただ神を信じるということである。本日の箇所イザヤ書は、神こそ苦難の中にあっても私たちを救いへとお導きくださる。そこで大切なのは人間的はかりごと、この世の権力ではなく、ただ神を信頼することである。神こそ人間の思いをはるかに超える偉大な力を持って救いへとお導きくださる方であるのだと教えてくれているのである。私たちはただ神のみを信頼し、神のみを信じたいと思う。
祈祷 私たちを無条件に愛し、お導きくださる主なる神様 イザヤは、危機の状況において救ってくださるのは神のみである。人間のはかりごと、計略ではなく、ただ神を信じることを示しました。今日の箇所は、危機的状況において神は運命の転換をしてくださる。つまり、危機の状況においても、神は偉大な業で救ってくださるということを示しています。私たち人間はこの世的な計略をたててしまいます。また、人間的な策略に満足してしまいます。神こそ危機の状況において救ってくださる方です。その力は人間の範疇を越えます。私たちが神を信頼し、神により頼み日々歩むことができますようお導きください。梅雨の季節になります。近年は集中的な豪雨となり被がを多くでています。世界でも自然災害が起こっています。どうか被災された方々をお支えください。被害が出ないようお守りください。梅雨、体調の崩しやすい時です。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友などのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。この世は争うために創造されたのではなく、互いに愛し合うために、神によって命の息吹が注がれました。また、人間による戦争は、自然に対して害をもたらします。人間は、この世に対し神から責任が与えられた存在です。どうか互いの存在、命、互いの違いを認め合う世としてください。特に弱い者、子どもたちをお守りくださいますように。今週は関東教区総会が行われます。御心にかなうものとなりますように。この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 14章 15~27節」
聖書朗読
14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 14:16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 14:17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 14:18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 14:19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 14:20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 14:21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 14:22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 14:23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 14:24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 14:25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 14:26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 14:27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「霊の到来の約束」
本日は、五旬祭とも言う「ペンテコステ」という日である。五旬祭は、過越しの祭りから7週後のユダヤ教三大祭りの一つである。キリスト教で考えると、ペンテコステはイエスの復活から50日目である。40日の間、復活のイエスはおられた。そして天に上げられた。使徒言行録の2章に、「五旬祭のとき弟子たちが集まっていると、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たちの上にとどまった」とある。そして一同は、聖霊に満たされ、様々な国の言葉で語るようになった。それがキリスト教のペンテコステの出来事である。つまり、聖霊が注がれたことによってイエスに救いを述べ伝える力が与えられたのがこの日である。宣教の始まりだから、教会の誕生日とも言われる。ペンテコステに与えられたイエス、神の救いを述べ伝える力、神による働きを「聖霊」といってよいであろう。では、聖霊と霊とは異なるのか。新共同訳聖書の凡例の(2)に、「新約聖書において、底本の字義通り「霊」と訳した箇所のうち、「聖霊」あるいは「神の霊」「主の霊」が意味されていると思われる場合に“”(“霊”と表記)を付けた」とある。つまり、新約聖書で“霊”と記しているものは聖霊を意味しているということである。ギリシャ語で「霊」は、「プネウマ」である。プネウマのもとの意味は息、呼吸、風である。そこで「霊」とは、目に見えないが感じることができ、また、息、つまり、私たちを生かしてくださる働きと言ってよいのかもしれない。一方、「霊」という言葉は、なかなか理解するのが困難である。それは日本語だけではないん。新約聖書釈義辞典に「プネウマの意味を定義する際に注意しなければならないのは、ドイツ語のガイストには、「霊=実体のない存在(幽霊)」や、「霊=理解力/理性」などの意味が様々結びついているため、ガイストという一般に広まっているドイツ語訳は、しばしば、理解の障害となっていることである」と記されている。日本語も同様であると思う。
そこで本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書14章15節以下に心を傾けたいと思う。この箇所は、13章31節から始まるイエスの晩餐の席における弟子たちへの第一の告別説教の後半の部分である。イエスは、13章21節以下で、ユダの裏切りを予告した。そして18章では、その予告のとおり、イエスは逮捕されることになる。そこで、イエスは弟子たちと別れる前に説教をしたのである。イエスは弟子たちに、何を語ったのか。13章34節に、イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語ったとある。14章15節には、イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と語ったとある。イエスは新しい掟を与え、イエスを愛しているなら掟を守っているのだと教えたのである。
さてイエスはその後、捕らえられ、十字架にかけられる。つまりこの時、イエスと弟子たちの別れが迫っていた。だからこそ、イエスは弟子たちに語ったのである。16節に「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とある。イエスと弟子たちは、別れなければならない。そこで弟子たちが心配しなくてよいように、正しい道を歩むことができるように、父なる神にお願いし、弁護者を遣わしてもらう。しかも、その弁護者は永遠に共にいるというのである。
では、この「弁護者」とは何なのか。「弁護者」とは、ギリシャ語では「パラクレートス」である。「よんでこられた者、呼びかけられた者」が元の意味である。助けを求めて呼びかける相手を指す。また、パラクレートスは法廷用語として用いられ、その場合「弁護者」である。多くの日本語訳聖書は、「弁護者」と訳している。他に「助け手」という訳もある。その方がわかりやすいかもしれない。17節には、弁護者とは、「真理の霊」、「霊」、26節では「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」であるとイエスは言っている。弁護者とは、イエスが天に召された後に遣わされる聖霊・霊・真理の霊なのである。つまり、使徒言行録に記されているペンテコステの出来事で、注がれた舌のような霊と弁護者は同じであるといってよいと思う。聖霊・霊・真理の霊を、イエスが天に上げられてから遣わされる。その霊は宣教の助け手として弟子たちと共にいてくださるというのである。
では、弁護者とイエスとは異なる別の存在なのであろうか。確かに17節には「この方」とイエスは述べているので、イエスとは異なる存在であるように読める。私は次のように理解する。それは、イエス自身が弁護者であるということである。というのは、イエスは26節で「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と述べている。イエスは、神の権能、神と同じ力を持って人間を正しい道、神の救いへと導いてくださった。イエスは、人間の姿を取り、人間に見ることができ、触れることのできる形で弟子たちを導いた。しかし、そこで語られている弁護者は、目に見えるのではなく、目で見ることはできない霊の働きとして、イエスが教えたように、またイエスが話したことを思い出させ、弟子たちを導くというのである。イエスは十字架につけられて死に、天に上げられた。だからといって、神の働きがそれで終わるというのではない。イエスが天に上げられてからは、弁護者、すなわち真理の霊が、弟子たちをイエスと同じように導き共にいてくださるというのである。つまり、弁護者とは目に見えないイエスの働き、といってよいであろう。弟子たちに、「あなたたちに私イエスが見えない日が来る。しかし、大丈夫だ。私は永遠にあなたがたと共にいる」とイエスは語った。イエスは「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる(20節)」と述べた。それは「神を信じる者には、いつも神、イエスが共にいてくださるのだ。それは聖霊、霊、真理の霊、つまり、弁護者という助け手があなたたちと共にいて導くからだ」と私は理解する。神、イエスを信じる者は神の内にいて、また、信じる者の内に神はいてくださる。イエスは弟子たちに「あなたがたをみなしごにはしておかない」と励まし、支えてくださっているのである。弁護者の到来は、イエスが天に上げられてからである。そのように弁護者とは、イエスがこの世で行ったことをそのまま目に見えない姿で行ってくださる方である。弁護者が行うことは、イエスの導きと同じである。なぜなら、イエスの救いの業は十字架において完成したからである。その完成した業を、弁護者は継続して行うというのである。だから、弁護者の業は、イエスの業と同じなのである。それは、神の業だからである。
では、弁護者という聖霊・霊・真理の霊が、使徒言行録に記されているペンテコステにおいて集まっている弟子たちに注がれた聖霊と同じであるなら、それは弟子たちだけに注がれるものであり、現代の私たちには注がれないのであろうか。いや、そうではない。16節に「永遠にあなた方と一緒にいる」とあるように、弁護者の働きは永遠なのである。それはイエスの業が十字架で完成し、その救いがすべての人にあるように、今もなお継続し、弁護者の働きは現代の私たちに対して行われているのである。
さて、私は大学生の時に教会学校のスタッフをしていた。私は小学校5年生と6年生を担当していた。その教会では、クリスマスイブ礼拝の前に、教会学校によるクリスマス劇を行っていた。そのため、5年生と6年生は、教会に一泊して練習をしていた。その教会には、礼拝堂の下の地下に暖房用ボイラー室があったが、私が通っていた当時は、すでに使用されていなかった。誰も地下にいかないので、余計に怖さを感じた。その一泊会で、肝試しとして夜に、地下に行こうということになった。そのとき5年生のある子が「イエス様を信じていれば幽霊なんて見ないよね」と言い、私は「その通り」と答えたのを覚えている。そして、それは素晴らしい信仰告白だと私は思った。イエスは悪霊を制した。だからイエスを信じる者は幽霊など見ないのである。
悪魔の誘惑に打ち勝ち、悪魔はイエスに刃向かわないことが新約聖書に記されている。また、イエスは十字架によって陰府に行き、悪を支配した。そこで、次のように言えるのではないだろうか。神、イエスが支配しているこの世に、悪霊はもういない。霊とは神の霊であり、その他に霊はない。もし悪霊があるとするなら、それはこの世、つまり人間の欲である。人間の欲こそ最も身近にある恐ろしい力、罪の力である。しかし、イエスは新しい掟を与えてくださった。神が私たちを愛してくださっているように、私たちも互いに愛するという掟を与えてくださった。そして、神は、弁護者、霊を私たちに注ぎ、支え、互いに愛し合うという正しい道、人間が生きるべき道へと手助けし、導いてくださる。そこで大切なのは、神を信じるということである。なぜなら、神が私たちを愛してくださっているからである。イエスこそが、そのことを教えてくださった。イエスの導きは、今もなお、弁護者という聖霊によって行われているのである。だからこそ私たちは、神の愛を多くの人と分かち合う、つまり、互いに愛し合うことができる。それは神の愛を分かち合うという私たちが行うべき宣教の業なのである。
今もなおイエスの目に見えない働き、弁護者、助け手として霊が私たちに注がれ、導かれている。私たちはそのことを確信し、父なる神、子なるイエス、聖霊なる三位一体である主を信じたいと思う。私たちは弁護者、助け手によって守られ、導かれ、生かされているのである。
祈祷 愛なる神様 今日はペンテコステ、弟子たちに宣教の力が与えられた日です。イエスは、天に上げられた後、神に頼んで弁護者である聖霊、真理の霊を遣わしてくださると述べられました。また、その働きは永遠であるというのです。現代の私たちも霊を注がれ、導かれ、神の愛を分かち合う力を与えられています。どうか、互いに愛し合うという神の愛の業を、私たちが行うことができますように。互いに愛し合うことこそ宣教の業であると信じます。どうか、そのため私たちを支え、今、ペンテコステのこのとき弁護者である霊をお与えくださいますように。神が望まれていることは争うことではなく、互いに愛し合うことです。争いは人間の欲でしかないと思います。そこでは憎しみ、悲しみしか生み出しません。どうか神の愛に倣い、互いの命、人格を尊重しあうことができますように。指導者をそのようにお導きください。日本、世界で地震、大雨などの自然災害が起こっています。どうか、被災された方々を支え、生きる力をお与えください。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、体調を崩されている友、手術を受け、リハビリを行っている友のことを覚えます。心身ともに癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 46編 2~12節」
聖書朗読
46:02神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。/46:03わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/46:04海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ/46:05大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。/46:06神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。/46:07すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。/46:08万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ/46:09主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。/46:10地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。/46:11「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」/46:12万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「帰還への希望」
旧約聖書詩篇46編は、神が共にいてくださるということによって恐怖の中にあっても安心することができるという信仰が詠われている。紀元前6世紀、エルサレム神殿のあった南ユダは、バビロニア帝国によって滅ぼされた。多くのユダの民がバビロニアに連れて行かれた。しかし、それから約50年後、バビロニア帝国がペルシアによって滅ばされたことにより、ユダの民はバビロニアから解放された。この詩編46編は、その解放以降に記されたと考えられる。この詩編の背後には「シオン神学」がある。シオンとは、エルサレムのことである。シオン、すなわちエルサレムは、全地の支配者「神」の住まいであり、聖なる都シオンは世界の中心であるという、また、シオンにおられる神は世界の秩序を乱す王たちを撃破するという、そのような考えを権力者たちは都合よく用いて、ユダの民の信仰を助長させたと考えられる。一方、権力者たちはエジプトに軍事的援助を求め、バビロニアの撃退をはかった。つまり、南ユダの権力者は、ユダの民に対し、神がいるから大丈夫だと扇動し、一方、他国と軍事同盟を結ぶこの世的な戦略を行った。そこにあったのは、神の名を自分に都合よく用い、民を危険な方向に導いたというごまかしである。それは第二次世界大戦、いや今もメディア、SNS(インターネット)を用いて、マインドコントロールのように民を誤った方向に扇動し、争いを行わせるということは、ありえるのではないだろうか。南ユダは権力者による間違った導きによって、バビロニアに負けたのである。そこで、この詩編46編には、どのような意味が、どのような導きがあるのであろうか。
この詩編の冒頭で、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と詠われている。ここにあるのは、神に対する絶対的な信頼である。権力者たちの都合の良い導きではない。2~4節までは、天地を創造された神が海や大水などを支配する姿が描かれている。自然に対しても私たちは神を避けどころ、逃げ場とすることができるから、恐れることはないというのである。
5~8節、川は生命の豊かさの象徴であるとの考えが書かれている。神は豊かな生命の源泉であるから、その住まいである神の都は、確かな潤いのある理想の都として描かれているのである。そして、他の国々がいかに騒ぎ立ち争いを起こすとも、神の都は神の住まいであるから揺らぐことはないと詠われているのである。2~4節は、自然界のことだが、5~8節は歴史世界へと移り、自然を制する神が地上の国々をも鎮める歴史の神でもあるということが示されている。そこで世界の創造主、支配者である神に対して、詩編の著者は冷静に信頼をおいているのである。
そして、最後の9~12節を見よう。まず10節には「地の果てに至るまで戦争を止めさせる」と神の業が讃えられている。先ほどの7節には、「すべての民、国々は揺らぐ」と記され、戦争が示されていたが、戦いは神によってこの地上からなくなるのだと、だから、地上のすべての民は、真の神をあがめなければならないと、9節~12節では告げられている。それは、平和を告げる預言のようにも受け取れる。
先ほど、この詩編はバビロニア捕囚からペルシアによって解放された時期に記されたと述べた。ペルシアによってバビロニアから解放され、軍事的な考えは薄れ、それに代わって非武装が、そしてユダヤの民は神に立ち返るようにという考えがもたれるようになった。このときに詩編46編は記されたと考えられる。だから、9節以下は神の民が平和を堅く待ち望んでいる姿が記されている。同時に、この詩編は神こそ「地の果てに至るまで戦争を止めさせる方」、平和の神として讃えていると読むことできるのである。
次のように言えると思う。神こそ真の避けどころ、私たちの砦であり、神はいつも私たちと共にあり守ってくださる。神への絶対的な信頼、そして、神こそ私たちに平和をもたらしてくださる方、その力を持っている方であるという信仰がこの詩編にはあると私は受け取りたい。争いの無い平和な世こそ、私たちが待ち望んでいることなのではないだろうか。そこで、大切なのは、9~10節にある「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」ということである。神は、争いを止めてくださる。しかも、弓を砕き、槍を折り、盾を焼く。つまり、非武装がここで詠われているのである。神はこの世における争いを求めない。いや、神は武具をなくし、争いを止めるというのである。ユダの権力者は、神の名を用い、民を争いへと扇動した。それは神の名を自分たちに都合よく用い、民をだましたにしか過ぎない。神は、争いを求めているのではないということに、ユダの民、詩編46編の著者は気づいていたといえるであろう。
まさしく神の独子こそ、次のように述べています。新約聖書マタイによる福音書5章43~44節に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とある。また、5章39節には「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」とある。まさしく非武装を、イエスは訴えていたのではなかったか。イエスが山上の説教で述べた教えは、本当に厳しい。右のほほを打たれたときにやり返すのではなく、左のほほを出すことなど、私にはできない。敵を愛し、敵のために祈りなさいと、敵とは、私たちの日常的な事柄として述べるなら、嫌いな人といえるのかもしれない。私たちは、自分を苦しめる嫌いな人のために祈ることができるであろうか。嫌いな人を愛することができるであろうか。それはとても難しいと思うのである。私はウェルター・ウインクという学者が記した「イエスと非暴力 第三の道」という(2003年に書かれた)本を思い出した。この本には、非暴力こそ相手にとって最も困る対処の仕方であり、また、もっとも有効的な攻撃であるということが記されている。そこでは、敵を愛するということに対して、次のように記されていた。「『敵を愛せ』とは、敵もまた神の子であることを認めることです。敵もまた自分が正しいと信じています。彼らにとってはわたしたちが、その価値観、ライフ・スタイル、そして富を脅かす存在として映るがゆえに、わたしたちを恐れるのです。わたしたちが敵のことを鬼のように思い、恐ろしい名前をつけ、極悪のものとみなすとき、回心を可能とする神のあのよきものが彼らのうちにも宿っていることを否定することになります。そのとき、わたしたちは神を演じ、彼らの名前を命の書から消しているのです」と。この言葉は、私にとって衝撃的だった。私たちは、自分が正しいと決めつけ相手を批判してしまう。しかし相手も同じように自分が正しく、相手が間違っていると考え、また相手を恐れ敵対している。私たちが、間違っていると言って相手を裁くことによって、私自身が神のように振舞ってしまっていると言えるのかもしれない。しかし、裁くことができるのは神のみなのである。そして、私たちが相手を恐れるように、相手も私たちを恐れている。そして攻撃する。それは、相手を神の愛する存在であると受け入れていないことであると言えるであろう。そして、相手が回心するということを、神を信じるときが来るという神の業を信じていない。相手も神によって愛が与えられていることを忘れているから、攻撃してしまうのかもしれない。相手を攻撃してしまう。神に対する信頼が欠如していると言えるのではないだろうか。そして、相手を攻撃することによって、私たち自身が神から離れてしまう。同時に、相手にも神を信じるということ、回心する機会から離れさせてしまっているのである。
私たちは、敵、嫌いな人を愛することができない弱い存在である。しかし、だからといって攻撃する必要は無い。それは神の愛、神の業を信じていないことなにもなる。ただ、神を信じるその思いを持つことによって、相手を攻撃することはなくなるであろう。なぜなら相手も神の愛する者であり、きっと神が回心へと導いてくださるからである。そこから和解への歩みが始まるのではないだろうか。私たちは、すべてを神に任せ、祈るべきなのである。
よく「武力による抑止」と言われる。本当に武力を強くすることによって抑止になるのであろうか。今もなお争いが続いている。そこに起るのは憎しみ、悲しみの連鎖でしかない。そのことにより、争いは終わることはない。
自分たちが正しいと決め付けてしまうことがある。そして、この世は、神にすべてを委ねることができないことによって、武力、基地をより増やしてしまう。その武力を用い、人を傷つけ、環境を破壊する。争い、憎しみあうことからは、何も生み出されない。大切なのは、ただ神の業を信じ、神にすべてを任せるという信仰である。神こそ、私たちと共にいてくださり、私たちの避けどころとなり、そして、私たちを平和へと導いてくださるのである。平和の神、和解の神にすべてを任せたいと思う。そのために、イエス・キリストはこの世に遣わされたのではなかったか。イエスこそ、人間と神とを和解してくださった。そして、人間同士を和解へと導いてくださっているのである。神にお任せするとは、神が私たちを守ってくださるから戦いに勝つということではない。すべてを、この世の創り主なる神に任せることにより、非暴力、非武装になり、この世に争いはなくなる。そして、全てものとの和解がおこるのである。そのことを本日の詩編46編は、私たちに教えてくれているのではないだろうか。私たちはただ神を信じたいと思う。
祈祷 憐れみ深い主なる神様 私たちには欲があります。そのためあらゆるものを欲し、時には自分を正当化し敵を作り出します。そして、争いになる。南ユダの指導者たちは、神の名を用い、民を扇動し、この世的な戦略によって争いました。その結果、敗北し民は苦難に陥りました。神は、争いを求めていません。神こそ私たちの避けどころ、私たちを愛し、守ってくださっています。そのことをイエスは私たちに教えてくださいました。イエスこそ非暴力、非武装です。そして、人間と神、人間と人間の和解を導いてくださいます。どうか、私たちは全知全能である平和の神を信じたいと思います。この世の歴史において争いのない時代はありません。ローマの信徒への手紙(12:19)には「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と記されています。どうか、この世の指導者が真に神を信じ、他国との和解へと歩むことができますようお導き下さい。自然災害で被災された方々を支え、元の生活に戻ることができますようお導きください。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、体調を崩されている友、手術を受け、これからリハビリを行う友のことを覚えます。心身ともに癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。草房誠二郎さんが天に召されました。天における主の平安がありますように。悲しみの中にあるご家族をお慰めください。この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 16章 25~33節」
聖書朗読
16:25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。 16:26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。 16:27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。 16:28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」 16:29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。 16:30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」 16:31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。 16:32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。 16:33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「イエスの勝利宣言」
水曜日の聖書研究祈祷会では、ローマの信徒の手紙を学んでいる。そこで皆さんとの話すことが私にとって、とても楽しい時となっている。話し合うことにより、様々な理解が浮かび、分かち合うことができる。
ある仏教入門書に、仏教は個人主義であるとあった。というのは、仏教は「悟り」だからだというのである。悟ることそれ自体が、自分が真理を会得することだからというのである。では、キリスト教は何か。私は、外部からの働きによって気づかせてもらうことだと考えている。それを「気づき」と私は述べている。「招き」と言ってもいいのではないかと思う。どうしようもない私でも、イエスは神のもとに招いてくださる。そのことに気づくことが、キリスト教ではないかと思っている。
さて、ヨハネによる福音書16章25節以下に共に心を傾けたいと思う。25節にあるように、イエスはこれまで「たとえ」を用いて話したと述べている。「今までたとえで語ってきたが、これからはそうではない」という意味である。たとえは、相手に対しては、相手が理解しやすいように語ると思う。しかし弟子たちにとって、たとえはなぞのようで理解できなかったということなのであろう。そこで、イエスは「はっきり父について知らせる時が来る」というのである。26節の「その日」とはいつであろうか。それは、イエスが復活した日である。次のようにもいえるであろう。イエスとはいかなる方か、弟子たちが気づいたときであると。では、その日にはどうなるのか。それはイエスの名によって願うことになるというのである。
願いとは祈りである。祈りとは神との対話である。それは、応答関係を持つと言えるであろう。つまり祈りとは、人格神という認識を、私たちに与えてくれるのである。では、イエスはどうであったか。イエスは、祈りを大切にしていた。祈るため、山に登った。また、十字架刑を目前にして、イエスはゲッセマネで祈っておられた。神と話したのである。どうしてイエスは、十字架という苦難、死に向かう前に祈ったのか。ゲッセマネの祈りは、神の意志を問うことを、十字架という神の計画を受け入れる決断のための祈りであった。本日の説教を考えるに際し、次のように思った。イエスには十字架による死が迫っていた。マタイによる福音書の26章39節には、イエスが「父よ、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と三度祈ったことが書かれている。イエスは十字架という死を前にして不安の中にあり祈ったのだと私は思う。不安の中でイエスが求めたのは、父なる神が共にいてくださることではなかったか。イエスは、祈りを通して神が共にいてくださることを確信し、勇気づけられ、十字架に向かったのだと私は考えた。
イエスの名を通して祈るとは、イエスを通して神に直接語りかけることが赦されたという意味がある。また、32節に「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしを一人にするときが来る」とある。イエスは、その後すぐ、ユダの裏切りによって捕らえられ、十字架につけられ処刑されることになる。イエスが捕らえられると、弟子たちはイエスのもとから離れ逃げてしまった。そのことをイエスは予告していたのである。弟子たちは、イエスと一緒にいた自分たちも共犯者として捕らえられると思ったのだろうか。弟子たちは恐れ、イエスのもとから去ってしまった。きっとそのとき、弟子たちは自分の弱さを知ったであろう。そして、イエスが捕らえられ十字架刑によって天に召された。確かにイエスは復活したが、再び神のもとに挙げられた。つまり、弟子たちは、肉体のイエスと離れなければならなかった。そこで、イエスの名を通して祈ることに意味がある。つまり、祈りは神との対話である。「イエスの名を通して」とは、イエスは天に上げられ目に見えない。しかしイエスは、イエスの名を通して神と人間とをつないでくださる。つまり、イエスの名を通して祈るその祈りの場に、イエスは必ず共にいて下さり、神と人間とをつなぐという恵みをお与えくださるのである。イエスは神を「父」と呼んだ。同じように、イエスの名を通して、私たちもより神と近い関係にいることができる。神とイエスが父と子という関係であるように、イエスの名を通して私たちも神と父と子という関係に招かれるということである。だからこそ、イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。(33節)」と述べたのではなかろうか。イエスは、この後、天に上げられた。イエスは目に見えない状態になり、弟子たちは不安に陥ったであろう。しかし、そうではない。祈りを通してイエスは共にいて下さるのである。
さて、ヨハネによる福音書が記された時代、キリスト教徒はユダヤ教から迫害を受けていた。ヨハネによる福音書の著者は、自分たちの状況とイエスと弟子たちの出来事を重ね、この福音書を記した。イエスが「あなたがたには世で苦難がある(32節)」と言っている通りなのである。だから、イエスが弟子たちに語った言葉は、同時にヨハネによる福音書を読むその人自身にも語られていると読むことができる。確かに、イエスの言葉は、弟子たちだけではなく、普遍的に私たちに語りかけてくる。ヨハネによる福音書では、特にこの書を読む人々は、自分たちの状況とイエス、弟子たちの出来事を重ね合わせ、自分のこととして読んでいる。イエスの名を通して父なる神に祈ることによって、イエス、神が共にいてくださる。だから勇気を出しなさいと、イエスはヨハネの教会の人々、そして、現代の私たちに述べ、支えてくださっているのではないだろうか。
ヨハネによる福音書が記されたのは、イエスが十字架にかけられてから60年以上もたった時代である。その時代、イエスと直接出会ったことのある人は、もうほとんどいなかったであろう。いや、イエスの弟子たちと交わりを持った人さえもいなかったのではなかろうか。そのような意味においても、ヨハネによる福音書の著者、また読者は、肉体のイエスと出会ったことのない人々であった。彼らには、人間イエスを見たこともなければ、イエスの奇跡に触れたこともなかった。イエスは、だからこそ、神は愛してくださっているということ、そしてイエスの名を通して祈れば、イエス、神は共にいてくださるのだと教えて下さっているのではないだろうか。
現代の私たちも、肉体のイエスと出会うことはできない。そのような意味では、不安を持ち、懐疑的になってしまうかもしれない。だからこそ、そのような私たちに、ヨハネによる福音書は語りかけている。そこで、33節にある「わたしは既に世に勝っている」との勝利とは、いかなることなのであろうか。
28節をもう一度見ると「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」とある。イエスは、天におられる神のもとから出て、世に来た。このことが重要なのである。イエスは、神の独子として神と同じ権能、力を持っているということである。だからこそ、どのような迫害、苦難にあっても、イエスはいついかなる時も祈りを通して共いて、私たちの声を神に届けてくださるのである。次のようにも言えるであろう。私たちの苦難をイエス、神が聴いてくださる。つまり、イエス、神が私たちの苦難を共に負ってくださっているということである。
ヨハネによる福音書の教会は、イエス、弟子たちと同じようにユダヤ教から迫害を受けていた。しかし、イエスの名による祈りを通して苦難を、重荷を、神、イエスは共に負い、支えてくださったのである。
そこで、30節を見ると「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」とある。イエスが勝利を宣言された理由を、この言葉から考えたいと私は今回思った。イエスが何でも知っているということは、この世を創った神からイエスはすべてを与えられている。この世を創られた神が何でもご存じであるように、イエスも何でもご存じであるということである。つまり、イエスこそ神の権能を持つ神の独子であることを弟子たちは信じたのである。先ほど述べたように、イエスこそ神の独子であるからこそ、イエスの名を通して祈る祈りは神に聞き届けられる。イエスの名による祈りを通して、神、イエスはいつも共にいてお支えくださることを、私たちは確信することができる。神が共にいて支えてくださる。支えられている者として、私たちは互いに支え合うことができるのではなかろうか。それは、神の愛を分かち合うということである。イエスが宣言したのは、弟子たちがイエスこそ神の独子であると信じたからではなかったか。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と。それはイエスの弟子、ヨハネによる福音書の教会の人々の信仰告白だったのではないだろうか。イエスこそ神の独子であると私たちが信じることによってこそ、祈ることができ、神の愛の分かち合いがこれからも行われていくのである。ユダヤの民衆は、イエスが王となると期待した。そのことに対してユダヤ教指導者たちは自分たちの地位が脅かされるのではないかと考え、イエスを十字架にかけた。そこで、十字架は罪を映し出す鏡といえるであろう。
イエスは、神は、いつも共にいて私たちの祈りを聴いてくださっているのである。なぜなら神、イエスは私たちを愛してくださっているからである。イエスは勝利を宣言した。私たちはイエス、神が私たちを愛してくださり、共にいてくださることに気づき、確信し、神の愛を多くの人と分かち合いたいと思いう。
祈祷 愛なる神様 イエスは、イエスの名によって祈るよう教えて下さいました。イエスの名によって祈るとは、神の独子が共にいて、私たちの言葉を神に届けてくださるということです。神はこの世を愛しているからこそ、イエスをこの世に遣わし、イエスの名によって祈ることをおゆるしくださいました。イエス、神は祈りを通して共にいて、お支えくださいます。私たちも苦難の友と共にいて、支え合いたいと思います。それは神の愛を分かち合うことです。神の愛の分かち合いは、この世がどんなに欲にまみれても継続します。愛なる神が共にいてくださるからです。私たちはイエスが勝利を宣言されたように、神の愛を多くの人と分かち合いたいと思います。暑く、また、寒暖の差が大きくなっています。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、体調を崩されている友、手術を受け、これからリハビリを行う友のことを覚えます。心身ともに癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。世界各地で自然災害が起こっています。どうか被災された方々をお支えください。争いは欲望でしかないと思います。どうか争いを止めてください。また指導者が最も弱い立場に立ち、寄り添い歩むことができますように。連休も後半となっています。休みを取られている方をその場においてお守りください。この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 14章 1~3節」
聖書朗読
14:01まことに、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。寄留の民は彼らに加わり/ヤコブの家に結び付く。/14:02もろもろの民は、彼らをその土地に連れて来るが、イスラエルの家は、主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする。かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される。/14:03主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「帰還への希望」
先週、県内で最大震度4の地震が起こった。夕食がすみ、一休みしていたころだった。そのとき、私の連れ(妻)は、まっさきに最近飼い始めたオカメインコを守ろうとした。オカメインコは、地震など突然の刺激に弱く、パニックを起こすようである。一方、私の10歳の息子はそのときトレイにいた。彼は慌ててリビングにもどり、テーブルの下に隠れた。やがて地震がおさまり、息子は、連れ(妻)に「どうして血のつながっている息子を助けに来なかったのか」とうったえた。インコに嫉妬し、怒ったということである。インコは、飼い始めたばかりで、まだ赤ちゃんのような状態であり、また家に来て1週間だった。だからインコがパニックにならないように、連れ(妻)は、先にインコの方に行ったと息子に説明した。私の息子は翌日の朝まで機嫌を損ねていたようだった。それは私の息子に限ったことではないように思う。親の愛は自分のものであると、自分は特別に愛されていると思っている。自分が誰かにとって特別な存在だという思いを欲することは、誰にでもあると思う。愛されているという思いは自己肯定につながり、それはよいと思うのである。一方、その思いが、排他的にならないようにと思う。
さて、新共同訳聖書イザヤ書の14章1~2節の小見出しは「イスラエルの回復」である。この小見出しと、そのための区切りは、後からつけらえたものである。例えば、前の口語訳聖書に小見出しはなかった。新共同訳聖書には、凡例が記されている。その4に、小見出しの説明として「本文内容区分ごとの概括的な理解を助ける趣旨から、一部の書を除き、小見出しをゴシック体で示した。小見出しは本分ではない。」とある。私の考だが、小見出しを気にせず読んでいただくのがよいように思う。読んで分からない場合、小出しを参考とするのが、または見つけたい聖句の目印として小見出しを用いるのがよいと思う。本日の箇所は、1節と2節で分けてあるが、岩波訳聖書では、1~23節を一つのまとまりとしている。また、日本語訳の七十人訳聖書は、1~3節としている。では、岩波聖書訳ではどのような小見出しになっているのかというと、「バベルの嘲笑歌」である。新共同訳聖書で3~23節は「バビロンの滅亡」、新協会訳聖書では1~23節の小見出しが「バビロンの滅亡」である。このように訳によって分け方、小見出しは異なっている。
バビロンは、紀元前587年に南ユダ王国を滅ぼした。逆にいうと、バビロンに負けたことにより、イスラエルの民である南ユダは国を失った。しかも、地位の高い多くの人がバビロンに連れていかれたのである。それをバビロン捕囚といいう。一方、約50年後にバビロンは、ペルシャによって滅ぼされた。そのことによって南ユダの民は解放された。本日の箇所の後の、イザヤ書14章4節後半~23節は、敗れたバビロン王に対するあざけりの歌となっている。だから小見出しによっては、バビロンに対する嘲笑歌となる。例えば、4節後半は、「ああ、虐げる者は滅び、その抑圧は終わった。」とバビロンによる支配が終わったことを喜んでいる。6~8節はバビロンが滅びたから、全世界いやレバノン杉さえも喜びの声を放つというのである。本日の箇所は、バビロンに対するあざけりの詩の序文といってよいであろう。
旧約聖書イザヤ書14章1節以下に心を傾けたいと思う。1節に「まことに主はヤコブを憐れみ再びイスラエルを選び彼らの土地に置いてくださる」とある。ヤコブは、創世記にでてくる人物である。ヤコブが神と格闘をした後、創世記32章29節には「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」とある。つまり、本日の箇所において、ヤコブはイスラエルを意味している。主、つまり神はイスラエルを憐れみ、選び、約束の土地に置いてくださる。先ほども述べたが、イスラエルの民である南ユダはバビロニアに負け、多くの人がバビロンに連れていかれ、神殿のあるエルサレムは荒廃した。そこで、神はバビロンをペルシャによって負けさせ、イスラエルの民を解放し、再びイスラエルの民を約束の地エルサレムに戻らせ、生活するように導くというのである。
2節にある「もろもろの民」、つまりイスラエルの民以外の人々も、その土地に連れて来られた。連れて来られた人々は、イスラエルの民を捕囚として連れて虐げた敵である。その敵の人々は、イスラエルの民の奴隷となった。そして、神から与えられた約束の地は、憩いの土地となるというのである。そこには、イスラエルの民に対する神の救いが示されている。イスラエルの民は、バビロンに敗北し異邦の国バビロンに連れていかれ、バビロンの支配下で生活を送った。バビロンに負けたイスラエルの民は、神に見捨てられたと感じていたであろう。しかし、神はイスラエルの民を見捨てることはなく、改めて選んだ。そして、神の憐みの時が続くというのである。これは、唯一の神を信じていたイスラエルの民にとって喜びであった。
一方、次のようにも理解できる。イスラエルの民は、バビロンに負けたことにより、滅ぼされ奴隷のようになった。しかし、約50年後、バビロンがペルシャに負けたことにより、立場が逆転した。つまり、この箇所は、復讐の話であると理解できる。イスラエルの民は神の民であり、神の民を攻撃したバビロンは滅びる。そして、イスラエルの民は救われるのだ。つまり、この箇所はナショナリズム、国粋主義を示している。確かに、そのように読むことができるであろう。争いに負け苦しみの中にあるとき、敵を憎み、立場が逆転するような救いを求める気持ちは理解できる。一方、旧約聖書全体が、イスラエルの民のナショナリズムという思想に満ちているわけではない。イスラエルの民、また預言者イザヤはバビロンに負けたことに対して、次のような理解を持っていた。イスラエルの民がバビロンに負けたのは、イスラエルの民自身が神を裏切ったからだ。そこで、この世の創り主なる神はイスラエルの罪を罰するため神の道具としてバビロンを用いたのだとの理解である。それはイザヤの理解である。一方、そのような理解を受け入れることのできないイスラエルの民もいた。実は、本日の箇所は、イザヤの言葉ではなく、後から付け加えられたと理解できる。
では、私たちは、ナショナリズムを、選民としての意識を持っているイスラエルの民を非難すべきなのであろうか。いや、決してそうではないと思う。私たちも、そのように神に特別愛されているという思いを欲し、また持っていると思う。それは悪い思いだと、私は思わない。神の愛を受け取っているからである。そこで、本日の箇所で見たい言葉がある。1節後半に「寄留の民は彼らに加わりヤコブの家に結び付く」とある。ここに出てくる「寄留の民」とはいかなる人々だったのか。イスラエルは、アッシリアに負けた。そこで他の地域に逃げた人々がいた。きっとバビロンに負けた時にも、他の地域に逃げた人々もいたであろう。それを離散の民という。その離散の民のことを、寄留の民の一部であるという理解がある。つまり、離散のイスラエルの民と合流する。しかし、寄留の民はそれだけではない。いや、寄留の民とは、唯一の神の律法を守り、神を自らの神として受け入れて、神の民イスラエルに加わった外国人の意味合いがある。つまり、寄留の民とはイスラエルの民ではないが、唯一の神を信じる外国人なのである。その寄留の民は「ヤコブの家」、すなわちイスラエルの民に加わると、エルサレムで共に居住するというのである。私はここに、私たちの救いがあると思う。確かに、イスラエルの民に加わるという言い方は、イスラエルの民が上位にいるように思う。しかし、私はそうではなく、唯一の神を信じる人々こそ、イスラエルの民であると受け取りたいのである。つまり、ここにナショナリズムを越える理解があると私は見たいのである。
そして、そのことを示してくださった方こそ、神の独子イエスであると思うのである。イエスは、すべての民を招いた。それはイスラエルの民だけではなかった。また、ユダヤ教宗教指導者たちから罪人とされていた人々をも招いた。そこに本来の神の意志があると思うのである。イスラエルの民こそ、その歴史の中で神を裏切った。旧約聖書の歴史物語を次のように私は理解する。イスラエルの民は神を裏切るが、アブラハムとの契約のゆえに何があっても見捨てることなく、神はイスラエルの民を導かれたという内容である。その導きは、血族的なイスラエルの民だけにとどまらず、神を信じる者に対する導きである。いや、イエスこそ全ての人を神の民として招いてくださった。私たちも神の民としてイエスに招かれているのである。
新約聖書におけるパウロの手紙もそのことを記していると思う。人間は、神に対して罪を犯している。神に愛されているにもかかわらず神を裏切り、神の愛を忘れ欲望のままに生きてしまう。しかし、イエスの十字架によりすべての人が神へと招かれている。それこそイエスの恵みであるとパウロは示している。
イスラエルの民は、自分たちこそ神の民であり、神に愛され、神によって救われる特別な民であると理解していた。そのナショナリズムは、本日の箇所から見ることができる。しかし、それでも神の大いなる愛をも、その箇所から見ることができると思うのである。「寄留の民」はイスラエルに加わるという言葉である。ナショナリズムを記しているが、それでも神の愛を隠すことはできない。神はイスラエルの民だけを特別としているのではなく、神を信じる者を必ず救ってくださる。いや、神を信じる者こそがイスラエルの民であると言えるであろう。新約聖書を通してイエスの恵みを示された私たちは、そのことに気づくべきである。つまり、神は特定の民、特定の人のみを愛し救うのではない。神は全ての人をご自分の民として導かれるのである。そのことをこの世に示された方こそ、神の独子イエス・キリストなのである。
3節に「主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日がくる」とある。確かにそれはバビロンの支配から解放されることを示している。しかし、現代の私たちにとって、それはイエスによる救いの業ではなかろうか。イエスはその生涯を通して救いを示された。とくに十字架によって私たちの罪を共に負い、この世的な苦悩、欲望から私たちを解放し、神と共に歩むため新たなる者として導いてくださっているのである。本日の箇所は、イスラエルの民がバビロニアの支配から解放され、エルサレムへの帰還の希望が示されている。同じように、神は私たちを忘れることなく、必ずお導きくださる。私たちはただ神の導きを信じたいと思う。神を信じることこそ、私たちの希望となる。また、この喜びを多くの人と分かち合いたいと思う。
祈祷 慈しみ深い主なる神様 イスラエルの民は、何度も神を裏切りました。しかし、神は必ずイスラエルの民を救ってくださいます。そのイスラエルの民とは血族的な意味ではなく、神を真に信じる者たちのことである、と私は理解します。今日の箇所でも寄留の民を神は招きます。また神の独子イエスこそ、全ての者を招いてくださっています。どうか、私たちが神を信じ、神の救いを確信し、希望をもって日々歩むことができますようお導き下さい。また神の導きという希望を多くの方々と分かち合いたいと思います。世界各地で地震、自然災害が起こっています。苦難、不安の中にある方をお支えください。そのため私たちをお用いください。寒暖の差が大きくなっています。全ての人、特に年を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にある友を心身ともにお癒しください。手術を受けられる友のこと覚えます。どうか成功しますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。報復は神のなさることであると聖書に記されています。どうか指導者が人間的な策略ではなく、神の愛に倣うことができますように。ゴールデンウィーク、事故など起こらぬようお守り、よき休みとしてください。一週間歩み御前に集いました。今日、集うことのできない友のことを覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場、Zoomなどにおいてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美するときとしてください。そして、この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間、また今秋から始まる新しい月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ペトロの手紙(1) 4章 7~11節」
聖書朗読
04:07万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。 04:08何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。 04:09不平を言わずにもてなし合いなさい。 04:10あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 04:11語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「互いに仕え合う」 先週、鳥専門のペットショップに行ったところ、良い出会いがあった。オカメインコを新たな家族として我が家に迎えることとなった。娘が10年以上前からペットを飼いたいといっていた。そこで今年、誕生日プレゼントとしてインコを迎えることになったのである。県外のペットショップに午後から出かけたので、帰りが遅くなってしまった。いつもなら息子が、お腹がすいたと言い始める。しかしこのときは、息子は何も言いださなかった。途中、お菓子屋さんがあったので「寄ろうか」と言っても息子は、「インコが車の中ではかわいそうだから、早く家に帰ろう」と断った。そのインコは姉のためであったが、息子もこのインコを「可愛い」といって、迎えることを喜んだ。「可愛い」という気持ちは、お腹がすいたという思いを越え、自分のことよりもインコのことを思う気持ちになったのである。私は驚きとともに嬉しい気持ちになった。相手を想う気持ちを、インコを通して息子が持った。これからも、相手を想う気持ちが、より強くなってゆけばと思った。余談だが、あまりにも可愛がりすぎて「私が世話をする」と姉弟喧嘩が起こるのは、勘弁してほしいところである。 さて、ペトロの手紙(一)には、ローマ帝国による迫害、あるいは地域社会からキリスト者が迫害されていたという背景があると考えられる。当時、キリスト者は少数だった。そこで、当時のキリスト者はどのように歩んだのか。 7節に「万物の終わりが迫っています」とある。つまり、世の終わり、裁きの時、神が救われる者と裁くものとを分けるとの、その出来事が迫っているという警告である。しかし、ペトロの手紙(一)の全体としては、終末の到来を強く警告しているわけではない。この個所でも終末の到来を強調しているのではないと考えられる。ここでは終末がすぐ来るということを示すことによって、今行うべきことを強調していると考えられる。それは、心をこめ愛し合うこと、「愛は多くの罪を覆う(8節)」こと、もてなし合うとこと、そして、「互いに仕えなさい(10節)」ということである。つまり、手紙を読む人々に、神を中心とする愛によるつながりを強調するため、終末の到来を出しているのではないかと私は考える。困難の中にこそ、神は私たち人間と共にいてくださる。そして、神を中心とし支え合うことによって、その困難を乗り越えることができる。そのことを、迫害の中にある当時の教会の人々に示していたといえよう。 8節に「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」とある。迫害、中傷にあっているとき、大切なのはキリスト者同士が支え合うということではなかろうか。だからこそ、心を込めて愛し合うことが必要となる。そのことによって、苦難を乗り越えることができると思う。 9節には「不平を言わずにもてなし合いなさい」とある。旅人を丁重にもてなすことが当時のしきたりだった。それは、相手を受け入れるという姿勢といって良いのではなかろうか。それは、キリスト者同士のもてなしと考えられる。 10節に「賜物を生かして互いに仕えなさい」と、11節後半には「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」とある。そこでペトロは「賜物を生かして」と言っている。私たちは、神から命を与えられた。そのとき一人一人に賜物が与えられている。賜物とは、神からいただいたものである。命こそ神から与えられたものである。つまり、私たち一人一人が神から必要とされ命を与えられ、賜物を与えられているのである。しかも、次のように記されている。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい(10節)」。すべての人が自分の賜物にふさわしく、それを用いて互いに仕え合い、隣人を愛しなさいと示しているといえるのではなかろうか。 ペトロの手紙(一)の4章7節以下に記されている愛とは、内向けの愛といってよいであろう。つまり、教会内における愛である。それは仕方がないと思う。当時のキリスト教は迫害を受けていたからである。だからこそ、教会の内部において一致団結を図るため、教会内の結束を強めるため、内向きの愛を記している。つまり支え合いなのである。 一方この手紙は、それだけでは終わらないと私は理解している。キリスト者は力を合わせ一致団結し、イエスに従い、イエスの愛に倣う。イエスの愛に倣うことによる業は、この世においても正しい行いである。正しい、愛なる歩みを行うことによって、迫害している人々もきっとキリスト教を理解してくれるという思いがある。つまり、内部の結束を強めることによって神の愛をこの世に現わすことを目指したと理解できないかと私は考えるのである。 そのことは現代の日本、今ここにいる私たちにとっても同様であると思う。ペトロの手紙の時代より現代の日本の方が、キリスト教は認知されているであろう。一方で、それでもキリスト者は、少数である。そこで、私たちは何をすべきなのか。私たちは神から一人ひとり賜物が与えられている。それを自分のためではなく、他者のために用いることが大切なのである。その時、重要なのが「互いに仕え合うこと」だと思う。つまり、私たち共同体のことを、相手のことを考え、互いに何を行えばいいのかを分かち合い、行っていく。そのことによって、私たちの教会の歩みはひとつとなっていくのである。一人の力は弱いかもしれない。しかし、私たちが「互いに仕え合うこと」によって大きな力となっていくのではないだろうか。私たちはイエス、神の愛に倣いたいと思う。イエスこそ一人ではなく、共同体として歩んだ方であった。いや、共にあることの大切さを教えてくださった。イエスには、12人の弟子がいた。イエスが天に上げられた後も、12弟子を中心とする仲間がいた。であればこそイエスの弟子たちは、イエスの救いを述べ伝えることができたのではなかったか。 またイエスは、神の愛を必要としている人々と共にいた。共にいるということこそ大切なのではなかろうか。私たちにも教会の友がいるということが大切なのである。それは神を讃美する仲間である。そのため、まず礼拝を中心にして、神の愛を受け、また、神から与えられる恵み、賜物を確信したいと思う。神は私たち一人ひとりに賜物、恵みをお与えくださっている。そして、その賜物を「互いに仕え合う」ために用いたいと思う。そのことによってこそ、私たちは一致団結し、神、イエスの愛をこの世に現わすことができるのである。 さて本日は、礼拝後に総会が行われる。私は今年度の聖句をペトロの手紙(一)の4章10節「「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」とした。教会標語を「互いに仕え合う共同体」としたいと考えている。昨年の5月から新型コロナウイルス感染症は、5類移行となった。それに伴い、様々なことが世間的にも通常の状態となってきた。筑波学園教会も少しずつ通常の状態に戻ってきた。そこで、改めて、神から与えられた賜物を互いのために用いあい、教会においてよき交わりを持ちたいと私は考えている。そのことによってこそ団結し、宣教を行うことができると私は考えるからである。 宣教にこそ、人と人との交わりが必要である。この交わりの中に神、イエスがいてくださるのである。イエス、神の愛をこの地で多くの人と分かち合いたいと思っている。また、正月には能登半島沖地震が起こり、海外でも地震、噴火、また、先日は愛媛・高知において震度6弱の地震が起こった。教会が団結することによってこそ、外部に対する働きも行うことができると思う。教会内部において、また、外部においても「互いに仕え合う共同体」として今年度歩みたいと思う。相手を思うことによって、また、互いの賜物を用い合うことによってこそ、神の愛はより大きなものとなるからである。
祈祷 いつくしみ深い神様 神は、一人一人に賜物をお与えくださいました。それは、わたしたちを信頼し、神の業に招いてくださっているということです。わたしたちが、賜物を確信し、互いに、そして、社会に仕えることのできるものとしてください。先日は、愛媛・高知、台湾で地震、そして、海外で噴火、大雨も起こり、新しい年から自然災害が多くなっているように思います。どうか被災された方一人一人共にいてくださいますように。希望の道を照らしてください。わたしたちにできることがありましたらお用いください。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友を心身ともにお癒しください。手術を控えている友を支え手術を行うため体調を整えてくださいますように。今、病床にある方を覚えます。どうか、主の癒しがありますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。争いは負の連鎖を起こし、悲しみ、憎しみしか起こりません。そこで被害にあるのは弱い者、特に子供たちです。子どもたちに素晴らし将来を与えるため戦争を止め、互いに手を結ぶ世としてください。新しい歩みをされた方々のことを覚えます。どうか新しい歩みの上に主の導きがありますように。特に、施設に入所された方のことを覚えます。どうか環境に慣れ、良い日々を過ごすことができますように。礼拝後に、教会定期総会を行います。どうか、御心に適うようお導きください。一週間歩み、御前に集いました。今日、集うことのできない友のことを覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場で、またオンラインにおいて、あなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊、祝福を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美するときとしてください。そして、この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 145編 1~21節」
聖書朗読
145:01【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。 145:02絶えることなくあなたをたたえ/世々限りなく御名を賛美します。 145:03大いなる主、限りなく賛美される主/大きな御業は究めることもできません。 145:04人々が、代々に御業をほめたたえ/力強い御業を告げ知らせますように。 145:05あなたの輝き、栄光と威光/驚くべき御業の数々をわたしは歌います。 145:06人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。 145:07人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。 145:08主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。 145:09主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。 145:10主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ 145:11あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。 145:12その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。 145:13あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。 145:14主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。 145:15ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 145:16すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 145:17主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。 145:18主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし 145:19主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。 145:20主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。 145:21わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「あなたの奇跡を歌います」
大学での講義でのこと。学生8名ほどのクラスで、教授が「あなたにとって奇跡とは何か」と質問した。そこで一人ずつ答えていった。私は「私という存在が今ここにあること」と答えた。命を与えられたことこそ奇跡であり、神からの賜物であると考えていたからである。基本的に、その考えは高校生の頃から、今でも変わっていない。皆さんにとって奇跡とはいかなることであろうか。
昨年度から、詩編を月に一度、説教で用いている。本日の日本キリスト教団の聖書日課は、詩編145編1~9節である。本日は145編の最後の21節までに、共に心を傾けたいと思う。詩編のこの箇所は、「アルファベット詩」とも言われている。「いろはうた」のようになっている。そのことは最初に括弧書きで記されている。文の頭文字が「アルファベット」の順で記されているからである。しかし、日本語に訳すときには、そうはできない。145編が、アルファベット詩であることなどから考えると、個人的な詩であると考えられる。それでも、個人だけのことを詠っているのではないということが、145編の特徴としてあげられる。
4節には、「人々が、代々に御業をほめたたえ」とある。神をほめたたえるということを、世代から世代へと受け継いでいくということが意味されている。神への褒めたたえは個人のことではなく、受け継いでいくものであるということである。また、10節「主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ」とある。ここでは、すべての被造物、神によって創られたものが共同体として並んでいるというのである。私たち神によって創られたものは、すべての存在が神の前では同等であり、神によって慈しみを受け、生かされているといってよいであろう。神によって創られたすべてのものには上下関係などない。すべてが神に愛されている存在として共に生きるということである。また、15~16節には「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます」とある。神は、すべての生きものに食べ物を与えてくださるというのである。
では、神は、いかなる方なのか。最初に「わが王、神よ」との呼びかけがある。また、13節に「あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に」とある。11~13節に「主権」とある。それは「王権」とも訳すことができる。つまり、神は、この世を創った方として、この世に対して王としての権威を持っておられる。この世を支配されているのは王である神なのだということである。だから、1節に「わが王」とある。それも145編で特徴的なことであるといえよう。
では、その王権とは、いつからいつまでなのであろうか。1節に「世々限りなく」とあるように、神の王としての支配は永遠であるということである。だからこそ、4節には代々に御業をほめたたえるとあり、わたしの世代だけが神をほめたたえるのではなく、その後の世代にも神をほめたたえることを継承すべきであるというのである。
神の支配とはいかなるものなのか。8~9節に「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちています。主はすべてのものに恵みを与え/作られたすべてのものを憐れんでくださいます」とある。神の支配は強制的な権力ではない。恵みに満ちあふれ、憐れみ深く、慈しみに満ちている。8節に「忍耐強く」とある。他の訳では「怒るにおそい」また、「怒らず」とも。神は、怒る方ではないというのである。そこからも、神とはいかなる方かを伺うことができる。神は、この世にあるものを愛し、生かし、お導きくださる。
本日の箇所を私が選んだのには理由がある。それは、本日の説教題の「あなたの奇跡を歌います」である。それは、5節後半の詩文で、他の学者の訳である。新共同訳聖書では、4節後半「驚くべき御業を告げ知らせますように」である。多くの訳が「驚くべき業、不思議な業」としている。直訳でもそうなるであろう。一方、「奇跡」という訳は他にはなかった。日本語訳で「奇しき業」というのが、それに近いといえるであろう。なぜ、「奇跡」と訳したのか疑問に思った。そこで、その言葉を説教題とした。「奇跡」と訳した理由は、結局わからなかった。5節の「あなたの不思議なみ業の言葉」の「不思議なみ業」は、出エジプトの奇跡を思わせる語、例えば出エジプト記の3章5節「わたしは自ら手を下し、あらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。」の「驚くべき業」にあたる。私なりには、そのように理解した。奇跡は日本語の辞書でも「神の示す思いがけない力」と記されている。そもそも神の行われることは、人間には理解できない不思議なもの、いや、人間には計り知れないことである。神を人間の考え、人間の範疇で理解することなどできない。神こそ偉大な方である。人間は、無から何かを創り出すことはできない。しかし、神は無からこの世を創り出した。それだけではない。人間は神に従う者として創られた。それにもかかわらず、人間は神に背いてしまった。そのような人間を、神は怒らず、慈しみ、恵みを与え、生かしてくださっている。神の業の背後には、無償の愛があるといっても過言ではないであろう。私は思う。神の業一つひとつが人間にとって奇跡であると。7~8節に対して、次のような理解がある。「つまり、神の憐みには限界がないということであり、どのような場、状況においても神の憐みは届くということです」。これは、人間にとって大きな希望であり、救いであると思う。
そして、この救いをこの世に現わした方こそ、神の独子イエス・キリストである。13節に「あなたの主権ははとこしえの主権/あなたの統治は代々に」とある。先ほども、神の支配は永遠だと示された。13節は、ダニエル書3章33節後半「その御国は永遠の御国であり、支配は代々に及ぶ。」など、アラム語では同じあるという。それは黙示文学を通じ、イエスの宣教における「神の国」につながり、福音の中心をなすというのである。つまり、そこにはイエスが宣べたことが示されている。
それだけではない。詩編145編は、ユダヤ教において、神讃歌の代表として、日毎の讃美の祈りに用いられていたようである。そこで、次のような理解があった。イエスが弟子たちに与えた「主の祈り」が、詩編145編と通ずる面をもっているというのである。まず「主の祈り」のはじめ「御名があがめられますように」が、21節「世々限りなく聖なる御名をたたえます」と重なり合う。「御名をあがめる」とは「御名を聖とする」という意味だからである。11~13節に反復される「あなたの主権」と、主の祈り「み国をきたらせたまえ」の「み国」がギリシア語では同一となる。先ほどの13節の説明とも重なるであろう。そして、「日毎の糧を与えたまえ」という「主の祈り」の言葉は、15節「あなたはときに応じて食べ物をくださいます」と響き合う。正直言うなら、詩編145編が「主の祈り」の直接的な下敷きになったとは言えないであろう。しかし、詩編145編が当時のユダヤ教徒の間で広く口ずさまれていたとすれば、両者の間のこのような関連は決して偶然でなかったとうということである。この理解はとても面白いと思う。
詩編145編は、新約聖書に通じる、いや、イエスに通じると言ってよいのではないかと思うのである。イエスが述べた「神の国」、また、弟子たちに教えた「主の祈り」に通じる。それだけではなく、イエスは神の愛を述べ伝えた。「神は忍耐強い」、そして、神は慈しみ深く、その慈しみはどこにいても届く。この神の愛は、イエスの業に通じると思う。ユダヤ教の権力者たち、いや、弟子たちでさえイエスを理解できなかった。それでもイエスは忍耐強く、慈しみをもって導いた。そして、なぜイエスが奇跡を行ったのかということにも通じるように思う。つまり、イエスの業は、人間には思いもしない神の不思議な業である。詩編145編がイエスに通じるのではなく、イエスの業こそ旧約聖書から行われている神の業であり、神への信仰をイエスが継承するために、この世に遣わされ私たちに神の愛を教えて下さったのである。そのように言えるであろう。それは、イエスの業、奇跡が、十字架において示されている。その背後には、神の無償の愛がある。敵をも愛し、赦す十字架こそが奇跡に他ならないように思う。人間には思いもよらない神の奇跡、神の不思議な業、神の恵み、慈しみを、私たちは今も受けていると確信すべきなのである。神の偉大な業を信じた時にこそ、人間は取るに足りないものであると、神の前ではすべてのものが同じであり、神に生かされてしまっているものにすぎないと思うことができる。そのように謙虚になることができる。この理解は大切である。人間自身の過大評価という罠におちいることから避けることができるからである。神の不思議な業、奇跡、愛を確信した時にこそ、私たちはただ神に生かされているものに過ぎない。食べ物も神が与えてくださる。食物、神の愛を私たちは自分だけのものにせず、多くの人と分かち合うものであると思うことができる。神、その独り子の不思議な業、奇跡を信じ、神の王としての主権、この世は神のものであり、神の導きによってなっているのだと気づくべきなのである。私たちは神に生かされてあることを知ったとき、神によって創られたすべてのものと共に、共同体として謙虚に歩むことができる。きっとそこには争いはなくなるであろう。神の大いなる働きをただ信じることこそ私たちの希望であり、また、よりどころなのである。神に従い、全てのものと共に歩むものになりたいと思う。そこにこそ、平和が訪れる。神こそ歴史の中で私たちを生かし、導いてくださっているのである。
祈祷 恵み深い神様 あなたはただ私たちを愛し、その大いなる御業によってお導きくださっています。神の業は私たち人間には思いもしない大いなるもの、奇跡です。また、神は全ての者を愛し、生かしてくださっています。私たちが神の前で謙虚になり、この世にある全ての者と共に歩むことができますよう、お導きください。神の御業を信じることこそ希望、そして、生きる支えになります。また、その業をこの世に現わしてくださった方こそ独子イエスです。どうか、この喜びを多くの人と分かち合うことができますように。そのため私たちをお用いください。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友を心身ともにお癒しください。手術を控えている友を支え、手術を行うため体調を整えてくださいますように。今、病床にある方を覚えます。どうか、主の癒しがありますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。出産を控えている方、母子ともに守りください。どうかこの世に争いがなくなりますように。争いにどんな理由などありません。それは言い訳にしか過ぎないと思います。神は争うためにこの世を創られたのではありません。神の愛によってこの世は創られました。どうかすべての人、特に指導者たちに神の愛を注ぎ、その愛に従って判断することができますように。新しい歩みをされる方々のことを覚えます。どうか新しい歩みの上に主の導きがありますように。新しい命を祝し、お導きください。一週間歩んで御前に集いました。今日、集うことのできない友のことを覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場、Zoomなどにおいてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊、祝福を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美するときとしてください。そして、この一週間の罪、昨年度の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間、明日から始まる新しい年度の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 21章 15~25節」
聖書朗読
21:15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 21:16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 21:17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 21:18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 21:19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 21:20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。 21:21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 21:22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 21:23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。 21:24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 21:25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「愛しているか」
私が以前読んだ本には、ペトロを過小評価すべきではないと記されていた。私たちはイエスの弟子ペトロに対して、どのようなイメージがあるだろうか。ペトロのイメージは、お調子者であろう。イエスが湖の上を歩いていると、自分もイエスさまの元まで歩かせてくださいと求め、歩いた。しかし途中で恐れ、沈んでしまった。イエスが十字架を預言すると、「そのようなことは言ってはいけません」とペトロはイエスをたしなめ、そのことで怒られた。また、イエスがペトロに、「明日の朝まで三度私のことを知らないと言うだろう」と予告したが、「決してそんなことはありません」とペトロは否定した。しかし結局、イエスが裁判にかけられている時、周りの人から「おまえはイエスの仲間だろう」と問われると、ペトロは「イエスのことなど知らない」と三度も述べてしまった。そのようなことから、ペトロの人間的な弱さを見ることができる。一方、ヨハネによる福音書によれば、イエスが捕らえられた時、ペトロが剣を出して兵士の耳を切ったと報告されている。それは、イエスを守る勇敢な弟子の姿である。しかしペトロは、イエスが十字架にかけられるという預言を理解していなかった。イエスは武力に対して無抵抗だった。そのことを理解していなかったペトロの姿が書かれている。
私は、そのようにお調子者で弱く、イエスのことを理解できなかったペトロが、とても好きである。ペトロは弟子たち、いや、私たち人間の代表といえるであろう。では、本当にペトロは弱く、無理解でお調子者だったのか。そうではない。イエスが十字架に付けられ、復活し、その後イエスが天に挙げられてから、ペトロは原始キリスト教団の中心人物となっていった。しかし、聖書を読んで、次のように思われるかもしれない。原始キリスト教団の中心エルサレム教会は、その後、イエスの弟ヤコブが中心人物となった。また、ユダヤ人以外の伝道の中心人物はパウロである。
ペトロの権威は弱くなり、またその活動の力もなくなったのであろうか。いいえ、私たちはペトロを過小評価してはいけないと思う。例えば、カトリックのローマ教皇は、ペトロの後継者であることを宣言している。カトリックで一番上に立つ教皇は、パウロでもイエスの弟ヤコブでもなく、ペトロの宣教の後を継いでいるのである。そこからペトロの影響力、働きを想像できると思う。また、ペトロの権威が聖書に特別記されていないのは、ペトロが決して独裁的な指導者ではなかったということの表れなのかもしれない。ユダヤ主義になり異邦人にも割礼を受けさせるべきだと唱えていたキリスト者に対して、ペトロはユダヤ人にも負いきれなかった律法のくびきを異邦人にも負わせるべきではないと異邦人伝道を擁護した。ペトロは様々な立場を受け入れるという姿勢を持っていたと考えられる。イエスの弟子ペトロを見ることは、イエスを見ることになるのと思う。
さて、ペトロとは、一見お調子者で弱く、イエスを理解していなかったように見受けられる。しかし本当にそうだったのか。ペトロのそれは、ある時までであったと私は考える。その時とはいつであったか。
本日は、ヨハネによる福音書21章15節以下が与えられた。復活したイエスが、7人の弟子に現れ、一緒に漁に行き、そして、食事の後のことである。復活のイエスは、ペトロに「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問うた。他の誰よりもイエスを愛しているかと問うたのである。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。するとイエスは「わたしの子羊を飼いなさい」と伝道の責務をペトロに委託した。再びイエスはペトロに「わたしを愛しているか」と問うた。ペトロは、さきほどと同じように答えた。イエスもまた「羊を飼いなさい」といった。そうすると再び、つまり三度目、イエスは「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と問うた。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。するとイエスは「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と述べたのである。その言葉の後半「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」とある。「両手を伸ばして」とは、十字架に架けられた姿を意味していると理解できよう。そこで、ペトロがこれから受ける迫害と殉教の死をイエスは予告していたのである。ただ、この解釈には反対している学者もおられる。
さて、イエスは、意地悪なのか。ペトロに三度も「わたしを愛しているか」と問うた。ペトロは信頼されていないのではと不安になったのではなかろうか。次のような意味があったと考えられる。イエスは、ペトロが三度、イエスのことを知らないと言うだろうと予告した。その通りペトロは、イエスとの関係を三回も否定したのである。イエスが本日の箇所で三回「わたしを愛しているか」と問うたのは、ペトロが三度「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えたことによって、イエスのことを三度知らないといった罪を赦しているのだと、ペトロがイエスを裏切ってしまったという重荷を帳消しにしているのだと受け取れことができる。だからこそ三度イエスはペトロに問うた。
同時に、私は次のように考える。イエスの最初と二度目の「愛しているか」という問いの愛は「アガペー」つまり、見返りを求めない神の愛を用いた。それに対してペトロの述べた愛は「フィレオー」であり、それは兄弟間の愛である。しかし、イエスは三度目の「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」は、ペトロが答えた愛「フィレオー」という言葉を用いて問うたのである。現代の解釈では、そこでアガペーとフィレオーの違いはなく、単なるギリシャ語の言い回しだという理解が正しいとされている。
しかし、最後にイエスがペトロの用いた言葉「フィレオー」を用いて質問したことに意味があったように私には思えてならない。イエスはペトロの立場に立ち、ペトロと同じ視線で、いや、ペトロが真にイエスの問いに答えることができるように「わたしを愛しているか(フィレオー)」と述べたのではないかと。そのときペトロは、イエスの愛に気づいたのではなかったか。弟子たちの足を洗ったイエス、助けを最も必要としている者の側に、貧しい人々の立場に立ち、その重荷を共に負ってくださったイエス、そしてすべての者の友となってくださったイエスのことをペトロは思い出した。ペトロは、自分の重荷をイエスが負ってくださり、そして、イエスを裏切ってしまったという罪が今赦されたと確信した。だからこそ、イエスが予告したようにその後、迫害にあってもペトロは、イエスの愛を述べ伝えることができたのである。つまり、この三回の、イエスがペトロに「愛しているか」と問うた出来事から、ペトロの新しい歩みが始まった。いや、復活のイエス・キリストがペトロを赦し、新しい歩みを始める力をお与えくださった。ペトロもイエスと共に復活したのである。だから、ペトロはイエスによって赦され、受け入れられたことによって様々な立場を受け入れることができるようになったと私は想像するのである。
その出来事は、決してペトロだけのものではなかった。ペトロは、弟子たちの代表、いや、私たちの代表なのである。イエスは、私たちの罪に対してもペトロと同じように赦しを与え、それだけではなく前に歩むよう力づけてくださる。「フィレオー(わたしの友よ、あなたはわたしを愛しているか)」とイエスは私たちに今、問うているのではなかろうか。先週は、イエス・キリストの復活を祝った。それはペトロに新たな歩みの励ましを与えたように、私たちにもイエスの復活の恵みが与えられたのである。だからこそイエスの赦し、復活こそわたしたちの希望なのである。私たちも新たなる者とされたという希望である。私たちはペトロと同じように復活のイエスに従う者になりたいと思う。
祈祷 愛なる神様 復活のイエスは、ペトロに三度「愛しているか」と問われます。それは、ペトロが三度イエスとの関係を否定した罪を赦すためです。イエスは、私たちにも問うています。そして、復活のイエスは、ペトロ、私たちの罪をお赦しくださり新しい歩みへの力を与えてくださいました。それは、復活のイエスと共にわたしたちも復活し、新たなるものとされることであると信じます。台湾で大きな地震が起こりました。能登半島地震でもまだまだ困難の中にある方がいます。苦しみ、悲しみの中にあるかたがたをお支えください。季節の変わり目、天候が不安定になっています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友を心身ともにお癒しください。手術を控えている友を支え、手術を行うため体調を整えてくださいますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい命のうえに、主の祝福とお導きがありますように。争いで被害にあうのは弱い者です。どうかすべての人が手を結び歩む事ができますように。学校、仕事など新しい歩みをはじめられた方々のことを覚えます。どうか新しい歩みの上に主が共にあり、祝し、お導きくださいますように。一週間歩み御前に集いました。今日、集うことのできない友のことを覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場において、あるいはオンラインで、あなたを讃美するときを持っていることを覚えます。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの祝福があり、全ての人が心を一つに合わせ讃美するときとしてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わしてください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。 アーメン