2012年 12月30日 降誕節第1主日礼拝
07:36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 07:37この町に一人の罪深い女がいた。 イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 07:38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 07:39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、 「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。 罪深い女なのに」と思った。 07:40そこで、イエスがその人に向かって、 「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。 07:41イエスはお話しになった。 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。 一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 07:42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。 二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 07:43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。 イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 07:44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。 「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 07:45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 07:46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 07:47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。 赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 07:48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 07:49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。 07:50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい」と言われた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
この聖書箇所は「罪深い女を赦す」と題されています。
もし他の福音書に同じような内容の記載があれば、このタイトルの下に括弧書きでその箇所が示されているはずです。
このタイトルの下には何も書かれていませんので、この物語はルカ福音書だけに記されているということです。
このことに、この福音書の筆者の言いたいことが滲み出ているような気がするのです。
彼はこの御言葉を、わざわざ35節までの物語の直後に置きました。
そこにこそ、この福音書の筆者の意図があると思うのです。
それでは35節までには、どのようなことが書かれていたでしょう。
洗礼者ヨハネという人が、獄中から使いをやって、イエス様に「来るべき方はあなたですか」と問いました。
ヨハネという人は、誰よりもイエス様が来るべき方、すなわち救い主であると信じ、証しをした人でした。
そのヨハネが、いまわのきわに、その信仰に動揺し、疑ってしまったことを示しています。
この福音書の筆者は、それをありのままに記しました。
それは、彼にとっても、そのヨハネの姿に、身につまされるものを感じたからに違いないと思うのです。
そうしたヨハネの出来事の直後に、わざわざ「罪深い女を赦す」という物語を置いたその真意は、イエス様が来るべき救い主であるとの答えとしてではなかったのかと思うのです。
罪を赦してくださるイエス様こそが、ルカにとっての救い主であったのだと思うのです。
物語を追ってみましょう。
ファリサイ人であるシモンが、純粋にイエス様への好意から、自分の家にイエス様を招待しました。
他のファリサイ人は、イエス様に対して敵意を抱き、訴える口実を懸命にさがしていました。
しかしシモンには、そういう意図は無かったようです。
その席に、突如として、一人の罪深い女が連れられてきました。
彼女がどういう罪を犯したのか、これ以前にイエス様とどんな出会いがあったのか、などは何も書かれていません。
ここには書かれていませんが、彼女はおそらく、イエス様との事前の接点があったのではないかとに想像します。
先週のイブ礼拝では、ヨハネ福音書の一節を読みました。
姦通の現場で取り押さえられた女性の「罪のゆるし」の場面です。
もしかすれば、その女性と今日の女性とは、同じ人物であったのかもしれません。
そういうことがあって彼女は、溢れるような感謝の思いを現そうとしてイエス様ののところへやってきたのではないかと思うのです。
私たちの習慣から言うと、招かれてもいない者が個人宅の食事の席に入って来るというのは、ちょっと考えにくいことです。
とてもにオープンな感じのする食事会であったのでしょう。
私たちは行儀が悪いように感じますが、当時の食事は、寝そべってなされたようなのです。
彼女がイエス様にした振舞いは、女性の方であれば直感的に分かるかもしれませんが、艶かしさを感じさせるようなものでした。
成人女性が人前で、とくに男性に対して髪を解いて、このような振舞いをすることは考えられません。
聖書の注解書にも、そのように書かれています。
それはあたかもイエス様を公然と自らの夫と定めるような行為なのでした。
シモンはこの女性の行為を心の中で非難しました。
しかしイエス様は、借金を帳消しにしてもらった人の喩えを語られました。
この女性のようにイエス様を迎えることをしなかったシモンを、逆に非難なさったのでした。
彼女はイエス様によって罪をゆるされました。
イエス様の溢れるほどの愛の振舞いに、そのことが現れているのです。
ファリサイ人シモンには、そういう振舞いがありませんでした。
彼には、イエス様によってゆるされる喜びがわかりません。
イエス様によってゆるされる喜びがわからなければ、イエス様が救い主であることも、また、分からないでしょう。
これがルカの言わんとすることなのだと思うのです。
そもそも、罪がゆるされるとは、どういうことなのでしょうか。
妙な話になりますが、11月の終わりの頃でしたでしょうか、今でもずっと、その余韻が残る印象的な夢を見ました。
その前日にある信徒さん宅を訪ねました。
そのときに路上駐車していたため、反則切符を切られ反則金を払うこととなりました。
一時停止違反を学生時代にして以来のことでした。
警察署に行って切符を貰い、銀行に行って反則金を支払いました。
それが夢の引き金になったのかも知れません。
何と、私がある人を殺してしまう夢ででした。
私が殺してしまった相手は、私にとって印象深い人でした。
私が大学時代に大失恋をした人でした。
私は、一時はひきこもりのような状態にまでなってしまいました。
それ以後、彼女とは不思議な間柄となりました。
それ以後も、たまに電話で話をしたり、仙台に出張の折に会って話をしたり、懐かしい友人のような間柄となりました。
あの大震災の後、彼女の家も住めなくなったとの電話を貰いました。
わたしも引っ越しでバタバタしていて、その後に、彼女のご自宅の電話番号に連絡をしてもつながらなくなってしまっていました。
私は夢の中とはいえ、そういう人を何故か殺してしまうのでした。
心配してくれる人々に付き添われて、警察に自主をしました。
私は深々と頭を下げて「これからお世話になります」と、さめざめと涙を流しました。
人を殺しておいて、不思議な感情だと思うのですが、自首をした私は、何かすがすがしい思いを抱いていました。
いま考えてみますと、それは、これまで様々なものを積み重ねてきた自分が、すべてを失ってまっさらの自分になって、今後は一人の殺人犯として服役していこうとする姿のすがすがしさのような感じなのでした。
本日の「罪の赦し」というキーワードから、以前に夢に見た内容をふと思い起こしたわけでした。
ところで、罪がゆるされるというのは、決して犯したことが帳消しになるとか、無かったことにされるとかいうのでは決してありません。
「車で人をはねてしまったが、怖くなって逃げた」という話を良く聞きます。
「自分も同じことになったらどうしよう」決して他人事ではないと思いました。
その罪がゆるされるとは、死んでしまった人が生き返り、犯した私に対してその人が「赦す」と言ってくれることです。
これは勿論、有り得ないことです。
遺族が私を赦す筈もありません。
では「赦す」とは、どういうことなのでしょうか。
誰が赦すのでしょうか。
それは、犯した罪を背負いつつ、その責任をずっと背負いつつも、それでも尚、いや罪を犯したからこそ「お前は生きて行っても良い」と、『肯定』のようなものをいただくということではないだろうかと思うのです。
その肯定とは、「罪を犯したことなどどうでもいいよ」という肯定ではありません。
そのような肯定は、決して有り得ません。
そうではなく「罪を犯したあなただからこそ、それ故の使命を授かって、新しく生きて行ってほしい」というような肯定なのです。
生きて行くことへの赦しです。
こういう赦しは、人間が与えることのできるものではありません。
それはただ、神様だけが与えることのできるものではないでしょうか。
罪を犯した加害者はもちろん、被害者もその周りにいる人間にも、決して、このようなゆるしを与えることはできないのです。
その困難な間柄の中に入って来て下さる神様だけが、授けて下さるものなのではないでしょうか。
そこでまた私は、ふと聖書での最初の殺人を犯したカインに対する神様の処遇を思い出しました。
創世記4章15節に「主はカインに出会う者が、誰も彼を打つことのないように、カインにしるしをつけられた」とあります。
神様によって「しるしを付けられた」という意味は、彼が犯した罪が帳消しになるということではありません。
神様からの特別のしるしをいただいたカインは、これからの人生を生きて行く赦しを与えられたのだと思うのです。
それを与えることができるのは、カインの父母ではないし、また、殺されたアベルでもありません。
もちろん、カイン自身でもないのです。
それは神様のみが与えて下さるものなのではないでしょうか。
さて、イエス様がこの女性に、どのような形で罪の赦しをあたえられたのでしょうか。
それはわかりません。
この物語の前段階とでもいうべきイエス様との出会いがあって、そのときにイエス様から「肯定」を与えられていたに違いないと思うのです。
そういうことがあったからこその、彼女のふるまいなのだろうと思うのです。
48節に「あなたの罪はゆるされた」とあります。
これは改めての確認のようなものなのでしょう。
しかし、ここにも、イエス様のお言葉からあふれ出ているのは、やはり「肯定」ということなのである。
「あなたは確かに罪を犯した。その罪がなくなることはない。しかし、その罪を犯したからこそ、あなたは私を通しての神の赦しを体験し、その感謝として、このような振舞いに及んだ。罪を犯し、その罪のゆるしを経験すればこそ、あなたはこうした振舞いにでることができる。あなたは、全く新しい生き方へと進むことが出来ているのだ。」
その振舞いの現れが、8章1節以下に書かれています。
これもルカ福音書にのみ記載されていることですが、イエス様に悪霊を追い出してもらった女性たちや、弟子たちと共に、イエス様に付き添っていたと書かれています。
「罪あるあなたこそが、肯定されているのだ。罪を犯したあなたこそが出来る振舞いなのだ。」ということなのです。
私自身が、かつて体験したことも、そういうことだったのだと、改めて思い知らされます。
私は洗礼を受けるときにも、牧師になってからも、罪の赦しということが実感できませんでした。
私の家族も、私のことを「非常に自己肯定感が強い」とよく言います。
神様から肯定される必要などないほどの自己肯定です。
だから私には罪の実感がないし、罪の赦しがわからないというのです。
しかし、そのような私が、牧師になって7年目くらいのときに、自らの罪を深く知らされる体験をしました。
トマスの出来事、それに続いてヨハネ福音書で書かれている、ペテロと復活したイエス様との出会いの場面を通して、私は「赦し」を知ったのでした。
イエス様は三度、ペテロに「あなたは私を愛するか」とお聞きになりました。
それは彼がイエス様を三度否定したことに由来しています。
しかし、それは決して、ペテロを非難し、埋め合わせるための答えを求めていたからではありません。
そうではなく、そんなペテロだからこそ、誰よりもイエス様を愛し、イエス様から預かった羊を養うのにふさわしい者となれるからなのです。
ペテロの罪は消えるものではありません。
しかし、だからこそ、イエス様を誰よりも愛せるし、その罪において使命を果たすことができるのです。
それを、イエス様は言っておられるのです。
それがペテロへの赦しなのです。
私もそれを授かったのでした。
罪とは、本当に不思議なものです。
罪は、もちろん犯さない方が良いに決まっています。
しかし、罪を犯さずには、その罪を神様によって赦されることはないし、苦悩も苦痛も知らないのです。
罪を犯さずには、その罪を神様イエス様によってゆるされる喜びをも知り得ないのです。
私の見た夢は、かくいう私に「罪を犯すことを味わえ」との神様の御心ではなかったかと思うのです。
それをさせてくれたのが、かの友人であったに違いないと思うのです。
そして、その罪をゆるされない苦痛とは、どれほどのものでしょうか。
この物語に登場する女性は、それを知っていたのでしょう。
しかしファリサイ人シモンは、それを知りませんでした。
シモンは、神様に赦される必要などなかったのです。
彼は誰よりも正しく、誰よりも神様に忠実で、誰よりも罪とは無縁の人間であったのでしょう。
しかし、そこにこそ、彼の不幸があったということです。
シモンは、イエス様を自分の家にお迎えをしていながら、この罪ある女性のようにイエス様と出会うことなく、イエス様を愛することなく、神様による罪の赦しを体験することもなかったのです。
2012年 12月24日 クリスマス・イヴ礼拝
08:01イエスはオリーブ山へ行かれた。 08:02朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 08:03そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 08:04イエスに言った。 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 08:05こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 08:06イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 08:07しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 08:08そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 08:09これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 08:10イエスは、身を起こして言われた。 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。 だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 08:11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 08:12イエスは再び言われた。 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
クリスマスの夜の礼拝に小さなあかりを灯す習慣は、いつ頃から始まったものなのでしょうか。
そもそも、イエス様の誕生をこの時期に定めたのは、確かな史実に基づいたものではありません。
古いヨーロッパの人々が、キリスト教に改宗する以前に祝っていた冬至の祭りが起源だと言われています。
冬至とは、言うまでもなく、北半球においては、一年で最も昼が短く夜が長い日のことです。
その日を過ぎると、今度は、どんどん昼が長くなっていくのです。
イエス様は、もっとも闇の深い時に光をもたらすお方として生まれて下さったとの信仰が、冬至の時期にクリスマスを定めさせたのでしょう。
そして、その光を記念するため、いつの頃からか、灯火をともしてクリスマスの礼拝を守ったのであろう。そこで、私はしばしば「光」に言及する聖書の御言葉を、イブの礼拝で選ばせていただいてきた。
12節、イエス様は「私は世の光。わたしに従う者は・・命の光をもつ」とおっしゃったとあります。
光には様々な性質があります。
私たちがすぐに思い浮かべる光の性質とは「照らされたものの姿や形を浮かび上がらせ、その色を明らかにする」というものでしょう。
暗闇のなかでは、何がどこにあるかわかりません。
それでも手探りで、やっとわかったとしても、色や形はわかりません。
また、蛍光灯の光に照らされたものは、その本来の色とは違ったように見えてしまうこともあるようです。
このように「イエス様が世の光であり命の光である」ということの意味は、「イエス様が世や命というものの本来の姿や形や色合いを明らかにする」ということではないでしょうか。
間違った光に照らされたこの世界や自分自身の命や人生を錯覚してとらえていることから私たちを解き放ってくれるのが、イエス様なのです。
イエス様は、この命を以ってこの世を生きるということが、本来このようなものだと教えてくれるのです。
まことの光であるイエス様に対して、誤った光、すなわち私たちに錯覚をもたらす光とは、どのようなものでしょうか。
それが、今日の物語の登場人物である人々から浮かび上がってきます。
まず、律法学者やファリサイ人といった人々です。
彼らを一言で言うと、まじめに熱心に懸命に、神様の御心に沿って生きたいと願っていた人々でした。
ですから、神様の御心を記している『律法』というものに忠実であろうとしていました。
その律法のおおもとをなす10の戒めを記した『十戒』というものがありました。
確かにその中には『姦淫してはならない』とありました。
それが神様の御心であるのは確かなことです。
そういう光を、神様ご自身が私たちに発しておられるのは間違いのないことです。
問題なのは、姦淫を犯した者を石で打ち殺せと、本当に神様が命じておられるかということなのです。
しかし、律法学者やファリサイ人は、そのように信じていました。
今日の物語を読む限り、イエス様がそのようには思っておられなかったことは確かです。
この物語が私たちに語りかけているのは、「あなたがたは、しばしばこの律法学者やファリサイ人と同じことをしているのではありませんか」ということなのです。
本当に神様の御心なのでしょうか。本当に神様ご自身からの光なのでしょうか。
それがわからないのに、私たちはそれを光と感じ、その光のもとに、ある判断をし、「こんな女は、こういう者は、石で打ち殺せ。排除せよ、切除せよ、私の命や人生に、また、この社会にあってはいけない者だから殺せ」と声高に主張しているのです。
この光は、ただ私たちの内側から、私たちの価値観や人生観から、また、その時代の社会観から、差し込んでいる光でしかないのです。
それを私たちは、神様ご自身からのものと思いこんでいるだけなのです。
この物語の場面は神殿です。
こういうことが最も神聖な場所で、命が貴ばれるべき私たちの最も深い魂というようなところでなされてしまっているのではないでしょうか。
少し脱線になってしまうかもしれませんが、私の心の何処かにずっと残っている文章があります。
記憶があやふやで正確な出典を思いだせませんが(10年は昔に、朝日新聞の記事で、加藤周一という評論家が書いていたものではなかったでしょうか)、その内容はこういうものでした。
中世の有名な神学者にトマス・アキナスという人がいました。
彼は神学大全という膨大な書物を記した人でした。
あるとき彼は、瀕死の重病にかかり、神様と出会う不思議な体験をしたらしいのです。
その後、彼はぷっつりと、この未完の神学大全を書くのをやめてしまいました。
書き終えた部分さえすべて廃棄するようなことさえ望んだらしいのです。
パウロも、ダマスコ途上で、光のなかでイエス様に出会って、それまで不可欠と考えていたものが却って『糞土』と思うようになったと記しています。
神様ご自身からの光に照らされると、こういうことが私たちにもたらされるのです。
光は、命とは何なのかを、そしてその命をもってこの世を生きるとは、どういうことなのかを、私たちに明らかにしてくださるのです。
さて、もう一つの光は、この姦通の現場を取り押さえられた女性から見えてくるものです。
彼女はどういう素姓の人だったのでしょうか。
そして何故、このような不倫を犯し、その現場を押さえられるようなことをしでかしたのでしょうか。
そのことについては、聖書には何も書かれてはいません。
私が想像するのは、彼女と律法学者やファリサイ人とは、何処かで重なる部分があるということです。
一言で言うと、彼女もまた自分自身に対して「石で打ち殺せ」と思っていたのではないでしょうか。
だからこそ、敢えて現場を取り押さえられるように、自らを追いやったのではないかと思うのです。
何が彼女にそうさせたのでしょうか。
夫との生活や家族との間、自分自身の命の在り方・・・彼女は、そうしたものに満たされないものを感じていたのではないでしょうか。
「こんな命、こんな人生など石で打ち壊してしまえ」といった衝動だったのではないでしょうか。
そこにはやはり、神様からではない、間違った価値観、歪んだ光というものがあるのです。
彼女の内面や、社会からの光があるのです。
そういう歪んだ光に照らされて、彼女は自分の命を打ち殺そうとしていたのです。
私たちも、どれ程同じことをしようとしているかと思うのです。
過日、若者に広がる貧困の問題を取り上げたテレビ番組を見ていたとき、一人の若い女性が「どうして生まれてきたのか。生まれて来なかった方が良かった」と言っていたのを、忘れることができません。
今の日本では、一年に3万に近い人々が、自らの命を断っています。
自らの命を石で打ち殺させてしまう、そのように為さしめてしまう誤った光があるのです。
自分の命を石で打ち殺した方がよいと思わせてしまう、間違った光が差し込んでしまっているのです。
こうした誤った光に対して、イエス様が照らしてくださる光というは、いったいどのような光なのでしょうか。
7節に「あなたがたの中で罪を犯した事のないものが、まず、この女に石を投げなさい。」とのイエス様の言葉が記されています。
この問いかけを通してイエス様が言わんとされているのは「私たちすべては、神様のもとでは、罪人といわれる存在ではないか」ということなのです。
イエス様が私たちを照らす光、神様の光とは、私たちすべてを神の前に罪ある者であることを明らかにする光なのです。
「ああ、また、キリスト教の『罪、罪、罪』の追求が始まった」と言われるかも知れません。
また「キリスト教はそうやって、私たち人間をネガティブな存在として扱うから嫌だ」と言われるかも知れません。
しかし、私は声を大にして言いたいのです。
「罪の言及がなされるのは、決して私たちを貶めるためなどではない」と。
それは私たちが、神様という存在の前では、どこか故障しており、欠陥を抱えており、病気の部分をもっていることを認めて良い、そういう存在であっても良い、ということを明らかにしているのです。
私たちは、健康な人の前では、病気を抱えている自分が、どこか恥ずかしくて、そのことを明らかにできずにいます。
しかし、お医者さんの前ではそうではないでしょう。
病んでいる自分を明らかにすることに、何らの抵抗がないはずです。
医者は、そのような私たちの病んでいる部分を「石で打ち殺せ」とは言いません。
むしろ「治してあげよう。大丈夫、あなたは治るよ」と言ってくださいます。
医者が私たちの病に向ける眼差しとは、そういうものなのです。
イエス様が「罪」を言われる時の眼差し、そこから差し込んでくる光とは、そういうものなのです。
反対に私たち自身が、また、この社会が私たちを照らす光というものは、病人であることを許さず、不完全なものであることを許さず、「そんな人間など、役に立たぬ者として切除してしまえ」という光なのです。
イエス様が罪に言及されるときの光とは、どれほど違っいるでしょうか。
私たちは、イエス様の光に照らされたとき、病んでいる自分を、また、お互いを、受け入れることができるのです。
私たちの命の有り様とは、根本的に、このようなものなのです。
神様がそれを大事にして下さるのだから、私たちも大事にしなければなりません。
神様の前では、すべてのものが病人なのだから、決してお互いを石で打ち殺し合うなどということはしてはならないのです。
イエス様が、この罪ある女性をどれほど大切に思っておられたかが、11節によく現れています。
「私もあなたを罪に定めない・・行きなさい」とイエス様が言われたとき、そのお言葉には、イエス様の命が込められていたと思うのです。
この状況の中でこの女性を、罪に定めずに帰してやることは、イエス様にとって、おそらく命がけの行為であったはずです。
イエス様は医者として、ただ目の前の患者の病を明らかにするだけではなく、その病にかかわり治してゆくために、命をかけようとされたのです。
この女性の命というのは、確かに病んでいました。
しかし、イエス様にとっては命をかける価値のあるものでした。
石で打ち殺して良いものではなく、イエス様にとっては、ご自分の命をかけて係わるほどの貴いものだったのです。
そういう医者としてのイエス様との関わりの中で「これからはもう、罪を犯してはならない」とのイエス様のお言葉が実現してゆくのです。
「こんなにもイエス様が私を大切に扱ってくださったのだから、罪ある私を神様が大切に扱ってくださったのだから、私も自分を大切に扱わなければ・・・」と、彼女は思えたのです。
命を罪のために用いるのではなく、姦淫をするために使うのではなく、別の目的のために使いたいと思えたのです。
イエス様を通して、本当の神様に照らされたとき、私たちはこうして、欠けのある命ではあるし、罪のある歩みではあるけれども、命の可能性に目が開かれて「命の光」をもつことができるのです。
2012年 12月23日 クリスマス礼拝
02:08その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
02:09すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
02:10天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
02:11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。
02:12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」
02:13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
02:14「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
02:15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
02:16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
02:17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
02:18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
02:19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
02:20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
02:21八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。
これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
天使は開口一番、羊飼いに「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と言いました。
これに呼応して天の大軍が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と歓呼しました。
クリスマスの出来事は、私たちに大きな喜びをもたらし、救いを与え、平安と安心をもたらすと告げています。
しかし、このことを今日、その言葉通りに単純に素直に受け取るのは、なかなかむずかしい時代社会の中に置かれていることを、近年、私はひしひしと感じざるを得ません。
今まで10年ほどのクリスマス礼拝やイブ礼拝での、私のメッセージを振り返ってみますと、私の心のなかに、この難しさが頑としてあるのです。
先の選挙の結果についても、識者たちは異口同音に私たちが抱えている不安や喜びの無さが如実に現れていると言っていました。
また、一ヶ月ほど前のTV番組だったでしょうか。
若者に広がる貧困を取り上げたドキュメンタリーで、両親と幼くして別れ、祖父母に引き取られた若い女性が「なぜ生まれてきたのか。生まれて来ない方が良かった。」としみじみ語っていたのを忘れることができません。
このような不安や喜びのなさに対して、クリスマスの出来事は、何を語ることができるのでしょうか。
このような人々にも、大きな喜びや平安を与えることができるのでしょうか。
さて、天使は羊飼いに、あなたがたに大きな喜びや救いや平和が与えられることのしるしは、飼い葉桶のなかに幼子が寝ていることだ、と告げました。
しるしとは、シグナルであり、象徴という意味です。
たとえば、青信号は進め、進んでも大丈夫というしるしです。
青信号そのものに、この言葉が貼り付いている訳ではなく、また、青い光のなかに「進んでも大丈夫」という内容の映像が直接的に映っているわけでもありません。
あくまで間接的に青色のランプに、この内容のメッセージが象徴的に込められているだけなのです。
青信号を見た者の側が、込められたメッセージをその光に読みとるのです。
したがって、イエス様が飼い葉桶のなかにすやすやと眠っておられたことは、シグナルなのだということなのです。
だとすれば、クリスマスの出来事が、どうして喜びなのか、救いなのかを問うのは当たり前なのではないでしょうか。
それはあたかも、クリスマスの出来事それ自体のなかに、直接的に私たちへ与えられる大きな喜びや救いや安心を見出そうとすることなのです。
直接的に見ようとするならば、そこにあるのは単に牛や馬のよだれで汚れた飼い葉桶のなかに、無力な赤ん坊が寝ているだけの光景です。
そのこと自体のどこに喜びがあり平安があるかと言わざるを得ません。
そこに喜びや救いや平安を見出すのは、あくまで見る側の受け取りようなのです。
ただの青いランプに「進んでも大丈夫」とのメッセージを受け取るのと同様に、飼い葉桶のなかにイエス様が眠っておられる、ただそういう有り様のなかに、喜びや救いや平安を見出すことを私たちになさしめるのは、突き詰めれば、しるしを見る側の信仰なのです。
神様は、私たちをしてクリスマスの出来事から喜びや救いや平安を得させるために、敢えてこのようなしるしを用いたのです。
これは誰が見ても、そこに喜びや宿りや救いがあり、平和が与えられることがわかります。
そのような形で神様は、クリスマスを到来させようとは為さらないのです。
吹けば飛ぶようなからし種のような形で、洗礼者ヨハネでさえ「来るべき救い主はあなたですか」とイエス様に問わざるを得ない形で、それに対するイエス様のお答えは「わたしにつまずかない者は幸い」というものでした。
スーパーマンが、宇宙から地球に降り立つような有り様では、クリスマスなど来ないのです。
飼い葉桶のなかに無力な赤ん坊が寝ているようなしるしによってのみ、クリスマスはやってくるのです。
その粗末なしるしを信仰をもって受入れ、そこに喜びや救いや平安を見出せるものに幸いを与えるためなのです。
それでは、幸運にも私たちは、このしるしに過ぎない出来事のなかに、どのような喜びや救いや平安を見出すことができたのでしょうか。
7節に「宿屋には・・・場所がなかった」とあります。
これは、直接的には、イエス様がなぜ馬小屋で生まれ、飼い葉桶のなかに寝かせられていたかを語るものですが、それだけを言うものではないように感じます。
それは、この出産誕生が、すべからく「場所がなかった」と言わざるを得ない状況の中で起きたということを、語るのだと思うのです。
2章1節には、当時のローマ皇帝の命令一下、人々が右に左に動かされた有り様が書かれています。
それゆえに、身重のマリアは、どれほど危険にさらされたことでしょう。
誰もそんなところで出産しようとは願わないでしょう。牛や馬の糞尿が垂れこめる、不潔な馬小屋で出産がなされ、新生児は飼い葉桶のなかに寝かされるしかありませんでした。
「泊まる場所がなかった」とは、おおよそ、この家族を取り巻く困難で危険な状況を物語ったいます。
飼い葉桶のなかに寝かされたということは、誕生の時だけではなく、この新しく生まれた子供の行く末を取り巻く環境が本当に難儀なものであることを象徴的に示しているのです。
しかし神様は、この家族を、この環境に打ち勝たしめて下さったのです。
この誕生は「泊まる場所がなかった」という逆境を乗り越えて、無事に行われたのでした。
赤ん坊は何の問題もなく、飼い葉桶のなかに ― 不潔極まりない境遇のなかに ― すやすやと眠っていました。
ここに喜びがあるのを見ないか、ここに救いがあり平安があるのを見ないか、と天使は言うのです。
この家族がこうであり、イエス様がこうであったからには、私たちもそのようであり得るのです。
そこに喜びがあり平安があると告げられているのだと信じられるのです。
この出来事は、ただイエス様に起きたのではありません。
私たちにも与えられる出来事なのです。
イエス様が人としてこの世に生まれてくださったのは、私たちも同じ出来事が起きることを示して下さるためなのです。
イエス様に生じたことを、私たちにも与えるためなのです。
いつの時代であっても、私たち人間は「皇帝」のような権力のもとに置かれているのだと思うのです。
時代が進んで、国家というものが、どんなに私たちのための政治を行ってくれるように見えたとしても、その根源はこの皇帝のような仕業であることを忘れてはならないのです。
たとえば、人々を兵力の対象とするために、また、税金を取るために、いつの時代でも皇帝たる者は同じことをするのです。
人口調査がされ、私たちは「泊まる場所がない」ところに置かれるのです。
私たちが生きて行かねばならない場所は、馬小屋であり、飼い葉桶なのです。
そのような私たちに、文字通り新しい命を神様から授かり、また、それに類似したところの何かを生み出す行為を行い、生み出された子供や何事かや、飼い葉桶のなかでもすやすやと眠り、健やかに成長して行けるのだということを、クリスマスのしるしは語るのです。
これが、天使が開口一番に告げる「恐れるな」の意味なのです。
私たちは恐れています。
皇帝のもとに泊る場所がなく、飼い葉桶のなかに寝かされる、そういう状況を恐れているのです。
そんななかでは生きられない、生きる希望がない、喜びがない、と恐れています。
しかし、それは天の使いの語りかけではなく、天使とは正反対の、それこそ悪魔と呼ばれるような存在からの囁きであり、また、自分自身のなかからの声なのです。
天使は「恐れることはない」と語ってくれています。
イエス様が、このように誕生し飼い葉桶のなかにすやすやと眠っているのですから、そして、十字架の死に至る困難な生涯ではありましたが、そのような生涯を喜びをもって生きて下さったのですから、あなたがたもおそれることはないと言って下さるのです。
もう一点、このしるしから私たちが受け取ることのできるようになった喜びや平安があります。
「乳飲み子」という言葉です。
飼い葉おけに寝かされていたるというしるしは、ただこの時だけの有り様ではなく、イエス様の全生涯を象徴的に示すものであるように「乳飲み子」という表現も同じものだと思うのです。
イエス様の全生涯は、まさしく乳飲み子のようなものでした。
新生児のときには母からの文字通りの乳によって育まれ、また父ヨセフの養育によって育まれ、父母を離れてからは、弟子たちやそばに仕えた人々とのつながりが乳でした。
そして、絶えることなく、天の神様を父母として慕い、神様からの霊的な乳をもって生きておられました。
イエス様がこのようなお方であることを通して、私たちが与えられる喜びや平安とは何でしょうか。
救いとは何でしょうか。
それは「あなたがたも私のような乳飲み子であって良いのだ」というメッセージだと思うのです。
私たちは、いつの時代でも、ローマ皇帝の如き存在に右往左往させられて、結果的に、泊まる場所を失っているのです。
皇帝が求めるのは、常に大人として自立し、また、皇帝の兵力として戦うこと、稼ぐことのみです。
常に私たちに、そういう在り方を課してくるのです。
その結果として、私たちは、どんどん生きる余地を失ってしまうのではないでしょうか。
そして、恐れをいだいてしまうのではないでしょうか。
このような私たちに対して、イエス様のしるしは語りかけるのです。
「あなたがたが、たとえ泊まる場所がなくなり、飼い葉桶のなかに置かれたとしても、もし乳飲み子であろうとするなら、あなたがたは安らかに生き得るであろう」と。
乳飲み子として生きること、周囲の人々と神様に対して乳飲み子として生きることを止めない、失わないことが、許されているのであるし、それが私たちに平安や救いや喜びをもたらすのだと語りかけているのです。
先ほどの若い女性のうめきに対して、私は答えることができたでしょうか。
その女性にとっては、乳飲み子として生き得る場所が本当に必要なのだと思うのです。
その場所とは、教会なのではないでしょうか。
神様からの乳を頂きつつ、教会の交わりのなかで乳をいただき、また今度は自分も、いつの日か誰かに乳を与える者となるのです。
皆が泊まる場所のない所で生きているのだけれども、飼い葉桶のなかで、お互いに乳飲み子であることを大切にして歩んでいきたいと思うのです。
2012年 12月16日 待降節第3主日礼拝
21:01主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、
21:02彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。
それは、神が約束されていた時期であった。
21:03アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、
21:04神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。
21:05息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。
21:06サラは言った。
「神はわたしに笑いをお与えになった。
聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を
共にしてくれるでしょう。」
21:07サラはまた言った。
「誰がアブラハムに言いえたでしょう
サラは子に乳を含ませるだろうと。
しかしわたしは子を産みました
年老いた夫のために。」
21:08やがて、子供は育って乳離れした。
アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
今日の説教題を「約束の子の誕生」としました。
約束の子とは、イエス様のことではなく、今日の御言葉に出てくるイサクのことです。ただ、イサクの誕生とイエス様の誕生、またクリスマスの出来事は、何となく重なり合っているのを感じます。
イエス様の誕生に先立って洗礼者ヨハネが誕生しました。ヨハネの誕生は、このアブラハム・サラと同じように、長く子供が与えられなかったザカリヤとエリザベツからのものでした。
マリアも、また、もしかしたら、許婚(いいなずけ)のヨセフと結婚できなかった何らかの事情を抱えていたのかもしれません。
「恵まれた女よ、おめでとう」と、マリアは天使ガブリエルから告げられました。
しかし、その背後には、逆に恵まれ得ない事情があったのではないか、と想像してしまいます。
そういうエリザベト、またマリアの肉体を用いて、神様はヨハネとイエス様を誕生させました。
それは100歳と90歳の老夫婦を用いてイサクを誕生させた出来事と重なり合うのです。
私と同じようなことを感じた人がヨーロッパにもいたのでしょう。
北フランスの、ある教会には、イエス様の誕生とイサクの誕生をダブらせて描いている壁画があるといいます。
さて、1節と2節をまず読んでみますと、イサクの誕生が「約束通り」、「さきに語られた通り」、「神が約束された時期」に、起きたことが記されています。
直接的には、この約束というのは、17章と18章を指しています。
神様の使いがアブラハムとサラに現れて、イサクの誕生を告げました。
そのとき二人は嘲笑うしかなかったのでした。
それを神様は受け止めて「それならば生まれる子はイサク(彼は笑うという意味)と名付けよ」と言われました。
6節を見ると、そのことが思い起こされるのです。
神様の使いがそれを告げてから、このイサクの誕生に至るまで、まだ一年しかたっていません。
しかし、この一年の間に、大きなことが起きました。
甥のロトが住んでいた地域一帯に硫黄が降って壊滅し、逃げてきた人々に押し出されるような形で、アブラハムとサラはどんどん西へと追いやられてしまいました。
とうとう行き場を失って、アブラハムは妊娠しているかも知れなかった妻サラを妹だと、生涯二度目になるひどい嘘をついて、アビメレクという王様に人質に差し出さざるを得なかったのでした。
約束が成就する一年間でも、これだけのことが起きました。
ぼんやりとした約束ではありましたが、最初にこの夫婦に子孫の誕生が約束されたのは、さかのぼること25年前、アブラハムが75歳、サラが65歳のときのことでした。
創世記12章2節に「わたしはあなたを大いなる国民とし」と、約束されたのがはじめだったのです。
本当にそれから多くのことが起きました。
25年という長い歳月と、なかなかこの約束が実現しなかったためにこそ、この夫婦には、様々な試練が襲いかかったのでした。
何よりも考えさせられるのは、どうして神様は、約束を実現されるのに、これほどの歳月を経過させられたのか、ということです。
アブラハムとサラを忍耐させ、彼らに希望をより強くいだかせるためと取れるかもしれません。
しかし、総じて顧みると、彼らには忍耐などなかったのだと思うのです。
たった一年間のなかでさえ、サラを妹と嘘をついて人質に出してしまうようなアブラハムでありました。
21章9節以下にあるように、アブラハムが直面しなければならなくなるイシマエルと言う子供も、また、アブラハムが約束を待つことができずに、サラにいわれるまま、ハガルという奴隷との間に作ってしまった子供でした。
信仰者列伝と言われるヘブル書の11章8節以下に、彼らのことは「信仰によって」歩んだ、いかにも信仰深い人々のように描かれています。
しかし実際には、決してそのような者ではなかったのです。
25年の年月を経ることで、そこに如実に現れているのは、むしろ二人の信仰のやぶれなのでした。
忍耐することができず、希望を抱き続けることのできない姿なのでした。
そういう姿を、私たち信仰者の父祖のありのままの姿を指し示すところに、まずは25年の意味があるように思えるのです。
しかし忍耐深いのは、神様の方なのです。神様の側こそが、約束に忠実であり、反故にされないお方なのです。
私たちの側が、どんなに約束を信じることができなくとも、神様は約束に忠実であって下さいます。
それが25年の意味なのです。
25年の意味が、もう一つ示されています。
2節と7節に「年老いた」と言う言葉が繰り返されており、5節にはアブラハムが100歳であることが明記されています。
7節には、はっきりとではありませんが、サラがとうてい子供を産めない状態であったことがほのめかされています。
なぜ神様は敢えてこの夫婦を、100歳と90歳になるまでにしておかれたのでしょうか。
それは、彼らをこのような状態に至らせるためだったのだと思うのです。
彼ら自身の肉体は、もはや、子供を産むことができないと思われるような状態にさせることが、先ほどのヘブル書で「死んだも同様の一人の人から」とある事柄なのです。
神様はこのような状態に二人を至らせて、そのうえで、彼らの肉体を、とくにサラの胎をお用いになったのでした。
若い夫婦の間柄と若い女性の胎をお用いになるのでなく、あえて、まるで死んだような、自分自身に於いては何の生み出す力もなくなったような肉体を用いられるのです。
これが神様の為さり様なのです。
これが25年の歳月の意味だと思うのです。
いつもクリスマスになると、マリアが「お言葉通りにこの身になりますように」と語ったことが、深い恵みとして感じられます。
神様は、アブラハムやサラがどんなに信仰にやぶれていても、お言葉通りに約束を成し遂げられるのです。
しかし、成し遂げられるには、神様のお言葉がその通りになるためには、私たちの「身」が、必要とされるのです。
神様のお言葉だけでは、それはこの世の現実のなかで実現はしないのです。
神様のお言葉が約束通り実現するためには、私たちの身が、それも老いた、死んだような肉体が不可欠なのです。
神様が、そのような肉体をお用いになると聞いて、アブラハムとサラは失笑するしかありませんでした。
老いた肉体が何の役にたつのか、と失笑するしかなかったのです。
それは、ただ私たちの肉体の状況だけでなく、私たちの社会の有り様のことではないかと思うのです。
私たちの世界は今、本当に失笑するしかないような有り様なのです。
ちょうど今日は、衆院選の投票日です。
事前の世論調査では、まだ3月11日から2年も経っていないというのに原発の継続を主張し核武装も考えるという党が政権を取りそうな、あるいはキャスティングボートを握りそうな勢いです。
国防軍については、もう何をか言わんやであります。
これが今の日本の状況なのだから、失笑するしかありません。
しかし、考えてみれば、かつてのイスラエルの状況などは、もっともっとひどかったのでありましょう。
紀元前の600年代の後半、アッシリアという大国が常に脅威となっていた中で、多くの人々は、「自分たちの国だけは大丈夫だ、安泰だ」と言っていました。
それに対しイザヤやエレミヤやエゼキエルやゼファニヤといった数少ない預言者たちは、「神様は、この国にこそ厳しい将来を与えられる」と語りました。そしてその預言は、その通りに実現したのでした。
紀元前587年から翌年にかけて、南ユダの国は凄惨な戦争の果てに滅亡し、生き残った人々の多くはバビロニアへ捕虜として引かれていきました。何も残っていない何も生み出す力もない状況に人々は追いやられたのでした。それはまさに、このアブラハムやサラが置かれた有り様と同じでした。
「なぜ神様は、私たちをこのような境遇に落とされるのか」と人々は問うたでありましょう。
そのときに、この創世記の物語は何かを語りかけたに違いないのです。
それは、神様は、このような私たちをこそ、お用いになるというメッセージなのです。
そのように聞いたとしても、おそらく失笑するしかない状況だったでしょう。
「自分たちに、いったい何を生み出せるというのか」と問うしかなかったことでしょう。
けれども、神様は彼らをこそ、用いられるのです。
そんな彼らからこそ、将来を担う者たちが生み出されてゆくのです。
それを預言者は「残りの者」と表現しました。
すべてが失われてしまうのではないのです。
100歳や90歳になっても、必ず残りの者があるのです。
それを神様は用いられます。
そのために年月が経ち、老いや病が私たちを襲い、私たちは自分たちを失笑するしかない状況に置かれるでしょう。
しかし、そこに神様の約束が働くのです。
失笑は喜びの笑いへと変えられるのです。
2012年 12月 9日 待降節第2主日礼拝
04:01そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
04:02一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。
愛をもって互いに忍耐し、
04:03平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
04:04体は一つ、霊は一つです。
それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
04:05主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
04:06すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
04:07しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
04:08そこで、
「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、
人々に賜物を分け与えられた」
と言われています。
04:09「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。
04:10この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
04:11そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
04:12こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、
04:13ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
この手紙の1章23節に「教会はキリストの体であり」とあります。
また、5章30節にも「わたしたちはキリストの体の一部」とあります。
この手紙の著者であるパウロにとって、教会がキリストの身体であり、私たち信徒がその身体の一部であるということは、彼の手紙すべてを貫く主題の一つであると言えます。
パウロのこの言葉とその考え方を、マタイによる福音書18章20節に書かれている「二人または三人が・・・」というイエス様のお言葉と合わせると、イエス様の言わんとするところがわかってくるように思えるのです。
わずか二人か三人であっても、イエス様を信ずる者が、イエス様のお名前によって集まるところには、そこにイエス様がおられるというのです。
すなわち、あたかもイエス様のお身体がそこにあるかような感じを、私たちは抱くことができるということです。
それは、教会の外から見たときにも、私たち信者がそうやって集まっているところには、イエス様がおられるかのような印象を抱かせることができるということなのです。
しかし、このような信者の集まり、すなわち教会が、キリストの身体であるといわれることについて、大いに憤慨される人もいるかもしれません。
現実の教会の、いったいどこに、そのようにキリストの身体たる面があるというか、というわけです。
教会の内部の者たちが、そこにキリストが、あたかもおられるかのような思いを抱くことができ、また、教会の外にいる人々にも、教会の存在にイエス様の存在を見ることができるようなことが、果たしてあるといえるでしょうか。
そのようではないからこそ、多くの人々が教会につまずき、教会を離れてしまうというのではないでしょうか。
日本では、無教会と言う教派まで生まれました。
かく言う私の父も、教会を離れた人でありました。
私の父が50歳頃だったでしょうか。
それまでの私の父は、本当に熱心な信者であったと思うのです。
教会の役員を長く務め、教会幼稚園の設立や運営にも深く携わりました。
そんな父が、ぷっつりと教会から遠ざかってしまったきっかけは、教会の移転問題でした。
教会が、公園の拡張と道路拡幅計画にかかってしまいました。
牧師と一部の役員は、その計画に反対をしました。
父は、長く建設会社の事務員をしていたこともあり、また古くなった会堂や園舎を、こn移転計画によって新築をしたいとの思いもあったのだと思うのです。
父はその計画に賛成をして、結果的に、その対立から教会を離れることになりました。
それ以後の父のすさんだ生活は、教会だけではなく職場でのことも加わったのだろうと想像するですが、目も当てられないほどでした。
酒浸りの生活でした。
そのようなすさんだ生活がやっと止んだのは、土砂降りの雨のなか、酔って道路をふらふらと歩いていて2台の車にはねられ、九死に一生を得た後のことでした。
それでも、父の教会生活が回復することはありませんでした。
それがやっと回復したのは、私が郡山教会に赴任し、父母を郡山に呼び寄せた以降のことでした。
教会におけるこのような現実を、私はどれほど見聞きしてきたことでしょう。
教会も確かに人間の集まりに過ぎない面があります。
教会につまずき、教会を離れる人の思いも、良く分かる気がします。
しかし教会は、どんなに人間の集まりであるという性格を強く見せたとしても、教会がキリストの身体であるが故に、決して失わない特徴というものがあると私は思うのです。
マタイによる福音書の18章20節で「二人または三人が・・・」とイエス様が言われたのは、教会がどんなに人間の集まりに過ぎないとしても、そこには決して失われない「わたしがそこにいる」との特徴があるということを約束され、保証されたものだと思うのです。
使徒信条で「(我は信じる)聖なる公同の教会・生徒の交わり(を)」と告白するのは、まさに、この点なのです。
信じるというからには、目の前の現実として「キリストの身体」がそこにあるということからではないのです。
目には見えないかもしれません。
しかし、イエス様がそうおっしゃってくださるからには、そこにイエス様がおられるのです。
そこにキリストの身体があると信じることなのです。
それを希望とし、期待を失わないことなのです。
それでは、教会がキリストの身体であることにおいて、決して失わない特徴とは、どのようなものなのでしょうか。
教会のどのようなところに、私たちはキリストの身体たるものを垣間見ることができるのでしょうか。
まず第一にパウロが挙げているのは、4節から6節に書かれていることだと思うのです。
教会が、一つのキリストの身体であることにおいて、信者が一つのキリストの身体に結びつけられ、その部分をなしていることにおいて、そこには一つの霊、一つの希望、一つの主、一つの信仰、一つの洗礼、一人の神によって結びつけられ、また、それがゆき渡り、流れているのです。
当時の人々が受洗する際に教えられ、読み、式文のような感じを受けた文章です。
教会が、たとえ人間の集まりに過ぎないとしても、しかし教会が教会である限り、イエス様の名によって集まっている組織体である限り、そこには、突き詰めればイエス様を信じる信仰が流れているのです。
たとえて言えば、イエス様という方を、共通の食べ物としていただく共同体のようなものなのです。
同じ食べ物をずっと食べ続ける夫婦や家族というのは、いろんな意味で似てきます。
同じ食べ物であるイエス様という方を、あたかも食べ物のようにしている共同体は、食べ物であるイエス様の人格や生き方に共通して似て来ざるを得ないのです。
イエス様の人格やご生涯が持っておられるものを、私たちは醸し出さざるを得ないということです。
イエス様の香りを放つことが、その共同体に現われるイエス様の身体であり、また、教会の外にいる人々が、私たちを見て何となく感じとるキリストの身体ではないでしょうか。
あるいは、「私たちはキリストというぶどうの幹に接木された枝枝なのだ」と、たとえることができるかもしれません。
そのようであるなら私たちは、ぶどうの実以外の実をつけることはできません。
それ以外の実を実らせようとすれば、それは自ずから枯れてしまいますし、また、歪んだものにならざるを得ないということです。
教会は、どうしても、ぶどうの実をつけるしかないのです。
ぶどうの実をつけることにおいて、幹であるイエス様の存在が現れてくるのです。
では、私たちがキリストの身体としていつも食べているイエス様という食べ物とは、どのようなものでしょう。
私たちが、私たち自身につけ加えるべく定められているぶどうの実とは、どういう実なのでしょうか。
それは、イエス様が人となり十字架にかかって下さったことに現されています。
私たちは教会で、これ以外の食べ物を食べることはできないのです。
これ以外の実をつけることはできないのです。
もちろん、この世の生活では、私たちは立身出世や名所栄達といった食べ物を糧とする生き方から免れることができません。
私たちには、どうしても、高さと豊かさを求めざるを得ない生活があります。
しかし教会では、少なくとも、それが公の目標やスローガンとして掲げられることは、あり得ないのです。
教会の食べ物、すなわち教会が実らせるものとはなり得ないのです。
「日常の生活では、あの人はあんな風に生活しているのに、教会ではあんなことをしている。偽善者ではないか」、「俗世間であんな生き方をしていた人がクリスチャンだったなんて」と言われることがあります。
しかし、私は改めてそれで良いのだと思うのです。
大切なことは、教会における「公の」生活や在り方では、この世の世俗の生き方や目標とは訣別した生き方をしていることなのです。
世俗の在り方とは違うのです。
教会での在り方を持っているのです。
そういう部分が、7日のうちの1日でもあることが大事なのです。
人生において、高さや豊かさを求めない生活があるということ、イエス様という方を食べる生活があるということが、自分にとっていかに大切な部分であり、なくてはならないものだと思っていることが大事なのです。
私たちが、どんなに世俗の生活で名誉や豊かさを食べ物としていても、教会におけるオフィシャルな食べ物は、イエス様のみなのです。
イエス様が人となり、十字架にかかってくださったがゆえに、教会では貧しさや弱さがおとしめられ、軽んじられることはないのです。
私が幼い頃、郷里の教会で直感的に感じていたものがあります。
それこそ、教会がキリストの身体ゆえにこそ、持っていたものだと思うのです。
それこそ、キリストの香りであり、臭いだと思うのです。
今となっては、正確には知ることもできませんが、少し言葉とお身体に不自由なところのある、お仕事はゴミ収集の車に乗っておられた教会員のことが、私の幼い頃の記憶としてあります。
世間的には、もしかすれば、差別されるようなところがあったかもしれない人でした。
しかし、教会のなかでは、その人はとても大切にされていたと記憶しています。
その人が私に向けてくださった眼差しは、とても優しく、子供ながらに感じられたものは、とても暖かでした。
それは子供の感覚ですから、多分にあたっていると思うのです。
また、あるとき、教会で結婚式があり、子供だった私たちも列席していました。
ささやかなお茶会の途中、花嫁さんが癲癇の発作を起こして倒れてしまいました。
しかしその場にいた皆さんは、ごく自然に対処をされ、やはり子供ながらに感じたものは、それを怪しんだりおとしめたりするものでは決してなかったということなのです。
これが、私にとってのキリストの身体なる教会の有り様です。
微かにではありますが、しかし、そこにはキリストがおられたのです。
つぎに、教会がキリストのからであるが故に決して失わない特徴としてパウロの挙げているのは、2節と3節にあると思うのです。
パウロは、3節の最後に「努めなさい」と言っています。
ですから、エフェソ教会の現実としては、残念ながら、個々に挙げられている事柄が少ない、見えないということがあったのかもしれません。
しかしパウロが「努めよ」と語りかけたのは、努力すれば可能だと信じたからだと思うのです。
不可能な事柄ではないと信じたからなのです。
なぜ不可能ではないかと言えば、教会がキリストの身体であるがゆえに、その特徴が必ずあるからなのです。
柔和、寛容、忍耐、平和、一致ということが列記されています。
これらが、キリストの身体たる教会に授けられている特徴であるということです。
人間の組織体であるゆえに、相性の悪さや好き嫌い、思想や考え方の溝がつきものです。
それをなくして、誰もを好きになれ、と言うのではありません。
そんなことは不可能です。
そうではなく、感情の問題ではなく、相手の立場を認め、尊重し、どんな人であっても、立つ瀬を与えてあげるということが言われていると思うのです。
もう一つ、これはしばしば私が用いるたとえですが、教会とは、イエス様を一人の主治医とし、或いは、イエス様から臓器を移植していただいた患者同士の共同体なのだと思うのです。
同じマイナスを抱え、だからこそ、イエス様によって手術していただき、イエス様の臓器をいただいて、やっとそこで生きることができた患者の集まりなのです。
お互いにプラスの部分、良い部分、自慢できる部分、出ている部分を突き合わせると、対立が起きます。
しかし教会とは、マイナスの部分、凹んでいる部分、それをイエス様によって埋め合わせていただいた者としての集まりなのではないでしょうか。
お互いをそういう者として見ることが、お互いの立つ瀬をつくることなのだと思うのです。
性格も仕事も思想も違う者たち、それこそ投票する政党も違う者たち、普通であればそんな者たちが決して時を同じくすることなどありえないのに、そういう者たちが教会を形づくるのです。
ある時間を共有するのです。
それは、まことに稀有なことではありませんか。
そこにイエス様がいるからこそ可能なことではないでしょうか。
キリストの身体の現れではないでしょうか。
第三の特徴は、7節以下で語られていることです。
キリストの身体であるがゆえに、様々な、多様な賜物が与えられているということです。
賜物は、特に奉仕という面においてのことです。
キリストの身体としての教会独自の特徴は、奉仕の豊かさということではないでしょうか。
奉仕という語は、ディアコニアという言葉です。
英語ではサービスです。
礼拝もサービスなのです。
礼拝だけではなく、私たちが教会に属しているが故に事欠かないサービスがあります。
イエス様が先ず、サービスしてくださったということです。
イエス様が人となって、その生涯をもって私たちにサービスをしてくださったということなのです。
イエス様は、サービスをするということによる人生の嬉しさや喜びを、私たちに伝えてくださいました。
そうであるが故に私たちも、喜んで様々なサービスができるのです。
二人または三人が共にいるところには、サービスは尽きません。
また、世の人々に対しても、サービスの機会は絶えないのです。
2012年 12月 2日 待降節第1主日礼拝
07:18ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。
そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、
07:19主のもとに送り、こう言わせた。
「来るべき方は、あなたでしょうか。
それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
07:20二人はイエスのもとに来て言った。
「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、
『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」
07:21そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。
07:22それで、二人にこうお答えになった。
「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
07:23わたしにつまずかない人は幸いである。」
07:24ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。
「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
07:25では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。
華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。
07:26では、何を見に行ったのか。預言者か。 そうだ、言っておく。預言者以上の者である。
07:27『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。
07:28言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。
しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
本日12月2日から、クリスマスを待望する4週間のアドベントに入ります。
今日の聖書箇所は、その始まりに相応しい御言葉が与えられたと思います。
洗礼者ヨハネが、二人の弟子をイエス様のもとに遣わして「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と問いました。
このとき洗礼者ヨハネがどのような境遇にあったか、ルカはここには書いていません。
しかし3章19節以下を読むと、次のように記されています。
「19ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、20ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。」
また、マタイ、マルコ福音書は、ヨハネの最後のありさまについて丁寧に書いていますが、このルカ福音書には、9章7節以下に、ごくあっさりと記しているのみです。
とにかく、このとき洗礼者ヨハネは、牢獄に囚われていて、いつ処刑されるかもわからない身の上にありました。
そんな彼が、イエス様のもとに使いを送って「来るべき方はあなたでしょうか」と質問したのでした。
このことについては、昔から様々な解釈がありました。
4つの福音書には、若干のニュアンスの違いがありますが、ヨハネこそが誰よりもイエス様のご正体を知り、イエス様をキリストとして、来るべき方としての証しをした人でした。
そんな彼が牢獄にあって、このような問いをしたことは、多くの人々を不安の中に突き落としたのではないでしょうか。
ヨハネは、イエス様を来るべきお方として信じる彼の信仰に動揺をしたのでしょうか。
疑いを抱いたのでしょうか。
もし、そうであるならば「いわんや、私たちに於いてをや」だと思うのです。
だから私たちは、そのようなことを否定したいと思うのです。
4つの福音書のうち、マルコやヨハネがそれを記さなかったのも、そういう気持ちがあったからなのかも知れません。
しかし、マタイとルカはこれを包み隠さず記しています。
私は、むしろ、ヨハネがこの時に及んでイエス様がキリストであることを疑ったという事実にこそ、私たちへの慰めがあり励ましがあると思うのです。
ヨハネは、わざわざ二人の弟子を同行させて、この問いをさせました。
二人というのは、証人としての意味であるのです。
ヨハネは、そうやって、自分がこのような問いをイエス様に突き付けたことを、後の私たちに、しっかりと直面させようとしたのです。
「あなたがたも、私と同様に、このような問いをせざるを得ない時が必ずやって来る。イエス様がキリストであると証しした私でさえ、或る時、人生の一番困難な時、その信仰に動揺を来すことがあるのだ」ということなのです。
一人の信仰者の生涯においては、そうした時が必ずあるのです。
決して矛盾するものではありません。
証しをし、また、疑うことが、信仰のありのままの姿なのです。
ヨハネは、いわば、私たちの代表として、イエス様にこの問いをしたのでした。
なぜ、ヨハネはこうした疑いを持ったのでしょうか。
ヨハネは、キリストについて、来るべき方について、そもそもどのようなイメージを持っていたのでしょうか。
それは、やはりルカが3章7節以下に記している彼の伝道の様子から、よく分かると思うのです。
ヨハネは、開口一番「差し迫った神の怒り」と言いました。
「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と言いました。
ヨハネにとって、神の御業とは怒りであり、良い実を結ばない木を切り倒す斧のようなものなのでした。
それを、目に見える形で表すのが、即ち、来るべき方に他ならないと考えていたのでしょう。
何よりも自分自身が、今、悪しき実を結ぶヘロデの悪しき「斧」の犠牲になろうとしていました。
「あなたがキリストであるならば、今こそ悪しき実を結ぶヘロデの斧に優って、神の斧の力を表す時ではないか。そのようにして欲しい」というのが、ヨハネの願いだと思うのです。
そして、それは彼だけの願いではなく、イエス様の弟子たちや、当時のイスラエルの人々の一般的な願いであったはずです。
また、私たちも、同じような思いを抱くのではないでしょうか。
クリスマスの時期になると、私の中に、いつも首をもたげてくる問いがあります。
2000年前に、救い主としてイエス様がお生まれになったと言いますが、一体、この世界は、その後、果たして「救われた」世界だと言い得るのでしょうか。
この世界のどこが、イエス様を通して、神様によって統べ治められている世界だと言えるでしょうか。
私たちも、また、ヨハネと同じように「牢獄」に閉じ込められている存在なのだと、突き詰めて思うのです。
一人一人にとっては、病気の牢獄があり、経済的困窮の牢獄があり、広く世界を見渡せば戦争や暴力の牢獄があります。
この国でも、年末には選挙があります。
過去60数年、平和な国を形づくるのに、決定的な役割を果たした憲法9条は、いまや風前の灯火と言えるかもしれません。
ある政党は、国防軍の創設だ、と言っています。
もし戦闘地域に隊を派遣するということになり、隊員になり手がいなくなれば、徴兵制の可能性もあるのではないかと私は危惧します。
これが今の日本の実態なのです。
こういう世界のなかに、私たちも閉じ込められているのです。
この只中で、私たちもまた、ヨハネと同じように「救い主はあなたなのか」と問わざるを得ないのです。
これを問わずして「メリークリスマス」と言うのは、浅はかではないかと思ってしまうのです。
私たちは、いつも何処かでイエス様が「大木」のような神様の支配を、この世にもたらしてくださることを望んでいます。
ヨハネの思いも、まさにそれでした。
しかし神様は、吹けば飛ぶような、どこにそれがあるかもわからないように小さな、からし種のごときものとして、イエス様を通しての救いを、神の支配をもたらそうとされました。
だからこそ私たちは、ヨハネと同じように「どこにあなたの支配があるのか。斧があるのか」と問わざるを得ないのです。
ヨハネのこの問いに対するイエス様のお答えの最後は「私につまずかない人は幸いである」でした。
・・・ということは、私たちは、イエス様につまずくことが大いにあるということなのです。
つまずかないことは幸いである、ラッキーとしか言いようがないことなのです。
神様は、たとえ100粒の種のうち、99粒が鳥に食べられ、石地で枯れ、茨に覆われたとしても、一粒が良い地に落ちて何十倍にも実を結ぶことを良しとされるのです。
大木のようなご自分の支配が、イエス様を通してこの地上に現され、100人のうち100人がイエス様を「あなたこそキリストです」と平伏することよりも、たった一人の人が幸運にも、からし種であるイエス様を救い主として「信じる」ことのほうを善しとされるのです。
そのことにこそ、幸いを盛られようとなさるのです。
イエス様は、問いの答えの始めに「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」とヨハネの弟子に言われました。
イエス様にとって先駆者であり、洗礼も授けてくれた、いわば恩師が今、牢獄にあって、救いがどこにあるかと悩んでいるのでした。
そうであるならば、イエス様が自ら彼のもとを訪ね「私が来るべき者だ」と答えてもよいではないかと思うのです。
大木のような神の御業の訪れではないにしても、不思議な力を使って牢獄から解放してやっても良かったのではないかと思うのです。
しかし、イエス様は、つまずくような答えしかお与えになりません。
見聞きしたことを伝えよ、と使いの者に言うのみでした。
ヨハネに与えられるのは見聞きだけ、弟子たちの伝聞だけでした。
どんなに聞いても、それが牢獄にいる彼に、文字通り起きることではありませんでした。
ヨハネが、私たちの代表としてイエス様に問いを突き付けたように、今もまた、私たちの代表としてイエス様からの答えをいただいているのだ、と思うのです。
彼が受けた答えは、また、私たちがいただく答えでもあるのです。
私たちがいただく答えも、伝聞なのだということです。
聖書を記した人々の伝聞、それを読み、また、礼拝で牧師が語る説教を通しての伝聞、このことにつまずかない者は、本当にラッキーとしか言いようがないでしょう。
しかし、それが御心に適っているのです。
神様は、これで良いのだ、これで十分なのだと言われているのです。
これが必要にして十分な答えなのだと示されているのです。
伝聞の内容は「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」でした。
この伝聞を聞いたとしても、それが文字通りヨハネの身に起こり得ることではありません。
先日の召天者記念礼拝においてもお話をいたしましたが、ナインのやもめは死んだ一人息子を生き返らせていただきましたが、そんなことは礼拝に集うご遺族の皆さんには、到底起きることではないのです。
では、何のために、聖書を通してその伝聞を聞くのでしょう。
聞くことに何の意義があるのでしょう。
それは、文字通りではありませんが、何らかの意味でそこに記されたことが、聞いた者にも起こるからなのです。
伝聞を聞くことは、決して無駄にならないのです。
もちろん、100人の人が聞けば、99人は「こんなからし種」と言って捨ててしまうでしょう。
つまずいてしまうのです。
しかし、たった一人の心のなかに、何かが起こるのです。
それはいったい何でしょう。
イエス様は、人として生まれて下さいました。
そして、からし種のような生涯を生きて下さいました。
そして、十字架の上で吹き飛ばされてしまいました。
しかし、そのご生涯を私たちが聖書を通して聞くとき感じるのは、人として生きることは喜びだ、ということなのです。
イエス様が人として生まれて下さって、苦労の多い生涯を生き、十字架に至られたということは、そのような生涯であっても幸いなのだ、ということなのです。
「人間としてこの世を生きることは、捨てたものではない」そういうイエス様の目が、私たちの目となり、足となり、耳となり、その健やかさや清らかさが、私たちのものとなるのです。
イエス様の幸が私たちのものとなるのです。
それが福音を告げ知らされることに他ならないのです。
一人ひとりが、全世界が、一挙に、同時に、圧倒的に、という形ではなく、こうして、からし種としてのイエス様に出会い、この方に自分を結びつけることで、それまで見えなかったものが見えるようになり、人生を生きられるようになり、喜びを見出すことが、私たちが抱く「来るべき方はあなたですか」への答えなのです。
2012年 11月25日 降誕前第5主日礼拝
04:26また、イエスは言われた。
「神の国は次のようなものである。
人が土に種を蒔いて、
04:27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
04:28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
04:29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
04:30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。
どのようなたとえで示そうか。
04:31それは、からし種のようなものである。
土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
04:32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
今日の聖書の御言葉は、イエス様が神の国を種の成長にたとえた箇所です。
最初に申し上げておくのは、神の国とは、いわゆる死んでから行くとされる天国のことではありません。
ギリシャ語の言葉通りに訳せば「神様の支配」となります。
それは私たちが、神様とつながり、神様の御手のなかで生きるということを指しているのです。
突き詰めれば、私たちが信仰を抱いて生きることに他なりません。
順序は逆になりますが、30節以下でイエス様がまず言われているのは、この信仰のスタートが、からし種のようなものとして始まるということです。
からし種のようなものから始まって、葉の陰に鳥が巣を作るような大きな木に成長するというのです。
皆さんは、からし種の実物をご覧になったことがあるでしょうか。
私は見せていただいたことがあります。
それは実験に使うシャーレに脱脂綿を敷いて、その上に置かれていました。
手のひらの上にのせたら何処にあるのかわからないくらい小さく、吐いた息で吹き飛んでしまうほどの大きさでした。
ゴマ粒の三分の一もない大きさでしょう。
また、からし種が育って子供の背丈くらいになった鉢植えを見せていただいたこともあります。
また、庭先に、かなりの高さになったものの写真を見せていただいたこともあります。
パレスチナでは、3~4メートルほどの大木になるとのことです。
私たちの信仰のスタートを神様が、このように小さくて吹けば飛ぶほどのものにされるということを、まずイエス様は言われるのです。
信仰には、どんなに年数が積み重なり、ある部分では成長し、しっかりとした木になっても、なお、からし種のような部分があるのではないかと、私は思うのです。
そういう小ささやもろさを失うことがないのが信仰ではないかと思うのです。
私たちは、しばしば、信仰がいつまでもそんなような状態であるのは、信仰の成長への努力を怠っているからだと思うことがあります。
しかし、イエス様が言われるのは、それが神様の思し召しなのだということです。
神様がそうされているのだということです。このことは私たちを慰めてくださるように思うのです。
それでは、信仰のスタートがからし種のようなものであるというのは、あるいは信仰がいつになってもからし種のようなものであるというのは、どういうことでしょうか。
私たちに神様を教え、神様とつなげてくださることのよすがは、言うまでもなくイエス様です。
イエス様の伝道の第一声は「神の国は近づいた」でした。
それは、イエス様が伝道の働きを始めて人々がイエス様と出会うことこそが神様の支配の始まりであるという意味でした。
だから神の国の始まりがからし種のようであり、また、私たちの信仰がどんなに年を重ねてもからし種の性格を失わないということは、とりもなおさずイエス様こそがからし種のようなお方であったからではないでしょうか。
神様は、からし種とは正反対な比喩を使えば「大木」のような有り様として、イエス様を通して神の支配をこの世に打ち立てることを、なさいませんでした。
あまたの天の軍勢を率いて、この地上に正しく神の王国を建てるようなことは、なさらなかったのでした。
人々はそれこそを望んでいたのですが、イエス様はそれを拒んで十字架につけられました。
もしイエス様が、天の軍勢を率いてこの世の悪と悪人を一掃し、今に至るまでそのような実効支配を維持しておられるなら、全世界の人々がイエス様を救い主として仰ぐことは、たやすいことでありましょう。
しかし、それは神様のなさり方ではないのです。
それでは、イエス様が大木として植えられたのであって、からし種として蒔かれたのではないのです。
救い主は、人として生まれ、多勢に無勢のなか十字架につけられて殺され、三日目に復活されました。
しかし私たちには、そのお姿も、実効支配されている有り様も見ることができません。
そのことはパウロが第一コリント書の第一章で言っているように「愚か」であり「つまずき」なのです。
私たちの信仰は、いつでもこの愚かさとつまずきを抱えています。
これに加えて代々の教会は、このキリストを聖書という媒体を通して、さらには、その聖書を人間が語るという説教を通して、このからし種たるイエス様を蒔くしかないのです。
何とまどろっこしくて、まわりくどいやり方でしょうか。
なんと宣教の愚かしく思えることでしょうか。
こうして、私たちの信仰の始まりは、からし種としてあらざるを得ないし、また、どんなに時を経たとしても、その性格を抱えざるを得ないのです。
それは決して私たちのせいではなく、神様の深い思し召しによるのものなのです。
では神様は、どのような思し召しからイエス様をからし種の如きものとして来らしめ、また、私たちの信仰をそのようなものにされているのでしょうか。
このことを私たちは極めることはできません。
しかし、およそ以下のようなことを考えさせられるのです。
まず「大木」という有り様で、イエス様が世界の隅々まで悪を一掃し、実効支配をしておられる状況というのは、言わば、隅々まで警官や軍隊が配備され、彼らが目を光らせている状態といえます。
それは基本的に、強制の中に、無理強いの下に置かれているようなものなのです。
神様は、このような形でご自分の支配をなさろうとはされません。
神様が何よりも大切にされるのは、私たちの自由なのです。
神様は、敢えてイエス様をからし種のごとき存在としてこの世に来らしめ、私たちがその外見によってだけでは馬鹿にし、貶(おとし)め、つまずき、愚かだと思うようになさいました。
神様は、イエス様をどう扱うかを私たちに全く委ねておられるのです。
その有り様が、4章1節以下の種を蒔く人のたとえ話の言わんとするところではないでしょうか。
このたとえ話は、この御言葉を記した人々によっても、もっぱら種を蒔かれた、即ちイエス様を信じ、御言葉を蒔かれた側の私たちの問題として理解されてしまっています。
成長しないのは、私たちに原因があると思ってしまいます。
私たちの姿を反映しているのです。
しかしイエス様がそもそも言われているのは、種が道端に落ちて鳥に食べられても、石だらけのところに落ちて枯れてしまっても、茨にふさがれても、そんなことにはいっこうに構わずに種を蒔き続ける神様のお姿を記すところに、本来の意図があるのだと私は思うのです。
神様はそうやって、イエス様というからし種をどのように受け取るかを、私たちにお任せになっているのです。
たとえ多くの種が―福音の宣教が―無駄になったとしても、中には良い地に落ちるものもあるのです。
それとて私たちの側が良い地に迎え入れたというのではないのかもしれません。
小さなからし種ゆえに偶然に手からこぼれおち、蒔こうと思って蒔かれたのではない形で地に落ち、私たちの心にいつの間にか入り込み、何かの機会に発芽の条件が整って芽が出たというのもあるでしょう。
小さな子供の頃に、親に無理強いされて教会学校に行かされた人もあるかもしれません。
ある年齢に達すると、教会からは離れてしまうこともあります。
しかし何かに接して、突如として休眠していた種が発芽することがあります。
そのようにして教会に再び来られるようになった方も多かろうと思います。
そうやって神様は、私たちに自由に、いやもっと突き詰めれば、―それが26節から29節で言われていることのポイントであると思うのですが―私たちの自由さえ超えて「自然に」私たちの関与さえ超えた自ずからの成り行きにお任せになっているのです。
神様は、そのような自然の成り行きを信頼なさっておられるのです。
そのようにして蒔かれたからし種のようなイエス様が、この方を信じる信仰が、いつの間にか成長し、私たちの中でしっかりと枝を茂らせて、大きな働きをするようになることを知っておられるのです。
すでに蒔かれた小さな種が、どのように成長するかという話が26節以下に書かれています。
私たちは、成長させるのは私たちだと思っているところが大いにあります。
確かに28節にある「土」について言えば、信仰を成長させる土というのは、たとえば私たちが教会生活を守り続けることなども、その要素ではあるのでしょう。
しかしイエス様はここで、蒔かれた種の成長については私たちが関与できないことを何よりも言っておられるのです。
「どうしてそうなるのか、人は知らない。」と。
おそらく、この当時の農業は、今のように良く耕し、肥料を入れ、不断に手入れを怠らずに・・・というような緻密なものではなかっただろうと思うのです。
雨期に雨が降って、辺り一面が種を蒔くのに丁度良い頃合いになったのを見計らって、とくに肥料を入れることなどなく、ごくごくアバウトに種をざっと蒔いたのでしょう。
だから4章1節以下にあるように、そこは石地であったり、あぜ道であったり、ということが地面が乾いたときにわかるような状況で、また、そんなことでも、いっこうにお構いなしであったのでしょう。
そんなふうに放っておいても、人が夜昼寝ていても、種はみずからが持っている力で、土との協調のもと成長してゆきます。
何よりも、種自身に、その力が秘められているのです。
植物自身にその力が宿っているのです。
「成長、成長」と私たちは、しばしは肥料をやり過ぎ、水をやり過ぎてしまいますが、それは促成栽培となってしまいます。
かえって駄目にしてしまうのです。
種の成長には、時が必要であり、また、順序があるのです。
私たちの信仰を振り返ってみましょう。
それは、私たちが自分で成長させたことによるのでしょうか。
土を耕し、肥料をいれたからなのでしょうか。
そうではありません。
確かに教会から離れなかったということはあるでしょう。
しかし、それとて、突き詰めれば、自分がそうしたからではないのです。
ある人が教会を離れ、信仰の成長が止まったのは、その人のせいなのでしょうか。
私たちが成長したのは私たちの故なのでしょうか。
そうではないのです。
それは「ひとりでに」なのです。
なぜなのかは、私たちには分からないのです。
土を地味豊かにし、信仰を成長させてくださるのは、神様なのです。
神様は、私たちに起きる様々な機会や経験をとらえて、そのようにしてくださるのです。
私たちの信仰は、いつまでも、からし種たる性格を失うことはありません。
私たちは「いつまでも、からし種のようなままだな」と情けなく思うかもしれません。
しかし、私たちには感じられなくとも、成長しているということもあるでしょう。
いつかは、必ず大きくなって、しっかりと私たちの内なるところで枝を張り、私たちの内なる部分が土砂崩れを起こしたり、崩壊したりすることから私たちを救ってくださるに違いないのです。
また、他の人々を宿せるような役割もできるのです。
イエス様を敢えてからし種として蒔き、無駄も私たちの不信仰も構わずに蒔き続け、そして自ずから成長させてくださる神様を信頼しようではありませんか。
2012年 11月18日 降誕前第6主日礼拝
20:01アブラハムは、そこからネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、 20:02アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。 20:03その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。 「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」 20:04アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。 20:05彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。 また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。 わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。 20:06神は夢の中でアビメレクに言われた。 「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。 だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。 20:07直ちに、あの人の妻を返しなさい。 彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。 しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」 20:08次の朝早く、アビメレクは家来たちを残らず呼び集め、一切の出来事を語り聞かせたので、一同は非常に恐れた。 20:09アビメレクはそれから、アブラハムを呼んで言った。 「あなたは我々に何ということをしたのか。 わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。 あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。」 20:10アビメレクは更に、アブラハムに言った。 「どういうつもりで、こんなことをしたのか。」 20:11アブラハムは答えた。 「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。 20:12事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。 わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。 それで、わたしの妻となったのです。 20:13かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、 『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」 20:14アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、 20:15言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きな所にお住まいください。」 20:16また、サラに言った。 「わたしは、銀一千シェケルをあなたの兄上に贈りました。 それは、あなたとの間のすべての出来事の疑惑を晴らす証拠です。 これであなたの名誉は取り戻されるでしょう。」 20:17アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった。 20:18主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
本日の聖書箇所は、アブラハムがゲラルという場所に住んでいたときに、その土地の王であったアビメレクに対して、妻サラを「妹」だと嘘をついたことから始まっています。ゲラルというところは、はっきりとは分かりませんが、地中海沿いのペリシテと呼ばれる地域の南に位置していたと言われています。説教題に「再び嘘をつくアブラハム」としたのは、彼は二十数年前にも、全く同じような嘘をついたことがあったからです。そのことは、創世記の12章10節以下に書かれています。そもそもアブラハムが移り住んだ土地の王様が、彼の妻サラを妹であると聞いて後宮に召し入れたということを、文字通りに受け取ることは、易しくありません。そのときのサラは65才くらいでしたし、今日の箇所では90才になろうという年齢です。この時代には年齢の数え方が今とは違っていたという人もいますが、そのような年齢になっている女性を、はたして王様が、大奥のようなところに召し入れるということがあったでしょうか。今日の聖書箇所では、アビメレクがサラに手を触れる云々・・・ということも書かれています。しかし、アビメレクがそのような事をしようとしたとは考えられません。
他人の土地に寄留するアブラハムが、その土地の王様にさし出す人質のようなものだったのでは?と私は想像します。王に差し出された人質は、じゅうぶんな礼を尽くして処遇しなければなりませんでした。それが、大奥のようなところへ妻のような立場で召し入れることなのではなかったと思います。そうであるならば、むしろ妹よりは、妻の方がずっと重みが増すはずです。敢えて、妹だと嘘をつく必要はなかったと思うのです。しかしアブラハムは、また同じような嘘をついたのでした。
私が心引かれるのは、このような彼の嘘を二度にもわたって、包み隠さず記す聖書の奥深さというか、懐の深さです。アブラハムという人物は、この聖書を読む人々にとっては、信仰の父です。普通ならば、一度目はともかく、二度目の嘘は隠してしまいたくなるものではないでしょうか。ましてや、この時期の嘘です。この時期というのは、21章に記されているように、妻のサラには間もなく、待望のイサクという子供が誕生しようとしている時期という意味です。18章で神の使いから、来年の今頃、また私たちが来るときには子供が生まれていると告げられた時期なのです。そのような時期に、このような嘘をつき、どんな事情があるにせよ、もしかしたら、既に懐妊しているかもしれない妻を人質として、他人の妻として差し出すというのは、何ともひどいことではないでしょうか。二十数年前についた嘘よりも、今回の嘘のほうが何倍もひどいものと思えます。しかし、そのことを、実に淡々と聖書は記しています。それは何故なのでしょう。今日の説教の結論の先取りともなりますが、それほどに、アブラハムとサラなら大丈夫だ、と聖書を記した者は知っていたからではないでしょうか。彼ら自身が大丈夫だからというのではなく、そのようにひどい嘘をつく彼らであっても、神様が彼らを守って下さるから大丈夫だという信仰がそこにはあるのです。直前の20章で、こんなむごいことがあったのに、直後の21章では、ちゃんと二人に子供が誕生すると語っています。この夫婦と同じような状況に、何度となく落とされたイスラエルの人々、ユダヤ人たちは、どれほどこの物語によってはげまされたことでしょう。
さて、それでは、なぜアブラハムはゲラルに移り住まざるを得なかったのでしょうか。また、このような嘘をつかざるを得ない羽目に陥ったのはなぜだったのでしょうか。20章1節に「そこから」と書かれています。参照付きの聖書には創世記18章1節が、ここでの参照箇所としてあげられています。そこからの「そこ」とは、マムレの樫の木の傍らのことなのです。18章では、この傍らでアブラハムは神様の使いと会ってイサクの誕生を告げられました。また、甥のロトが住んでいる町の壊滅を告げられたのでした。アブラハムはそれを聞いて、必死になって交渉し10人の正しい人がいるならば町を滅ぼさないとの約束を引き出したのでした。さらに遡ると、このマムレの樫の木の傍らという場所は、やはりロトと結びついていて、アブラハムにとって忘れ得ない場所となっていることがわかります。13章に記されていますが、アブラハムがロトと袂を分かたなければならなくなったときのことです。家畜を養うことを第一に考えたロトは、滋味豊かなヨルダン川低地一帯を住まいの地として選び、悪名高いソドムに居を定めたのでした。故郷を一緒に旅立ち、ずーっと自分たちの跡継ぎであると思っていたロトと別れ、心細さや将来への不安で一杯だったアブラハムに、神様は「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と言われたのでした。このように告げて下さった神様に、祭壇を築いて礼拝を捧げたのが、マムレの樫の木の傍らでした。また、ロトが王たちの戦い巻き込まれて捕虜にされたとき、彼からのSOSを聞いたのも、この場所でした。
このような理由から、アブラハムはゲラルへと移り住んだのでした。それはつまり、長い間、祭壇を築き神様に礼拝を捧げてきた場所、神様の御言葉を聞き、神様の使いと出会った場所から離れることを意味しています。信仰の危機というか挫折というものが象徴的に描かれているように感じます。それを引き起こした直接の原因が直前に書かれています。ヨルダン川低地一帯の滅亡の出来事です。甥のロトが死んでしまったかもしれないという悲しみがあったでしょう。あんなにも交渉したのに、滅ぼしてしまった神様への怒りや反発ではなかったでしょうか。壊滅した地から多くの人々が避難してきて、よそ者だったアブラハムたちはそこに留まれなくなったという事情もあったかもしれません。どんどん押し出されて、とうとう西の端、目の前は地中海というゲラルにまで追い込まれてしまったということでしょうか。これが神様のされることなのか、という思いだったかもしれません。もう信じることができなくなったということかもしれません。12章にあるように、神様の約束を信じて75才で、一族と別れて見ず知らずの土地にやってきたのに、真っ先に与えられたのは祝福とは正反対の飢饉でした。だから、もはや神様を信頼することができなくなったことから、嘘をつくようになったのではないでしょうか。今回もまた前回と同じなのでした。待望の子が授かろうとしているときに、前回と較べて何倍も深刻な嘘をつく破目に陥ってしまったのです。
このようなアブラハムとサラを、神様はどのように取り扱われたのでしょう。信じることができなくなり、ひどい嘘をついてしまう奴らだと、神様は彼らをお見捨てになられたでしょうか。そうではありませんでした。むしろ、その反対でした。彼らをお守りになったのです。神様は、アブラハムが恐れていたアビメレクを通して、それを為されたのでした。アビメレクの夢に現れて事実を告げ、また、このままにしておくと起きるであろう災いを告げることによってでした。
神様の為さり方で、とても面白いと感じさせられる点です。なぜ神様は、当のアブラハムに現れるのではなく、アビメレクに現れたのでしょう。アブラハムもサラも信仰が弱まり、神様を礼拝することから遠ざかっていましたから、そのような彼らに無理やり現れることは為さらなかったということなのかもしれません。また11節で、アブラハムはアビメレクに「この土地には・・・」と言っています。アブラハムやサラに無理やり現れて、それを告げられるよりも、アブラハムとサラが恐れている当の相手が、実は予想に反して、神を畏れ敬う存在であると知らされるほうが、もの凄い驚きがあります。
この夫婦と同じ境遇に置かれたユダヤの人々が、このことからどれ程の慰め深い示唆を受けただろうかと想像してしまいます。「この土地には・・・」というアブラハムの畏れは、まさに彼らが抱き続けた恐れなのです。たしかに、その通りであったことの方が多かったに違いないのです。しかし、中には、このようなアビメレクのような人もいたのでした。神様を畏れることが全くないと思っていた人々、その地域のなかに、神を畏れ、神と出会い、ユダヤ人を正当に扱ってくれた人々もいたのでした。恐れや杞憂の中で、客観的な出会いとして、思いもかけず、こうした人々と出会っていくこと、それによって、イスラエルの人々は危機を乗り越えさせていただいたのではないでしょうか。アビメレクの言葉を通して、アブラハムは神様が、こんなひどい嘘をつく自分を、なおも「預言者」とし、自分の祈りがアビメレクの命を救おうとして下さっていることを知らされました。預言者といい、祈りの力を持っている人というのは、決して嘘をついたことがないとか、信仰の弱りを覚えたことのない人ではないと思うのです。そうではなく、むしろ、このアブラハムのような者なのでしょう。彼のような者であればこそ、なおも、そういう自分を支え、守り、預言者として扱おうとされる神様の奥深さを知るのです。自分たちゆえに大丈夫なのではなく、神様が守って下さるから安心なのだと、身を以って語ることができるのです。アブラハムの祈りは、本当に王や宮廷の人々を癒した、といいます。私たちも、そのような預言者としてありたいものだと思います。
2012年 11月11日 降臨前第7主日礼拝
03:14こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
03:15御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
03:16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、
03:17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
03:18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
03:19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
03:20わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、
03:21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
今日の聖書箇所の御言葉は、エフェソ教会の人々のためにパウロがささげた祈りです。はじめにパウロが祈っているのは、16節の最後にあるように「あなたがたの内なる人を強めて下さるように」です。この言葉を読んで私たちはすぐに、パウロが記した第二コリント4章16節「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」を思い起こします。パウロが私たちに語りかけているのは、まず何よりも、私たちには「内なる人」という部分領域が存在しているということです。それがあるからこそ、たとえ「外なる人」が衰えてゆくとしても、「内なる人」が日々新たに強くされてゆくので、落胆せずともよいということなのです。
では、「内なる人」と「外なる人」というのは、どのような部分をいうのでしょうか。よく誤解されるのは、「外なる人」とは私たちの外面的な部分、すなわち肉体を指し、「内なる人」とは内面、すなわち心とか精神を指すという理解ですが、これは間違っています。肉体も精神や心も、外的な環境や、置かれた状況の影響を受けざるを得ない「外なる人」に過ぎません。これに対して、「内なる人」とは何かというと、17節に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」とあるように、突き詰めれば、信仰が生じるところの心の内なる部分、神様とつながり、イエス様を宿してゆく、いわゆる霊的といわれる領域、スピリチュアルと呼ばれる部分をいうのです。もし、私たちに「外なる人」しかなかったなら、私たちは置かれた外的な環境の影響を受け、肉体の衰えと共に精神も弱って、ただただ外なる境遇の奴隷となるしかない者なのです。このとき、パウロはローマ帝国の囚人でした。いつ処刑されるかも知れない身の上に置かれていましたが、もしパウロに「外なる人」しかなければ、その境遇に縛られて、何の希望も持てない存在となるしかなかったでしょう。しかし、私たちには、そうした外なる境遇に縛られることのない、外なる境遇に連動して肉体や心が衰えたとしても、反対に新たにされ、強くされるところの「内なる人」という部分があるのです。そうであればこそパウロは、喜びの手紙と呼ばれるフィリピ書を書くことができたのでしょう。
改めて思うのは、私たち人間は、他の生き物とは違って、はじめからこの「内なる人」という領域が備えられている存在だということです。創世記1章には、神様が私たち人間だけをご自分の似姿に造られたと書かれています。その神様の似姿とは「はじめに神は天地を創造された」と聖書の一番はじめにあることから、創造する力だと教えられてきました。
今日は、別の見方が与えられています。『似せて』とは、神様と似る者であるほどに深く神様とつながり、結びついている存在であるということではないでしょうか。そういう存在であればこそ、私たちは創造的に生きることができるとうことではないでしょうか。土の塵から造られ、他の生き物と同様に、土の器でしかないとしても、― そうであればこそ、環境の影響に左右される存在ではあるけれども ―、神様に結びついているからこそ、創造的に自由に生きることができるのです。私たちが、初めから根源的に神様につながる者であることは、神様が刻んで下さったものであって、私たちから取り去ったり破壊したりすることができないのです。これが内なる人なのだと思うのです。
では、創造のはじめから、人間として生まれたときから備わっている、この内なる人とは、ただ黙っていても、外なる人の成長と共に成長してゆくものでしょうか。そうではない、と思うのです。身体や心が日々食べ物を必要とするように、内なる人も、日々滋養を必要とするのではないでしょうか。しかし、私たちはどうでしょう。もっぱら肉体の成長のためには食べ物を摂り、病気になれば医療の手助けを得るのを怠りません。心や精神の成長のためにも、教育を受けて不断に滋養を取り込みます。しかし、内なる人は放りっぱなしなのではないでしょうか。だからこそ、手入れを怠り放っておかれた内なる人は、私たちに逆襲をしだすのではないでしょうか。内なる人に神様が下さった可能性や能力が高ければ高いほど、それがちゃんと成長せず空腹のまま放っておかれたために生ずるトラブルもまた大きいのではないでしょうか。滋養が与えられないまま歪んでしまった内なる人には、様々な得体の知れないものが入り込み、肉体や心・精神を暴走させてしまうのではないでしょうか。
一例として、ヨハネ福音書4章に記されたサマリアのシカルの井戸端で、イエス様と出会った一人の女性の有り様が、如実に表していると改めて思いました。イエス様との間に、先ず、水をめぐっての対話がなされ、それから彼女の6人もの男性遍歴の実態が明らかにされ、最後にまことの礼拝についての対話がなされていました。この一連の対話が示しているのは、彼女が霊的な渇きを覚え、それは神様との真の出会いが為されなければ満たされない渇きであるのに、彼女はそれを何人もの男性との遍歴を重ねることで満たそうとしていたということです。内なる人の渇きや餓えは、彼女にこのような生き方をなさしめたのです。今日の時代、どれほど多くの人が同様の生き方をしているでしょう。薬物、アルコール、物やお金や権力、暴力、犯罪への惑溺・・・それらは内なる人を成長させることをを怠り、ただただ外なる人だけを成長させてきた私たちの払う大きなつけのように思えるのです。
そうであればこそ、私たちは内なる人を育み強くしていただかなくてはならないのです。そのための食べ物を不断に摂ってゆかなくてはならないのです。それは、どのようにすることなのでしょう。17節に「信仰によってあなたがたの内にキリストを住まわせ」とあります。キリストの内住と呼ばれる事柄です。ガラテヤ2章20節には「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」とありますが、はたして私たちには、これほどの信仰の境地に達することが可能なのでしょうか。そんなふうに信じられるようになるのには、ごくごく特別の信仰体験が必要なのではないでしょうか。
そこで、私が注目するのは、18節に「キリストの愛の広さ・・・を理解し」とあり、19節に「人の知識を・・・知るようになり」とある言葉なのです。イエス様が私たちの内に住んで下さっていることが信じられるようになり、そのイエス様の愛の広さ・・・によって私たちがしっかりと立つものとなり、神さまの溢れる豊かさに満たされるようになるためには、そのように内なる人が強められるためには、特別な信仰の体験が必要なのではなく、理解し知ることが大切だというのです。イエス様の愛の広さ・・・を理解し知るようになれば、それが内なる人を成長させるための食べ物だというのです。それを毎日毎日食べてゆけば、おのずからイエス様が私たちの内に住んで下さるようになるということなのです。
20節には「私たちの内に働く・・・遥かに超えてかなえることの出来るお方」と書かれています。私たちがイエス様の愛を理解し知ることは、本当にわずかなものなのです。イエス様の広さ・・・のほんの一端をしるものでしかないのです。こんなわずかな理解や知識や信仰が、果たして内なる人を強くできるのか、成長さえ得るのか、と心配になります。しかし、大丈夫なのです。神様は私たちのそうした思いを超えて、はるかに大きなことを成し遂げて下さるのです。だから、私たちが日々、イエス様を理解し知ることのささやかな積み重ね、日々そうやって食事を取ること、それで良いのです。一度にたくさんの食事をとることはできません。食い溜めはできないのです。どんな栄養ある食べ物も、一度に大量に摂れば毒になってしまいます。内なる人を成長させ強める食事は、日々少しずつ取るしかないのです。わずかな理解であり、わずかな知識ではありますが、それを積み重ねてゆくしかないのです。それが私たちの思いをはるかに超えて、内なる人を成長させ、そこに神の力が働いてくださるのです。
このように教えられると、イエス様の愛の広さ・・・をほんの一端しか理解し得ないことをも卑下することなく、素直に、それを知っていることを喜べるように思えてきます。パウロがここで言っているキリストの愛の広さ、長さということでは、3章1-13節までの、とくに7節と8節で語られていたことが考えられているように思うのです。「この恵みは、聖なる者たち全ての中で最もつまらない者であるわたしに与えられた」とあります。パウロはつまらない者どころが、クリスチャンを迫害することでイエス様に敵対し、そのイエス様を遣わした神様に敵対する者でした。普通の神を知る知識からすれば、神と結ばれ神との契約関係にいれていただくには、パウロは何のふさわしさもない者でした。イスラエルの人々、とくにパウロも、そこに属していたファリサイ人は、神と結ばれ契約関係に入れていただくには、人間の側がそれにふさわしい条件を満たしていなければ駄目なのだと信じていました。それが19節にいうところの「(神についての)人の知識」でした。しかしパウロは、ダマスコ途上のイエス様との出会いにおいて、それをはるかに超える驚くべきイエス様の愛、神の愛というものを知ったのでした。自分のような迫害者、敵対者を伝道者として選ばれる愛なのでした。恵みなのでした。それが、パウロがいう「キリストの愛の広さ」の如実なる現れなのでした。
イエス様の弟子たちが知った愛もまた同じでした。彼らはイエス様を見捨て裏切りました。彼らは、その時点に閉じ込められ、そこから先に進むことができなかったのです。しかし、見捨てられ裏切られて死んだ十字架の死から、イエス様は復活されました。イエス様は、先へ先へと進まれていたのです。そして閉じこもっている弟子たちに現れ、傷を見せて、うらめしやとか、何故見捨てたのかと責めるのではなく、「安かれ」と言われ、この出会いの喜びや恵みを伝える者となれ、と言って下さったのです。これが「キリストの愛の長さ」なのです。弟子たちが見捨て裏切った時点の、その瞬間や短い時間だけで決めつけたり責めるのではなく、復活されたご自分とのつながりの長さにおいて、彼らを用いようとなさる「長さ」なのです。
「キリストの高さ、深さ」ということから言えば、それは何よりも受肉と十字架の死に込められているものだと私は理解します。神様と共にある高さを捨ててキリストは人となり、十字架の死に至る深い低さに身を置かれました。しかし、その低さ、深さがイエス様の喜びでもありました。高さと低さ、苦難と喜び、弱さと強さ、そうした事柄が、イエス様の受肉と十字架において交じり合い、私たちの常識や当然の前提を覆してくれているのです。
私自身、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、知り得るところは、本当にわずかであると思うのです。いつもクリスマスの時期になると、私がクリスマスについて語り得ることが本当にわずかしかなく、毎年毎年のクリスマスで、もう語ることはない、新しいことなど何も語り得ない、と叫びたくなる思いに駆られます。しかし、それで良いとも思うのです。わずかな理解であり知識であろうとも、それが私たちの「内なる人」を強めてくださる食べ物なのですから。
2012年 11月 4日 降臨前第8主日礼拝
07:11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 07:12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。 その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 07:13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 07:14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。 イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 07:15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。 イエスは息子をその母親にお返しになった。 07:16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 07:17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
本日は召天者記念礼拝ですが、とくにそのために特別に聖書箇所を選んで読むことはしないで、いつも通りの順番に従って、ルカによる福音書から御言葉を選ばせていただきました。
しかし、この箇所に記されていた内容は、本日のこの礼拝に相応しいものでした。
とくにご遺族の方々には、本日の聖書箇所を読んで、ある思いを抱かれる方もあるかもしれません。
ここで登場する一人息子を失った母親は、まことに幸いにも偶然にイエス様に出会って、死んだ息子を生き返らせていただくことができました。
しかし、聖書を読む私たちには、到底そのようなことは、起こりようもないことなのです。
皆さんだけではなく、言うまでもなく、これまでにこの物語を読んできた数えきれない人々も、おそらく皆そうであったでしょう。
自分たちには起こるはずのない、望むべくもない、このような出来事を読むということには、一体どのような意味があるのでしょうか。
絵に描いた御馳走を見るに過ぎないと言えないでしょうか。
私も同様の思いを抱いてしまいます。
皆さんを代表して聖書を読む立場の者として、わたし自身が、そういう感情を抱いてしまうのです。
だからこそ、この思いに対して、また次のような答えもいただくのです。
15節に「イエスは息子を母親にお返しになった」と書かれています。
ある意味、皆さんにも「返される」ということが生じるのではないでしょうか。
文字通り、召天者が肉体を以って生き返った存在として、皆さんに返されるということは、起こりようもないことです。
しかし何らかの意味で、生きている存在となって返されるということが、この御言葉を読んで、かすかに感じられるのです。
「ああ、こういうことが私にも起きているのだ」とわかるようになるのです。
そういうことが代々の遺族に起きてきたからこそ、この御言葉は聖書に記され読み続けられてきたのではないでしょうか。
先々週、今年6月に天に召された臼村治子姉のお嬢さんに、葬儀以来久しぶりにお会いすることができました。
ゆっくりと、いろいろなことをお話しする機会が得られました。
様々なショックから、葬儀の後もしばらくは、そして今なお「ああもしてやれたならば、こうもしてやれたらばと後悔が募る」といったことをおっしゃっていました。
しかし近頃は、お母様が亡きお父様と一緒に夢に出てくるようになったとのことです。
そのときには、とってもあたたかで、幸せな感じが漂ってくるのがわかるのだそうです。
郡山教会でも、同様のことを何度も耳にすることがありました。
臼村治子さん自身、突然のご自分の死を、なかなか受容できなかったのではないかと思うのです。
しかし、徐々に神様の御もとで、また先に召されたご主人の介添えもあって、あたたかな感じ、幸いな感じを得られるようになられたのではなかろうかと思うのです。
そうなって、娘さんの夢に出て来られるようになるというのも、また一つ「返される」ということの現れなのではないでしょうか。
遺族にとって召天者は、いつまでも死によって命を奪われた者として、心の中にあるのだと思います。
大切なものを破壊され剥ぎ取られた者となったと感じるのではないでしょうか。
本当はそうではないのに、遺族にとって死者とは、いつまでもどこまでも、そのような存在ではないでしょうか。
しかし、死者をそのような存在にするのは、むしろこの世に残った者の側ではないでしょうか。
実は死者には、本日の聖書箇所に書かれているような出来事が起きているのです。
死者が肉体を以って生き返るのではありません。
しかし、これから述べるようなことを体験し、いま治子さんについて語ったような、あたたかさや幸せな感情を得つつある中に置かれているのです。
そういう存在として、死者を捉えることができるようになり、ただ奪われた者や破壊された者としてではなく、受け止めることができるようになることなのです。
それが「返していただく」ということではないでしょうか。
本日の御言葉を読むことによって、そのようなことが、少しでも心に入って来るようになればと願います。
聖書箇所に戻りましょう。
死んだ息子が生き返るきっかけとなったのは、11節以下にあるように、偶然イエス様が埋葬の列に出くわし、悲しみと嘆きで一杯の母親を哀れに思い「もう泣かなくともよい」とおっしゃって葬送の列に近づき、柩に手を触れたことからはじまっています。
この福音書を書いたルカという人物は、医師であったと言われています。
彼は医師として、どれほど多く、このような悲しみの列に連なったことでしょう。
奇跡が起きてくれと願ったことでしょう。
これは、4つの福音書の中で、そんな彼だけが記した出来事でした。
その物語を、わざわざ7章の10節までの出来事の直後に置いたところに、ルカの思いが感じられます。
直前までには、イエス様がローマの隊長の信仰を称賛したことが、そしてその隊長の信仰に報いる形で奇跡が起きたことが記されています。
では、今日の物語ではどうでしょう。
信仰のかけらも見つけられないのです。
あるのはただ悲しみのみです。
嘆きの早々でしかないのです。
大切な者を失ったとき、私たちにあるのは、ただそれだけなのです。
しかし、そこにイエス様は一方的に近づいて来てくださいます。
私たちが、誰一人としてかけることのできない言葉「もう泣かなくともよい」という語りかけをなされるのです。
そして、柩に手を置かれました。
遺族の皆さんに、親戚や友人や教会の友は、励ましや慰めのつもりで「いつまで泣いているの。もう・・・も経ったのだから、亡くなった○○さんのためにも、もう泣くのはやめにしたら」というようなことを言うことがあるでしょう。
遺族の皆さんは、そのように言われて、とても傷ついたとおっしゃいます。
かと言って、何も言葉をかけられないと、何も慰めてくれなかった、とも思ってしまうのです。
とりまく私たちは、一体どうしたらよいのかと当惑してしまいます。
本日の御言葉から改めて教えられるのは「もう泣くな」ということができるのは、ただイエス様、神様のみだということです。
柩に手を置くことによって手を置いたその人も汚れに染まったとされます。
それは、イエス様ご自身が同じところに身を置かれたことの象徴だと思うのです。
十字架の苦しみに身を置き、そこから復活なさったイエス様だけが「もう泣くな」と言うことがお出来になるのです。
この悲しみにに近づくことがお出来になるのです。
柩に手を置き、そして死の悲しみの更新を留めることがお出来になるのです。
私たちができるのは、ただ一緒に悲しむことだけではないでしょうか。
ただただその葬送の列に加わればよいのではないでしょうか。
「もう泣くな」という言葉をかけることは、イエス様にお任せすればよいのです。
悲しむしかない私たちに、イエス様は自ずと近づいてくださるのではないでしょうか。
イエス様は死んだ息子に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。
イエス様が死者を生き返らせた出来事は、福音書の中に3度記されています。
そのすべてに共通しているのは、イエス様が死者に言葉をかけられたことです。
ヤイロの娘に対しては「タリタ・クム」(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい、の意味)と言葉をおかけになりました。
イエス様から言葉をかけられると、死者は、その言葉に素直に聞き従うのです。
死人だから言葉を聞けないということはないのです。
わたしは、この事にいつも心を振るわせられます。
死者こそ、実は死者自身に必要な無くてはならない言葉というものがあり、それが聞こえてくると、どんな存在よりもそれに従う者となるのではないかと思うのです。
死者に必要な声は、ほんとうは葬送の列の嘆きや悲しみの声ではないのかもしれません。
むしろ、そのような声はいつまでも死者を「死人」としての立場 ― 奪われた者、破壊された者 ― に閉じ込めてしまうように思うのです。
もちろん、それでも残された者はそうするしかないかもしれません。
それしか遺族には、死者のために出来ることはないかもしれません。
しかしとにかく、死者にとって不可欠な声とは、神の声なのです。
イエス様の声なのです。
死者自身に対して「起きよ、墓から出でよ」と言って下さる声なのです。
このような声が聞こえてくると、死者はそれに従うのではないでしょうか。
この世にあったときには、誰がどんなに語りかけても、イエス様のことなどまったく聞こうとしない家族があります。
この世に生きているからこそ、様々な思いが障害となって、イエス様の声を聞く必要性など感ぜず、神の声を聞くのをかたくなに拒むのが人間というものです。
しかし、死んでしまうと自分にとって必要な声は誰の声なのか、どんな声が不可欠な声なのか、切実にわかるものなのです。
そうであればこそ、フィリピの信徒たちへの手紙2章10~11節は「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて」と語っているのでしょう。
地下のもの、イエス様を信じることなく死人となった者が、イエス様こそなくてはならない主であると告白するときが必ずやってくるのです。
「こうして、死人は起き上がって、ものを言い始めた」と書かれています。
どんなことを語ったのかは、何も書かれていません。
思うに、それは11節以下に記された出来事、死人として体験した事柄であったに違いないと思うのです。
葬送の列の悲しみや嘆きしか聞こえて来なかったところに、「もう泣くな」、「起きよ」との不思議な声が聞こえてきたのです。
その声こそが必要な声であることがわかったはずです。
するとその通りになったのです。
死んだ自分はもうそれで終わりの存在ではなく、自分に必要な声を聞き分け、それに応答できる存在であることがわかったのです。
神の声に聞き従う存在であることがわかったのです。
神の力がどれほどのものであるかがわかったのです。
そういうことを語ったのではないでしょうか。
この教会の召天者の方々も、そのように語っている者たちではないでしょうか。
そういう存在として、ご遺族に「返されている」と言えるのではないでしょうか。
2012年 10月28日 降臨前第9主日礼拝
02:01三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 02:02イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 02:03ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 02:04イエスは母に言われた。 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。 わたしの時はまだ来ていません。」 02:05しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 02:06そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。 いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 02:07イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 02:08イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。 召し使いたちは運んで行った。 02:09世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。 このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 02:10言った。 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 02:11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。 それで、弟子たちはイエスを信じた。
婚礼はパレスチナにおいて、家と家との祝い事でした。
小さな村ですと、村中の人々が集まりました。
数日にわたる婚礼は、貧しい村人たちにとって喜ばしい時でした。
その婚礼の祝いの席で、ぶどう酒が尽きてしまいました。
一大事です。
花嫁の家の名誉にかかわる事件です。
マリアはイエスに、そのことを伝えました。
「ぶどう酒が無くなりました」と。
これはただ伝えたということではなく嘆願したということでありました。
花婿花嫁両家の困窮が、背後にありました。
喜び賑わいの座がしらけ、そして冷えてしまいます。
ですから切実な祈りでした。
しかし、イエスの答えはこうでした。
「婦人よ、わたしとどんな係わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
つれない答えです。イエスは「婦人よ」と言いました。母に一定の距離を置く言い方です。
肉親の情によってというほどでは、マリアの願いには答えられないのです。
「わたしの時はまだ来ていません。」というように、イエスのときがあるのです。
マリアの願うときではなく、イエスのときがあるのです。だからマリアは、拒絶されたとは思いませんでした。
マリアは備えました。
母は召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。
マリアは、イエスのときを信じて待ちました。
人が祈り求めるとき、答えを「今すぐ」と期待してしまいます。
しかし、救い主イエスは「ご自分のとき」にそれに答えてくださいます。
その「イエスのとき」は、主イエスに都合のよい時ではなく、祈ったわたしたちにとって最も良い時なのです。
だから、祈った人は前を向くのです。
前方を見て、答えを受けとめるべく備えているのです。
イエスは「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。
清めの儀式のための大きな石の水がめです。
召し使いたちは黙って水を運びました。
召し使いたちには、どうして水をはこばなければならないのか、わかりませんでした。
そのわけは、主イエスが知っていてくださる。
それを信じて、黙々と運んだのでした。
召し使いたちは、その水を宴会の世話役のところに持って行きました。
世話役は、味見して驚きました。
それが最高のぶどう酒だったからです。
世話役は、そのぶどう酒が何処から来たか知らなかった、と書かれています。
しかし召し使いたちは知っていました。
何故、水が最高のぶどう酒になったのかを、主イエスが御手を添えて下さったということを知っていました。
私たちの日常も、水を運ぶのに似ています。
何故、こんな重たい水を運ばなければならないのか、わかりません。
理不尽な、不条理な荷を負って歩いて行かなければならないのかが、わかりません。
わかりませんが、その訳を知っていてくださる方がいる。
その方を信じるから、黙って運ぶのです。
そして、この水は、ぶどう酒に変えていただけるのです。
わたしたちの運んだ重たい水は、そっくり最高のぶどう酒に変えていただける― その日があるから、その日を信じて、私たちは生きているのです。
一節に「三日目に」とあります。
これは救い主イエスの死からの復活を示しています。
わたしたちは、復活の主イエスが働いてくださる婚宴の席にいるということを、忘れてはなりません。
2012年 10月21日 聖霊降臨節第21主日礼拝
19:01二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。
ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、19:02言った。
「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。
そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」
彼らは言った。
「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」
19:03しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。
ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。
19:04彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、19:05わめきたてた。
「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。
ここへ連れて来い。
なぶりものにしてやるから。」
19:06ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、19:07言った。
「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。
19:08実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。
皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。
ただ、あの方々には何もしないでください。
この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」
19:09男たちは口々に言った。
「そこをどけ。」
「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」
「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」
そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。
19:10二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、19:11戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。
19:12二人の客はロトに言った。
「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。
あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。
19:13実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。
大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」
19:14ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。
主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。
19:15夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。
「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。
さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」
19:16ロトはためらっていた。
主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。
19:17彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。
「命がけで逃れよ。
後ろを振り返ってはいけない。
低地のどこにもとどまるな。
山へ逃げなさい。
さもないと、滅びることになる。」
19:18ロトは言った。
「主よ、できません。
19:19あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。
しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。
恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。
19:20御覧ください、あの町を。
あそこなら近いので、逃げて行けると思います。
あれは小さな町です。
あそこへ逃げさせてください。
あれはほんの小さな町です。
どうか、そこでわたしの命を救ってください。」
19:21主は言われた。
「よろしい。
そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。
19:22急いで逃げなさい。
あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」
そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。
19:23太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。
19:24主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、19:25これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
19:26ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。
19:27アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、19:28ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。
19:29こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
ここには、ソドムとゴモラの町の滅亡について記されています。
ロトとその家族が救われていったことが、しかしながらロトの妻は、逃げる途中で振り返ったがために、塩の柱となってしまったという出来事が書かれています。
この滅びの出来事が、ソドムとゴモラの罪に対する罰として、神様ご自身がなされた御業として書かれています。
そのことを私たちは、どのように受け取ったらよいのでしょうか。
伝統的には何の問題もなく、単純素朴にそのように考えられてきたのだと思います。
しかしこれが、ソドムとゴモラの町に対する神様のくだされた罰として起きたということになれば、たとえば私たちに大きな自然災害などが起きたときに、それは必ず神様からの罰として理解されるようになるでしょう。
2011年3月11日の出来事も、そのように考えられてしまうのだと思うのです。
突き詰めて、私の感じる疑問は「もしそうであれば、神様という存在は恐怖の対象でしかなくなるのではないか」ということなのです。
そこには「自分たちは神様を信じている者だから、自分たちはソドムとゴモラの町の人々のような罪びとではないから、自分たちにはそのようなことは起こり得ないのだ」といった優越感のようなものが感じられます。
さらには、因果応報的な信仰を、そこに感じてしまうのです。
「災いが起こるのは、その災いに遭った人間が悪いことをしたためで、神様がそのような人間に罰をくだしたからであり、逆に良い人間には、神様は祝福を与えてくださるのだ」という、そういう信仰があるように思うのです。
先日の聖書研究祈祷会では、コヘレトの言葉(新共同訳聖書になる以前は、「伝道の書」と呼ばれていました)を学びました。
コヘレトの言葉の前には、ヨブ記を学びました。
そこから、この二つの書物を貫く太い主題は、当時の社会に行き渡っていた信仰の常識の枠組みへの強烈な抵抗(プロテスト)であることを教えられました。
その信仰の常識というものこそが、因果応報的な信仰といえるのです。
悪いことが起きたときに、それをその人の罪への神様からの罰として受け止めるということに対して、この二つの書物は、激しく「否」を突き付けているのです。
ヨブ記は、あのような災いが起きたのは、決して彼が罪びとであるからではないと、またコヘレトの言葉の著者は、たとえ善人であっても、悪人と同様に災難にあうではないか、と繰り返し語っています。
一方にソドムとゴモラの町の滅亡を、神様が下した罰のゆえとみる信仰の理解があり、他方でそうした理解を激しく糾弾し、罪があってもなくても、同じように、そのような災害に遭うものだという受け止め方があります。
旧約聖書のメッセージの多様性です。
旧約聖書を読む意義は、まさにここにあるのだと思うのです。
確かに、ソドムとゴモラの町の滅亡は、その罪に対する神様からの罰だと記されていますが、それは、単に一つの受け止め方に過ぎないのです。
この地域の滅亡という史実は、後世の人々にとっては周知の事柄でありました。
この聖書を記した人々は、彼らの信仰によって、この史実をどのように受け止めたらよいかを思い巡らしました。
そこで示された理解が、以上のような因果応報的な理解なのでした。
しかし、それは絶対ではないのです。そのように受け止めなければならないというものではないのです。
ノアの洪水物語でも同様の疑問が生じました。
私の理解では、あくまで自然のメカニズムとして起きた自然災害に過ぎないというものです。
それは善人にも悪人にも等しく臨むものであり、天罰として下されたようなものではないのです。
では、ここで神様がなして下さったのは何なのでしょう。
神様の使いがもたらしたのは、滅びを来たらすことでないとすれば、神様は何をこれらの町にもたらそうとされたのでしょうか。
18章16節以下では、神様の使いが100歳と90歳のアブラハムとサラという老夫婦にもたらしたものが、イサクの誕生という奇跡であり、喜びであり、笑いであったことを伝えていました。
神様の使いは、この老夫婦には喜びの奇跡をもたらし、反対に罪あるソドムとゴモラの人々には、最初から滅びをもたらすためにやって来たというわけではないのです。
神様は、そのように人を差別的に扱われるようなお方ではありません。
神様の使いがもたらそうとしたのは、ロトに対してなされたように、あくまでこの地域に起ころうとする自然災害について告げること、そのなかにあっても生き延びる術が備えられていることを告げることだったのだ、と私は受け止めます。
まさに、それは喜びの告知です。
生き延びる術の告知であります。
福音なのです。しかし、この町の人々は神の使いを受け入れず、その告知を聞こうともしませんでした。
そこに、彼らの罪というものがあります。
この町の罪は、英語ではソドミー、同性愛、とくに男色を指す言葉と伝統的には理解されてきました。
19章5節や9節の記述から、そのような理解が出てきたのでしょう。
しかし、ここに書かれているのは、同性愛をすぐに想像させるものではありません。
単に暴力的な、そして根本的にはよそ者を受け入れない、異質な存在の人間の侵入を徹底して拒もうとする態度、排除して自分たちの生活を守りぬこうとする有り様なのです。
突き詰めれば、自分たちが王であり主人公であり、すべてをコントロールしようとする思いあがりの心なのです。
それが罪なのです。
そして、その罪が神の使いの訪れ、救いの告知を拒んでしまうのです。
救いであるならば、人間の側がどんなに拒んでも入って来て欲しいと思うのです。
それが神様の救いではないかと、私たちは言うかも知れません。
「迫害者であったパウロにも、イエス様が現れて、彼を伝道者に変えて下さったではありませんか。
それが恵みではありませんか。」と私たちは思うのです。
しかし、考えてみれば、神様の使いは、こうしてこの町に人間の姿で来て下さったのでした。
それを迎え入れるか否かは、私たちの側の自由に委ねられているのではないでしょうか。
パウロもイエス様を拒むことだってできたはずです。
そんな出会いなど無視して、なお迫害者として生きることもできたはずなのです。
町の滅亡自体は、神様による人々の罪への罰などではなく、あくまで自然災害として起きた事柄でした。
しかし、人々が逃げることなく滅びてしまったことは、彼らの罪のゆえである、と言わざるを得ません。
それは決して、神様のなさったことではありません。
神様に責任を転嫁できることではないのです。
あくまで、人間自身が招いた結果なのです。
神様は救おうと手を差し伸べられたのでした。
それを拒んだのは人間のほうだったのです。
拒む自由を神様は奪うことをなさいません。
それは救いではないからです。
神様の使いの訪れは、アブラハムとサラにはイサクの誕生を告げ知らせました。
一方、ロトをはじめソドムとゴモラの町の人々には迫りくる災害と生き延びる術を告げ知らせました。
このように私たちに対する神様の訪れは、それを聞く私たちにとっては、両面の性格をもった出来事として臨むものなのかもしれないと思うのです。
イサクの誕生のような喜びの報せだけとは限らないのです。
私たちがその訪れを喜ばず、拒まざるを得ないような、それこそ、なぶりものにして痛い目に遭わせてやろうとするような、そんな災いの訪れの告知、そのようなものでもあるかもしれません。
しかし、それが神様の訪れなのです。
ただ、喜びの告知だけを受入れ、災いの告知は拒み聞かないということはできないのです。
いいとこ取りはできないのです。
ロトは神様の使いを受入れ、この報せをためらいつつも、それに従いました。
17節の「命がけで・・・」という神様の言葉には意味深いものがあります。
逃げることだけが自分たちの命を救うことでした。
逃げるとは、後ろを振り返らず、低地のどこにも留まらず、山へ逃げることでした。
ロトはアブラハムと袂を分かって以来、どれくらいこの町に住んできたのでしょうか。
多くの財産を蓄え、この地で培ったものがたくさんあったことでしょう。
山へ逃げるとは、そうした低地で得たものをすべて捨てて、まるで正反対の場所へ向かうということなのです。
しかし、捨てざるを得ないもの、自然災害と共に滅ぼされていくものに、後ろ髪を引かれてはならないのです。
ロトの妻は、後ろを振り返ったがために塩の柱となりました。
それは、滅ぼされていくものに後ろ髪を引かれたゆえに、その心が滅ぼされていくものと一緒になってしまったということなのです。 硫黄の火で焼かれるものにロトの心は巻き込まれてしまったのです。
失ってしまう悲しみや悔しさで心が満たされ、山での新しい生活を受け入れることができなくなったのでした。塩の柱は、涙の柱、無念の柱といえるかもしれません。
私たちにも、同じことが語りかけられています。
私たちが否応なく、肉体を以ってこの自然の中に置かれることから、私たちにも、同じような出来事が臨むのです。
生き延びるためには、失われていくものに後ろ髪を引かれてはならないのです。
滅びていくものに、何時までも後ろ髪を引かれていては、それと一緒に滅びてしまうのです。
たとえ、これまで持っていたものが失われても、神様は山という場所を用意して下さいます。
そこは確かに、これまで生活をしていた低地 - ヨルダン川一帯の沃野 -と較べれば、狭く、乏しいかも知れません。
しかし、神様はそこで私たちを生き延びさせてくださいます。
そういう山が確かに備えられているのです。
備えられている山が確かにあるのです。
手放して逃げていくときには辛く、不安が伴うものですが、逃げて行ってみると案外やっていけるものなのです。
ここでの「山」は、最終的には、私たちがこの世を去って向かっていく神様の御許を指しています。
それは、すぐにそこを目指していくには、余りにも遠く辛すぎます。
だから、ロトは「私は山まで逃げ延びることはできない。」と言ったのでした。
その手前に、小さな町があるので、そこに逃げさせて下さい、と願い、受け入れられました。
私たちも、これまで持っていたものを捨てて、突然、かの世に行けということは、受け入れられないでしょう。
だから、それ受け入れられるようになるまで、私たちにも「小さな町」が逃れの場所として与えられています。
小さな町、それは私たちの信仰を指しているのです。
それは、小さな、小さな信仰でしかありません。
「こんな信仰で、試練のときに、支えになるのだろうか」と心配になってしまうほどです。
しかし、大丈夫なのです。
そのような小さな信仰であっても、必ず困窮のときの避けどころとなるという神様との約束なのです。
2012年 10月14日 聖霊降臨節第21主日礼拝
03:01こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。 03:02あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。 03:03初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。 03:04あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。 03:05この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。 03:06すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。 03:07神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。 03:08この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。 わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、 03:09すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。 03:10こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、 03:11これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。 03:12わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。 03:13だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
「計画」という言葉が何度も繰り返されています。
まず3節に「秘められた計画が啓示によって和立ちに知らされた」、4節には「キリストによって実現されるこの計画」、5節には「この計画は」、9節では「神の内に・・・秘められた計画」、11節には「神が・・・永遠の計画に沿うたものです」とあります。
この計画を知ったパウロは、これを福音 -喜びの報せ- として、特にユダヤ人以外の異邦人に宣べ伝えました。
そのために、1節に「キリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは」と、また13節に「私が受けている苦難」と書かれています。
この手紙の執筆中、パウロは囚われの身であり、最後には悪名高きローマ皇帝ネロによって、殉教の死をとげさせられたと伝えられています。
この神の秘められた計画とは、如何なるものなのでしょう。
12節に「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と書かれていますが、事柄の核心は、私たちが神様に近づくとことにあるのだと思うのです。
近づくといっても、それは距離的にということではなく、もっと本質的な接近というか、12節の言葉でいえば「結ばれる」ということなのです。
別の言い方をするなら、神様との契約関係に入れていただく、ということなのです。
6節の「約束にあずかるものとなる」という表現は、このことを指しているのです。
イエス様の時代以前のイスラエルの人々は、神様に近づき結ばれて契約関係に入るということを、どのようにとらえていたのでしょう。
旧約聖書全体を通しての印象は、そもそも神様という存在は、近づき結ばれるには余りにも恐れ多いというか、はばかられるお方だったように感じます。
近づくことによって却って災いの方が大きくなるというような、まさに「触らぬ神にたたりなし」なのではなかったかと思うのです。
モーセがシナイ山に登って神様から十戒を授かる場面が出エジプト記に書かれていますが、その記述からは、モーセが神様とはっきり顔と顔とを合わせたかどうかはよくわかりません。
書かれている内容に様々な違いはあるのですが、基本的には、モーセ以外の人々には山に登ることを許されておらず、もし山に登ったとしても、神様に近づくことは許されなかったのです。
また、この十戒を記した石の板をおさめた契約の箱を運ぶ際、これに触れて命を落としたという出来事も記されています。
もちろん、旧約聖書では、こうしたことが全てではありません。
たとえば詩編84扁の如く、神様と共にあることを心から慕い「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵み」と謳うものもあります。
しかし、総じて言えば、旧約聖書において神様は、近づき難い、結ばれるには余りにも恐れ多いお方として描かれているのです。
そうであればこそ、神様に近づき結ばれ契約関係に入るためには、人間の側にもそれ相応の覚悟が求められ、犠牲が求められ、責任が要求されたのです。
それはよく分かります。だから、人々は熱心に律法の行いをしたのでした。
人々は、神様につながれるにふさわしい者となろうとして、たくさんの犠牲を捧げたのでした。
ヨブ記1章には、罪をおかしたかもしれない、神を呪ったかも知れない息子たちのために、その人数分、毎日、犠牲を捧げたヨブの姿が描かれています。
これが旧約聖書における神様と人間とが結ばれ、契約関係に入らせていただくための必要不可欠な条件のようなものだったのです。
それは、人間の側に途方もない恐れや重荷を負わせました。
どんなに人間の側から神様と結びつくためにふさわしいと思う条件を具備したとしても、それで足りるとされることは有り得なかったのでした。
何処までやっても満足とはいきませんでした。
途方もない重荷でした。
これが、イエス様の時代に、ファリサイ人や律法学者が負っていたものであり、また、彼らが人々に背負わせていたものに他ならなかったのです。
そこにイエス様が生まれ、イエス様を通して、旧約の時代にはベールに覆われていた神様の秘められたご計画が掲示されました。
まず、そもそもイエス様が啓示してくださったのは、神様が如何なる存在かということでした。
旧約聖書を通じて、神様は近づき難い存在でした。
しかし、イエス様がそういうベールを剥ぎ取り、ご自分の信仰を通してあらわにしてくださったのは、神様という存在が、近づくことが慕わしい、私たちをして、この方と契約関係を結びたいと思わせてくださるお方であるということでした。
そのことは、主の祈りの冒頭で、神様を「アバ」として呼びなさいとの教えに如実に現れています。
「アバ」というのは「オトウタン」とか、「パパ」というような、幼子が父親を呼ぶときの言い方とのことです。
エレミサスという新約学者がその著書の中で明らかにしてくれています。
イエス様は、神様をこのようなお方だと、近づく私たちを滅ぼしたり裁いたりするお方ではないというのです。
近づくことを心から喜びたもうお方であるというのです。
神様は、私たちに必ず善いもの必要なものをさずけたもうお方なのです。
私たちが神様に近づくにあたっては、もはや私たちの側に何の具備すべき条件はありません。
もし条件という言葉を使うなら、イエス様を信じ、この方に帰依し、この方に結び付くということだけは、確かに条件といえるかもしれません。 しかし、それとて、もはや私たちの側で具備できるようなものではなく、ただ神様からの贈り物として与えられているものなのです。
イエス様を信じるということも、ただ神様からのプレゼントとして与えられるのです。
こうして12節が言うように「(ただ)主キリストに結ばれており、(ただ)キリストに対する信仰により、大胆に神様に近づくことができる」ようになったのです。
それが、イエス様を通して示された神の秘められた計画なのでした。
もちろん、ファリサイ人であったパウロは、この啓示を受け入れませんでした。
パウロにとって、このような啓示は、神様ご自身がお示しになったものなどではなく、イエスと言う十字架の上で呪われて殺された者の、また、それをキリストとして信じるクリスチャンの、神様とは何の関係もない全くでたらめの、世迷い言でしかありませんでした。
だから、パウロは彼らを迫害したのでした。
そのパウロが、この啓示を神様からの啓示として受け入れざるを得ないときがやってきました。
それがダマスコ途上での回心の出来事です。
使徒言行録26章9節には、パウロの言葉として「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。」と書かれています。
パウロは迫害者でした。
3章8節に「最もつまらない者」とありますが、それ以上にパウロは伝道者となるのには最もふさわしくない者、その資格の無いと見なされてよい者でした。
パウロは、イエス様に敵対し、ひいてはイエス様と共におられる神様に敵対する者でした。
神様に近づき結び付き契約関係に入るのに最も不的確な者、そのための条件を具備的しない者でした。
しかし、イエス様はそのようなパウロに声をかけました。
イエス様のほうから結び付きを提供したのでした。
契約関係を呼び掛けたのでした。
このイエス様との出会いにおいて、パウロはベールを剥ぎ取られました。
神様と結びつくには人間の側で途方もない条件を備えねばならないという古いベールを剥ぎ取られ、ただイエス様との出会いにおいて、神様を受入れ結び付き信じることによって -たとえ、人間の側にそれに相応しい何物もないとしても- 神様とつなげていただけることに目を開かれたのでした。
使徒言行録26章18節の最後には「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」と書かれています。
パウロにとって、この啓示体験の根源にあるのは、ひとえに「恵み」だったことが感じとれます。
「恵み」とは何でしょう。
それは因果律の対極にある事柄です。
「AならばB」、「Bを生じさせるためにはA」という前提条件を具備しなければないというのが因果の法則です。
しかし神様は、伝道者となるために何の前提条件も備えておらず、むしろ、それとは正反対のパウロを伝道者にしました。
そこに神様の恵みがあるのです。
神様の力の根源には恵みがあります。
私たちを縛っている様々な因果律を打破する恵みの力があるのです。
神様がなぜ私たちを、イエス様という方との結び付きを通して、ご自分につなげようとなさったのでしょう。
何故それが永遠の昔から定められていた事柄であったのかということを知るのは、私たちには途方もなく困難でしょう。
しかし、そこには「恵み」ということがあるのは確かだと思うのです。
私たちが、他のどんなことによってではなく、ただイエスというお方を通して神様に結ばれるとき、神様はそのことにおいて私たちに恵みを与えてくださいます。
この恵みは、私たちを縛る因果を打破するものなのです。
100歳と90歳のアブラハムとサラのごとく、特にサラが「私はボロ雑巾のようで、もはや何の楽しみもない」と言ったがごとく、私たちは病や年齢や自分では如何ともし難い因果に縛られます。
「AだからBである」、「AはBでしかない」と私たちは考えます。
しかし、イエス様を信じる者、イエス様につながった者には、恵みが与えられるのです。
パウロはこの恵みの啓示を授かった体験ゆえに、「キリストの囚人」となりました。
その体験は、囚人であるパウロを弁明させ、支える体験なのでした。
イエス様を通して恵みが与えられたという体験は、私たちをも「キリストの囚人」とするかもしれません。
私たちを鎖につないでしまうということもあるかもしれません。
しかし、それが同時に、困窮の中に置かれた私たちを支える根源的な力となるのです。
このように、イエス様に結ばれることを通して神につなげていただくことで授かる恵みが私たちに及ぼす力は、はかりしれないのです。
2012年 10月 7日 聖霊降臨節第20主日礼拝
07:01イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 07:02ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 07:03イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 07:04長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。 「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 07:05わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 07:06そこで、イエスは一緒に出かけられた。 ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。 「主よ、御足労には及びません。 わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 07:07ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。 ひと言おっしゃってください。 そして、わたしの僕をいやしてください。 07:08わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。 また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 07:09イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。 「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 07:10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
福音書の中でイエス様がこれほど直接的に、ある人の信仰を称賛された霊は他にはおそらくありません。しかも、その人はユダヤ人ではなく、異邦人の兵士、それも当時のイスラエルを圧迫していたローマ軍の小隊長なのです。イエス様をして、このように称賛させた彼の信仰は、どのようにして芽生え花咲いたのでしょう。その大切な幾つかの要素について学んでみようと思います。そして、私たちの信仰も、そのように育まれて行けたらよいと思います。
彼の信仰の契機は、2節3節あたりに書かれているように、彼の部下が病気で死にかかり、それについて、親しくしていたユダヤ人の長老を介して、イエス様に助けを求めたことからでした。
まず何より信仰の始まりは、神様、イエス様そして聖霊に対して、私たちが何事かを頼むこと、願うことなのです。自分自身や人間の社会では、如何ともし難い貧しさや飢え渇きや病を通じて、それを神様に何とかしていただきたいと願うことから信仰は始まり、また、それに終わるのです。信仰とは、それに尽きると言ってよいでしょう。
ルター派の教会で育ったある姉妹は宣教師から、「宗教改革者ルターは、私たちは神に対して乞食なのだと言っていた」と教えられたそうです。これは信仰の根幹にある事柄を本当に示している言葉だと思います。そうであればこそ、現代の人々には、また、特に日本人には、信仰が広がらない原因なのではないでしょうか。日本人は、神や仏に頼るなどということは、弱い人間のすることだと思っています。神仏などに頼らずに、自分で解決をするべきだと言います。たとえ解決できなくとも、また、たとえ病気が治らなくても、それを受け入れ忍耐をすることこそがふさわしい在り方だというのです。神や仏に頼って御利益を願うのは「さもしい」というか、まさに「乞食」のような情けない在り方だといいます。
しかし、神や仏を頼るのは、ただたださもしい在り方なのでしょうか。病気になれば、当然、自分では治療することができませんから医者に頼ることになります。法律的な問題を抱えれば、弁護士にお世話になり、犯罪の被害者になれば警察の助けを受けることになるでしょう。それなのに、人間自身ではいかんともし難い問題を抱えると、神や仏を頼るのはさもしいというのです。そういうことは弱い人間のすることだと言うのです。そういうことばかり自分だけで解決し受容せよと言うのはおかしいではありませんか。
また、ある人々は「私たちは、幸いにも、神仏に頼らざるを得ないような困難を抱えてはいない」と言います。そういうものを抱えたときには、お世話になるかも知れませんが、今はまだ、その必要がないというのです。それに対して、今日の聖書の言葉は、とても大切なことを語りかけていると思うのです。
この隊長は、自分自身が抱えていた病気のことで、イエス様を頼ったのではありませんでした。そうではなく、部下のことでイエス様を頼ったのでした。ある注解書によれば、当時の社会では、僕や奴隷は「物」扱いで、まるで道具などがこわれて修理不能になったときに捨ててしまうように、僕や奴隷も病気になって厄介者になれば放っておいてもよいとされていたようです。この隊長も、そのようにしても良かったはずです。しかし、彼は我がことのように部下を心配し、そしてイエス様に助けを願ったのでした。そこに信仰があるとイエス様は言われるのです。
「もし、あなたやあなたの家族に、幸いにも何の困難もないのなら、あなたの友人や知人、あるいは地域社会、日本や世界に目を向けてみなさい。そこにはいかんともし難い、祈るしかないような困難な状態が、そこかしこにありませんか」と語りかけられているように思うのです。
自分のことではないからこそ、より真剣に、より確信をもって、願うということがあるのではないでしょうか。
私は郡山で、先日お話した憲法9条を守ることへのかかわり以外に、ホームレスの人たちのこと、市内のいろいろな教派の先生方や信徒さんと一緒に世界の飢餓問題にもかかわってきました。路傍伝道など一度もしたことがない私が、世界食糧デーのバザーや大会を呼び掛けるときには街頭演説をしました。ホームレスの人々の生活保護を得るために、弁護士さんや、いろいろな方面の専門家と共に生活福祉課に直談判に行ったこともありました。自分自身や家族のためであれば、そこまでできなかったように思います。しかし、他の人のために、自分の利益には直接ならないことのためだからこそ、確信をもって行うことができたのだと思います。この隊長も、部下のためであればこそ、親しいユダヤ人の長老を介して、その地で自分が異邦人であり、しかもローマの兵士であるという身分も顧みず、イエス様に助けをもとめることができたのでしょう。そこに、イエス様への信仰が生じ、出会いが生まれたのです。
幸いにも、私たちは自分の家族に頼らずともよいかもしれません。しかし、目を外に向けてみましょう。私たちの関与と祈り、神様への願いを求めている人々や事柄が、実にたくさん存在しています。そこにかかわるとき、信仰が芽生え成長させられる機会があるのではないでしょうか。
本筋からは少し外れてしまうかもしれませんが、伝道という事柄についても示唆を受ける点があります。
この隊長は、自分の立場をわきまえ、直接イエス様に会うことはしませんでした。結局隊長は、一度もイエス様に直接会ってはいません。しかし、そんな彼が、イエス様を頼り、そのお言葉を介してではありましたが、自身の信仰をイエス様に称賛され、部下を癒してもらうことができたのは、ひとえにユダヤ人の長老がいればこそだったのです。
私たちの周りには、実はこういう人々が少なくないのではないでしょうか。また、こういう人々を、教会の周りにたくさん生み出すことが、伝道ではないかと思うのです。こういう人々を介してイエス様に、神様につなげてゆくことが伝道だと思うのです。
自分を「異邦人」だと感じている方々は、多いように思います。「教会には自分は行けない。行くには敷居が高すぎる。けれども、教会に親しみを感じる。」だからこそ、この隊長は会堂を建ててくれたのでしょう。会堂建築に多大な援助をしてくれたのでしょう。彼は異邦人であるがゆえ会堂には入れない、しかし、会堂を無くてはならぬものと考えていました。何かあれば、ギリシャ・ローマの神々ではなく、この長老たちの信じている神に頼ろうと思っていたのです。そうであればこそ「今、このイエスという方がどのような存在か良くは判らぬが、この人を頼ろう」と彼は思ったのではないでしょうか。そこで、長老たちに頼み、彼らがイエス様に強く願い、とりなしたのでした。
私の伝道論の中心は、教会への『シンパ(シンパシィを持った人)』を増やすということです。もちろん、礼拝に来てくださる方が一人でも増えることを望んでいます。しかし、なかなかすぐにはそうはならないでしょう。だから、シンパを増やすのです。それは、礼拝には来られないけれども日常的に教会に出入りをし、教会の存在を大切なものとみなし、もし神仏を頼らざるを得ないようなことがあれば、この教会に集う私たちが信じている神様、この教会で礼拝されているところの神様を頼ろうと心に期している人々を増やすことなのです。
こうして、隊長も部下が癒されることを強く願い、それを聞いて長老たちもイエス様に強く願ったのでした。改めて願うということの大切さを考えさせられます。これは私自身の反省でもありますが、イエス様がしばしば、しつこい程に「願う」ということを教えておられたのに、私たちは素直には乞食のようには願い求めることに対して実に消極的なように思うのです。
郡山で、あるとき、末期のガンになったある方の妹さんに、─この方はとても強く奇跡を願うような信仰の持ち主でありましたが─郡山教会の牧師や信徒は癒しを願い求めることをしていないと、激しく叱られたことがありました。それまで何人もの人々について願ってはみたが叶えられなかったという敗北感失望感が、癒しを願うことに消極的にさせていたのかもしれません。また、よく言われるように、そんな願いをすることは『請求書』を自分勝手に神様に送りつけるようなことで、祈りとしてふさわしくないとの思いもあるかもしれません。そう思いながら、しつこいほど願うようにと勧められたイエス様のお言葉とは違うように感じるのです。
パウロは、その肉体のトゲを取ってくれるようにと何度も祈りました。確かに「私の恵み・力は、あなたに対して十分。弱いあなたにこそ、私の力は現れている」と、彼の祈りはその通りには聞き入れられませんでした。しかし、それですら最初から癒しを願わないのではありませんでした。むしろ、何度も癒しを願ったのでした。願ったゆえに、神様の御心イエス様のお言葉の権威として、病気そのものは治らずとも『元気』になったのでした。だから、願うということが本当に大事なことなのだと思うのです。
この御言葉が、私たちの願いが聞き届けられるのにイエス様の肉体的な現臨は不必要なのだという力強い例証なのです。この物語を記した人々は、この物語の通りには自分たちの願いがかなえられないことをよくよく分かったうえで、これを記したのだと思うのです。私はいつも、聖書に奇跡の出来事を記した人々は、いったいどんな思いでそれを書いたのだろうか、福音書に残したのだろうかと想像します。彼らは失望に襲われることはなかったのでしょうか。今はもうこのように、イエス様に触れたり、身近に接したりすることができない自分たちの状況を残念に思ったことはなかったのでしょうか。そういう思いはあったように思います。しかし彼らは、奇跡の物語を記したのでした。それは、願いどおりではなかったかも知れませんが、また、イエス様が肉体をもってそばに居なくても、お言葉に御心があるのならば、元気にさせていただける、そういう実感があったからではないでしょうか。願いは裏切りません。私たちの願いに応え、それを放置せず、何らかの意味で私たちを元気にして下さるのです。そういう神様の意思・お言葉・権威が必ずあるのです。
2012年 9月30日 聖霊降臨節第19主日礼拝
18:16その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。
アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。
18:17主は言われた。
「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。
18:18アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。
18:19わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、
主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
18:20主は言われた。
「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。
18:21わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
18:22その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
18:23アブラハムは進み出て言った。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。
18:25正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。
全くありえないことです。
全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
18:26主は言われた。
「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
18:27アブラハムは答えた。
「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
18:28もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。
それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」
主は言われた。
「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
18:29アブラハムは重ねて言った。
「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
18:30アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
18:31アブラハムは言った。
「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
18:32アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
18:33主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
ソドムとゴモラの罪は非常に重いとの叫びを聞いた神様は、その行状を調査しようと使いを送りました。
神様は、10人の正しい人がいなければ滅ぼすと言われました。
しかし19章後半にあるように、硫黄の火に焼かれて、町は滅亡してしまうのでした。
私たちにも、神様は同じことをされるのではないでしょうか。
だからこそ、イエス様を信じれば、私たちは滅びから救われるというメッセージがなされるのかも知れません。
しかし私が感じるのは、それではただ神を恐れての信仰になってしまうということです。
恐怖からの信仰は、いずれは重荷になってしまうのではないでしょうか。
私は、25年以上、牧師として歩んで来ました。
あと4年で60歳です。
世間的には、定年の年を迎えることになります。
そういう意味で、そろそろまとめというか総括というか、そういう時期に入っているのだと思うのです。
最近、いよいよ強く思うのは、神様を伝えるのに喜び以外の何ものも伝えたくないという思いです。
誰に何と言われても、ただ喜びだけを伝えたいと思うのです。
今日の聖書のような御言葉からも、福島という牧師は、滅びではなく喜びを語ろうとする、と非難されても構いません。
喜びを伝えて、一人でも多くの方に福音を伝えたいと切に思うのです。
では、今日の御言葉は、どのように喜びとして読むことができるでしょう。
まず、端緒としたいのは、この16節以下の御言葉です。
それは、18章1節に続く物語として語られています。
そこには、神様の使いが100歳と90歳になろうとする老夫婦のもとを訪れて、来年の今ごろ再び神の使いが訪れたとき、二人に待望の子供が誕生すると告げたことが書かれていました。
神の訪れ・神の使いの来訪というのは、突き詰めれば、喜びの訪れなのです。
そういうことが書かれていました。
この訪れによって、神様からの跡継ぎ誕生の告知を嘲笑ってしまったアブラハムは、もはや嘲笑うことはありませんでした。
不思議な旅人を受け入れ、もてなし、共に食事をすることによって、アブラハムの心にどういう動きがあったかは分かりません。
しかしアブラハムは、この途方もない神様のお告げを、自然に受け入れるようになっていたのでした。
それゆえにアブラハムは、なお嘲笑っていたサラを、懇ろに接することができたのでした。
サラは、自分はもう、ボロ雑巾のような存在で何の楽しみもある筈がないと言いました。
そういう妻に、アブラハムは懇ろに接しました。
もしかすれば、そのことが、この老夫婦に子供を授けたのではないかと思うのです。
イサクは聖霊によって身籠ったのではなく、あくまで二人の肉体の営みによって、彼らからでた存在だったということです。
しかし、それを可能にしたのは、神様の使いの訪れでした。
それを、アブラハムが迎え入れたことでした。
こうして、神様の訪れは奇跡をもたらしたのです。
人間だけでは、老夫婦だけでは、決して生じない喜びがもたらされたのです。
そうであるならば、同じ神の使いの訪れが、ソドムとゴモラにも、喜びをもたらさない筈がないではありませんか。
どうしてソドムとゴモラには、滅びがもたらされたのでしょうか。
神様は、ある人には喜びをもたらし、ある人には滅びをもたらすというように差別なさるお方ではありません。
分け隔てなさるお方ではないのです。
神様は、善人にも悪人にも雨を降らせ、太陽を登らせて下さるお方なのです。
では、なぜソドムとゴモラには災いが臨んだのでしょうか。
それは彼らの罪のゆえなのでした。
いや、神様が神様であるならば、どんな罪を彼らが抱えていても、それをものともせずに罪を打ち破って訪れて、喜びをもたらしてくれれば良かったではないか、と言われるかもしれません。
しかし、それはお出来にはなりません。
なぜならば、それは人間の自由意思を破壊してしまうからなのです。
神様は、無理やり訪れることはできないのです。
神様は、無理やり扉を破ってお入りになることはなさらない方なのです。
神様は、私たちが進んで扉をあけるように待っておられるのです。
罪とは、まさに今言ったように、私たちが神様を迎え入れるか否かにかかっている事柄なのです。
英語で「ソドミー」という言葉は多分、男性同士の同性愛をさす言葉でしょうか。
それは19章5節から生じた理解かも知れません。
しかし、ここには「なぶりものにしてやるから」と暴力的は振る舞いが描かれているだけで、特に同性愛が描かれているとは思えません。
私が、彼らの罪として感じさせられるのは、突き詰めれば、彼らがよそ者を受け入れなかったという点なのです。
対照的に、アブラハムの甥であるロトは、アブラハムとそっくり同じく、不思議な旅人を受入れて接待をしているのでした。
それが、ひいては神を受け入れることにつながりました。
ソドムとゴモラの人々は、よそ者を受け入れませんでした。
そうやって、自分たちだけで閉じようとしていました。
結果的に、神様の訪れを受け入れませんでした。
人間だけで満たされてしまったのです。
それことが、罪なのではないでしょうか。
創世記13章には、アブラハムとロトが袂を分かった時のことが書かれています。
ロトの目から見たヨルダン川低地一帯の様子が「主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので・・主の園のように・・見渡す限り良く潤っていた」と書かれています。
主はそこには居られないのです。
彼らは神様を受け入れず、必要ともしていませんでした。
それにも関わらず「主の園のよう」とありました。
神様が居られないのに潤っているとすることが、罪の根本なのではないでしょうか。
もう1点、20節の「私は降って行き」との言葉が、罪として示されています。
これは、創世記11章5節にある御言葉と全く同じです。
この場面は、有名なバベルの塔の物語です。
人々は「天にまで届く塔のある町を建て有名になろう」と言います。
これに対して神様は降ってこようとされました。
神様の訪れとは、根本的に何でしょうか。
私たちに喜びをもたらす神様の訪れとは何なのでしょう。
如何なる有り様を取らねばならないのでしょう。
私たちが、神なき世界を主の園とし、自分たちが神の如く成り上がって生きようとするからこそ、神様の訪れをどうしても「降る」という在り方にせざるを得ないのだと思うのです。
私たちが剣を振るって家を建てようとするから、神様の訪れは剣を振るわない有り様にならざるを得ないのです。
それは根源的に、私たちへの脅威にならざるを得ないのです。
天にまで届く塔を建てようとする私たちに敵対し、それを壊すものにならざるを得ないのです。
しかし、その根本には、喜びがあるのです。
破壊ではなく喜びがあるのです。
この神の訪れを私たちが喜んで受け入れることができるならば、それは私たちに喜びをもたらすものなのです。
20節には、このような罪は非常に重いという叫びが天に届いていると、そして、この叫びを聞かれた神様が降って来られるのだと語られています。
そこには恵みがあります。
救いがあります。
私たちには、このよう叫びが聞こえてはきません。
私たちは、すっかり今の世界の在り方に満足しています。
主の園だと思っているからです。
神様の居られない、すなわち神様を拒んでいる私たちが、また、私たちのこの世界が、どれほど病んでおり、叫びをあげているかを分からないままなのです。
しかし、それを聞き届けて下さるお方がいるのです。
介入をされるお方がいるのです。降りて来て下さるお方がいるのです。
私たちに託されているのは、この方を迎え入れるか否かということです。
神様は、無理やり私たちにご自分を受け入れさせることはなさいません。
あくまで、私たちが自ら扉をあけて迎え入れることを待っておられるのです。
それがたった10人であっても良いとおっしゃいます。
ソドムとゴモラの全人口が何人であったかは分かりません。
しかし、それに対して10人というのは、もしかしたら今の日本のクリスチャンの比率よりも低くかったかも知れません。
それでも神様は、良いと言われました。
10人いなければ滅ぼされるとの恐怖を抱くのではなく、たった10人でさえも、ということなのです。
からし種のような小さな信仰であっても良いという励ましなのです。
そんな僅かな人数であっても、降りて来られる神様を喜んで受け入れる者がいるならば、滅びが回避されるのです。
私たちの存在に、この世界の存亡がかかっていると言って良いかもしれません。
神様を招き入れることによって、文字通り、私たちに喜びが招来されるのです。
2012年 9月23日 聖霊降臨節第18主日礼拝
02:19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 02:20使徒や預言者という土台の上に建てられています。 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 02:21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 02:22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
118:22家を建てる者の退けた石が
隅の親石となった。
118:23これは主の御業
わたしたちの目には驚くべきこと。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
パウロが繰り返し語っているのは、私たちクリスチャンの、とくにクリスチャンの集まりである教会の土台・基礎の要が、イエス様だということです。
20節に「そのかなめ石は・・・」とあります。
かなめ石という珍しい言葉が用いられている点に留意したいと思います。
引照付きの聖書には、この言葉について詩編の118編22節やイザヤ書の28章16節が挙げられています。
大切な箇所なので、詩編の御言葉を読んでみましょう。
そこには「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業。私たちの目には驚くべきこと」と書かれています。
パウロだけではなく信者たちは、この詩編にある「家を建てる者の退けた石」こそが、イエス様であると受け止めました。
人々は、神様がこのイエス様を、信者の人生・家の要石としてお用いになったと、また、信者たちが集まって作る教会のかなめとしてお用いになったと信じたのでした。
しかしなぜ、世の家づくりは、イエス様を役に立たない不必要な石として退けるのでしょう。
この世の家づくりは、どのような石を基礎や土台として用いているのでしょう。
そのことは、昨今の政治情勢から、つくづく考えさせられます。
少しは沈静化してきたようですが、いま、日本も中国も、皆がこぶしを振り上げて怒りを掻き立てられているように感じます。
つぎの政権を担うであろうと目されている党首候補の人々は、みな異口同音に、憲法9条を変えて正式に軍備を増強し(どうしてもの時はそれを用いて)、国や領土を守ることを、声高に主張します。
国家なのだから当然と言われるかも知れませんが、この人たちが、国家や国民生活の土台・基礎、かなめとして考えているのは、武力なのです。
武力によって維持される国や領土というものが、かなめ石だと考えているのです。
私は郡山教会で、何年かにわたって、9条を守る集まりの福島県の呼びかけ人に名を連ねていました。
郡山市の集まりでは、代表を担ってきました。
最初のお誘いがあったのは、福島大学の学長を退官された方からでしたが、正直言って、ためらいが無いわけではありませんでした。
それは、教会の中に、政治的と言わざるを得ない働きを牧師が担うことについて反感をもつ方がいるだろう、と危惧したからです。
偶然、そのお誘いのお電話があったとき、私はイエス様のご受難を描いたパッションという映画のビデオを見ていました。
イエス様を捕えに来た兵士に向かって、弟子のペテロが剣を振り上げ耳を削ぎ落してしまいました。
するとイエス様が「剣をおさめよ。剣を持つ者は剣によって滅びる」と言われました。
私は、この場面を見ていました。
私は涙を流して、この方を信じ、この方の名前を以って呼ばれるものであることの幸いを思いました。
もはや私には、ためらいは無くなりました。
心配をしていましたが、教会の方々からの非難などはなく、むしろ大いに賛同をし、集会にも参加して下さいました。
それは、私の思いの根本に、このイエス様のお言葉があるということを、お解りいただいたからだと思うのです。
私は、9条の会の様々な集会の挨拶において、牧師としての立場から、憲法9条の源流をずっとたどって行くと、「剣を持つ者は」というこのイエス様の言葉にたどり着くのではないかというお話しをしてきました。
そして、私たちが剣を持ちそれを振るうということは、決して国家や国際関係だけではなく、むしろ私たち自身が自分自身や身近なものにこそ、そうしているのではないかと語ってきました。
自分にとって気に入らない状況や私たちが内に抱えた様々な苦難といったものに対して、私たちは剣を振るい、すぐに切除しようとしてしまいます。
私たちは、強さ・武力によって生きようとしてしまいます。
要するに、私たちは家を建てようとするとき、そうしたものを要石としようとしてしまうのではないでしょうか。
だからこそ、剣をとらずに十字架につけられて殺されていったイエス様を、私たちは退けてしまうのです。
しかし神様は、私たちが退けるこのイエス様を、私たちの信仰生活のかなめ石として、また、教会のそれとして、お用いになるというのです。
そして、私たちは、本来は退けるしかないこの方を、何故かは分かりませんが、なくてはならかなめ石として受け入れることができました。
信者が集まって作る教会も、イエス様をかなめ石として受け入れることができているといえます。
どうして、私たちはそんなことができたのでしょう。
詩編の御言葉が語るのは、それは「主の御業。私たちの目には驚くべきこと」だということです。
私たちの意思や力でできたことではありません。
神様がそうさせて下さらなければ、それは不可能でした。
ただ、私たちがこのイエス様を要石として受け入れる素地のようなものは、私たちの深いところにあったのではないかと感じます。
日本が敗戦を経験し、この驚くべき憲法9条を、こぞって受け入れることができたのも、そういう素地があったからだと思うのです。
およそ個人であっても国家であっても、自衛する権限というものは、根本的に与えられているものと考えます。
ところが、この憲法9条は、自衛のためでさえ武力を持たないと定めているのです。
古今東西どこにもなかった途方もない憲法であるといわれる所以です。
このような憲法を、なぜあの時代の人々は喜んで受け入れたのでしょう。
それは、たとえ自衛のためであると言っても、その名のもとに剣を振り上げてきたことが、どれほど自国民と近隣諸国を災いに巻き込んできたかという痛切な思いがあるからなのです。
憲法制定をめぐる当時の国会の質疑において、時の総裁であった吉田茂が、まさにそのように答弁して拍手喝さいを得ていた様子を、映画でみたのを私は忘れることができません。
いま、憲法9条を変えようと主張する人々には、もはや、このような思いが皆無であるように感じます。
そのような災いなど、もたらしたことなど無かったかのように、それは止む無く追い込まれたが故の行動であったかのように言うのです。
だからこそ、中国や韓国の人々が、あれほどに憤るのだと私は思います。
私たちが神様の御業としてイエス様を受け入れさせていただいたことにも、剣を振り上げて生きることが、どれほど自分自身や周りの人々に災いを及ぼしているかとの、根源的な思いが素地としてあるのではないでしょうか。
剣を振り上げ、剣に頼る生き方が、どこか病んでいるのではないかとの思いがあります。
だからこそ剣を振り上げず、強さを振りかざさず、十字架へと歩まれたイエスというお方を必要だと思うのです。
この方につながって、この方を生きるうえでのかなめ石にしたいと願うのです。
自分の小さな尺度によって、これは悪だ、これは災いだと決めつけることなく、すなわち裁かないで(裁くとは、まさに剣を振るう生き方です)生きていきたいと思うのです。
そのように生きられたイエス様を土台として、私の人生も作り上げられるものでありたいと願うのです。
そして、同じ願いを持った人々の集まりである教会に属したい、と思うのです。
私たちがこのようにイエス様をかなめ石としたとき、それによって、どのような祝福が与えられるかを、今日の御言葉でパウロは様々に語っています。
ここでは、イエス様をかなめ石とするクリスチャンが、一人ではなく、多く集まって歩んだときのことが言われています。
つまりは、教会に与えられる祝福について言われているのです。
大きく二つのことを挙げることができるように思います。
21節初めには、「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し」とあり、19節では「あなたがたはもはや外国人でも・・・神の家族であり」とあります。
イエス様を要石とする教会に属したとき、私たちは一人一人ばらばらの存在ではなくなり、組み合わされて神の家族のようになれるのです。
教会に属する者と言っても、様々な違いがあるのは当然です。
けれども、私たちは、根源的に剣を振りかざすことに病を感じて、イエス様と言う方を、言わば主治医として、それ以上に、イエス様と言う方のもつ何かを『移植』されなければならない患者同士、また、同じ型の臓器を移植された患者仲間のようなものなのです。
そこにおいて、私たちが組み合わされ、神の家族となることがあるのだと思うのです。
同じ国家に属し、同じ領土に住み、それを武力によって守り、共通の敵に対して剣を振り上げて戦うというところに、私たちが組み合わされるのではないのです。
そうではなく、イエス様と言う方を要石としなければならない存在、イエス様を医師とし、臓器提供を受けて救われた存在だというところで、組み合わされているのです。
家族というものは、折々に助け合い融通し合うものです。私の長男は、今は新潟県の非常勤職員をしているのですが、駄目もとで郷里の福島県の職員試験を受けたところ、土木部門で合格することができました。
現在乗っている軽自動車が古くなり冬を越せないだろうと言うので、中古車を買うことになりました。
ローンを組むことになり、その利息の高さに驚いた妻は「親ローン」を組んでやると言いました。
そんなことがきるのは、ただ家族の間柄だけなのだと思うのです。
教会員の間でお金の融通はふさわしくないかもしれません。
ただ、郡山教会では、個人間のお金の融通しあいではなく、教会の制度として、ボランタリィに有志の方がお金を出して、10万円の限度内でお金を融通し合う制度がありました。
それはともかく、私たちが教会において、何よりも融通し合えるのは信仰です。
イエス様を要石とすることの信仰を融通し合うのです。
さて、先週、礼拝後に行われた75歳以上の方々を囲んでの愛餐会は、本当に心和み、いいなぁ、と思えるものでした。
高齢の方々は、その信仰生活が後に続く方々によって支えられるものであると知っておられます。
後に続く私たちは、また、先輩の方々の歩みを励みとして進んで行けるのです。
それは、まさに、世代間の深奥生活の融通のし合いといえます。
イエス様を要石とした教会に属することで、私たちは、ばらばらに孤立して生きるのではなく、組み合わされた神の家族として、そこから必要な助けをいただいて歩むことができるのです。
もう一つの、教会からいただく恵みは、21節、22節に「主における聖なる神殿となります」、「共に建てられ・・神の住まいとなる」という言葉です。
教会といっても、人の集まりです。
それの何処が聖なる神殿か、神のすまいかと思ってしまう出来事もあります。
しかし、たとえそうであっても、教会がイエス様を要石とした所である限り、そこは聖なる神殿であり、神様の住まいであることに変わりはありません。教会が神様の住まいであるとは、何と恐れ多く、しかし励ましに満ちた言葉でしょう。
神殿であること、そして、神のお住まいであるということの根本はどういうことでしょう。
「聖なる」とあります。
また、「霊の働きによって」ともあります。
そうなのです。
私たちの目には見えないかも知れません。
実感としては、感じられないかも知れません。
しかし、教会に属するとき、私たちは聖なる何かにをいただくのです。聖なる霊の働きに浴するのです。
こうして、イエス様を要石として生きること、教会に属することがどれほど素晴らしいことかを思うのです。
2012年 9月16日 聖霊降臨節第17主日礼拝
06:46「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 06:47わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 06:48それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。 洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 06:49しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。 川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
20節からの「貧しい者は幸いである」との言葉に始まり、27節からは、私たちには到底実行不可能としか言いようのないことが、これでもかと語られています。実行不可能ではないか、との私たちが抱く感想こそが、今日の46節の「なぜ私の言うことを行わないのか」とのイエス様の言葉に反映されているのでしょう。こんな私たちに、イエス様の御言葉を行うことへの励ましを与えるために、48節以下の有名なたとえ話が語られたのだと思うのです。このたとえ話については、バークレー先生の説明が、とてもわかりやすいので、そのまま引用しておきましょう。『パレスチナでは、夏期になると河川はほとんど干上がってしまい、かわいた砂の川底が現れる。しかし九月の雨季のあと、冬に入ると、干上がっていた川は激流に一変する。良い宅地を求めていた多くの人びとは、魅惑的な砂の平地を見つけそこに家を建てたのだが、冬が到来すると、激流の真中に家を建ててしまったことを思い知らされる。それに気づいたときはあとのまつりで、家はあっという間に激流の餌じきになってしまう。それに対して賢明な人は岩地を探す。そこに家を建てるのははるかに困難で、基礎地を平らにするだけでもたいへんな労力である。だが、冬になって暴風雨が到来したときその苦労は完全にむくわれる。その家は頑丈でびくともしないからである(ウィリアム・バークレー「聖書注解シリーズ4 ルカ福音書」 P.92)』。
もともとその地域に長く住んでいた人々であれば、平地が雨期になれば川が流れる河川敷であるとわかっていたはずです。だから、そこに家を建てようとした人々は、おそらく他所からその地に流れ着いた人々だったのではないでしょうか。定住しようとしたその地域に、なかなか家を建てるのにふさわしい土地を見つけることができなかったのでしょう。両側を山に囲まれた狭い地域だったのかも知れません。そういう中で、ある人たちは、家をたてるにふさわしい場所だと思って、いわゆる河川敷のど真ん中に、家を建ててしまったのでした。一方別の人たちは、河岸段丘というような、家を建てるには非常に狭く、また土を掘るとすぐに硬い岩が出てきて、困難を伴うようなところを選びました。もしかすると、その人たちは直感的に、一見広くふさわしいように見える土地には危険があると察知したためなのでしょうか。少しずつ少しずつ岩に土台を築いてゆき、家を建てたのでした。そして、やがて雨期がやって来て、そこに書かれている通りのことになったのでした。
このたとえ話を通して、何よりもイエス様が私たちに告げようとしておられるのは、洪水を避けることはできないのだ、と言うことだと思うのです。ここで言う洪水は、私たちがこの世の生涯を生きる上で、どうしても避けることができない苦難や病、そして最後にはすべての人におとずれる死を意味しています。そうした洪水が必ずやってくるというのに、多くの人たちは、そのことを考えずに、人生と言う家をたててしまうのではないでしょうか。いや、「私たちは、例えば健康診断を受けるし、病気にならないように気を配るし、万が一のときのために保険に加入し、貯金を備えている」と言われるかも知れません。その思いは、そうした備えをすれば、洪水を避けることができるとの考えからなのでしょう。しかし、ここで言う洪水というのは、どんなことをしても防ぐことはできない洪水を意味しているのです。たとえ話においても、岩の上に家を建てた人たちにしても、洪水そのものに遭遇することを避けることはできませんでした。私たちにできるのは、洪水にあったときに流されない家をたてることしかないのです。では果たして、洪水が襲いかかって来たときに私たちを守ってくれるような家を、私たちは建てることができるのでしょうか。もしも、その手段が何もないのなら、私たちはただ洪水を恐れ、不安におののくのみです。それならいっそ、洪水のことなど心配せず、ずっと目をそむけて過ごした方が良いくらいです。イエス様は、私たちにはそれが可能だとおっしゃいます。簡単なことではないかも知れません。岩の上に土台を築いて家を建てることがたいへんな苦労であるように、容易いことではないかも知れません。しかし、可能なのだというのです。その手段が、確かに私たちに与えられているのだというのです。その方法こそが、イエス様の御言葉をよく聞き、それを行うことだと言われるのです。
さて、しかし、20節以下、イエス様の御言葉には、私たちにはとうてい実行不可能と思われるようなことばがりが並んでいました。一体どうやったら、私たちはこれらを行えるというのでしょう。そもそも「行う」とは、どのようなことを意味するのでしょう。
身近なところで恐縮ですが、私のドラム練習のことを引き合いに出させていただこうと思います。私は、何を思ったか50歳の夏に突然、ドラムセットを買いこんできました。私は中学の頃からジャズが好きで、よく聞いていたのですが、そのジャズドラムの練習を50歳にして始めたのでした。今では一年に数回、アマチュアの私たちをリードしてくれるプロのピアニストやベーシストに支えられながらのセッションという演奏に、何とか参加できるようになりました。演奏の中で、ソロがまわってくるので、下手でもどうしても、そのための練習をせざるを得ません。教則本を買い、何度もCDを聞いて、譜面どおりにドラムをたたけるようになるまで、繰り返し練習をするのです。わずか4小節か8小節をちゃんとたたけるようになるのに、一週間かかることもありました。しかし、やがて一週間かかっていたのが、数時間ほどで、できるようになってきました。このように最初は全くできなかったのが、できるようになってくるものなのです。50歳半ばを過ぎても、人間というのは進歩、成長ができるのだと気づかされました。先日は、これまた何を思ったか、今度はトランペットを買いこんできました。未だに、全く音が出ないのですが、死ぬまでには、このトランペットで、ジャズのスタンダードナンバーを吹きたいと願っています。「行う」と言うのは、ドラムの例で言えば、最終的に、そのフレーズをたたけるようになるということです。セッションの場で、楽譜を見ることなしに、自分自身のフレーズとして応用もして奏でられるようになるということだと思うのです。しかし、そうなるための始まりは何かというと、つまり「行う」ということの最初が何かというと、それは、よく聞くということなのです。よく聞いて、そのフレーズを自分でも奏でてみたいと心に強く願うことなのです。聞くということから始まって自分もドラムをたたきたい、トランペットを吹きたい、あの曲を奏でてみたいと強く願うことこそ、また「行い」なのではないでしょうか。
「心に願うことだけで何になろうか」と言われる方もあるかもしれません。しかし、心に願いを抱くことこそが重要なのではないでしょうか。そこで、45節の「人の口はこころから溢れることを語る」という御言葉に、再度引き寄せられるのです。心に抱くことこそが、最終的に実となるのです。心に抱かないことは、決して結実することはありません。
先日、ある方から次のようなことを聞きました。たまたま私と同い年で、私と同じ大学を卒業したというその人は、病院で癌の宣告を受け、心が折れてしまったというのです。そして統合失調症になってしまい、病気もあっという間に進んでしまったというのです。私はこの話を聞いて、妻の母のことを思い出しました。義母は長く腎臓病を患っていましたが、ある日、かかりつけの医者から「大きな病院で透析をしましょう」と勧められました。その大きな病院というのは、郡山では、癌になった人がお世話になる病院ということでよく知られた病院でした。その病院での治療を勧められたとき、おそらく義母は、自分がついに癌になってしまったと思ったに違いありません。あれよあれよと言う間に腎臓病がひどくなり、その病院にかかるようになってから一週間で、亡くなってしまったのです。やはり心なのです。
洪水は避けられません。洪水によって肉体と言う器は傷づき、損なわれて、大きなダメージを受けます。しかし心は、それを乗り越えることができるのです。心が洪水に流されてしまっては、全てが終わりなのです。岩の上に建てる家というのは、心の家のことなのです。では、心の家は、どうやったら建てることができるのでしょうか。
箴言4章23節以下には「何を守るよりも自分の心を守れ。そこに命の源がある」と書かれています。では、「心を守る」とは、如何なることでしょう。如何にしてそれを為せばよいのでしょう。「曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を遠ざけよ」と続きます。心を守るには、良い言葉を、励ましに満ちた言葉を、心に抱くことが大事なのです。そのような言葉を、先ず心に抱くことが、心を守ることなのです。そのように、イエス様のお言葉を心に抱くこと、それは、私がドラムで、このフレーズをたたきたい、このフレーズを奏でたいと思うことと同じであり、それがその言葉なのです。「こんなふうに私も生きたい、歩むことができたら素晴らしい」と思い願う言葉なのです。6章20節からのすべての言葉について、そのように願うことは、正直言って、できません。片方のほっぺたをうたれたときに、もう一方を差し出すことは余りにも痛々しく、私にはできないでしょう。素直にのぞむことは、おそらくできないと思います。しかし、神様が悪人にも善人にも雨や太陽をくださるが如く、私も広い心をもって人に接したい、人を裁かないようにしたいと、切に願うのです。
私たちはすぐに「裁く」ことをしてしまいます。裁くというのは、様々な意味において、例えば、すぐに自分だけの狭い価値観に従って「これは悪い、これは良い」、「これは幸せ、これは不幸」と、私たちは裁いてしまうのです。自分が置かれた人生の状況を裁いてしまうのです。しかし神様が「悪人にも善人にも」と言われるのは、神様の善悪とは、私たちの判断などはるかに超えているという意味であると思うのです。こういう神様の言葉を心に刻んで、私たちも、そのようにありたいと願い、繰り返しこのことを実生活に当てはめてみるのです。自分や家族が置かれた状況を、そのようなイエス様のお言葉にしたがって、受け入れられるようにトレーニングするのです。それが「行う」ということなのです。そして、20節からの箇所に書かれている「貧しい者は幸いである」という言葉も、心に刻み、それを私たち自身のフレーズとして奏でていきたいものです。ルカ福音書では、8つの幸いを語る形にはなってはいませんが、マタイ福音書では「山上の八福」とされています。神様が私たちに与え給うのは、如何なる時も幸いなのだとの教えです。そして、それが与えられる機会は、私たちにとっては災いや不幸と感じられる貧しさや悲しさのなかに置かれた時なのです。この言葉を私たちは心に刻みましょう。この言葉を心に満たすのです。洪水は必ずやってきて、私たちを貧しさ、悲しみの中に置きます。しかし、その時に、心が守られていれば、そこに幸いを見出すことができるのです。こうして、洪水のときにも、私たちは、流されることがないのです。
2012年 9月 9日 聖霊降臨節第16主日礼拝
18:01主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。
暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
18:02目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。
アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、
18:03言った。
「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
18:04水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
18:05何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。
せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
その人たちは言った。
「では、お言葉どおりにしましょう。」
18:06アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。
「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
18:07アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
18:08アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。
そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
18:09彼らはアブラハムに尋ねた。
「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、
18:10彼らの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。
」
サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。
18:11アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。
18:12サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
18:13主はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑ったのか。
なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。
18:14主に不可能なことがあろうか。
来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。
そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
18:15サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。
「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。
「いや、あなたは確かに笑った。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
今日の御言葉を読んでみると、まず1節の書き出しの「マムレの樫の木の所で」という言葉に心がひかれます。
参照箇所の記されている聖書を見ると、創世記の2つの聖句が引用されています。
最初は、13章18節です。
読んでみると「アブラムは・・・マムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた」と書かれています。
つまりアブラハムがマムレの樫の木のところにいたというのは、神様に礼拝を捧げていた、ということなのだと思います。
アブラハムはそのとき、礼拝を捧げつつ、どんなことを思っていたのでしょうか。
それは跡継ぎを授かることに深くからんでいるのです。
この13章は、甥のロトとの別れの場面が記されている箇所です。
実子がいなかったアブラハムは、甥のロトを跡継ぎにしようとずっと考えていました。
ところが、アブラハムとロトとの間には、深い溝が生じてしまいました。
ロトは、増えた家畜を養うのを第一に考えました。
しかしアブラハムは、神様を礼拝することを第一にしようと考えました。
ロトは、エジプトのように、エデンの園のように、みずみずしく潤っていたヨルダン川低地の一帯を、住まいと定めたのでした。
そして、すぐさま、あの悪名高いソドムに居を移して行きました。
跡継ぎにしようと思っていたロトとの別れは、どれほどの寂しさと将来への不安をアブラハムにあたえたでしょうか。
そんなアブラハムに神様は「さあ、目を上げて・・・あなたの子孫を大地の砂粒のようにする(13章14節以下)」と言われました。
アブラハムは、その御言葉を聞いてマムレの樫の木のところに祭壇を築いたのでした。
それから何年が経って、おそらく20年以上は経っているでしょう。
果たして、この約束は実現したでしょうか。
それは、否でした。
この間、アブラハムは、実子が授かることを諦めて、僕のエリエゼルを跡継ぎにしようと思ったことがありました。
すると、神様が現れて「その者を跡継ぎとするな。あなたから生まれる者を・・・」と言われたのです。
しかしアブラハムとサラとの間に、子供はいっこうにさずかる気配はありませんでした。
業を煮やしたサラは、自分の奴隷であったハガルを夫に与えて、イシマエルを生ませたのでした。
そのために、夫婦間に深刻な危機が訪れてしまったのです。
アブラハムは、イシマエルが成人を迎える13歳になり、また自分が100歳の節目を迎えようとしたとき、
いよいよサラとの間に跡継ぎが生まれることを断念し、イシマエルを跡継ぎにしようとしました。
すると再び神様が現れて「サラとの間にイサクという息子を授ける」と言われたのでした。
100歳と、90歳になろうとする老夫婦に子が生まれるなど、とんでもない約束を、またも神様は言うのでした。
アブラハムは、呆れてものが言えなかったのではないでしょうか。
「そうやって、自分たちは20数年間、翻弄され続けてきた」と思ったのではないでしょうか。
「少しも約束は実現していないではないか」と思ったのではないでしょうか。
そう思うのなら、もう神様を礼拝することなどやめてしまったらどうなの? と思ってしまいます。
それなのに、アブラハムは、なおも礼拝をやめることはありませんでした。
このことに、私は心打たれました。
アブラハムのこの20数年の間に、実現した神様の約束というものは、殆ど無いといってもよいくらいでした。
神様を信じて歩むことからの実際の利益というのは、果たしてアブラハムにあったのでしょうか。
むしろ、神様と出会ったがために、一族郎党と別れ、また、甥のロトとも袂を分かち、子供が授かることを諦めようとすると、
それにストップをかけられ、実現しない約束を待たされ、期待を裏切られ続ける歩みでしかありませんでした。
直前の17章、アブラハムは嘲笑うしかない、途方もない約束を与えられ、それでも、嘲笑いつつ、礼拝を止めない・・・。
アブラハムにそうさせるのは、突き詰めて、一体何だったのでしょうか。
それを表しているのが、1節の「主はアブラハムに現われた」との御言葉なのではないでしょうか。
礼拝をやめることができないのは、そこに神様との出会いがあるからなのです。
アブラハムには、これから見るような、不思議な旅人を通しての、神様との直接的な出会いがあったのでした。
私たちには、そのような出会いはないかも知れません。
けれども、姿や形は見えなくても、神様との、何とも言えない出会いが、そこにはあるのです。
さて、私は夏休みをいただいて、他の教会の礼拝に、ただただ礼拝に出席する者となる時を与えられました。
説教が素晴らしかったとか、他に何が良かったというようなことはありませんでした。
特別に不思議な神様との出会いがあったというわけではありませんでした。
しかし、一週に一度の日曜日、この世の時間から離れて、同心の人びとと共に、わずかな時間ではありますが、礼拝を共にできました。
このことを、何と素晴らしいことかと感じることができました。
銀座教会にも出席しました。
地下鉄の階段を昇っていく何人かのご夫人たちを見て、礼拝に向かわれる方々だろうということが感じとれました。
何となく嬉しく華やいだ雰囲気が伝わってきました。
その服装からも、単に銀座に買い物に来たのではないことが感じられました。
喜びというのは、もちろん一週間に一度、同心の友に会える喜びもあるのですが、しかし、
何よりも、神様に出会えるということ、神様との交わりができるということが大きいのです。
そして、神様と出会えるのは、アブラハムと同様に、礼拝生活を止めないからこそなのです。
神様は、イサクが誕生することをアブラハムに受け入れさせるという、特別な目的のためにアブラハムのもとを訪ねたのでした。
不思議な旅人を三人も遣わすという、これまでにはなかったし、これからもおそらくないような形をとりました。
神様は人間の姿でアブラハムのもとをたずねることによって、アブラハムとの途方もない約束を、
彼が自然に受容できるように取り計らって下さったと思うのです。
この出会いからもたらされたものが何だったのかは、10節以下の問答を読むとわかってきます。
アブラハムが、はじめてイサク誕生の約束を神様から聞いたときに、彼が嘲笑ったように、サラも嘲笑いました。
しかし、注目すべきは、もはやアブラハムは笑ってはいないという点です。
それはおそらく、信じることができたからだと思うのです。
嘲笑っていたアブラハムが、どのようにして、この途方もない約束を受容できたのでしょうか。
その彼の心の動きは、わかりません。
しかし、三人の不思議な旅人を迎え入れ接待し、交わったということが決定的なことだと思うのです。
彼らが普通の旅人ではないということを、アブラハムは感じていたでしょう。
神様が、そのような姿をもってアブラハムのもとを訪れているということを彼は感じたのだと思うのです。
神様が人の有り様を取るということは、実に不思議なことではありませんか。
しかし、もし今、そのような、あり得ないことが己の身に起きているのであれば、本当に100歳と90歳の老夫婦に、
不思議な神様の訪れをきっかけとして、子がさずかることもあるのかも知れない・・・と、アブラハムは感じ取ったのではないでしょうか。
来年の今頃、またこの不思議な旅人が訪れて下さるのなら、その来訪と共に、子が生まれることもあるのかも知れない・・・と。
私たちには、このような不思議な神様との出会いは、ないのかも知れません。
しかし長い間、礼拝を捧げ続けることの中で、神様が私たちをして、到底信じることなどできない、受容することなどできない、
そのような事柄を、いつの間にか信じることができるようにして下さるということがあるのだ、と思うのです。
神様が私たちに信じさせ、受容させようとすることの意味は、長い間お子さんの授からないご夫婦に
子が与えられるという具体的な事柄ではありません。
たとえば、到底受け入れることのできない悲しみを受容できるようになるとか、
重い病の宣告を安らかに受け止められるとか、そういうことが起きることなのです。
それは、礼拝をささげ続けるなかで、神様と出会うがゆえに与えられるものなのだ、と思うのです。
私にも不思議な神様との出会いがあったことを、何度かお話しをしました。
前任地の郡山教会で、会堂建築をするなかで、本当につらい出来事がありました。
もう7割くらい、辞任しようという思いが固まっていました。
しかしその辛いことがあった翌日、出張のため仙台に一泊をして帰って来ると、ある方からの手紙が届いていました。
その人は、前科十何犯かを抱えて、ついには脳梗塞のため半身不随になって精神病院に入院していました。
手紙には「何も要らないから、私に顔を見せに来て欲しい」と書かれていました。
会員から批判され、もう自分はこの教会には不必要ではないかと思っていた私に、
「あなたが必要だ、何も持ってくる必要はなく、ただあなたで良い」と語りかけて下さったのでした。
まさしく神の言葉でありました。
あのようなタイミングで、あのような手紙が届くというのは、本当に奇跡であると思いました。
神様がその時の私をご覧になっていて、どうしても必要なので、そのような形で訪れてくださったとしか思えませんでした。
私たちは、そのような神様との出会いの中でこそ、辛い出来事を受け入れ、そこに使命がある、とわかるのです。
それが、私たちにとって、信仰により、礼拝生活によって『子供を授かり、生む』ということではないかと思うのです。
こうして、まず夫アブラハムがイサク誕生の約束を、自然に受容できたので、嘲笑うサラも、
その夫との関係において、これを受け入れていったのだ、と思うのです。
「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなく(12節)」とサラは言いました。
「年を取り」とは、ボロキレのようにずたずたというニュアンスとのことです。
また、「楽しみ」とは、夫婦の間の快楽ということです。
自分の考え出した企みとはいえ、ハガルという女性との間に子をなした夫への複雑な思いが、そこには込められているのでしょう。
13節で、嘲笑ったサラのことを「なぜサラは笑ったのか」と、旅人は夫アブラハムに問いただしました。
それは「妻をそのようにさせてしまったのは、あなたゆえだ」とのニュアンスがあるように思うのです。
だから、神様の不思議な訪れを受け入れて、その喜びと共に、アブラハムはサラに懇ろに接したのではないかと思うのです。
そして、サラも、それを受け入たのでした。
そのことが、100歳と90歳の老夫婦に子が授かるということへとつながってゆくのです。
イサクは決して聖霊によって授かったのではありません。
あくまで、夫婦の営みを通して、アブラハムとサラの肉体によって授かったのだと思うのです。
勿論、そこには神様の訪れがあり、その受容があるのです。
しかし、それを受容して、受容した故に生じた夫婦の具体的な営み、行動によって、イサクは授かったのでした。
こうして、神様の言葉を嘲笑った夫婦が、その途方もない約束を受け入れ、ついには心からの喜びをもって笑う者へと変えられました。
私は聖書が、このように嘲笑った夫婦のことを包み隠さずに、ありのままに記していることを、本当に素晴らしいことと思います。
ヘブライ書の11章11節に「信仰によって不妊の女サラ自身も・・信じていたからです」とあるのは、創世記に書かれていることとは違うように思います。
サラのことを不当に美化していると、ずっと考えていましたが、今はそうではないと思えるのです。
嘲笑いつつも神様を信じた夫を受け入れたサラもまた、神様を信じたということではないでしょうか。
信じることの中には、おそらく嘲笑うことも含まれているのです。
何があっても礼拝をやめないという姿勢、それが信仰なのだと思います。
2012年 9月 2日 聖霊降臨節第15主日礼拝
05:25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 05:26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 05:27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 05:28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 05:29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 05:30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 05:31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。 それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 05:32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 05:33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 05:34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
今日は教会学校のカレンダーで『振起日(しんきび)』という暦の日です。
なぜ「振起日」と呼ぶのかわかりませんが、たぶん夏休みが終わって新たに心を振り起こして秋に向かおうということなのでしょう。
ということで本日は、夏休みが終わった子供たちとの合同礼拝です。
子供たちとの合同礼拝のときには、教会学校リーダーが使っている教材から聖書箇所を選んでいます。
もしかしたら、昨年のクリスマス・イブ礼拝の聖書箇所として、ご記憶の方があるかもしれません。
今日与えられたみことばは、私にとって、とても愛着の深い聖書箇所です。
なぜ愛着が深いかといいますと、この箇所のみことばを読むたびに、自分の信仰の小ささ、粗末さについて励ましをいただくからなのです。
イエス様はこの女性に「あなたの信仰が・・・」と言われました(34節)。
イエス様は、彼女の信仰が彼女をして、安心して元気に行かしめる、病気にかかることもないと約束されました。
では彼女の信仰とはどのようなものでしょう。
彼女は、群衆の中にまぎれてイエス様の後ろから近づきました。
そして、服の裾にでも触れればいやされるだろうという、言ってみれば「でもしか信仰」、「御利益信仰」そのものなのでした。
この教会の執事の皆さんや私は、もしもこのような信仰を抱いている人から「洗礼を受けたい」、「この教会の教会員になりたい」という申し出があったら、それを簡単に認めることができるでしょうか。
やはりイエス様が人となり十字架にかかり復活されたことの意味を、少しでも、我が為なりと言える信仰を求めるのではないでしょうか。
彼女にはそういう信仰はどこにもないのでした。
ただただ、イエス様に近づき触れ、癒されたいという思いだけなのでした。
しかし、そんな信仰であっても、主は「それがあなたを救う」と言って下さいました。
まだしも私たちは、私たちの信仰を、イエス様の受肉、十字架、復活を我が為なりと言い得るだけのものがあります。
だから、その分だけ彼女と較べれば、深いものだと言えるかも知れません。
しかし私は、彼女も私たちも五十歩百歩ではないかと感じるのです。
彼女とイエス様の間には、群衆があり、正面ではなく背後からということがあり、服がありました。
直接イエス様の核心に触れることはできませんでした。
彼女とイエス様の間に、様々な隔たりや妨げがあったように、私がイエス様を信じる信仰にも、同じような隔てや妨げがあると、いつも思うのです。
あなたは牧師なのだからそんなものはないでしょうと、皆さんは言われるかも知れません。
しかし牧師だからこそ、誰よりもそれを感ぜざるを得ないのです。
説教が終わるといつも、この聖書の言葉を思い、たったこれだけしか神様のことを語れなかった、たったこれだけしかイエス様のことを語ることができなかった・・・と情けない思いにかられるのです。
夕礼拝を行うようになってからは、一日に二度もこの思いを抱くことになりました。
精一杯の準備を重ね、もう25年以上も、このことにあたってきたのに、この有り様なのです。
イエス様、神様を知るのには、本当に、隔てや妨げがあるのです。
それでも、それがイエス様の言う「あなたの信仰」なのです。
誰と較べる必要もありません。
だれの信仰でもなく、これがありのままの私の信仰なのです。
これしかないのです。
しかし、そんな信仰でも、私を救い私を元気にして安心して行かしめて下さるのです。
信仰がある、ということはこのように大きいことなのです。
からし種のような小さくて粗末な信仰であっても、信仰がないということに較べたら、絶大な違いがあるのです。
では、信仰がどのようにして芽生えるのか、成長し結実するのか、ということを、考えてみましょう。
彼女をして、イエス様に対してこのような思いを抱かせ、行かしめ、触れさせ、出会わせたものはいったい何だったのでしょう。
27節には「イエスのことを聞いて」と書かれています。
信仰のそもそもの始まりは、イエス様を聞くということによるのです。
芽生えのそもそもの始まりは、種が神様によって私たちの心に飛んでくることから始まります。
では、この飛んできた種が、どのように私たちの心のうちで成長して行くのでしょう。
種が根を張り芽吹くうえで、いったい何が大切なのでしょう。
今日のみことばを読むと、彼女が12年か出血に苦しみ、この世の医者の手によっては悪くなるだけであったと書かれています。
このことが決定的だったことがわかるのです。
このことがなければ、彼女はイエス様のことを聞いても、それで終わりだったでしょう。
彼女はイエス様のところに行こうなどとは思わなかったでしょう。
この世の医師によっては、如何ともし難い病気や苦難を抱えることが、私たちをしてイエス様、神様のもとに行かしめるのです。
イエス様は言われました。健康な人に医者は要らない。医者がいるのは病人だ、と。
このことからも、私は励ましをいただくのです。
牧師である私は、伝道がうまくいかず教勢が伸びないのは自分のせいではないかと、しばしば思ってしまいます。
また皆さんも、家族に信仰が伝わらないのは私が良い証しをしていないからだと思っているかもしれません。
しかし私たちにできるのは、精一杯神様、イエス様のことを伝ることのみなのです。
種をまくことのみなのです。
そのまかれた種が発芽するかどうかは、言わば、種をまかれたその人自身にかかっています。
その人が自分自身の病に気づき、医者であるイエス様、神様のもとに行こうと思うかどうかにかかっているのです。
それを、私たちが無理やりにということはできないのです。
イエス様、神様であっても、それを強制することはできないのです。
多くの方は、「私は、そんな病気は抱えていない」と言われます。
自分は神や仏に頼らなければならないような病人ではないとおっしゃいます。
別に無理やり健康診断を受けさせようとは思いません。
ご本人が健康だと思っておられるならばそれでよいのです。
しかし、次のような問いかけだけはしたいと思います。
この女性が12年間、不正出血に苦しんでいたというのは、本当に象徴的なできごとだと感じるのです。
それはおそらく婦人科系の病気だったのでしょう。
生理が異常に続いている状態、それはつまり、子宮が受精卵を着床させようとしてそれがかなわず、組織がはがれ落ち出血するという状態がずっと続いていたということかもしれません。
対照的なのは、90歳になってイサクを生んだサラや、サムエルを生んだハンナや、洗礼者ヨハネを生んだエリザベツ、そして聖霊によってイエス様を身ごもったマリヤなのだと気づかされます。
根源的には、それは神様との交わりだと思うのです。
肉体的なこととしてではなく、魂の次元で神様と交わり、それこそ神様との間で、聖霊によって、何かを宿し、内奥の深い所で、神様と交わって、信仰において、受精し着床し育んでいくことなのです。
そういうことが無いとき、私たちは、実はこの女性のように出血をしている存在なのではないでしょうか。
私たちは皆、神様と交わって何かを宿し、しかし着床させることがなければいつも、その大切な何かは、はがれ落ち、血を流すだけの存在なのではないでしょうか。
人とつながり、家族と共に過ごし、社会的な活動をしていれば健康であると思うでしょう。
しかし、聖書が語りかけてくるのは、ただ人とつながり、この世と関係していれば健やかなのか、ということなのです。
神様とつながることによってのみ、私たちが宿すことのできる何かがあるのではないでしょうか。
私たちの内奥には、そのことをじっと待ち望んでいる部分、子宮のごとき部分があるのではないでしょうか。
そのことが果たされない限り、そこは出血し続けるのです。病み続けるのです。
教会に集う女性が男性と比較して圧倒的に多いのは、もしかすると女性が根源的に、このようなことを知っているからではないかと思うのです。
神様との信仰における交わり、それによって何かを宿すことだけが自分たちに、ある健やかさを与えることを、女性は根源的に知っているのではないでしょうか。
だからこそ、彼女は群衆にまぎれて、後ろから、服の上からであっても、イエス様に触れることによって、出血が止まったのです。
それは、魂の上で、イエス様と交わり受精し着床させたということなのです。
彼女の子宮が、彼女の魂が、これまでずっと長く求め続けていたことが、やっと実現したのです。
イエス様に触れることによって満たされたのです。
イエス様に触れることにおいて、つながることにおいては、どんなに群衆が、また、服が間にあっても、何ら妨げにはなりません。
私たちの信仰においても、様々な障害があります。
それらは実際に触れることはできないし、目で見ることもできないものです。
私たちは聖書の言葉を通して、牧師の語る説教を通して、教会の歩みを通して、目に見えないイエス様とつながって行かねばならないのです。
そのことには妨げが必ずあります。
しかし、それを乗り越えて私たちはイエス様に触れることができるのです。
信仰によって触れることができるのです。触れたなら、イエス様から必ず力が流れ出てきます。
それが私たちの億深いところに、何かを宿させて下さいます。妊娠をした女性は見るからに健やかです。
信仰によって、何かを宿すことができた私たちも、また然りなのです。
2012年 8月26日 聖霊降臨節第14主日礼拝
01:03わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
01:04わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
01:05あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
01:06こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
01:07その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
佐々木 榮悦 牧師(聖光学院高校)
1)はじめに
筑波学園教会の皆様のうえに、神様の恵みと平安が豊かにありますように、お祈り申し上げます。
お招きいただき、説教のご奉仕をすることができますことを感謝しております。
わたしくしは、現在は聖光学院という学校で聖書を教えていますが、そのまえは、福島教会で牧師をしていました。
福島先生と一緒に東北教区のお仕事をさせていたたばかりではなく、いろいろと学ばせていただきました。
個人的なつまらない悩みも聞いていただいたこともあります。
すべてを感謝して、本日のご奉仕をつとめさせていただきたいと思います。
教会での牧会を辞めて学校の教員になったとき、多くの方々からどうして牧師を辞めるのかと聞かれました。
答えはひとつではありませんでした。
いくつかの問題がかさなっていました。
その中で、わたくし自身、教会というものに一種の息苦しさ、閉塞感を感じていたことも、偽ることのできない事実です。
いつかまた再び牧会に戻る日のために、この息苦しさ、閉塞感を打破しなければならないと思い、あえて距離をおいて教会の問題を考えたり、自分を心の中をのぞきこんだりしています。
2)コリントの信徒への第二の手紙
コリントの信徒への第二の手紙は、あらためて自分自身の召命感を問い直すという気持ちもあって高校生と読んでいる箇所です。
昨年は、おもしろい発見をしました。
聖書の授業というと、何か初歩的でわかりやすいものが生徒のためになると思われている方もいらっしゃるかもしれません。
あるとき、教会の聖書研究あるいは祈祷会のときの奨励のような、ギリシャ語がどうの、ヘブライ語がどうの、神学者のだれがこう解釈している、というような話をして説明をしました。
高校生たちは皆、よく聞いてくれました。
今日の聖書箇所に記されている「慰め」について語ったときです。
あるクラスの生徒たちが、耳をそばだてて聞いてくれました。
そういう時というのは、生徒たちの「呼吸」を感じ取ることができます。
彼らに聖書の言葉を説明しながら「きみたちも傷ついていたんだね」「慰めが欲しかったんだね」と、心の中で語りかけていました。
「今頃気づいたのですか」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、聖書の御言葉が彼らの心を開かせたことを感じました。
もちろん、今日の説教では、授業でこういうことをお話しましたなどということは申しません。
今回、改めて説教の準備をしながら、教会のなかで感じていた閉塞感、あるいは息の詰まるような思いをした自分に対する言葉として聞かざるを得ませんでした。
3)慰め
慰めとは、まさに、息のつまるような思いをしている人が、ホッとすることです。
「慰め」を意味するヘブライ語には「魂の深呼吸」というニュアンスがあるそうです。
皆さんも経験なさったことがあるかも知れません。
あるいはこれからも経験するかもしれません。
不安で胸がつまりそうなとき、あるいはイエス様からは「思い煩うな」と言われながらも、思い煩っているときの自分の呼吸がどのようなものか注意してみてください。
呼吸が浅くなっているのではないでしょうか。
わたくしはそう思いましたし、わたくしの生徒たちもそうだと言ってくれました。
イエス様からは「思い煩うな」と教えられ、使徒パウロからは「いつも喜んでいなさい」と教えられていながら、それでいてなぜ思い煩い、嘆いたりしているのでしょうか。
今日の聖書箇所の言葉を見るならば、わたしたちの人生には苦難があるからです。
この苦難の中で、神様は私たちに慰めを与えてくださるとパウロは書いています。
4節のはじめにこう書かれています。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださいます。」
苦難も慰めも神様がくだるものです。
苦難を与えておいて、その苦難に苦しみもがいている私たちに慰めを与えるなんてことはしないで、最初から苦難を与えなければ、慰めも与えなくていいんじゃないか、と生徒たちから言われました。
しかし、神様は苦難も与えなければ慰めも与えない、という道を選びませんでした。
まったく苦しみのない人生を生きている人は、この世にひとりもいません。
大きな国を支配する王様であろうが、世界の大富豪であろうが、人生において苦難を経験しています。
私たちの人生に、すこしばかりの苦難がふりかかってきたとしても、少しも不思議ではないでしょう。
聖書には「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださいます。」と書かれています。
国王にも、大富豪にも、権力のない者にも、貧しい者にも、心の底からホッとするような、あの魂が深呼吸するときの平安と喜びを神様は与えてくださいます。
神様の慰めは、「神様が苦しむ」という出来事を通してやってきました。
イザヤ書53章に預言されているように「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という出来事が起こります。
イエス・キリストが弟子から「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白されながらも、誤解され、裏切られ、捨てられ、十字架につけられるという出来事をとおして、神様は今日、苦難のなかでうちひしがれている私たちに慰めを与えてくださっています。
誤解されないように注意深く語ることもしないで、誤解され、試され、裏切られ、罵声のなかで十字架につけられた方が、私たちに豊かな慰めをもたらすというのは、わかりにくいかもしれません。
貧しさを癒すのは豊かさであり、弱さを癒すのは強さであり、傷ついた者を癒すものは傷のつかない美しい完全なものだというふうに考えると、キリストの慰めはわかりずらいものです。
「キリストの苦しみがみちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れる(5節)」という言葉で、立ち止まらざるを得ないでしょう。
聖書に記されている神様の恵みは、まさに驚くべきものです。
私たちが悩んでいるとき、あるいは傷ついて苦しんでいるとき、私たちの心に迫るものがあります。
十字架のうえのイエス様です。
十字架への道を歩むことによって、すべてをささげて私たちを愛し、私たちが罪を犯したにもかかわらず赦されて生きることを「良し」とされました。
十字架のイエス様の苦しみが私たちに及ぶとき、イエス様の尊い思いもわたしたちの心を満たします。
わたしたちのために十字架にかけられたイエス様の思いが、わたしたちの心の琴線にふれるとき、わたしたちは魂はなぐさめられ、深く息を吸い込むことができます。
十字架の救い主によって、慰めは満ち溢れるのです。
慰められず、もがいている人間というものは、自分の弱さを恥じて、ただ隠そうとつとめているものです。
そういう人間に、弟子たちから誤解され、試され、裏切られた救い主の悩める姿を語りかけると、彼らが隠そうとしていたものを、告白してくれます。
人は、そこでキリストの十字架の慰めを経験できるのです。
苦難をうけ、傷つくことによって、私たちに豊かな慰めを与えてくださるイエス様を心のそこから受け入れて、イエス様を「わが主、わが神」と告白する人は、ひとつの力が新たに与えられます。
イエス様からいただいた慰めを、今度は自分の周りにいる傷ついている人に与えることができます。
魂が打ちひしがれて、声にもならないうめきをあげている人にイエス様の慰めを分け与えることができます。
人は、一生懸命勉強します。理性を働かせて生きることは尊いことだからです。
また人は、スポーツに励み、強く、たくましく、あるいは健康になろうとします。
これも尊いことです。そのようなものばかりではなく、わたくしたちには、人の痛みを共感できる力もいただいています。
理性的な言動をとるために、読書や思考が不可欠であるように、またスポーツに練習が必要であるように、人の痛みを共感できるために、わたしたちは人生で苦難を経験するのです。
苦難の中で流した汗も涙も、あのとまどって遠回りしたようなみちのりも決して無駄ではなかったのです。
人はひとりでは生きていけません。
人の痛みを共感しあいながら、助け合い、支えあって生きるために、私たちの人生には苦難があたえられています。
そして、苦難のなかで、十字架の救い主から慰めをいただくことが必要なのです。
人の痛みのわかる人間になるというのは、なんとすばらしいことではないでしょうか。
自分の弱さをひたすら隠そうとするのではなく、時にはパウロのように自分の弱さを告白して、自分ではなく、十字架につけられたイエス・キリストを明らかにしながら生きることが、イエス様の恵みに生きる私たちにとって、あるいは教会にはなくてはならないことなのです。
4)教会
教会は慰めの共同体と呼ばれます。
ところがどうでしょう。
パウロが7節で語っているように、苦しみを共にいて、慰めをも共にしているでしょうか。
わたくしが以前感じていた教会の中での息苦しさ、閉塞感は、ここに原因があるのではないかと、うすうす感じています。
まだはっきりしないところがあるのは、まだそのような問題をかかえているからだと思います。
教会は、心を打つ美しい言葉や、だれがみても批難されることのない正しさばかり求めていると、魂が深呼吸する場がなくなってしまうのではないかと思います。
「・・・ではないかと思います」と付け加えざるを得ないのは、今は牧会から離れているからです。
キリスト教の教会の歴史を振り返りますと、ずいぶんと間違いを犯してきました。
日本の教会の歴史もそうです。
この筑波学園教会はそのようなことはないかもしれません。
あるいはあるかもしれません。
教会がどんな間違いを犯しても、何度犯したとしても、教会は神の教会なのです。
そういうルターの言葉に慰められました。
そこに、苦しみを共にし、慰めを共にする教会、今もイエス様が生きて働いている教会ならば、あるいはそこに信仰と愛と希望の炎があるならば、どんなに罪にまみれても神の教会なのです。
何度でも改めるべきことは改めて、「この教会は今もここにキリストの命を宿している生きた教会だ」と胸を張って言えるのです。
わたくしは、そういう信仰が、以前あの閉塞感を感じているときはなかったのではないかと反省しています。
ルターが言うように、聖書の救いは、おとぎ話でも絵空事でもありません。
イエス・キリストは、今もリアルな私たちの救い主です。わたしたちの、ありありとした罪から救う救い主です。
頭の中で誰かが思い描いたものではないのです。
聖書は、ここにいる現実の人間、すなわち罪深い人間を救うリアルな救いを語っています。
現実の生活の中で、打ちひしがれ、あるいは失敗を重ね、自分の弱さに愕然としている人間に「重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いてくださる真実の救い主を、聖書は証ししています。
教会は、この十字架につけられて今もここにいる救い主を、与えられた場で力強く伝えていくために建てられています。
わたくしは、この街のことを詳しくしりませんが、この街は研究学園都市ですから、日本中、さらには世界中から集まった多くの若者が勉学や研究にいそしみ、若い日の一日一日を楽しんでいることと思います。
学生時代というのはまさに人生のなかでもっとも光輝いている時期でもあるのですが、しかし、光のあたるところがあれば、影もあるのが、どこにでもいえることです。
御教会はいつも世界に思いを向けていることと思いますが、どうぞ教会の中ばかりではなく、街の人たち、世界中の人たちと、苦しみを共にし、慰めをも共にして、「ここにキリストの慰めがある」という目には見えない十字架を掲げてこれからも歩んでいただきたいと願っています。
そして、パウロがこの手紙の3節で「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」と手紙の挨拶に続いてまず第一に書いているように、わたくしたちも、主を讚美することを第一に歩みたいと思います。
苦難の中でも慰めを語り、打ちひしがれた魂が深く息を吸うとき、主の聖霊の息吹もそそいでいただいて進みます。
その歩みの原点に、主を讃美することがあります。
主を讃美する礼拝を通して、苦しみを共にし、慰めをも共にする歩みを整えます。
「イエスはキリストです」と告白する中で、飾ることも装うこともしない罪深い自分みじめな自分を愛し、救ってくださる救い主の慰めを感じ取り、人の痛みのわかるものとして、教会からこの街に遣わされて、この街にすむ人々に主イエス・キリストによる慰めが豊かにあたえられることを祈っています。
わたしも福島に住みながら、そのようなことを祈り願いながら、この信仰生活を続けていきたいと思います。
国籍が違っても、教会が違っても、キリストの前に集い、主を讃美し、互いに慰め合い、また祈りあえる幸いを今日ここで与えられましたことを感謝して、筑波学園教会の礼拝に集った皆様のために、またこの町に住む人々のために祈りたいと思います。
そして讃美歌543を、キリストの前に、よろこび集まり、キリストの愛に感謝して歌いましょう。
キリストにならい、誰をもへだてず、互いに励まし、互いに仕えあいましょう。
2012年 8月19日 聖霊降臨節第13主日礼拝
14:02イスラエルよ、立ち帰れ
あなたの神、主のもとへ。
あなたは咎につまずき、悪の中にいる。
14:03誓いの言葉を携え
主に立ち帰って言え。
「すべての悪を取り去り
恵みをお与えください。
この唇をもって誓ったことを果たします。
14:04アッシリアはわたしたちの救いではありません。
わたしたちはもはや軍馬に乗りません。
自分の手が造ったものを
再びわたしたちの神とは呼びません。
親を失った者は
あなたにこそ憐れみを見いだします。」
14:05わたしは背く彼らをいやし
喜んで彼らを愛する。
まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。
14:06露のようにわたしはイスラエルに臨み
彼はゆりのように花咲き
レバノンの杉のように根を張る。
14:07その若枝は広がり
オリーブのように美しく
レバノンの杉のように香る。
14:08その陰に宿る人々は再び
麦のように育ち
ぶどうのように花咲く。
彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。
09:36ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。 彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。 09:37ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。 09:38リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、 「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。 09:39ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。 人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。 やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。 09:40ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、 「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。 09:41ペトロは彼女に手を貸して立たせた。 そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。 09:42このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。 09:43ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。
佐久本 正志 牧師(日本基督教団 戸山教会)
2012年 8月12日 聖霊降臨節第12主日礼拝
02:11だから、心に留めておきなさい。
あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
02:12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
02:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
02:14実に、キリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
02:15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
02:16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
02:17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
02:18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
本日の聖書箇所の11節欄外には、タイトルとして「キリストにおいて一つとなる」と書かれています。
これまでは遠く離れ敵対していた二つのものが、キリストにおいて一つとされた、ということが記された箇所です。
14節に「キリストはわたしたちの平和」とあります。
日本では毎年夏、今頃は、ちょうど平和を考える時期です。
同様に本日の聖書箇所についても、そういう政治的な意味から平和を考えるようになったのではないか、という気がします。
しかし、パウロが語っている平和は、そういうものではありません。
敵対していた二つのものとは、イスラエル人と異邦人であるエフェソの人々のことでした。
なぜパウロが、その二つの人々がキリストにおいて一つとなったということ語っているのかというと、
背景にある両者の対立の深さではないかと考えられるのです。
さらに感じるのは、イスラエル人と異邦人との間以上に、ユダヤ人からクリスチャンになった人々と
異邦人からクリスチャンになった人々との間に、深い溝があったからではないか、ということです。
パウロの手紙や使徒言行録を読むと、その溝の深さが随所に垣間見えます。
生まれたばかりの初代教会全体に、この深い溝が横たわっていたようです。
エフェソ教会も決して例外ではありませんでした。
だからパウロは、そうした溝がキリストによって乗り越えられていくということを力説せざるを得なかったのだと思うのです。
ではまず、ユダヤ人と異邦人との間に、どのような隔たりや敵意があったのでしょう。
それは、11節から12節に記されています。
異邦人は、割礼を受けているユダヤ人から、割礼のない者と呼ばれていました。
異邦人は、血筋の上でもイスラエルの民には属さず、契約と関係のない者とされ、神様を知らないで生きていると見なされていました。
15節では、ユダヤ人が規則と戒律ずくめの律法に生きていた、とも記されています。
ユダヤ人たちが、なぜ割礼を受け、律法の行いをし、血筋の上でイスラエル民族たろうとしたのでしょうか。
その核心は、12節にある「契約」という言葉にあるのではないかと思います。
ここでいう契約は、非常に特殊な関係のことです。
神様のものが私たちのものとなり、私たちのもの(それは大抵、マイナスの借金のようなものです)が神様のものとなる、というのです。
この関係は、私たちが神様に接ぎ木された、という比喩で捉えて良いように思います。
神様に接ぎ木されることによって、神様の良い幹の性質が、悪い枝でしかない私達に及ぶようになるのです。
そして、私たちが良い実を結ぶことのできる者となるのです。
問題は、私たちが神様に接ぎ木していただくうえで、また、契約を結んでいただくうえで、
何か私たちの側に条件があるのかどうか、ということです。
普通に考えれば、神様と契約を結んでいただくのですから、私たちの側も、当然それにふさわしい
義務や責任があるだろう、ということになります。
接ぎ木をしていただく枝のほうにも、それに相応しく整える義務があるだろうというわけです。
そうでなければ、切り捨てられてしまう、あるいは捨てられてしまうように思うのです。
ユダヤ人はそのように信じて、割礼を受け、律法の行いをしたのではないでしょうか。
それゆえにこそ、ユダヤ人たちは、割礼を受け、律法の行いに励んだのでしょう。
だからこそ、ユダヤ人たちは、神様に繋がることなど求めようとしない異邦人を軽蔑したのでしょう。
このようなことから、ユダヤ人と異邦人との間には、深い溝が生じざるを得なかったのです。
さて、このようにしてユダヤ人が長い間、大事に大事に守り続けてきたことが、
イエス・キリストの到来によって、どのように変わったのでしょうか。
私たちが神様に接ぎ木していただく上で何が不可欠なのかという根本的な点が、どのように変化したのでしょうか。
なんとそれは、もはや割礼も律法の行いも不要だ、とされたのです。
必要なのは、ただ一つ、イエス・キリストに繋げていただくこと、それだけでイコール、神様に繋げていただくこととなったのです。
この点こそ、伝統的なユダヤ人、またユダヤ人からクリスチャンになった信者たちにとって、
きわめて不愉快で、決して受け入れ難い事柄だったのではないでしょうか。
クリスチャンが誕生した当座は、そのすべてがユダヤ人でしたから、イエス・キリストを信じること、
すなわちイエス様に接木されることと、割礼を受け律法の行いをすることとの関係が問題になることは、なかったのでしょう。
イエス・キリスを信じつつ、人々は何の矛盾も感ぜずにこれまで通りの行いをし、子供たちに割礼を受けさせていたに違いないのです。
ところが、いよいよ福音が拡大し、全くの異邦人がクリスチャンとなるようになって、
この両者の関係がきわめて重要な問題であることがわかってきたのでした。
異邦人クリスチャンにも割礼を施し律法の行いを求めるべきなのか、あるいはそうではないのか。
このことが、生まれたばかりの教会にとって、根源的な問題として浮かび上がって来たのです。
使徒言行録の15章では、「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って
割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と言ったことが記されています。
それで、パウロとの間に激しい論争が起こり、エルサレムで使徒会議が開かれた、とのことです。
イエス様の兄弟であったヤコブ、その当時エルサレム教会で指導者になっていたであろうヤコブが、
最後に騒動をまとめることになるのですが、その解決は玉虫色といってもよいかもしれません。
ガラテヤ書1章6節には「あなたがたがこんなにも早く、他の福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てている」とあります。
他の福音と言うのは、イエス・キリストに繋がるだけでは足りず、割礼や律法の行いも不可欠という信仰をさしています。
人々は、なお、このような教えに引きつけられていました。
ただ、キリストに繋がるだけで良いと教えられたのに、こんなにも早く、違った教えに影響されてしまっていたのです。
今日の御言葉には何も書かれてはいませんが、初代教会全体に広がっていた溝というものが、
このエフェソ書の背後にあったことが伺えるのです。
そうであればこそ、パウロは、ただイエス・キリストに繋がれることによって神に接ぎ木していただける、と語るのでした。
それのみが、ユダヤ人と異邦人、またユダヤ人からクリスチャンになった人々と、
異邦人からクリスチャンになった人々を一つにする、お互いの敵意や障壁を除くものなのだ、と語るのです。
ユダヤ人やユダヤ人からクリスチャンになった人々にとっては、ただイエス・キリストに繋げていただくだけで良いというのは、
余りにも虫が良過ぎるのではないか、と思ったに違いありません。
神様に契約を結んでいただくうえでの、私たちの側が果たす義務や責任がなおざりにされているとの批判があったのではないかと思うのです。
しかし、イエス・キリストに繋げていただくことのみ、イエス様をキリストと信じ、
この方に繋がるための洗礼を授かって、この方と一生を共に添い遂げようということは、はたして虫が良過ぎることでしょうか。
神様と系や幾を結んでいただくと言うのには、余りに軽過ぎる責任なのでしょうか。
そうではありません。
むしろ、このことの方が重いのではないでしょうか。
割礼を受け、律法の行いをすることのほうが軽いのではないでしょうか。
何故ならば、そのことのほうが非常に具体的で分かりやすいからです。
イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教の欠点というか、難しい部分を反面教師として成立した宗教だと言われています。
神が人となったという受肉の信仰であり、その神である救い主が人間によって十字架の上で殺されてしまったという信仰であり、
さらには、殺された人間が復活したという信仰であることに、キリスト教の難しさがあります。
今はもう見ることができないイエス・キリストを信じなければなりません。
曖昧模糊としているので、信じる事が非常に難しいのです。
これに対してイスラム教は、突き詰めれば、日々のなかで5つの行いをすれば足りる、としているだけです。
これをしていれば、神に接ぎ木され契約関係の中におかれている、と教えています。
きわめて明快なのです。
非常に優れた宗教学者で仏教学者だったある人の本に「どうしてクリスチャンは、十字架という、
なおおぞましく痛ましい残酷な死に方をした人間を、神として信じているのか、私にはわからない」というようなことが書かれていました。
十字架の上で死んだ人間が神であり、救い主であるとは、本当に愚かであり、躓きでしかありません。
しかし神様は、このような愚かであり躓きでしかないイエス様を、キリストとして信じ、
この方に繋がる者を、ご自分に繋がるものとされるのです。
このような愚かな福音を信じる者を救おうとされるのです。
イエス様を信じることは、割礼を受けることや律法の行いをすることなど、遥かに及びのつかない、
私たちを契約のもとにおいてくださる神様に、私たちが捧げる重いものなのだ、と思います。
私たちは、何故イエス・キリストに繋げていただこうと願うのでしょう。
とくに十字架につけられたキリストに繋げていただいて、何を求めるのでしょうか。
13節の最後には「キリストの血によって」と書かれています。
これも、しばしば私が比喩として語ることですが、私たちにはイエス様の血が必要なのだ、と思うのです。
それは輸血であり、あるいは骨髄移植・臓器移植に譬えてよいとも思うのです。
私たちは病んでいます。
だから、私たちとは正反対の健やかさを持っておられるイエス様の血を必要とし、骨髄や臓器を移植されねばならないのです。
イエス様の健やかさ・病のなさこそが、十字架の死であると思うのです。
確かに、先の仏教学者が言われたように、十字架の死はおぞましく痛ましいものです。
しかし、私たちはそこに、すべてを分け与え、流しつくし、ご自分の利益を一つたりとも求めなかった
聖なる汚れのないお方の有り様を見るのです。
この方を、私たちは必要とします。
入院した患者たちというのは、不思議な連帯感というか、一体感を抱くものなのだそうです。
健康な人々の間にいると、患者はマイナスのものを持った存在でしかありません。
健康なものと患者の間に一体感は生まれません。
しかし、入院すると、地位も職業の違いも、貧乏金持ちの違いをも、すべてを乗り越えて、ただ患者であるのみなのです。
ただ治療していただかなければならないマイナスの存在であるという点で、一つなのです。
等しいものとなるのです。
私たちが信仰者であり、礼拝に集うのは、ひとえにイエス様によって癒される必要のある患者として、なのです。
イエス様から輸血を受け、骨髄や臓器を移植していただかなければならないのです。
その点においてこそ、私たちは一つなのです。
これ以外のどんなことにおいても、私たちは一つにはなれないのです。
2012年 8月 5日 聖霊降臨節第11主日礼拝
06:43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 06:44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。 茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 06:45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。 人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
「実によって木を知る」というイエス様の言葉は、聖書では比較的よく知られている言葉かもしれません。
しかしその意味を、よくわかっているかと言われると、まことにおぼつかないものなのです。
福音書を記した著者たちでさえ、この言葉の理解という点においては、そうだったのではないかと思うのです。
ルカによる福音書にあるのと同じ言葉が、マタイによる福音書では二度にわたって全く違う文脈の中に記されています。
そのことでも、この言葉の理解が多様であり、曖昧だったということが浮き彫りになります。
普通の受け止め方をするなら、実というのは外に現れた結果や結実をさすものと理解されるでしょう。
信仰生活の結果としての実によって、その信仰者の正体が知れるというのなら、私たちは、ただうなだれてしまうばかりです。
しかし神様は、とても情け深いお方です。
神様は、私たちに対して、幾千代にも及ぶ慈しみを与えて下さいます。
だから、私たちは最後には必ず実をつけることができるのだと思うのです。
私たちの力によってではなく、神様の幾千代にも及ぶ憐れみによって、私たちに結実させて下さいます。
私たちは、悪い実をつける悪しき枝でしかありませんが、神様が私たちを良い実をつける良い木にして下さるのです。
接木という、植物だけが持っている不思議な能力にたとえて考えて見ましょう。
私たちは悪い実しかつけることのできない悪い枝なのですが、イエス様という良い木の幹に接木されることによって良い実をつける枝に変わることができるのです。
こういうわけですから、今の自分のありさまに落胆することなく、最後には良い実をつけさせてくださる神様の憐れみを信じて歩んでまいりましょう。
2012年 7月29日 聖霊降臨節第10主日礼拝
17:01アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。
17:02わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
17:03アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。
17:04「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
17:05あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。
あなたを多くの国民の父とするからである。
17:06わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。
王となる者たちがあなたから出るであろう。
17:07わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。
そして、あなたとあなたの子孫の神となる。
17:08わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。
わたしは彼らの神となる。」
17:09神はまた、アブラハムに言われた。
「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。
17:10あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。
すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。
17:11包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。
17:12いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。
17:13あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。
それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。
17:14包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。
わたしの契約を破ったからである。」
17:15神はアブラハムに言われた。
「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。
17:16わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。
わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」
17:17アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。
「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」
17:18アブラハムは神に言った。
「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」
17:19神は言われた。
「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。
わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
神様はなぜ99歳のアブラハムに現れてくださったのでしょう。 99歳になった彼は、そのときどういう状況だったでしょうか。 もうすぐ100歳になろうとする人生の大きな節目のときです。 ハガルとの間にできたイシュマエルが元服の年頃の13歳になっていました。 サラとの間に跡継ぎが授からなかったので、いよいよイシュマエルを跡継ぎにせねばとの思いが強くなっていたのではないでしょうか。 もうあきらめるしかないといった思いもあったでしょう。 99歳にもなった人間にとっては、当然の感覚だったと思うのです。 だからこそ神様は、アブラハムのもとに現れました。 神様によって、正妻であるサラとの間に授かった子供ではなく、人間の勝手な企てによってハガルにより、手に入れた子を跡継ぎとすることを、神様はお許しになりません。 「あきらめてはならない。まだ、枯れてはいけない」という神様からの語りかけでもありましょう。 「全き者となれ」とは、そういう意味です。 決して「完全無欠の人生になれ、99歳になっても」という意味ではないのです。 神様は、枯れることなく、いつまでも若々しいエネルギーに満ちたお方です。 それが「全能の神」の意味するところです。 そういう神様に従って生きてきたとき、私たちは99歳になっても枯れることのない存在として歩むことができるのです。 そのよりどころが、神様と契約関係におかれているということであり、また、そのことの目に見えるしるしが、割礼を受け名前を新しくされるということなのでした。
2012年 7月22日 聖霊降臨節第9主日礼拝
02:01さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 02:02この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 02:03わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 02:04しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 02:05罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 02:06キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 02:07こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 02:08事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 02:09行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 02:10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
エフェソの信徒への手紙の1章で、パウロが繰り返し語っていたのは、神様が私たちにどのようなスタートとゴールを設けてくださっているかということでした。
スタートについては、人間がこの世に生まれるはるか以前に、神様のみもとで天のあらゆる霊的な祝福に満たされていたとありました。
ゴールについては、聖なる者けがれのない者となって、すばらしい栄光を授かるとありました。
この二つが定まることで、私たちの人生の道はしっかりと定まるわけです。
迷うこともあるでしょうが、神様が私たちのために定めてくださった道なのですから、必要な案内や導きは必ず与えられるものなのです。
このようなことを知る以前のエフェソの人々は、どのようだったのでしょう。
そのように3節までに記されています。
神様によって定められた道筋を知らなかったわけですから、自分の判断やこの世の支配のもとに生きざるを得なかったのです。
このような私たちに神様のことを知らしめ、ただ神様のことを頭で知っただけではなく、神様の定めてくださった道を自然に歩めるようにしてくださったのがイエス様だと、4章以下に語られています。
5節には「罪のために死んでいた私たちを、キリストと共に生かし」とあります。
イエス様のお姿に心ひかれ、この方と一緒に生きたいと願うなら、それが自ずから神様の御心にそった歩みとなるのです。
2012年 7月15日 聖霊降臨節第8主日礼拝
06:37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。 そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 06:38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。 押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。 あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 06:39イエスはまた、たとえを話された。 「盲人が盲人の道案内をすることができようか。 二人とも穴に落ち込みはしないか。 06:40弟子は師にまさるものではない。 しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 06:41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 06:42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。 そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
少し前の36節には、悪人にも善人にも情け深い神様のお言葉として「あなたがたも憐れみ深い者となれ」と書かれています。 「人を裁くな」とは、「情け深くあれ」ということです。 それでは、神様が情け深いというのは、どういうことでしょうか。 イエス様は、悪人に対しても神様はそのようであられると言います。 正邪の区別や裁きといったことは、どうなるのでしょう。 旧約聖書の出エジプト記 34章6~7節には 「憐れみ深く恵みに富む神・・・幾千代にも及ぶ慈しみを守り罪と背きと過ちを赦す。 しかし罰すべきを罰せずにはおかず・・・罪を三代四代まで問う」と書かれています。 神様の憐れみの深さとは、私たちに幾千代(おそらく数万年)にも及ぶ慈しみを与え、最後には私たちの罪が赦されるということです。 しかし、その御業の中には、三代四代という短い間において、私たちの罪をそれにふさわしく処遇されるということが含まれています。 私たちは、このような神様の憐れみ深さの中に置かれていることを感謝すれば、自ずから他の人に対するあり方も定まるものです。
2012年 7月 8日 聖霊降臨節第7主日礼拝
16:01アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。
16:02サライはアブラムに言った。
「主はわたしに子供を授けてくださいません。
どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。
わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」
アブラムは、サライの願いを聞き入れた。
16:03アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。
アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。
16:04アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。
ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。
16:05サライはアブラムに言った。
「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。
女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。
主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」
16:06アブラムはサライに答えた。
「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」
サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。
16:07主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、
16:08言った。
「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、
16:09主の御使いは言った。
「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
16:10主の御使いは更に言った。
「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
16:11主の御使いはまた言った。
「今、あなたは身ごもっている。
やがてあなたは男の子を産む。
その子をイシュマエルと名付けなさい
主があなたの悩みをお聞きになられたから。
16:12彼は野生のろばのような人になる。
彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので
人々は皆、彼にこぶしを振るう。
彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
16:13ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。
それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。
16:14そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。
それはカデシュとベレドの間にある。
16:15ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。
アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。
16:16ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
今日の御言葉は、創世記に記された物語の中でも、私たちの心に鮮やかに残る印象的なものの一つです。
筋の流れとしては、前章15章の内容と深くつながっています。
また、聖書の箇所は全く違いますが、先週の礼拝においても『神を深く知る』ことの大切さを改めて思い起こさせられたばかりです。
さて、15章からのあらすじをかいつまんでお話ししておこうと思います。
アブラハムとサラには、長い間、子供が授かりませんでした。
16章4節によれば、この出来事があったのは、彼が「カナン地方に住んで10年後のこと」とありますから、
およそアブラハムが85歳、サラが75歳の頃のことです。
そのため、夫婦は甥のロトを跡継ぎにしようと思っていたのではないかと私は想像しますが、
ロトとはどうしても袂を分かたざるを得ませんでした。
地域の王たちの戦いに巻き込まれて捕虜となったロトを、アブラハムは救出しますが、
これも私の想像ですが、もしかするとアブラハムは、ロトがまた自分のところに甥が戻ってくれて・・・
との願いもあったのではないかと思うのです。
しかし、それも実現せず、とうとうアブラハムは自分の僕であったエリエゼルを跡継ぎにしようとしたのでした。
ところが、神様はこれを止め「あなたから出る者が跡継ぎとなる」と言われ「あなたの子孫は星の数ほどになる」と言われたのでした。
アブラハムはこれを信じたのでした。
この神様の約束を、アブラハムもサラも堅く信じて待つことができれば、今日の出来事は起こらなかったのです。
しかし、二人は待つことができませんでした。
神様は「いつ」ということを、明確にお告げにはならないのです。
また、これが今日の出来事に直接的につながっていきますが、神様は「あなたから生まれる者が」と言われました。
それは、受け取り方によっては、父がアブラハムであれば母は別にサラでなくてもよいのではないか、ということにもなります。
それでも「あなたから生まれる者」には違いないわけですから。
もちろん、後に触れるように、神様の御心、本意はそうではなくて、あくまで妻サラとの間に生まれる者、ということでした。
しかし、二人は待つことができませんでした。
待つことができない人間は、常にこうして神様の御心を自分たちに都合のよいように解釈して、代替品を作り出すのです。
神様の御心を深く知れば、決して、このような都合のよい解釈は出て来ません。
それは、神様がどれほど一対一の夫婦の間柄を大切にされているかを理解することです。
この夫婦の出来事としては、飢饉を逃れてエジプトに避難した時のことを思い起こします。
よそ者としてエジプトの領土に寄留するため、アブラハムは人質としてサラを差し出す必要がありました。
別に妹だとウソをつく必要はありませんでしたが、彼は妻が妹だとウソをつきました。
そのことでサラは大奥のようなところに召し入れられ、またエジプト王や後宮には大変な災いが降りかかったのでした。
このことからも、神様はどれほど夫婦を大切に守ろうとされているかがわかります。
これを振り返れば、決して側室を通して子を得ようなどとはできなくなります。
しかし、何度も言いますように、待つことができなくて、また、神様を深く知ることないで、
自分たちの企てで、望みのものを得ようとしてしまうのです。
さて、もう一点、こうした企てを引き起こさせる人間の思いとして、
2節の「主はわたしに子供を授けて下さらない」というサラの言葉に着目させられます。
彼女は神様を「子供を授けて下さらない方」と言っているのです。
確かに、それはその通りでした。
彼女にとって何よりも望んでいるものを、神様は与えて下さらないお方なのでした。
けれども、神様をそのように見てしまうとき、私たちは、自分たちの企てとして、それに代わる代替品を手に入れようとしてしまいます。
そして、今日の御言葉にあるようなトラブルを生じさせていくことになりるのです。
神様を深く知れば、確かに与えてくださらないということはあるけれども、だからこそ、神様は何かを与えてくださいます。
与えて下さらないマイナスがあればこそ、そこに同時に、プラスもあるのだと知ることができるのです。
この夫婦について言えば、それはどういうことを実例として挙げることができましょうか。
12章で、アブラハムが神様とはじめて出会い「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて」との御言葉を聞いて、
見ず知らずの土地へと75歳にして旅立つことができたのですが、それそのものが、
実は二人に子供がいなかったことからの恵みではなかったでしょうか。
もしも彼らに子供が多くいて、それが成人し、それぞれ結婚していたとしたら、
余りにも離れるべき婚姻関係が多く、果たしてすんなりと生まれ故郷や父の家を離れることができなかったのではないでしょうか。
跡継ぎがなかったからこそ、捕虜になったロトを助け出そうとし、
メルキゼデクという不思議な存在と出会うことができたのではないでしょうか。
15章で描かれているような神様との出会いもありました。
そのプラスはすべて神様との出会いつながりといえます。
過日のルカ福音書の学びでイエス様が言われたように、私たちは人との間柄における貧しさや悲しさが与えられればこそ、
それを通して、神様とのつながりという豊かさを授かっていることを忘れてはいけない、と思うのです。
さて、人間の企てがどのような結果を生み出したかは、4節以下につぶさに書かれているので、多くを語る必要はないでしょう。
とにかく、これが神様の御心に沿わず、人間が企て、神様の御心に代わって人間が
代替品を手に入れようとした結果結実として収穫したもの、ということです。
イエス様は「実で彼らを見分ける」(マタイ7:20)と言われ、
パウロは「霊の結ぶ実は愛であり、喜びであり・・(ガラテヤ5:22~)」と言われました。
しばしば、その途中にあるときには、それが果たして神様の御心に沿うたものかどうか、わからないものですが、
結果として生じた実りが、もし、ここに描かれたような不遜、傲慢、責任転嫁・・・
「おれには関係ない」(これは6節の『好きにしろ』という言葉のニュアンスでしょう)、
そして、いじめと逃亡であるならば、最初の企てが間違っていたということがはっきりするのです。
このような夫婦とハガルの3人を、生まれようとする子供も含めれば4人ですが、
神様はそのトラブルからどのように助けてくださったのかが、7節以下に書かれています。
私たちはここを読むと「どうして神様は、もっと早く介入されなかったのか、
ストップをかけることをされなかったのか」と思うのです。
しかし、いつも言うように、神様は私たちに自由をお与えになっています。
何でも先回りして、私たちが悪しき企てを考えてトラブルに陥ることを止めるということはなさいません。
しかし、私たちがどうしようもなくなったときには、助け舟を出してくださいます。
ただ、それも決して、私たちの自由を奪い、強制的に助け舟に乗せるというやり方はなさらないのです。
あくまで、私たちの自由を尊重なさいます。
だから、ハガルに出会われたときも、最初から「女主人のもとに帰り・・」とは言われませんでした。
まずは「あなたは何処から来て、どこへ行こうとしているのか」と声をかけられました。
この声かけは、本当に意味深く、恵みに満ちたお言葉だと思います。
あなたの道は、人生の歩みは、どこから来てどこに向かうものですか。
それは言い換えれば「人の生きる道はすべからく、どこから来て(FROM)、
何処へ行く(GO)かが定まっていなければならないものだよ」ということだと思うのです。
直線は2点が定まることによって引かれます。
そのように人の生きる道も、スタートとゴールの2点がちゃんと定まることによって初めて引かれるのです。
あなたにはそのようなスタートとゴールがあるのか、との問いかけなのです。
もちろん、このときのハガルにそのようななものはありませんでした。
彼女のこれまでの歩みと言えば、エジプトから奴隷として売られ、サラの奴隷となり、
突如としてアブラハムのもとに行かされ、子供をはらむ道具とされ、思いもかけない僥倖に舞い上がってしまうと、
今度はいやがらせを受け、とうとう逃げ出すしかなくなる・・・。
ただただ、人間の如何ともし難い運命のようなものに翻弄される人生でしかないのです。
そこにどんなスタートがありゴールがあるというのでしょう。
しかし、神様はいま彼女に「あなたにもそれがあるのだ」と思い知らせるのです。
「わたしは、あなたの子孫を・・・多くします」と10節で言われました。
その根底にあるのは、この出来事が神様の御業ゆえのものであり、あなたの子孫が
そのように多くなるとのゴールに向かっている、ということです。
すべては神から出て神に帰する(ローマ11:36)のです。
そのような人生の道筋として生きて行きなさい。
そして、今あなたが為すべきことは、女主人のもとに帰って、従順に仕えることなのです。
そうです、これが私たちすべてに神様が語られることだ、と思います。
万物は神から出て神に帰る、そのような道筋の中で、私たちが現実において為すべきことは、目の前の事柄に従順に仕えることなのです。
一つ一つそれを果たしていけば良いのです。
それ以外の事は何もありません。
このような神様からの促しを頂いて、彼女は自分の決断をして帰っていきます。
神様の強制によるのでなく、自らの決断によって生きるべき道を決めることができたのです。
ハガルという人が、このように神様と出会って自分の人生を生き始めたゆえに、彼女によってこの夫婦は救われることとなったのでしょう。
16章16節によれば、ハガルがイシマエルを生んだのは、アブラハムが86歳のときであったとあります。
そして、次の場面では、彼は99歳になっています。
この13年の間、この一家は平和に過ごすことができたという現れでしょう。
それは、ひとえにハガルによることが大きかったと思うのです。
神様に出会い、神様を深く知ることとなった一人の女性によって、
浅はかな企てのために崩壊しようとしていた家族は救われることとなったのです。
2012年 7月 1日 聖霊降臨節第6主日礼拝
01:15こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、01:16祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 01:17どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、01:18心の目を開いてくださるように。 そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 01:19また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 01:20神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、01:21すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。 01:22神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 01:23教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
パウロは「神を深く知るように」と祈っています。
これは逆に言うと、エフェソの教会の事情として、人々が神様を深く知らないという現実があったことを物語っています。
神様を、その神様ご自身が送ってくださる聖霊によってではなく、何かほかの手段によって知るということの弊害、ダメージは計り知れないものなのです。
たとえばキリスト教の歴史は戦争や侵略の歴史ですし、現在のイスラム原理主義者の人々はテロを繰り返しています。
神の名による争いが絶えないのは、要するに、神様のことを深く知ることがないからだと思うのです。
パウロは、神様を深く知ることによって心の目が開かれ希望が与えられると続けています。
それは神様を天の父として知るゆえの、また天の父である神様がその子供である私たちにどのような財産を与えてくださるのかを私たちが知るがゆえの心の目が開かれ希望を抱くことなのです。
たとえば今、自分には親がおらず、全部自分ひとりでしなければならないと思いつめていた人が、実は自分には親があり、その助けを得ることができるのだと知り、またその親が自分のために残してくれた財産もあるのだと知ることができたら、どれほど違った目でまわりの世界を見ることができるでしょう。
希望を持って生きることができるに違いありません。
神様を、いよいよ深く知りたいものです。
2012年 6月24日 聖霊降臨節第5主日礼拝
06:20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
06:21今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
06:22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
06:23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。
この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
06:24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
06:25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
06:26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
ルカによる福音書の6章20節以下から6章の最後までには、マタイによる福音書の5章から7章までに書かれているのとほぼ同じことが、少し短くした形で書かれています。マタイ福音書では「山上の説教」と呼ばれているのに対して、ルカ福音書のこの箇所は、6章17節に「山から下りて平らなところにお立ちになった」と書かれていることから「平地の説教」とも呼ばれています。いっぽうこの箇所(ルカ)と対応する山上の説教(マタイ)の冒頭は、8つの幸が列記されることから「山上の八福」と呼ばれています。しかし本日の聖書箇所(ルカ)のほうには、4つの幸いと4つの不幸が列記されているのです。
貧しい人が幸いであるとか、泣く者が幸いだとか、一体これはどういうことなのでしょう。
昔から読むものを当惑させ続けてきた御言葉です。 ある人は、イエス様がこのようなことを言うから、人は貧しさや悲しみの中に安住させられ、留め置かれてきたのだ、といいます。それは私腹を肥やそうとする為政者に好都合なことで、だから宗教はアヘンのようなものだ、とも言われました。
イエス様はどのようなお心でこのようなことを言われたのでしょう。
まず、イエス様がこの言葉によって、貧しい中、悲しむ中に私たちを留め置こうとされてはおられないこと、また、貧しさや悲しみのそれ自体が幸いであるなどとは言おうとされてはおられないという点に言及をしようと思います。それは18節、19節を読んでも良くわかることです。イエス様のもとに病気をしていた多くの人々が来ていました。そして、群衆のある者は、何とかしてイエス様に触れようとしました。イエス様に触れると、イエス様から力が出て、その者の病いが癒されたのでした。イエス様は決して人々を、病気に苦しむという悲しみの中に放置されることはなさらいませんでした。むしろ、そこから解き放とうとされました。
悲しみの中にあること自体が、どうして幸いであり得ましょうか。
では、そのような悲しみに対して幸いという言葉が、かりそめにも「幸い」という事柄が伴うというのは、一体どういうことなのでしょうか。そのことが「神の国はあなたがたのもの」という言葉で言われています。
神の国とは、死んでから行くとされる天国のことではなく、「神の支配」という意味なのです。神の御業に浴すること、あるいは神のお働きに出会うということなのです。人の国というか、人の業や人のはからいを越えて、神様だけが為して下さる事柄にまみえる、ということなのです。貧しい人や悲しむ人は、人の国の中では絶対に満たされ得ない悲しみや飢え渇きを持っています。人によっては慰めを得ることができないので、先ほど見た17節から19節に書かれているように藁にもすがる思いでイエス様のところにやってくるのです。そしてイエス様に触れ、そうするとイエス様から力が自ずと流れ出るのです。そのように貧しい人や悲しむ人は、神に向かうしかなくなるのです。すると神様から、神様だけが与えることのできる何ものかが与えられるのです。悲しむ人や貧しい人だけがそういう神様との出会いを体験することができるのです。だから、ここで言っている貧しさや悲しみとは、決して人の国やこの世の手段によって何とかされるようなものをいっているのではありません。
先週の木曜日に、少ない人数ではありましたが、飯室さんのお宅で家庭集会をもちました。飯室さんは、神様に出会われる前に、おなかにお盆ほどの穴がぽっかりあいているような空しさを覚えて、会う人あう人に「空しい、空しい」と言っていたとのことでした。それを当時、この教会の若月牧師が聞き、彼女に「そこには神様が入るんですよ」と言われたといいます。本当にそのとおりだと思います。その空しさは、たとえば仕事に成功してお金がどんどん入ってきたとしても満たされるものではないのです。むしろ、そうすればそうするほど穴が大きくなってゆきます。神様だけによって満たされる穴や貧しさがあるのです。
24節以下の不幸が、どのようなものであるかが良く分かります。それは、人の国において満腹し喜んでいるゆえに、その心が神の国へと向かない不幸を言っているのです。どんなに今、人の国において満ち足りていたとしても、いつかは、絶対に人の世の事柄によっては満たされ得ない貧しさや悲しみを抱えることとなるのです。そのときが来てからでも、神様に心が向かうに遅きに失することはないのです。しかし余りにも、そのような機会を得る人が少ないと思うのです。人の国からの如何なる慰めも得られない中に置かれたとき、神の国からの何物かを得ることができないならば、それはどれ程の不幸でありましょうか。
私の長女は、この4月より看護師として勤め始めました。しかし、配属された病棟は重症の患者さんばかりで、休みで家に帰ってきたときにはいつも娘の繰り言を聞く破目になっております。治療の甲斐もなく、あっと言う間に亡くなっていく方々をみて、医療の空しさをひしひしと感じているようです。ある患者さんは、頼りにしていた主治医から「もう何も治療法がない」と宣告され「とうとうあの先生からも見捨てられたよ」と言って、翌々日には亡くなられたとのことです。しかし、その方に限らず私たちの最後はすべて、どんな名医によっても見捨てられて死なざるを得ないのではないでしょうか。凡そ、人の業によっては何も為し得ない者として死んでいくのではないでしょうか。だからそのときに、人の国や人の業しか頼り得ないとすれば、それほどの不幸はないと言えるのです。
5.それでは、私たちが悲しみの中や貧しさの中で、そこにあってこそ出会う神様の御業とは如何なるものなのでしょう。今日の聖書箇所で、イエス様は何も言われてはいません。
人の国では、私たちはもっぱら喜びの種だけを蒔くのです。悲しみは極力排除します。そして、更に更に、貪欲に喜びの収穫を期待するのです。しかし、神様の御業は、そうではありません。涙と共に種を蒔くことだけが喜びの収穫をもたらすのです。
私たちは、すべて小さな種のごときものです。悲しみや貧しさのみが一杯詰まった、本当に小さな種のような存在だと思うのです。小さな種自身にも発芽するだけの力は備えられているかも知れない。しかし、発芽して成長し、結実するためには、何よりも大地に蒔かれ、土に委ねられ、土のなかで朽ちることが不可欠なのです。そのことがあって朽ちないものに芽生えていくのです。そのような種である私たちが委ねられる大地、それが神様なのではないでしょうか。それが信仰生活ではないでしょうか。信仰生活に委ねられてこそ、小さな種に過ぎない私たちは、喜びの収穫をもたらすものとされ得るのです。そのような神の御業を知ることの幸を、分かち合いたいと思います。
2012年 6月17日 聖霊降臨節第4主日礼拝
15:01これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。
「恐れるな、アブラムよ。
わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
15:02アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。
わたしには子供がありません。
家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
15:03アブラムは言葉をついだ。
「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
15:04見よ、主の言葉があった。
「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
15:05主は彼を外に連れ出して言われた。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」
そして言われた。
「あなたの子孫はこのようになる。」
15:06アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
創世記を15章まで読み進んできました。これから数章にわたって、アブラハムとサラの間に後継ぎが授かるということが基本テーマとして、エピソードが進んでゆきます。次のようなことが読み取れます。跡継ぎのないことに悩んでいたアブラハムは、しもべであったエリエゼルを跡継ぎにしようとしていましたが、神様は「あなたから生まれる者が跡継ぎになる」と言われ、「子孫は数えきれない星の数ほどになる」と約束されました。それがアブラハムに神様が与えられた大いなる報いでした。その約束をアブラハムは信じ、これを神様は義と認められました。アブラハムがこのように神様の約束を信じたということは、私たちもまた、同じように約束を信じるべきだ、ということなのでしょうか。たとえて言えば、現在お子さんが与えられていないご夫婦にもいつか子供が授かるということを神様からの報いとして期待しなさい、というようなメッセージなのでしょうか。7節以下には、土地をアブラハムに与える、という約束も示されています。子供だけではなく、土地も授かることを報いとして期待しなさい、待ち続けなさいとの語りかけなのでしょうか。
1節以下には「これらのことの後で」神様の御言葉がアブラハムに聞こえてきたとあります。最初は「恐れるな」という言葉でした。恐れるなと、神様が語り掛けられたということは、逆に、彼がその時、何らかの恐れを抱いていたことを示していると思うのです。「あなたの盾である」という言葉も書かれています。盾というのは戦いのときに身を守る武器をさしますから、それは拠り所となり砦となるものを意味しています。彼がそのとき、自分の拠り所となるものは何なのかについて悩んでいたことを示していると思うのです。受ける報い、との語りかけも同様です。報い、すなわち人生の果実・実りについて疑問を抱いていたのだと思います。そのような問いや恐れとはいったい何だったのでしょう。それを示唆しているのが1節はじめの「これらのこと」という言葉ではないでしょうか。これらのこと、とは、言うまでもなく、14章に記されている出来事のことです。かいつまんで振り返ってみましょう。おじのアブラハムと袂を分かったロトは、財産を保持することを第一に考えて、ヨルダン川流域の肥沃な場所、悪名高いソドムの町を住まいとして選びました。そのために、その地方一帯で争いを繰り返していた9人の王たちの戦いに巻き込まれて捕虜となってしまいました。この知らせを聞いたアブラハムは、わずか300名ほどの手勢を率いて、ロトを救出するために困難な闘いに打って出ました。彼の行動は、ロトを助け出したなら、もう一度、彼が自分のところに帰ってきて跡継ぎとなってくれるのではないか、との期待からではなかったでしょうか。アブラハムがロトを助けることができたのは、アブラハムがヘブライ人だったからでした。さすらいの寄留者でしたが、単なる寄留者ではなく、マムレの樫の木のかたわらに住む者、すなわち神様を礼拝することを第一にしようとして寄留する者だったからでした。そういう信仰者として戦い、アブラハムはロトを救い出すことができました。この世の王たちとの戦いに勝利することができました。しかしながら、ロトはアブラハムのもとに帰ってはこなかったのです。ロトを跡継ぎとすることができませんでした。そこに、彼の恐れや空しさ・寂しさがあったのではないでしょうか。ロトをとらえることができなかったことで、味方や跡継ぎを得ることの難しさ、信仰者として生きることの力のなさ・・・、そういうものを、アブラハムはひしひしと感じたのではなかったでしょうか。彼が求めていたのは、言葉どおりには跡継ぎではありますが、その根底にあるのは、信仰を共にしてくれる味方の存在だったのです。誰よりも家族、とくに実の子供たちが自分の信仰を受け継いで、それを益々発展させてくれることを求めていたのです。そのように仲間や家族が多くいるところで生きるということは、砦であり、拠り所となるのです。信仰を受け継いでくれる者がいて、「あぁ、自分が信仰者として生きてきたことは無駄ではなかった」と思えるのです。根本的にはこういう求めを抱いていたからこそ、神様は実子を授けるという形で、これを叶えて下さろうとなさいました。神様が与えてくださった報いとは、決して、ただ跡継ぎを与えるということではありません。私たちにも、そのように報いを下さるということではないのです。そうではなく、この世で信仰者としての戦いを生きて行くうえでの拠り所を得、また、その喜び・実りを実感できるということなのです。少数者であり、まさしく「ヘブライ人」である私たちが、それにもかかわらず、仲間や後継者を得て、何時の時にか星の数ほどになる、との報いなのだと思うのです。
さて、アブラハムは実子を長い間与えられず、もうその望みが叶えられることは自分たちの現状からいって不可能だと考え(そのとき、アブラハムは86歳に、サラは76歳ちかくになっていました)、また、ロトも帰ってくることがなかったので、しもべであったエリエゼルを跡継ぎにしようとしました。彼がエリエゼルを跡継ぎにしようとしたということは、とても象徴的なことだと思います。アブラハムは神様に対して「わたしには子供がありません。あなたは私に子供を与えてくださいませんでしたから」と言いました。盾や報いを頂いていないこと、信仰者としての自分の力のなさ、弱さ、貧しさばかりをあげつらいました。与えられていない、いただいていない、という嘆きに終始したのです。そして、諦めて、代替物というか、神様に与えられるのではない代わりのもの、自分が考えて得るところの盾や報いを、手っ取り早く得ようと考えてしまいました。これは、私たちにとっては、具体的にどういうことを意味しているのでしょうか。それぞれが思い当たることがあるのではないでしょうか。信仰の継承者が与えられるのを諦めてしまうということかも知れません。自分がもう何も生み出すことができないと思ってしまうことかも知れません。
これに対して、神様は「あなたから生まれる者が・・・」と言われました。これは、本当に慰め深い御言葉であると思います。もう90歳と80歳ちかくになっている老夫婦から跡継ぎが生まれると、神様は言われました。「あなたから」と、神は言われているのであって、たとえば、桃太郎やかぐや姫のごとく、川から、或いは、竹の中から、突如として子供が与えられるというのではありません。そうではなく、90歳・80歳にならんとする老いたる者の体を用いて、神様は子供を授け給うとおっしゃるのです。そこには、神様の奇跡があります。しかし、私たちの肉体を用いられるのです。そのように神様は、なかなか信仰の跡継ぎを得られない私たちを用い給うのです。私たちの貧しい有り様を用い給うのです。私たちの証しの言葉、また、生き様を用い給うのです。私たちも、神様に用いられることによって、まだまだ「跡継ぎ」を生むことができるのです。脱線になるかも知れませんが、ふと、先週の聖書研究祈祷会のパウロが弟子のテモテに宛てた手紙のことを思い出しました。テモテが牧師をしていたエフェソ教会が、教会のなかにいる未亡人をいかに助けるかに心を砕いた様子が描かれていました。未亡人たちの生活は、本当に大変であったと思います。教会の援助を受けても、今日の御言葉で言えば、「あなたは私にこれも下さらない。あれも与えてくださらない」と言うしかない境遇だったでしょう。しかし彼女たちこそが「旅人をもてなし、聖なる者たちの足を洗い、苦しんでいる人を助けた」と書かれていました。彼女たちのこうした働きにより生みだしたことが、迫害のさなかにあった教会を、ローマ帝国の津々浦々に広めてゆく原動力となったのです。
さて、神様のいわれたことは途方もないことでした。だから、アブラハムにこれを受け入れさせるために、神様は彼を外に連れ出し、天を仰がせ、数えきれない星を見させました。「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。そして、アブラハムは神を信じたのです。足りない、与えられないとばかり言うアブラハム、自分自身にのみ目を注いで、それ以外を見ることができないアブラハムを、神様は外に連れ出しました。そして、数えきれない星がちりばめられている空を仰がせました。アブラハムの子孫がこのようになるという神様の言葉には何の論理的な根拠はありません。夜空に無数の星がちりばめられていることと、アブラハムの子孫がそのようになるということとは、何の繋がりもないのです。けれども、そこに信仰が働くとき、この何の繋がりもない、関係もない二つの事柄が - 沢山の星と、跡継ぎが生まれない、足りないものだらけの自分とが - 突如として結び付くのです。納得できるのです。そのように了解できるのです。これが、信仰において起きることなのです。天の父なる神様の完全さと、私たち人間の不完全さとは、何の繋がりもありません。本来は繋がり得ないもの同士です。しかし、イエス様は「天の父が完全であるように・・・」と言われました。そして、その心は決して私たちが神様のように完全であり得る、そうでなければならない、ということではなく、神様の完全さに対し不完全な私たちが何故か繋げていただけるという喜びのことなのです。起こり得ないことが信仰においては起こるのです。イエス様を信じ、聖霊を信じたときに起こるのです。野の花を見たとき、空の鳥を見たとき、その有り様が突如として、私たちの中にも与えられていることを直感させるのです。「あぁ、このように生きて行けるのだ」と思い至るのです。そのように、夜空を仰ぎ、そこに無数の星がちりばめられている光景を見たとき、私もこうなると信じられるのです。そんな信仰を共有し、受け継いでくれる跡継ぎを与えられたいと願うのです。そのために、神は私たちを用いてくださるです。だから諦めず、生みだす者でありたいと願うのです。
2012年 6月10日 聖霊降臨節第3主日礼拝(教会学校の子供たちとの合同礼拝)
05:38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 05:39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 05:40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 05:41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 05:42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 05:43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 05:44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 05:45あなたがたの天の父の子となるためである。 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 05:46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。 徴税人でも、同じことをしているではないか。 05:47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。 異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 05:48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
今日は教会学校の子供たちとの合同礼拝です。合同礼拝のときには、教会学校の教師の皆さんが用いている教材から聖書箇所を選ぶことにしていますので、今日の聖書箇所は山上の説教と呼ばれるところの一部です。この箇所は福音書に記されているイエス様のお言葉の中でも最も、読む私たちをして当惑をさせ、躓きを覚えさせるものです。5章のはじめには、これも理解し難い「心の貧しい・・・」から始まる山上の八福と呼ばれるお言葉が記され、17節から、イスラエルの人々が昔から命じられてきた6つの律法が取り上げられて、その後で「しかし私は言う」と仰って、私たちには到底実行できない命令がつぎつぎと命じられているのです。その中には、私たち男性の心を指し貫くような「みだらな思いで・・・」という御言葉があり、今日の箇所には「右の頬をうつなら・・」とか、「下着を取ろうとするなら」とか、「敵を愛せ」という命令があります。ある人々はこれを文字通りの命令として受け止め、必死になって実行しようとし、とうとうそれができない自分に躓いてしまいました。キリスト教に反感を覚える人々には、クリスチャンを攻撃する格好の材料として用いられました。「お前たちはここに書かれていることを実行できない口先だけの輩だ」と罵倒するべく、頬を打たれたり、着物を剥ぎ取られたり、迫害をうけたりもしたと言います。また、ある人は、私たちがこの命令を実行できない者だということを悟らせるために、イエス様はこう言われたのだ、と受け止めました。そのような理解の代表は、私たちプロテスタント教会の源流を作ったルターであるとされています。ある牧師先生の説教には、この山上の説教について語られた説教とは、私たちがこのイエス様のご命令を実行できない言い訳の積み重ねのようなものだ、とありました。私が今日お話しをすることも、また、その言い訳に一つを加えるようなものでしかないかも知れません。しかし、私としてこのお話をどう読んでいるか、何をそこから励ましや慰めとして受け止めるか、を誠実に語るしかありません。
そこで、この5章だけではなく、山上の説教全体の扇の要のような役割を果たしている48節の御言葉に、まず思いを向けたいと思います。「・・・ように」という日本語がミソなのだと思うのです。日本語で「ように」と言えば、普通に読めば、その前段にある内容と「同じように」「それにならって」後段に置かれる事柄がある、ということを意味します。前段の、天の父なる神が完全である、それにならって、それと同じように、後段の私たちも完全であれ、ということが言われていると、どうしても読めます。だからこそ、そんなことは到底できないという応答になります。そもそも私たち人間が神様と同じように完全になるなど、不可能です。神が完全ということと、私たちが完全であるという事柄は、そもそも「ように」という言葉でつなぐことは不可能なのです。こうした困難さというのは、もともとイエス様が語られていたことがギリシャ語に翻訳され、そして日本語に訳されるうえでの難しさに由来するのだろうと思います。イエス様が言われていたことを、そもそも言葉に表現することの難しさがあります。イエス様がそもそも言われたことは、こういうことであったと、以下のように私は理解しています。何度も言うように、そもそも天の父なる神の完全さと私たち人間の完全さは、本来はどうやったって、結び付きつなぎ合わされる事柄ではないのです。しかし、信仰において、また、私たちがイエス様を通して神様に結び合わされたとき、この有り得ないことが起きるのだ、ということなのです。結び合わされた私たちに、神様の完全さが、水が高い所から低いところへと自然に流れ込むように、流れ込みます。浸透圧による浸み込ということが、ごく自然に起きるように、起こるのです。
先週の聖書研究で、「契約」ということを教えられました。神様と私たちとが契約関係におかれるということが、いま言ったことを良く教えてくれているように思います。旧約聖書・新約聖書の「約」という文字は「契約」の約であることは、ご承知のことと思います。そのことに、私たちの信仰の根幹に「契約」があることが、よく示されています。私はかつて、法学部で学んだ者ですが、契約とは、実に不思議な関係であると思うのです。たとえばAさんとBさんとが契約を結ぶとします。すると、AさのものをBさんがあたかも自分のもののように使うことができるようになるのです。逆もまたしかりです。典型的なのは婚姻(夫婦)という契約関係でしょう。夫のものは妻のもの、妻のものは妻のものなどと、よく冗談で言われますが、本当にそういう不思議な間柄となるのです。相手のヘソクリや貯金を勝手に使ったとしても、盗みにはなりません。このような関係が神様と私たちとの間に結ばれている、というのが私たちの信仰の根幹にあるのです。そして、それを仲立ちし、保証し、契約書となって下さるのがイエス様であり、聖霊なのです。イエス様を信じ、ご聖霊の仲立ちによって、神様のものが不思議にも私たちのものとなるのです。私たちのもの(それは、すべてマイナスの資産であり借金のようなものです)が、神様のものとなるのです。何と素晴らしい間柄でしょうか。イエス様が言われているのは、つまるところ、このような神との間柄なのです。神の完全が浸みとおり、神の完全が与えられている者として、私たちがどのように生きることができるか、振舞うことができるか、その可能性を、その約束を、イエス様は語って下さっているのです。
それでは、天の父なる神が完全であるとは、どのようなことなのでしょう。完全という言葉も不幸なものだ、と思います。イエス様が言われている内容は、イエス様ご自身のお言葉として、45節後半に、「父は悪人にも・・・」とあります。ここで言われているのは、むしろ私たちの理解では「不完全」とされるようなものではないでしょうか。悪人にも不正なる者にも、善人や正しい者にあたえるのと同じような扱いをし、光や雨を降らせるのは「不完全」と言うべきではないでしょうか。そんなことをしたら、善と悪の区別、正邪の判断はどうなるのでしょうか。悪や不正がはびこるのではないでしょうか。しかし、そうではない、と思うのです。とにかく、イエス様の言われる神の完全さとは、徹底的に、悪なる者も善なる者も等しく扱われるということなのです。ひたすらに、良きものをのみお与えになるのです。ご自分のもっておられる良きものだけを注がれるのです。それが、悪人や不正を働く者に対しては、自ずと剣となり、裁きとなり、滅びとなります。こういうことが、聖書の語る審理なのではないでしょうか。聖書、とくに旧約聖書には、神は悪人を滅ぼし、それに相応しい罰や裁き・報いを与えるという御言葉が数多くあります。しかし、それは、神が彼らにも良きものを、光や恵みの雨を降り注がれた結果なのです。それを裁きとし、罰とするのは、受けた側、自身なのです。こうして、神はいつのときにか、悪人をも光を喜ぶ者へと変えられるのです。完全と訳されたギリシャ語はテロスという言葉からなります。新約聖書には繰り返し用いられるキーワードで、目的やゴールを意味する言葉です。神の完全さとは、すべてのものに等しく良きものを注いで、彼らを、最後には良き者へと完成させます。そのようなゴールへと、必ず到達させて下さいます。神様は、私たちに、その今の姿・在り方で対応を変えることはありません。神様の私たちへの接し方は、すべてのものに対して不変なのです。将来の目標に向かって私たちを後押しされるのです。
このような神様の性質が、私たちにも注がれているのです。この神様の性質と切り離されて、私たちは存在することはできないのだ、とイエス様は言われました。「目には目を」→「敵を憎む・・・」これを遥か昔から、私たち人間はそれ以外の意味には取りようがありませんでした、敵対する者、危害を加える者に対しての態度です。しかし、このような神様のご性質を注がれている私たちは、どうしても、否が応でも、もはやこのような態度をとることはできないでしょう、というのが、イエス様の仰ることなのです。そうではないでしょうか。勿論、頬を打たれたら反対側を差し出すということはできません。しかし、憎しみに身をゆだね、復讐心に心も体も焦がす、それを良しとするということは、もはや私たちにはできないのではないでしょうか。私自身も、かつて教区の仕事をしているとき、教区総会の場で、全く身に覚えのないことを言われたことがありました。また、会堂建築をしているときには、頬をたたかれる以上に身体も心も殴られるようなことが幾度もありました。しかし、相手を憎み仕返しをしてやることに心を燃やすことはできませんでした。何故なら、それは神様と繋げられている私たちには、本当に不愉快というか、気分が悪いというか、そうした憎しみや復讐心が心に入ってきてそれに支配されることは、はっきりと直感的に私を害するということが、良く分かるのです。それは、私が神様に結ばれているからではないでしょうか。私がそうしようとするからではなく、神様の性質が浸透している私たちには、根源的に憎しみや復讐心はそぐわない、受け付けない心と体になっているのではないでしょうか。本能的に、身体に悪いものは受け付けなくなるというようなことが、その時々で起きるのです。俗っぽい例で申し訳ないのですが、先日お昼のテレビを何気なく見ていて、心を打たれたエピソードがありました。それは俳優の香川照之さんが、50歳近くになって、歌舞伎役者としてデビューした、という報道でした。彼の実の父は有名な名門の歌舞伎役者でした。これも有名な女優さんである彼の母ともども、長く音信不通でしたが、香川さんは、ご自分のお子さんが生まれて、その子に歴史ある名代を継がせたいと思うようになり、ご自分も一から歌舞伎役者の修業をしたいと思われて、今回のこととなった、というのです。それを、かつて浮気をされた40年以上も音信不通であった妻の女優さんが、どのようにうけとめたかというと、「息子(香川さん)を通しての『天の啓示』であると思う」と言われたのです。素晴らしい言葉だと思いました。香川さん自身も、もし、今回のことが天の良しとするところなら、うまくいくだろうとの挨拶をされました。40数年の憎しみや恨みを、自分の意思や努力でではなく、天の啓示によって、乗り越えたというのです。私たちに授けられているのも、天の父なる神様の素晴らしい性質なのです。それに守られ、それに導かれて、様々な困難な関係を乗り越えて行こうではありませんか。
2012年 6月 3日 聖霊降臨節第2主日礼拝
01:08神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 01:09秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。 これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 01:10こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。 天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。 01:11キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 01:12それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 01:13あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 01:14この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
9節に「秘められた計画」と書かれています。ギリシャ語の原文で「ミュステリオン」という言葉は、英語のミステリーの語源です。パウロは、私たちの目に見える現実から隠されているが、その背後に神のミュステリオンがある、と言っています。ミステリーがまさにそうですが、うわべの文章を読んだだけでは、犯人や作者の仕掛け・トリックは判りません。結末が解って初めて「ああ、この文章はそういう意味だったのか、そういう伏線だったのか」とわかるのです。他にジグゾーパズルやパッチワークにたとえることができるかも知れません。部分を見ただけでは、それがどういう作品の一部を構成しているのか、まったくわかりません。集まって作品が完成したときに初めて、ああ、これはその一部だったのか、とわかるのです。そのように、神様は、私たちに起こる出来事を通して、それを部分として用いて、ご計画を実現し、作品を完成されようとなさっているのです。これが、パウロのまず言わんとするところなのです。
ひるがえって、私たちの目に見える現実とは、どのような有り様でしょうか。それはどんな作品であり、何が進行していると見えるものでしょうか。これでもか、これでもかと繰り返される人間の愚かさ・罪深さの積み重ねであるように、先ず見えるのです。20世紀・21世紀にはいって、人類は一体どれだけの同胞を殺せば気が済むのでしょう。TV等で最近のシリアやアフガンの報道に接すると、本当に目を背けたくなります。国連も政府も、全くそれをコントロールすることができないでいます。政治の無力さというのは、ギリシャでもこの日本でも、目にすることなのです。それに加えて、次から次へと起こる自然災害の追い打ちです。私たちが目にする現実とは、人間自身の愚かさと自然災害の相乗によって生みだされる言葉に表すことのできないような悲しい作品でしかないように思えます。神様の計画などと言えるものは何もなく、ただ人間の愚かさと自然の苛酷さによって翻弄されるだけの私たちがいるようにしか見えないのです。
この手紙が書かれた頃のギリシャ・ローマの人々、とくに手紙の宛先であるエフェソの人々は、自分たちがギリシャの神々によって(エフェソには特にアルテミスという女神が祭られていた)翻弄され、もてあそばれるしかない存在だと、諦めていたらしいのです。そのように自分たちの人生を見ていたようです。神々に対抗し得る唯一の手段が魔法であったのでしょう。パウロがエフェソを訪れたとき、彼の教えを聞いて廃棄された魔法の本は、今日のお金にすると総額500万円にもなった、と使徒言行録に書かれています。また、エフェソには古くから数多くの思想家・哲学者が輩出したといいます。その名前や思想内容は、たかだか高校の倫理の授業で習った程度のものですが、世界最初の哲学者と言われるタレスは、万物の根源は水であると言ったとのことです。また、ある人は空気だと言い、ヘラクレイトスという人は、万物は流転すると教えた、とのことです。今回改めて気がついたのは、何故エフェソの町で、このような思想家が輩出したか、ということです。500万円もの魔術本が浸透しているほど、この町の人々は自分たちの人生が神々に翻弄されるものだと諦めていたのです。しかし、哲学者たちは、このような考え方に我慢がならなかったのではないでしょうか。自分たちの人生は、神々に操られる惨めなものなどではなく、神々がいるかも知れないが、彼らとて縛られるこの世の根源的な原理というものがあり、神々でさえ、この原理から自由ではなく、この世の出来事は、たとえばこの世界が水からなることによって、また、その流転によって説明できることなのであり、そういう原理によって起こっていることなのだ、と彼らは教えたのです。そのように世界を捉えることによって、彼らは神々の支配から逃れようとしたのです。
一体、今日の私たちは、どんな原理によって、この現実の世界を捉え、受け止めることができるのでしょうか。もはや私たちは、神々に翻弄されているというような見方はしません。また、これらの哲学者のように、世界の根源は水や火や風であるとして、それらの流転によって起きていると受け止めることもできません。私たちができる受け止め方とは、やはり、先ほど述べたように、私たち自身がこれでもか、これでもかと作り出す愚かさ・罪深さと、それに追い打ちをかけて生じる自然災害によって、翻弄されるしかない存在なのだ、と言うものでしかないのでしょうか。だとすれば、2000年前の神々が、自分たちの悪と自然災害に代わっただけに過ぎないのでしょうか。ある人々は、それできっぱりと割り切って、それが人生だ、それがこの世の歩みだと悟るかも知れません。そういうものだと諦めて、すべての出来事に意味などはなく、人間と自然が織りなす事ごとによって、生成流転して行き、その中で時々を喜び楽しみ、精一杯生きて行けばそれで良いのだ、という悟りです。それも一理あるかもしれないと思うことがあります。ただ、どうなのでしょう。先日交通事故で亡くなった姉妹のような出来事が起きたとき、いや彼女さんは84歳のご生涯であったから、まだしも慰めがあったという見方もできます。しかし、これが幼い子供であったり青年であったり、小さな子供を残した父母であったりしたら、どうでしょうか。それに何の意味もなく、ただ事故を引き起こした人間のなせる業なのだから諦めよ、それがこの世の常だと言って、納得することができるでしょうか。そこから慰めを得ることができるでしょうか。亡くなられた姉妹のご長男は、前夜式のご挨拶の中で「式辞を聞いて、母がヨブ記の言葉を愛しょう聖句として選んでいたことを初めて知り、その言葉の意味することがどういう事であるかを悟って、母の死がそれで良かったのだ思いました」とまで言われたのでした。そこに、神の業があると思うのです。今日の御言葉で言えば、神のご計画がそこにあると聞いて、息子さんはお母さんの痛ましい死を受け止め、そこに意味を見出すことがおできになったのです。私たちには、どうしても、そのように目の前に起きる出来事を悟り、その背後にある意味や目的を知ることが不可欠なのではないでしょうか。
パウロが語っているのは、そういうことなのです。隠されている神のミュステリオンとはどのようなものでしょう。私たちの目に見える現実が、神のご計画のもとに起こるものだというと、すぐさま、そこに生じてくる問いがあります。では、昨年の大震災の出来事も、先のつくば市内で起きた竜巻も、これでもかこれでもかと人間が繰り返す戦争やテロによる殺人も、神様が計画されているものなのでしょうか。神様がそれに関わっているものなのでしょうか。私の捉え方は、全面的な答えにはなっていないことを認めつつも、次ようなものです。神様のご計画のもとにあると言っても、神様ご自身がそれを実行し、それを直接お許しになっている事柄ではないのです。神様は被造物に自由をお与えになりました。とくに人間には、ご自分の似姿をお与えになりました。人間は神様から与えられた支配権と自由を用いて、悲しいかな、罪を犯すのです。自然という被造物も、その自律によって、自分自身のメカニズムによって、地震や津波を引き起こすのです。神様は、それを止めることをなさいません。何故なら、それは被造物に与えた自由を侵すからです。神様は心から悲しみと痛みを覚えつつ、それをご覧になっています。そして、その人間と自然が生み出した悪と悲惨さを含みこんで、なおかつ、それを部分として、良き結果を、素晴らしい作品を生み出すことがおできになるのです。これが神様のご計画なのだと思うのです。
では、神のミュステリオンとは、具体的にどのようなものなのでしょう。私たちの悪と自然の災いをも部分として用いられて、神様が作り出し完成される作品とは如何なるものなのでしょう。それが9節後半から11節までで語られていることと思うのです。それは、前以って、キリストにおいて神がお決めになった御心であり、あらゆるものがキリストを頭として、そのもとで一つにまとめられる、そういう形での救いの業が完成されることなのです。そのようにパウロは語っているのです。どんなにか壮大な計画なのか、素晴らしい作品なのかと期待していたが、言われているのは、ただキリストを頭として私たちが一つとなり、救われることなのだ、というのです。「そんなことなのか、ただそれだけのことなのか」と感じるかもしれません。しかしそうなのです。神様が計画され、私たちを通して完成されようとなさる作品とは、ただこのようなものなのです。これこそが、神様が成し遂げようとされるミュステリオンなのだということに、心を留めようではありませんか。どんな素晴らしい計画を、私たちは期待していたでしょう。全世界から戦争がなくなり貧困がなくなり、悲しみや苦しみがなくなる世界の到来でしょうか。そうなのです。私たちは、私たち人間が生み出す愚かさ・罪深さが一掃されることを望んでいるのです。では、そのような世界が如何にして到来するでしょう。ただ、私たちがキリストを頭として一つになること、十字架の死に至るまでご自分を無にし、低くされた生涯を生き抜かれ、復活という出来事によって、ただ神により高められたキリストのもとで、分裂が無く一つとされること、そのようにして救われることによってのみ、為される事柄なのです。
1章3節以下のところに、神はキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福を以って私たちを満たして下さった、とありました。私たちは、そもそもは聖なる者・汚れのない者であった、と。然るに、私たちは人間としてこの地上に生まれて、すっかりその根源的に持っていた神様から与えられていた霊的な祝福を忘れてしまっているのです。これも足りない、あれも少ないと言って、もっともっとと高ぶっているのです。自分を高めることしか思うことができないでいるのです。そこにこそ、これまで述べてきた私たちの愚かさ・罪深さがあるのです。神のミュステリオンとは、こういう私たちを、イエス・キリストにおいて救おうとなされることなのです。それに尽きるのです。それ以外の救いはないのです。とくに、この世の生涯において私たちが『もっと、もっと』と高さを求める、そういうところから、私たちを救おうとされるのが、神の御業でありご計画なのです。それは、キリストにおいて成し遂げられるのです。キリストの受肉と十字架の低さの中に、神からの霊的な祝福が満ちています。そのことを悟ることによって、救いは成し遂げられるのです。そうであるならば、私たちがこの置かれた悲惨さのなかで、ああ、自分は救われる必要がある存在なのだ、この高ぶりから解放されねばならない、と思うことができ、そこからキリストへと思いが向かうことこそが、神のご計画が起こっているということと知ることができます。それ以上の華々しいことなどは、何も起きてはいないのです。壮大な計画の実現なども見ることはできません。それでも、私たちがキリストに救われることを求めるようになれば、それは確かに、神のご計画の実現・成就の只中に、私たちが置かれていることの証拠なのです。13節以下には、聖霊の働きが記されています。神様は私たちに、このような神のミュステリオンを悟らせ、イエス様へと向かわせ、救いを成し遂げて下さるのです。
2012年 5月27日 ペンテコステ礼拝(教会学校の子供たちとの合同礼拝)
02:01五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 02:02突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 02:03そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 02:04すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
ペンテコステの礼拝は、イエス様の弟子たちに聖霊が注がれて、それ以降、彼らが臆することなくイエス様を述べ伝えるようになった日を記念する礼拝です。
1節に「五旬祭」とあります。
ペンテコステの由来の言葉です。
ギリシャ語で50番目を意味します。
この日、弟子たちが集まっていました。
3節以下に、そのわけが書かれています。
復活されたイエス様は、40日にわたって彼らのところに度々お姿を現し、様々なことを教え、一緒に食事もされました。
しかし、ついに天に帰られる日がやって来ました。
9節以下には、イエス様のお姿を、それまでのようには見ることができなくなった弟子たちの寂しさが描かれていると思うのです。
そこに、彼ら弟子たちに聖霊が注がれる必然性があるのだと思うのです。
聖霊が注がれて弟子たちが、ひいては私たちも、イエス様のお姿を見ることができなくなりました。
しかし、天のイエス様のことがわかるようになりました。
そのことがわかるようになって、述べ伝えることができるようになったのです。
正しくわかるためには、そのことを教え示してくださる神様とイエス様が等しいお方でなければいけません。
三位一体のゆえんです。
さて、聖霊が注がれたときに、風のような音が聞こえたと聖書には書かれています。
風は、ときに激しく吹き竜巻のような現象を伴う場合もあります。
先日の教会員姉の葬儀では、ヨブ記の言葉を読みましたが、その箇所にも、私たちの業を封じ込める雪や雨のことが書かれていました。
聖霊が注がれたときにも、きっとそのような現象が伴ったのではないでしょうか。
2012年 5月20日 復活節第7主日礼拝
06:12そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。 06:13朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。 06:14それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、 06:15マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、 06:16ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
イエス様は徹夜の祈りの結果として、12人の使徒を選ばれました。
そして、その契機となったのは、6章の1節以下に書かれている出来事です。
すなわち、安息日を巡ってファリサイ人や律法学者と対立が起き、彼らがイエス様を殺そうと相談を始めたことです。
その様子からイエス様は、ご自分の死を直感なさったのでしょう。
そして、どのようにしてご自分のお働きを継続して行ったらよいかを、一晩一睡もせずにお考えになったのです。
そこには、ペトロをはじめとしイエス様を裏切ってしまうユダたちが、神のひとりごであるイエス様のお働きや宣教を、はたしてちゃんと受け継げるのかという根本的な疑問があります。
しかし神様は大丈夫だと示され、イエス様はそれに力づけられ、12人を使徒として選ばれたのです。
こうして私たち一人ひとりが証びととしてあるのも、あるいは私が牧師として説教をすることができるのも、すべてイエス様がペトロやユダを、ご自分の全権大使として信頼して任命してくださったからです。
もしイエス様が「お前たちには、そのようなことが務まるはずがない」とお思いになったなら、人間による伝道など不可能だったでしょう。
なぜイエス様は、後に裏切ることになるユダのような者をお選びになったのでしょう。
聖書には、ユダは自ら命を絶ったと記されています。
そのようなユダを選ばれたイエス様の使徒選びの行為は、決して無にはなるまいと思うのです。
彼だからこその使徒であるゆえんがあると信じます。
2012年 5月13日 復活節第6主日礼拝
14:11ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、
14:12ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。
14:13逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。
アブラムは当時、アモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいた。
マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。
14:14アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。
14:15夜、彼と僕たちは分かれて敵を襲い、ダマスコの北のホバまで追跡した。
14:16アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した。
14:17アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。
14:18いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。
14:19彼はアブラムを祝福して言った。
「天地の造り主、いと高き神に
アブラムは祝福されますように。
14:20敵をあなたの手に渡された
いと高き神がたたえられますように。」
アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。
14:21ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言ったが、
14:22アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。
14:23あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。
『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。
14:24わたしは何も要りません。
ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。
彼らには分け前を取らせてください。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
ここには非常にユニークなことがしるされています。
これまでアブラハム(アブラム)が武力を持っていたなどとは、一言も触れられたことはありませんでした。
しかし13節以下に、アブラハムが318人の郎党を率いて甥のロトを救出したことが語られています。
また13節のはじめには、創世記ではじめてアブラハムが「ヘブライ人」であると表現されています。
そして17節以下では、突如としてメルキゼデクという人物が登場しています。
ここ以外の聖書全体でメルキゼデクという人物については、詩編110編とヘブライ人への手紙に言及されているだけです。
その詩編とヘブライ書における言及も、この創世記の記述によっています。
実質的には、この箇所のみに登場する実に不思議な人物が、このメルキゼデクです。
語りかけられているメッセージは、はっきししたものであると感じます。
文脈としては13章と深くつながっているので、少し振り返ってみようと思います。
アブラハムと甥のロトが袂を分かつ出来事が書かれていました。
その直接的な原因は、寄留者である彼らが、めいめいの家畜を養うには十分な土地を得ることができず、争いが起きたことでした。
しかし、もっとそこには深い溝がありました。
13章のはじめと終わりには、祭壇があるベテルをめざし、また今日のところにも言及されるマムレの樫の木のところで、祭壇を築いたアブラハムの姿が書かれています。
それは神様を礼拝することを第一にして生きようとしている様子でした。
これに対して、ロトはどうだったでしょう。
住む場所を選ぶ優先権を与えられた彼は、主の園のようにエジプトの国のようによく潤っていたヨルダン川流域の低地一体を選び、さらには悪名高かったソドムまで住まいを移したと記されています。
それはつまり、たくさん保有していた家畜を養うことを第一に考えて住まいを選んだということでしょう。
アブラハムの生き方とロトのそれとの間には、決定的な溝がありました。
だからこその別れであったのだと思うのです。
私たちにとってのロトとはいったい誰でしょう。
それは、私たちの外にいるだれか他人をさしているのではなく、私たちの中のもう一人の自分を表しているのではないでしょうか。
私たち自身の中には、常にアブラハム的存在とロト的者が共存して、常に葛藤しているように思います。
しかし、もしもロト的な存在が勝り、彼が優先して生き方を選んでゆくとどうなるでしょう。
そのことが今日の出来事から教えられているのだと思うのです。
ではロトにどういうことが起きたでしょうか。
14章のはじめから書かれているのは、彼が住んでいたヨルダン川流域には9人もの王が群雄割拠して争いを繰り返し、その争いにロトが巻き込まれ、虜にされたとのことです。
豊かなところであるが故に、小なりとはいえども王国ができ、争いが繰り返されていたのです。
それにロトは巻き込まれ、捕虜となってしまいました。
12章の「財産もろとも連れ去られた」との言葉はとても象徴的です。
前回も触れたように、聖書は決して財産を多くもつことをネガティブなこととして扱ってはいません。
13章2節にも「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」と書かれています。
財産を持つことがストレートに、この世の王たちの争いに巻き込まれ、財産もろとも連れさられることを意味しません。
大事なことは、財産を持っていても、何を第一にして生きるか、ということです。
ロトのように財産を持つことを第一にしようとすると、財産もろとも連れ去られるということが起きるのです。
このようなロトに対して助けはどこからもたらされたでしょう。
13節以下に「逃げ延びた・・・ヘブライ人アブラムのところにきて」とあります。
はじめに述べたヘブライ人という表現が登場します。
注釈書によると、この言葉の由来・正確な意味は、なおわかっていないのだそうです。
ただ可能性としては、「ヒブル」という言葉に由来するのではないかと考えられているようです。
ヒブルとは、同じ時代のバビロニアやエジプトの文献には散見する言葉で、時には奴隷、時には傭兵や盗賊など、定住している地域の周りをさまよい歩いてしばしば迷惑をかける寄留の民を表す言葉とのことです。
まさにアブラハムとはそうであったと思います。
ただ彼の「さまよい」「寄留」には、一つはっきりとした特徴があると思うのです。
他のヒブルとは区別される際立った特徴があったのではないでしょうか。
それが13節半ばにある「アブラムは当時・・・マムレの樫の木の傍らに住んでいた」という表現から伺えます。
これははじめに触れた13章最後のところにもありました。
寄留者としてのアブラハムの特徴は、何よりも神様を礼拝することが中心であり第一であった、というところにあります。
それがための寄留であり、ヒブルであったと言えます。
私たち信仰者とは、この世にあっては本当にヒブルなのだと思うのです。
特にこの日本にあってはそうではないでしょうか。
出エジプト記の、イスラエルの人々が400年以上も暮らしたエジプトと袂を分かち、脱出せざるを得なかった根本的な理由を私たちは、奴隷として苦しめられていたからと思うかもしれません。
しかし出エジプト記をよく読むと、モーセやアロンが神様からエジプト王に「言え」と言われた言葉に、一言も苦役から逃れさせるという言葉はありません。
あるのは、終始一貫して「この民を去らせて主に仕えさせよ。荒野を三日の道程を行かせて、神に犠牲を捧げさせよ」です。
そのような要求はエジプト王には決して理解されません。
さぼりとか怠惰としてしか受け取られないのです。
エジプト王とイスラエル人との間にある溝は、ヘブライ人であるか否かであると思います。
この世の王ではなく、神という目に見えない存在に仕えようとすることです。
イスラエル人は400年たっても、エジプトにあってヒブルなのであり、その特徴を失っていませんでした。
それがエジプトを出る根本的な理由だったのです。
私たちがこうして7日目ごとに礼拝を守り、この世の王や支配者ではなく、目に見えない神様にお仕えするということこそ、この世にあっては、本当に異質であり、ヒブルであると思います。
少数者であらざるを得ません。
しかし、そこからこそ助けが来るのです。
捕らわれた人々からのSOSは、ヘブライ人にもたらされるのです。
先週の聖書研究祈祷会で、出エジプトの出来事の根幹にあるエジプト人の初子が打たれたという事柄を新たに受け止める機会が与えられました。
子羊の血を鴨居や柱に塗ったイスラエル人の家だけを災いが過ぎ越し、反対にエジプト人の家には死が臨みました。
この災いを神様ご自身のなせるみわざではなく、たとえば疫病として理解しようとする注解者もいるそうです。
何が起きたのか、ということはわかりません。
しかし確かなことは、小羊を屠り(それは奴隷であった人々にはまことに多大な犠牲であったはずですが)、そのようにして「私たちはエジプト王ではなく神様に仕える」という志を示した家は、災いが過ぎ越して行ったのです。
神がそのような家を災いからガードしたのです。
神からの助けがそのような家をおおったのです。
ヘブライ人であり、神様を礼拝することを第一にしようとするあり方はこのように助けとなるのです。
アブラハムが武器を帯びてロトを救出したことは、どのように受け取ったらよいでしょう。
そもそも彼とは袂を分かったのであり、ロトがとらわれの身になったからと言って、それは彼の選択のせいであり、自業自得なのだから、ほうっておけばよかったとも言えるかもしれません。
しかし何度も述べたように、ロトとは私たち自身の中にいるのです。
袂を分かつと言っても、自分自身の中にある者を切り捨てることはできません。
武力を帯びたことは文字通りではなく、これほどに強い助けが私たちの中にあるということです。
おまえたちが自分で選んで虜とされたのだから・・・と言ってほうっておくことは神様はなされません。
必ずや神様に仕えようとする私たちのあり方を用いて、虜とされる私たちを救い出したもうのです。
さて最後に、戦いに勝利して凱旋したアブラハムをメルキゼデクが出迎えたという不思議な出来事にふれます。
このアブラハムを最初に出迎えたのは、ソドムの王でした。
彼が申し出た贈り物は、21節にあるように、戦利品です。
これはアブラハムにとっても大きな誘惑ではなかったかと思うのです。
寄留者でしかない彼が、わずかな郎党を率いて王たちに勝利し、こうして王から出迎えを受け、戦利品を贈られるのです。
同じ陣営に加わって歩もうとの申し出を受けているのです。
私たちにも、このような誘惑があります。
少数者でありヘブライ人でしかない私たちも、このように成功し、栄達を受けることがあります。
この世の王から贈り物を受け、私たちの陣営で生きないかといざなわれることがあります。
しかしこのときに、タイムリーに現れたのがメルキゼデクでした。
彼が携えてきたのは、なんとパンとブドウ酒のみでした。
そして祝福の言葉を与えました。
ソドムの王が贈ろうとしたものとは、なんと対照的なことでしょう。
祝福の言葉と、ささやかで粗末な贈り物でした。
しかしそれをこそアブラハムは喜んだのです。
そしてアブラハムは自分の持つすべてのものの10分の1をメルキゼデクに贈りました。
メルキゼデクとはイエス・キリストの先駆であるといわれています。
神のもとで、いまだイエスとして生まれなていないキリストが、信仰の父であるアブラハムの危機をみて、メルキゼデクとして出現したのだとも言われています。
ソドムの王からの贈り物に心惹かれる私たちを、ヘブライ人として留まらせてくださるお方は、メルキゼデクたるイエス様ではないでしょうか。
イエス様が私たちにくださるパンとブドウ酒は、イエス様の存在そのものの、犠牲が込められたまことに貴いものなのです。
それは神様からの祝福がいっぱいに込められた贈り物なのです。
アブラハムのように、これを喜んで受け取る者でありたいと思います。
そして感謝を捧げるものでありたいと思うのです。
2012年 5月 6日 復活節第5主日礼拝
01:03わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。 神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 01:04天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 01:05イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 01:06神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。 01:07わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
パウロがエフェソの町で伝道を行ったとき、この町の人々を捕らえていたのは魔術とアルテミスという女神を頼る信仰であったと、
使徒言行録の19章に書かれています。
パウロがこの手紙を書いたのは、なおその影響を受けている人々を励ますためであったに違いありません。
魔術にしても神々を頼る信仰も、つきつめれば不安が根底にあるのだと思います。
だからパウロは、あなた方は天地創造の前から父なる神に愛され、その霊的な祝福を一杯にいただき、神の子となるという目標に向かう者として、この地上を生きている、と語っています。
私たちには父である神様がおられ、その方から溢れんばかりの祝福をいただいて歩むことができるのです。
何を不安がる必要があるでしょうか。
2012年 4月29日 復活節第4主日礼拝
06:01ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。 06:02ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。 06:03イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 06:04神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」 06:05そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」 06:06また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。 06:07律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。 06:08イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。 06:09そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」 06:10そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。 06:11ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
11節に「彼らは怒り狂って・・・」と書かれています。同じ場面を記したマタイによる福音書の12章14節には、もっとはっきり「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」と書かれています。
「宮清め」の出来事も、イエス様を十字架へと至らしめた原因でした。
そして、この安息日論争も劣らず、その理由となった事柄だったのです。
と言うことは、イエス様が宮清めに命をかけられたように、この安息日をめぐる事柄にも命を張られた、ということになります。
なぜ、それ程までにされたのでしょう。
それは、宮清めが「宮」を大切に思い、宮を本来の聖所にしようとされたからであったように、安息日を大切に思われる故、この日を本来のものとされようとしたからに他ならないのです。
私たちは今日の御言葉をうわべだけで読んで、イエス様は安息日をどうでもよいものとして扱われているとか、廃棄しようとされた、と誤解しがちです。
しかし、決してそうではありません。
5節には「人の子は安息日の主である」とおっしゃったイエス様のお言葉が書かれています。
人の子とは、イエス様ご自身のことです。
ご自分が安息日の主であるとは、当然、安息日が大切なものとの前提のうえでのお言葉なのです。
9節の「安息日に律法で許されているのは」というお言葉にも、また同じ思いが現れています。
イエス様がこのように命をかけてまで大切にされ、本来のものとされようとなさった安息日とは、如何なるものなのでしょう。
私たちにとって如何なる意味があるのでしょうか。
ここで今日の聖書箇所から少し離れて、安息日とはそもそもどのような日であったかを、旧約聖書から学んでみようと思います。
安息日の起源が何処にあったかということは、正確には分かっていません。
ただ、非常に興味深いのは、学者たちがどんなに研究しても、イスラエル以外の歴史に、また、旧約聖書以外の文献に、この安息日というものが現れて来ないというのは確かなようです。
イスラエルに固有で独特なものだということです。
ではイスラエル人自身が、安息日を発明したのだでしょうか。
もし彼らが働くのが嫌だからという理由で作ったシステムであるなら、2日に一度休むとか、もっと頻繁に休むきまりにしたのではないでしょうか。
また、もし使用者の側に立つなら、7日目ごとに労働者に休みを与えるなどとんでもない、ということになるでしょう。
そういうことを考えると、やはり、安息日と言うのは人間が考えたものではなく、イスラエルの人々が神様の出会いの中で授かったこと、としか考えられないのです。
このように、神様との出会いの中で授かった原理・原則というか、大切なルールとしての安息日が、旧約聖書に書かれているのです。
この安息日が最も早く旧約聖書に登場するのは、創世記の2章1~3節です。
もちろん確かなことはわかりませんが、歴史的に蓋然性として安息日をイスラエル人が神様から授かった時であると思われるのは、出エジプト記にある記述です。
そもそもエジプトを脱出したイスラエル人、今日的に言うなら政治的な難民である彼らが、荒野をさまよう40年間の中で、どういう状況に置かれていたかを想像してみてください。
定住して田畑を耕して生活の糧を得る可能性が、彼らには全くありませんでした。
生き延びるためには、端的に言えば、盗賊とか海賊とかテロといったものも、突き詰めれば、人々の生活苦が根本にあるのです。
同様に荒野をさまよう難民の彼らが生き延びるには、何でもありの、そのような境遇に身を置くしかなかったのだ、と思うのです。
しかし、それをやればどうなるかは、火を見るより明らかです。
いずれは荒野の砂として埋もれて行くしかありません。
だから、そういう彼らのために、神という存在が与えられました。
「こうすればあなたがたは、この荒野の中でも生き延びていける」という原理・原則、定理とかルールとか言うべきものが、十戒といわれる律法ではなかったかと思うのです。
私たちは、律法というとすぐに「強制」とか「無理強い」というように受け取ってしまいます。
しかしそれでは、詩篇に繰り返される「律法はわが足のともしび」という思いを理解することができません。
律法とは、困難な境遇の中に置かれたイスラエル人に、神様が与えたともしびでした。
「こうすれば生き延びていけるよ」と神が示した生き方の定理・法則だったのです。
たとえば、数学の問題を解くときに、私たちは定理を拠り所にします。
「三角形の内角の和は180度である」といった定理を使って、さらに複雑な問題を解いてゆきます。
同様に、律法という定理を、目の前の困難な状況に当てはめて解決を見出してゆくのです。
そのような定理の中の一つが「7日目ごとに安息せよ」というルールだったのです。
神様は、人々がこのことを守ることができるように、6日目には翌日の安息日の分までマナを与えました。
安息日にはマナを集めることが不要だったのです。
6日間は毎日マナを集めねばならず、集めなければ生きることができませんでした。
言ってみれば「働かざる者、食うべからず、生きるべからず」という状況に人々は絶えず置かれていました。
生きることは自分が稼ぐことによっていましたから、そこには思い煩いと不安がありました。
しかし、安息日は違うのです。
その日だけは、ただ神の恵みによって生きて良い日なのです。
自分が自分を生かすとの思い煩い、生きることがただ自分の労働・稼ぎと一対一の即応、こういった生きるためのごくごく狭い境地から、神によって生かされているという広い境地へと移される日、これが安息日なのでした。
イスラエル人は、この律法によって荒野で40年を生き延びることができました。
「あなたがたも、これによって生きることができるように」と言うのが、イエス様の思いなのです。
こうして荒野を生き延びたイスラエル人は、徐々にパレスチナに定着し、王国まで造るようになってゆきました。
果たして、この安息日を守るという律法は、なお有効であったのでしょうか。
人々が実際の生活に当てはめる有効な定理であり続けたでしょうか。
預言者が多く語るところからすれば、それは「否」であったと思うのです。
しかし、そのような彼らがもう一度、この定理を有効なものとして、目の前の生活に当てはめて行く時がやってきました。
それが、創世記2章1-3節の御言葉が記された、バビロン捕囚の時だったのです。
バビロン捕囚のなかでイスラエル人が直面したのは、荒野とは違って、今度は、何よりも捕虜である自分たちを毎日毎日働かせようとするバビロンの王、すなわち支配者でした。
何万人にもなる捕囚の民をわざわざ国内で生かしておく理由はただ一つ、彼らが労働をしてバビロンのために益をもたらすことしか有り得なかったのです。
「働かざる者生きるべからず」というのは、荒野と同じです。
こういう支配者がいるなかで、イスラエル人はどんな律法・定理を、そこに当てはめて生き延びることができたのでしょう。
それは、神様が主人であり真の支配者であって下さるとの定理だったのです。
神様だけが唯一の主であるとの十戒の第一定理は、これを現しています。
そして、この神様という主人がどういうお方なのかというと、バビロンの支配者とは決定的に違っていて、この方ご自身が7日目に休まれる方なのです。
休まれることを最も聖なる日とし、それを「完成」であるとされます。
この方が主人であることによって、捕囚であるイスラエル人たちは ― 実際には、労働を離れることはできなかったかも知れないが、また安息日を守ることは、せいぜい一日の労働が終わって、宛がわれた掘立小屋の中で、ささやかな家族礼拝を守ることが、精一杯であったかも知れないが ― 精神的な、内的な安息を得ることができたのでしょう。
休んでも良い、休むことは聖なることである、休むことが完成であるとは、何と慰めに満ちた律法ではありませんか。
今日の御言葉に登場する律法学者もファリサイ人も、実は、その発祥の原点はこのバビロン捕囚の時期に遡る、と言われています。
律法を守ることに生き延びる術を見出したその時に、彼らの原点があるのです。
だからこそ、彼らは懸命に律法に生きました。
律法という定理を実生活に当てはめました。
しかし、それがイエス様の時代には、どのようなものに変わってしまっていたかというと、安息日の律法に込められたのは「神が主である」ということでした。
私が私を生かすのではなく、またこの世の王や支配者が主人でもない、ただ神が主であって下さる、このことからくる安息でした。
それによって生き延びていけると信じられました。
ところが、どうでしょう。
今日の御言葉を読んで、律法学者やファリサイ人の立場・視点に「主」があるでしょうか。
あるのは「これをしてはいけない」と責める彼ら、イエス様を訴える口実を見出そうとする彼らでした。
つまりは神様ではなく、人間が主となっているのです。
こういうことが、彼らだけではなく、今日、私たちもしてしまっていることなのだ、と思い当たります。
先日、ある方をお訪ねして心の琴線に触れるような対話をすることができました。
その方は「教会に傷ついた」と言われました。
その傷の根源にあるものが何かと言うと、その方は教会という場所に於いて、主なる神と出会いたいと願っていたのでした。
しかし教会の礼拝に於いて、その方は人間が主になってしまっている現実にぶち当ってしまったのでした。
その方自身も、それに巻き込まれ、自分自身も主になってしまうようになってゆきました。
残念ながら、これが教会というもので主の日に行われる現実なのです。
牧師が主になり、役員が主になり、誰か有力な者が主になってしまうのです。
イエス様はご自分の命をかけて「私が安息日の主なのだ」と言われました。
私たちの主であるイエス様は、2000年前に人として私たちの目に見えるお姿で生まれて下さったお方なのです。
人間の悪や暴力の犠牲になりつつも、そこから復活されたお方なのです。
このようなお方が安息日の主なのです。
私たちはしばしば、自分を主として、また、この世の様々な者を主人としつつも、そういう過ちを犯しつつも、だからこそ7日目ごとの安息日を守って、このイエス様を主と仰いでいます。
イエス様が自分の主であってくださることを喜び、そこに安息を見出すのです。
生き延びる解答を、そこから得るために。
2012年 4月22日 復活節第3主日礼拝
13:01アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。 13:02アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。 13:03ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。 13:04そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。 13:05アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。 13:06その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。 13:07アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。 13:08アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。 13:09あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」 13:10ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。 13:11ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。 13:12アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。 13:13ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。 13:14主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。 13:15見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。 13:16あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。 13:17さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」 13:18アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
アブラハムの父テラが死んだハランを出るときからアブラハムとロトは、ずっと行動を共にしてきたのでした。
生まれ故郷父の家を離れて、神の示す地にやってきたのでした。
このとき、アブラハムにはまだ実子がなく、甥のロトを後継ぎにしようと考えていたのかも知れません。
アブラハムに、ついにロトと袂を分かたねばならない時がやってきたのでした。
その心痛はいかばかりであったでしょう。
別れた後のアブラハムの寂しさがどれ程であったかを、別れた直後に神が早速アブラハムに現れて言葉をかけられた様子(14章)から想像することができます。
アブラハムと別れた後のロトは、ヨルダン川の肥沃な低地、悪名高いソドムの町に住み、その地域を支配する王たちの戦いに巻き込まれ捕虜となってしまうのでした。
アブラハムはロトを助けるために戦わねばならない破目になります。
アブラハムが必死に神様にとりなしたにもかかわらず、ソドムとゴモラは滅ぼされることとなり、逃げる途中で後ろを振り返ったロトの妻は塩の柱となりました。
山中に逃げのびたロトと二人の娘には、さらに忌まわしいことが起こるのでした。
酒に酔った父の知らないままに娘は父と関係し、そこで生まれた子供が後のモアブ人とアンモン人(イスラエルと長い間、敵対関係にあった)の祖となるのです。
このようなロトの姿を知ると、自ずと彼とアブラハムとは別れるべきさだめにあったということが分かります。
いつまでも一緒に居ようとすれば、アブラハムもまた、王たちの争いや忌まわしい出来事に巻き込まれ、滅びに会わざるを得なかったでしょう。
私たちにも、このように袂を分かつべきロト的な存在が現れるのではないでしょうか。
私たちにとってのロトとはいったい誰のことでしょう。
いかにして、私たちはロト的な存在と袂を分かつことができるのでしょう。
さて、アブラハムとロトが別れることとなる直接の原因について、5節から7節にかけて記されています。
彼らは多くの家畜を持っていました。
しかし、7節の最後に「その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた」と書かれています。
寄留者の立場である彼らには、その多くの家畜を養うのにじゅうぶんな土地を得ることが困難だったことが想像できます。
そういう中で、二つの家族の間に争いが起こってしまったのでしょう。
彼らは多くの家畜を持っていましたが、寄留者という立場では満足なスペースを得ることが困難でした。
そこで、新たなスペースを得ようとする上での意見の違いから、言い換えると、何を第一に寄留する場所を選ぶかということで、アブラハムとロトとの間に溝が生じていったのだと思うのです。
まず、ロトは何をしようとしたのでしょう。
それは、10節以下を読むと、良くわかります。
ヨルダン川流域の低地一体のエジプトの国のように良く潤っている地を、彼は選びました。
あまつさえ、邪悪だと悪名高かったソドムにさえ、彼は住まいを移したのでした。
すなわちロトは、多く持っていた家畜・財産を養い・保有するのに相応しい地を選んだのです。
そのことを第一としたのでした。
かたやアブラハムはどうだったでしょう。
「ベテルに向かって」と3節に書かれています。
ベテルという言葉は、ベース=家とエル=神とからなります。すなわち神の家という意味です。
そこは、彼が最初にこの地に入ってきて祭壇を築き、主の名を呼んだ場所なのです。
聖所を目指すこと、神を礼拝することを、アブラハムは第一としました。
聖書は決して多くの財産を持つこと、それ自体を敵視してはいません。
重要なのは、それらを持ちつつ、しかし何を第一とするか、何処を目的地とするかということなのです。
アブラハムは神の家に向かうことを第一としたのでした。
このようにアブラハムが、神を礼拝することを第一としようとしたのは、その前に書かれている12章10節からの、エジプトでの苦い体験が決定的な理由だったように思います。
「私の示す地に行け」と神様に言われて入ってきたパレスチナの地で、アブラハムたちが最初に遭遇したのは飢饉でした。
「これが神の示す地で最初に与えられることなのか、これが祝福か」と、アブラハムは怒ったのではと想像します。
アブラハムは、神様に問うことなどせずに即座に、飢饉を逃れる方法としてエジプトに滞在することを選びました。
さらにアブラハムは、妻のサラが妹であると嘘をつき、エジプト王に恭順を示すための人質として差し出したのでした。
人質であれば、妻であると正直に言ったほうが、むしろ妻の方が人質としての価値は高い筈でした。
しかし、このときアブラハムは杞憂を抱いて、妻を妹と偽ったのでした。
そのために、サラはエジプト王の後宮に召し入れられてしまいました。
それも、あくまで寄留者の差し出した人質に敬意を払うために、第なん夫人かの立場を与えられただけだったのでしょう。
しかし、このアブラハムの行いのために、エジプト王と宮廷には疫病が襲いかかることとなったのでした。
このときアブラハムがもし、神様に問い、飢饉をどのようにして避けるかを伺ったとしたらどうだったでしょう。
結果的には同じ方策が神様から示されたかも知れません。
しかし、もしアブラハムがそのようにしていれば嘘をつく必要もなく、安心して神様に委ねることができたと思うのです。
神に問うことなく、ただ自分の考え出した方策で飢饉を乗り越えようとしたとき、そこに杞憂と災いが生じたのでした。
アブラハムは、この経験に学んだのでしょう。
神をないがしろにしてはならないのだ、と。
そこでアブラハムは、まず神の示された地に帰って、すなわち原点であるベテルに行って、礼拝することを第一としようとしました。
このようなアブラハムの姿勢が、ロトとの決定的な溝を生んだのでしょう。
おそらくロトは「おじさん、ベテルなどではなく、まずヨルダン川沿いの肥沃な土地に向かいましょうよ。
沢山の家畜に草を食べさせるためには、そこに住むことが不可欠ですよ」と提案したのだと思います。
しかしアブラハムは、この提案に首を縦に振ることはなありませんでした。
こうして、アブラハムとロトとの間に争いが生じていったのです。
このように理解すると、私たちにとってのロトとは誰か、ということが良く分かってきます。
それは、まったくの他人を指しているのではありません。
私たち自身の中の、たとえば親戚であったり甥であったりといった人格を指しているのです。
アブラハムたちと同様に私たちも、人生を重ねてゆくにしたがって、徐々に多くの物を持つようになってゆきます。
私たちは幼い頃は、何も持っていませんでした。
だからその頃は、その人生を養うのに十二分な余地がどこにでもすぐに見つかりました。
しかし、今はどうでしょう。
多くの物を持つが故に「相応しい場所がない」と思ってしまうのです。
「もっと肥沃なところへ行こう、もっと豊かな生活ができなければ」と、私たちの中に棲むロトは言うのです。
それに従ってしまうとどうなるのかは、ロトのその後を概観しただけで明らかなことなのです。
先日、何気なく本屋で手にとって買い求めて読んだ本がありました。
精神科のお医者さんが、患者さんを通して考えたことをエッセイ風に記した内容の本でした。
そこに『運の別れ道が感じられたらいいのに・・・と思う』で始まる一節がありました。
小さい頃から塾に通って、懸命に勉強して、有名な商社に入社することができた、
ところが上司に叱られたのと喧嘩をした同僚のことが気になって、会社に行けなくなってしまった、
ついに辞表を提出し26歳で心の病を得てこの精神科医のクリニックにやってきた、と書かれていました。
「一流大学卒業ということで、プライドで一歩もゆずれなかった」のが、こうなってしまった原因であると著者は分析しています。
まさに「多くのものを持っている」ということが、ここに書かれていた「プライド」だと感じました。
自己のプライドを何処までも保持しようとするが故に「この職場は自分には相応しくない、じゅうぶんな余地がない」と思ってしまったのでしょう。
これが、彼の中のロトなのだと思うのです。
本当は、そういうロトとは袂を分かつべきでした。
そういう別れ道があったのでした。
私たち誰もが、そういう分水嶺に立つ瞬間があります。
分水嶺から左右に別れて行く最初の流れは、本当にかぼそいものでも、いつの間にか、左右の道はどんどん大きく離れてゆくのです。
そういう別れを感じとって正しい選択をすることができればよいのに・・・というのが『運の別れ道が感じられたらいいのに・・・』という言葉に表されています。
さてアブラハムは、自分がこのような分水嶺に立っていたことを感じとっていたでしょうか。
そんな分かれ道に立っていたとは、本当は気がついてはいなかったかも知れません。
しかし、エジプトでの体験から自然に、何を第一にすべきか、何を基準に進むべき道を選ぶかを、彼は考えることができたのでしょう。
このように「別れ道を感じとることができる」ということが、私たち信仰者の喜びではないでしょうか。
アブラハムはベテルを目指しました。
ベテル=神の家とは、すなわち私たちにとっては、人となり給うたイエス様のことです。
私たちは、この方を目指します。
この方が基準となるのです。
右に行くのか左に行くのか、迷った時の判断基準はこの方なのです。
この方が十字架の死に至るまで、ご自分を空しく低くされ、ご自分の利のために生きることをなさらなかった姿にこそ、私たちの生きるべき「余地」があるのです。
まだまだ十二分な余地があるのです。
8節以下で、アブラハムはロトに「あなたの前には幾らでも土地がある」と言っています。
アブラハムは「あなたの前」と言っていますが、それはアブラハム自身にも言い聞かせている言葉だったのです。
現実的には、そういう土地は無かったのではないかと思います。
初めにも触れましたが、既にこの地にはカナン人もペリシテ人も居たのですから、寄留者である彼らには、おそらく余地は無かったはずです。
しかし、アブラハムはそのようには見ませんでした。
神の示す地へ行こうとするなら、その地には余地は幾らでもある、と彼は見たのです。
私たちも、同じではないでしょうか。
イエス様が人としてこの世に生まれ、十字架の死に至るまで喜んで生き、死の向うに復活して下さったのだから、生きる余地は幾らでもあるのです。
低くされても、苦しみを与えられても、イエス様において私たちの生きる余地は十二分なのです。
だから、袂を分かつべきときには懸命に選択をしたいと思うのです。
14節以下に、アブラハムが神から与えられた言葉の中に「土地」のことが言及されています。
神が「与える」とおっしゃっているのは、決して文字どおりの土地のことではありません。
「この土地を縦横に歩きまわるがよい」とありますが、神を信じてこの世を縦横に歩きまわる生き方、私の前には生きるべき余地が十二分にあると信じて生きる在り方、それこそが、アブラハムの子孫である私たち信仰者に賜る「土地」なのではないでしょうか。
2012年 4月15日 復活節第2主日礼拝
04:15フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。 04:16また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。 04:17贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。 04:18わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。 04:19わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。 04:20わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
獄中にあるパウロに、フィリピの人々から贈り物が届けられました。
このことへのパウロの感謝の言葉が記された箇所です。10節には「心づかいを非常に喜びました」と、また18節半ばには「そちらからの贈り物を受け取って満ち足りている」とあり、その感謝の大きさが文章に滲み出ています。
このフィリピの信徒への手紙には、「喜び」や「喜ぶ」という語句が10数回も用いられていて、「喜びの手紙」とも呼ばれています。
牢獄に囚われ、何時処刑されるかも知れない境遇にあったパウロが、その境遇にもかかわらず、このように喜ぶことができた理由は、フィリピ教会の人々がパウロに贈り物を送ってくれたことが決定的に大きいのです。
贈り物への感謝の言葉によってこの手紙が閉じられているところに、パウロの気持ちがよく示されています。
4章4節に「主にあって喜べ」と書かれています。私は、喜ぶことこそがクリスチャンに与えられた最大の務めであると、しみじみ思うのです。
よろこぶことは、生きる意味や生き甲斐や幸せに直結しています。
だからこそ、とても大切なことなのです。
けれども、いまパウロが獄中にあったように、私たちは喜べる境遇に置かれることは多くありません。
むしろ、簡単には喜べない立場に置かれることのほうが多いのではないでしょうか。
そうだとすれば、そういう境遇にあっても、如何に喜ぶか、何を喜ぶか、ということが重要になります。
喜ぶことにも工夫があり、知恵が必要なのです。
それを、獄中にあっても喜ぶことができたパウロから、彼が他者からの贈り物を喜んでいたことから学ぶことができます。
皆さんは、贈り物を喜ぶなど、何ら不思議ではなく、わざわざ学ぶことでもないと言われるかも知れません。
獄中にあったパウロが、そういう立場で贈り物を喜ぶのは当たり前だ、と思うかも知れません。
しかし、本当にそうでしょうか。16節には「窮乏を救おうとして物をおくってくれた」とあります。
贈り物を喜ぶには、まず自分がこういう窮乏状態にあることを受け入れるということが、前提としてあります。
他の人から物を何度も送ってもらい、支えられることを、受容できなければなりません。
多くの人は、このようなことを「情けない」と感じるのではないでしょうか。
とうてい喜べないのではないでしょうか。
11節に「満足する」とある言葉は、ギリシャ語の原文ではアウタルケイアという言葉です。
これは、この手紙が書かれる何百年も前からギリシャ哲学の大きな流派として有名であった「ストア派」にとって重要なキーワードとなっていました。
このアウタルケイアという言葉は「自足」と訳すことができます。
言葉通り、自分で足りること、他の人に頼らずとも生きていけること、これをストア派の人々は幸いと考え、また長く人々はこれを理想としていました。
まさしく現代こそ、これと同じではないでしょうか。
しかし、もし自足することを幸いとし喜びとするなら、私たちすべては、いずれ、この喜びを失わざるを得ない存在でしょう。
私たちはすべて、いつかはパウロのように、様々な意味での「牢獄」に囚われる身とならざるを得ない存在なのです。
だからこそ私たちは、このパウロから学ばねばならないのです。
この手紙の中心であると言っても良い3章に、かつてのパウロが律法の行いに関してはファリサイ人として非の打ち所のない人間であったと書かれていました。
非の打ち所がないとは、すなわち「自足」と同じことなのです。
それを、かつてのパウロは喜びとしていたのでした。
ところが、そんな彼に大きな転換点が訪れました。
それがイエス・キリストに出会ったことなのです。
イエス様に出会うことによって、彼はこれまで非の打ち所がないと思っていたことが、如何に非だらけかを、いやというほど知ったのでした。
イエス様に較べれば、自分のそれなど塵芥に過ぎない、足りないことばかりなのでした。
そうであればこそイエス様は、その御自分の非の打ち所がないものを私たちに分けてくださるべく、人となり十字架にかかって下さった、ということがパウロに分かったからなのでした。
私たちは、神様の前に窮乏状態にあり、神からイエス・キリストという贈り物をおくられて、救われなければならない、そのことが喜びなのです。
そんな神様との関係の根本が19節に語られていることではないでしょうか。
神様は私たちの必要を、キリスト・イエスにおいてすべて満たしてくださいます。
言い方を換えれば、私たちは自分自身ではその必要を満たすことができない存在、自分自身では窮乏せざるを得ない存在なのです。
そういう私たちを、イエス様が神様からの贈り物となって下さって救ってくださいます。
このような神様の前における私たち人間の根源的な在り方がわかったからこそ、窮乏し、それを救われる在り方を受容できていればこそ、たとえ獄中に囚われていても贈り物を喜ぶことができるのです。
贈り物を喜べるということは、逆に言うと、窮乏状態にあるからこそなのです。
窮乏の中になければ、贈り物を喜ぶことはできません。
私自身も振り返ってみて、本当にそうだったなぁ、と思うことがいくつもあります。
窮乏状態にあったからこそ、その時の私にとって無くてはならない、私の必要を満たす神様からの助けであったことが、よく分かったのでした。
この教会に赴任してからも、そういうことが、もうすでに何度もありました。
昨年の今頃、じつは私は、あることでとても落ち込んでいた時でした。
その時に、私を助けてくれた贈り物は、今日もこの礼拝に出ておられる御夫妻が、受洗を決意し礼拝に訪れて下さったことでした。
先週のイースターの説教は、果たして聖書に書かれている素晴らしい事柄を伝えることができたのか、と忸怩たる思いでした(先週の説教だけではなく、いつものことではありますが)。
本当に、もう25年も説教をし続け、月曜から土曜まで、じゅうぶんに時間をかけて説教の備えに当っているのに、まだ、このような状態なのです。
講壇を走って去っていきたい、との思いに駆られることもしばしばです。
そういう私に先週の火曜、在る方がお手紙をくださいました。
その手紙には「私に向かって語られた御言葉であると感じ、涙が止まりませんでした」と書かれていました。
たかが手紙でしたが・・・。
今日の15節、16節にもあるように、たかが「物のやり取り」に過ぎません。
しかし、されど手紙であり、されど贈り物なのです。
それが私たちの窮乏を救い、必要を満たす神様からの助けとして、私たちは受け取ることができるのです。
これが私たちの喜びなのです。
以上は、贈り物をおくられる喜びについてです。
確かにそれが、獄中にあるパウロの直接的な喜びであったとわかりました。
しかし、今日の聖書箇所で語られている喜びとは、それだけではないように思うのです。
パウロは、このように自分を喜ばせてくれるフィリピ教会の人々の「贈る」という行為そのもののことをも、大切なものとして語っているのだと思うのです。
17節後半には「あなたがたの益となる豊かな実り」と書かれています。
フィリピ教会の人々がそうやってパウロに贈り物をおくることが、ひいては彼らの益となることなのだと言っているのです。またそれが、神様が喜んで受けて下さるいけにえだと18節で語っています。
何を喜ぶのかと言えば、私たちがこのように誰かに何かを贈ることができる捧げることができる、ということなのです。
それもまた、喜びなのです。神様は、そのように私たちをして贈ることのできる者とすることで、19節に言うところの、私たちの必要を満たすという働きもなさっておられるのでしょう。
どうして、捧げることや贈ることが、私たちの必要を満たすことなのかというと、それは逆のことだと思うのです。
捧げることや贈ることは、直接的には私たちの持っているものを減らすことであり、それはマイナスといえます。
しかし、そうではないとパウロは教えています。
贈ることで、私たちの贈ったささやかなものが、(それはたかが物に過ぎない、本当にささやかな物品でしかないのですが)少しでも役に立てた、と言う思いが私たちの喜びとなるのです。
こんな私でも役に立てた、という思いが、生きる喜びとなるのです。
贈ることや与えることは、私たちの小ささや貧しさを、喜びと変えてくれるのです。
生きる喜びこそが、私たちに最も必要なものではないでしょうか。
それを神様は、そうやって私たちに与えて下さるのです。
2012年 4月 8日 イースター礼拝
20:11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 20:12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 20:13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 20:14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 20:15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 20:16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 20:17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 20:18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
イエス様が復活された出来事を記す4つの福音書の記載に共通しているのは、空っぽの墓を見つけ天使からイエス様の復活を最初に知らされたのが女性であるという点です。
今日の聖書箇所(ヨハネによる福音書)では、マグダラのマリアただ一人となっています。
さらにこのヨハネ福音書だけマリアが泣いていたと記しています(11節)。
もちろん他の3つの福音書の著者にとっても、イエス様を失って女性たちが悲しんでいたことを当然のこととして記載したでしょう。
しかし言葉で「泣いていた」とは記さず、「途方に暮れていた」とか「恐れていた」というように書かれているだけなのです。
ヨハネによる福音書の著者ヨハネは恐らく、マグダラのマリアと非常に近い立場にあった人のようです。
ヨハネは、イエス様を失ったマリアの悲しみをそばでつぶさに見ていて、彼女が泣いていたことを記さずにはいられなかったのだと思うのです。
私は改めてこの事に気づかされ、大いに心を揺さぶられました。
そこに何を感じてこれほどに心を揺さぶられたのかを一言でいうと、マリアが、ひいては私たちが泣き悲しむことが、ここではとても大切に扱われている、と感じたからなのでした。
愛する人を失い、更には、その遺体にすがる機会さえ奪われて、ただ泣くことしかできないマリアに、この御言葉は優しく寄添っているように感じるのです。
そういう境遇に置かれた時、私たちがただ泣くことしかできないことを、許し受け入れてくれているように思えるのです。
この何気ない記述にこのことを感じたのは、やはり私の心の中に昨年の3月11日の出来事があるからだろうと思います。
2万人近い方々が一瞬にして大切な人を奪われ、そのなかの何千人かの人たちは文字どおり遺体にすがる機会さえ失われてしまいました。
悲しむ以外には泣くことしかできない、そういう私たちの悲しみを今日の御言葉は、そのまま受け止めてくれているように、そして大切に丁重に扱ってくれているように思えるのです。
あたかも「ただ泣くことしかできなくとも大丈夫だよ、あなたは必ず復興することができるよ」と語りかけてくれているように感じられるのです。
私は、天使と復活されたイエス様からマリアへの問いかけに、このような配慮を感じました。
聖書には「婦人よ、なぜ、泣いているのか」、「誰を捜しているのか」と書かれています。
これは言わずもがなの問いです。それなのに、どうしてわざわざこんな問いかけを、天使とイエス様はなさったのでしょう。
ルカによる福音書には、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここには居られない」という、天使から女性たちへの語りかけが記されています。
ニュアンスとしては、復活して生きているイエス様を、墓や死者の中に捜している女性たちの愚かさ、的外れを諭し叱るようなものが感じられます。
それはそれで大切な語りかけではあるだろうと思います。
私はずっと、このヨハネ福音書に記された問いかけにも、ルカ福音書の問いかけに込められているのと同じニュアンスを読みとってきました。
しかし今回、そうではないのだ、と言うことを感じさせられました。
このような問いかけを通して、天使もイエス様も、まず泣いているマリアのその悲しみに真正面から向き合い、かかわって下さろうとしているのではないでしょうか。
これは泣くことへの諭しや、いつまで泣いているのかとの叱責ではなく、泣いている彼女への関わりの現れ、寄り添いの姿だと思うのです。
神様は、天使を送ってマリアの悲しみに向き合おうとして下さったのです。
その悲しみから目をそむけることなく、悲しみの只中、墓の只中で付き合おうとして下さったのです。
しかし、私たちにはそのようなことはなかなかできないと、しみじみ思います。
泣いている人に対して私たちは、避けることや遠巻きにすることを行ってしまいがちです。
私たちは、このように悲しむ人にかける言葉を持ち合わせません。
悲しみが自分に伝播するのを恐れるからでしようか。
牧師として、死が迫っている人を見舞う時、こうした恐れに襲われることがしばしばあります。
できれば見舞いたくないと、正直、何度思ったことでしょうか。
見舞うのは牧師の自己満足にすぎないと、何度思ったことでしょうか。
それでも見舞うことをしてきたのは、結局、神様がこうして泣く者のもとを訪ね、言わずもがなの問いかけをなして下さったからなのです。
このように、悲しむ者に向き合おうとして下さる神様がいるからなのです。
福音書には、たびたび悲しむ者を訪れるイエス様、死んだラザロの腐りかけた肉体さえ訪れて下さったイエス様のお姿が記されています。
イエス様には、その訪れによって、何かをもたらすお力がありました。
もちろん私たちにはそのような力はありません。
しかしイエス様がそのように訪ねてくださったように、私たちも無力を感じながらも訪れ見舞うのです。
その訪れから、やはり何かが始まっていくのだ、と私は思うのです。
さて、天使の問いにマリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と答えました。
そこに、彼女の悲しみの核があります。
生きる支えであり、拠り所である「主」が、死によって、事故によって、この世の悪によって取り去られ、死の中に、悪の中に、悲惨さの中に運び去られ、覆われる・・・そして私たちは、大切な主を取り去られ、運び去られた者として取り残される・・・。
このような悲しみが、どれほどあったことでしょう。
このような悲しみに対して、神様は天使を送って向かい合って下さいます。
復活されたイエス様ご自身が、そう、もはや取り去られてはいない、運び去られてはいない者として「取り去られた!運び去られた!」と叫ぶマリアに、向かい合って下さるのです。
向かい合う両者の、その立っている立場には、何と大きな違いがあることでしょう。
向かい合いつつも、そこには、何と正反対の立場があることでしょう。
それでも、泣くマリアを責めてはおられないのです。
叱りつけてはおられないのです。
私たち人間には、どんなに寄添っても、ただ取り去られた者同士としての立場しかありません。
ただ同じ立場にいて、せいぜい共に悲しみ泣くしかないのです。
しかし天使や復活したイエス様の立っておられる場所は、全く違うところなのです。
私たち人間には立つことのできない場所なのです。
これが復活の出会いにおいて起きた事柄の核心なのです。
マリアが、あんなに捜していた、会いたがっていたイエス様のお姿でありお声なのに、彼女は「マリア」という懐かしいお声を聞くまでは、その問いかける方がイエス様だとは分かりませんでした。
園丁としか思えなかったのです。
それは立場の大きな違いがあるからなのです。
マリア、そして私たちは何処までも大切な拠り所を取り去られ、運び去られた者、泣くことしかできない者なのです。
しかしイエス様は取り去られたお方ではありません。
死や痛みや暴力によって運び去られたお方では、もはやないのです。
それでもなお天使とイエス様は、そういう私たちの悲しみに向き合い、問いかけ、声をかけ、ついには、そうした存在に気付かせ、出会わせ、魂の復興を遂げて下さいました。
私たちは、マリア以上になおのこと、復活したイエス様に直接お会いすることなど不可能なのですから、私たちとイエス様との出会いは、おぼろげでしかありません。
それでも、イエス様は聖書の御言葉を通し、積み重ねられる礼拝生活を通して、私たちの名前を呼んでいて下さるのです。
その出会いによって、私たちも取り去られることのない存在を主とし、拠り所とすることができるようになるのです。
取り去られることのない何者かを、主とするようになるのです。
マリアは、問いかけた方がイエス様だとわかって、跳びつき抱きつこうとしたのでしょう。
それに対して、イエス様は「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」と言われたと書かれています。
これも、マリアとイエス様との会話としてヨハネ福音書だけに記されています。
マリアと近しい間柄だったヨハネだけが、マリアから聞いたことだったのかもしれません。
さて、このイエス様のお言葉の理解は千差万別、いろいろです。
文字どおり、マリアがすがりつくことでイエス様の昇天が妨げられるとか、すがりつくマリアに後ろ髪を引かれる、といったことではないでしょう。
たとえどんな妨げがあったとしても、イエス様は天の神のもとに帰られるのですから。
イエス様が言われるのは、これからの間柄は今までのように地上の肉体をもった存在にしがみつき、すがるものではいけない、ということなのだと思うのです。
復活し、更に天の父のもとに上られるイエス様は、もはやこの世のどんな力によっても、取り去られ、運び去られるお方ではないのです。
もはや、目で見え、肉体において触れることができお方ではないのです。
もし、しがみつくのであれば、神のもとに上られたイエス様を、見えない、会えない、取り去られた、置き去りにされたと、また嘆くしかなくなってしまいます。
たとえ見ることはできなくとも、また触れることはできなくとも、悲しむ私たちに寄り添い、問いかけ、取り去られることのない主として、私たちを励まして下さるイエス様を信じましょう。
また、私たちが大切に思う人々も、このイエス様にあって大切に守られ、ただ、死によって取り去られ、運び去られてしまった者ではないのだということを、受け入れようではありませんか。
2012年 4月 1日 復活前第1主日礼拝
11:15それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
11:16また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
11:17そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。
『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。
群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
11:19夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
受難週の初めの日を「棕櫚の主日」と呼びます。
何故このように呼ばれるかというと、この日にイエス様が、子ロバの背中にまたがってエルサレムに入られ、そのとき人々がなつめやしの枝を持って迎えたと、ヨハネ福音書に書かれているからです(マルコによる福音書の11勝8節では、ただ「葉のついた枝」とあるだけですが)。
このなつめやしが「棕櫚」と訳されたためです。
宮清めと呼ばれる出来事は、4つの福音書すべてに記されています。
十字架と復活を除くと、4福音書すべてに書かれている事柄は、そう多くはありません。
まず一つは先ほど触れた棕櫚の主日のこと、もう一つは5つのパンと2匹の魚から5,000人を満腹にされたという出来事、そしてこの宮清め出来事なのです。
それほどに、この宮清めは、人々の記憶に刻まれていました。
その理由の一つは、18節に書かれています。
これをしたために、祭司長や律法学者たちがイエス様を殺そうとしたからです。
この出来事は、ユダヤ人のお正月である過越しの祭りが始まろうとしていた頃のことです。
全世界から何百万人もの巡礼が押しかけ、エルサレム神殿はおめでたい雰囲気に包まれていました。
そんな最中に、ここにあるような事をすれば、神殿を冒涜したかどで命が危うくなることは、たやすく予測できたことだったろうと思います。
それでも、なお、イエス様はこのことをなされた、このことに命をかけられた、ということなのです。
それほどまでして宮清めをされたイエス様の心は、17節で引用されている二つの聖書の言葉によく現されています。
最初のものはイザヤ書56章7節から、後のものはエレミヤ書7章11節からの言葉です。
祈りの家であるべき私の家が強盗の巣になってしまっている、そこが本当に私の家、すなわち神の家であり、そこに詣でた者が神様に出会うことのできる聖所となるために私は命をかけてここを清めるのだ、というイエス様の力強い心が込められています。
では、当時のエルサレム神殿は、なぜ、どのような意味で強盗の巣となっていたのでしょう。
その有り様は15節以下に書かれていることによってわかります。
イエス様は、神殿の境内に様々な商売人がいたのを追い出し、とくに両替人の台や鳩を売る者の腰かけをひっくり返されました。
どうして神殿の境内にこのような商売人がいたのかというと、それはこういうことでした。
ユダヤ人であれば、一年に必ず幾らかの神殿税を納めなければなりませんでした。
その貨幣は、その上にローマ皇帝が刻印されたものであってはならず、特別の貨幣でなされなければなりませんでした。
そのための両替人でした。ただ、その手数料はとても高額でした。
そしてまた、ユダヤ人であれば必ず動物の犠牲を捧げなければならなりませんでした。
犠牲の動物を自分の家や途中の店から買っていくこともできましたが、病気や傷がないかと神殿で厳重にチェックがなされ、結果的には、神殿がお墨付きを与えた動物を買わされるはめになるのでした。
また、その値段も法外なものだったのです。
こうしたことは、何故なされてきたのでしょうか。
ただ儲けるためではありませんでした。それは神殿を維持・管理し、また、そこにかかわって生きる祭司やレビ人たちの生計を維持するためなのでした。
同じ場面を記した箇所がヨハネによる福音書の2章に記されています。
弟子たちは宮清めをされるイエス様を見て、詩篇69編10節の「あなたの家を思う熱意がわたしを食いつくす」との御言葉を思い起こしたと記しています。
そうやって商売をする人々の根底にあるのは、神殿を思う熱意なのでした。
自分たちがそのようにしなければ、神殿は立ち行かないとの熱意、自分たちが神殿を存立させるのだとの思い、その思いにおいては、神殿がどのようなところとなっているのかと言うと、まさに「わたしの家」なのでした。
自分たちが建て、支え、維持しなければ立ち行かない、人間の家なのでした。
しかしそれは、本来の意味での「わたしの家」、つまり神の家、神様が建てて下さる家ではありません。
神の手による聖所ではなくなっていました。
神殿に対する善意の熱意が、結果的には、神殿を食い尽してしまった、強盗の巣にしてしまったのです。
このようなことは、私たちにもあてはまるのではないでしょうか。
先日、私のもとを一人の牧師が訪ねてくださいました。
その先生は、仕えておられる教会と付属施設の状況をお話になりました。
そこで聞いた有り様は、私がかつて東北教区で目にした幾つかの教会、そしてその付属施設の状況と瓜二つと言ってよいものでした。
若き伝道者が熱意をもって赴任し小さな教会を支えようと付属施設を建て、付属施設からの収入で牧師の生活が支えられ教会の伝道がなされ、時が経ちその伝道者はつぎの者にバトンを委ねる機会を失してしまい、自分が教会を立てなければとの熱意が悲しいかな教会を食い尽し駄目にしてしまう・・・。
せっかく集まった者たちが教会で出会うのは、神ではなく、教会を我がもののように振舞う牧師と、それを許している信者たちとなってしまったのです。
そしてある人たちは「あの先生がいる限り、もうあの教会には行かない」と。
私自身これまでに、どれほど自分のなかにあるこのような熱意と向かい合ってきたことでしょう。
前任地の郡山教会に赴任をした時には、教会の中心となるメンバーは退職したばかりの方々とそのご夫人たちでした。
何年も経たないうち、その方々よりもずっと若く、将来の郡山教会を背負って下さるであろう二つの家族、教会学校に通っていた全部で6人のお子さんたちも含めて10数人が、ご自分たちの教会を立ち上げるために、ごっそり教会から離れて行かれました。
わずか60数名の会員から5分の1の方々がいなくなってしまったのでした。
アガサ・クリスティの小説に「そして誰もいなくなった」と言うのがありますが、当時私たち夫婦は、20年後にはそのようになるのではないかと半分本気で語り合っていました。
クリスチャンの少ない日本においては、多くの牧師たちがこのような想いを抱いて伝道してきたのではないでしょうか。
そういう中で、いつの間にか「私が建てなければ」という思いに駆られるのです。
その熱意が、いつの間にか牧師自身を蝕み、また教会を蝕んでしまいます。
教会という聖所が、いつの間にか人間の努力や営みによって建てられた人間の家になってしまうのです。
強盗の巣になるということは、こういうことなのです。
だからこそ、イエス様による宮清めが、このような私たちのためになされことがよくわかるのです。
人の建てた聖所・神殿・教会が、このような理由から強盗の巣になってしまうのであれば、それが清められ本当の意味での聖所となるためには、教会が人の建てた人間の家ではなく、神様の建てた、人の手によらない聖所とならなければなりません。
イエス様の宮清めには、そのような意図が込められていたのです。
先にも引用したヨハネによる福音書の2章19節でイエス様は「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われ、これを聞いたユダヤ人たちは「この神殿を建てるのに46年もかかったのに、あなたは3日で建て直すのか」と言ったとあります。
後日、弟子たちは、この時にイエス様が言われた神殿がご自分の身体のことだったことを述懐したのでした。
イエス様の身体とは、人として生まれ、福音書に書かれているように、人々と共に生き、十字架の上で殺され、三日目に復活されたイエス様の存在すべてを言っています。
イエス様のそのような存在が、私たちをして、神様と出会わせる神殿であり聖所なのです。
それは、決して人の手によらない、人間によって維持されたり経営されたりする必要のないところの、本当の意味で「わたしの家」 ― 神の家であり、イエス様によって建てられた家なのです。
私たちが、その集まりによって建てる教会の核、また背後には、このような「わたしの家」があります。
この家で神様に出会い、イエス様に出会った私たちは、その二人または三人が集まって教会を建てる、さらには集まって神様を思い起こし、礼拝し祈るために、どうしても必要になった建物としての教会を建てます。
このような人の集まり、また建物としての教会、制度としての教会を維持し在らしめるために、私たちは腐心し熱意を傾けます。
確かにそれも必要なことです。
しかし、あくまで最初にあるのはイエス様がご自分の身体・存在そのものによって建てて下さった「わたしの家」なのです。
それは永遠であり、人の手によるものではありません。
この「わたしの家」があるところには、何処にだって、どんな形だって、人の集まりとしての、人によって建てられた教会は存在し得るのです。
二人または三人が集まるところには、公園でも、公民館でも、デパートの一室であっても構わないのです。
どうして私たちはそれを、あるところに、ある決まった在り方に限定してしまうのでしょうか。
パウロが建てた教会の中で、今日もなお存在している教会はいったい幾つあるでしょう。
ローマ教会くらいではないでしょうか。
人の建てた教会というものは、そういうものなのです。
歴史や時代の中で、自ずと変遷して行ってしまいます。
無くなることも、合同し合併することもあるでしょう。
しかし、その核にあるイエス様の身体としての「わたしの家」は無くなってはいないのです。
こういうことを悟るのが、宮を清めていただくことなのです。
このように、宮を清めていただくことで、私たちは、本当に安心して、教会を建てていけるのです。
熱意をもって、しかし、私が在らしめるのではないと諭されつつ、人の手による教会形成に励むことができるのです。
2012年 3月25日 復活前第2主日礼拝
05:27その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。 05:28彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。 05:29そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。 05:30ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」 05:31イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 05:32わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
ここに書かれている徴税人というのは、今の税務署職員とは全く違う人たちです。
当時のイスラエルは、ローマ帝国に占領されていました。
ローマ帝国は、占領民に嫌われる汚れ仕事を占領民自身にやらせました。じつにうまいやり方です。
税金を徴収する仕事は、その最たるものだったのです。
たとえばローマ帝国に一億二千万納入するところを、実際には人々から二億取り立てて、余った分を自分の懐に入れていました。
徴税人は、ローマ帝国の権力を笠に着て、ひたすら金の亡者となっていた人たちと見られていたのです。
それだから、30節にファリサイ人や律法学者たちの「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」という問いかけがあるのです。
しかし、今日の資本主義社会に生きざるを得ない私たちが彼ら徴税人と同じ者でないと、言えるでしょうか。
そのような徴税人レビであり私たちですが、こうしてイエス様に従う者とならせていただきました。
「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉があります。
鶏の雛が卵から産まれ出ようとするときに殻の中から殻を突いてたてることを「啐」といい、親鳥が外から殻を突いてその手助けをすること「啄」といいます。
まさしくこの言葉のように、招くイエス様の力の強さだけでなく、招かれるレビや私たちの側にも、その招きを受け入れる素地があるのです。
イエス様は、医者を必要とするのは病人だと言われましたが、病人だからこそ必死になって医者を求めるものなのです。
病んでいると感じているならば、医者としてのイエス様を直感的に感じることができるのです。
今日の説教題「病人には医者がいる」には、「いる」に「必要」という意味だけでなく、病の人には必ず医者が「存在する」という意味も込めました。
病むということには、なんと不思議な豊かさと幸いがあることでしょう。
病むときにこそ、私たちは強いのです。
そして必ずイエス様という医者を見いだし、その招きに応ずることができるのです。
2012年 3月18日 創立記念(復活前第3主日)礼拝
47:01彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。 47:02彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。 47:03その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。 47:04更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。 47:05更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。 47:06彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。 47:07わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。 47:08彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。 47:09川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。 47:10漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。 47:11しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。 47:12川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」
筑波学園教会牧師 福島 純雄
今から34年前の1978年2月26日、この筑波学園教会は最初の礼拝をまもり、3月21日には正式な教会(キリスト教伝道所)としての設立式を行いました。
創立25周年記念誌を読んでいたところ、次のようなこと書かれていました。
それは最初の礼拝より前の1月末の夕方、設立者の稲垣守臣牧師夫妻、ハリー・バートンルイス宣教師、そして筑波大学の学生のあわせて4人が「この教会がこの地の人々への泉湧き出る憩いの場となるように」と祈った、という記述でした。
私の前任地の郡山教会は、清水台という地名の場所にあり、私は長らく福音の清水が地域の人々に流れ出て行くようにと願い祈っておりましたから、不思議な共通性を感じておりました。
そこで、今年の教会標語を「あまつましみず ながれきて」とし、主題聖句は上記エゼキエル書47章1節から「すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。」を選ばせていただきました。
この聖書箇所は、捕えられバビロンの捕虜となったエゼキエルという人が見た幻のことを記したものです。
それは、いつの日にか理想の都エルサレムが再建され、そこに建てられた神殿の聖所から不思議な水が湧き出し、水源から離れれば離れるほど太い流れとなり、その流域を豊かにし、やがて汚れた海をも生き返らせる・・・というものです。
私たちの教会からも、そのような清水が湧き出ることを願います。
このような清水が流れ出る聖所とは、まず何よりも、神様に出会わせていただいた私たち信徒の一人々々であることに心をとめましょう。
神様に出会った私たちがまず、聖所なのです。
そしてそこから信仰という清水が湧き出ています。
聖書に記された人々を通して、彼らからどのような清水が湧き出ていたかが伝わってきます。
たとえば、まずアブラハム。彼は神様に出会うことによって、親族や故郷を離れて見ず知らずの地へと旅立ってゆきました。
その旅立ちには、必ず神様の祝福があると信じることができました。
私たちも、行き先を知らずして旅立ちを余儀なくされます。
しかし神様を信じることで私たちは、その出発が必ず祝福が伴うものであると受容できるのです。
以後、ヤコブやモーゼ、ダビデといった旧約聖書の人々も、そうでした。
そして最後にイエス様です。
イエス様が、アブラハムたちと違っていたのは、イエス様ご自身が「あまつましみず」そのもののお方であったということです。
私たちは、自分たちで汚れを作り出しています。
原発事故によって、美しい福島の自然は汚されてしまいました。
エゼキエル書にも描かれている「汚れた海」の原因は、私たち人間のむさぼりなのです。
人間のむさぼりによって汚された海の中で、私たちは口をパクパクさせながら息も絶え絶えです。
しかしここにイエス様から流れ出ている「あまつましみず」が、決して涸れることなく注いでいるのです。
私たちの世界がどんなに汚れた海であろうとも、イエス様から流れ出る清水は涸れることがなく、私たちを生き返らせてくださるのです。
2012年3月11日 復活前第4主日礼拝
50:15ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。 50:16そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。 50:17『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。 50:18やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、 50:19ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 50:20あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。 50:21どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
かつてヨセフの兄たちは、ヨセフを殺そうとしました。
かろうじて命はあったもののヨセフは、奴隷としてエジプトに売られ、辛酸をなめることになりました。
やがてヨセフはエジプトで、宰相になっていました。
父ヤコブが死ぬと兄たちは、ヨセフが自分たちに復讐をするのではないかと恐れていました。
それに対してヨセフはこう言いました。あなたがたの企てた悪を神様が善に変えてくださった、と。
さらにヨセフは、このような神様に私が代わることはできない、と言いました。
私はこの御言葉に、震災直後不安におののいていた私たちへの、神様からの慰めを聞きました。
地震や津波やそれによる原発被害を神様が私たち人間に下された罰や怒りや裁きとして受け止める人々がいました。
しかし私は決してそのようには信じることができませんでした。
どうして神様がこのような愚を、災いをなされるでしょうか。
御言葉は、悪を企てるのは神様ではなく神様の被造物である人間であり自然であると語っています。
自然界の事象はすべて、そのままイコール神様のなさることではなく、神様の被造物のなせることなのです。
そこには悪もあるのです。
その悪を善に変えてくださるのが神様のなせるみわざなのです。
神様は、長い時間をかけてそのみわざをなさいます。
ヨセフは忍耐をしました。私たちも同様です。
いつの日か私たちにも、誰かを慰め優しく語りかけることのできるときがやってきます。
2012年3月 4日 復活前第5主日礼拝
04:10さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。 04:11物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。 04:12貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。 04:13わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。 04:14それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
11節にある「満足する」という語は、ギリシャ語聖書では「アウタルケイア」という言葉です。 ストイックという言葉で知られるギリシャ哲学のストア派の人々にとって、このアウタルケイアはとても重要な概念でした。 外的な事柄によって内面が左右されないで自由で平静な状態にあることを意味していました。 では、このストア派の人々は、どうやってそのアウルタルケアの状態を得ると言っていたかというと・・・ 「なるべく外の事柄に関わらずにいること」なのでした。 それは、あたかも犬が穴の中にじっとしているようだということで、彼らは「犬儒派」とあだ名されたそうです。 このストア派の言う「満足」と、パウロが言っている「満足」とは、言葉は同じでも内容は随分と違うように感じます。 パウロはまず、フィリピの人々が彼に示してくれた「心遣い」を、とても喜びました。 14節でも、彼らが苦しみを共にしてくれたと言っています。 関係を遮蔽することからくる満足ではなく、つながりの中にあるゆえの喜びにおいての満足なのです。 さらには13節で「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能」と言っています。 パウロは、牢獄に捕われている境遇でも、神様そしてイエス様とのつながりを信じ、様々な工夫や対処をして何でもしてやろうとの思いを持ち、、決してあきらめることなく「満足している」と言うのです。 私たちも震災後の境遇にあって、その境遇に支配されず希望を失わず、工夫し、喜びを得たいと思います。 それには、人とのつながりと神様との結びつきが不可欠なのです。
2012年 2月26日 復活前第6主日礼拝
05:17ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。 05:18すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 05:19しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。 05:20イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 05:21ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 05:22イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 05:23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 05:24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。 05:25その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。 05:26人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
20節に「イエスはその人たちの信仰を見て」と書かれています。
「その人たち」とは、中風の人をイエス様の近くまで運んできた友人たちをまず、指しているのでしょう。
「信仰を見て」とありますが、はたして、私たちが普通これこそが信仰だと思えるものが「その人たち」にあったでしょうか。
イエス様がキリストであると、彼らにしっかりわかっていたわけではありません。
ただ、中風の友人を癒してほしいという一心で連れてきたのです。
もしかしたら中風の人自身は、彼の友人たちに担がれるままに連れてこられただけだったのかもしれません。
「しかしそれもまた信仰ですよ」とイエス様は認めてくださっているのです。
信仰とは、そんなに難しいものではありません。自分からではなく伴侶や親の信仰に担がれて教会に行く、それもまた信仰なのではないでしょうか。
さて、こんなにも人々を引きつけたイエス様を17節の言葉は「主の力が働いて」と表現しています。
イエス様に神様の力が注がれているからこそ、こんなふうに私たちを引き寄せてくださいます。
こうして、イエス様の近くにつり降ろされた中風の人に、イエス様は「あなたの罪は赦された」と言われました。
イエス様が病気を癒そうとされるときに罪に言及されたという記述は、この聖書箇所以外にはみつかりません。
ですから、病気になったときに、それが罪のせいだと思う必要はありません。
ところが、この中風の人の場合には、罪と言わざるを得ないものを抱えていたのでした。
彼をして神様から遠ざけてしまうもの、それは諦めの気持ちや、自分自身を病気の中に閉じ込めてしまう気持ちです。
そんな彼の友人たちの信仰によって、そして彼を強力に引き寄せてくださったイエス様が、彼を罪から解放してくださったのでした。
2012年 2月19日 降誕節第9主日礼拝
12:10その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。 12:11エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。 12:12エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。 12:13どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」 12:14アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。 12:15ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。 12:16アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。 12:17ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。 12:18ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。 12:19なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」 12:20ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
父の死後、一族をどう導けばよいか悩んだアブラム(アブラハム)は、はじめて「神」という存在に向かい合うことになったのでしょう。
そのようなときにアブラムは、1~2節にある
「わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める」という神様の言葉を聞いたのです。
既に75歳になっていましたが、彼は出発しました。
この聖書箇所を読む私たちは、そういうアブラムの信仰の歩みが、その後も順調に続いていってほしいと願います。
それが私たちの信仰の歩みの励みとなるからです。
ところが、そうはならなかったのです。
カナンの地で飢饉が起こりました。
彼らは飢饉から逃れるため、自らの考えだけでエジプトに向かおうとしました。
エジプトに入るときには、妻に妹だと嘘をつかせました。アブラムはこれらのことを神様にまったく相談しませんでした。
それは、なぜなのでしょう。
大いなる国民とする、祝福するという約束があったのに、飢饉とは何事か、という嘆きと躓きが彼にあったのだと思います。
見ず知らずの土地に来たゆえにこそ、失望も大であったに違いありません。
だからもう神様になど頼らずに、自分たちの思いだけで進んでゆこうと思ったのではないでしょうか。
しかし、その結果、何が生じたかというと、杞憂、思い煩い、そして嘘でした。
もし神様に問うたならば、彼らが進んだのと同じ道が逃れの道として示されていたかもしれません。
しかし、結果が同じでも安心が違うのです。
神様が示された道ならば、安んじて進むことができるのです。
神様は、嘘の被害者であったエジプト王に災いをくだし、アブラムには祝福をお与えになりました。
神様に約束された者に危害を加えようとする存在には、最後には災いが臨むのです。
反対に、嘘をつき神様を信じることができなくなったアブラムに対して、神様は恵みをくださったのです。
2012年 2月12日 降誕節第8主日礼拝
04:02わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 04:03なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。 二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 04:04主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 04:05あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 04:06どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 04:07そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
4節に「主において常に喜びなさい。」とあります。喜ぶことが私たち信仰者に与えられた最大の義務ではないかと思います。
しかし、喜べないことも多いのです。どうすれば、常に喜ぶことができるでしょうか。
3節には「福音のためにわたしと共に戦ってくれた」とあります。
福音は喜びの知らせという意味ですが、そのためには戦いが不可欠なのだということではないでしょうか。
困難が襲ってきたとき、最初から諦めるしかないというのではなく、もし戦うことができるなら、それは希望です。
手段がなく、最初からギブアップというのでは、希望がまったくないのです。
また、この戦いには、「共に戦ってくれる」戦友が不可欠であることも、パウロは語っています。
教会の友こそが、困難なときに、喜びを得るために共に戦ってくれる戦友です。
困難自体がなくなることはないかもしれませんが、共に苦しみ共に泣いてくれる友がいることが喜びなのです。
もう一つ、喜ぶための秘策として「広い心」という言葉が5節に示されています。
これは、閉じられていない心の状態を意味しています。
苦しみや悲しみに私たちの心は取り囲まれていますが、神様とイエス様、そして聖霊との間においては、閉じ込められてはいないのです。
そこはオープンです。そこから必ず人知を越えた神の平和が私たちに与えられています。
このように私たちと神様とをつなげ、閉じ込められたときにもそこに風穴をあけ、私たちに必ず喜びを与えて下さいます。
その、何よりものよりどころが「祈り」であると6節に語られています。
2012年 2月 5日 降誕節第7主日礼拝
04:31イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
04:32人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
04:33ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
04:34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
04:35イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
04:36人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
04:37こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
04:38イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
04:39イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
04:40日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
04:41悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
イエス様が悪霊を追い出したこと、病人を癒されたことが記されています。
今から2000年も前の時代には、いろいろな病気の原因など、ほとんど分かっていなかったでしょう。
そんな時代の迷信として一蹴することもできると思うのです。
しかし今でも、不治の病やなかなか解決できない家族のトラブルなどを抱えた人が、祈祷師とか霊能力者などと言われる人たちを頼りにして、法外な金品を取られてしまったという話を聞くことがあります。
したがって、聖書に記されたこの出来事を、単に迷信として片付けてしまうことはできないと思うのです。
もちろん、いたずらに悪霊を恐れるようなことは、してはいけないのですが・・・。
34節と41節に、悪霊の言葉が記されています。
悪霊はイエス様がどんなお方なのかを分かっており、そうでありながら、イエス様を拒んでいます。
不思議なことに悪霊は、神様のすばらしさがいっぱいに満ちているのがイエス様であると、知っているのです。
私たちも、そのことが心の底から分かったとしたら、どうしてイエス様を拒むことがありましょう。
むしろ、どんなに阻まれても、神の聖が満ちているこの方に近づき、接しようとするはずです。
私たちは、そのようにしてイエス様につながり、神の聖を頂いている存在ですから、私たちには悪霊は取りつくことができません。
聖霊を注がれている者に、悪霊は住み着くことはできないのです。
2012年 1月29日 降誕節第6主日礼拝
12:01主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
12:02わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
12:03あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
12:04アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
12:05アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
12:06アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
12:07主はアブラムに現れて、言われた。
「あなたの子孫にこの土地を与える。」
アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:08アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
12:09アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
バベルの塔の物語の最後には「主がそこから彼らを全地に散らされた」とあります。
散らされた者の代表として、また散らされることをしっかりと自身の信仰において受け止めることのできた人として、アブラハムという人物が登場してきます。
まず1節には「主はアブラハムに言われた」とあります。
アブラハムはどうして突然自分に語りかけてきた存在を「神」であると信じることができたのでしょう。
それは、はるか大昔から、彼の先祖であるノアの信仰が、家の宗教というような形でずっと継承しされてきたことが、根底にあるからではないかと想像します。
もしかしたら形骸化していた信仰だったかもしれません。
しかしあることをきっかけとして「生きた信仰」へと変化したのではないでしょうか。
その出来事というのが、11章の最後に記されている妻サライの不妊と父テラの死ではなかったかと思うのです。
跡継ぎが与えられないまま父を失ったアブラハムは、はじめて真剣に神様と向かい合い、淘汰のではないでしょうか。
自分たちの家族の将来はどうなるのか、父に代わってこの家族を導く私はどこへ向かえばよいのか、と。
悩みの中で神様を呼ぶとき、神様はかならずこたえてくださいます。
神様のこたえはどこから出発してどこへ向かうのかを指し示すものでした。
「生まれ故郷・父の家」とは、たとえば私たちが留まっていたいと思う安住の地を表わしています。
しかし神様は私たちに、そこから出発せよとおっしゃるのです。
どこへ向かうかというと、聖書には「私の示す地」と書かれているだけです。
神様がここで具体的な地名を告げてはいないのです。
それは、ある意味ではどこでもよいということなのです。
ただそれがどこであっても、それが神様の示す地であると信じ、そこに至れば神様に祝福をいただけると信じて出発すればよいのです。
2012年 1月22日 降誕節第5主日礼拝
03:17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 03:18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 03:19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 03:20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 03:21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 04:01だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
17節でパウロは「わたしに倣う者となれ」と言っています。さらに「わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と言っています。
パウロがこのように語ったのは、フィリピ教会の人々の目が、パウロたちではなく伝道者たち(18節でパウロは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」と酷評)に向けられていたという現実があったからでした。
彼らは自分たちを、完全な者だと豪語し、非の打ちどころのない者だと吹聴していました。
パウロの弟子のテモテにしてもエパフロディトにしても、伝道者として未熟であったり病弱であったりでしたし、またパウロ自身も伝道の働きに支障があるほどのとげを負っていました。
彼らは、非だらけの伝道者でした。
パウロは、そんな自分たちをお手本とせよと言い、彼らを倣ってはならないと言うのです。それはいったいなぜなのでしょうか。
パウロはイエス様を、たとえて言うならよい主人やよい主治医のような「また救ってくださる方」として信じることのできるすばらしさに
3章8節で言及していました。
だとすれば私たちは、その召使いであり患者であるということになります。
そのどこに素晴らしさがあるというのでしょう。
しかし、実際に病気になった人、自分では自分のことをどうにもしようがなくなってしまった辛さを体験したことのある人には、この素晴らしさがよくわかるものなのです。
パウロが酷評した伝道者たちは確かに非の打ちどころのない人たちかもしれませんが、この辛さを知らない人たちです。
19節の「腹を神とし」とは、そういうおのれを頼りとできるありさまなのです。
イエス様は、そのようなお方ではありませんでした。
十字架の出来事とは、つきつめれば、イエス様が自分で自分を救えない境遇に身を置かれたことです。
そんなイエス様を神様はお救いになったのですから、その現れこそが復活なのです。
2012年 1月15日 降誕節第4主日礼拝
04:16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
04:17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
04:18「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
04:19主の恵みの年を告げるためである。」
04:20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
04:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
04:22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
04:23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
04:24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
04:25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
04:26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
04:27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
04:28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
04:29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
04:30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
イエス様は、イザヤ書61章1~2節を朗読され、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。
人々の感想として「その口から出る恵み深い言葉に驚いて」と書かれていますから、恐らくイエス様が人々に話されたことは、まず何よりも神様の恵みが皆に注がれているのだ、ということであったに違いありません。
貧しい人たちや病人たち、捕らわれの身の人々にも神様の恵みが注がれている、ということは、いったいどのような形で実現しているのでしょうか。
かの大震災から10が月余りが過ぎて、いま雇用保険が切れる人たちが出始めているとのことです。
また、10万人以上の人たちが失業状態にあると報道されています。
そのような境遇にある人々も、このイエス様のみことばによって神様の恵みが注がれていると言い得るのでしょうか。
そういう状況に置かれているとき、私たちは「神様の恵みなど注がれてはいない」と考えます。
しかしイエス様が言われているのは「そういうあなたがたにこそ恵みが注がれている、そのことに私を通して気づきなさい」ということなのです。
イエス様が、そのことの目に見えるモデルなのです。
そのイエス様がイザヤの言葉を語るのですから、本当なのです。
イザヤの言葉は「主の霊が私の上に」で始まっています。
主の恵みとは聖霊のことです。
イエス様は、そもそも聖霊によってマリヤ様に宿られました。
人として生まれ、様々な苦しみを経験されました。
そのこと自体が、聖霊の宿りの結果として起きたということ、まさしく神様の恵みが注がれていることなのだと気づきなさいと、私たちに語りかけているのです。
2012年 1月 8日 降誕節第3主日礼拝
11:01世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:02東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:03彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:04彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:05主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:06言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:07我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:08主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:09こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
1節に「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」とありますが、これは文字通りの意味ではなく「同じ価値観を抱いていた」という意味でしょう。
どういう価値観だったかというと、彼らはみな大洪水を生き延びたノアの子孫ですから、彼らは「いかにして災いにあわないか」あるいは「災害から遠い地で安住できるか」ということだったと思います。
それは2節、3節の記述ににじみ出ています。
シンアルの平野というのは、かの世界四大文明の発祥地であるチグリス・ユーフラテス川に囲まれた肥沃な場所で、定住するには地味の豊かなよい土地です。
しかし、よく洪水が起きたところでもありますので、洪水に備えて堅固な町や家が必要でした。
だから、レンガやアスファルトでの工夫をしたのです。
このような聖書の記述は、決してただの荒唐無稽な物語ではなく、人類の歴史に合致している事柄なのです。
今の人類は、わずか数万年前にアフリカを出発した数十人単位の家族にさかのぼることがわかっています。
(これはまさしくノアの家族と重なります。)
その家族が、幾多の困難や災いに直面しつつ、それを乗り越えて今の人類となっているのです。
したがって私たちもまた、今なおノアの子孫と同じ価値観を抱いている存在と言えるのです。
それは、できうる限り災いから遠い地で安住することであり、さらには4節に書かれているように、より高くより豊かな社会を築いて生活を守ろうとすることなのです。
しかし神様は天から降ってきて、生き延びるうえでこのような価値観しか抱けない私たちに、まったく違う価値観を与えてくださったのです。
「降って」というみことばが、じつに意味深く感じられます。
「上に上に」ではなく「下る」価値観もあることを私たちに示しているのです。
2012年 1月 1日 降誕節第2主日礼拝
03:10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
03:11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
03:12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。
何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
03:13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
03:14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
03:15だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。
しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
03:16いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
12節と15節に「完全な者」という言葉があります。
ギリシャ語の原文では、テレイオスという言葉です。
これはテロス(目標・到達点)から派生した言葉で、既にゴールに到達した如く自足し、何ものにも動かされない境地に到達した人をあらわす言葉でした。
当時のギリシャ・ローマ世界では、理想的とされた状態で、自分はまさしくそういう者だと豪語する伝道者たちがおり、フィリピ教会の人々は、そのような伝道者に牧師として来て欲しいと願っていたようでした。
しかしパウロは、これらの伝道者のことを「犬ども」と言って激しく非難しているのです。
もし私たちの信仰がテレイオスといわれる境地に侵食されてしまうと、信仰の大黒柱がダメになってしまうというのです。
3章8節には「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」とあります。
パウロは、イエス様を私の主人として、また救い手として信じるということに尽きるといっているのです。
私たちは、良い主人の僕(しもべ)であり主治医によって救われる患者に過ぎません。
僕や患者にすぎないというのは、まさにテレイオスな状態とは正反対、何一つ自分自身では足りていない者です。
しかし、そこにこそ喜びがあり、慰めがあるというのが、私たちの信仰の大黒柱なのです。
10節以下には、「キリストとその復活の力とを知り」、「その死の姿にあやかり」とあります。
要するに「イエス様の十字架の死と復活のすばらしさ」なのです。
ご自身を無にされた姿、またイエス様を裏切り閉じこもることしか弟子たちをものともせずに平安や喜びをお与えになったイエス様、この方のこのありようこそが私たちの到達点なのです。
私たちは、この目標をめざしてマラソンランナーのように走るのです。
06:27「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 06:28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 06:29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 06:30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 06:31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 06:32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 06:33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 06:34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 06:35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。 人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 06:36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
34:01主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。 34:02明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。 34:03だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。」 34:04モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。 34:05主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。 34:06主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 34:07幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」 34:08モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、 34:09言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」
19:01アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、
19:02彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
19:03パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。
19:04そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」
19:05人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
19:06パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
19:07この人たちは、皆で十二人ほどであった。
19:08パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。
19:09しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。
19:10このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。
19:11神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。
19:12彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
19:13ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
19:14ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
19:15悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
19:16そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
19:17このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。
19:18信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。
19:19また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
19:20このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
19:21このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。
19:22そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。
19:23そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。
19:24そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。
19:25彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、
19:26諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。
19:27これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」
19:28これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。
19:29そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。
19:30パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。
19:31他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。
19:32さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。
19:33そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。
19:34しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。
19:35そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。
19:36これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。
19:37諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。
19:38デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。
19:39それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。
19:40本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。
03:01では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。
同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
03:02あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
03:03彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。
わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
03:04とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。
だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
03:05わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。
律法に関してはファリサイ派の一員、
03:06熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
03:07しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
03:08そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
03:09キリストの内にいる者と認められるためです。
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
03:10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
03:11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
61:01主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
61:02主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め
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