Tsukuba Gakuen Church, UCCJ

日本キリスト教団 筑波学園教会


2011年の礼拝から

25 Dec. 2011  クリスマス礼拝

聖書:ルカによる福音書 5章 1~11節

05:01イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 05:02イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 05:03そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。 そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 05:04話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 05:05シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。 しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 05:06そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 05:07そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。 彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 05:08これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。 わたしは罪深い者なのです」と言った。 05:09とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 05:10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。 すると、イエスはシモンに言われた。 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 05:11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
 

説教:「網を降ろしてみましょう」


 漁をしていたペトロたちがイエス様と出会う前はどのようであったか、それが5節に書かれています。 ペトロたちは、夜通し漁をしていましたが、何も捕れませんでした。 このように私たちの人生も、イエス様と出会うことがなければ不毛であり不漁であるということが示されています。 そんなペトロにイエス様は「沖に漕ぎ出せ」と言われました。 ギリシャ語の「沖」という言葉には「深み」という意味があり、満ち足りた豊かさを意味する言葉です。 そのような深みを知らずに網を投げていたため、ペトロの漁は不漁だったのです。 しかしイエス様が一緒に舟に乗り、イエス様の助言に従って漁をしたところその「深み」が表れてきました。
 プロの漁師であったペトロが、漁の素人のイエス様を「先生」と呼びました。 「素人の言うことなど聞けるか!」と、鼻であしらうこともできたはずです。 しかしペトロは、そうはしませんでした。 それは1節に書かれているように、イエス様が人々に神様について教えていた 言葉を聞いて、ペトロの心が動かされたからでしょう。 「あの方は自分の知らない神様の世界を知っている。その深みを知っている」だからペトロは素直にイエス様を先生と呼び、その勧めに従ったのです。
 私たちにとっても、イエス様は先生です。人として生きることの師匠です。 イエス様は、神様のもとから来られ、十字架の苦しみをたどって、また神様のもとへ帰られました。しかしその生涯は、豊かな深みに溢れていました。
 イエス様が人として生まれてくださったことによって私たちは、聖書を通してイエス様と出会うことができました。 そして私たちの人生は、イエス様と出会ったことにより大きく変わりました。

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18 Dec. 2011  待降節第4主日礼拝

聖書:創世記 9章 1~17節

09:01神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
  「産めよ、増えよ、地に満ちよ。 09:02地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。 09:03動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。 わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。 09:04ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
 09:05また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。 いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
 09:06人の血を流す者は
  人によって自分の血を流される。
  人は神にかたどって造られたからだ。
 09:07あなたたちは産めよ、増えよ
  地に群がり、地に増えよ。」
 09:08神はノアと彼の息子たちに言われた。
 09:09「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。 09:10あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や 地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。 09:11わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって 肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
 09:12更に神は言われた。
  「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに わたしが立てる契約のしるしはこれである。 09:13すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。 これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 09:14わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、 09:15わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。 水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 09:16雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
 09:17神はノアに言われた。
  「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

説教:「祝福と契約」

 この聖書箇所は、イスラエルの人々が祖国を滅ぼされ、バビロンに捕虜とされた時代であろうと考えられています。 大洪水を生き延びたノアの姿は、そのままバビロニアとの戦争を生き延びて、しかし捕らわれの身となってしまったこの箇所の著者たちの姿と重なります。 そのような自分たちが、なお生き延びてゆける支えや励ましを、洪水伝説から得たのでしょう。
 第一の励ましは、神様がノアたちを祝福して「産めよ、増えよ」と言われたことです。 生き残ったイスラエルの人々の中には「なぜ生き残ったのか」「いつまで捕虜生活が続くのか」と前途を悲観するものも多かったのではないでしょうか。 また、バビロニアの支配者たちからの呪いや憎しみの声にさらされていたでしょう。 そんな彼らが神様から聞いたのは祝福であり、生き延びてゆくことへの励ましだったのです。
 このような神様からの祝福を、いったいどのような時に聞くことができたのでしょうか。 8章20節以下に記されているように、それは、箱舟から出たノアがまず何をさておき祭壇を築いて礼拝し捧げものをした、ということだったのです。 祈り礼拝をしても、滅ぼされてしまった国や家が元通りになるわけではありません。 しかし、神様に出会い、神様からの祝福を聞き、生き延びることへの励ましをいただくのです。 このような神様との関係が、8節以下では「契約」という言葉で表現されています。

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11 Dec. 2011  待降節第3主日礼拝

聖書:フィリピの信徒への手紙 3章 2~9節

03:02あの犬どもに注意しなさい。 よこしまな働き手たちに気をつけなさい。 切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 03:03彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。 わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。 03:04とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。 だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 03:05わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。 律法に関してはファリサイ派の一員、 03:06熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 03:07しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 03:08そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。 キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 03:09キリストの内にいる者と認められるためです。 わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

説教:「キリストのゆえに塵あくたと見なす ─ イエス・キリストを知るすばらしさ ─」

 8節にある「すばらしさ」とは、イエス様を自分の主人として、また救い手(キリスト)として知るすばらしさを言い表しています。 パウロは最初、イエス様を憎む者でしたが、人間としてのイエス様と出会い、魅了され、好きになり、ついには、この方なしでは生きてゆくことができないというほどの信仰を持つようになりました。
 私自身もイエス様から、人として生きるということはこういうことなのだ、こんな風に生きてゆけることなのだと、励ましや支えをいただいてきたと思っています。
 イエス様の生涯は、わずか12人の弟子たちにさえ見捨てられてしまうような、いわば失敗者の生涯でした。 十字架の上では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。 しかし福音書に描かれているイエス様には、みじめさや悲惨さは微塵もなく、生きる喜びに満ちあふれたものです。 福音書には記されていませんが、使徒言行録にはイエス様が「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言われたと記されています。 イエス様の生涯は、まさしく讃美歌「まぶねのなかに」にあるように「すべてのものを与えし末死のほか何も報いられで」という生涯でしたが、満ち足りた生涯でした。 イエス様は、たとえ失敗者であったとしても、しっかりと生きる意義を見出して歩むことができることを、身をもって示してくださっているのです。 イエス様がそのようなお方だからこそ、主人であるキリストなのです。 よき主人のもとでは、召使いは自分の老後や住まいのことを心配せずに、目の前の務めに集中することができます。 よき主治医のもとでは、患者は医師にすべてを委ね、まな板の上の鯉のようになることができます。 イエス様が主人であり主治医であり、自分はただその召使いであり患者でしかないのなら自分を誇れることなど、どこにもありません。 しかし人生の中で、自分で自分を持ち上げ自分を誇れる時期がどれだけあるでしょう。 ほんのわずかしかないのです。 いろいろな意味において私たちは、自分だけで自分を背負うということは、本当に重すぎるのです。 だからこそ、神様によって運んでいただくことがすばらしいのです。 そのためのテコとなってくださるイエス様を知っていることがすばらしいのです。 それを知ることからすれば、自分で自分を誇れることなど、塵あくたに等しいのです。

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4 Dec. 2011  待降節第2主日礼拝

聖書:ルカによる福音書 4章 1~13節

04:01さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。 そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 04:02四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。 その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 04:03そこで、悪魔はイエスに言った。
「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 04:04イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 04:05更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 04:06そして悪魔は言った。 「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。 それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 04:07だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 04:08イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」 04:09そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 04:10というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
04:11また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
04:12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 04:13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

説教:「三つの誘惑を退ける」

 イエス様が受洗された直後、聖霊を注がれ「あなたは私の愛する子」 との声が、天から聞こえました。 だからこそ「本当にお前は神の子なのか」との攻撃に、イエス様はその後、さらされることになるのです。 私たちも、洗礼を受けたからこそ、他の人々が味わうことがない試練や攻撃に、さらされることを知りましょう。 悪魔が攻撃をせずにはおれないほど、受洗とはすばらしいことなのです。
 悪魔の最初の攻撃は、神の子なら空腹を空腹を味わうのはおかしいではないか「この石にパンになるように命じたらどうだ」というものでした。 私たちも常に、同様の攻撃にさらされます。 神様に愛されているのなら、どうしてこのような苦しみに出会うのかと思います。
 これに対してイエス様は、旧約聖書の申命記8章3節の言葉から「人は人はパンだけで生きるのではなく・・・」を引用されたのでした。
 この言葉は、しばしば誤解されます。 イエス様は、決して人間が生きるのに物質的なパンが要らないとおっしゃったのではありません。 申命記を読むと、それがわかります。 荒れ野でパンが手に入らないイスラエル人に神様は、40年間にわたって「マナ」という不思議な食べ物を与えられました。 人の手によらない神様からの、いわば「X」という食べ物によって人々は生かされました。
 また、この申命記には、なぜ私たちが苦しみ飢えるのか、ということについても「それは、このマナを食べさせるためである」と書かれています。 今日の社会では、いわゆる自己責任や自立が偏重され、それができないと生きている資格がないかのような風潮があり、それが私たちを卑屈なものにしています。 しかし私たちが生きることは、神様からの「X」によっても成り立っているのです。 神様からの「X」は、ときに本当に思いがけない形で私たちに現れます。 それは親からの助けであったり、生活保護であったり、友人からの援助であったり・・・。 飢えは、それを味わうための苦しみなのです。

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27 Nov. 2011  待降節第1主日礼拝

聖書:創世記 7章 23節~8章 22節

07:23地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。 彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。 07:24水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった。
08:01神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。 08:02また、深淵の源と天の窓が閉じられたので、天からの雨は降りやみ、 08:03水は地上からひいて行った。百五十日の後には水が減って、 08:04第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。 08:05水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂が現れた。
08:06四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、 08:07烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。 08:08ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。 08:09しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。 水がまだ全地の面を覆っていたからである。 ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。
08:10更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。 08:11鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。 見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。 ノアは水が地上からひいたことを知った。 08:12彼は更に七日待って、鳩を放した。 鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。
08:13ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。 ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。 見よ、地の面は乾いていた。 08:14第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。 08:15神はノアに仰せになった。
08:16「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。 08:17すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも 一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」
08:18そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。 08:19獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。
08:20ノアは主のために祭壇を築いた。 そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。 08:21主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。 わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
08:22地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
    寒さも暑さも、夏も冬も
    昼も夜も、やむことはない。」

説教:「大洪水を生き延びて」

 研究により、古代中東一帯に広く、洪水伝説が流布していたことがわかっています。 したがって、旧約聖書のノアの大洪水の著者は、その時代社会の在り様を重ね合わせつつ、自らの信仰によって、自らの洪水伝説を解釈して、記したのだと思います。 したがって事実というより、この物語の著者の信仰告白と言ってもよいでしょう。
 まず、なぜ洪水が起きたかについて、著者は次のようにとらえました。 巨人のようになった人間が地上に悪をはびこらせたので、神様は人を作ったことを後悔され、その悪を一掃されようとなさったのだと。
 このような著者の解釈を、私たちは文字通り受け入れるのではなく「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 (ヨハネによる福音書 3章16節)」との福音に照らして、私たちもまた、解釈し直さねばなりません。
 大きな災害というものは、神様が直接引き起こされたものというよりは自然そのもののメカニズムによって、また昨今の地球温暖化にみられるように人間自身が生じさせているものであることが多いのではないでしょうか。 神様がなされるのは、そうした災害によって私たちを滅ぼそうとされることではなく、助け舟を出すことであり、そのことを通して私たち人間を、悪を生み出す存在から遠ざけることなのです。
 だからこその箱舟だったのです。 人間は、それまでの全てが思い通りになる歩みから、波まかせ神まかせの歩みを余儀なくされました。 箱舟から出たノアたちが、まず最初にしたことは、家を作るとか田畑を耕すといったことではなく、感謝の捧げものでした。 著者が言わんとしているのは、私たちの捧げる姿こそが神様の御心に叶う、ということではないでしょうか。

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20 Nov. 2011  降誕前第5主日礼拝

聖書:エレミヤ書 1章 4~10節

01:04主の言葉がわたしに臨んだ。
01:05「わたしはあなたを母の胎内に造る前から
    あなたを知っていた。
    母の胎から生まれる前に
    わたしはあなたを聖別し
    諸国民の預言者として立てた。」
01:06わたしは言った。
    「ああ、わが主なる神よ
    わたしは語る言葉を知りません。
    わたしは若者にすぎませんから。」
01:07しかし、主はわたしに言われた。
    「若者にすぎないと言ってはならない。
    わたしがあなたを、だれのところへ
    遣わそうとも、行って
    わたしが命じることをすべて語れ。
01:08彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて
    必ず救い出す」と主は言われた。

01:09主は手を伸ばして、わたしの口に触れ
    主はわたしに言われた。
    「見よ、わたしはあなたの口に
    わたしの言葉を授ける。
01:10見よ、今日、あなたに
    諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
    抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
    あるいは建て、植えるために。」

説教:「壊しました 建てるため」

 預言者エレミヤは、おおよそ紀元前620年頃から580年頃、イスラエルにとってもっとも激動の時代に生きた人でした。 イスラエルは、大国の狭間にあって苦しみ、とうとうバビロニアによって滅亡させられてしまいました。 そんな時代に、人々が求めるものは、おそらく祖国の安泰であり生活の保障だったでしょう。 しかしエレミヤが神様から「語れ」と命じられた言葉は、それとは正反対の「壊し、滅ぼし・・・建て、植え」というものでした。 だからエレミヤは「私は語る言葉を知らない」と、うめかざるを得ませんでした。 そのような彼に神様は、自ら手を伸ばして彼の口に言葉を授けました。 神様は、エレミヤが母の胎に造られる前から、彼を特別な存在として選んでいると言われました。
 なぜ神様はこうまでして、ご自分の言葉を預け語る存在として私たち人間をお用いになるのでしょう。 それは、私たちの苦悩の中にこそ私たちは、自分の言葉ではなく神の言葉や神の御心や神の選びに出会うからなのです。 神様は、私たちを確かに壊してしまいますが、しかしそこには新たに建て、植えようとする御業も必ずあるのです。 壊されなければ、新しく建てられることもないのです。

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13 Nov. 2011  降誕前第6主日礼拝

聖書:ルカによる福音書 3章 21~22節

03:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 03:22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

説教:「イエス様の受洗」

 洗礼について、ずっと疑問がぶつけられてきております。 即ちそれは「人間がこの世の水によって行う儀式に過ぎないではないか」との疑問でした。 マタイ、マルコ、ルカによる福音書には記述があるのに、あれほど洗礼者ヨハネとイエス様との結びつきを強く描いているヨハネによる福音書がこのことを記述していないのも、この躓きを恐れたから、とされています。 それでも私たちが、ずっと洗礼を行い続けてきた最大のよりどころはイエス様自身が洗礼者ヨハネからヨルダン川の水によって受洗されたこと、そしてその時に天から聖霊が注がれ神の声が聞こえた、ということではないでしょうか。
 イエス様のほうから人にしてあげたことは沢山ありましたが、イエス様がはっきりと自覚的に「して貰う」ことに意義を感じて人から何かをしてもらったというのは僅かしかありません。 罪ある女性からの油注ぎ(しかしこれは突発的な出来事でした)とこの受洗の記述くらいのものです。
 洗礼者ヨハネは、神様は石ころからさえもアブラハムの子を起こされると語って、その神の御業を目に見える現れとして洗礼を授けました。 イエス様も洗礼者ヨハネから(人から)受洗することで、これをよしとされました。
 水はどんな隙間にも入り込み、渇いたところを潤し、汚れを洗い清めます。 石ころからさえも神の子を起こされた神様の御業は、私たちの隅々に滲み込み、私たちを清めて新しくします。 ヨハネはこの世の水でそれを現しましたが、イエス様はご自身の十字架の血潮によってそれをなされました。
 私たちに洗礼によって注がれる水は、イエス様が十字架の上で流してくださった血潮を表しています。 このように洗礼は表面的には人間の行う儀式ですが、その背後にはイエス様の犠牲による神の恵みの御業があるのです。

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6 Nov. 2011  降誕前第7主日礼拝

聖書:コリントの信徒への手紙(Ⅰ) 15章 12~19節

15:12キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 15:13死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 15:14そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 15:15更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。 なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 15:16死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 15:17そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 15:18そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 15:19この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

説教:「死人の復活」

 死後私たちがどうなるかへの思いは、それぞれでありましょう。 コリント教会のある人は、死者の復活などないと言っていました。 それは決して、イエス様の復活を否定するのではなく、また死者の復活などどうでもよいというのではないのでしょう。 問題はイエス様が復活されたことと、イエス様を信じ、その方に結びつけていただく洗礼を受けて死んだ者の復活とが、どのようにつながっているのかという疑問なのです。 と、いうのも、信じて多くの者が死んだのですが、いまだに誰一人として、イエス様と同じように復活し、遺族や教会の友の前に現れてくれないわけです。 ほんとうに信じた者が復活させていただけるのなら、三日目とは言いませんが、せめて何らかの形でその兆しでもよいから、見せていただいていいのではないですか。 ほんとうに死者の復活とは、確かな希望となりうることなのですか。 そんなあやふやなことではなく、この世のことがらに希望を置く方が良いのではないかとの思いなのだと感じます。
 十字架の上で死んだイエス様は、一方では、神様の御心に服してご自分を低くされたお方ではありますが、しかし他方では、あくまで当時のユダヤ社会の支配者の悪意、ローマ帝国の不法、そうした人間の悪によって殺されたお方なのです。 もし、イエス様が十字架の死で終わり、その中で滅んでしまわれたとすれば、イエス様もまた人間の悪・不法に支配され、その中に滅ぼされた存在ということになります。 しかし、神様はこの方を復活させられました。 それは、神様が人間の悪に立ち向かい勝利された、ということなのです。 神様がイエス様をして、人間の悪の中に滅んでしまうのをお許しにならなかったと言うことなのです。
 弟子たちはイエス様が滅んでしまったものと思い、閉じこもっていました。 そこに、復活されたイエス様は難なく入り込み、十字架の傷を見せて、彼らに平安と喜びを与えました。 十字架の傷はイエス様から、その命をはじめ、様々なものを奪い取ったしるしです。 しかし、イエス様の復活によって、その傷が逆に、残された者たちに喜びと平安を与えるものに変わりました。 ここにこそ、私たちの希望があるのです。 とくに、残された者たちにとっての大きな希望があるのです。 残された者たちの心に残っている故人の姿は、しばしば、痛みや苦しみやうめき、無念さや悲しみをもって召されていった姿でしょう。 残された者は、しばしば、故人に代わって、故人の代理であるかのように、この痛み、苦しみを背負い続けてしまいます。 しかし、イエス様が復活され、死者もいつか復活にあずかる者とされ、今それを待つ身とされているのなら、故人はもはや、その痛みや苦しみや無念さの中に閉じ込められている存在ではないのです。 その傷は、喜びや平安をもたらすものへと変えられつつあるのです。 弟子たちが復活されたイエス様に出会ったような体験は、私たちにはできないにしても、召された人々はイエス様と同様に、残された者たちへの深い愛情を抱き続けている存在なのです。

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30 Oct. 2011  降誕前第8主日礼拝

聖書:創世記 6章 1~14節

06:01さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 06:02神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。 06:03主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。 人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。 06:04当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。 これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。 06:05主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、 06:06地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。 06:07主は言われた。 「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。 人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。 わたしはこれらを造ったことを後悔する。」 06:08しかし、ノアは主の好意を得た。 06:09これはノアの物語である。 その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。 06:10ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。 06:11この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。 06:12神は地を御覧になった。 見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。 06:13神はノアに言われた。 「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。 彼らのゆえに不法が地に満ちている。 見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。 06:14あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。 箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。

説教:「洪水」

 神様が本当に、私たち人間だけでなく動物をも含めて、洪水によって滅ぼそうとされたのかということは、私たちの信仰にとって極めて重大な問題です。 奇しくも3月11日に東北地方で起きた大きな津波災害のことも重なります。
 この箇所を記した著者は、自分の手元にあった「洪水伝説」を自己の信仰において受け止めなおし、聖書に御言葉として記したのだと思います。 人の悪・不法が世に満ちているのを神様がご覧になって心を痛め、人を造ったことを後悔し、それゆえの決断としての御業であると、捉えているのです。
 ネフェリム(巨人)と化した人間たちが、思いのままに悪をなす世界、すなわち人間が思いのままにできる世界とは、神様の目からは、悪に満ちた堕落した世界に見えるということです。 神様は、そのような人間の世界をそのままにしておくようなことは、なさらないはずです。 愚に満ちた世界を、そのまま放置されるようなお方を、私たちは望むでしょうか。 そうではないのです。それゆえの「洪水」と、この著者は受け止めたのです。 しかし、ただ滅びを見るのではなく、この世界の愚と戦おうとされ、良いものにしようとされる神様の愛を見たいと思ったのです。 それゆえにこそ神様は、洪水から生き延びるすべをちゃんと提示してくださっているのです。
 ノアの一家は、箱舟に閉じ込められ、一年近く波間をさまよいました。 それは巨人とは正反対の、小さくされた者の姿でした。

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23 Oct. 2011  降誕前第9主日礼拝

聖書:フィリピの信徒への手紙 2章 19~30節

02:19さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなく テモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。 02:20テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。 02:21他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。 02:22テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。 02:23そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。 02:24わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。 02:25ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。 彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、 02:26しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに 知られたことを心苦しく思っているからです。 02:27実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。 彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。 02:28そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。 あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。 02:29だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。 そして、彼のような人々を敬いなさい。 02:30わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。

説教:「テモテとエパフロディトの推薦状」

 パウロはテモテとエパフロディトという二人についての推薦文を、フィリピ教会の人々にあてて書きました。
 テモテはフィリピ教会の人々に、伝道者としては、まだ未熟だということで軽んじられるところがあったようです。 パウロは20節21節でテモテのことを、他の人は自分を追い求めているのに、彼ほどあなたがたを親身になって心にかけている人は他にはいない、と言っています。 逆にこれは、暗にフィリピの人々がテモテではない他の人を派遣してくれるようにと願っていたようにも感じられます。
 またエパフロディトは、獄中にあったパウロを助けるためにフィリピ教会の代表として派遣されたのに、その任務をじゅうぶんに果しえないまま、瀕死の重病にかかってしまったのでした。 26節に、そのことが母教会に知られてしまったことを、とても心苦しく思っていたと書かれています。
 しかし、このような二人をパウロは大いにほめているのです。 20節から22節にかけて、テモテが師であるパウロの言う通りに、求められていないと分かっていながらフィリピ教会に赴こうとしていることを言っています。 それはフィリピ教会の人々を心にかけている彼の親身さのあらわれだと言っているのです。 27節には、瀕死の重病にかかってしまったエパフロディトを神様が憐れんでくださったと書かれています。 彼は重病にかかったために、人々の期待を裏切ってしまいました。 しかし、それ故にこそ神様の憐れみというものを、彼は体験できたのでした。 パウロは、神様の憐れみを知ることこそ、私たちが大いにほめられるべきことだと言いました。 さらにパウロは、だからこそ(エパフロディトを通して神様が)私をも憐れんでくださったと言っています。 エパフロディトは、自分が神様から憐れみを受けたことによって、獄中にあったパウロを励ますことができたのでした。

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9 Oct. 2011  聖霊降臨節第18主日礼拝

聖書:ルカによる福音書 3章 7~18節

03:07そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 03:08悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。 言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 03:09斧は既に木の根元に置かれている。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 03:10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 03:11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。 食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 03:12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 03:13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 03:14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。 自分の給料で満足せよ」と言った。 03:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 03:16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。 「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。 わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。 その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 03:17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 03:18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

説教:「わたしよりも優れた方が来られる」

 洗礼者ヨハネの活動は、イエス様による福音伝道のさきがけとされています。 8節には、「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」とありまが、当時のユダヤ人ならば誰もが『我々の父はアブラハムだ』と考えていただろう思うのです。 血筋や民族ゆえに、自分たちがアブラハムの子、ひいては神に選ばれたものとされるという考えです。 逆に言うと「血筋や民族といった人間の側の要件がなければ、神に選ばれない」ということになります。 ヨハネは、このような考え方には神様の怒りが臨むと人々に語ったのでした。
 では神様は、どのような者をお選びになるのでしょうか。 それは「神はこんな石ころからでも」なのです。 石ころとは、神様に選ばれるのに、何の資格も要件もない者の象徴です。 そういう者を、神様ご自身がアブラハムの子としておつくりになるのです。 石ころであることは、神様の御業に対して何の妨げにもなりません。 むしろ、そのことこそが福音なのです。
 血筋や律法の行いといった事柄を神の子とされる条件と考えていた当時のユダヤ教に対し、ヨハネの「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」という伝道を受け継いだ イエス様は、命をかけて「神はこの石ころから」と、福音を語られたのでした。 しかしそれゆえにイエス様は、十字架につけられしまったのでした。

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2 Oct. 2011  聖霊降臨節第17主日礼拝

聖書:創世記 4章 1~16節

04:01さて、アダムは妻エバを知った。 彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。 04:02彼女はまたその弟アベルを産んだ。 アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 04:03時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 04:04アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。 主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 04:05カインとその献げ物には目を留められなかった。 カインは激しく怒って顔を伏せた。 04:06主はカインに言われた。 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 04:07もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。 お前はそれを支配せねばならない。」 04:08カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。 04:09主はカインに言われた。 「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」 カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」 04:10主は言われた。 「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。 04:11今、お前は呪われる者となった。 お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。 04:12土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」 04:13カインは主に言った。 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。 04:14今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」 04:15主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。 04:16カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

説教:「お前の弟アベルは、どこにいるのか」

 なぜ神様は、アベルとその献げ物だけに目を留め、カインとその献げ物には留められなかったのでしょう。 この理由ついてある人は、聖書には何も書かれていないのだから私たちはこのことを神様の自由な御業として、ただ黙って受け入れるべきだ、といいます。 しかし私は、精一杯の努力を傾けて、神様の御心を了解すべきだと思うのです。
 1節でエバは「主によって男子を得た」と言っています。 カインという名前の意味は、直接的には鍛冶職人のことですが、その他に「獲得する」という意味もあるのだそうです。 名前をつけた両親の強い願いが込められているように感じます。 刀や鍬のような固い道具を駆使して、より多くの収穫を得ることのできる筋骨たくましく強い人間になって欲しいという両親の願いです。 しかしそこには、禁じられた木の実を食べて自分たちの思い通りの人生を得ようと願ったアダムとエバの罪がにじみ出ています。 神様は、この罪をそのままにはされないのだと思うのです。 神様は、この家族に弟を授けました。 アベルという名前には、「はかない」「息」「空しい」といった意味があるとのことです。 普通であれば、親はこのような不吉ともいえる名前を子につけることはしないはずです。 アベルは、もしかすると障碍やハンディキャップを背負って生まれた長くは生きられそうもないような弱い子供ではなかったでしょうか。 カインのみならず父も母もみな、この子を拒み家族から切除しようと欲していた・・・私はそのように想像します。 ですから神様がこの子を愛します。
 私たち自身の中に与えられたアベル的な部分、また家族の中のアベル、国家・社会におけるアベル的な部分こそが実は、神様が私たちに祝福を与えたもうよすがなのです。 しかし私たちはそれに気づかず、神様が私たちに大切な存在としてお与えになったこのアベルを、厭い切除しているのではないでしょうか。
 パウロでさえ、与えられた肉体の棘をサタンの使いと呼び、それを切除してほしいと何度も祈りました。 神様はそれを叶えず、それどころか「私の恵みは、弱いあなたにこそ現れる」と言われたのでした(コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9節)。
 10節以下には、アベルを切除した私たちが「呪われる」と書かれています。 神様は、世界も呪われると言われました。 今日の世界の現状をみると、その通りになっているような気がします。
 しかし15節以下には、神様は罪を犯したカインが復讐をうけることのないように「しるしを付けられた」と書かれています。 さて、神様から与えられたアベルを切除してしまう私たちに、神様が付けられたそのしるしとは何でしょう。 私は、それこそが十字架のキリストに他ならないと思うのです。

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25 Sep. 2011  聖霊降臨節第16主日礼拝

聖書:フィリピの信徒への手紙 2章 12~18節

02:12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 02:13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 02:14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 02:15そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 02:16命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 02:17更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 02:18同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

説教:「星のように輝き」

 13節は、神様が私たちに力強く働きかけて下さって、神様がお望みのことを私たちになさしめてくださる、ということを私たちに伝えています。 これは私たちの実感とは違うかもしれません。 この手紙を書いたパウロは、彼の伝道を好ましく思わない人々の悪意によって、ローマ皇帝の監獄に囚われの身です。 またフィリピのキリスト者は町では少数派でしたから、さまざまないやがらせやいじめに遭っていました。 それと同じように今の私たちも、周囲の人々や環境に左右され翻弄され、動かされてしまっているのが現実ではないでしょうか。 いったいどこに、神様からの働きかけで神様のお望みのままに私たちが行動しているという実感があるでしょうか。
 しかし実感がなくても、事実として私たちに力強く働きかけられている力があります。 それは、たとえれば地球や太陽の引力です。 地球上で生活していて、何らその力を実感していなくても、私たちはその引力から逃れられず、常にその力が私たちに働いています。 そのように、神様の引力が厳然としてあるのです。
 それでは、その力はどのようなものでしょう。 それは直前の箇所2章6~11節に示されています。 神様はイエス様を私たちと同じ者にされました。 そして、私たちにイエス様と同じものを与えようとされています。 ただし、それはイエス様の十字架をとおしてのことなのです。 私たちがイエス様と同じものをいただくためには、私たちもまた十字架のイエス様と同じ姿にならざるを得ません。 これが神様の私たちに対する深い愛なのです。 私たちは、実感しているかいないかにかかわらず、そこから逃れることはできません。 この御心こそが、必ず成就するのです。

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18 Sep. 2011  聖霊降臨節第15主日礼拝

聖書:ルカによる福音書 2章 41~52節

02:41さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。 02:42イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。 02:43祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスは エルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。 02:44イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、 02:45見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。 02:46三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 02:47聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。 02:48両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。 御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 02:49すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。 わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 02:50しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。 02:51それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。 02:52イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

説教:「なぜ私を捜したのか」

 イエス様が12歳のときのこの出来事については、4つの福音書の中でルカだけが記しています。 イスラエルでは、男子の成人の年齢は12歳とされていたのだそうです。 ですからこのエピソードは、イエス様の成人式の様子、あるいは親離れの出来事が記されている箇所と言ってもよいでしょう。
 52節には「知恵が増し、背丈も伸び」と書かれています。 背丈が伸びるためには、知恵が増すことが不可欠ということです。 そのあとには「神と人に愛され」とあります。 ただ頭だけの知識ではなく愛され愛することを体験し、それによって深められる知識を意味しているのです。 知恵とは、神様を知ることです。この知恵が深まるときに、背丈も伸びるのです。
 私たちは残念ながら大人になってしまうと、肉体年齢に応じた身体はもう伸びることはありません。 しかし信仰の背丈は、いくつになっても伸びることをゆるされています。 私たちは、信仰においては、いくつになっても幼子なのです。
 さてイエス様は、過越祭で詣でたエルサレム神殿での礼拝で神様と出合い、神様を知るきっかけを与えられたようです。 神様をご自分の「父」と呼び「自分の父の家にいるのは当たり前だ」と言っておられます。 ここでの「父」という言葉は、幼子が自分の父親を「パパ」とか「おとーたん」などと呼ぶのと同じ言い方です。 旧約聖書では、神様は恐ろしいお方、裁きのお方として描かれています。 その頃は神様は怒りや恐れの存在でしたから、当時の人々にとっては神様を「父」と呼ぶなど、まったく考えられないことでした。 しかし12歳のイエス様は、怒りや恐れの神としてではなく、愛の神として神様と出会われました。 そして私たちにも、そのように神様を信じてよいとおっしゃっているのです。
 神様を「父」として信じる知恵こそが、私たちの信仰の背丈をいつまでも伸ばすのです。

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11 Sep. 2011  聖霊降臨節第14主日礼拝

聖書:創世記 3章 1~13節

03:01主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。 蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 03:02女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 03:03でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 03:04蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 03:05それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 03:06女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。 女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 03:07二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 03:08その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。 アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 03:09主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 03:10彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。 わたしは裸ですから。」 03:11神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 03:12アダムは答えた。 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 03:13主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。 「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

説教:「禁断の木の実を食べて」

 創世記の1章と2章では、神様によって造られた世界は「極めて良いもの」と書かれていました。 しかしこの3章に来て、突如様相が一変しました。 エバは、蛇にそそのかされ、アダムと共に禁じられた木の実を食べました。 神様のように賢くなろうとしたのです。 アダムとエバは、神様を避けて隠れました。 神様は、アダムとエバを楽園から追放してしまいました。 4章では、最初の殺人が、何と兄弟の間で行われてしまいました。 神様が全能であられるなら、どうしてご自分が造られた世界が、 こんな有り様に堕してしまうのをお止めにならなかったのか・・・私たちは疑問に思ってしまいます。 また、どうして人をそそのかす蛇のようなものをお造りになったのかとも思ってしまいます。
 いったい、それはなぜなのでしょうか。 私は、次のように理解します。 蛇の賢さは、そもそも神様が私たち人間だけに刻まれた神様の「かたどり」の象徴だと、私は思うのです。 本来、私たちは、神様から授かったこの宝を使って、良いものを作り出せるはずなのです。 ところが、あることがきっかけになって、この賢さが不気味な蛇のようなものに変わり、私たちを神になるようにとそそのかすのです。 そのきっかけとは・・・2章18節以下に記されている出来事です。 神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われ、多くの生き物を造りました。 しかしそのどれも、彼を助ける者とはなりませんでした。 そこで神様は、彼を眠りに落とし、抜き取ったあばら骨から女を造り、彼のもとに連れてこられました。
 創世記3章の物語、すなわち最初の人が蛇にそそのかされて神様にそむいたという出来事が、人間の最初の結婚の直後に置かれているのは、とても意味深いことです。 アダムはエバを見て『これこそ私の骨の骨』と、喜びの声をあげました。 愛するものが与えられると、私たちは、その存在を守り助けようとして、「神になりたい」と願うのではないでしょうか。 賢さは、こうして変質してしまうのです。これを「罪」とよぶのです。

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4 Sep. 2011  聖霊降臨節第13主日礼拝

聖書:フィリピの信徒への手紙 2章 1~11節

02:01そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 02:02同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 02:03何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 02:04めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 02:05互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 02:06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 02:07かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 02:08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 02:09このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 02:10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 02:11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

説教:「それゆえ神は彼を高く上げ」

 6節から11節には、当時の教会で既に広く流布されていた信仰告白が引用されており、「キリストの福音とは何か」が、語られています。 その根幹にはまず、イエス様が私たちと同じ者となって下さったという出来事があります。 それゆえに、イエス様がお持ちであったものが、すべて私たちにも同じように分け与えられることとなりました。ここに福音があります。 しかし、そのためには、イエス様の十字架の死が不可欠でした。 私たちは、利己心や虚栄心、エゴと呼ばれる毒素によって自分を無にすることができない存在です。 イエス様が十字架の死に至るときに、ご自分を無にされたという清さは、自分(エゴ)を無にできない私たちの汚れが清められるためなのです。 イエス様によって清められてこそ私たちは、イエス様と同じ財産をいただけるものとされるのです。
 9節以降には、このようなイエス様だからこそ「このため」神は彼を高く上げ、すべての者がイエス様を主と讃える、と書かれています。 イエス様が復活されたのは、十字架の死に至るまで、ご自分を低くされたからなのです。 いわば、そのことへの神様からの報いであると言えます。 とにかく、ここで言われていることは、この世で私たちが被る苦しみや低さは決して無駄にはならないということなのです。 私たちは、イエス様を信じ、洗礼を受けてイエス様につなげていただいているのです。 しかし、そうとは言え、まだまだイエス様のようにはとうていなれません。 だから、イエス様のようには復活にあずかることはまだできないのです。 いつかは、すべての者がイエス様を主と信じ、讃えるときがやってきます。それも福音なのです。
 10節と11節には、「このようなイエス様が主であると、すべての者が告白する」とあります。 とくに「地下のもの」と記されていることに気付きます。 私は、地下の者とは、この世においてはイエス様のことを全く耳にしたことがなく、もし聞いても信じることができず、あるいは拒んでしまったがゆえに、死後、 地下と呼ばれる行ってしまった者たちのことと捉えています。 しかし、そのような地下の人々であっても、いつか必ずイエス様のことを聞き「この方こそが主である」と信じ、告白することができるようになるという約束なのです。 だから、生きている間にイエス様と自分は結び付けられている者だと信じて歩める、すなわち日々エゴを砕かれ、清められて生きていられるということは、どれほどの喜びでしょうか。 とくに、苦しみを与えられたときに、十字架のイエス様がご自分を低くされ、神によって高められたことにつながっていると信じて、それを担えるとは、どれほどの励ましでしょうか。

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14 Aug. 2011  聖霊降臨節第10主日礼拝

聖書:フィリピの信徒への手紙 2章 1~11節

02:01そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 02:02同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 02:03何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 02:04めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 02:05互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 02:06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 02:07かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 02:08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 02:09このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 02:10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 02:11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

説教:「自分を空しくするキリスト」

 1章27節には、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」とありました(7月24日の聖書箇所)。 2章には、その福音とはいかなるものなのかが記されています。 6節から11節には、誕生したまだ50年も経っていない初期のキリスト教会で、現在の教会の信仰告白もしくは賛美歌のような言葉が既に広く用いられていたことを示しています。 これは、キリストの福音のエッセンスが凝縮されたみことばではないかと思います。 この箇所は3つの部分に分けることができます。 本日は第一の部分について、残りの二つについては9月の礼拝で触れることにします。
 さて、最初の部分の第一のキーワードは「同じ者」です。 イエス様は、ご自分が神様と同じ姿であることに固執せず、私たち人間と同じ者となられたのです。 私たちと同じ者となられる過程として十字架の出来事がありました。 イエス様は、私たち人間と同じ者として、苦しみ痛みを背負われたのでした。 イエス様が私たちと同じ者になられたということは、神様が、イエス様を通して、私たちと同じ者になられたということに、ほかならないのです。 それほどに神様は、私たちが人間として生き、そのために苦しんだり痛みを得たりすることを、とても大切なこととされ私たちと同じように、その苦しみや痛みを負ってくださっているのです。 福音がここにあります。
 第二のキーワードは「自分を無に」です。 私たちは利己心や虚栄心で一杯で、いつになってもそこから自由になれません。 こんな私たちと対極にあるイエス様が、私たちと同じ者となってくださったのです。 人間の利己心や虚栄心、つまり私たちが「エゴ」と呼ぶものを、イエス様は、ご自身が十字架に至るまでの過程で「無」にされました。 だからといってイエス様に「自分」というものがなかったかというと、決してそうではありませんでした。 十字架にいたるイエス様のお姿は、他の誰でもなく、ただただイエス様であること、イエス様らしさにあふれていました。決然としてご自分の意思で進んで行かれました。 十字架という、当時の世界の悪しき力の支配の中でも、主体的に創造的に、自らの進む道を形づくられました。 このようにイエス様が、私たちと同じ人として、私たちの前を生きてくださったということ自体が、福音と言えるのです。

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7 Aug. 2011  聖霊降臨節第9主日礼拝

聖書:ルカによる福音書 2章 22~38節

02:22さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 02:23それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 02:24また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 02:25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。 この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 02:26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 02:27シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 02:28シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
02:29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
02:30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
02:31これは万民のために整えてくださった救いで、
02:32異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
02:33父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 02:34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。 「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 02:35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
02:36また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。 非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 02:37夫に死に別れ、八十四歳になっていた。 彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 02:38そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

説教:「安らかに去ることができる」

 生まれて間もない男の子を見て、その子が救い主であることに気づいたのは、祭司や聖書に詳しい職業的宗教家ではなく、年老いた男女二人だけでした。
 まず84歳のアンナは、わずか7年のみ夫と一緒に暮らしただけで、あとはずっとひとりで生きてきたと記されています。 すぐに想像できるのが、彼女の生涯が苦労の多いものであったろうということです。 しかし彼女は神殿(教会)を離れず、昼も夜も神様に仕えていました。 長い信仰生活の中で、彼女は様々なことを祈り、願い求めてきただろうと思います。 しかし、夫と共に暮らす時間も、子を授かることも叶えられませんでした。 そんなアンナへの最大のご褒美が、救い主である幼いイエス様と出会うということだったのです。
 そしてシメオン。聖書に年齢は書かれていませんが、彼はかなり高齢の人のようです。 29節で「お言葉どおりこの僕を安らかに去らせて・・・」と言っています。 高齢ということかもしれませんが、彼は何らかの事情でこの世を去る―― つまり死ということが差し迫っていたようです。 赤ん坊のイエス様を抱き、そこに彼がどのような救いを見たのかはわかりません。 ただ33節以下にある、彼の母マリアへの言葉が示すようにイエス様の将来にとても辛い出来事があることを予見していました。 いま自分の腕に抱かれている幼子は、やがて人間によって苦しめられ殺されてしまう・・・ しかしこの幼子は、神様によっても抱かれている。 そうした神の禍も幸も、この幼子の中に満ち満ちている。 シメオンは自分の腕の中の幼子に、神によって抱かれている自分自身の姿を重ね合わせていたのかもしれません。

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31 Jul. 2011  聖霊降臨節第8主日礼拝

聖書:創世記 2章 18~25節

02:18主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
02:19主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。 人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 02:20人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 02:21主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。 人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 02:22そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。 主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 02:23人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
02:24こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
02:25人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

説教:「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と、言ってくださいました。 だから、私たちは堂々と助けられる者になってよいのです。 「独り」の状態は、決してよいものではないと、神様は言われます。
 わたしは、自身の二十数年の牧師生活を振り返ってみますと、助けられるということを良しとしない時代が、ずいぶんあったように思います。 しかし、「独り」ではどうしようもないことが幾度も幾度もありました。 そういうときには、いつも先輩牧師や信徒のみなさんに助けられたのです。 先日、ある方をお訪ねした際に 「普通の人なら、決して他人に知られたくないようなご自分のことを、堂々と説教の中で語られた福島先生に、とても驚きを感じました」と言われました。
 しかし、それはほんとうは、私が助けられた話なのです。 助けられたことで、今の私があるので、そうやって堂々と話すことができたのです。
 それでは、どのようにして「助ける者」は与えられるのでしょうか。 神様によって深い眠りに落とされ、あばら骨の一部を抜き取られ・・・というのは、言ってみれば、神様によって全身麻酔を施されて大手術を受けたようなものです。 それは神様によって、死に瀕するほどの苦しみを授かったかのように感じます。 しかし、その中でこその苦しみや痛みを共有する者としての「助ける者」が、神様から与えられるのです。 それが夫であったり、妻であったり、教会で出会う友なのです。

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24 Jul 2011  聖霊降臨節第7主日礼拝

聖書:フィリピの信徒への手紙 1章 27~30節

01:27ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。 そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。 あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、 01:28どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。 このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。 これは神によることです。 01:29つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。 01:30あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。 その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

説教:「キリストのために苦しむことも」

 新約聖書はギリシャ語の原文から訳されています。 27節に「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」とありますが、この「生活を送りなさい」という言葉は、もともと「ポリス」という特別なギリシャ語がもとになっているといいます。 ポリスとは、古代のギリシャやローマにあった都市国家のことです。 その市民として生きる、というのがもともとの意味です。
 この時代の人々は、ローマ帝国の臣民として、皇帝の権威の下で生きなければなりませんでした。 この手紙を書いたパウロは、帝国の安寧秩序を乱したかどで逮捕され、裁判を待つ身の上だったのですから、 この特別な言葉がぴったり当てはまる境遇だったわけです。 パウロが、こういう言葉をわざわざ使って「キリストの福音にふさわしく」と語りかけたのには、パウロのどんな思いが込められていたのでしょうか。 それは、たとえローマ皇帝の権威の下に捕らえられていても、私たちにはキリストの福音にふさわしく生きることができるのだという励ましなのでした。
 現代の私たちにしても、様々な権威や力の下に「捕らえられた」状況にあるのではないでしょうか。 それでも私たちは、イエス様を信じることを通して、もっとも偉大な力である神様に捕らえられた者して生きることができるのです。 それが「福音にふさわしい」ということなのです。

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17 Jul. 2011  聖霊降臨節第6主日礼拝

聖書:ルカによる福音書 1章 57~80節

01:57さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。 01:58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。 01:59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。 01:60ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。 01:61しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、 01:62父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。 01:63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。 01:64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。 01:65近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。 01:66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。 この子には主の力が及んでいたのである。

01:67父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
01:68「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
    主はその民を訪れて解放し、
01:69我らのために救いの角を、
    僕ダビデの家から起こされた。
01:70昔から聖なる預言者たちの口を通して
        語られたとおりに。
01:71それは、我らの敵、
    すべて我らを憎む者の手からの救い。
01:72主は我らの先祖を憐れみ、
    その聖なる契約を覚えていてくださる。
01:73これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
    こうして我らは、
01:74敵の手から救われ、
    恐れなく主に仕える、
01:75生涯、主の御前に清く正しく。
01:76幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
    主に先立って行き、その道を整え、
01:77主の民に罪の赦しによる救いを
        知らせるからである。
01:78これは我らの神の憐れみの心による。
    この憐れみによって、
        高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
01:79暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
    我らの歩みを平和の道に導く。」
01:80幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

説教:「月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」

 ルカによる福音書の1章80節には「幼子は身も心も健やかに育ち」と書かれています。 自分の子や孫が、また自分自身も、心身共に健やかでありたいという願いを誰もが持っています。 そのために大切なものは、いったい何なのかを、聖書は語りかけています。
 まず、57節に「月は満ちて」とあります。 老夫婦であったザカリヤとエリザベトは、聖霊の不思議な働きかけによって、子を授かりましたが、その喜びの日を迎えるためには、ふさわしい時が満つるのを待たねばならなかったのです。 そのように、私たちの日々の暮らしにおいても、待つということは、不可欠なことではないでしょうか。 良いものを授かるには、促成栽培ではだめなのです。 それでは、身体も心も、傷つけられてしまうるだけなのです。
 さらに読み進んでゆきますと、親類縁者たちが父の名であるザカリヤという名を継がせようとしましたが、父と母は夫婦一致して拒み、ヨハネという神様が与えてくださった名前を望んだと書かれています。 親類縁者たちが父親の名を継がせようとしたのは、ザカリヤとエリザベトに授かった子を、彼らの中で、そしてこの世の期待の中で育てようとした意思の表れだと思うのです。 しかし、それでは心身を損なってしまうのです。 神様のご期待にそって、子も自分自身も、ゆっくり育んでゆくこと、それが大切なことなのです。

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10 Jul. 2011  聖霊降臨節第5主日礼拝

聖書:創世記 2章 4~17節

02:04これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、 02:05地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。 主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
02:06しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。 02:07主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。 人はこうして生きる者となった。 02:08主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 02:09主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
02:10エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。 02:11第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。 02:12その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。 02:13第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。 02:14第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
02:15主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 02:16主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。 02:17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

説教:「主なる神は、土の塵で人を形づくり・・・」

 神が人を創造する場面の物語が二つ、1章と2章に書かれていることに気づきます。 これは、書かれた年代や元になる資料が違うためです。
 創世記2章のみことばが書かれたのは、おそらくイスラエルの人々がエジプトを脱出して何百年か経ったあたりの頃ではないかと思われます。避難民の子孫である彼らは、長くその地に住んでいる人々と比べて、様々な点で困窮や片身の狭さを感じていたことでしょう。 そんな彼らが昔からの言い伝えを通して、大きな励ましを与えられたのです。 それがアダム(ヘブライ語で「人」の意)がアダマ(ヘブライ語で「土」の意)の塵から作られた、というみことばです。なんと心に深く刻まれる駄洒落ではありませんか。 土は彼らの目の前に、無尽蔵にあるものの代表でした。 神様は希少で貴重なダイヤモンドや金・銀からではなく、どこにでも転がっている土から人を作ってくださったのでした。 そして、そのどこにでもある土は、天からの水によって潤うのです。 だとすれば、私たちが生きるためには、何も足りないものはないではありませんか。 なぜ周囲の人と比べて「あれも足りない、これも不足だ」と言うのですか? もし何かが足りないと思うことがあるなら、人がただ神様によって創造されたこと、それのみを問題とすればよいのです。

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3 Jul. 2011  聖霊降臨節第4主日礼拝

聖書:フィリピの信徒への手紙 1章 21~24節

01:21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 01:22けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 01:23この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 01:24だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

説教:「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」

「死ぬことは利益だ」という言葉は、ある人たちにとっては、とうてい受け入れがたいものだと、正直に感じます。 今、生きようとして懸命に努力しているたくさんの人たちがいるのです。 そのような人たちに、いきなり冷や水を浴びせかけるように「死ぬのも良いことだ」と語りかけることはできません。 むしろ懸命に生きようとなさっていることを、精一杯お支えしたいと思うのです。
 しかし、どんなに生き続けようと努力しても、どうにもならない時が必ずやってくるのです。 「がんばれ」と声をかけられても、もうがんばれない時がいつか来ます。 そのような人たちにとっては、パウロという人が「ただ生きることのみが利益であり道であるのではなくて、死ぬことも利益であり、進み得る道である」と語ったことは、なにがしかの支えになったのではないでしょうか。 パウロは、なぜそのように語りかけることができたのでしょう。 それはパウロが「生きるとはキリスト」であるということを信じていたからなのです。 生きることは、強くイエス様によって支えられている状態を表しています。 このイエス様は、天にあって永遠に生きておられるお方です。 もしイエス様によって、私たちの存在が決定的に支えられているのならば、私たちのこの世での、肉体としての死ぬか生きるかといったことは、些細なことなのではないでしょうか。 この世を去って、天におられるイエス様と一緒にいることができる・・・ これこそが、ほんとうの利益と思えるのです。

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26 Jun. 2011  聖霊降臨節第3主日礼拝

聖書:ルカによる福音書 1章 39~56節

01:39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 01:40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 01:41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。 エリサベトは聖霊に満たされて、 01:42声高らかに言った。 「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 01:43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 01:44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 01:45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 01:46そこで、マリアは言った。
 01:47「わたしの魂は主をあがめ、
  わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 01:48身分の低い、この主のはしためにも
     目を留めてくださったからです。
  今から後、いつの世の人も
     わたしを幸いな者と言うでしょう、
 01:49力ある方が、
     わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
 01:50その憐れみは代々に限りなく、
  主を畏れる者に及びます。
 01:51主はその腕で力を振るい、
  思い上がる者を打ち散らし、
 01:52権力ある者をその座から引き降ろし、
  身分の低い者を高く上げ、
 01:53飢えた人を良い物で満たし、
  富める者を空腹のまま追い返されます。
 01:54その僕イスラエルを受け入れて、
  憐れみをお忘れになりません、
 01:55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
  アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
 01:56マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

説教:「わたしを幸いな者と言うでしょう」

 マリアはエリサベトを訪ねています。 きっと、マリアはとても不安だったのだろうと想像します。 聖霊によって、特別な子が我が身に宿ろうとしていることを天使に告げられたのです。 「おことばどおりになりますように」とは言ったものの、自分の身に何が起ころうとしているのか、心配でたまらなかったでしょう。 だから自分と同じように神さまの不思議なみわざによって、既に六ヶ月の身重になっていた親戚のエリザベトを訪ねたのです。 私たちだって、神さまのみわざが自分の身に起こるということを知ったら、不安を抱かざるを得ないと思います。 聖霊のみわざが身に宿るということは、いみじくも「身重」という言葉が示すように、じつに重いできごとなのです。 その重さは、おそらくマリアひとりでは担いきれなかったことでしょう。 しかしマリアはエリザベトの言葉により、自らの幸いを確信することができました。 だから私たちも同じ信仰の友からの励ましを頂いてこそ、神さまのみわざを宿す幸いを信じることができるのです。
 私はいつも牧師として「あなたは祝福されているのですよ」と、信徒の方々に語ってあげたいと思っています。 また信徒として、信徒同士でそれを告げあいたいと思っています。

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19 Jun. 2011  三位一体主日礼拝

聖書:創世記 2章 1~3節

02:01天地万物は完成された。 02:02第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 02:03この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

説教:「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」

 天地創造のみわざの完成は、七日間だったとのことです。 七日目に神さまは、何を作られたかといいますと、目に見える有様ではまったくないのでした。 ご自分の仕事を離れて安息する、というものを作られました。 この日がどれだけ大事な日であったかは、この七日目だけを「聖別された」とあるので、よく分かります。 聖別とは、ぜったいに壊されることのない宝物とすることです。 この日が、神さまにとって宝物のような日となりました。 ですから私たちも、このような時間や時を持つことができるのです。 天地創造のはじめから神さまは、この世界に時間のリズムというものを刻まれました。 そして、そこに安息を置かれたのです。 ですから、私たちにとっての安息も、時のリズムを宝物にすることによって得られるに違いありません。
 私たちは、いつ自分の仕事から離れることができるでしょうか。 一日のうちではまず、眠るときですね。睡眠のリズムが崩れると、安息も崩れてしまうものです。 一週間ではどうでしょうか。それはやはり礼拝に集うことによって、その一週間が完成されるのではないでしょうか。 「自分の仕事を離れる」という御言葉に、私は「自分中心のあり方から離れる」という意味を読み取ります。 礼拝に集うことが、それを可能にするのです。

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12 Jun. 2011  聖霊降臨節第1主日礼拝

聖書:使徒言行録 2章 1~4節、14~21節

02:01五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 02:02突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 02:03そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 02:04すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

02:14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。 「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。 わたしの言葉に耳を傾けてください。 02:15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 02:16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
02:17『神は言われる。
    終わりの時に、
    わたしの霊をすべての人に注ぐ。
    すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
    若者は幻を見、老人は夢を見る。
02:18 わたしの僕やはしためにも、
    そのときには、わたしの霊を注ぐ。
    すると、彼らは預言する。
02:19 上では、天に不思議な業を、
    下では、地に徴を示そう。
    血と火と立ちこめる煙が、それだ。
02:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、
    太陽は暗くなり、
    月は血のように赤くなる。
02:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

説教:「突然、激しい風が吹いて来るような音が…」

 なぜ精霊を注がれることが私たちにとって不可欠なのでしょうか。
 何度も教え示されている創世記1章26節の御言葉を、また思い起こします。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」と、神様は言われたのです。 「我々」とは三つにして一つである神様のことです。 私たち人間は、そもそものはじめから、創造者なる神様にかたどられて造られた存在なのです。 もし私たちが今、そのかたどりを歪め傷つけているとすれば、 もう一度精霊を注がれて、最初に刻まれたかたどりを回復することが不可欠なのです。
 それでは、最初に精霊によって私たちに刻まれたかたどりとは、どういうものでしょうか。
 精霊なるお方の何よりもの特徴について聖書は、「風」という言葉で表現しています。 風の何よりもの特徴は、「形がないのに木々を揺らす力を持ち、どんな隙間にも入ってゆける」というものです。
 私たちは、肉体という形・器にこだわって生きています。それゆえ、悩み・苦しみが常です。 しかし、そもそも私たちには、風の特徴を備えた精霊が、かたどりとして刻まれていたのです。 もしそのかたどりが、歪められ傷つけられているのなら、精霊を注がれて、再びそれを回復したいと心から思います。

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5 Jun. 2011  復活節第7主日礼拝

聖書:フィリピの信徒への手紙 1章 12~20節

01:12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。 01:13つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、 01:14主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。 01:15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。 01:16一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 01:17他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 01:18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。 01:19というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。 01:20そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

説教:「だが、それがなんであろう。」

 わずか4章からなる短い手紙の中に、「喜ぶ」あるいは「喜び」ということばが16回も使われており、このことから、フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。 しかし、この手紙の著者パウロの境遇は、決して喜べるようなものではありませんでした。 どこの兵舎かは分かりませんが、パウロは監禁されていました。 人々からパウロは「伝道者たる者が、そのような境遇にあるのは恥だ」と言われていたようです。 それでもパウロは、喜んでいたのです。いったいどんなことを喜んでいたのでしょう。 ひとことで言えば、彼はそのような自分を通して、イエス様のすばらしさが輝き出ることを喜んでいたのです。 「兵舎」と訳されている言葉は、そもそもローマ皇帝の親衛隊の宿舎を表わす言葉とのことです。 親衛隊というのは皇帝の為に命を投げ出す覚悟を持った兵士ですが、そのような彼らだからこそ、イエスという方のために命をかけているパウロに興味を持ったにちがいないのです。 そして、パウロをそのようにあらしめているイエスという方のことをパウロから聞き、イエス様を信じるようになった兵士も中にはいたのかもしれません。
 私たちも、いつか自分の柩のふたが閉じられるときに、そのようにイエス様のすばらしさが滲み出ることを、喜びとしたいと思います。

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29 May. 2011  復活節第6主日礼拝

聖書:ルカによる福音書 1章 26~38節

01:26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 01:27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。 そのおとめの名はマリアといった。 01:28天使は、彼女のところに来て言った。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 01:29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 01:30すると、天使は言った。 「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 01:31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 01:32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 01:33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 01:34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。 わたしは男の人を知りませんのに。」 01:35天使は答えた。 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 01:36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。 不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 01:37神にできないことは何一つない。」 01:38マリアは言った。 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」 そこで、天使は去って行った。

説教:「お言葉どおり、この身に成りますように。」

 いわゆる「処女降誕」といわれる出来事が記された御言葉です。 聖霊によって処女に子が宿るとは、どういうことだろうかと当惑させられます。 しかし、以下のことに心を留めてください。
 まず、イエス様の生涯を記した4つの福音書の中で、このことを記しているのはマタイによる福音書と、 ルカによる福音書だけです。 次に、最も早くにイエス様がキリストであると宣べ伝えたパウロでさえ、この点にはひとことも言及していないということです。
 要するに、受け止め方は多様であってよいのです。 大切なのは、イエス様が私たちを救うために(どのようなプロセスであるかはともかく)人となってくださったことなのです。
 それにしても、神さまはなぜ、こんな面倒な方法をわざわざお選びになったのでしょう。 処女マリアを選び、まだ婚約者どうしで正式な結婚に至っていない二人を、あえて、イエス様を宿すうつわとして用いられたのです。
 直接ご自分の手で土から最初の人アダムを造られたように、人間の関与など不必要だったのではないでしょうか。
 しかしこのことは、私たちへの大きな励ましだと思うのです。 神さまのお言葉が実現するために、私たちのからだが用いられるのです。 私たちもまた、マリアと同じように、はしために過ぎない者なのですが、神さまは、こんな私たちを不可欠なうつわとして用いてくださいます。

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22 May. 2011  復活節第5主日礼拝

聖書:創世記 1章 26~31節

01:26神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。 そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
01:27神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
01:28神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
01:29神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。 それがあなたたちの食べ物となる。 01:30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
そのようになった。 01:31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。 夕べがあり、朝があった。第六の日である。

説教:「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」

 この御言葉によりますと、生き物の中で人間だけが神さまにかたどられて造られた存在ということです。 これが聖書全体を貫いている人間観です。 では、私たちだけに与えられた「神のかたどり」とは、いったいどのようなものでしょうか。 私は、創世記1章からの記述にその答えがあるように思います。 創世記の最初、1節には「初めに、神は天地を創造された。」とあります。 ですから神さまをかたどって私たちに刻まれたその姿というのは「創造者であること」ではないでしょうか。
 良いものを自らの言葉通りに意思にしたがって作り出せる力、これこそが、そもそも神さまが私たち人間に与えてくださった「かたどり」なのです。 神さまに由来するかたどりですから、これは永遠のものです。 私たちの側にどんな事情が生じても、たとえば病気になったとしても、そして、死にゆくときにさえ、このかたどりは、私たちから奪われることはありません。 いえ、たとえ私たちの肉体が滅んでも、私たちがこの宝を喪失することは決してないのです。 私たちは、神さまから、いったいどれほど大きな宝をお預かりしているでしょうか。
 預かった宝が大きければ大きいほど、これを誤用したり本来の目的に用いなかったことによる災いは大きいのです。 私たちは、神さまからいただいたこの宝を、良いものを創り出すべく用いることができているでしょうか。

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15 May. 2011  復活節第4主日礼拝

聖書:フィリピの信徒への手紙 1章 3~11節

01:03わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 01:04あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 01:05それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 01:06あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 01:07わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。 というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。 01:08わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。 01:09わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 01:10本当に重要なことを見分けられるように。 そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 01:11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

説教:「思い起こす度に、わたしの神に感謝し…」

 パウロは、ただ普通の思いの中でフィリピの人々を想起するのではなく、「祈りの中で心に留める」と言っています。 祈りの中で思い起こすので、神さまに感謝ができ、喜びが伴うと言っているのです。なぜ感謝と喜びが伴うのでしょう。 「あなた方が福音にあずかっていることを、思い起こすからだ」とパウロは言っています。 私たちは一体どれほど、福音にあずかっていることを感謝し、喜んでいるでしょうか。 先日、当教会のイースター礼拝の際に出席されたみなさんとご一緒に、この日与えられた聖書箇所に耳を傾けましたが、イエス様のお弟子さんたちが最初に福音の喜びをいただいたのは、復活のイエス様との最初の出会いのときでした。 イエス様は、ご自分を裏切って逃げた弟子たちが、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたときに、そのようなことはものともせずに、そのまん中に入ってきて下さり、開口一番「安かれ」と言われました。 さらに、そのような弟子たちをなおも信頼して、大切な務めを担う者として派遣して下さいました。 ここに福音があります。 このことについてパウロは「本当に重要なことを見分けるように…」と、祈っています(10節)。 私たちにとって、本当に大事なこととは、このようにイエス様において私たちが、神に赦されて信頼されていることを、みずから知る、ということなのです。

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8 May. 2011  復活節第3主日礼拝

聖書:ルカによる福音書 1章 5~25節

01:05ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。 その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 01:06二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。 01:07しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 01:08さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 01:09祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。 01:10香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。 01:11すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。 01:12ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。 01:13天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。 あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。 01:14その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。 01:15彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、 01:16イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。 01:17彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」 01:18そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。 わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」 01:19天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。 あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。 01:20あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。 時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」 01:21民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。 01:22ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。 そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。 ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。 01:23やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。 01:24その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。 01:25「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

説教:「ザカリアは…、話すことができなかった。」

 ゼカリヤは祭司2万人の代表として、光栄ある神殿での務めに当たっていました。 彼は人々から非の打ちどころのない人として見られていました。 しかし、そんな彼が、その務めの最中に、子供が与えられないまま老夫婦となった自分たちに子が生まれるとの天使のお告げを聞いても、それを信じることができないのです。 務めに手間取り、信じることができなかったので、口がきけなくなりました。 ここに私は、聖書独特のユーモアと、私たちの信仰のありのままの姿を見せられるような思いがして慰められます。 私たちの信仰など、どれほどのものかと感じます。 私自身も、牧師として、毎週々々の説教の務めに当たっています。 しかし、もう25年もこのことに当たっているのに、いまだにとまどい手間取り、どぎまぎしている始末です。 自分でも、情けなくなります。 しかし、これが私たちの有り様なのだと、この御言葉を読んで思うのです。 神さまの驚くべきみわざを聞き、信じるのには、私たちの信仰など、本当に小さすぎて、破れざるを得ません。 口がきけなくなって当然です。 けれども、神さまはゼカリヤをお選びになったのです。 そして時が来て、その通りのことが実現しました。

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1 May. 2011  復活節第2主日礼拝

聖書:ヨハネによる福音書 20章 19~23節

20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21イエスは重ねて言われた。 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 20:22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

説教:「あなたがたに平和があるように」

 イエスさまのお弟子さんたちは、恐れて閉じこもっています。 自分たちも師と同じ目に合わされるのではないかとの恐怖。 また愛する師が、やすやすと殺されてしまうのを見せられた恐怖。 世界が、そのような死を引き起こす悪しき力に牛耳られているのを目の当たりにした恐怖。 神さまなどいるのかという恐れもあります。 私たちも今、同じような恐れを抱いて、閉じこもらざるを得ない境遇に置かれてもいます。 そこに復活されたイエスさまが入ってきて下さいました。 弟子たちの側から扉を開けて、さあどうぞとお迎えできたのではありません。 復活のイエス様に出会い、平安や喜びをいただく前提条件が、私たちの側からイエスさまをお迎えするということであれば、私たちの誰もその喜びをいただけないでしょう。 復活されたイエス様のお体には、十字架の傷跡があったとされています。 それを見て弟子たちは喜んだとあります。 ただその不思議な御方がイエス様だとわかったから喜んだのではないでしょう。 十字架のキズはイエス様から命を奪い、弟子たちを恐れさせていた悪しき力の象徴です。 その力からの傷跡を帯びながらも、もはやイエス様は殺されてはいません。 喜びがそこにあります。

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